★片瀬龍口寺略歴
寂光山と号する。この地は竜口法難刑場跡である。
延元2年(1337)中老僧日法上人、口法難刑場跡に「敷皮堂」なる一宇を建立、これが創建という。
慶長6年(1601)池上13世日尊上人、大堂の発願をなす。
現大堂は文政元年(1818)の改築、安政2年(1855)銅葺きに改装。
山門は安政5年大阪鴻池家の寄進で完成。
現五重塔は明治43年完成。
昭和4−8年信州松代御殿を移築し大書院とする。
そのほか妙見堂、七面堂、浄行堂、庫裏などを有する。
近世は片瀬常立寺、片瀬本蓮寺、腰越本成寺、腰越勧行寺、腰越法源寺、腰越東漸寺、腰越妙典寺、腰越本龍寺の輪番制(いずれも山号は竜口山と号する)であったが、明治19年太政官布達により住職が入山し、輪番制は廃止される。
→片瀬龍口寺輪番8ヶ寺については、当ページの下に記載する。
★片瀬龍口寺五重塔
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□片瀬龍口寺五重塔 明治43年完成、一辺4,5m。白木。
総欅造。
和様を基本とし、組物には唐様を取り入れる。5重は扇垂木。
中備には近世風な彫刻を置く。
法華題目が本尊と思われる。
釈迦もしくは多宝如来と推測される彫像も安ず。(あるいは諸天もか?)
○2003/03/28撮影:
相模龍口寺大堂;背後五重塔
同 五重塔1:左図拡大図
同 2
同 3
同 4
同 5
同 6
同 7
同 8:塔内部
建造は(今で云う)竹中工務店が手がける。
彫刻は一元流の一元安信によると云う。 |
○2011/10/30撮影:片瀬龍口寺五重塔
○2008/05/21追加:
五重塔棟札では、
明治43年10月上棟、願主住僧僧正藤原日迦、匠長名古屋竹中和泉藤原正信、番匠桜井佐太郎などとあると云う。
※以上は神奈川県建築指導課情報による。
※「塔をゆく」国見辰雄では、「4代日迦上人代、竹中藤右衛門が発心」し全国の檀信徒により建立とある。
※「塔に魅せられて」山際得悦では、「塔のある寺」徳永隆平からの引用がある。
引用(要約):「発願は日迦上人、明治30年起工、13年目に完工、各層ごとに寄進者が違っている。
初層は川崎牡丹餅結社、2層は横浜橘結社、3・4・5層は一般信者の寄附と云う・・・・
どの層かに於いて、資金その他の関係で、相当期間工事が中断したものと思われる。・・・」
2008/05/21追加:
●龍口寺五重塔建立余話
※この余話(資料・メモ)は宮大工の末裔と云う勝尾氏から提供をいただく。
◇勝尾氏ご提供資料
※勝尾氏の祖父・父とも宮大工と云う。
※祖父は「山尾新三郎」氏であり、氏は東京中野哲学堂の設計者また片瀬龍口寺五重塔・池上本門寺に関与、
日光陽明門修理とも云う。また祖父・父とも皇居(東京)の工事にも関わっていたらしいと云う。
※勝尾氏の父が亡くなられ、父の残した若干のメモが「見つかり」、そこには四天王寺・龍ノ口などに関する記録もあったと云う。
勝尾氏の父のメモ(勝尾氏ご提供資料):(龍口寺五重塔建立余話)
「天王寺の事を書いたついでに父が昭和の始め頃、天王寺へ行った。・・・・(中略)・・・・・悪い方に父の予言が當った。
塔の話のついでに片瀬の五重塔の話。
明治三十年頃工事を始め、四十三年頃九分どうり出来たが、金を増やしてくれ工事を中止した。
残金額と残り仕事は仕上がると見て竹中藤兵エ(尾張三棟梁の一人)竹中は、現竹中工務店の前身。
父が中へ入り工事を續けたらと話したが、話がまとまらず、ついに竹中は中止、切上げた。
其の後、父が仕上げた。其の時分、父は池上本門寺で色々工事をして居た。大方丈、大客殿、其の他。
