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『悲しみは空の彼方に』(Imitation of Life)['59]
『アンネの日記』(The Diary of Anne Frank)['59]
監督 ダグラス・サーク
監督 ジョージ・スティーヴンス


 今回の合評会課題作には、人種差別による苦難を負った人々の姿を捉えたカラーとモノクロの同年作品が並んだ。降り注ぐ宝石をバックにアール・グラントが愛なきはまやかしの人生」と歌うオープニングで始まった『悲しみは空の彼方に』を観るのは四年ぶりで、二度目の観賞となる。

 折しも始まって日の浅いNHKの朝ドラ『風、薫る』と同じく、幼い娘を連れて職探しをする宿無しの黒人母子の姿が描かれ、そこから始まるローラ(ラナ・ターナー)とアニー(ファニタ・ムーア)、スージー(サンドラ・ディー[16歳以降])とサラジェーン(スーザン・コーナー[18歳以降])の人種を超えたシスターフッドを描いて感慨深い作品だ。

 主だった感想は、前回観た時と変わりないが、本作をもって何ゆえ「メロドラマ」とされるのだろう?と記した部分については、もう少しローラとスティーヴ(ジョン・ギャヴィン)の関係の在り様について目を向けることができたようには思った。

 念願だった女優として成功しても空しい、何かが足りないと零していたローラが求めていた“愛”は、公私に渡る十年にも及ぶパートナーと思しきデヴィッド(ダン・オハーリー)からのものでも、映画も舞台も辞めて家にいようとしたらデンバーの大学へと去るスージーの選択に運命って皮肉だわと嘆いた娘に対するものでもなく、十年ぶりに再会したスティーヴに向けられていたのだから、メロドラマと言えばメロドラマなのだろう。

 だが、やはり最も印象深いのはだったらあんな態度は止めなさい。解決にはならないわと、娘同然に育ててきたサラジェーンを戒めるローラ・メレディスの人物造形であり、最後の審判の日に善き者として裁かれたいとの言葉を残し、それに相応しい盛大な葬送を叶えていた家政婦アニー・ジョンソンの人物造形だったように思う。

 1947年からの一年余りと十年後の1958年からの一年余りという僅か三年ほどを描くだけで、原題に据えた“人生”を語るだけのスケール感を備えている作劇の見事さに改めて感心した。


 同日の夜に観た『アンネの日記』は未見作だと思っていたが、違っていた。終戦の福音を告げると思しき鐘の響きで始まり、家長のオットー・フランク(ジョセフ・シルドクラウト)が隠れ家を訪ねてくる六分近くを無言のままで続ける格調高いモノクロ・シネスコの画面を観ながら、既視感を覚えた。手元の記録には観賞歴が残っていないので、若い時分のETV観賞によるものだろう。

 1942年7月9日の十三歳から綴り始めた日記が1944年6月6日のノルマンディー上陸後も夏まで生き延びて続きながらも、ドイツ降伏を迎えることなく殺されていったアンネ・フランク(ミリー・パーキンス)たちの生活の窮乏耐乏以上に、過酷な状況のなかで、確かなヒューマニズムが保たれていたことに驚いた覚えがある。クラーレル(ダグラス・スペンサー)とミープ(ドディ・ヒース)の支援によって二年以上も生き延びたのだから、あと一年足らず何とかならなかったものかとの思いが湧いたのだった。迫害される者を支援する者が現われるのと同時に、必ず密告者も現われるのが人間社会の常ではあるけれど、こんな世の中になったのは私たちのせいじゃないとの憤りを見せていたジャーナリスト志望の少女の戦後の姿を残せなかった史実を嘆いた。

 作中でナチスがいなくても私たちは自滅すると嘆いていたのは、オットーだったか。大きな図体から来る飢えに耐えられなくて、子供たちのパンを盗んだのを見咎められたファン・ダーン(ルー・ジャコビ)が己が情けなさに顔を覆う姿以上に印象深かったのは、その夫を庇う夫人(シェリー・ウィンタース)と父親に失望しつつも出て行かなくてはいけないなら、自分も付いていくと言っていた息子のペーター(リチャード・ベイマー)、そして、怒りに駆られて激しく詰ったことを詫びていたフランク夫人(グスティ・ユーベル)の姿だった。

 アンネが十五歳まで生き延びてペーターとキスを交わす美しい時を迎えられたのはせめてもの慰めだと感じ、こんな世の中だけど人間の本質は善だと信じているとのアンネの遺した言葉で締め括られていたクラシカルな映画の美しさが感慨深い。かような言葉を口にする者を“お花畑の住人”などと冷笑するような輩が現われるのは、密告者と同じく人の世の常ではあるのだけれども、決して大勢ではないはずだ。だが、野放図なSNS社会を迎えて、そこのところに揺らぎが生じているように感じられる現況が悲しいことだと改めて思った。


 同世代の男五人が集った合評会では、『悲しみは空の彼方に』への支持が四対一で上回った。両作とも優れていたとの意見が多かったなか『悲しみはその彼方に』は主題への切込みが甘くやや散漫な印象が残り、『アンネの日記』には過酷な耐乏生活を強いられる緊迫感に欠ける気がしたとの厳しい声も挙がったが、そもそも作り手は、前者において差別を糾弾したり、後者において耐乏生活の過酷さを描いたりすることを意図してはいないように僕は感じた。前者で作り手が描きたかったのは、原題に示されているように“偽りの人生にはしない生き方とは”であり、後者では“過酷な耐乏共同生活においてもヒューマニズムを損なわなかった人々の奇跡”だという気がする。

 とりわけ『アンネの日記』では、娘アンネを最も深いところで理解していると自認し、娘からもそう思われていたオットーが、自身の想像を遥かに超える高い境地に至っている娘の精神性に感銘を受ける場面で終えていたように、作り手が描きたかったのは、過酷な耐乏生活をやわらげ和ませることに腐心して共同生活における人間性の維持に貢献していたアンネの振る舞いが、単に無邪気な童心からきたものではなく、おそらくは信仰心に支えられた気高い信念であったことだったに違いない。取り上げられ、重ねられていたエピソードに通底しているものが、まさにヒューマニズムだったからだ。

 そのような話をすると、そこまで高く評価していながら『悲しみは空の彼方に』のほうに軍配を挙げたのは何故かと、唯一の『アンネの日記』支持者から問われた。そこで、ほぼ三時間に及ぶ『アンネの日記』は非常に優れた作品なのだけれども、ある意味、オーソドックスな造りであって、『悲しみは空の彼方に』のほうは、延べて言えば、わずか三年ほどの時間を描いただけで、恋と友情、人種差別や女性蔑視、挑戦と忍耐、母子家庭親子における関係の難しさといった多岐にわたる問題を包括して人生を語る映画に二時間程で仕上げている並外れた作劇力とニュアンス豊かな演技に吃驚させられたからだと応えたところ、成程と了解が得られた。

 演技という点では、誰が印象深かったかとの問い掛けに挙がっていたのは、アニー親子を演じたファニタ・ムーアとスーザン・コーナー、そしてオットーを演じたジョセフ・シルドクラウトだった。僕は、いの一番にラナ・ターナーを挙げたものの、その三人は納得の人選だった。
編集採録 by ヤマ

'26. 4.16. BSプレミアムシネマ録画



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