「ただいま!」
 必修クラブのあと、自主クラブのテニス部の練習で遅くなって、コビが帰宅したのは夕方7時前になっていた。玄関を入るなり、ママが真っ青の顔で出てきた。
「成美!、お父さまが大変なの!」
「え、どうしたの?交通事故にでもあったの!」
あまりにふだんと違う様相にコビはびっくりした。
「お父さまの美術館のローナ・ロッソの<橋の見える家>が盗まれたの。テレビの速報で出てきて知ったんだけど、すぐお父さまから電話があって、美術館では今、大騒ぎだって。今日は帰って来れないだろうって言ってたわ。館長という責任あるお仕事なので、・・もうどうしたらいいか・・責任取って辞めさせられるかも知れない・・」
 おろおろするママだったが、コビは交通事故で入院なんて事でなくてよかったと内心ほっとして、まだ靴も脱がないで、玄関に突っ立っている自分に気が付き、靴を揃え、カバンを抱え直して落ち着いて言った。
「<橋の見える家>、って大きさは6号くらいだったわね。よく持って行ったものね」
「感心している場合じゃないわよ。・・まだ詳しいことは分からないけど、ニュースではモルディングやガラス、マットなどはそのままで、中の作品だけを偽物と入れ替えてたそうよ。だから盗まれたのが分からなかったんだって。今日5時に閉館後係の人が見回って、何かおかしいと気が付いて、調べたら精巧に創られたイミテーションだったそうよ」
「じゃ、いつ入れ替えたか分からないのね。・・とにかく詳しいことを聞いてみなくちゃ」
「成美がそんなこと言ったって仕方がないでしょう。警察に任せておきましょう。お父さまも今頃調べられているわよ、きっと。あー、大変だ。・・いずれにしても今日は戻って来ないかも知れないから、夕食にしましょう」
・・いつもなら、7時ごろは三人揃って団欒しながらの夕食のはずが、突然の出来事のため、二人は無言のまま、いそいそと食事を済ませた。ママは後片付けの時も、テレビを付けたり、ニュースをやってなかったら、すぐ消したり、また付けたり、すっかり落ち着きをなくしていた。
 コビは宿題をするからと言って、自分の部屋に入り、三十分前の美術館にタイムワープした。
 
 美術館は地元の警察署だけでなく、警視庁の防犯課の調べ官、それに報道陣などでごったがえしていた。
「報道陣の方々はB会議室で待機していてください。ある程度の事情が判りしだい記者発表しますから」
と、大声で怒鳴っている。美術館勤務の関係者全員、もう七時前だというのに誰も帰宅させてくれない。普通は5時閉館で、その後、持ち場の仕事を済ませれば6時過ぎには帰宅できるのに、堪念したようにみんな警察の取り調べに応じていた。
 コビは美術館の職員の集まっている所にすっと現れた。しばらくして、コビに気が付いたのは、事務員の三條奈穂だった。館長のお嬢さんということで、ほとんどの事務職員はコビのことを知っているが、特に奈穂は<奈穂姉ちゃん、コビちゃん>と呼び合う親しい間柄になっていた。新しい美術品が入ったら、きまってコビは奈穂に案内されて、詳しく説明を受けたり、そのあとでお茶をご馳走になっておしゃべりするのが楽しみだった。
「あら、コビちゃん、どうしてここへ?」
「学校の帰りに寄ったら、大騒ぎしてたので、もぐりこんじゃった」
くすくすと笑ってみせた。辺りをきょろきょろ見渡したのを奈穂はすぐ感付いて小声で言った。
「お父さまは向こうの部屋よ。ひとりづつ呼ばれて警察にいろんな事を聞かれているの。わたしはまだよ。・・大変なことになっちゃった」
「大丈夫よ、わたしがきっと犯人を見付け出してやる!」
きりっとした目付きで、さらに辺りの人を見渡した。
「コビちゃんにそれができれば、警察はいらないわよ。・・あのね・・」
小声で奈穂は耳打ちした。
「あのね、犯人は内部に詳しい人かも知れないって・・」
「いわゆる内部犯行ね・・」
「そう・・」
 その時、館長の小宮山達造が頭をうなだれて、悲痛な面持ちで調べ室から出てきた。奈穂がすぐ駈けより、コビが来ていることを指差しながら告げた。