片瀬の竹中の工事見積り金額明治三十年頃十三万円で、工事年月十三年かけた。父より聞いた話。
片瀬は、日蓮上人法難の地、竜宮寺の塔。
仕樣書には、谷中の通りと書いて有ったが、まるで違って居た。父より聞いた。」
※原文のまま、但し明らかな誤字は訂正。
※文中の父とは勝尾氏の祖父「山尾新三郎」氏を示す。
※文中「竜宮寺」は「龍口寺」のこと。谷中は谷中感応寺(天王寺)塔
◆以上当事者しか述べられないことと推測される。
であれば、大工棟梁は竹中藤兵衛(匠長名古屋竹中和泉藤原正信)であり、
最後の仕上をした棟梁は山尾新三郎ということになるであろう。
※竹中工務店の社史では、「明治32年14代竹中藤右衛門神戸に進出、創立第1年とする。」とあるから、この時代の藤兵衛は
14代目くらいと思われる。メモ中の「竹中藤兵エ」は「竹中藤右衛門」であり、竹中和泉藤原正信とも解される。
参考:上記(中略)した四天王寺に関するメモ内容→摂津四天王寺の「昭和9年五重塔倒壊」の項を参照
○2008/02/10追加:
「日文研」より(明治初期の撮影と思われる。)
片瀬竜口寺本堂:天保3年(1832)竣工。
○2011/11/28追加:
片瀬大門本蓮寺篤信の檀家様から、拙ページの誤りの指摘があり。
誤りの訂正のため、下記の片瀬本蓮寺の項から、写真・記事を移し、追加修正する。
-------以下、下の片瀬本蓮寺の項から移行(明治4年片瀬本蓮寺写真は龍口寺門前写真と推定される)-----------
○2011/03/27追加:
「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
明治4年片瀬龍口寺:以前は「明治4年片瀬本蓮寺」として下に掲載するも、片瀬龍口寺門前写真であることが判明したので、
片瀬龍口寺として、掲載する。
「The Far East」に掲載。(写真の説明は片瀬の村の一風景との説明
があると云う。)
「The Far East」の現物では未確認、また発行年月日も未確認であるが、まずMoserの撮影画像であろう。
2012/08/29追加:
「文明開化期の横浜・東京 : 古写真でみる風景」横浜都市発展記念館、横浜開港資料館編、有隣堂、2007 より
片瀬龍口寺門前2:上記掲載写真と同一のものであろう。
「明治の日本 : 《横浜写真》の世界:彩色アルバム」増補」横浜開港資料館編、有隣堂、2003 より
片瀬龍口寺門前3
※2011/11/15追加:本蓮寺の現状と比較すれば、違いが大きく、果たして本写真が本蓮寺なのか確証が持てない。
-------以上、下の片瀬本蓮寺の項から移行/記事追加・修正---------------------------------------------
2011/11/27:片瀬大門本蓮寺篤信の檀家様から、上記写真は片瀬本蓮寺ではなく片瀬龍口寺であるとの指摘を受ける。
(本写真には龍口寺山門がはっきり写る)
なお、「神奈川の写真誌」では片瀬本蓮寺の写真と説明する。また明治4年夏撮影と云う。
※中央は現存する龍口寺山門で、背後には唐破風らしきものを備える堂が見え、龍口寺本堂なのであろう。
山門と本堂との間に写る香炉屋は現在では確認できない。山門内向かって右に入母屋は以前の鐘楼なのであろうか。
また、山門内向かって左の入母屋は現存する妙見堂であろうか。
山門前石階左右の2対の石燈籠(計4基)及び向かって左の題目碑2基は少なくとも現在写真位置には確認できない。
山門前の石階は現在の山門前石階に酷似する。
