倭武尊(ヤマトタケルノミコト)一行は、吉備津彦と別れて、次の目標である九州・熊襲(くまそ)の征伐に出発した。コビはヲワケの臣がどのようにして、誰と関東地方に行ったのかを知りたくて、一行と共にすることにした。
 吉備から高梁川に沿って下り、瀬戸内海まで至り、ここからは船で西へ向かう。大船団である。船は遠く難波や明石、淡路島の方からも調達された。すでにヤマト大王の名は絶大な権力を持っていた。
 長い船旅であった。
「熊襲って?どういう人たちなの?」
コビはヲワケの臣に聞いた。
「熊襲は、耶馬台国に徹底的に反抗した狗奴国の支配者集団の子孫です。今から百九十年ほど前に、熊襲が耶馬台国を滅ぼして、ほぼ九州全域を支配するようになり、海外との交易はせず、独自の支配を続けている野蛮人です」
「朝鮮半島とか、中国とかから渡来した人たちではないのですか?」
「熊襲は、もともと南方から渡来してきた人びとです。だから土着の倭人や朝鮮半島から渡来してきた人とは、文化や物の考え方がことごとく違っていて、争いは絶えなかったのです。そして土着の倭人を次々と滅ぼして勢力を伸ばしていきました」
「そういった九州の情勢をヤマト大王は知らなかったのですか?」
「まだ、百九十年前というと、ヤマト地方も整備が整っておらず、百済からの移住者で混乱していたからです」
「混乱?」
「混乱といっても戦争ではありません。どの地区に住むかという割り当てみたいなものです。渡来人は倭の国のかなり北の方まで移住していきましたが、土着の人々との争いを避けるよう集団化して村を作りました。しかし、特に集中して勢力を伸ばしたのが、新羅からの出雲地方、伽羅からの吉備地方、百済からのヤマト地方、中国からの北九州地方、南方からの南九州と分かれて、独自に整備されていったのです」
「じゃ、耶馬台国を滅ぼしたのは、ヤマト大王ではないのね」
「ヤマト大王ではありません。ヤマト地方を整備している間に熊襲が耶馬台国を滅ぼしたのです。それを知って、ヤマト大王は大層お怒りになり、倭の国を統一して平和な国にすることを誓われたのです」
「でも、もう百年以上経ちますね」
「はい、なかなか全国の統一までいきません。・・・わたしの祖先はヤマトに宮廷ができたときから大王に仕えています」
「ヲワケの臣の祖先はタカリのスクネどのですね」
「え?コビどのがどうしてそれを知っているのですか!」
「巫女ですから、そういう事は知ってるの」
と、コビは笑顔を見せながら言った。船は瀬戸内海の小島の間をぬうように走っている。
「タカリのスクネのご子息はテヨカリワケでしょう。ヲワケさまの父上はカサヒヨさまですね。済大王や讃大王に仕えたことも知ってるわ。タカリのスクネどのより以前の上祖は分かっているの?」
「わたしたちは家系を非常に重んじます。七代にわたって記録していますが、それ以前は大王に仕えている者ではなかったため、記録はありません。そのため最初の祖は一般にオホヒコとするのが習わしです。・・・あなたは不思議な人です。葦原中津国の斐川宮殿でコビどのに助けられた時から、ただの巫女とは思えなかったのです。ヤマトの国の人ではないし、いったいコビどのは・・・」
「いいのよ、そういう心配をしなくて。わたしはヲワケさまに会いたくて遠くからやって来たの。もう少し一緒に旅をしましょう。わたしが何かの役に立つ事もあると思うわ」
 二人が甲板の上で語り合っているのを見ていたスガルノオミは、話が途切れたのをきっかけに二人に近付いてきた。
「おー、スガルノオミどの。戦闘、戦闘でゆっくり話もできなかったのー。今もコビどのに感謝していたのだが、葦原中津国では貴殿には世話になった。コビどのと二人で斐川宮殿に乗り込んでくるとは思いもよらなかった」
「いや、コビどのの活躍がなかったら、貴殿の救出は叶わなかっただろう。それにしてもコビどのの呪術は凄い。今までに見たことも聞いたこともない術だ」
「その話はもういいわ。それより、ヲワケ様とスガルノオミ様は以前から知り合いなのですか?」