「なんだ、成美。こんなところに来るんじゃない!どうやって入ってきたんだ。誰も入れないよう厳重に警戒しているはずだぞ!」
「ごめんなさい。・・もう時間だから・・わたし帰る。そうしないと帰れなくなっちゃうから」
「何を変な事を言ってるんだ。・・三條君、すまんが玄関まで娘を送ってくれないか、警察には事情を話せば通してくれるだろう」
「はい、かしこまりました。・・コビちゃん行きましょう」
奈穂は丁寧にお辞儀をしてコビの手をとった。・・
「パパ、一つ聞きたいんだけど、<橋の見える家>は、確かニューヨークの落札で、偽物騒ぎがあったものだったわよね。もう何年も前のことで、わたしがまだちっちゃかったから、詳しいことは知らないけど、パパがおウチでよく話していた・・」
「そうだ、あれだ。もちろん、この美術館にあるものが本物だったが」
「わかった、ありがとう。・・じゃわたし帰る」
「母さんに、あまり心配するなって言っておいて」
「うん・・」
 腕時計を見ながらコビは急いで、その場から離れるように玄関に向かった。ワープしたその時間までに部屋に戻らなければ、帰るところがなくなるのだ。みんなの前で消えるわけにいかない。急いで奈穂とも別れ、自分の部屋に戻った。
 
「成美、・・また居眠りしてる」
「あ、ママ。・・すっかり寝込んじゃったみたい。今何時?」
「9時過ぎよ」
「本当に寝てしまっちゃった。テレビのニュース・・」
「そう、一緒に見ようと思って呼びに来たら、この始末」
「ごめん、ごめん」
がばっと飛び起きて、コビはすぐ居間のテレビの前に行った。すでに事件は大きく取り上げられ、<橋の見える家>の作者や作風などが解説されていた。
「ママ、この油絵、以前に偽物が現われて、パパの美術館のとどちらが本当のものか話題になったことがあるでしょう。あの時の偽物とすり替えられたのよ、きっと」
「そうかも知れないけど、滅多なことを言っちゃダメよ。お父さまに迷惑のかかるようなことになったらいけないから。・・あ、警察の発表がある」
「記者会見ね。パパも映ってる。・・あの部屋、美術館のB会議室よ。わたし知ってるの」
「成美は小さい頃から、よく行ってたものね。お父さまの部屋がどこにあるかも知っているし、でも、よくちょこちょこして美術館の中で迷子になったこともあったわよ」
「それは昔の話。いまは絶対に迷子にはならない。・・それより始まったわ」
「・・本日6時過ぎ、池の端美術館から警視庁防犯課に入った連絡により、ローナ・ロッソの<橋の見える家>が何者かに中の作品をすり替えられるという事件が発覚した。専門家の調査により模造作品であることが先程判明。ただちに捜査を開始したが、現在のところまったく手がかりは掴めていない。<橋の見える家>は数年前、ニューヨークで模造作品とは知らずに20億円で日本人絵画収集家が落札し、売買されたことがあったが、本美術館にある作品が本物であることで一躍有名になったもの。今回すり替えられた作品が、その時の模造作品かどうかは、まだ確認してない。現在専門家によって鑑定中である。・・」
 たんたんと捜査一課の課長が報告している間中、小宮山は同じ会議室の5、6メートル離れた所の仮設テーブルで汗びっしょりの引きつった顔を時々報道陣の方へ向けていた。捜査一課の報告が終わると、一斉に記者団は小宮山達造の方に向いた。
「パパだ。可哀相に震えているわ」
 でも、コビは冷静だった。いつ盗まれたのか判れば、すぐにでも取り返してやる!と心の中で叫んでいた。・・記者団の質問が始まった。
「本日6時過ぎ盗まれていた事が分かったということは、今日1日、来館者は偽物を鑑賞していったことになりますね。昨日はどうだったのですか」
「本当に申し訳ありません。わたしどもの管理と警備不十分のため大変な事態になったことを深くお詫びいたします。・・仰せの通り、本日は9時開館、その前に8時30分に職員一同出勤しておりましたので、その後にすり替えられたのではないことははっきりしております」
「じゃ昨夜ですか」