山門前石階は上下2つあり、上下の石階の間に平場がありこの平場が旧街道(腰越古道)であろうか。
またこの旧街道に面した上の石階下が現在仁王門が建っている場所なのであろうか。
写真右にはテラス付きの2階屋が建つが、これは今は現存しない「片瀬柏屋旅館」であろうか。
※片瀬柏屋旅館:サイト:「絵葉書と古写真」>「片瀬 柏屋旅館」に明治中期の写真がある。
二階建と三階建の相違はあるが、ベランダ付建物の雰囲気は似る。
片瀬龍口寺山門門前:サイト:「明治をゆく(古写真・風景画)」>「片瀬祖師(龍口寺)
」にほぼ同一アングルの写真がある。
(但し、本写真の素性などについての詳細は手掛かりがなく、不詳。)
片瀬龍口寺山門:「日蓮宗の本山めぐり」昭和46年 より転載
適当な山門や門前の写真の所有がないので、上記「明治4年片瀬龍口寺」写真とは撮影方向が180度違うが、
仁王門建立前の写真であり、従って山門を通して、新道(江ノ電が敷設される)が直接写る。
◆片瀬龍口寺伽藍:2011/10/30撮影:
片瀬龍口寺仁王門:昭和48年建立、RC造。
片瀬龍口寺山門1 片瀬龍口寺山門2 片瀬龍口寺山門3:元治元年(1862)建立
片瀬龍口寺本堂1 片瀬龍口寺本堂2 片瀬龍口寺本堂3
片瀬龍口寺本堂4:天保3年(1832)建立、欅造り銅版葺。間口12間・奥行15間。「敷皮堂」とも称す。その扁額を掲額。
片瀬龍口寺書院1 片瀬龍口寺書院2
片瀬龍口寺妙見堂:享保5年(1720)建立、「龍口法難光の松」で造立した光松妙見大菩薩を祀る。
龍口寺妙見堂・寂光殿 龍口寺妙見堂扁額
片瀬龍口寺鐘楼:昭和44年中山から移築。
片瀬龍口寺七面堂1 片瀬龍口寺七面堂2:近年の建築か。
片瀬龍口刑場跡
○2011/03/27追加:
◆片瀬龍口寺仏舎利塔(パゴダ):
昭和45年竣工。日本山妙法寺(藤井日達)建立。龍口法難700年記念。
○2011/11/15追加:2011/10/30撮影:
片瀬龍口寺仏舎利塔1 片瀬龍口寺仏舎利塔2
片瀬龍口寺仏舎利塔3 片瀬龍口寺仏舎利塔4
★片瀬本蓮寺多宝塔
本蓮寺(龍口龍口寺の輪番)には現代の多宝塔がある。
本蓮寺は常立寺の北東に位置し、龍口寺からみて山を挟んだ裏側(北)に位置する。
平成元年建立。木造無彩色本瓦葺きの標準的な塔婆である。高さ約16m。
○2003/03/28撮影:
本蓮寺多宝塔01 本蓮寺多宝塔02 本蓮寺多宝塔03 本蓮寺多宝塔04 本蓮寺多宝塔05
○2011/10/30撮影:
本蓮寺多宝塔11 本蓮寺多宝塔12 本蓮寺多宝塔13 本蓮寺多宝塔14 本蓮寺多宝塔15
★片瀬龍口寺輪番8ヶ寺
近世は片瀬常立寺、片瀬本蓮寺、腰越本成寺、腰越勧行寺、腰越法源寺、腰越東漸寺、腰越妙典寺、腰越本龍寺の輪番制(いずれも山号は竜口山と号する)であったが、明治19年太政官布達により住職が入山し、輪番制は廃止される。
◆片瀬常立寺
龍口寺の山を挟んだ裏側(北)に位置する。北東には本蓮寺が位置する。
常立寺は鎌倉期竜口処刑場での処刑人の供養のため、回向山利生寺(真言賞)が建立されたことに始まる。
天文元年(1532)日豪上人(碑文谷法華寺第7世)が、利生寺を法華宗に改宗し、寺号を龍口山常立寺を改めたと伝える。
有力檀越は片瀬地頭・鈴木氏であったと云う。身延山久遠寺末。
○2003/03/28撮影:
片瀬常立寺題目石
○2011/10/30撮影:
片瀬常立寺題目碑・門前 片瀬常立寺山門 片瀬常立寺日蓮菩薩碑 片瀬常立寺本堂
◆片瀬本蓮寺
龍口寺の山を挟んだ裏側(北)に位置する。
平成元年に建立された多宝塔を有する。(上に記載)
