比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺

日蓮上人事跡

承応元年(1222)安房小湊に生誕。
嘉禎3年(1237)清澄山にて出家得度。
建長5年(1253)清澄山にて立教開宗、松葉ヶ谷に小庵を結ぶ、蓮長から日蓮と改名。
文応元年(1260)立正安国論上書、松葉ヶ谷法難、下総中山に退避。
弘長元年(1261)鎌倉松葉ヶ谷に草庵再建、伊豆へ流罪(伊豆法難)・・・謫居の地は現在の仏現寺。
弘長3年(1263)幕府より赦免、鎌倉に戻る。
文永元年(1264)小湊に帰郷、小松原法難(鏡忍寺)。
文永8年(1271)松葉ヶ谷小庵にて日蓮捕縛、佐渡流罪、龍の口法難、佐渡渡海。
文永11年(1275)佐渡流罪赦免、鎌倉から身延入山。
弘安5年(1282)身延下山、池上にて入滅。


比企谷妙本寺

長興山と号す。
この地比企谷は比企能員の屋敷跡と伝える。
比企能員は鎌倉幕府御家人、妻は源頼家の乳母、娘若狭局は頼家の妻となり、頼家の子一幡の生母となる。
源頼家の跡目を廻り、北条氏(千幡・後の実朝の後盾)と争い、比企一族はほぼ敗死する。
 (小御所合戦、比企の乱、比企能員の変)
若狭局は、井戸(蛇苦止の井)に身を投入し、一幡も殺害される。
一族の内、比企能本(能員の末子)と竹の御所(若桜局の娘)は生延び、能本は後に許され鎌倉に帰る。
文応元年(1260)能本は鎌倉で布教していた日蓮に帰依し、邸宅を提供し堂宇(法華堂)を構える。
 ※これが日蓮宗最初の道場の建立と云われる。また比企一族の菩提を弔う意図もあったと云う。
文永11年(1274)日蓮上人、開堂供養し妙本寺の寺号を授く。
以後日蓮宗の主な拠点となる。
なお、江戸初期の幕府による不受不施弾圧までは、不受不施の末寺を多く抱える。
また昭和16年まで、池上本門寺と当山は両山一首制を続ける。江戸期には貫主は池上本門寺に住し、当山は司務職 を称する本行院住職が管理する建前であった。
 ※本行院の実態はなく、名目だけの存在である。
 ※因みに比企能本の法名は本行院日学、能員の法名は長興、能本の母の法名は妙本と云う。
天保13年(1842)日教上人、祖師堂再建、内部の宮殿は廃鼠山感応寺のものを移設すると云う。
 ※廃鼠山感應寺祖師堂木材は明治8年身延山祖師堂再建材として寄進される。
  →雑司ヶ谷鼠山感應寺   →身延山
仁天門:天保年中の再建、庫裏・書院・鐘楼・総門は大正12年の関東大震災後の再建。
蛇苦止堂:比企の乱で井戸に投身し自害した若狭局を祀る。蛇苦止の井(若狭局が投身した井戸)が残る。