「いえ、昨夜とか、その前夜とか、特定できないのです。なにしろ、気が付いたのが本日だったわけで・・本日気が付いたのは、係が見回ったとき、額がどうも少し傾いているようだというので、係員が直す前に、みんなにその事を告げ、そしてみんなが見ている中で直したのですが、ある係員が絵の具が新しい、こんなに艶があるはずがないと騒ぎ出し、モルディングを外し、ガラスを取って調べますと、バッキングといいまして作品の裏側に敷く特殊な紙があるのですが、それがないのです。そこで初めて私が呼ばれ、作品が偽物だということが判明したのです」
「美術館では小宮山さんだけですか、本物かどうかを見分けられるのは」
「いえ、私のほかにも3名専門配属しております。本日は1名は出張しておりますので、私とあと2人でございます。その一人が本日、絵の具の艶からおかしいことに気が付いたわけです。・・ただし、見るポイントがございまして、その場所さえ判れば大抵どなたでも偽物かどうかは判別できます」
「その専門の3人は、普段はどういう仕事をしている方ですか。今回の事件には直接関係はないと思いますが、念のため教えて下さい」
「修復です。遺蹟などから発見された布片などをつなぎ合わせて元の形にする作業です。布片、木片、壷類、場合によっては人骨までございますが、私どもの2人は主に布片が専門です。普通は博物館で、そういう仕事はやっておりますが、私ども美術館でも国の依頼によって他の機関と共同でやっております。・・」
「いつすり替えられたか判らないのでは困りものですね。一ヵ月前か、一年前か・・」
「申し訳ございません。警察にお任せして、捜査していただくしか・・」
 ここまで聞いていて、コビはふと気が付いた。犯人がすり替えたのは夜だろうから、朝早く<橋の見える家>を見れば、いつやられたか判るはずだ。そうだ!偽物と本物の見分け方をパパから教えてもらおう、発見したら、その夜を徹底的にマークしよう、そう思ったら居ても立ってもいられない気持ちになった。
「ママ、ほんとに今日はパパは帰って来れないの?」
「いまのテレビのニュースでは、ある程度、例の事情聴取というのは終わったみたいだから、帰れるのではないかと思うけど、お父さまの事だから判らないわね」
 ・・テレビでの記者会見をやっている最中も、別室では事務職員の事情聴取が続けられていた。全員が終わって帰宅を許されたのは十一時をすでに回っていた。しかも帰宅時には、何を調べるのかバッグの中まで見られたのには、女子職員はもとより全員が腹立たしかった。しかし、事が事だけに面と向かって抗議する者はいなかった。
 
 次の日、コビはいつもより少し早めに目が覚めた。
「ママ、お早よう・・・パパは?」
「・・」
「ママ、寝なかったの?目が真っ赤よ」
「ええ、起きてた・・」
「わたし、今日はちょっと早くウチを出て、パパの所に寄って行く。パンと牛乳くらい持っていってあげる」
「そう、ありがとう。・・・じつはママが持って行こうかと思って、お弁当を作ったの」
「え?さすがァ。じゃあ急いで支度しようっと」
「そうね、かなり遠回りになるから、そう、三十分は余計にかかるわよ」
 急に忙しくなった。少し早起きしたとはいえ、三十分も遠回りになると、学校にはぎりぎりか、遅れるくらいになってしまう。大急ぎで朝食を済ませ、髪のブロアもそこそこに制服に着替た。
「バスの乗り場わかるわね。ハンカチ持った?忘れ物ない?」
「大丈夫、大丈夫、行ってきまーす」
 コビはすっ飛んで出て行った。
 
 美術館はまだ開いてない。コビは勝手知りたる他人の家で、裏門の職員通路に回った。警備員がいる。警備員は専属ではなく、警備会社への委託であるため、何人かが交替でやっているが、今朝の警備員は前にも二、三度会った事があり、顔見知りであった。しかし普段は一人のはずが、今朝はもう一人いるようだった。
「お早よう、おじさん。小宮山です。父にお弁当持ってきたんだけど、入りますね」
「やあ、お嬢さん、お早よう。・・小宮山館長は昨夜は一睡もしてないようだったですよ。・・じつは昨日の事件で、とても厳しいんですよ。職員以外は入れてはいけないと言われているんです。お弁当、お預かりして、私からお渡しします」
