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| 『ミニヴァー夫人』(Mrs. Miniver)['42] | |||||
| 監督 ウィリアム・ワイラー
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| 四日程前に日活ロマンポルノの『ザ・マニア 快感生体実験』を観て『コレクター』を想起した延長で、映友から借りているワイラー監督作を観なければ、と取り出した。'42年の作品だから紛れもなく戦時中の映画なのだが、第二次大戦開戦直前の'39年夏から始め、浪費家を自認する中産階級のマダムであるミニヴァー夫人(グリア・ガーソン)が、買って来たばかりの高価な帽子を寝室で下着姿のまま被って建築家の夫(ウォルター・ピジョン)に披露する場面などを盛り込み、当時、三十九歳のグリア・ガーソンの“作中で薔薇にも擬えられる美しさ”をひたすら押し出した作品だった。 かの『カサブランカ』とも同年作なのだが、同作にコメントを寄せてくれた後輩に「戦時中にこんな映画を作っている相手に勝てるわけないよね、「欲しがりません、勝つまでは」などと言わせて…。」と返したことを、本作を観ながら改めて強く感じた。 その『カサブランカ』の主題にも“真の誇り高さ”というものがあったと思うが、本作は、よりストレートにそれを訴えていた気がする。アメリカ映画ながら、'40年のダンケルクの戦いを素材にして、軍人のみならず民間人も立ち上がり、一致団結して国事に臨んでいる英国民の姿を見せたかったのだろう。紛れもない戦意高揚映画なのだが、そのうえで、前半で民間人の生活状況を丁寧に映し出し、無差別爆撃によって民間人に犠牲を強いる独軍の卑劣さと対照させるようにして、己が非と過ちを取り繕ったりしない“真の誇り高さ”を備えた英国民の姿を映し出していた。 由緒ある家柄のベルドン夫人(デイム・メイ・ウィッティ)の孫娘キャロル(テレサ・ライト)が、夫人の執心する薔薇の品評会への出品辞退をバラード駅長(ヘンリー・トラヴァース)に働き掛けるよう依頼するために、彼が育てた美しい薔薇にその名を付けたミニヴァー夫人のもとを訪れたことの非を指摘した息子ヴィンセント(リチャード・ネイ)に謝罪したり、彼女への指摘そのものを詫びる気はないが、言い方が悪かったとヴィンが謝罪するといった、紳士淑女としての姿が映し出されていた。だが、何と言ってもハイライトは、審査員の忖度によって例年通りの優勝を与えられる手筈をベルドン夫人が自ら覆して、バラード駅長に優勝の銀杯を授けて演説をぶつ場面だったように思う。「審査は公平に?」と前もって審査員たちに声をかけたうえで、自作の薔薇と駅長の出品した薔薇とを観比べて、駅長の薔薇のほうが優れていることを認め、「ベルドン家以外の優勝は初めてのことです。正直言って悔しいわ、初めての敗北だから。」と述べ「昔なら(出品した駅長の)首が飛んでいたわ、今ではそれもかないません。しかし私も相手が悪かったわ。彼は勇気ある男、私のタイプよ」とユーモアを添えて観衆の笑いを取り、「バラードさん、どこに? どこにいるの?」と呼び掛けて駅長を壇上に招いていた。ただ勝ちさえすればいいというものではない、美しい薔薇の育成に精進する者としての誇りに掛けて、審美を曲げることはできない、としていたベルドン夫人が印象深い。 空爆を受けていた当時のロンドン郊外で、かような薔薇の品評会が開催されていたのが史実によるものか否かは知らないが、その如何によらず、このエピソードを終盤のハイライト場面の一つとして設えてあることが重要だ。そこには、僕の愛好する西部劇などにも窺える、アメリカン・カルチャーが最も大事にしていたように感じる“誇り高さ”というものが鮮明に打ち出されていた気がする。翻って今や、それらが微塵も感じられない現アメリカ大統領とその支持者たちに、本当の意味でのMAGAを求めてほしいものだと改めて思った。 すると「これは優れた「銃後映画」だと思います。」とのコメントが寄せられたが、僕は、銃後うんぬんよりも、強者が持つべき誇りと覚悟をきちんと迷いとともに描いているところが気に入っている。「我々は決して屈しない」との司祭の言葉が序盤の開戦時と最後の戦災後の葬送場面で繰り返され、屋根に大きな穴の開いた教会の天井に反撃の航空隊が飛んでいくラストショットのなか、エンドクレジットとともにエルガーの♪威風堂々♪が流れる本作の持つ意味は、そこにあると感じている。 | |||||
| by ヤマ '26. 1.10. DVD観賞 | |||||
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