「知り合いどころではありません。幼なじみです。一緒に遊び、喧嘩をし、勉強し、武術に励んだ仲です。わたしは常にヲワケどのが目標でした」
「いやいや何の。わたしこそスガルノオミどのが目標で、ここまでやれてこれたのだ」
「兄弟みたいね」
「むしろ兄弟では、こうはいかなかったでしょう。兄弟では、弟が兄をしのいで、兄の存在が薄くなるという例はよくあること。わたしたちはいつも切磋琢磨し合って、勉強も一緒にしました」
と、スガルノオミが懐かしそうに揺れる船上から真っ青な空を仰いで言った。
「スガルノオミ様は論語も分かると、ミコトが仰せでしたね」
「いやいや、わたしよりヲワケどのの方が優れています。遠征が長い分だけヲワケどのより遅れを取ったのではないか」
笑いながら言った。
「コビどのは?どこで?」
と、ヲワケの臣が遠慮がちに、しかも真相を知りたそうに聞いた。
「私は父から。それも門前の小僧習わぬ経を読むですわ」
「なに、それ?」
「なんですか?」
ヲワケの臣とスガルノオミは殆ど同時に目を丸くして聞いた。
<ああ、まだ小僧とか、経など無い時代なんだ>、コビはいささか照れくさくなって頬がほてるのを感じた。仏像などが徐々に倭国にももたらされてきてはいたが、まだお経を読むなどの仏教信仰はなかった時代である。
「いえ、そのー。・・・大したことではありません・・・」
「ぜひ、コビどのに論語を教えてもらいましょう。のー、ヲワケどの」
「いかにも。われわれが習ったのは、王仁(ワニ)の子弟フミノオミからです。・・・コビどの!漢字を教えてください!」
「・・・漢字は何個ほど知っているのですか?」
「わたしは一千文字は書けるようになった」
と、ヲワケの臣が先に口をきった。。
「わたしはそんなに書けません。五百か六百でしょう」
スガルノオミは謙遜しているのか、ずっと少なめに言った。
「書物があれば読むことによって漢字は覚えていくのですが・・・」
「書物?書物って何ですか?」
と、ヲワケの臣が好奇心いっぱいの面持ちで聞いた。
「大王や中国の皇帝に献上するフミは知っていますね。それを多数集めて分厚い一冊にしたようなものです。中国にはすでに多くの書物があります。倭が国ももう少しすれば、そう、あと百年もすれば、昔から言い伝えられている伝承を一つにまとめて書物にするようになるでしょう。そのためには漢字を知らなければなりません。そのため、今後ますます渡来人の奪い合いが始まるでしょう」
「・・・」
「ごめんなさい、奪い合いなんて。つまり漢字を知っている渡来人は優遇され、漢字を覚えた人が倭が国を背負っていくのです」
「教えてください」
「教えてください!」
二人同時にコビの手をとって嘆願した。
 コビは例の呪術用バッグの中からメモ用紙とボールペンを取出し、論語の一節
【後生可畏】
と書いた。
「ああ、知ってます!こうせい、おそるべし」
と、嬉しそうにスガルノオミが言った。
「私も習いました。若い人は努力すれば、その進歩向上はおそるべきものがある、という意味です。・・・そのフデは何ですか!」
 ヲワケの驚きはコビの持っている紙とボールペンに集中した。当時は紙はまだ倭国内では作られておらず、もっぱら木片に墨で字を書いていたから、驚くのも無理はない。ボールペンも然りだ。
「ああ、これは遠い国から持ってきたもので、もうこれだけしかないので、大切に使わないといけません。これは紙と言います。これはボールペン」
「作り方を教えてください!」
二人同時に言った。
「ここでは作れないのです。いずれ百済から作り方が伝わるでしょう」
そう言いながらコビは再びメモ用紙に
【有朋自遠方来、不亦楽乎】
と書いた。有名な部分だ。
「知ってます。ともあり、えんぽうよりきたる、またたのしからずや」
ヲワケの臣が言った。
 コビはあることに気が付いた。それは、この頃すでに中国語ではなく、日本読みをしていることである。中国の漢文も日本独特の発音になっていることに感動した。この発音から徐々に、この時代から五百年ほど経って日本独自の平仮名文字ができることになるのだ。コビは嬉しくなって、更に知っている孟子の漢文を書いてみた。