「ありがとう。でも、父にどうしても会いたいんです。元気な顔を見たいんです」
「じゃ、ここへお呼びします」
「・・父に聞きたいことがあるの。お願い、ね、通して。この通り、お願い」
コビは両手を合わせて拝むようにしてみせた。
「・・まあ、お嬢さんだから、いいか。今日は現場検証とやらで、1日臨時休館になってるんです。しばらくしたら、また警察の人が何人もやってくるよ。その前にお帰りになるようにね。・・それから警備日誌にはちゃんとお嬢さんを通した事を書いておきますからね」
「ありがとう、恩に切るわ」
 コビは急いで館長執務室に駈けて行った。2階の奥まった一室である。小学生の頃から来ているので、よく知っている。
 
「パパー」
ドアーを開けるなりコビは叫んだ。
「おー、成美か」
机の前でうつろな目をしてぼーっとしていたが、目の前に飛び込んで来たコビを見て、嬉しさによろよろとしながら立ち上がった。
「パパー」
どんと大きな胸にぶつかってコビは泣きだした。
「パパ、ママがとても心配してた。昨夜ぜんぜん寝てなかったみたい」
くしゅんくしゅんと泣きじゃくり、大粒の涙を拭きながら言った。
「ごめんよ、大変なことになった」
小宮山達造はもう昨日のように興奮してなかった。コビは本当は、また怒られて追い返されるかと半分心配していたのだが、嬉しそうに迎えたのでほっとした。
「パパ、お弁当持ってきた・・昨日から何も食べてないんじゃないかって、ママが」
「そうか、ありがとう。私も全然寝られなかった。・・それにしても、よくここへ入って来れたね。警備が厳重になっているはずだが」
「泣き落とし戦術!」
コビは泣いた顔を笑顔に変えて、お弁当を渡しながら言った。
「すぐ、学校へ行かなくちゃいけないので。・・パパ、一つだけ教えて」
コビは急に真剣な顔付きになって言った。
「何だね、改まって」
「<橋の見える家>の本物と偽物の区別はどこでするの?わたしにもわかる?」
「そりゃ、おまえにも判るけど、またどうしてそんな事を聞くんだね」
「別に・・でもどうしても知りたいの」
「教えてあげよう。・・二つ並べて比較すると、昨日テレビで言ったように、絵の具の艶が違うので、すぐ判る。でも別々に観たのでは、専門の人でないと鑑別できないくらい精巧にできている」
 コビは真剣な顔つきで、ウン、ウンとうなづきながら聞いた。
「で、どこが決定的な違いかというと、ローナ・ロッソのサインなんだ。・・ローナのエルと、ロッソのエルと、エルが二つあるが、はじめのエルの字の上の方が濃い灰色のバックで、あとのエルの字の上部の方が薄い灰色のバックになっているのが本物。ほとんど同じバックの色だと偽物なんだ。これは一目で見分ける非常に重要な部分だ。でも、当てて見る光が、蛍光灯や電球では判りにくく、紫外線を多く含んだメタルハライドランプというビデオプロジェクターなどに使われるランプか、または太陽光がいい・・」
「普通の懐中電灯ではダメなの?」
「ダメということではないが、判りにくいね」
「じゃあ、やっぱりお昼か・・」
「え?」
「いえ、別にこっちのこと。パパ、ありがとう。よーく分かったわ。ゼッタイに犯人を捕まえてやる!」
「おい、おい、成美。おまえがそんな事できるわけないだろう。気持ちは分かるが、警察に任せておけばいい。・・パパはもうどうなってもいい」
「いやよ、そんなの。きっと・・。じゃ学校に遅れるといけないから、わたし行く」
「おまえの元気な顔を見たら急に父さんお腹がすいたよ。お弁当食べよう。・・今日も遅くなるかも知れないから、母さんに、あまり心配するなって、伝えておくれ」
「うん、じゃあね、パパ。元気出して・・」
後づさりしながら手を振って出ていった。
 
 学校に着いたのは8時半ぎりぎりであったが、遅刻はしなかった。朝の学活が終わって授業になったが、コビはすぐ居眠りを始めた。タイムワープだ。
 2日前の美術館、お昼ちょうど十二時。<橋の見える家>の前に立った。天気が良いので明るくよく見える。じっとローナ・ロッソのサインを見た。バックのシャドーが同じ色の灰色だ。偽物だ!