●比企谷妙本寺寺中
 ※但し、大円坊、妙音坊を除き、実態は不明である。
 妙音坊:正和3年(1314年)創建。海老名市へ移転後、横浜市南区三春台に妙音寺として再興。詳細は次項参照。
 南之坊
 玄了坊
 大円坊:現在は比企谷幼稚園となる。詳細は次項参照。
 善行坊
 本成坊
 朗慶坊
 法泉坊
 西之坊
 大林坊
 龍華坊
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治15年、寺中妙音院、高座郡有馬村杉久保に移転、大正2年、神奈川県横浜市南区三春台73に再移転、経力山妙音寺として現存。
 大正9年、寺中常住院移転、経王山常住院として静岡県浜松市中区文丘町7−8に現存。
○寺中大圓坊:2011/10/30撮影:
惣門を入って右の八角円堂は寺中大圓坊の建物と云う。現在は比企谷幼稚園の園舎として使用。
 妙本寺寺中大圓坊跡
 妙本寺惣門内参道:参道左右は現在住宅となるも、かっては寺中が並んでいたものと推定される。左の円堂は大円坊跡。
  上掲比企谷妙本寺総門の右の円堂が大圓坊跡。
「日蓮宗寺院大鑑では:九老僧日傳の庵室が起源、大正12年関東大震災で堂舎は倒壊、昭和12年八角形の幼稚園舎を建立、幼稚園は妙本寺の経営。
2024/04/24追加:
妙本寺寺中の消息
○Wikipedia より
妙本寺塔頭
本行院
 本院。唱導院日の創建。開基行院日学(比企能本)・開山日朗・2世日輪・3世日山とし日は4世となる。
 歴代住職は司務職として比企谷全山を総理統監する。
常住院
 院家。3世日輪の創建。経師谷にありしも一時荒廃する。
 後に跡地に光住院(不二庵とも)が建立され、比企谷に移転後に常住院と改称する。
 常住院の名跡は、現在、経王山常住院(浜松市中区)が継承する。
正覺院
 院家。長慶山正覚院大巧寺(鎌倉市小町)。・・・妙本寺境内からやや離れ北西(本覚寺北)にある。
妙音坊
 正和3年(1314)創建。神奈川県海老名市に移転後、神奈川県横浜市南区三春台に再移転し經力山妙音寺となる。
大圓坊
 九老僧大圓阿闍梨日傳の庵室。永禄8年(1565)創建と伝わる。境内跡地は現在比企谷幼稚園となる。
三光坊
 正応5年(1292)創建。慶長17年(1612)に移転し宗久山本長寺(千葉県長生郡睦沢町大上)と改称したと伝える。
   ※なお、九老僧については →◇下総水戸鼠口墓地 を参照。
●比企谷妙本寺末寺:
常光山妙勝寺(福島県双葉郡双葉町大字新山字下条)
朝日山法圓寺(栃木県上都賀郡西方町大字元)
長祐山妙福寺(町田市三輪町)
妙香山常安寺(川崎市麻生区上麻生)
妙永山善正寺(川崎市麻生区片平)
經力山妙音寺(横浜市南区三春台)
福船山安立寺(横浜市金沢区町屋町)
妙顕山常勝寺(横浜市栄区田谷)
荻野山正蓮寺(横須賀市荻野)
○猿畠山法性寺(逗子市久木) →本ページ中、下段に掲載。
○長慶山大巧寺(鎌倉市小町) →本ページ中、下段に掲載。妙本寺院家という。
○妙法法華山安国論寺(鎌倉市大町) →本ページ中、下段に掲載。
○法華山本興寺(鎌倉市大町) →本ページ中、下段に掲載。
○慧雲山常栄寺(鎌倉市大町) →本ページ中、下段に掲載。
○海潮山妙長寺(鎌倉市材木座) →本ページ中、下段に掲載。
○行時山光則寺(鎌倉市長谷) →本ページ中、下段に掲載。
 光則寺末:妙法山蓮清寺(町田市能ヶ谷)
 光則寺末:○四条山収玄寺(鎌倉市長谷) →本ページ中、下段に掲載。
常葉山圓久寺(鎌倉市常盤)
笛田山佛行寺(鎌倉市笛田)
○龍口山妙典寺(鎌倉市腰越) →片瀬龍口寺輪番8ヶ寺中
○龍口山本龍寺(鎌倉市腰越) →片瀬龍口寺輪番8ヶ寺中
長藤山妙善寺(藤沢市藤沢)
 妙善寺末:柄澤山隆昌院(藤沢市柄沢)
正耀山法泉寺(藤沢市亀井野)
妙法山妙行寺(茅ヶ崎市松林)
村澤山本在寺(茅ヶ崎市高田)
 本在寺末:遠香山浄心寺(茅ヶ崎市香川)
本立山常顕寺(茅ヶ崎市萩園)
如日山妙光寺(神奈川県高座郡寒川町一ノ宮)
長秋山妙元寺(海老名市大谷)
福寿山幸延寺(相模原市南区鵜野森)
妙栄山本盛寺(厚木市船子)
大神山隆盛寺(平塚市大神)
芳澤山蓮昭寺(平塚市寺田縄)
大龍山貞性寺(平塚市田村)
法光山長源寺(秦野市曽屋)
覚栄山隆安寺(伊勢原市下平間)
学清山法眼寺(伊勢原市下粕屋)
福聚山妙輪寺(神奈川県中郡大磯町大磯)
大乗山妙昌寺(神奈川県中郡大磯町東小磯)
乗勝山妙大寺(神奈川県中郡大磯町東小磯)
妙珍山蓮昌寺(小田原市本町)
○済度山法船寺(小田原市酒匂) →相模酒匂法船寺
惺雄山蓮船寺(小田原市城山)
長照山大圓寺(南足柄市怒田)
経王山常住院(浜松市中区文丘町)
2011/10/30撮影:
 比企谷妙本寺題目碑1     比企谷妙本寺題目碑2     比企谷妙本寺総門
 比企谷妙本寺仁天門1     比企谷妙本寺仁天門2     比企谷妙本寺仁天門3     比企谷妙本寺仁天門4
 比企谷妙本寺仁天門5
 比企谷妙本寺祖師堂1     比企谷妙本寺祖師堂2     比企谷妙本寺祖師堂3     比企谷妙本寺祖師堂4
 比企谷妙本寺祖師堂宮殿
  ※祖師堂は入堂禁止、ガラス越に撮影したものである。写るのが廃鼠山感應寺宮殿であろうか。
 比企谷妙本寺本堂      比企谷妙本寺玄関・庫裏      比企谷妙本寺蛇苦止堂
2023/06/02追加:
◇日樹在銘・五輪塔(在比企谷妙本寺)
      :○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
 元和10年6月12日建立、総高12尺。
これは加賀太守母堂日榮夫人の逆修塔で、台座には200余の日樹銘誌が刻まれる。要点は日榮が両山の造営に尽された篤信を称賛する内容である。但し、現今では劣化であろうか、判読が難しい部分もあるようである。
 ※未見→2023/05/21実見(下に掲載)
2023/05/21撮影:
 妙本寺参道入口題目塔2     妙本寺総門脇題目塔2
 妙本寺総門2     妙本寺総門3     妙本寺総門扁額
 妙本寺二天門6    妙本寺二天門7    妙本寺二天門8    妙本寺二天門9    妙本寺二天門10
 妙本寺手水舎     妙本寺祖師堂5    妙本寺祖師堂6    妙本寺祖師堂7
 妙本寺方丈門     妙本寺本堂2      妙本寺本堂3     妙本寺本堂4
 妙本寺玄関・書院2     妙本寺鐘楼
壽福院逆修塔・日樹在銘
 壽福院殿逆修五輪塔1
 壽福院殿逆修五輪塔2
  「加賀太守宰相賜之/御母公/壽福院殿/日榮逆修/元和第十甲子六月十二日」とある。
 壽福院殿逆修五輪塔3
  「日樹誌之」とある。
 2024/05/10追加:
 壽福院廟所は能登滝谷妙成寺にある。
      →滝谷妙成寺壽福院
 逆修塔
  元和8年(1622) :池上本門寺壽福院逆修十一重層塔塔を建立、現存する。
  元和10年(1624):比企谷妙本寺に壽福院逆修五輪塔を建立、現存する。
  寛永5年(1628) :四条妙顯寺壽福院日榮預修十三重塔 (※預修は逆修と同義)を建立、現存する。


