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| 『ラストタンゴ・イン・パリ』(Ultimo tango a Parigi)['72] 『ロリータ』(Lolita)['62] | |||||
| 監督 ベルナルド・ベルトルッチ 監督 スタンリー・キューブリック | |||||
| 巨匠と呼ばれる映画監督のスキャンダラスな性愛を描いたとされる作品を併せ観た。先に観たのは、四十七年前の大学時分に三鷹オスカーで三本立て四百円で『ミスター・グッドバーを探して』『スキャンダル』との併映で観て以来となる『ラストタンゴ・イン・パリ』だ。当時の日記に母校の美術教師の高﨑先生が推すだけのことはあって鋭い映画だという記述が残っている。 高校時分に所属していた新聞部の「先生、出番です」のコーナーに掲載された「…今私にとって最も実感のあるのは、あくまでも挑戦的な生き方だ。そのためにアメリカの異色の名優マーロン・ブランドの名を借りよう。話題をまき続けたブランドももう若くはない。彼の新作ラスト・タンゴについてはいささか差障りもあり、没落に目覚めた中年男の強暴な生と死であるというにとどめるが、タイムによればそれはストラビンスキーの「春の祭典」に匹敵する映画の革命であり、生きようとして死に急ぐ大国アメリカの象徴であり、それにもまして刮目すべきは、残酷な弁証法によって自らをデストローイし、クリエイトして、またしても生きつづけるブランドのキャパシティであるという。 彼らには才能があった。私にあるものはただ往生ぎわの悪さだけであるかも知れない。ならばその悪さにこそ徹しよう。…」との記事を指しているのだろう。今や先生は無論のこと、同紙の編集・発行人の同窓生も鬼籍に入ってしまっている。 久しぶりに辿ってみると、記事のタイトルが奇しくも「宿題は終わらない」で、僕がこうして再見していることと重なるところがあって可笑しかった。遠い日の記憶では、薄暗く陰鬱な画面の映画だという印象があったけれども、思いのほか屋外シーンも多くて意外だった。 ふとした思いからほぼ半世紀ぶりに観直してみると、オープニングクレジットと共に映し出されたいかにもフランシス・ベーコンらしい歪さの浮かび上がる男像と女像が象徴的だった。常軌を逸脱した男女の交わりと通常の撮影方法とは異なる映画の撮影風景が交互に現れてくる映画だ。その両方において軸になっている女性がジャンヌ(マリア・シュナイダー)で、軸なのに両方の場において彼女の意思はほとんど蔑ろにされ、受容のみが求められていたような気がする。だが、その受容を果たせるばかりか逆にコミットできる許容度をも発揮していた。そのうえで、芯のところにおいて、なし崩しにはならない強靭さを秘めていたように思う。 それにしても、草臥れた中年男ポール(マーロン・ブランド)四十五歳のろくでなしぶりが、ほとほと気に障っていけなかった。ポールが耳を塞ぎながらチクショーと叫ぶショットから始まる本作を観ながら、ぐだぐだ垂れ流す長広舌も、義母(マリア・ミキ)の前で荒れる醜態も、不倫妻ローザの自殺から受けたダメージでもって容認できるレベルではなかったように思う。妻の不倫相手である旧知の友と思しきマルセル(マッシモ・ジロッティ)がローザの不可解さを語るポールとの対話場面は、悪くなかった気がするけれども、他にそう惹かれる場面はなかった。ポールが開幕場面で発する「チクショー」は四回出て来たように思うが、花を敷き詰めた棺に横たわる妻を見詰めていた場面と、ジャンヌにバターを使ってアナルレイプをした場面、そして、最後にタンゴ競技会場のレストランでジャンヌから別れを告げられ、去っていく彼女を追う場面だった。 タイトルのラストタンゴが、劇中の台詞にあった競技における決勝ステージを指すのではないことは明白だが、単純に“恋愛”を意味するものではなさそうだ。激しい身体のぶつかり合いとは対照的な硬い表情が印象深いダンスではある。