 
「小宮山さん、朝っぱらから居眠りなんかするんじゃありません」
 社会1の日本歴史の時間である。女の先生で、小さな声でたんたんと話すので、この時間は結構居眠りをする者が多い。白羽の矢がコビにきた。
「さっき先生は何を説明したか、言ってみなさい!」
「はい、日本の縄文時代というのは大体九千年くらい前から二千五百年くらい前までを言い、その後、弥生時代になること。縄文というのは、縄を使って・・」
 コビは、よしっ今度は3日前に行こう、と考えながらすらすらと答えた。
 わーっと教室がまた騒めいた。先生は何も言わず、授業を進めていった。
 コビはすぐ居眠りを始めた。3日前の美術館。同じくお昼十二時。その日はツアーで観に来たのか、お客が多く、<橋の見える家>の前にも多くのファンが集まっている。コビは制服のままだし、今頃の時間、なんでここで一人うろついているのだ、という風に皆がじろじろ見ていたが、コビはじっと彼らがそこを去るのを待った。・・今だ!サインを確かめた。光線の具合を角度を変えながらじっくりと観察した。エルの上の灰色が左右同じだ。偽物だ!みんな偽物と知らずに鑑賞して行ったんだと思うと、ますます腹立たしくなってきた。
 
 教室に戻った。うしろの席の麻美が肩をとんとんと叩いて、小声で言った。
「コビ、また寝てたでしょう、先生じろじろ見てたわよ」
「ごめん、ごめん、ちょっとね」
「昨日、テレビで見たわよ。お父さん大変ね。私たちも行ったことがあるよね。池の端美術館。たしかコビに連れて行ってもらったんだ」
「うん、麻美と行ったの、もう半年くらい前かな。ローナ・ロッソの作品、いくつかあるけど、あの<橋の見える家>は特別よね。・・犯人のやつ、どうしても、とっ捕まえてやる!」
「凄い勢いね。・・ねえ、犯人は画商じゃない?」
「そういう事も考えられるけど、まあ、そんな事は言わないことよ。・・偽物の絵は警察が持って行ったから、数年前に問題になった物と同じ偽物だったら、それを持っていた人がいちばんに疑われることになるわよ。その辺から足がつくし、まあ、時間の問題ね」
「そうね。それに、そういくつも精巧な偽物が創れるわけないから、持ってた人が犯人よ。すぐ捕まるよ」
「警察が早いか、わたしが早いか!」
「え?」
「小宮山さんと新里さん、何をさっきから、おしゃべりばかりしているの!教室をうるさくしているのはあなた方ですよ。担任の先生に言い付けますよ!」
「あッ、すみません」
コビと麻美はほとん ど同時に返事をしたので、顔を見合わせてクスッと笑った。
 コビは前を向いて、また居眠りを始めた。4日前にワープした。お昼十二時。かなり人がいる。しかし団体ではないので、人の動きはスムーズだ。すぐ<橋の見える家>の前に行った。じーっとサインだけを見た。あまりに左下しか見てないので、来館者の何人かが不審そうにコビを覗き込んで行ったが、そんな事は気にしなかった。
 左右に差がある。初めのエルの方が濃い、右の方が薄い!これだ!コビはもう少しで声に出して叫ぶところだった。これだ!これが本物だ。よしっ、今夜やったに違いない。明日お昼はもう偽物になっていたのだから。コビはいったん教室に戻った。
 教室では縄文時代の話が続いていた。全国から縄文文化の遺跡が発見されているので、すでにこの頃から日本には先住民族が多数住んでいたことなどが説明されていた。
 コビは4日前の夜8時にワープした。赤々と電気がついている。そうだ、たしか4日前はパパは、会議があったと、帰宅したのは9時過ぎていた、8時頃まで会議があったと言っていたわ、もうすぐ終わるはずだ。そーっともう一度<橋の見える家>を見に行った。誰もいない、がらんとした館内は不気味なほど静かだ。時折、会議をやっている会話が廊下を伝わってくる。ローナ・ロッソのサインを見た。たしかに蛍光灯では判りづらい。しかし、もう本物も偽物も知っているので、すぐ見分けがついた。これは本物だ。今夜中にやられた事はますますはっきりした。高鳴る胸を押さえていったん教室に戻った。
