『ラプソディ・ラプソディ』['26]
『炎上』['26]
監督 利重剛
監督 長久允

 心に傷を負った人の生き辛さを描いて痛切な二作品だった。いずれも親子関係のなかで抱えていたものだったような気がする。先に観た『ラプソディ・ラプソディ』の繁子(呉城久美)の手に負えなさに半ば唖然としつつ、演じた呉城久美に感心していたが、人物造形として興味深いのは、むしろ夏野幹夫(高橋一生)のほうだと次第に思い始めるようになる映画だった。

 自身の抱えているものを持て余したときに、人はどのように臨むことで持ち堪えうるのか、カタルシスを得るために本当に必要なものは何なのかを問い掛ける眼差しに“絶妙の距離感を保つ優しさ”が本作にはあって、それを劇中でも体現していたのが、監督・脚本を担った利重剛の演じていた、幹夫の叔父たる歯科医だったように思う。利重監督作品を観るのは、十三年前の『さよならドビュッシー』以来だが、悪くない気がした。割れ鍋に綴じ蓋のような繁子と幹夫の今後に幸あれと願う気持ちが湧いてきたが、二人を両親に持って生まれてくるのは難儀だなという気もした。

 一見、乱暴にも映る省略の多い運びながら、実にデリカシーに富んだ描出を果たしていたことにも感心させられた。余白の多い映画のほうが豊かだと改めて感じる。もはや死語というか禁止用語化していると思しき“オールドミス”(池脇千鶴)の配置が利いていて、コミカルに重要な役割を果たしていた。そして、幹夫の人物像を今どきの女性たちはどのように観るのだろうと思ったりもした。


 翌日観た『炎上』も同じような主題を負った作品なのだが、真逆のタッチの映画だ。一緒に観賞した映友が歌舞伎町ものということからかミーツ・ザ・ワールド['25]を引き合いにして、あの映画がソフトにくるんでいたものを剥き出しにしていた気がすると言っていたが、確かに生々しく強烈な画面が印象づけられる作品だった。

 奇しくも二人ともネット上での炎上を扱った作品だろうとの見当違いをして臨んだ観賞だったのだが、僕はジュジュこと樹理恵(森七菜)が吃音との設定の上に宗教二世という設えから、早々に炎上['58]のほうを想起したために、生々しさに向かうのとは異なる意匠に、妙に図式的というか頭でっかちな拵え感を促され、かなり勿体ない気がした。

 役者は、皆とてもよく演じていたように思うし、なかでも印象深い三ツ葉を演じたアオイヤマダが目を惹いた。昭和の時代なら、決してこのような画面づくりではなかったろうと思われる造形もまた、今や時代遅れのコードが血肉化してしまっている僕には隔靴搔痒というか、もどかしかった。でも、力のある作品だとは思う。

 せっかくテアトル新宿で観たのだからと観賞後、前回がいつだったか、もう思い出せないくらい久しぶりに歌舞伎町を訪ねた。僕が学生時分には池だったスペースには映画に映っていたのと同じ青い柵が設置されていた。イベントスペースとして使用されているようだ。行き場のない若者が屯するようなスペースではなかったが、夜間には宿無しが段ボール紙を敷いて占拠したりしているのだろうか。むかし通った東急のシネマスクエアも、東宝のコマ劇場もなくなり、映画に映っていた高層ビルになっていた。来し方を想い、感慨深かった。
by ヤマ

'26. 5. 8. シネスイッチ銀座
'26. 5. 9. テアトル新宿



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>