久我山昔話








 人喰い川
承応2年(1653)に羽村から新宿四 谷迄開削した玉川上水 は、昭和
30 年代までゴウゴウと流れてた。
牟礼橋に水の流れが多いので、ど んどん橋の石碑が あり(P.15 参 照)、右 ふちう 左 えど、と彫られ ている。昭和 23 年の太宰治や 27 年の金田一若葉(京助の四女)の自殺が有った。人喰い川と言わ れ毎年 10~15 名 位の命が失な われていた。 兵庫橋(久我山 1 丁 目 11 番)の上流に水難者慰霊碑
があり、裏面には 「うれひなく さちかきりなき あめのくにに さ き そひいませ とはやすらかに」 と金田一京助書の碑文が有る。 (根府川石に明石亀太郎芸大講師が彫刻、石工庄司正利さんが施工 した)(平成 22 年4 月 16 と平成 27 年2 月 72、令和元年6 月 124 を編集)

久我山の四つの堰(せき)
井の頭公園から流れている神田川は、昔、神田上水と呼んでおった のじゃ。それはなぁ、江戸城内の用水じゃつたからじゃ。
昭和 30 年(1955)頃まで神田川に沿って田んぼが有り、稲作をし ておったのじゃ。
田に水を引き入れる為に堰(せき)が造られ、四つの堰(せき)の名 前が上流からお琴・大熊・赤土・紺屋(清水)と呼ばれておったのじ ゃ。いまは、もおぅ みんな無くなってしもおうた。 (平成22 年7 月 19)


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