【以五十歩笑百歩則如何】
 今度はスガルノオミが答えた。
「五十歩をもって百歩を笑わば、すなわちいかんとす」
 コビは知っている限りの漢文を書いて見たが、すべて二人は知っていた。一千文字くらいしか知らないと言ったが、少なくとも中学生コビの知っている漢文はすべて理解している。
「あの兵士の皆んなも漢字を知っているのですか?」
「いえ、漢字を勉強できるのは大王に仕えている一部の者だけで、指揮官でも読める人は少ないです。書けるとなると、もっと少なくなります」
と言ったあと、ヲワケの臣はボールペンをぎこちない手つきで持って、自分の名前
【乎獲居臣】
と白い紙に書いて喜んだ。
 スガルノオミも「わたしにも」といって、
【須軽臣】
と書くと、子供のように喜んだ。
 コビはメモ用紙を半分づつに分け、またボールペンとシャープペンをそれぞれ二人に与えた。そして、知らない漢字を教えても必ずしも通じるとは限らないので、漢字はむやみに教えるよりは、むしろ逆にどういう漢字を彼らは知っているのかを教わることにした。
 千五百年以上も前なのに、現代と同じ音で、同じ意味がいくつもあるのを知って興奮した。たとえば女の人とくに高貴な女性を「ヒメ」といい、漢字は「比弥」であった。男の人の「彦」や彦根城の「ヒコ」は「比跪」または「比古」であり、昔は「卑呼」とか「卑狗」と書いていたことがあるとのことだ。こどもの「コ」は「児」である。また「首長」は「オサ」と読むことを教わったが、現在でも「長」は「オサ」とも読む。
 こうして瀬戸内海の船旅は戦争に行くとは考えられない平和なひとときであった。
 
 途中海賊らしい一団が見えたが、ヤマトの大軍であることを知ると、島蔭に隠れてしまい、争いにもならなかった。また沿岸の人々の歓迎は大変なもので、ヤマト軍への信頼は絶大なものであった。食料だけでなく、剣、弓矢など武器の献上も多数に及んだ。
 夜は沿岸の入江に船を休め、兵士は船内で寝食したが、ヤマトタケルノミコトやヲワケの臣、スガルノオミ、そして他の指揮官などは豪族の館で厚いもてなしを受けた。
 一行は二夜で、備後灘から安芸灘、伊予灘、周防灘を走り、九州に上陸。陸行では二千の大軍を率いてこうはいかない。瀬戸内海の引き潮の流れに乗ると船は早い。
 コビの地理感では、今の福岡県と大分県の県境の中津の山国川に船団は入っていった。中津にはヤマト王に従属している豪族、中津彦が城を構えている。その夜はそこで一息入れた。中津彦は熊襲(くまそ)の中心が球磨にあること、そしてヤマト軍と対決するため、すでに熊襲軍は阿襲(あそ、のちの阿蘇)に向かっていることなどを地図を広げて説明した。
 地図といっても当時の地形はまるで九州とは似ても似つかぬ瓢箪型で、瓢箪の窪みの左側に球磨と菊池(現在の熊本県にある)が殆どくっついて書いてある。瓢箪の右側が、ヤマト軍の入った中津である。瓢箪の口の部分に末櫨国とか、伊都国、不弥国と書いてある。コビはおかしくなって吹き出しそうになったが、笑うわけにもいかない。
 
 そういえば以前、父に1450年頃のポルトガル人の描いた日本地図を見せてもらったことがあったが、日本には北海道がなかった。
 
九州はサツマイモのようで、四国は小さく、朝鮮半島は細長い半島で、その先っちょは現在の五島列島の近くまで伸びていた。たったの500年、600年ほど前の地図でもそうなんだから、今は1500年前のヤマトタケルノミコトのいる時代だ、とても地図なんて出来なかっただろうし、あっても瓢箪型の、しかもこれがきわめて貴重なものだったに違いない。
コビは正確な地形を描いてあげようかとも考えたが、それはむしろ混乱を招くだけだと思ったのでやめにした。というのは、彼らには距離と時間の関連が掴めないからだ。つまり比較的往来の多い場所は短い道程として書くし、未知の場所は遠く描く。瓢箪型九州の地図を信じている彼らに、正しい地形を教えても何にもならないだろう。
