久我山昔話





    
久我山墓地の米兵遺体
昭和20年(1945)4月7日に墜落した米軍機の乗員は生存者1名で、 他は即死だった。遺体を久我山共有墓地に埋葬した。敗戦で米軍上 陸の知らせに、墓を土饅頭(どまんじゅう)にし、大工〔田中俊介さ ん〕の手で十字架を立てた。
昭和 20 年9月に米軍のMP がジープで来て、遺体の発屈をした。 町会長の大作俊太郎さんは通訳を通じて、墜落と埋葬の様子を伝 えた。
生存していた米兵は、久我山病院に戸板〔雨戸〕で運び、治療した が亡くなった。病院にカルテが残っていたので、MP は住民に好意 を持ったのだとさ。 (筆者は、小学校の帰り道に発掘の様子を見た) (平成21 年12 月 12)


久我山の軍需工場
昭和 20 年(1945)4月19 日、岩崎通信機(株)久我山工場は、米軍 による機銃掃射を受け4800名の社員中2名が死亡した。
飛行機の弾丸を避け、烏山分水〔玉川上水の分流〕の堀に飛び込ん だと清水操〔久我山 5-8〕さんは、話していた。(平成 24 年 5 月 40)


もく拾い
戦争は国民に物資不足を、我慢させる。 昭和 20 年前後は、衣類・ 食料は元より 酒・煙草も配給制になった。 道に落ちてる煙草の吸 い殻を拾ってほぐ し辞書の薄紙で巻いて吹かしていたんだ 今で は、ポイ捨ての吸い殻拾いを、火災 の面から安全部・清掃で環境 部が、久我山駅周辺でボランティア活動してる 平成も令和も、戦 争しない国、平和に~(令和元年5月 123)






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