スウガクとくガウス
 2010年~島鉄廃線の旅・その2

   管理人自身、高校時代は島原方面 だったので、有家~島原の記憶はあっても、有家~加津佐の記憶がほとんどありません。「その1」でのコメントはどうにか書きましたが,「その2」でのコメントは駅にカンケーなしの、ドクダン、ヘンケン の文になるかも知れません。   m( _ _ )m
 
  ↑2010年↓2026年 有家(アリエ)駅


  口之津鉄道が昭和18年に島原鉄道に吸収合併するまでは口之津鉄道の本社は有家駅にあった。現在の農協そうめんの前の倉庫あたりだそうです。有家駅は相対式ホーム2面、上り、下りの2線でしたが、高校生の頃の1970年頃はまだ貨物輸送の関係で、有家駅には引き込み線が1つありました。木造の有家駅舎の頃事務所の横にポイント切り替えの黒塗りの大きなレバーがあったような記憶があります。
 
↑2010年↓2026年(画像は有家方向)
有家駅~西有家駅

 
↑2010年↓2026年 有家駅~西有家駅
 
↑2010年↓2026年西有家駅


 家と家の狭い間を列車が進んで行く風景を見ると、つげ義春のマンガ「ねじ式」を思い出します。高校生のときこの人のマンガが好きで、図書館でいつも借りていましたこの「ねじ式」の中に、線路もないのに家と家の間から汽車が出てくるシーンがあって、これが強く印象に残っていたので、自分の夢のなかでも自分の家と隣の家の間から汽車が出てきてた夢を
 みたことがあります。~まあ1度読んでみてください。
 
 ↑2010年↓2026年(画像は西有家駅方向)
    西有家駅~龍石駅

    引無田停留所のあったところ


  口之津鉄道の頃は西有家駅と龍石駅の間に「引無田駅」があって、上の写真の所に「引無田駅」があったそうです。(若宮神社の近くのじいちゃんが言っていました。) 駅というより、「引無田停留所」と思われます。
 
↑2010年↓2026年西有家駅~龍石駅

   ↑2010年↓2026年 龍石駅

  この地区の龍石神社に巨石のご神体があってこの石をたづさえて龍若彦命が天に昇るときこの石を落としてしまった(西有家町史より)…が龍石の由来と思われます。 駅舎の国道側には「竜石駅」の看板、構内の看板には「龍石駅」の看板があって、どっちかに統一したらいいのにと思っていました。廃線となっては「龍」と「竜」はどちらでもいいのですが…これはたぶん本来「龍」のほうであって、昭和のはじめの口之津鉄道も省略体の「竜石駅」を使っていたみたいですが、読み書きが簡単のため「竜」を使っていたのだと思います。戦後すぐ、漢字を廃止する立場にあったGHQが当用漢字を進めるなか「龍」→「竜」におし進めること が「竜」が広がった原因かもしれません。
 
  ↑2010年↓2026年 龍石駅~北有馬駅
    田平停留所があった所

  口之津鉄道の頃は竜石駅と北有馬駅の間に「田平(たびら)停留所」がありました近くのヤマザキショップの前ぐらいそのヤマザキショップのおばちゃんの話では田平停留所は2か所あったそうです。
 
↑2010年↓2026年 龍石駅~北有馬駅
 
   ↑2010年↓2026年 北有馬町

  北有馬駅の前にも定番の「島原映画案内」があったわけですが島原市内には人口の割には3軒の映画館があること自体不思議ですが、当時の島原の人間はそれだけ元気がよかったんだろう高校生の頃はいつも映画のポスターを横目に見ながら登校していたわけですが、ムフフな映画のポスターには絵がなくもっぱら字ばかりの映画のポスターがメインだったようです。たとえば「濡れた**」「かまきり婦人の**」とか「**は見た!」などと、ソーゾーリョクが違います。(伏字*のポスターではありません。)かまきり婦人といえば年代がわかりますな~ってェこと
 
↑2010年↓2026年(画像は北有馬方向)
 北有馬駅~常光寺前駅

有馬川橋梁(ありまがわきょうりょう)
 
2010年 北有馬駅~常光寺前駅
 
↑2010年↓2026年 常光寺前駅
 
↑2010年 ↓2026年 常光寺前駅~浦田観音駅

島原鉄道南目線は平成20年に廃線になっていますが、↑の画像の後ろの建物は平成19年に高校の統廃合のため廃校になった有馬商業高校です。(現在有馬商業高校と島原南高校が統合して湘南高校になっています。)
 
      2026年 有馬商業高校跡
南目線廃線跡とは少しはずれますが、この高校の校舎は2019年に無くなり現在はサッカーグラウンドなどの南島原市多目的運動広場になっています。
 
