久我山昔話





  
ている。この時、久我山の字が整理されて、久我山1丁目~3丁 目となったんだ。 今の久我山1 ~ 5丁目に再編されたのは、昭和 44年(1969)のことだ。さらに、昭和 17年(1942)には岩崎通 信機久我山工場が稼働した。19 年には久我山中学校(現在の国学 院久我山高校)が開校して、久我山病院の前身の岩崎通信機付属病院も、この年に出来た。
  戦後は、昭和41 年(1966)に富士見ヶ丘検車区が出来たこと が一番大きな変化だったと思う。その後、今の久我山小学校のと ころにあった中島邸(中島飛行機)、台湾中央信託局の邸宅を区営公園にした。久我山小学校が出来たのは昭和53 年になる。ま た、昭和51 年(1976)には、中央高速道の高井戸インターチェ ンジが開通して、 昭和57年(1982)には高井戸の杉並清掃工場 が完成した。どれも、今では、そこにあるのが当たり前だけど、 これらは、この 50 年くらいの間に、久我山と、その生活を変え てきた新しいインフラなんだ。



〇この「久我山昔話」の最後のお話に、久我山に移り住んだ方が 「宝くじに、当たらないが、久我山に住んだのは、一生の大当た りだ。」 とうれし気に話していた。という一節があります。庄司 さんが久我山のよい点と思われるところは、どんなところです か?


(庄司)「関東大震災」(平成26 年9月 67)のところにも書いたが、あの大地震でも倒れた家はなかった。ということは、 ここ久我山は関東ローム層の地盤の強固なところなのではと思っている。また、「稗蔵」(平成26 年5月 63)の話は、昔から住民が助 け合って暮らしてきたことを示す、よい例だと思うけど、 今でも、そういう暮らしが残っていると思えるのが、久我山の良さかな。





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