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コビは川のほとりに立っていた。<どこだろう、市野川かな、いやサキタマ古墳に来たのだから荒川かも知れない。でもそれにしてはこの川は荒川ほど広くない>、コビはとにかくヲワケの臣に会いたくてワープしたことを思い出した。周りは水田が開けていて、布をまとっただけの貧しい身なりの農民がそこここで草取りをしている。遠くには農家らしい草葺き屋根の家と耶馬台国に行ったとき見た竪穴式住居が散在している。草葺き屋根の方は農家を取り仕切る、のちの庄屋に発展する身分の家だろう。コビはぬかるみに足を取られそうになりながら、畔道を下りていき、農民の一人に聞いてみた。
「すみません。ここはどこですか?この川は何という名前ですか?」
さっきから、こちらを見ておどおどしていた様子だったが、いよいよコビが近付いてくるにおよび、一層体を震わせながら、畔道に躍り出て地面に顔を押しつけて土下座をした。恐らく衣服や髪型が全く違うし、高貴な人物だと思ったのだろう。コビはすぐさとったので、落ち着いて言った。
「何も危害を加えるわけではありません。ここはどこかと聞いているのです。」
「ははー、三輪の国でございます。一度たりとも大王に逆らってはおりません。こうして働いております。なにとぞ命だけはお助けください」
まだ結構若々しい声なのに、手や顔は、四十過ぎいやそれ以上に年老いて見える。
「そこの川は何という名前ですか?」
「ははー、大和川でございます。なにとぞ命だけはお助けください。」
三輪、大和川。ここは奈良県なんだ。コビはすぐ都のある場所であることがわかった。その時、狭い道を数人の家来を連れて、若武者が先頭で馬に乗って突進してきた。
「誰ですか、あれは」
「ははー、小碓尊(おうすのみこと)でございます。逆らってはおりません。命だけはお助けください」
なおも農民は土下座をしたまま、震えながら答えた。
「私は大丈夫よ。オウスノミコト?」
「はい。興大王の皇子でございます。狩りに出掛けるところでございます。道に出ておりますと一太刀で殺されます。なにとぞ、私めはここで・・・」
土下座をしたまま動こうとはしない。怯えきっている。他の農民も、コビに気が付いたのか、畔道に出てピタッと頭を地面に付けて土下座をしている。よほどコビのことを大王の使いで、何かを探ろうとしているように思ったのだろう。
やがて、その一団は凄い勢いで通り過ぎたが、二、三百メートルも行って、すぐ引き返してきた。コビ達を見付けて大声で怒鳴った。
「そこの見慣れぬ服装の童女、何をいたしておる。ここにまいれ!」
「殺される!私めはここで・・・」
がたがた震えながら農夫はコビにすがるように言った。
「そんなに小碓尊は人殺しを平気でするのですか」
「・・・」
「答えてちょうだい!」
コビは少し強い調子で言った。
「は、はい。ご幼少の頃から荒っぽい性格で。・・・」
口を閉ざしてしゃべらなくなった。
「どういうことをしたの?正直に答えないと、あなたも!」
と、コビは更に強い口調と、片足でドンと地面を叩いて言った。
「は、はい・・・大王に、・・逆らった役人を、・・馬で、・・市中を引き回して、・・体をづたづたにしたのち、・・穴を掘って、・・首まで生き埋めにして、・・殺しました・・なにとぞ命だけはお助けください」
「わかったわ。とにかくあなたは大丈夫よ。仕事を続けていいわよ」
コビはなおも呼び続けている土手の方に目をやって落ち着いて言った。お百姓がこんなに怯えるなんて、よほどあの小碓尊やらは怖くて、嫌われているんだ。
覚悟を決めて、畔道を昇って行った。さっと数人がコビを取り巻いた。いつでもワープできる体勢にした。
「見慣れぬ童女じゃ。どこから来た!」
これが小碓尊か。随分生意気な若蔵だ。歳は十五、六か、身なりは立派な大人だが、どことなく幼い感じもする。顔立ちの良い細おもてで、女装すれば似合うような美男子であるが、態度がでかいのが気に入らない。髪型は例の美豆羅(みずら)である。両耳のところで長い髪を結んでいる。服装は家来は小袖を羽織っただけの粗末な足姿であるが、小碓尊は水干を羽織り、靴も他の足袋のようなものとは全く異なる物射沓と呼ばれる立派なものである。一目で狩装束であるのが分かる。戦闘用の服着ではない。