 更にコビは<邪馬台国はどこにあったか>という論争を思い出した。文献派と考古学派に分かれて論争していたが、文献というのは「魏志倭人伝」くらいでしょう。この中には倭国への道程や邪馬台国の位置が記述されているが、それをそのまま信じて現代の“精確な”日本地図に当てはめて考えている愚かさだった。<九州は太平洋上にあることになる>とか、笑ってしまった事がある。
 当時の地理概念と現代の静止衛星からの超精密距離測定技術には雲泥の差がある事を考えるべきなのに。
 
 作戦会議とも言える話を聞いていると、どうやら中津から山国川に沿って道があり、それを行くと阿蘇に到達すると考えているようだった。実際には現在の日田市から大山川に沿って、今度は南下しなければならないが、彼らにそういうことが分かるはずがない。というより、話全体が、すでに阿蘇に行けるとしているわけである。
 
 翌日、ヤマトの二千の軍勢が、その阿蘇に向かって進んだ。二千という軍勢は決して多い数ではない。しかし、すでに各地の豪族はほとんどヤマト王に従うことを誓っており、場合によってはその豪族たちの抱えている軍が加勢してくれる。それほど熊襲は九州全域にわたって悪名高い支配者だったのである。
 ヤマトタケルノミコトは進軍中、名もない土地にいくつかの名前をつけていった。たとえば、山国川沿いに美しい渓谷があるが、これを大和の渓谷と名付けた。のちの耶馬渓(ヤマケイ)である。またそこから千メートルクラスの山々がいくつも見えるが、最も高くひときわ美しい山に、中津彦から彦を取って、彦山と言った。のちの英彦山である。
 一行はそのいくつかの山を越え、現在の日田盆地に出てきた。この日田も日いづる田というところからヤマトタケルノミコトが付けた土地名と言われている。
 中津彦の先導で、ここからは大山川に沿って南下し、さらに杖立川を上流へと進み、阿蘇山に向かう。大観峠を越えれば阿蘇である。
 
・・・この頃、すでに熊襲の大軍は阿蘇に到達していた。熊本平野をうるおす流れ、白川に沿って上り、戸下から黒川に沿い北上し、ヤマト軍を迎え打つために続々と集結していた。じつに三千の大軍である。
「カワカミノタケル首長どの!申しあげます!ヤマトの軍はたったの五百との報告にございます」
「五百だと!たったの五百でわが軍を攻めようというのか!バカめ。一人もヤマトには帰れないようにしてやる!」
 二千を五百くらいに過小報告するなど、なかなかのものだ。しかし、兵士の士気を高めるには戦争にあっては常識的なことである。
「ヤマト軍は大観峠に集結しているようです」
「そうか、わが軍は二手に分かれる。二千は黒川側から、あとの一千は今夜中に一の宮側に行かせよ。挟み打ちにして皆殺しにしてやる!」
 熊襲の首長はカワカミノタケルという狗奴国の王、菊池彦の子孫である。耶馬台国を滅ぼしたあと、狗奴国は百五十年にわたって、わが者顔で北九州をはじめ九州全域で暴れ回り、隼人(はやと)として恐れられた。しかし、熊襲の先祖は南方系の人々であったため、朝鮮半島や中国との交易をしなかったのが結果的には命取りになってきた。じっと我慢の子であったヤマト勢力が九州に及び始めて、徐々に熊襲の勢力は衰え始めていた。しかし、いまや三千の軍勢でヤマト軍を迎え打つというから、まだその力は強大である。
「三千と五百か!わしの相手ではない!早うヤマトタケルノミコトの首を見たいものじゃ!今夜は明日の凱旋に備えて祝宴じゃ!酒だ、女だ!女を呼べ!ありったけの女を集めるのじゃ!」
 
 あっという間に、村々にその命令は伝わり、若い女性が次々に連れ出された。大観峠で待機しているヤマトタケルノミコトのところにも、この話は偵察隊によって直ちに報告された。
「タケル大王どの!攻めるのは今です。熊襲の首長は祝宴を上げようと女を村々から連れ出しているそうです」
「このごに及んで何を考えているのか!熊襲の鬼め!ヤマトをなめるとどういう事になるか思い知らせてやる!」
「ヤマトタケルノミコトさま。私に行かせてください!」
コビが名乗り出た。
「コビどの!コビどのまで何を言い出すのですか!」
