コビとカクキは抱き合ったまま、巫女や警備兵数人のいる司祭場に現われた。二人はすぐ離れた。彼らは二人を見て一瞬戸惑いを見せたが、すぐ巫女はカクキに旅の準備をするよう命じた。準備といっても衣を普段の袈裟衣から、もう少し派手な色のついた綿布にしたことと、一本の立派な銅剣を渡しただけであった。
 コビは自分は誰もいない女子トイレにいることを思い出し、安心してカクキについて行くことにした。
「コビよ、そも、衣を変えるとよい。これを」
 巫女は祭壇の下から取り出した布を差し出した。何かで布を染めたのだろう、まだらな色がついている。外で見た母子は無地の布切れのようであったが、これは確かに特殊な人が着るもののようだ。お世辞にも立派な染め物とは言えないが、当時としては高級な着物に違いない。
<着替えるって、ここで?>、コビは男子の前で制服を脱ぐのは恥ずかしかったが、彼らは一向に、そういったことに頓着しない様子なので、思い切って制服を脱いだ。中の真っ白な下着を見て、巫女の目が輝いた。
「その衣は何というものじゃ。われは見たことがない」
 それまでずっと座りっぱなしであった巫女がすっくと立って、コビに近付き、前から後からじろじろと舐め回すように見た。触ろうとして、手がスリップに近付くとスーッと裾が手にくっついた。はっとして女は手を離し、コビから離れた。
「ああ、これ静電気よ。合成繊維だから、こういうことがあるのよ。といっても判らないよね」
 そういってコビは制服で、ごしごしスリップをこすって、手を近付けた。パチッと音を立てて小さな火花が出た。司祭場は昼とはいえ、やや暗いので、はっきりと火花が見えた。ううっと、巫女は声をだし、たじろったが、神である誇りがあるのか、男たちの前で自分の権威を落としたくないのだろう、すぐ平静を装い、コビに向かって言った。
「その衣を、われに呉れぬか」
「いいわよ、背丈も同じくらいだし、ぴったり合うみたい」
 さっさとスリップを脱いで巫女に渡した。
「こちらが前よ、わかる?」
 女はめずらしそうに、手で抱えるようにしてスリップの柔らかさや肌ざわりを確かめた。
「こんな柔らかい布は初めてじゃ。どこで手に入れた?」
「遠い、私たちの国なの」
「その身につけている衣は何じゃ」
巫女はスリップを大事そうに抱えたまま、今度は胸の方と下の方を指差した。
「あっ、これ、ダメ」
 そういってコビは、つい調子に乗って裸になっている自分に気が付き、胸と下の方に手をやった。
「クコ様は、こういった布をまとってないんですか?」
「ない。そんなものを見たのは初めてじゃ。それもわれに呉れぬか」
「これはダメ!」
 いくら何でもコビは恥ずかしかった。
 すぐ、足元に置いてあった巫女からもらった色付きの布を頭からすっぽりかぶった。ちょっと短くて、ちょうどミニスカートみたいだが、軽いし、なかなかいい。
「どう?似合う?」
モデルのような仕草をして、くるっと回って見せた。巫女はコビの下着が貰えなかったのを不満そうにしたが、今度は腕時計を見付けた。
「その腕に付けている飾りは何じゃ」
「ああ、これは腕時計・・」
<といっても分からないだろうから、飾りにしておこう>、とコビは
「大した飾りじゃないです。クコ様のしている腕環の方が、ずっと素敵です」
と、腕時計を隠すようにして言った。じじつ、巫女の腕には貝殻で作った腕環や青銅と思われる針金で作った環、着色した布などを腕狭しといくつも付けている。
 巫女は、それまでの厳しい表情から、にこやかな顔になり、笑った。
「それでは、早く行くがよい。日が暮れると道がなくなる」
「ありがとう、クコ様。・・もう会えることもないと思うけど、お元気でね。・・記念にこの制服もあげる。クコ様が着ると似合うと思うわ」
 そう言いながらコビは制服のポケットの中からハンカチとコンパクト、それに身分証明書などを取出し、制服だけをきちっとたたんで巫女に渡した。制服は濃い紺色で暗い感じがするのだろうか、初めからあまり興味を示さなかったようだが、女は手にすると、大事そうにスリップとともに胸に抱えた。
 見送りは警備兵らしき男たち数人に任せて、巫女自信は司祭場から出ようとはしなかった。コビは男たちに囲まれていったん出ようとしたが、後ろ髪を引かれる思いで、立ち止まり、後ろを振り向いた。クコは悲しそうな顔をしていた。
<ああ、神様じゃないんだ、私たちと同じ人間なんだ!>、コビは心から、そこに人間の姿を見た。<わたしが行ってしまうと、またこの人は一人ぼっちになってしまうんだ>
「クコ様!」
「コビよ、行くがよい」
 男たちに、うながされ、コビは柵の外に出た。眩しい、雲一つない紺碧の大空が広がっていた。
 
 カクキと二人だけの旅が始まった。村落の中は道路とは言えないまでも、踏み固められた地面には道筋があったが、その集落から一歩出ると、もはや道路というようなものはなかった。辛うじて人々の行き来する畔道のような、二人並ぶといっぱいになるほどの幅の狭い道である。
「人がいっぱいいて、コビが、わしの手を引っ張って走った、あの国はどこだったのだ」
 カクキが思い出したように言った。
「ああ、あの時ね。・・ごめんね。私たち夢を見ていたの」
「夢?」
「そう、そうよ、夢。・・あの国が一番幸せとは言えないのよ。カクキやクコ様のいる、この耶馬台国が一番幸せなの」
「もう一度行ってみたい」
「だめだめ、あんな所に行ってはダメ。帰って来れなくなるわよ。もう少しで捕まるところだったのよ」
「捕まると殺される?」
「殺しはしないけど・・でもそんなものよ。生きていることが、どういう事か分からなくなるような世界なの。・・それよりも、旅というのは、こうやって歩いて行くの?馬など乗り物を利用しないの?」
「馬?それは何だ」
「牛や馬はいないの?」
「ない、何のことか分からない」
<そうか、この頃は牛や馬はまだいなかったのね。じゃ、乗り物といえば・・船か・・船しかなかったんだ>、千八百年も前というのは、じつに遠い昔だということが実感として込み上げてきた。