鎌倉日蓮諸寺
以下の鎌倉諸寺の概要は「日蓮聖人鎌倉霊跡」鎌倉事務所妙長寺、昭和47年版リーフレット を基本にして作成。
2012/01/02追加:印記事は「片瀬大門本蓮寺篤信の檀家様」(K.G氏)からご提供の「鎌倉郡日蓮宗寺院一覧」表に基づく。

鎌倉扇ヶ谷薬王寺

永仁元年(1293)肥後阿闍梨日像上人開創。大乗山と号する。広島国前寺末。潮師法縁。
日像由井ヶ浜で苦修練行の折、当所に来りし真言宗夜光寺を改宗させたのが始まりである。
 (もとは真言宗梅嶺山夜光寺であったが、日像上人由比ガ浜で苦修連行の砌、当寺に来たり、日像上人の教化により、改宗する。)
寛永年間(1624-1645)広島國前寺18世大乗院日達が不受不施を堅持、國前寺を出寺し、各地を行脚、新地9ヶ寺・古跡3ヶ寺を復興、その中の1寺が当山である。中興された夜光寺は大乗山薬王寺と改称する。
薬王寺は豊前国の住人原田氏の外護により七堂伽藍を建立し、2000坪の境内を有し、隆盛であった。さらに
伊予松山城主蒲生忠知<慶長9年(1604)〜寛永11年(1634)>の息女を当寺に埋葬し、蒲生家の外護を受け、また織田信勝の息女駿河大納言簾中松孝院殿の帰依も受ける。
 ※駿河大納言は徳川忠長/家光実弟、慶長11年(1606)〜寛永10年12月6日(1634))
 ※寛永10年(1633)駿河大納言忠長は高崎で自刃し、室松孝院殿(織田信雄の息女) は本寺に供養塔を建立、善菩提のために広大な土地(3000坪)と五重塔(徳川忠長供養塔?)などの伽藍を寄進する。
しかし、この伽藍は享保5年(1720)の火災で焼失する。
 ※松山城主蒲生忠知簾中松壽院殿(正壽院殿)、同息女・乳母の墓は現存する。
 ※織田信勝息女建立の駿河大納言供養塔もい現存する。
 ※五重塔云々はWeb情報としてある。しかし、この五重塔についてはどのような資料に基ずくものかは不明である。
明治維新により公卿上りの住職によって、山林・田畑・什宝の殆どを失い、50数年間無住状態となる。
大正初期50世慈覺院日振が釈迦堂・書院を建立。
51世慈亨院日照、旧書院移築、庫裡書院を建立。
2011/10/30撮影:
 扇ヶ谷薬王寺法界碑      扇ヶ谷薬王寺本堂      扇ヶ谷薬王寺釈迦堂
 駿河大納言忠長供養塔1     駿河大納言忠長供養塔2
◎九輪塔:本堂前に九輪塔とも云うべき相輪塔がある。
但し、相輪の要素である竜車・水煙を欠き、請花に替えて4個の宝珠を置く。
名称、建立時期、由緒など一切不明。
 扇ヶ谷薬王寺九輪塔1    扇ヶ谷薬王寺九輪塔2    扇ヶ谷薬王寺九輪塔3    扇ヶ谷薬王寺九輪塔4
◎廃鼠山感応寺奉安の祖師像を蔵する。
   →鼠山感応寺
 ※天保12年(1841)鼠山感應寺廃寺、祖師像などは池上本門寺に下げ渡される。その後、祖師像は牛込築土八幡の信者の誓願で築土万昌院に祀るも、躯体(93cm)が大きく護持が困難となり、再度池上本門寺に辺納されると云う。
 (ただし、池上へ返納ではなく、成子常円寺に移安との説もある。)
その後、この祖師像は鼠山感應寺の木材とともに比企谷妙本寺に保管される。
明治8年の身延大火の再建で木材は身延に送られるも、祖師像は比企谷妙本寺に残る。
縁あって本寺で感得奉安したものであると云う。(どのような縁なのか、遷座の時期は不詳)
2011/10/30撮影:
扇ヶ谷薬王寺奉安:廃鼠山感應寺祖師像1     廃鼠山感應寺祖師像2     廃鼠山感應寺祖師像3
 廃鼠山感應寺祖師像4     廃鼠山感應寺祖師像5
2023/05/21撮影:
 薬王寺入口題目石2     薬王寺本堂2     薬王寺玄関書院
 薬王寺鐘楼1     薬王寺鐘楼2     薬王寺釈迦堂2     薬王寺釈迦堂3
 廃鼠山感應寺祖師像6     廃鼠山感應寺祖師像7
 開祖日像菩薩坐像1      開祖日像菩薩坐像2
松壽院殿(蒲生忠知正室)
忠知は寛永11年(1634)30歳で没し、嗣子が無いため、改易となる。
これについて付け加えれば、忠知が逝去した当時、正室が懐妊していたため、幕府は正寿院の出産を待ってから松山藩の取り扱いを決めることにしたが、生まれたのは娘であったため、嗣子がいないことを理由に松山藩は改易される。その娘も寛永13年(1634)8月9日に3歳で急死したため蒲生氏は断絶する。
 ※但し、薬王寺のHPでは「息女:梅嶺院殿奉山日陽大童女 正保2年3月19日(1645年)12歳」とあるので、逝去の没年には齟齬がある。
正室は19歳で内藤家に帰り再嫁せず、元禄13年(1700)6月27日死去、85歳で、相模鎌倉翁ヶ谷薬王寺に葬られ、松寿院殿青山日縁禅定霊尼(内藤家記録)という。
 松壽院殿・梅嶺院殿宝篋印塔1     松壽院殿・梅嶺院殿宝篋印塔2:向かって左が松壽院殿
 松壽院殿墓銘
 元禄十三/松壽院殿/六月廿七之日 とある、写真の下段の銘は判読できない。元禄13年は1700年。
 薬王寺HPでは「奥方:松壽院殿青山日縁大姉 元禄13年6月27日(1700年)89歳」とある。
 梅嶺院殿墓銘
 正保二乙酉天/梅嶺院殿/三月十九日 とある、真の下段の銘はほぼ判読できない。正保2年は1645年。
 薬王寺HPでは「息女:梅嶺院殿奉山日陽大童女 正保2年3月19日(1645年)12歳」とある。
 駿河大納言忠長供養塔3
 薬王寺歴代墓塔