「いえ、本気です。私は女、何の疑いもなく熊襲の首長に接近できます。私に考えがあるのです」
「・・・」
 コビには妙案があった。何とかして熊襲の首長に接近して、酒の酌をする。そして目と目が合った瞬間にワープして現代に連れてくるのだ。そして暴れ回れば警察に捕まえてもらう。そうすれば、阿蘇では首長がいなくなったということで大混乱し、戦争も停戦になろう。話し合いになれば、道も開けるだろう。首長はいずれ助け出し、タケル大王に引き合わせ、殺し合いだけはしないよう頼む。そういったシナリオがコビの脳裏にあったのだ。
「お願い!私に行かせて!」
コビは嘆願するように、もう一度タケル大王に膝まづいて言った。
「・・・わたしも行こう」
「え?タケル大王が?」
側近の一人が目を丸くして言った。
「そうだ。わたしは女装する。そしてコビどのと二人で乗り込む。コビどのを一人で行かせるわけにはいかない」
「・・・」
 今度はコビが息を呑んだ。<せっかく一人で行くからワープして熊襲の首長を連れ出せるのに、あなたまで来られては・・
躊躇したが、<ま、いいか。なんとか切り抜けよう>、コビはそう決めた。
「それでは、そうしましょう。二人で敵陣に乗り込みましょう!」
「コビどの!心配でございます!」
ヲワケの臣が間髪を入れず叫ぶように言った。
「ヲワケさま、いいのよ、心配しなくて。タケル大王が守ってくださるわ」
「その通りだ、ヲワケの臣よ。わしには考えがある。・・・祝宴が終わる今夜半までには必ず戻ってくる。もし万一、明日、夜明けまでに戻って来ない場合は、総攻撃して来い。コビどのを守って必ず身を隠して、ヲワケの臣、スガルノオミ、そなた達の来るのを待っておるぞ」
「なにとぞ、ご無事で!」
スガルノオミはいささか興奮して、涙さえ浮かべて言った。
「ヤマト大王どの。女装するには髪型を変えなければなりません」
中津彦が大王の前に進み出て言った。
「そうか・・・どのようにするのだ。コビどのは?」
「コビさまも髪が長いですが、それは巫女の髪型ですから、村の娘にはなれません」
 そう言って、中津彦はすぐ二人の髪型を変える準備に入った。熊襲は男も女も同じように髪を側髪も後髪も一緒にして頭のてっぺんで結んで後に流している。これは倭人とくに豪族や貴人の結い方である美豆羅(みずら)とは全く異なる。
 熊襲の人々、あるいはそれに従っている南方系の人たちは美豆羅はしない。そういえばコビは阿蘇に来るまでの道すがら、村人の髪型が今まで見た出雲や吉備地方とは違うことに気が付いていた。とくに大人は男も女も同じ髪型であり、着ている服装によって見分けるしかないようだった。着物は袴ではなく、うちぎという長い単衣の着物である。
 二人は、兵士が近くの村人から拝借いや事実上は奪取してきたのかも知れない女性用着物を着た。
 ヤマトタケルノミコトは細面(ほそおもて)の美男子で、女装はよく似合う。しゃべらなければまず男とは思えないくらいである。
 コビはクスクス笑ったが、本人は超真面目である。
 こうして二人はすっかり村の娘になりきってヤマト軍から抜け出た。
 
・・・宴会をするという場所まできた。大勢の熊襲の家来たちが準備をしている。女たちも十人はいる。不安そうに立ちすくんでいる。周りに垂れ幕を吊しただけの首長の本陣である。
「ここで宴会をするの?」
コビはそっとタケル大王に聞いた。
「館があるのかと思ったが、そうではない、ここだ!首長の本陣なのだ!」
「だれが首長なんでしょう」
「わからない。そのうち確かめよう。コビどの、わたしから離れないように」
 そういって、二人は女たちが立ちすくんでいるところにそっとやってきた。あとは待つしかない。
 やがて夕暮も押し迫り、松明(たいまつ)が灯され、準備がすっかり整うと、どこからともなく、いかにも大将という風格の男が十人ほどの家来に守られるようにしてやってきた。それぞれの場所に座ると、女たちも酌をするよう配属された。コビとタケル大王は離れないようにとしていたが、そうもいかなかった。横並びに家来を三人挟んで座ることになった。