「この辺は田んぼがなくなって雑木林ね」
「これを抜けると、また国がある」
「国?・・国って、ここは耶馬台国という国ではないの?」
「向こうの国も耶馬台国に統属している」
「そうか、国、国っていうから、本当に大きな国かと思っていたけど、そうではなくて、要するに村ね。クコ様のいるところも村なんだ」
「村?」
「そう、村という言葉がまだないのね。そしてその村にも名前が付いてない村落がいくつもあるのね。それらを支配化に置くと、大きな国になり、名前も付いたんだ。なるほどよく分かった」
コビは独り言のように、つぶやいた。
 しばらく歩いて、雑木林を抜けると、また同じような丘があって、背後に広々とした田んぼがあり、前方は集落であった。丘の上には巫女のいたような柵が施され、火の見やぐらのようなもの、倉庫のような床高家屋、それに宮殿のような佇まいの家屋があった。この集落は結構人々が往来している。しかし、やはり若い男の人の姿が少ない。
「クコ様の村はどうして人々がいなかったの?」
「若い男は卑弥呼女王の館を建てるため行った。女は、子供の埋葬のため家の中にいた」
「そうか、お葬式だったから、人々が家に篭もっていたのね。・・ここの男性も卑弥呼女王のところに行ってんだわ」
 話をしながら、村落を通る道すがら、奇妙なことに出会った。人々は私たちを見ると、皆すぐ道に膝間就き、土下座をするのだ。中には食物を差し出す者もいた。ヒエか粟で作ったお団子だ。何も土下座までしなくてよいのにと、そばに行こうとすると、カクキに止められた。
 この着物を着て、銅剣を持っているものが<大人>で、一般庶民は<下戸>(げこ)というのだそうだ。<大人>の言う事は絶対的で、食事の世話から泊まるところまで、すべてを面倒みなければいけないことになっているという。逆らったら銅剣で首をはねて殺してしまってよいことになっているらしい。
「いつ頃から、こんな習慣があったの?」
コビは人々が可哀相になってきた。
「ずっと昔からだ。剣を持って海から渡ってきた人が、倭の国を作った。その時からだ」
<いつの世も武器ね・・武器を持っている者が強いんだ。もともと住んでいた人たちには剣などなかったので、剣を振りかざされるとひれ伏す以外になかったのね。・・ひれ伏して土下座しなければいけなかったのは、昭和の時代まであったのだから、何千年も続いたことになるのね>、コビは歴史の重みをしみじみと噛みしめた。
「・・この村にもクコ様みたいな巫女がいるの?」
「いる、ここは男の祭司だ。卑弥呼女王より命され、治めている」
「カクキ、あなたも祭司になりたい?」
「なりたい。そのため文字を覚え、言葉を覚え、書を覚えた。村という言葉もさっきコビから教わって覚えた」
カクキは自慢そうに得意になって言った。
「カクキのご先祖は海から渡って来た人?」
「違う、もと倭の国にいた」
「そう・・頑張って勉強して<大人>になったのね。<下戸>は文字は知らないの?」
「知らない。話す言葉も数少ない」
「なるほどね、差が出るのは貧富の差だけでなく、そういった文武にもよるのね」
「ぶんぶ?」
「そう、文は文字、言葉、書よ。そして武はあなたが持っている、その剣のことよ」
<そうだ、パパが縄文時代や弥生時代の人は言葉の数が少なく、たとえば色などは、四色くらいしかなかったと言ってたわ。色を聞いてみよう>、コビは妙な勉強心を出した。
「ねえ、カクキ。あの空の色は何色?」
「青」
「このお花の色は?」
コビは紫色のきれいな花を指差して言った。
「青」
「これは?」
緑色の葉っぱを指差して言った。
「青」
「そう、そうなの。下戸はこういう色の言葉を知ってる?」
「ほとんど知らない。わしらが教える」
 コビは胸にジーンとするものを感じた。毎日何気なく使っている言葉も、じつは何百年、何千年もかかって大陸から日本にやってきて、日本独自の発音になり、カクキのような人が庶民に教えて全国に広まっていったのだ。・・・
 やがて二人は村落とその広い田んぼを抜けると、大きな川に出てきた。ここからは水行になるという。つまり船で行くというのだ。
「そうか、船っていうから、また海を渡って行くのかと思ったら、川を船で行くのね。・・でも船はどこにあるの?」
「あそこにある」と、カクキは遠くの建物を指差した。
 対岸は草木が生い茂っているのにこちらは至る所、草木が薙ぎ倒され、木で作った槍や弓矢の折れたものが散乱している。
「どうしたの?これ、まるで戦争があったみたい」
「そうだ。戦さが続いていた。末櫨国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、その他数十の国がそれぞれ領土を広げるため相攻撃して殺し合いをしていた」
「その国々というのは、クコ様のいるような村のいくつかを治めていた支配者のいるところね。一つの国でいくつくらいの村を治めていたの?」
「国によって違う。数十から数百だ。王はほとんどすべて海を渡ってきた者だ。互いに村々を掠奪するため戦いをしていた」
「どうして戦いが終わったの?」
「卑弥呼女王が、戦いを止めなければ空を真っ暗にする、と給うたのに、どの国もその声に耳を傾けず、戦いを繰り返した。卑弥呼女王は怒って空を真っ暗にした。それでどの国王も戦いを止め、卑弥呼女王が倭の国の女王となった。」
「きっと皆既日食だわ」
「何?」
「いえ、別に、こちらのことだけど、卑弥呼女王は神の上に立つ神ね」
「そうだ」
 二人は船着場のような所に出た。床の高い倉庫がいくつかある。竪穴住居も数戸ある。
二人がやって来るのを待っていたかのように、数人の下戸がうやうやしく草むらの中から頭を垂れ、両手を地につけたまま這うように出てきた。
「参問倭王卑弥呼船行をもって到らしめよ」
 カクキは、銅剣を前にぐっと差出しながら、力強く言った。下戸は<ははー>と言って素早く岸につないであった船に二人を案内し、藁で作った分厚い座布団を差出した。