扇ガ谷妙傳寺

扇ガ谷にある泉の井(鎌倉十井)の先にある。
多宝谷山(旧山号は正信山)と号し、旧本山は三松蓮永寺(松野蓮永寺)、親師法縁。境内地は弘長2年(1262)忍性が開山した泉ヶ谷多宝寺の跡といわれる。
裏山には五輪塔’覚賢塔(かくけんとう)’<重文>が建つという。<未見>
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
承応元年(1652年)水戸藩主徳川頼房が祈願所として現在の東京都文京区白山に創建する。
昭和20年東京大空襲で伽藍を焼失。
昭和49年道路拡張の為、現在地へ移転。
2023/05/21撮影:
 扇ガ谷妙傳寺本堂1     扇ガ谷妙傳寺本堂2      扇ガ谷妙傳寺庫裡
 扇ガ谷泉の井:鎌倉十井の一つで、比較的原形を残すという、水勢は衰えているが現在も湧水しているという。

鎌倉扇ヶ谷護国寺

日蓮正宗、立正山と号す、昭和44年開創、開基は上條大石寺66世日達。
日蓮竜ノ口法難・発迹顕本の意義をこの世に知らしめるために設立。
2023/05/21撮影:
 日蓮正宗護国寺1     日蓮正宗護国寺2     日蓮正宗護国寺3

鎌倉小町妙隆寺

明徳4年(1393)妙親院日英(日親叔父)の開創。以降中山門流の鎌倉での拠点となる。中山法華経寺末。
 ※至徳2年(1385)干葉胤貞の創建とも云う。
二世は久遠成院日親(鍋被り)であり、修行池「行の池」がある。(未見)
 2019/10/26追加:
 ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
 身池対論前後、不受派の拠点であった。
2011/10/30撮影:
 小町妙隆寺山門     小町妙隆寺本堂

日蓮上人辻説法址

辻町本興寺↓も辻説法跡の一つと云う。
2023/05/21撮影:
 建長5年(1353)安房から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現・長勝寺、安国論寺付近)に草庵を結ぶ。
この辻説法跡辺りは鎌倉期には市街地(武家と商家との混合地であったという)であり、上人は連日この辺り(小町大路の辻)を訪れ法華経の功徳を説法したと伝えている。
文應元年(1260)上人は5代執権・北条時頼に「立正安国論」を提出し、時頼の怒りに触れ、松葉ヶ谷草庵を焼討される難の遭うという。
近年、辻説法跡の東隣に日蓮堂(六角堂・祖師堂)が新造される。
 日蓮上人辻説法跡1     日蓮上人辻説法跡2     日蓮上人辻説法跡3     日蓮上人辻説法跡4
 日蓮上人辻説法跡5
 辻説法跡日蓮堂1     辻説法跡日蓮堂2