「明日は、ヤマトの鼻高をへし折るのだ!その前祝いに今夜は大いに飲め!」
「おー!カワカミノタケル首長!この世で最も強いお方、それはカワカミノタケルどの!」
 臨席した家来二十人ほどの全員が口を揃えて言った。
「そうだ!わしが最も強い男!だからタケルの名がある。ヤマトタケルノミコトだと!あれはタケルではない!クソタケだ!」
「おー」
<何をほざくか!>、ヤマトタケルノミコトはこぶしを握りしめ、いまにも飛びかからんばかりに怒った。
<あれが熊襲の首長か>、コビはまざまざと顔を見た。髭をはやし、毛深い手足、胸毛も濃い。顔は大きく、あだ名を付けるとしたら、まさに熊だ。それと比べると女装のタケル大王の美しいこと、どこから見てもヒ弱い女性だ。
・・・しかし戦争はいけない。多くの兵士が死んでいく。殺し合いをさせてはいけない!コビは何とか首長のそばに行って、じかに酌をしたかった。
 ふと横を見ると、家来の一人が女装タケル大王に何やら話かけている。<いけない!バレる!>、コビはとっさに、
「さ、どうぞ、どんどん飲んで下さい。カワカミノタケルどのに代わって!」
と、強い酒なのだろう、アルコールがプンプン匂う壷を、その家来の椀に注いだ。壷も椀も土器であるが、どこで手に入れたものか、ウワぐすりを使用したものだ。
 思いっきり、今流で言う色目を使って注意を引き付けた。
 ・・・酒宴も進み、皆んなかなり酔ってきたようだ。この垂れ幕の外でも兵士達が騒いでいる。飲んでいるようだ。
 隣の家来がしつこくコビに絡んでいる。手を腰にやったり、肩にかけたりしつこい。コビは、そのたびに酒でうまくかわしていたが、ついに見かねたヤマトタケルノミコトがそばに行って、その家来の腕を捻り上げた。物凄い力である。
「いててて、こやつ、何をしやがる!」
 一斉に皆んなの視線が集まった。
<しまった、ここで喧嘩にでもなれば、一辺に男であることがバレでしまうじゃないの!>、コビは二人の間によろけるように入り込んだ。そしてタケル大王の耳元でささやいた。
「だめよ!もう少しの辛抱よ!」
「もう我慢ならん!行くぞ!」
 見ると、着物の中に剣を隠し持っていた。ツカに手をやっている。<ダメ、殺し合いは!>、
 コビはさっと立ち上がって、壷を叩きながら踊り始めた。もう夢中だった。知っている唄も歌いながら必死で踊った。着物の裾がはだけて、足や胸があらわに出る。小さな乳房が篝火に揺れる。そんな事はどうでもよかった。必死で踊り続けた。カワカミノタケルも家来達も大喜びである。こんな踊りは今までに見たこともない。ディスコとストリップの踊りを一緒にしたようなものだ。家来達は手を叩き、壷を叩き、喜び騒いだ。
 コビは踊りながら、徐々に首長のそばに寄って行った。何とか目と目が合わないか、合えば色目でも使ってどこかに連れ出す。ここでワープすれば、何人も現代に連れて行くことになる。場合によっては、それも止むを得ない。コビは色々の事を頭の中で模索しながら、無我夢中で踊り続けた。
 と、その時だ!。女装したヤマトタケルノミコトが、たったったっと着物の中に手を突っ込んだまま、首長に近付いた。
「だめっ!」
 コビは叫んだが、遅かった。剣を抜くが早いか、
「やーっ」
と、一刀のもとにカワカミノタケルの首をはねた。首は宙を舞い、血を吹き出しながら、地面にゴロンと転がり落ちた。
「きゃーっ」
 コビは目をおおった。凄まじい光景だ。憎悪が起こす殺戮。人間ってどうしてこうなんだ!コビは一瞬、マリ・アントワネットがギロチンで首を落とされたという話を聞いたとき嘔吐したのを思い出した。小学校六年の時だ。しかし、いまやコビは強くなっていた。
 見ると、ヤマトタケルノミコトは酔っぱらってふらふらしながら逃げまどう家来達を次々に切り付け、倒していた。側近や指揮官など、ほとんどは殺してしまっただろう。
「もうやめて!逃げましょう!何百という兵がいるのよ!」
「よしっ!コビどの、よくやってくれた!」
「よくやったじゃないわよ!」
 コビは泣きたい気持ちだった。何のために恥ずかしい踊りをしたのか!何にも分かっちゃいない!