寺伝では創建は推古朝のころ義玄和尚によって開山され、三輪寺と号したという。
源頼朝により大御堂、五重塔などの伽藍が再興され、源立寿寺と改称する。
日蓮上人、竜口法難を免れた後、当寺に休息したと伝える。
嘉元2年(1304)中老日秀上人により改宗、本蓮寺と改号する。
新田義貞の鎌倉攻略で全焼。
その後再興され御堂・七面堂・鐘楼・稲荷などの堂宇と、仏乗院・円頓坊・本光坊の坊舎があったと云う。
江戸期には幕府より寺領を安堵される。(徳川家康の小休所となった所以で朱印7石を受く)
京都六条本圀寺末。
-------以下、上の龍口寺の項に移行(明治4年片瀬本蓮寺写真は龍口寺門前写真と推定される)--------------
○2011/03/27追加:
「神奈川の写真誌 明治前期」金井 円/編、有隣堂、1970 より
明治4年片瀬本蓮寺
「ザ・ファー・イースト」に掲載と思われる。(写真の説明は片瀬の村の一風景との説明と思われる。)
であるならば、モーゼル撮影画像であろう。
※2011/11/15追加:本蓮寺の現状と比較すれば、違いが大きく、果たして本写真が本蓮寺なのか確証が持てない。
-------以上、上の龍口寺の項に移行--------------------------------------------------------------
○2003/03/28撮影:
片瀬本蓮寺本堂扁額
○2011/10/30撮影:
片瀬本蓮寺門前 片瀬本蓮寺山門 片瀬本蓮寺本堂・鐘楼 片瀬本蓮寺本堂
○201/11/28追加:
以下は篤信の片瀬大門本蓮寺檀家様から頂いた情報である。
・本蓮寺黒門(大門):平成19年に現住日晃上人が再興、江戸期は仁王門であったと云う。
・鎌倉殿駒繋ぎの松:黒門横にある。鎌倉殿とは源頼朝を指す。現在の松は二代目であり、戦前に枝振りが大きく危険な為
伐採されると云う。平成19年の黒門再興時に、地中からその松の根が出てくるとも云う。
・片瀬大門本蓮寺は、いにしえより「学問寺」と呼ばれている。清貧で質素で学問を尊ぶ寺風である。
・多宝塔は平成元年先住日淳上人(湘南高校教員)代に建立される。
◆腰越本成寺:延慶2年(1309)日賢上人開創。鎌倉小町(妙厳山)本覚寺末
腰越本成寺題目碑 腰越本成寺本堂
◆腰越勤行寺:嘉元元年(1303)中老僧日実上人開創。玉沢(経王山)玉沢妙法華寺末
腰越勤行寺題目碑 腰越勤行寺本堂:龍口山の扁額を掲げる。
◆腰越妙典寺:正安2年(1300)中老僧天目上人開創。比企ヶ谷妙本寺末
腰越妙典寺題目碑 腰越妙典寺本堂
◆腰越東漸寺:正中2年(1325)日東上人開創。正中山法華経寺末
腰越東漸寺題目碑 腰越東漸寺山門 腰越東漸寺本堂 腰越東漸寺扁額:龍口山と掲げる。
◆腰越本龍寺:乾元元年(1302)中老僧日行上人開創。比企ヶ谷妙本寺末
腰越本龍寺境内 腰越本龍寺本堂
◆腰越法源寺:文保2年(1319)中老僧日行上人開創。正中山法華経寺末、龍口寺に東に位置する。
ぼたもち寺と云われるようで由来は鎌倉大町常栄寺と同一と思われる。
腰越法源寺題目碑 腰越法源寺本堂 腰越法源寺稲荷堂:経一稲荷大善神を祀る。
腰越法源寺庫裏
なお、腰越に日蓮宗本行寺という寺院があるが、これは昭和39年の創建と云う。
2006年以前作成:2012/08/29更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮の正系
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