鎌倉小町大巧寺

元は源頼朝の祈願所で真言宗大行寺と称し、十二所にあったと云う。
頼朝は大行寺で戦評定を行い大勝を得たため、元応元年(1320)現在地に遷し、大巧寺と改号すると伝える。
改宗年次は情報がないが、住職が妙本寺に滞在する日蓮に帰依し、改宗、弟子の日澄を開山とすると云う。
比企谷妙本寺末
2024/04/25追加:
「日蓮宗寺院大鑑」に記載がない。(その理由は分からない。)
大巧寺HP では次のように記載。・・・妙本寺の院家に属すとある。
長慶山 正覺院 大巧寺
 往古ハ鎌倉十二所梶原屋敷内ニ在リ長慶山正覚院大行寺ト称シ真言宗ナリ、
 嘗テ源頼朝当寺ニ於テ、軍ノ評定セシニ、其ノ合戦勝利ヲ得タレハ大巧寺ト改メタリ
 其ノ後元應二年二月現地ニ移転 住僧某日蓮ニ帰依改宗シ妙本寺ノ院家ニ属ス
 天文元年四月当町大倉ノ住人秋山勘解由ノ室難産ニ死シ獄苦ニ沈メルヲ当寺日棟教化得脱セシメ
 産女ノ塔(うぶめの塔)ヲ建テ安産守護ノ霊神トシテ祠ル、
 開山ヲ日澄(中老)トシ天正十九年十一月徳川家ヨリ御朱印地七貫二百文ヲ賜フ
2011/10/30撮影:
 小町大巧寺山門     小町大巧寺本堂
2023/05/21撮影:
 小町大巧寺題目塔:高祖550遠忌報恩塔・寺号碑である。
 小町大巧寺東石門     小町大巧寺本堂2     小町大巧寺本堂3

鎌倉小町東身延本覚寺(妙厳山)

永享8年(1436)一乗院日出上人開創、二祖行学院日朝上人(後に身延山11世)身延より日蓮上人御真骨を分骨、故に東身延と称する。
日蓮上人佐渡放免の後、滞在した夷堂の故地と云う。身延 山
 ※門前にあった夷堂は、明治の神仏分離で現蛭子神社(夷三郎社)に遷座する。蛭子神社はもともとこの地にあった七面大明神と宝戒寺にあった山王大権現を合祀する。社殿は鶴岡八幡宮末社今宮(新宮)のものと云う。
昭和56年、本寺境内に夷堂は再興される。
2024/04/25追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和55年 より
 身延山末、本山、末寺10ヶ寺、妙厳山と号す、潮師法縁。
永享8年(1436)一乗院日出上人開山、文永11年(1274)高祖佐渡流罪放免、鎌倉に帰還、当地にあった夷堂に滞在、その後に身延に出立という故事が伝わる。
永享8年一乗房日出が伊豆三島の常在山本覺寺から鎌倉へ転出、天台宗宝戒寺の住僧・心海と問答を戦わす(永享問答)。
破れた心海は諸宗の僧侶と共に鎌倉公方・足利持氏に讒訴、日出「問答始末記」を提出。その結果、足利持氏は鎌倉府中の日蓮宗の壊滅を画策し、16ヶ寺の取り潰しと僧侶及び信徒への弾圧を試みる(「永享法難」)。
しかし日蓮信徒衆数百が荒居閻魔堂に集結し反旗を翻す。
この事態に、持氏は当時の対室町幕府との政治的憂慮から、処分を撤回した上に、日出に対して日蓮ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を上人する。以上が本覺寺創建の由来という。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治25年、寺中圓大院移転、東耀山圓大院として神奈川県横浜市中区大平町90に現存。
2024/04/25追加:
◆本覚寺末寺
○Wikipedia より
東耀山圓大院(神奈川県横浜市中区大平町)- 元・塔頭(上に掲載)
身立山妙秀寺(神奈川県横浜市戸塚区吉田町)
太子山聖徳院(神奈川県横須賀市佐原)
近浦山圓徳寺(神奈川県三浦市初声町和田)
歓喜山實相寺(神奈川県三浦市初声町下宮田)
寿福山延寿寺(神奈川県三浦市初声町下宮田)
圓海山大乗寺(神奈川県三浦市三崎)
龍口山本成寺(神奈川県鎌倉市腰越) →片瀬龍口寺輪番8ヶ寺の1ヶ寺 
陽向山妙福寺(神奈川県藤沢市打戻)
法性山妙運寺(神奈川県茅ヶ崎市西久保)
2011/10/30撮影:
 東身延本覚寺題目碑     東身延本覚寺仁王門     東身延本覚寺本堂1     東身延本覚寺本堂2
 東身延本覚寺御分骨堂
 東身延本覚寺夷堂:八角円堂に相輪を載せる。     東身延本覚寺夷堂相輪
 東身延本覚寺鐘楼     東身延本覚寺玄関・書院
2023/05/21撮影:
 本覚寺仁王門2     本覚寺北門     本覚寺本堂3     本覚寺本堂4     本覚寺手水舎
 本覚寺夷堂2     本覚寺鐘楼2     本覚寺玄関・書院2

