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| 『映画芸術』を読んで | |||||
| 寺田寅彦 著 <昭和七年八月、日本文学> | |||||
| 岩波文庫「寺田寅彦随筆集 第三巻」【1948(昭和23)年5月15日第1刷発行】を底本とする青空文庫で読んだ。緒言・映画芸術の特異性・映画の成立・映画の編集過程・映画と連句・映画と夢・前衛映画・抽象映画・発声映画・有色映画・立体映画・人工映画(「人形映画や…線画の発声漫画のごときもの」)・映画と国民性、からなる小論だ。さすが寺田寅彦博士だと恐れ入る核心を突いた論説だと思った。 いきなり[緒言]で「映画は芸術と科学との結婚によって生まれた麒麟児」だとして「映画は自由自在に空間を制御することができる上に、また同様に時間を勝手に統御することができる…必要ならば時を逆行させて宇宙のエントロピーを減少させることさえできる」と述べていることが目を惹いた。そして[映画芸術の特異性]で「映画芸術が四次元空間における建築の芸術である以上、それをただ一人の芸術家の手で完成することははなはだ困難」とするなか、[映画の成立]で「映画成立の最後の決定的過程として編集術」とし、[映画の編集過程]で「(モンタージュ論を巡る)こういう議論は映画理論家にとって、また特にソビエトの国是の上から重要かもしれないが、一般映画観賞者の立場からは、たいした意義をもたない事である。われわれにとってはその映画がおもしろいことが第一義である。八巻なり十巻なりの映写を退屈することなしに見ていられることが肝要であり、見たあとで全体としても細部としても深い感銘を印象されることが大切である。それにはイデオロギーの教養に無関係に世界の人間の心を捕えるものがなければならない。」としたうえでのモンタージュ論への考察を行なっていた。援用されていたのが、生け花、造園、絵巻物、俳諧連句であったことが興味深い。 「あらゆる芸術のうちでその動的な構成法において最も映画に接近するものは俳諧連句であろうと思われる。」と述べた[映画と連句]の項に記されていた「モンタージュの要訣は、二つの心像の識閾の下に隠れた潜在意識的な領域の触接作用によってそこに二つのものの「化合物」にも比較さるべき新しいものを生ずるということである。」との記述を踏まえた[映画と夢]での「『アンダルーシアの犬』と称する非現実映画(往来社版、映画脚本集第二巻)になるともはやそういう明白な主題はない。そのモンタージュは純然たる夢の編成法であり、しかもかなりによく夢の特性をつかんでいる。たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀かみそりを呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻の群れが、女の腋毛にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこの種の映画の構成原理は最も多く連句のそれに接近するものと言わなければならない。この比較は、現在あるものよりもさらにより多く連句的なる非現実映画の可能性を暗示する。」との記述は、若かりし時分に同作を観て僕が幅広いジャンルの映画を観るようになったことを思い出させてくれた。『黄金時代』『糧なき土地』とともに中央公民館三階視聴覚室で観賞したのは1983年、僕が二十五歳のときだった。 トーキー映画について述べた[発声映画]の項でのエスプリの利いた「ようやく「雄弁」になりかけた無声映画は突然「おし」にされてしまった」「国語の相違ということが有声映画の国際的普遍性を妨げる。無声映画を「聞」いていた観客は、有声になったために聾になってしまった。」との弁や「発声映画によって始めて完全に「沈黙」が表現されうるということであった。無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表現されるようになった」「適当な雑音の插入がいっそうこの沈黙の強度を強めることもわかって来た」との指摘にも感心させられる。 カラー映画については、[有色映画]の項での「その色彩はまだきわめて単調でなまなましくて、かろうじて安物の三色版の水準にしか達していない。