 二人は手を取って脱兎のように駆け出した。垂れ幕の中の出来事を知った兵士は何人もいたが、すでに泥酔状態である外の兵士達には、駆け出した二人が敵であるなどの判断力はもうなかった。あっという間に二人は闇の中に消えて行った。
 
・・・次の日、戦いはなかった。首長と幹部指揮官を失った熊襲軍に、ヤマト軍を相手に戦う士気はもはやなかった。
 かくして、ヤマト大王に最後まで抵抗した九州の熊襲は、ヤマトタケルノミコトとコビによって征服された。このコビと女装したヤマトタケルノミコトが熊襲を討った場所は乙姫と名付けられ、後世まで語りつがれることになった。現在も阿蘇に地名として残っている。
 敵の兵士達は分断され、ヤマト軍に併合された。ヤマトから来た兵士の何人かはそのまま残り、監視役に当たることになった。そのため後の事であるが、地名に故郷のヤマトや河内(カワチ)と同じものが付けられた。大津、加瀬、垂玉などそうである。
 
 スガルノオミは百人ほどの家来達と共に、ヤマトタケルノミコトから菊池川流域の支配を命ぜられ、この地に留まることになった。・・・・
「そちに、このヤマト大王の紋が刻まれた神剣を授けよう。これがわたしの証しである。これによって平和で豊かな土地を築くことができる」
「ははー、有り難き幸せ!」
 スガルノオミはミコトから神剣を授かった。ずしりと重い鉄剣である。戦いには使用しない神剣で、いわゆるヤマト大王の象徴である。手渡すとミコトはさっと馬に乗り、整列したヤマトの軍を見渡した。
 スガルノオミはコビに別れを惜しんだ。
「・・・コビどの、コビどのとはヤマトを出発した時から、ずっと一緒に旅をしてきました。ヤマタノオロチを退治し、斐川ではヲワケどのを救出し、そして吉備、阿蘇と長い旅でした。わたしは、この地、菊池が生涯を捧げる地となるでしょう。二度とコビどのとはお目にかかれないかも知れません。・・・いつまでもお元気で、ワカタケル大王に仕えて下さい」
「スガルノオミさま!」
 コビは巫女ではなく、一人の少女となって大粒の涙を流した。
「ヲワケの臣どの、そなたもコビどのをお守りし、大王にお仕えし、ヤマトの繁栄を共に築いてください」
「そなたこそ、身体には十分留意し、末永い活躍を祈る。・・・船旅で、コビどのと三人で交わした友情は生涯忘れぬぞ」
 ヲワケの臣は涙こそ見せなかったが、込み上げる熱い感情を抑えるのが精一杯であった。
「いかにも、忘れぬものぞ。文字によって自分の意志を書き記す喜びを教えてくれたはコビどのであった。・・・コビどの、心から感謝したい。コビどのとヲワケどののことは生涯忘れない。・・・」
 三人は手を取り合って別れを惜しんだ。ヤマトタケルノミコトは馬にまたがり、じっと見つめていたが、やがて力強い声で出発の合図をした。
「ヤマトに凱旋だ!出発!」
 阿蘇に来る時は、兵は約二千であったが、帰りは約一千になっていた。これは戦いによって失ったのではない。この地方の豪族にとって代わり、一層の平定をするために居留したためである。ある者は自ら、そしてある者はミコトの命令によって、この地に残った。
・・・スガルノオミは、のちに、ミコトから授かった鉄剣に文字を彫り、銀で文字溝を埋めて象眼した。これを自分の死後、墓に一緒に埋めるよう遺言を残したのであったが、1500年以上経ったある日、菊池川流域の江田船山古墳から発掘されることになる。
 さらに202512日この古墳の近くからスガルノオミに仕えていた最高権力を有する豪族の石棺が発見された。