 船はかなり大きく、人なら二十人は乗れる。戦争の時は兵士を、いまは米を運んでいるということだ。五人のうち四人が船を漕ぎ、一人が交替で休むようになっている。川は下る方向ではなく、上りである。緩やかな流れではあるが、合計六人乗っているし、流れに逆らって進むのは容易ではない。川幅は二、三百メートルはある。これは何川だろうと、コビは辺りを見渡すが、もとより分かろうはずがない。
 両岸は草木が茂り、開墾はまったくされてない。腕時計をちらっと見た。五時過ぎである。三時間は進んでいる。コビは少々疲れてきた。こういう小さい船には乗ったことがなかったし、漕ぐたびに左右に揺れるのが気持ち悪い。話をするのもぱったり止まったし、コビの疲れた表情を見て、カクキは言った。
「もう少し行くと、国がある。そこで今日は泊まる」
「国?・・村ね」
「そう、村」
 カクキは笑って答えた。コビはカクキの横顔をしげしげと見た。文武に精進し、偉くなりたいと言っていた若い青年だ。たくましく生きている。コビはほんのりと淡い慕情を抱くのだった。
「ねえ、カクキ。・・村と村は戦争することはないの?」
「ない。村と村は昔から行き来し、結婚もする。戦争をするのは、この村々をたくさん支配して国を作り、領土を広げようとするものだ」
・・左岸が拓けてきた。水路を造って、川から水を引くようにしたところもある。田んぼが見えてきた。竪穴住居も見える。そして小高い丘陵の上に、クコのいたような柵のある建物も見える。やがて船着場に着き、二人は降りたが、下戸五人はそのまま、すぐ戻って行った。明日はこの村の船で行くという。
 コビは今日は、これで三つの村を見たことになるが、一番大きい感じがした。竪穴住居の数も多い。人の往来も多く、二人を見付けると決まって土下座をするので、コビは何だか神様になったような気がしてきた。不思議な心理体験だった。可愛い子供がいたので、そばに言って何か話し掛けようとしたが、それもカクキに止められた。神はむやみにそういうことをしてはいけないのだそうである。
 村の中心に、ひときわ大きく目立つ竪穴住居があり、その住居のそばには床高式倉庫があった。
「あの建物はどうして他のより大きいの?」
「この村の長老で、一番豊かな実りを持っている者が住んでいる。卑弥呼女王が司祭場を建てるよう命令して、呪術巫女が来るまでは、その長老が、この村を支配していた」
「村民には貧富の差はないのかと思っていたけど、あるのね」
「昔はなかった。土地が拓け、開墾が進むと諍いも多くなり、それをまとめる者が必要となり、一番豊かな実りを持つ者がその役をするようになったのだ」
<縄文石器時代には貧富の差はなかったのに、弥生時代になって、だんだんと水田などによる定住が進み、集落ができると、当然貧富の差というのは表れるものなんだ>、コビはちょっと悲しくなった。二十世紀に住む自分たちも、この弥生時代に住む人たちも、結局は同じなんだ、という思いがした。
「私たち、今日はどこに泊まるの?」
「あの司祭場だ」
 門衛が二人いる。木で作った槍を持っている。初めて見たクコの司祭場とほとんど同じ造りだ。門衛は二人を何のとがめもなく、すぐ通した。同じように数人の警備兵らしき男たちが出てきたが、服装と銅剣を見ると、すぐ奥の祭壇の方に連れて行かれた。もうすでに部屋の中は暗く、顔がよく見えないが、女性だ。巫女である。
「そなたはカクキではないか」
 かなり、しわがれた声である。老婆のようだ。
「母上、カクキです」
<お母さんか!>、カクキはそれまで何も言わなかったので、コビはびっくりした。
 聞くと、カクキ一家は卑弥呼のいる都にいたが、優れた学才と卑弥呼への忠実ゆえ、母は巫女に、カクキも次期司祭への修業としてクコのところに派遣されているのだという。父は勇敢な戦死をし、弟は都で卑弥呼に仕えているという。
 コビのことを、カクキは巫女に、<卑弥呼女王のところに行く他国の使者だ>と告げた。クコは卑弥呼には会えないだろうと言っていたが、カクキは何とかしてコビを卑弥呼に逢わせようと思っていると説明していた。
・・司祭場の中を案内された。食事をする処、寝る処などが、きちっと仕切られている。コビの部屋だと教えられ、入ったとたん一日の疲れがどっと出たのか、コビはベッドの上にごろんと横になった。・・ベッドである。日本というのはベッドの習慣はないものと思っていたが、じつは竪穴住居の中でも、寝床は地面から高くしたベッドなのである。畳の上に直に布団を敷いて寝る習慣は、ずっと後の室町時代の後期、東山文化の頃からである。そしてその畳は井草の長さで決まる大きさになったことはよく知られている。
 このベッドは藁が敷き詰められたもので、快適なものだった。
 見渡すと食事をする処はあったが、作るところ、つまり台所はない様子だった。どうするのだろうと思っていたところへ、食事の用意が整ったから、という使いがきた。
 村人が時間になったら、持ってくるのだそうである。それも日替わり、つまり交替で順番に持ってくる仕組みになっているという。<そうか、この時代はまだ年貢を納めるという義務はない代わりに、こういった食事などを持ってくるようになっているのね。>
 年貢、現在では税金であるが、コビはそのルーツを見た思いであった。
 組み立て式の食卓の上にたくさんの料理が並んでいる。一日二食であるため、食べる時は腹一杯にするそうだ。料理といっても量が多いだけで、品数はいたって少ない。
 ご飯はお米の炊いたもので、野菜も入っている。その他、魚の丸焼き、貝、豆を煮たものなどである。味付けは主に塩である。
 コビはお腹が空いていたこともあり、普段家で食べると同じように、楽しく、いっぱい食べた。おいしかった。
 室内の明かりは動物の脂肪から取った油だという煤の多い、ほの暗いかがり火である。
 カクキの母老巫女は、コビのことを卑弥呼のあとを継ぐ倭の女王だと言った。卑弥呼のそばに仕え、祭りごとを助けよと何度も念を押していた。