↑2010年↓2026年浦田観音駅
 
↑2010年↓2026年(画像は浦田観音方向)
 浦田観音駅~原城駅

 
↑2010年↓2026年浦田観音駅~原城駅
 
   ↑2010年↓2011年原城駅

  こちらの駅名は以前は「南有馬駅」でしたが、1962年に「原城駅」になりました。南有馬といえば北村西望氏(長崎市の平和記念像で有名)の生誕の地で、西望記念館が南有馬町にあります。 ここの駅前に氏のブロンズ像↑「将軍の孫」が2010年4月ごろまではありましたが5月ごろになると撤去され、西望記念館に移設されたみたいです。この「将軍の孫」のブロンズ像は島原市役所の橋にもあり、検索するとアマゾンでも販売があったり、あの足立美術館にもあったりして、いろんなところにあるんですね。2026年には駅舎はなく福祉施設や民家になっています。

↑2010年↓2026年原城駅構内
 
↑2010年↓2026年(画像は原城方向)
 原城駅~有馬吉川駅

 
    ↑2010年↓2026年有馬吉川駅

  ホームをはさむように2線のレールがあり南側は貨物輸送の頃の線路かと思います。1960年代の貨物輸送が元気だったころは貨物の引込み線もいっぱいあって、南目線で引込み線の数や引込み線の長さが長い駅は加津佐であった。駅終着駅だから当たり前だとして、次に多いのは原城駅で、その次は布津駅かと思います。これはSLの給水設備があったからでしょう。しかし時代の流れは貨物や郵便物はトラックに変わって1985年(昭和59年)には島鉄での貨物は廃止になりました。しかし旅客の減少もあるなか1986年(昭和61年)には島原鉄道の鉄道部門で、黒字転換になったことはスゴイことだと思います。現在の鉄道・バスの1km当たりの乗車運賃は少し高杉。
 
 ↑2010年↓2026年 有馬吉川駅~東大屋駅
 
↑2010年↓2026年 有馬吉川駅~東大屋駅

昭和3年に完成した。この「宮崎鼻トンネル」は
島原鉄道の中では1番長いトンネルでした。
    ↑2010年↓2026年東大屋駅

  1971年の駅の無人化にともない、東大屋駅の廃止が打ち出されたそうです。このとき東大屋地区の方々が「自分たちで駅の管理をするから、駅を残してほしい」という願いが通じて東大屋の7地区のうち6地区が管理費を負担して、残りの1地区が駅の清掃を受け持たれたそうです。 南目線廃止までの37年間、東大屋地区の皆様ご苦労様でした・・・
 「ありがとう南線」より
 
↑2010年↓2026年(画像は東大屋方向)
 東大屋駅~口之津駅

 
↑2010年↓2026年 東大屋駅~口之津駅
 
    ↑2010年↓2026年口之津駅

   現在は島鉄バスの駐車場になって、駅の構内のプラットホームのブロックだけが残っています。
 
  ↑2010年↓2026年(画像は口之津方向) 
   口之津駅~白浜海水浴場前

 
↑2010年↓2026年 口之津駅~白浜海水浴場前
 
   ↑2010年↓2026年 白浜海水浴場前駅

   以前は口加高校の生徒さんの通学のプラットホームでした。口加高校の前身が明治、大正時代には「口之津女子手芸学校」だったので、白浜海水浴場前の前の駅名は「女学校前駅」になっていました。
 
  ↑2010年↓2026年白浜海水浴場前駅~加津佐駅
 
2026年 白浜海水浴場前駅~加津佐駅
 
↑2010年↓2026年 白浜海水浴場前駅~加津佐駅
 
  ↑2010年↓2026年 加津佐駅

現在はクロスバイクがメインですが、30年以上前のロードバイクにいまだに乗っています。


   長崎県の人は鉄道の乗り物を「汽車」という表現をよく使います。「どがんしてきたと?」 「汽車で来た。」これを都市部の人が聞くと長崎県は今でもSL(蒸気機関車)が走ってるの?とギモンをもたれるそういうときは、いまでも陸(おか)蒸気が走とっ! …と言おう。かといって、電化が 進んでいなかったころは「電車」ではおかしいし、「気動車」では少しマニアック。私のばあちゃんたちはシマテツ列車のことを「ジーゼルカー(ディーゼルカー)」と言っていっていました。どちらかといういと発音は「ジージェルカー」に近いかも。他界したヒイばあちゃんは「ガソリン」ともいっていたこのガソリンはガソリンカー(客車)からきていると思われる。ガソリンカーは昭和5年には口之津鉄道に、昭和6年には島原鉄道に入っている。「どがんしてきたと?」 「ガソリンで来た」今の世代にはなんじゃそれと言われそう。使う燃料で車両を指していた時代で、たぶん終戦前後は木炭車が走っていたので「今日の木炭は元気がよか」等と言っていたかも 「気動車」といえば、学生のころはキハ80系に1度は乗ってみたいあこがれの特急であったが、結局乗れなかったナ~