久我山昔話




    
(庄司)「久箇山村」(平成21年8月 8)に書いた、(久我山稲荷 神社の西側にあった)光明寺の住職の供養碑と、住職のお墓、確か6基~7基を共同墓地に移したのが始まりかな。次に、「六地蔵 さま」(平成21 年5月 5)にも書いたが、久我山駅から北に向か う道が突き当りになっていたのを、道幅を広くして、西宮中学校 のほうへ通したときに、その丁字路に南見向きに並んでいた六地 蔵を共同墓地へ移したんだ。
  それから、この冊子の裏表紙にも掲載されている庚申塔だけ ど、ずっとあそこに無事にあったわけではないんだ。戦後の混乱 が落ち着きを取り戻し始めた、確か昭和23 年頃だったと思う
が、路傍に打ち捨てられたように横倒しとなってしまっていたこ ともあった。その後、昭和33 年頃にも、道路工事でまた倒さ
れ、それを見た心ある人が大切に安置するからということで、譲 り渡されてしまったんだ。つまり、一度はあの場所から消えてし まった。それに気づいた、当時宮前中学の先生が、いろいろと探 して歩いた結果、武蔵野郷土館にあるのを見つけて、事情を話し て返してもらえることになって、リヤカーで12kmの道を引い
て、元の場所に安置したんだ。



〇久我山の歴史は大きく捉えると、どういった順になるのです か?



(庄司)今の人見街道の、庚申塔から西を見ると、左も右も高い 土地を切り通して道を拓いたことがわかると思う。 つまり、それ より前は、右にいのかしらミち、左にふちゅうミちだった。現在の久我山駅の南側へと至る一直線の道路(久我山街道、現 人見 街道)が出来たのが昭和5年(1930)。 次に、井の頭線の開業が 昭和 8年になる。その前年、昭和7年には、久我山が属していた 豊多摩郡高井戸町と杉並・井荻・和田堀の4町で杉並区が発足し

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