 そして知らないことをいろいろ教わった。伊都国や奴国、不弥国などは耶馬台国の支配下になったが、まだ狗奴国の男王は卑弥呼女王に屈伏しないで抵抗していること、中国に使いを出す時は必ず真珠や青玉など宝石類、銅鏡、それに男女の人質を差し出すこと、そもそも倭というのは、倭人が付けた名称ではなく、大陸から渡来してきた人が付けたものであることなどである。
 大陸からやってきた使者が、日本人、いや二千年以上も前はまだ日本人とか倭人など名称もない土着の人であるが、その日本人に言葉が通じないまま手真似で会話をしているとき、盛んに自分のことを<わ>とか、<わし>、<われ>と言い、また自分の国のことを<わがくに>というので、この国を<倭>ということにしたのだそうだ。
 その後もすでに漢字を持っている大陸の人たちが大勢渡来し、行き来する間に、地名がないと不便であるため、一支国(いきこく、今の壱岐)とか末櫨国(まつろこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などと付けられていったということである。したがって地名や人名に当てた漢字は殆どすべて大陸からやってきた人によるものである。そういえば父が言っていた。「卑弥呼」も倭人は女王のことを、「ひめこ」と言ったのに、大陸の使者が国に戻って報告するとき、倭人を下げすんで卑しい字を当てて「卑弥呼」と書いたのが始まりということだ。
 そのほか、結婚は一夫多妻で、大人では四、五人の妻を、また下戸でも二、三人は妻を召していることも知った。それは圧倒的に女性が多いからで、男の人口は少ないことによる。男子は子供の頃は体が弱く、死亡率が非常に高かったのである。
 そういえば、今朝のクコの村での葬送も男の子だった。
 
 船で川を上ること三日、そして陸を村から村へと二日、コビとカクキの二人はついに卑弥呼のいる耶馬台国へ着いた。散在する竪穴住居は今まで見たものと同じだが、とにかく土地が広い。村の入り口、出口がどことはっきりしない。広々とした水田の一角に十戸ほどの住居があるが、そういった水田と住居の組合せが至る所にある。今までの集落単位のかたまりではないことがわかる。
「ここが女王卑弥呼のいる耶馬台国の中心部なの?全然そういうようには見えないけど」
 コビは不思議そうにカクキに尋ねた。
「中心ではない。その周りだ」
「え?」
「都はこの中にある。都を取り囲むように村がある」
「・・・」
「もう少し行けば都が見える」
 カクキはもう少しと言ったが、歩けども歩けどもそういう都らしきところは見えない。田畑の畔道を通り、まだ草僕である未開の生い茂るけもの道も歩き続けた。二人は途中で何度か人の気配を感じたが、人がいるような場所ではなかったので、兎や狸など動物だろうということで、そのまま都をめざして進んだ。
・・・ついに半日歩いた。休みながらとはいえ、コビにはつらかった。
 幅十メートルほどの川に出会った。川の向こうには人の身長ほどの土塀がある。
「また川よ。ここからまた船で行くの?」
「これは川ではない。濠(ほり)だ。この濠の向こうが女王卑弥呼の都だ」
「すごい!これ、おほり?この濠が都をぐるっと取り巻いているの?」
「そうだ」
 ほとんど直線に見えるほどの濠だから、想像を絶する広さだ。
「行こう」
 カクキは姿勢を正し、腰に下げた剣をぐっと掴んで歩きだした。左右を見るとカクキの歩きだした右の方に大きな橋がある。しかしそれ以外には橋は全然見当らない。<ああ、あそこが入り口なんだ>、コビは胸がドキドキしてきた。<いよいよ卑弥呼に逢える>
 橋の入り口まで来ると、中から十数人の門衛兵がどーっと出てきた。カクキはコビをかばうようにして、剣をぐっと差し出した。門衛兵の一人が、剣に刻まれた卑弥呼命の文字を見て、さっと道をあけたが、コビは腕を掴まれて強引に引っ張られて数人の兵に捕まった。門の中には何十人という兵士が弓矢や石槍、石棒、竹槍などを持ち、土塀に沿って立ち並んでいる。異様な雰囲気である。
「カクキ!助けて!」
思わず男たちを振り払うように身をよじって叫んだ。
「止めろ!其の国の使者なるぞ!」
「嘘を申せ!使者が一人で詣でるはずがない!貴様も怪しい。捕らえろ!」
 門衛兵の隊長らしい男が命令するやいなや、あっという間に二人は数人ずつの男に引きずられるように離された。
「離して!何するのよ!カクキ助けて!」
「コビ!」
 カクキは剣のつかに手をやったが、それより早く数人の兵士がカクキの喉元に竹槍を差出し、今にも突き刺さんとする勢いで押さえ込まれた。
「コビ!必ず助けに行く。彼らの言うことに従え!」
 引きずられながら離れて行くコビに向かってカクキは懸命に叫んだ。
「私は大丈夫よ!あなたこそ無事でいて!」
コビは一人になれば逃げ出すことは簡単よ、と心の中で叫びながら、いまにも槍で刺されようとするカクキが心配だった。
 二人は反対方向に引きずられるように連れて行かれた。道行く人々は、見たこともないロングヘヤスタイルと色白の美しい少女が、強引に男達に連れて行かれる様子に、珍しそうに、また心配そうに、立ち止まり、振り返り見ていた。
 コビは抵抗さえしなければ、乱暴はしないと見て悟り、彼らの指示どおり歩いた。
 道路は整備され、住居はいままで見てきた竪穴住居ではない。明らかに異なるのは人々が多く、市場のようなものがあちこちにあることだった。今で言う八百屋、魚屋も見える。鍛冶屋、織物屋、染物屋もあるとカクキが教えてくれたが、それらしい看板もある。全部漢字だ。そういえば平かなはずっと後になって平安時代になってから表れたものだから、ここにあるはずがない、など考えながら、きょろきょろしながら歩いた。
 往来している人は大人が多く、着物はカクキと同様の着色した袈裟衣と貫頭衣が多い。剣は持っていないが、兵士やコビに土下座をすることはなかった。
「卑弥呼女王の宮殿はどこなの?」
 コビは思い切って、兵士の隊長らしい、さっきの命令した男に聞いた。彼は一瞬ぴくっと眉を引きつらせてコビを睨んで言った。
「何ゆえ知りたがる!」