 十時頃に行ってみようか、いや十時や十一時などよりもっと遅いだろう、十二時過ぎてから犯行に取りかかるに違いない、いやいやガードマンが見回る時間は決まっているから、その合間をぬってやるだろう、ということは時間的には、そう夜中にするとは限らない、何時頃へ行こうかなど、いろいろと考えているうちに、また居眠りを始めた。
 4日前、夜十二時。すーっと<橋の見える家>の前に行った。確かめたいが、非常口を示す常夜灯が鈍く灯っているだけで、室内は真っ暗だ。耳を澄ませて辺りの気配を探ってみたが、まったく物音一つしない。シーンとしている。そうだ、あれだけの取り替えをやれば床にゴミくらい落ちていくに違いない、それで判る!パパから懐中電灯では判別は難しいと言われていたが、一応ペン型の小型懐中電灯を持ってきた。絵の下を丁寧に照らしてゴミが落ちていないか探した。かなり時間をかけて念入りに探したが異常はない。きれいだ。いつもピカピカに磨きあげている床には塵一つ落ちてない。
 まだなんだわ、いつ来るんだろう、来るなら早く来て!焦りにも似た気持ちで懐中電灯を切ったちょうどその時、こつこつと靴音がした。だれか来る!教室に戻ろうか、いや犯人かも知れない。とっさに辺りを見渡して身を隠すものを探した。休むためのベンチ、いやソファーがある。その後に回り込んで隠れた。大きな手提げ電灯を揺らしながら、展示室に入って来た。ガードマンだ。別に室内を調べるでもなく、慣れた手つきで、入ってきた反対の出口の柱の蔭にあるボックスに、ちゃらちゃら鳴らして持っていたキーを差し込んで回して、引抜いて出ていった。何時何分に見回ったという証拠が記録されるシステムである。
 なーんだ、ガードマンか。出て行ったあと、ほっとして、そのソファーに座り込んだとき、外で車の音がした。何だ!今頃!いよいよか、いやちょっと待てよ、犯人なら車で乗り付けて音を立てて入ってくるわけがない、ガードマンの友達が一杯やろうとでも言って駄喋りにでも来たのか、とにかく調べてみよう。そーっと廊下に出て、階段を下りて、ガードマンの部屋の方に行ってみた。美術館の裏口の方である。車もそちらの方に止まった様子だった。
 壁に身をひそめながら、だんだんと近付いて行った。「ピンポーン」、裏口の職員専用の、ガードマンなどが出入りする入り口のチャイムがなった。そういえば、今朝パパにお弁当を持ってきたとき、このチャイムを鳴らした。・・しばらくして、2階の方からガードマンが下りてきた。
 入って来たのは老紳士一人である。ネクタイはしてないが、きちっとしたスーツの身なりは、どことなく品のあるハイクラスの人であることは、すぐ分かった。しかしコビは見たことのない人だった。
「あなた一人だね。だれもいないね」
老紳士は低い声の落ち着いた口調でガードマンに言った。
「ああ、・・」
ぶっきらぼうにガードマンは答えた。うしろ向きなので顔は見えない。
「約束の五百万円だ、受け取りなさい」
風呂敷で包んである四角っぽい包みを渡した。ガードマンは無造作に、しかし、やや手が震えているようだったが、包みを開けて中を確かめた。男の人の片手で持てる大きさだが、札束を5つ数えた。買収だ!あんな人がガードマンを!怒りに震えて飛び出さんばかりだったが、捕まったら教室に戻れなくなる。
「じゃ、わたしは上に行くが、あなたは普段の通り仕事をしていればいい」
 言葉少なく紳士は抱えていたもうひとつの大きな包みを持ち直して、さっと階段の方に歩き出した。ガードマンは大金を手にした喜びからか、ニッと笑って奥の部屋に持って行った。はっきり顔が見えた。今朝いたガードマンのおじさんの方ではない、もう一人の若いガードマンである。あいつだ!平気な顔をして今朝はいたのに。
 コビはそのすきに素早く外に出て車のナンバーを控えた。街頭に照らされた立派なベンツはピカピカに磨き上げられている。3階の<橋の見える家>のある展示室の明かりがついた。堂々とやるつもりなのだ。コビはガードマンに見られないように隠れながら、階段の方に急いだ。ガードマンは見回り時刻ではないため、深夜テレビを愉快そうに見ていた。