それがためにかえって画面の明暗の調子を攪乱し減殺し、そうして過度の刺激によって目を疲らせるばかりであるから、現在のところでは芸術的には全く低級な単なるノヴェルティに過ぎないと言わなければならない。…色彩の付加は単に視覚的なものの属性の補充に過ぎない。それだから、たとえば色彩再現の科学的技術がいかに発達したとしても、それがために発声映画がもたらしたほどの根本的な革命が起ころうとは思われない。」との記述が目を惹き、「明暗を殺さずにそれを生かすような色彩を駆使して、これを音響と対位的に編成することができればその結果はあるいは大いに見るべきものであるかもしれない。…宗達光琳の絵や浮世絵は参考になるであろう。俳諧連句もまたかなりの参考資料を提供するであろう。」との指摘が面白かった。 今から百年近く前になる昭和七年に3D映画にも言及していて、[立体映画]の項での「現在の平面映画は、前にも一度述べたように立体的な舞台演技を見るよりもかえっていっそう立体的であるという逆説的なことが言われうる。すなわちカメラの任意な移動によって観客は空間内を自由に移動し、従って観客自身画面の中へ入り込むと同等な効果を生ずるからである。このようにカメラの焦点とその位置および視角の移動によって現在の映画は、事実上、少なくも心理的には立体的実体的な空間を征服しているのである。それでこの上に多大の苦心をしていわゆる立体映画がようやく成功したとしても、その効能はおそらくそう顕著なものではあるまいという気がする。」との核心を突いた指摘に快哉を挙げるとともに、「映画のスクリーンが物理的に平面だから映画には心理的にも「深さ」がないという考えは根本的の誤謬」との弁に共感を覚えた。 アニメーション映画については、[人工映画]の項で「漫画の将来にはまだいろいろな未発見の領土が隠れていそうに思われる。ただ現在のビンボー類似の作品はあまりに荒唐無稽な刺激を求め過ぎて遠からず観客の倦怠を来たすおそれがありはしないかと思われる。」としていたが、寺田寅彦が現在の種々のアニメーション映画を観たらどう思うか、ぜひ聞かせてほしいものだと思った。 最終項[映画と国民性]では、「ロシア崇拝の映画人が神様のようにかつぎ上げているかのエイゼンシュテインが、日本固有芸術の中にモンタージュの真諦を発見して驚嘆すると同時に、日本の映画にはそれがないと言っているのは皮肉である。彼がどれだけ多くの日本映画を見てそう言ったかはわかりかねるが、この批評はある度までは甘受しなければなるまい。」としたうえで、「もちろん営利を主とする会社の営業方針に縛られた映画人に前衛映画のような高踏的な製作をしいるのは無理であろうが、その縛繩の許す自由の範囲内でせめてスターンバーグや、ルービッチや、ルネ・クレールの程度においてオリジナルな日本映画を作ることができないはずはない。それができないのは製作者の出発点に根本的な誤謬があるためであろう。その誤謬とは国民的民族的意識の喪失と固有文化への無関心無理解とであろう。もっとも、良い映画のできないということの半分の責任は大衆観客にあることももちろんであろうが、しかし元来芸術家というものは観賞者を教育し訓練に導きうる時にのみ始めてほんとうの芸術家である。チャップリンのごとき天才は大衆を引きつけ教育し訓練しながら、笑わせたり泣かせたりしてそうして莫大な金をもうけているのである。」と述べ、「和歌俳諧浮世絵を生んだ日本に「日本的なる世界的映画」を創造するという大きな仕事が次の時代の日本人に残されている。自分は現代の若い人々の中で最もすぐれた頭脳をもった人たちが、この大きな意義のある仕事に目をつけて、そうして現在の魔酔的雰囲気の中にいながらしかもその魔酔作用に打ち勝って新しい領土の開拓に進出することを希望してやまないものである。それには高く広き教養と、深く鋭き観察との双輪を要する事はもちろんである。「レオナルド・ダ・ヴィンチが現代に生まれていたら、彼は映画に手を着けたであろう」とだれかが言っているのは真に所由のあることと思われる。」と結んでいた。もしかすると、資金提供してくれる篤志家が現われば、映画制作をやってみたいとの名乗りだったのかもしれない。 | |||||
| by ヤマ '26.10.17. 青空文庫<https://www.aozora.gr.jp/> | |||||
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