鎌倉大町常栄寺:学室法篋堂檀林跡

慶長11年(1606)自証院日詔上人開創。龍口法難の時、日蓮上人に胡麻の牡丹餅を供養した桟敷の尼の居住地に建立される。
ぼたもち寺と通称する。比企谷妙本寺末
2023/05/28追加:
 2023/05/21:鎌倉常栄寺を再訪、常栄寺でルーフレットを入手、次の記載があることを発見。
慶長11年(1606)比企谷・池上両山14世自證院日詔は桟敷台(源頼朝が由比ヶ浜での「千羽鶴の放生会」を観覧するために設けた展望台)に常栄寺を創建し宝篋堂檀林を開壇した。
この檀林は、元禄2年(1689)池上本門寺照栄院に移され、南谷檀林がそれである。
 ※自證院日詔は備中山田の産である。 →自證院日詔<備中山田のお塚中にあり>
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年
慧雲山と号す、比企谷妙本寺末、寛文2年(1672)創建、開山は自證院日詔、開基慶雲院日祐、開基檀越慶雲院妙周日祐尼。池上神楽坂法縁。
宗祖日蓮が龍口法難の時、老婆が胡麻のぼたもちを供養した寺である。老婆は印東次郎左衛門尉祐信の妻で、桟敷尼(法名は妙常日栄)という。
慶雲院日祐は水野淡路守重良の息女であり、ここに一宇を建立、学室法篋堂檀林を開設。
宝篋堂檀林の林長は自證院日詔、学室の初祖は寂遠院日通、元禄2年(1689)檀林を池上に遷し、南谷檀林と称す。
2011/10/30撮影:
 大町常栄寺題目碑     大町常栄寺山門・本堂
2023/05/21撮影:
伝桟敷尼夫妻五輪塔2基がある。<未見>
なお、学室宝篋堂檀林の痕跡などは望むべくもない。
 大町常栄寺山門     大町常栄寺本堂     大町常栄寺庫裡     常栄寺題目宝塔:性格は未確認

鎌倉大町上行寺

法久山と号する。正和2年(1313)九老僧日範上人の開創。
祖師堂は文化9年(1812)建立、本堂は明治19年名越妙法寺奥之院を移建と云う。六条本圀寺末。
20111/10/30撮影:
 大町上行寺全貌:見た目では祖師堂と本堂の区分がつかない。
 大町上行寺題目碑     大町上行寺山門     大町上行寺本堂?
 大町上行寺祖師堂?:稲荷堂(瘡守稲荷を祀る)と薬師堂(鬼子母神を祀る)の2堂宇から成るのであろうか。

鎌倉大町大宝寺

元佐竹家の屋敷であり、佐竹屋敷と通称す。佐竹家開祖の新羅三郎源義光がこの地に屋敷を構え、佐竹義盛が出家したときにこの地に多福寺(密教)を創建する。
文永元年(1264)一乗院日出上人の教化により転宗する。松葉谷妙法寺末。
2011/10/30撮影:
 大町大宝寺題目碑     大町大宝寺本堂

鎌倉松葉谷妙法寺(名越)

日蓮上人松葉ヶ谷小庵(松葉ヶ谷法華堂)の跡に建立される。楞厳山と号する。 建長5年(1253)開創。
開山は日蓮上人、二祖日朗上人、三祖日印上人、四祖日静上人と継ぎ、日静上人の時京都に移り、本国寺(後の本圀寺)と改称する。六条本圀寺末。
 ※なお、六条本圀寺の前身は妙法寺とも云う。
目叡上人(楞厳丸・護良親王遺見と伝える、中興開山)が父の菩提を弔うために松葉ヶ谷小庵跡に建立。
 ※松葉ヶ谷小庵跡は長勝寺・安国論寺がその地であるとも云う。そのため、六条本圀寺の前身は材木座長勝寺とも云う。
総門、本堂(文政年中肥後細川家建立)、仁王門、法華堂(文化年中水戸家建立)、鐘楼などを備える。
山上に護良親王の墓がある。
 なお、清正公像があり 5月5日清正公祭という。
20111/10/30撮影:但し、開門前のため、門前のみ撮影
 松葉谷妙法寺題目碑: 「松葉谷御草庵京本圀寺」と刻む。     松葉谷妙法寺案内碑
 松葉谷妙法寺山門      松葉谷妙法寺本堂

鎌倉松葉谷安国論寺(名越)

建長5年(1253)日蓮上人が住する。二祖は日朗上人。妙法華経山と号する。
立正安国論製作の法窟・小庵などと日朗上人荼毘所がある。比企谷妙本寺末。
なお、石畳参道左側には芝増上寺徳川家御霊屋から移されたという石灯龍が並ぶ。
2011/10/30撮影:但し、開門前のため、門前のみ撮影
 安国論寺題目碑・山門:日蓮上人松葉谷草庵 跡とも云う。

鎌倉松葉谷長勝寺(材木座)