 展示室をそーっと開けて中を覗いた。やってる!裏板を外し、下敷き紙と一緒にアートワークを取り出したところだった。・・持ってきた偽物とすり替えた。
 その時、コビは果敢に飛び出して叫んだ。
「あなた!私をよーく覚えておきなさい!」
 突然、少女が目の前に現われたので紳士は腰を抜かして尻もちをついた。アワワワ、紳士は何を口走ったのか、初めは判らなかったが、やっと、顎をガクガクさせながら言った。
「お、お、お前は、だ、だ誰だ!」
「あなたこそ誰よ!いいわ、とにかく私をよーく覚えておく事ね!いいこと!」
きりっと睨み付けて言い終わるやいなや、階段の方に脱兎のごとく走って、さっと身を隠し、教室に戻った。
 
・・・・顔を上げると汗びっしょりで、ハアハアと息を弾ませていた。
「どうしたの、コビ・・夢でも見てたんでしょう」
「あー、麻美。そうじゃないけど、恐かったァー」
 授業は縄文時代に使っていた石斧や石の槍、石皿などの話であった。
 
 休み時間になった。コビは急いで校門の近くにある電話ボックスに飛込み、美術館に電話をした。警察がきているため、電話は遠慮して下さい、という返事であったが、父にどうしても話をしたいと取り次いでもらった。
「あーパパ、お弁当食べた?」
「おお、成美か、いただいたよ。おいしかった。この弁当がなかったら、私はもう倒れていたところだよ。外に買いに行くわけにはいかないし。ありがとうよ」
「よかった。・・ところで犯人分かったわよ!」
「何を言うんだ、冗談言っちゃいけないよ。父さん、いま忙しいんだよ」
「分かってる・・よく聞いて・・あのね。これから言う車のナンバーを調べるように警察に言って。その車の持ち主が犯人なの。・・神奈川33む4587、メモした?」
「あー、神奈川33む4587だね。でもどうしてそれが・・」
「とにかく調べてもらえば判る。神のお告げとでも言っておいて」
「また冗談を言う」
「ごめん、ごめん、本当なんだから・・場合によっては、わたしがその人と会ってもいいと言って。その人、きっとコビをみたら、びっくりするわよ、腰を抜かすよ」
「よしよし、一応警察に言っておく。じゃ、父さん忙しいから・・」
「ちょっと待って!もう一人共犯がいるの。・・今朝、私がそちらに行ったとき、通用門に警備の人が二人いたわよね。おじさんではない、若い方の人、あの人が買収されたの」
「おいおい、買収だなんて、只ごとではないぞ。どうしてそんな事が分かったんだ」
「神のお告げ!・・ではなく、わたしが調べたの。とにかく、お願いね。あのガードマン、大金を持ってトンづらしたら、面倒なことになるから」
「あの二人は夜勤だったから、もうすでに帰宅したよ。・・じゃ、すぐ警察と警備保障会社に連絡をとって事情聴取の形でもう一度調べてもらおう」
「ありがとう、パパ。ガードマンは若い人の方よ、よくって」
「よしよし」
「じゃーね。バイバイ・・」
 胸がすーっとした。これでいい、あとは警察がきちっと調べてくれれば、犯人は白状するに決まってる。白状しなかったら、出ていって面と向かって怒鳴ってやる!コビは意気揚揚と教室に戻って行った。
 
・・・その日のうちに逮捕というスピード解決であった。犯人の老紳士は案の定、数年前、ニューヨークで偽の<橋の見える家>を落札した絵画の収集家であった。その後、偽物であることが分かってからというもの、毎日毎日、本物が欲しいという思いがつのる一方で何度も池の端美術館に来て、いつかは取り替えようと狙っていたそうである。いずれは偽物と見破られるだろうに、という警察の調べに対して、<自分でも分からなかったのだから、誰も分かるはずがない>、という甘い考えが犯行をうながしたと翌朝の新聞に載っていた。さらに決定的な証拠品として、バッキング下敷き紙が車のトランクの中から発見されたという事であった。
 供述書には、犯行現場で少女の姿を見たとあるが、誰もそんなことは信じてはいなかった。