コビは何と答えようかと考えたが、とっさに答えられないで、たじろっていたら、いきなり腰の剣をサッと抜いた。いけない!殺される!、コビはさっきの百姓の怯えていたのがよく分かった。パッとワープした。
数人の家来と一緒に小碓尊も、瞬間に稲荷山古墳の隣の麻美が休んでいる丸墓山古墳の頂上に現われた。
<しまった!麻美だ。麻美を巻き添えにしてはいけない!>
「麻美、こちらに来て!」
コビは叫んだ。麻美は一瞬何事が起きたのか分からなかったが、数人の見たこともない、いや教科書などで見たことのある古代人そっくりの男達が辺りをきょろきょろと見渡して何やらぶつぶつ言っている。その中の一人は手に剣を持っている。麻美はさっとコビのそばに掛け寄った。
「何?この人たち!」
「説明しているひまないの!一緒に来て!」
コビは言うが早いか、もう一回ワープした。さっきの土手の上である。コビは麻美を後手にかばいながら、彼らから離れた。
「な、なんだ!今のは!そは何者じゃ!」
今度は本当に切り掛かるように剣を大きく振りかざした。コビはまたワープした。さっきの丸墓山古墳の頂上だ。なおも麻美の手を引いて後ずさりしながら言った。
「遠い国から来た神である!無礼を働くと容赦せぬぞ!」
コビは威嚇するような手振りで右手をさっと胸の所に置いて言った。
ほんの一、二分の間に、全く同じ服を着た二人の少女が目の前に現われ、辺りは見たこともない場所だ。家来達は驚きおののいた。遠くをきょろきょろ見渡している。
「私を見なさい!」
そう叫んで、全員が自分を見た瞬間にまたワープした。一人でも現代に置いてきぼりにしたら大変だ。
再び大和川の土手の上に全員が現われた。
「こ、これはどういうことじゃ!」
小碓尊は大きく剣を振りかざしたまま、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてコビと麻美を見比べた。
コビは自分だけなら何とかなるが、麻美を一五〇〇年前の時空にさ迷う事にでもしたら大変なので、一刻も早くこの場から二人だけでワープしたかった。
そうだ!鏡だ。耶馬台国の卑弥呼を助けた時の事を思い出した。あれに限る。剣より強いはずだ。メモノートや筆記用具、身分証明書、それにさきたま資料館で買ったばかりのガイドブックなどを入れて持っていたバッグから手鏡を取り出した。真っ正面に太陽がある。いきなり小碓尊の顔面に向けて照射した。至近距離からやられたのだから堪らない。目がくらっとして見えなくなってしまった小碓尊はワーッと言って剣を放り出し、顔を押さえて地面に座り込んでしまった。
「麻美、鏡持ってない?」
「持ってるわよ」
「家来にも浴びせよう!」
何がどうなっているのか、検討もつかないが、麻美も言われるまま、鏡を取出し、古代人に光を浴びせた。麻美の方が鏡が大きい。強烈な眩しさだ。次々と家来たちも地に伏せて目をおおった。
いまだ!コビは麻美を抱えてさっとワープした。
「コビ、今の何?」
もとの丸墓山古墳の頂上に現われた麻美は、辺りを見渡して誰もいないので、きょとんとして言った。
「夢を見ていたのよ。大丈夫よ。麻美」
コビはもう少しのところで、麻美を大事件に巻き込みそうになったことを反省した。
「疲れているのよ、もう少し休んでから、おいで。先に稲荷山古墳に行ってるわよ」
「うん、先に行ってて。私、頭がくらくらする」
コビは石段を下りて、草むらの陰から再びワープした。
小碓尊をはじめ数人の家来は顔をおおって、地面に伏せている。どうやら降参した様子である。
「剣を収めなさい」
どうだ、参ったかと言わんばかりに勝ち誇って、コビは一層威厳を持って言った。
「私はコビ。神の使いとして、この地にやってきました。もう手荒な真似はしないと誓いなさい」
「わかった。コビどの。ぜひ我が宮に来て話を聞きたい」
小碓尊はコビのことを、見たことのない服装と髪型で、何やら未知の呪術を使う只者ではないことを悟って素直に従うようになった。
コビは宮廷に行く前に狩りを見たいと小碓尊に頼んだ。小碓尊は喜んで承知し、コビを馬に乗せて走った。当時の乗馬には鞍がない。コビは小碓尊にうしろから抱えられるように乗っているが初めてだったので少々恐かった。しかし遊園地のジェットコースターに乗ってキャーキャー騒ぐようなわけにはいかず、必死でたてがみを握って耐えた。