タンゴには、ある種の官能性が確実に宿っているように思うが、本作はいわゆる官能性とは程遠い作品で、“肉体のみの交わりを重ねる名無しの関係”という常軌を逸脱した特異な関係性は描かれているものの、性描写そのものは、むしろ淡白なきらいさえあったように思う。 高﨑先生が残している“没落に目覚めた中年男の強暴な生と死”という点では確かに「自らをデストローイし、クリエイトして、またしても生きつづけるブランドのキャパシティ」には驚くべきものがあるとは思った。それほどに彼の造形したポールは下衆そのものだったように思う。聞くところによると、ブランドは本作に出演したことで前妻に親権を奪われたのだそうだ。だが、『地獄のハリウッド』(宝島社)に越智道雄が書いているところでは、「カシュフィは、セックスを演じるブランドのせいで息子が笑い者になった、と養育権回復の訴訟を起こした。結局、七四年にカシュフィが息子に会う権利をブランドが認めたので、彼女は訴訟を取り下げた。こうして長い争いは幕を閉じた。」(P84)となっているから、親権を奪われたのではなさそうだ。 三日後に観た『ロリータ』は、今回が初見だが、『ラストタンゴ・イン・パリ』に十年先駆ける映画だ。捧げ持った足の指間に綿を挟みつつペディキュアを施すクローズアップショットという実にフェティッシュなタイトルバックで始まる本作は、そのモノクロ画面に相応しい何とも暗澹たる物語だったように思う。 先に観た『ラストタンゴ・イン・パリ』のポールもろくでなしであったが、シャーロット(シェリー・ウィンタース)からの告白文を読んで哄笑していたハンバート・ハンバート教授(ジェームズ・メイソン)は、かのポール以上のろくでなしだと思った。シャーロットの娘であるロリータことドローレス・ヘイズ(スー・リオン)目当てに結婚し、日記には“ヘイズの女”、“ウシ”、“嫌なママ”、“ノータリンのババア”との蔑称で綴り、迂闊な始末で盗み読まれて「人でなし、最低だわ!」と罵られた挙句に『名もなく貧しく美しく』['61]の秋子と同じ事故死に追いやっていた。また、ロリータに向ける猜疑心と身勝手さにも、ほとほと呆れた。 だが、そのハンバートをも上回るろくでなしに思える脚本家のクレア・クィルティ(ピーター・セラーズ)だと呆れ果てる人物がいて、確かに怪しい尾行車や電話、明らかに常軌を逸していたゼンブ博士(ピーター・セラーズ)は現れていたものの、最後に「ずいぶん騙しはしたけど、物事ってそういうものよ」と言っていたロリータが、ハンバート教授に明かした話が事実とは限らない。あの後にハンバート教授がその居宅に向かったクィルティの常軌を逸脱した荒みようからすると、彼もまたハンバート同様に、ロリータに狂わされた人物だったのかもしれない。 映友が貸してくれた未開封のパッケージの裏面には「セラーズとメイスンの素晴らしい共演」と大きく記されていたけれども、僕には些か鬱陶しく押し付けがましい演技に映った。また「年を重ねるごとに素晴らしくなる」とも大文字で記されていたが、古稀が視野に入ってきたなかで初めて観た僕に、その余地があるようにも思えなかった。シャーロットの愚かなまでの哀れを演じたシェリー・ウィンタースはなかなか見事だった気がする。 聞くところによれば、原作者のウラジーミル・ナボコフ自身が脚本を担っているらしい。だが、本作も『ラストタンゴ・イン・パリ』同様に、性愛映画というよりは、生の寄る辺を失っている中年男が囚われる妄執について描いたものだと映画作品からは感じられるように思った。近年重ねている高校時分の映画部の部長が主宰する合評会に倣うと、カップリングテーマとして「性愛映画というよりは、寄る辺なき中年男が囚われる妄執映画」というフレーズが浮かんできた。 | |||||
| by ヤマ '26. 8. 9. DVD観賞 '26. 8.12. DVD観賞 | |||||
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