久我山昔話





   
肥溜(こえだめ)
戦時中までは、竹やぶと畑が多い久我山だった。
久我山小学校から東原公園の周りは、麦・大根・陸稲などが、生産 されていたんだ。畑には、肥やしとして、人糞が使われていた。 便 所から汲み取った人糞を、畑の縁に、穴を掘り溜た。表面が乾くと、 土色になり溜めと気が付かず、遊びに夢中になった子供は、溜めに 落ちたもんだ。(小林忠和さん談)
「国鉄・乗車止」の答 (帰りの電車切符が買えなかった二人は改 札を潜って無賃乗車をした) (平成 30 年11 月 117)


サミットの敷地は
昭和 20 年ころの神田川の水面は、土手から 1mくらいで、鮒・ど じょうが良く見えたんだ。
久我山のサミットストアの敷地は、松林と畑だった。
炭置き場の小屋(羽田さんの所有)もあった。(平成23年11月 34)


鯰(なまず)
久我山の田んぼは、神田川に沿って、井の頭池まで続いておった。 井の頭線の富士見ヶ丘車両基地は、昭和40 年(1965)頃まで、田ん ぼだった。田植えのころ、田に水を張ると鯰が上ってきおった。 3歳鯰は 45cm・5歳鯰は 60cmにもなりおった。銛(もり)で突くと、 鯰は力が強く、子供3人掛かりでも、難儀したもぉんだ。(故小作 福寿さん 昭和 53 年9月27 日談より)(平成 24 年9月 44)








49