2基の多宝小塔を有する。
1)本堂安置多宝小塔
2011/10/30訪問するも、この時は2基存在するとの認識が無く、本塔は未見に終る。
自前の写真がないので、
○サイト:「塔婆」>「現存塔婆」>「補遺 小型塔婆」>「明治以降 長勝寺多宝塔」 より転載。

○サイト:「塔婆」から転載
 本堂安置多宝小塔1:左図拡大図
このページには
「昭和53年建立。一辺凡そ1.5m、高さ凡そ5.0m。禅宗様式の特色の強い塔で、愛知県の東観音寺多宝塔を参考にしたという。」とある。

 

○サイト:「NekoGieさんの空間」:「長勝寺の帝釈堂」からも転載させて頂く。
 本堂安置多宝小塔2

2)本師堂安置多宝小塔

詳細は不明。
昭和61年頃建立と云う。(寺院側の回答)

2011/10/30撮影:
 本師堂安置多宝小塔1
 本師堂安置多宝小塔2:左図拡大図
 本師堂安置多宝小塔3
 本師堂安置多宝小塔4
 本師堂安置多宝小塔5
 本師堂安置多宝小塔6
  :昭和60年にタイ国から渡来した金色釈迦尊像を祀ると云う。

 長勝寺本師堂1
 長勝寺本師堂2:八角円堂

石井山と号する。
建長5年(1253)日蓮上人、安房清澄寺から鎌倉松葉ヶ谷に草庵(後に法華堂と号する)を構える。
 ※この松葉ヶ谷草庵跡は妙法寺、安国論寺、この長勝寺のいずれかとされる。
 ※長勝寺は初期の松葉ヶ谷草庵跡というより、日蓮上人が佐渡より帰鎌した折に、寄寓したところと受けとめるのが
 妥当と云う見解もある。
 ※何れにしろ、三者には決定的な証拠がなく、いずれとも決し難いと云うのが現状と思われる。
 あるいは、松葉ヶ谷草庵跡は1箇所ではなく複数箇所あった可能性もあるとの見解もある。
文永元年(1260)「立正安国論」を上書、念仏者あるいは幕府権力によって焼討に遭う。(松葉ヶ谷法難)
 ※本寺本堂(帝釈堂)には、松葉ヶ谷法難の時応現した帝釈天を祀ると云う。
弘長3年(1263)日蓮上人、幕府より赦免、鎌倉に戻る。 この地の領主・石井長勝が日蓮に帰依、自宅に小庵(法華堂)を建て、日蓮に寄進し、後に本国寺と号する。
貞和元年(1345) 日静上人京都弘教のため本国寺を京都に移し(後の六条本圀寺)、鎌倉本国寺は廃寺となる。
本国寺は後に、日際上人によって再興され、石井山長勝寺と号し、これが現在の長勝寺に繫がると云う。六条本圀寺末。
現在、山門、法華堂(法華三昧堂、方5間、室町末期)、本堂(帝釈堂、堂内に多宝小塔)、本師堂(堂内に多宝小塔)、鐘楼、六角堂、庫裏、日蓮上人像(高村光雲作)などを有する。
2011/10/30撮影:
 松葉谷題目碑1     松葉谷題目碑2:「宗門根本法華堂本圀寺旧地」 とある。
 松葉谷長勝寺山門      松葉谷長勝寺法華堂1     松葉谷長勝寺法華堂2     松葉谷長勝寺法華堂3
 松葉谷長勝寺本堂        松葉谷長勝寺六角堂

逗子御猿畠法性寺:(未見)

弘安9年(1286)九老僧朗慶上人の開創である。松葉ヶ谷法難の折日蓮上人を先導した白猿の現出した霊地であると云う。
山上に山王社・日朗上人廟がある。比企谷妙本寺末
 ※貞和元年(1345)法華堂京都移転に伴い、日静上人に従って、東大坊松林院、西大坊勧持院、北大坊持珠院、南大坊戒善院のほか猿畠山法性寺も遷ると伝える。
ただし、猿畠山法性寺の遷寺についての情報はほとんどない。
しかし、京都<左京区田中下柳町28(出町柳南側)>に通称「お猿畠」猿畠山法性寺が現存する。
 ※京都に於ける猿畠山法性寺は左京区田中下柳町27に現存する。近世では本圀寺末頭(筆頭)の地位にあったと思われる。
 この京都法性寺が日静上人とともに遷った法性寺に繫がるものなのであろうか。
  2011/11/01撮影:
  京都猿畠山法性寺題目碑     猿畠山法性寺山門     猿畠山法性寺本堂     猿畠山法性寺鐘楼か
   →上記は山城の日蓮宗諸寺中に掲載している写真である。