 女王を暗殺にでもするため来たと思ったのだろうか、強い口調だ。
「わたし卑弥呼女王に会いに来たの」
 それを聞いて、数人の兵士達は一斉に笑った。
「どうして可笑しいの?」
「会えるわけがない。われわれも一度も会ったことはない。女王は誰とも会わない」
「どうして?」
「お前はどこから来た!・・・まあいい。これから調処(しらべどころ)に連れていくから、そこで正直に話せ」
 兵士は一層強くコビの腕を掴んで進んで行った。5分くらい歩いただろうか、普通の住居とは明らかに異なる社(やしろ)らしい建物に入って行った。何人もの役人らしい着飾った男達がコビを物珍しい目付きで見ながら取り囲んだ。今まで見てきた着物とは全く違う服装をしている。教科書や父の蔵書で見たことのある中国・唐や朝鮮・新羅の古代の服装にそっくりである。そして百済系ではなく、新羅系であるのが特徴だ。
「この女が怪しい男と城内に入ろうとしました。剣は持っていません」
「二人か。男はどうした」
「剣を持っていたので、宮社調処(みややしろしらべどころ)に連れて行きました」
「よし、下がってよい。・・女よ、こちらへ来い」
 役人に、更に奥の部屋に連れて行かれてコビはカクキを思い出し、一層不安になった。無事でいるだろうか、自分よりカクキの方が心配だ。
「座れ」
 と言って、三十センチほどの高さの半畳ほどの板間の上に強引に座らされて、周りを役人が取り囲むようにした。板間だから足が痛い。役人の姿勢がきりっとして直立したと同時に、頭に布を縄のように編んだ冠を着けた役人が出てきた。
「わしは判官アラカイという。おまえは名があるか」
「はい、コビと言います」
「どこから来た」
「さっきの男の人はカクキというのですが、その人の村からです」
「ムラ?」
「あ、いえ、国です。・・カクキに逢わせて下さい」
「名前はあるし、おまえの着ている服は身分の高いものだ。下戸ではない。どこで手に入れたのだ」
「カクキの国の司祭は卑弥呼女王から任命されたクコ様という方ですが、その方からもらいました」
 役人達がざわざわとした。「クコ様?」、「知っている」、「私もだ」と口々にクコを懐かしがるように言った。都といっても神を名乗るほどの人物であるから、クコほどの巫女は、こういった役人は皆知っているのだ。
 コビは板間の上に座布団もなく直に座らされているので、足は痛いし、もう我慢ができなく、ここぞとばかり板間の台座から降り、すっくと立って今までとは打って変わった強い調子で言った。
「私はクコ様の使いとしてやってきたのです。このような取り調べは無礼でしょう。」
 役人達は、コビのあまりの剣幕に驚いて、一瞬たじろったが、すぐアラカイは、
「証拠がない。剣を持ってない」
と、自分の剣のツカに手をかけながら言った。
「いえ、だからカクキが持っていたのです。それを兵士達が無理矢理連れ去って行ったのよ。カクキに会わせてください!」
「よし、分かった。剣は、その男を調べればすぐ分かる。それよりコビとやら、その方がクコ殿から、その服着を賜ったのには、それなりの理由があるはずだ。言ってみい」
 コビは自分の制服やスリップをクコ様に献上したことなどを話そうかと思ったが、きっと話がややこしくなるだけで、理解できることではないので、文字のことを思い出し、自分がどのくらい神に近いか示すことにした。服の中に隠し持っていたバッグから身分証明書の付いている手帳を取出し、ボールペンで、ありったけの知っている人の名前を書いた。杜甫や李白も書こうとしたが考えてみると杜甫や李白は八世紀の人、いまは西暦一九〇年、つまり二世紀だ。この人たちは知るよしもない。
 孔子、老子、孟子、荘子、司馬遷、ついでに孟子の教えの仁・義・礼・智の四文字も書いた。
 見たこともない筆で、もとよりこんな真っ白の紙など知らないものに、すらすらと文字を書くコビをみて、役人達は騒然としておののいた。覗き込む役人の一人はコビのかぐわしい黒髪の香にうっとりするものもいた。シャンプーの匂いだ。コビは、その手帳をアラカイの目の前にぐっと差し出して見せた。アラカイも顔が引きつって声も出なかった。コビは更に身分証明書の写真を見せた。カラー写真だ。アラカイは写真とコビを見比べながら、ようやく口を開いた。
「誰にこの絵を描いてもらったのだ。誰に文字を教わったのだ」
「海を渡った遠い国です。それよりカクキに早く会わしてください。そして卑弥呼女王にも会いたいのです」
「・・・・」
 アラカイは急に態度が変わって、うやうやしくお辞儀をして、奥に入っていった。
 役人達もすっかりコビに敬復し、遠巻きに前から横から眺め回した。その時、遠くでワーというどよめきが聞こえたが、役人はコビに興味を示していたので、さほど気に止めなかった。
・・・数分も待たされて、アラカイが戻ってきた。
「もとより王に会うは成らず。男王タモヒコ殿と謁見つかわす。こちらへ」
と、判官アラカイが言って歩き始めた時だった。何人もの兵士が息を切らして駆け込んできた。
「申し上げます。熊襲の軍勢が突如現われました。すぐ門を閉め応戦していますが、都の西と東の門近くには、それぞれ五百を越す軍勢が忍びよっています」
「なに!」
 慌てふためいて、すぐアラカイは奥に掛け込んで行った。
 コビは当時の戦争がどういうものであったのか、自分の目で見たいという探求心を起こした。
「私を西門に案内してしてください!」
 そう言いながら、コビは一人ですたすたと兵士の来た方向に歩きだした。
 役人達はコビの威厳ある態度に圧倒されてか、また当時のこういった学の高い女性には平服する習慣があるのか、別段止める様子もなく、兵士に向かって、
「コビ殿を案内せい!」
と命令し、自分たちはアラカイの後を追って急いで奥に引っ込んで行った。すでに大勢の女官や侍従官は入り乱れて右往左往している。