当時の乗馬は王やその一族、高官、指揮官等に限られ、また馬の数そのものもそう多くはなかった。もともと日本には馬はいなかったのだが、モンゴルの騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本、もちろん当時は倭の国であるが、弥生時代後期に移住してきた際に馬も導入されたとされている。
小碓尊はのちの倭武尊(ヤマトタケルノミコト)であり、さらに時を経て武王(ワカタケル大王/雄略天皇)と名告り、日本を統治する天皇となるが、この系列である讃大王(仁徳天皇)、珍大王(反正天皇)の先祖は中国後漢時代には鮮卑(せんぴ)と称されていたモンゴル騎馬民族直系の有力者だったのである。三世紀、四世紀には北九州圏、出雲地方、近畿圏と三大勢力があったので、百済系の騎馬民族は先人達の渡来経路を辿って、この近畿地方に移住して勢力を伸ばしていった。
ちなみに出雲地方の豪族は新羅から対馬海流に乗って渡来した人達で結束していた。
小碓尊の馬さばきは荒っぽかった。コビは今にも振り落とされんばかりであった。野原では兎を、そして山中では鹿を追い、狩りをした。狩りといっても獲物を取ってくるのではなく、ただ弓矢で撃ち殺してそのままにしておく遊びである。コビはなぜそういうことをするのか、厳しく問い詰めたが、小碓尊には逆にコビのそういう考えが理解できないようであった。こうした普段の遊びが軍事訓練であり、腕を磨く修練なのである。事実、小碓尊の腕は確かだった。鹿の一瞬の動きを察して、矢をぴゅーっと鹿の右前方に、あるいは左前方にと目掛けて放つと、見事に背中に命中する。そのつどコビはキャーといって目を覆うのだが、小碓尊はコビのそのキャーが何か呪術であるかのように喜んだ。コビにとって野山を掛け巡るのは楽しかったが、動物を殺してそのままにしておくのは忍びがたい思いであった。
夕方近くになってようやく狩りを終えた小碓尊ら一行は山を下り、里を掛け抜け、三輪の興大王(安康天皇)の宮廷に戻ってきた。宮廷といっても、のちの寝殿造や清涼殿などとは比べものにならない粗末な建物であるが、敷地の周囲を築地(ついじ)で囲むのは、すでにこの時代からやっていたようで、中央に切懸や羅文、格子などで囲まれた身舎(もや)がある。
総門を入るやいなや門衛兵や侍従たちは小碓尊が連れ添っているコビを見て大いに驚いた。しかも小碓尊がコビに頭を下げながら非常に丁重にもてなしているのを見るにつけ、誰もがコビに対して只ならぬ恐れを抱いた。
コビはすぐ唐衣(からぎぬ)に長袴、そして水干のような衣を着せられて巫女にさせられてしまった。興大王に謁見するための各種行事が取り行なわれ、コビはそれにしたがった。といっても、のちの奈良時代や平安時代に確立された複雑な形式とは異なり、簡単な動きと神器の奉納くらいである。予定されていた行事とは異なり、いわば飛び入りであったたため神官など役人もいない。通常、中国大陸や朝鮮半島百済等からの使者が謁見するときは、必ず貢ぎ物を献上するのが習わしであるが、コビの場合巫女になってしまったので、そういった貢ぎ物もしなくてよいようだった。
型どうりの式が終わると皇子や興大王の妻であるナカシ姫、その他の女官(じつは大王の側室である)、そして中央に大王がすでに並んでいる公務殿に連れて行かれた。小碓尊や、兄の大碓命(おおうすのみこと)もいる。コビが入ってくるなり左右の椅子に座っていた彼らは一斉に立ち上がり、目の前の箱を開けた。中には香炉が入っている。部屋中が一種独特の香でいっぱいになった。この香はジンチョーゲ科の香木「沈香」だ。正倉院に所蔵されている蘭じゃ待で有名であるが、すでに千五百年も前からわが国で使用されていたのだ。歓迎の意味と部屋を清める意味が込められている。
興大王の座っている椅子は玉座というには、みすぼらしい石でできた椅子である。中国歴代皇帝の玉座は大理石でできているが、それを真似たとしか思えない花嵩岩で作られたものである。絹衣でおおわれた分厚い座布団だけが妙に印象的である。
「コビ。そなたはどこからきた巫女であるか」
厳かな低い声で興大王が話かけた。興大王はお世辞にも男前とは言えないぶっちょう面のいかつい顔の大男である。
「宋の泰山で修業した者」
ぽつりと思った事を口に出した。当時の倭の国は朝鮮半島とは貿易が盛んであったが、中国大陸とは主として南朝と親しかったので、うっかり北朝の地名を言うとまずい。泰山と言ってみた。