鎌倉辻町本興寺

辻の本興寺と称する。現在の飯田本興寺の故地である。
延元元年(1336)中老僧天目上人の開創(休息山本興寺と号する)で、応永24年(1417)日什上人が中興し、中興第一祖とする。
日蓮上人辻説法跡である。法華山(日什上人の改号)と号する。
当寺27世常楽院日経上人は妙満寺27世となる
慶長13年(1608)慶長の法難で日経上人が惨刑に処され、関係する寺院は取り潰しとなる。
そもそも不受不施および日経上人の流れは江戸期を通じて厳しく弾圧、禁止され、不受不施を主張することは文字通り命懸けであった。
万治3年(1660)30世日顕上人は鎌倉郡飯田村に寺基を移し、現在の飯田本興寺が成立する。
日顕上人は「妙本寺末寺本興寺」と「妙満寺末寺本興寺」を区分し、妙満寺末寺本興寺を別の地に建立しよう企図したと云われる。この企図により飯田本興寺への寺基移転が実現する。
 ※「日蓮宗の本山めぐり」の飯田本興寺の項では、
 万治の頃に至ると不受不施や日経上人の流れを汲む者が各地で迫害を受け、・・・当寺も次第に危うくなった。
 官の迫害を避ける意味から、本立坊なるものが檀徒と図って、万治3年に今の飯田へ寺を移したと。
寛文10年(1670)比企谷妙本寺歴代照幡院日逞上人は辻説法旧地の衰退を嘆き、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に比企谷妙本寺末寺本興寺を再興する。 これが現在の辻町本興寺である。比企谷妙本寺末。
2011/10/30撮影:
 鎌倉辻町本興寺題目碑     鎌倉辻町本興寺山門     鎌倉辻町本興寺本堂

鎌倉材木座啓運寺

文明15年(1483)啓運日澄上人の開創と云う、日澄上人は松葉ヶ谷妙法寺第11世。六条本圀寺末。
2011/10/30撮影:
 鎌倉材木座啓運寺題目碑     鎌倉材木座啓運寺本堂:今は頗る衰微する。

鎌倉材木座妙長寺

正安元年(1299)中老僧日実上人、伊豆法難の際船出した由比ヶ浜沼ヶ浦に開創する。その後数度津波で流失する。
天和元年(1681)もと天目上人開創の畠中円成寺のあった現在地に移る。比企谷妙本寺末。
実相寺付近に当寺の旧跡があると云う。(現状はマンションとなり何も残らないと云う)
2011/10/30撮影:
 鎌倉材木座妙長寺題目碑     鎌倉材木座妙長寺山門     鎌倉材木座妙長寺本堂
●相輪塔を有する。

相輪塔は昭和8年建立。高さ11m。鎌倉寺院及び檀信徒が伊豆法難紀念として建立する。
なお、中央石柱は鶴岡八幡宮二の鳥居(大正大震災で倒壊)の一部と云うも良く分からない。

2011/10/30撮影:
 材木座妙長寺相輪塔1
 材木座妙長寺相輪塔2:左図拡大図
 材木座妙長寺相輪塔3

鎌倉材木座実相寺

弘安7年(1284)六老僧日昭上人が開創した浜土法華寺の跡地にある。弘延山と号する。
 (日昭上人浜土法華堂霊地と云う。現在の玉沢妙法華寺の根源の地である。)玉沢妙法華寺末。
浜土法華寺は天文7年戦火で焼失、12世日南上人は越後村田妙法寺に退避、その後伊豆加殿妙国寺に寄寓、元和7年(1621)17世日亮上人が玉沢に法華寺を再興し妙法華寺と改号する。  →玉沢妙法華寺
鎌倉法華寺跡に実相院日近上人が一宇を建立、元和7年日潤上人が寺観を整える。裏山に日昭上人廟がある。(未見)
2011/10/30撮影:
 鎌倉材木座実相寺題目碑1    鎌倉材木座実相寺題目碑2    鎌倉材木座実相寺山門    鎌倉材木座実相寺本堂

鎌倉長谷光則寺

宿谷光則の邸跡である。文応元年(1260)日蓮上人は光則邸を訪れ、立正安国論を最明寺入道に進献するように依頼する。
光則は北条時頼の近臣の一人であり、日蓮上人が身延入山の後入信し、自邸を寺とし、日朗上人を開山と仰ぐ。
文永11年(1274)開創。比企谷妙本寺末。
2011/10/30撮影:
 長谷光則寺題目碑     長谷光則寺山門     長谷光則寺本堂
 「増補 鎌倉の散歩みち」富岡畔草、三渓文庫、昭和48年」より:光則寺改修前本堂

鎌倉長谷収玄寺

四条金吾頼基邸跡である。四条山と号する。
文政年中(1818〜30)荒廃していた収玄庵を安国論寺日勇が中興すると云う。長谷光則寺↑末。
2011/10/30撮影:
 長谷収玄寺題目碑     長谷収玄寺本堂

鎌倉七里ヶ浜霊光寺:(未見)

日蓮上人雨乞の跡地と伝える。
文永8年(1271)北条時宗、極楽寺忍性(良観に雨乞いの祈祷を命ずるも 祈雨の験なく、代わって日蓮が題目を唱えると大雨が降ったと伝える。
明治末期、この地から享保20年(1735)に江戸講中が建立した「日蓮大菩薩祈雨之旧跡地」の石塔が出土し、日蓮上人像と本堂が建立される。当初は霊光殿と称するも、昭和32年龍王山霊光寺と改号する。


2011/11/15作成:2024/05/10更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系