 衛兵はそれぞれの持ち場に戻って行ったがその中の一人で責任者らしい若い兵士がコビを西門に連れて行った。途中、大きな宮殿らしい建物を建てている建築現場が遠くに見えた。しかし、すでにその労働者は全員、槍や弓矢が配られ、グループ分けされ、整列していた。カクキの村の若い男の人たちも、ここに来ているはずだ。また、鍛冶屋や染物屋などで働いている人たちも、男は全員武器を持って土塀の方に急いでいた。
 土塀の外は濠になっていて、かなり深く掘ってある川のようであり、塀をよじ登ることはまずできない。城内に侵入するには門のある橋を渡るしかない。
 しかし、内側は塀の上に昇れるように階段状に石や土が盛られているところがあちこちにある。そこから弓矢や槍、石などによって敵に応戦するようになっている。ただ、武器は非常に大切なものとして扱われ、やたら弓を使ったり、槍を投げたりしないようである。それは敵側にも言えることで、塀の外から打ってこない。一対一で戦うのが原則のようである。そして勝った方が相手の武器を奪うのだ。また剣はだれも持っていない。銅剣は身分を表したり、祭器として使用されるだけで、武器として使われるものではないのだ。
 ワーワーという喚声が響くなか、コビは勇気を奮って土塀の上に身をかがませて上がってみた。いるいる。初めてみたあの布を頭からかぶっただけの服装だ。いわゆる貫頭着である。髪はボサボサ、手には石槍や弓矢、竹槍、何とも古代石器人という格好だ。人数は五百とか言っていたが、そんなにいない。二、三百人くらいだ。大げさに報告するものだと苦笑した。
 コビはそうっと土塀を下りて、自分を案内してくれた若い兵士に尋ねた。
「この人たちは、なぜ襲撃してくるの?この都を占領しようとしているの?」
「野蛮人だ。皆殺しにされる。都を占領するのが目的ではない。剣や着物、宝物、そして女を奪っていく」
「どこの国の人たちなの?」
「熊襲だ」
「狗奴国ね」
「そうだ」
 コビはもう一度土塀に上がってそーっと彼らを見た。どことなく都にいる人たちと顔つきが違う。20世紀の私たちとも違う。異なる文明を持つ人たちであることがはっきり分かる。南方系のような気がする。都にいる人たちは朝鮮半島系の顔だ。そういえば父がよく言っていた。朝鮮半島でも百済系と新羅系とは人々の思想や顔立ちは違っていて、どちらかと言うと、新羅系の人が北九州に、そして百済の人たちが奈良県大和地方に、大量に移住してきたと言っていたけど、こうやって千年も二千年もかかって皆んなが入り交じって今の日本人になったんだわ。コビは自分の先祖を見る思いで、彼らを感慨深く見守るのだった。そういえば、二十世紀の現在もなお、アメリカや中国、朝鮮、ベトナム、中東の方からどんどん日本に来て暮らしている人が大勢いるわけで、互いに結婚していけば、あと千年もしたら、日本人もずいぶん顔つきも変わっているのだろう、など考えたりした。
「危ないから下りた方がよい」
と、兵士が言った矢先、しゅーっと一本の矢が飛んできて、コビは思わず首をすくめて転げるように土塀を下りた。矢はすぐ拾い上げられ、こちらの武器になった。
「戦争というから激烈な戦いをするのかと思ったら、いたってのんびりとしているのね。一本矢が飛んできただけよ」
「そんなことはない。いったん門を破られて都の中に入ってくると、女子供も容赦なく殺していく盗賊だ」
 
 じじつ、その頃コビとカクキが入ってきた東門では、門が破られそうな攻防戦が続けられていた。死ぬまでには至らない怪我人は続出した。しかし、こういった現代なら治るような怪我でも、大きな病気になり、死んでいった者が多くいたことだろう。
 カクキは弟のクモンに逢い、容疑も晴れ、思わぬ敵の攻めに一緒に軍勢を指揮していた。苦戦を強いられていたが、まだ門は破られていない。土塀の上から応戦していた。
「兄上、ここは私に任せて、あなたは一緒に来たコビ様を探してください。おそらく西門に近い調処でしょう」
「そうか、かたじけない。それではここを頼むぞ」
 そう言うが早いかカクキは急いで西へ向かった。道行く人はすべて武装して、戦いに備えている。その間をぬって懸命に走って調処に着いたが、事情を知ったカクキは、そのまま西門に急いだ。
 
 その頃コビはイチかバチか一つのことに掛けようとしていた。それは鏡である。化粧用のコンパクトで太陽光を反射させてみるのだ。彼らはいったいどういう反応を示すか、やってみたかった。
 再び、若い兵士の止めるのを振り切って土塀に昇った。矢が飛んでくるかも知れない危険を承知で、すっくと立った。
 コンパクトを取り出して太陽を探した。鏡は直径七センチくらいあり、反射光は結構大きい。そして西日がよく当たる。コビは胸元に鏡を持ち、味方にも敵にも何をしているのか分からないように両手で抱えて反射光を調整した。まともに光が飛び込んできた敵の一人がギャーと叫んで目をおおって倒れた。いささかオーバーな倒れ方だが、かなりのショックを受けたようだ。二人、三人とギャーと叫びながら地面に伏せたり、一目散に逃げだした。
 コビは<しめたっ、これならいける!>と、自信が付き、なおも体を左右に動かして光を敵陣に向かって放し続けた。次々に何やら叫びながら後退する敵を見るのはじつに痛快だった。何十メートルも、いや何百メートルも離れている兵も、コビの胸元からピカッと閃光が走るのを見て恐れおののいた。
 この頃はまだ銅鏡といって、銅を研いて何となく顔が写る程度のものしかなかったので、鏡といっても光の鋭い反射はなかった。コビのコンパクトのようなガラスに銀メッキした鏡はまさに魔法としかいいようのないものである。
 見る見るうちに敵陣は後退していく。何がなんだか分からないで立っている敵兵に向かって、<これだっ!>と言わんばかりに光線を浴びせるコビは得意満面であった。この退散は東門の敵陣にも伝えられ、一斉に狗奴国の兵は引き上げて行った。
 味方の方も何が起きているのか分からないで茫然とするばかりであった。ただ、分かっていることは黒髪をなびかせる美しい一人の少女が土塀の上にすっくと立って左右に体を振っているだけである。まさに神である。
「コビ!」
「あっ、カクキ!」