「そうか、泰山は仙人の修業するところ。さぞかし巫女としての修業は辛いものがあったろう。・・・ところで、今わたしは困ったことに遭遇している。そちの力を借りたい」
と、興大王はコビを何となく疑いの目付きをして言った。
「というのは、もう三日三晩悩んでいるのだが、百済王から先日使いが来て、献上物の中にこんな奇怪なものが入っていたのだ」
と、羽のようなものをコビに見せた。
コビは手にとって見ると、烏の羽である。
「はい、烏の羽のようでございます」
コビは丁寧に答えた。
「そうだ、烏の羽だ。百済王がなぜこういうものを献上品の中に加えたのか分からない。宮廷内の最も見識の高いフミヒトでも分からないのだ。そなたにこの意味が分かるか?」
興大王は恐らく、この巫女でも分かるまいと内心思っていた。
コビはしばらく、烏の羽を眺めていたが、余りにもきれいに揃った羽が幾分不自然に見えた。普通、鳥の羽は乾燥して、こうまで皆んなが触ると、バラけてしまうはずである。それがきれいに揃ったままであるのが、何となく気になったのである。
<そうだ!もしかして、トンチかも知れないわ。黒い羽に黒い墨で文字を書いても読めないから、それを百済王が試そうとしているのかも知れない>
コビは賭けてみた。
「分かりました。・・・熱い湯を持ってきてください」
と、巫女らしい、威厳をもって言った。
早速、召使が湯気の立ち昇るお湯を持参した。コビはおもむろに、羽を湯気の上でお祓いをするように左右に振った。その動作がまるで祈祷をするようだったので、興大王だけでなく、参列しているすべての人がコビに一種の畏敬を感じた。
やがて、コビはバッグから、メモ用のノートを取出し、それに羽を挟んだ。
「プリーズ、マイ、ガッド」
と呪文を唱え、挟んだノートをグイグイと押して、パッと開いた。なんと!思った通りだ!真っ白のノートにくっきりと墨で書かれた文字が転写されている。
<やったー>、コビは嬉しくてはしゃぎたかったが、そうもいかない。怖れ多い巫女の身分だ。わざと落ち着いて文字を見た。難しい漢字がずらっと並んでいる。じっくり見ると、感謝するとか、馬四〇頭とか、真珠、青玉、生口十人とか書いてある。生口って奴隷のことである。
コビは多分こういう意味だろうと思ったことを、さぞ分かった振りをして言ってみた。
「分かりました。この羽には、馬四〇頭や奴隷十人、またいろいろの宝石を贈ってくれてありがとう、と書いてありました」
「そうか、そうであったか!先般、百済王に遣いを差し向けて、その際、馬を四〇頭や奴隷を献上したのだ。その礼を羽に書いて寄越したのだ。百済王も意地の悪い人だ」
興大王は苦み走った顔で、臨席しているオウスノミコトやオオウスノミコトなどを見渡してつぶやいた。
「・・・それにしてもコビどの!さすが泰山で修業した巫女だけのことがある!謎を解いてくれて嬉しいぞ」
「お役に立てて、わたしも嬉しゅうございます」
コビはホッとして、深々とお辞儀をした。
「・・・いま倭が国は地方の豪族が勝手な振る舞いをして国を乱している。ぜひ統一して平和な国にしなければならん。
そなたの力を貸してもらえぬか」
「・・・そうしたいのですが、・・・ただ、私は、こちらにヲワケの臣が仕えていると聞いたので、会いたくてはるばるやって来た者です。会わしてもらいたのです」
ヲワケの臣と聞いて、臨席している十数人全員がざわざわとした。
「そなたはヲワケの臣を知っているのか?」
興大王もけげんそうに尋ねた。
「はい。今どこにいるのですか」
「出雲の国に出向いている。出雲の国で八岐大蛇(ヤマタノヲロチ)という巨大な大蛇が出るという噂があるので、その調査に行っている」
「いつ帰ってくるのですか?」
「分からない。遠く吉備の国では悪い国造(くにのみやっこ)が民、百姓を苦しめているとも聞き及んでいる。それらを調査してから帰ってくる。この大和の国ではナガスネヒコがわしに逆らって税を納めないし、何としても征伐して平和な国にしたいのだ」
「・・・」
「それよりコビどの。そなたを歓迎する祝宴を用意したい。そちの国の話を聞かせてくれ」
興大王はそう言って立ち上がり、謁見の終わりを告げ、侍従達に囲まれて部屋を去って行った。
そのあとコビはまた服を着せ替えられ、祝宴の歓迎を受けた。歌や踊り、笛や太鼓が鳴り響き、時が経つのを忘れていた。
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