 土塀から転げ落ちそうになりながら飛び降りて、コビはカクキに抱きついた。
「無事だったのね、カクキ。よかった」
「コビこそ、よくやってくれた。・・・もう心配ない。コビは神だ。・・・みんな聞け!ここにあられる方はわれらの国を助けに彼方から来られた神である。一千の軍勢を一人で追い払ったのだ」
 カクキは剣を高々と上げて群衆に向かって叫んだ。<また一千なんて大げさな、二、三百人くらいよ>、とコビは苦笑いした。
 
 コビは一気に神に祭り上げられてしまった。当時はまだ魔法という言葉はない。魔法とか魔法使いというのは、ずっとあとの明治時代になって西洋から入ってきた言葉で、耶馬台国の時代は、こういった奇跡を起こすのは呪術であり、神であるのだ。
 コビはカクキやクモンなどと一緒に、さっきの調処とは違う立派な建物に連れて行かれた。大勢の着飾った役人や兵士の上層部が歓声とともに迎えた。もちろんすでに卑弥呼女王にも、コビの事は知らされ、歓迎の儀式が整っていた。コビは卑弥呼に一分一秒でも早く逢いたいと思ったが、一通りの儀式が終わらないうちはどうにもならなかった。
 何人もの女官が世話をして服を取り替えられ、長い廊下を案内され、祭司場に連れていかれた。平安時代に十二単衣(ひとえ)というのがあるが、あれを簡略化したような服だ。小袖に袴(はかま)を着用し、唐衣(からぎぬ)のような上着を羽織った出で立ちである。派手な赤い色の、少々まだらな模様のあるものだが、驚いたことに絹である。コビはロングヘヤーでもあり、よく似合う。しかし、こんな姿では教室に、いやトイレだが、戻れない。戻る時はクコ様にもらった、あの服にしようなどと考えながら、彼らにされるままに従ったが、じつはあとで分かったことだが、この服装は儀式のときだけで、終わったらすぐ脱いで返したのである。
 カクキやクモンは司祭場に入れるような身分ではないらしく、ずっと前の入り口で別れたきりだ。そういえば、伊勢神宮も身分によって、入れる場所は“ここまで”と決まっている。一般庶民は入り口付近だけで、議員や知事クラスは“ここまで”、皇室の方々は”ここまで”と段々奥へとお参りできる。一番奥は天皇陛下だけである。
 祭司場は後世の平安朝などに見られるような立派なものではなく、コビから見ればただの暗い板間敷きの部屋に過ぎなかったが、ここが身分を授けられる最も神聖な場所なのだ。後で分かったことであるが、クコ様もここで巫女として、卑弥呼女王から剣を授かったということであった。役人達は板間に正座している。いわゆる現代でいう胡坐(あぐら)である。コビの左右に十人ほど残り、そのほかの女官や役人はすべて部屋から出ていった。
 中央に立派な椅子があるが、その前に立たされた。やがて衣冠姿の男が二人現われ、一人は手に銅剣を持っている。なにやら呪文のような判らないことを長々と述べたのち、銅剣をもう一人の衣冠姿の役人、男王タモヒコに渡し、タモヒコからコビに銅剣が恭しく渡された。コビは何が何だか判らないが、とにかく丁寧にお辞儀をして剣をもらった。ずしっと重い。これが身分の高さを示すものらしい。こんなものより早く卑弥呼女王に逢いたかった。しゃべって良いものやら、うっかり口をきいて儀式が台無しになってはいけないので、我慢した。
 すべての儀式が終わったようで、二人が司祭場から出て行ったが、間もなく待つほどの時間もなく、タモヒコを先頭に一人の女性を前後に守るようにして、入ってきた。
 コビは一目で、卑弥呼女王であることが分かった。胸がどきどきした。
「卑弥呼女王のおなり」
 やっぱりそうだ!。胸がさらに高鳴った。役人全員が深く頭を下げ、卑弥呼が椅子に座るまで頭を上げなかった。コビも何だか卑弥呼が本当に神様みたいに見えたので、すぐ剣をしっかり持ったまま頭を下げ、いつ上げてよいやら、卑弥呼が座ってもまだそのままじっとしていた。
「コビとやら、頭を上げてよいぞ」
 天から響くような美しい声だ。顔を上げて目の前がくらくらっとした。何と美しい人なんだ。十三才中学二年生のコビは、これまでこんなきれいな人は見たことがなかった。水晶のような透き通った瞳に吸い寄せられるようだ。服装は決して派手でなく、むしろ自分の方が真っ赤な着物を着せられて恥ずかしいくらいである。長く垂らした黒髪に頭には烏帽子(えぼし)を被り、真っ白の小袖が隠れるほど打衣(うちぎぬ)を肩から垂らしている。色はやはり赤だが薄い色だ。染め具合がすごくきれいで、自分のようなまだらな部分が全くない。足は見えないが、すらっとしたプロポーションの良さが幾重もの衣を素通りして見えるようだ。顔立ちは朝鮮系ではなく、明らかに中国系である。今は倭人になっているが、おそらく先祖は中国から渡来した人なんだろう。
 歳は二十歳前後に見える。
「コビよ、このたびはよく都を守ってくれた。礼を言うぞ」
「はい、ちょっと恐かったけれど、私にもやれました」
コビは素直に思ったことを言った。
「そなたは、カクキの国からやって来たと聞いたが、そこの生まれか」
「いえ、もっと遠い国です」
「何という国じゃ」
「国の名前はありません。小さな国です。女王様に従うことを伝えに来たのです」
コビは余計な混乱を避けるよう、女王を立てるように言った。
「そうか、それは嬉しい事じゃ。倭の国は結束して大きな力を付けねばならぬ。いま、海の向こうでは漢の国が乱れ、国が分裂しそうになっている。倭が国も過去五十年にわたって内乱が続いたがようやく治まった。しかしまだ・・・ 」
「はい、今日攻めてきたのは狗奴国の人たちでしょう。あの人たちは後の大和朝廷に滅ぼされるまで、九州全域を脅かし続けるでしょう」
「なに?コビよ、いま何と言った?」
「いえ、何でもありません。独り言です。・・・それより、お聞きしたいのですが、卑弥呼女王様はいつ女王に即位されたのですか?」
「ちょうど5年になる。十四才の時じゃ」
<ということは、ここは西暦195年だから、190年に即位、そのとき十四才ということは、生まれは西暦176年なのね。あー感激!いま1817才!わー凄い!>、コビは目を輝かして卑弥呼を見た。
「ところで、お前は何才じゃ」
「十三才です」
「そうか。いま奴奴国(ななこく)の祭司を決めるところじゃったが、コビよ、そなたを任命したい。祭りごとの子細を覚えて行ってくれぬか」
「それはできないんです!」
 コビはあとづさりしながら、泣きそうな顔で言った。あまりの態度の急変で卑弥呼はびっくりしたが、すぐ男王タモヒコが、それまで座っていたのを立ち上がって強い調子で言った。
「女王の言い付けなるぞ!聞けぬのか!」
「ごめんなさい。どうしてもそれはできないんです」
 本当に半分泣きながら答えた。
「どうして出来ぬのじゃ」
卑弥呼は優しく言った。
「私は国に戻らないといけない運命にある者です。卑弥呼様に逢いたい一心でやってきたのですが、もう帰らないといけません。国で家族や友達が心配しています」
「・・・」
タモヒコが何かを言おうとしたが、すぐ卑弥呼がそれを制して言った。
「巫女になりたい者が多いなかで、そなたは変わっているのォ。よろしい、そなたの思うようにするがよい。またいつでも戻ってくるがよい。その剣はそなたのものじゃ。それを持っておればいつでも都に来ることができる」
「はい、ありがとうございます。・・・」
 コビは、もうこれ以上、この耶馬台国(ヤマトノタイコク)には居られないことを悟った。確かに自分がここで役に立つことはあるだろう、しかし、これ以上この人たちを混乱させることは罪になる。帰らなければいけない。コビは決心した。
「短い間でしたが、私は卑弥呼女王様にお逢い出来たことだけで幸せです。もう帰ります。・・・このあと大陸では三つの大きな国に分かれます。そして、そのうちの「魏」という国に卑弥呼様は使者を送ることになります。その時には倭錦(やまとにしき)や綿衣(めんい)などを魏の国王に献上するとよいでしょう。・・・その後何十年と耶馬台国は繁栄しますが、海の向こうの辰韓、馬韓、弁韓、帯方郡などの国は次々に破れ、百済と新羅という大きな国が生まれます。そして百済の人たちが倭の東方に移住し、勢力を伸ばすようになります。それまでにぜひ強い国家を作り上げてください」
「一体そなたは・・・」
「この鏡を卑弥呼様に差し上げましょう。これで、狗奴国の人達をやっつけたのです」
 そう言って、コビはコンパクトを開いて、鏡を卑弥呼に見せた。ううっと、叫んで、あの美しい顔が一瞬引きつったが、さすが女王である。すぐ、水に写る自分の顔や銅鏡などと同じものであることを見抜き、手にとった。しばらくは声も出ないで、写る自分の姿に見入っていた。
「これは、どうやって作るのじゃ」
「残念ながら、ここでは作れません。・・・ガラスなので、強い衝撃を与えると割れるので、大切に扱ってください」
「ガラス?・・・」
「・・・これも差し上げます」
 そういってコビはポシェットから身分証明書だけ取出し、中にあるボールペンや簡単な化粧具、メモ用紙などはそのままにして、バッグとも卑弥呼に差し出した。ファスナー式の口である。開け方、閉め方を教えようと、手を添えたとき卑弥呼の手に触れた。ひやっとした冷たい手だ。しかし何とも言えない感慨がコビの胸を掛け抜けた。
 一つ一つが卑弥呼にとっては、まさに神具である。胸に抱き、じっとコビを神秘の眼差しで見つめ続けた。ようやくわれに帰った卑弥呼は、厳かな表情で静かに言った。
「どうしても帰らねばならぬのか」
「はい、卑弥呼さま」
「そうか。・・・行くがよい。コビどののことは決して忘れまいぞ」
「わたしも、卑弥呼さまにお逢いして本当に嬉しいです。・・・もう二度とお逢いできません。・・・」
 コビは目が潤んだ。
「どうしてじゃ」
「私は、この世の者ではないんです。ずっとずっと遠い国からあなた様に逢うために来たのです。少しでもお役にたったことがとても嬉しいです。・・・もう帰らないと・・・」
 どっと涙が出てきた。もうそれ以上声にならなかった。座っている卑弥呼の膝元にどっと崩れるように寄りかかった。役人達が口々に無礼であろう、と言いながらコビを離そうとやってきたが、卑弥呼は優しくそれを制し、コビの肩に手をやり、そして腕をとり、両手をとった。今度は冷たい手ではなかった。ぬくもりのあるやわらかい優しい手であった。コビは一層涙が出てとまらなかった。顔を上げてもう一度しっかりと涙の向こうに卑弥呼を見た。神々しいまでに美しいお顔であった。
「さよなら、卑弥呼さま・・・」
「行くがよい・・・元気で暮らせ、コビどの」
 コビが立ち上がるのを手伝うように、卑弥呼も椅子から立ち上がり、二人は手を取り合った。もうそれ以上卑弥呼は何も言わなかった。瞳にきらっと光るものがあったが、優しいほほ笑みを浮かべ、もう一度コビを見て、離れて行った。男王タモヒコともう一人の高官らしい役人が連れ添うように、卑弥呼は司祭場をあとにした。
 
 ・・・コビは再びもとの服装に戻され、カクキとも会えた。もう国へ帰らないといけないこと、ここでカクキとも別れないといけないことなどを告げ、別れを惜しんだ。カクキはコビと一緒に行くと言ったが、それはもとより叶わぬ夢であった。この国で卑弥呼女王に尽くして欲しいと諭した。剣はカクキに平和のために使ってほしいと頼んで返した。
 カクキは数日間の一緒の旅であったが、いろんな新しい言葉を覚えたと喜んでいた。そして<文武>に精進して立派な人間になると誓ってくれた。
 コビはワープして学校に戻れば、一瞬にして、この人達は千八百年前に消えてなくなるのだと思うと、胸が締め付けられるように痛かった。出来ることなら、このまま耶馬台国に居たかった。カクキと一緒に暮らしたかった。・・・・
「カクキ、さようなら。クモンさまさようなら。私は行かなければなりません。お二人仲良く、力を合わせて耶馬台国のために、そして卑弥呼様のために尽くして下さい・・・」
 カクキをしっかり抱き締めたコビは、涙を残し、カクキから離れた。そしてさっと物陰に入って行きワープし、学校に戻った。コビは一人、3階の片隅で泣きじゃくっていた。