「コビちゃん、起きなさいよ。コビ、先生がにらんでるよ。ほらっ、知らないから・・」
うしろの席に座っている新里麻美が小声でコビの背中をトントンと叩きながら言ったが、コビはさっきから、うとうととして、ついに顔を机に沈み込ませて寝込んでしまったようだった。
「・・小宮山!起きろ!いまは昼寝の時間じゃないんだ、数学の時間だぞ!」
ついに先生の大声が出た。
 小宮山成美。小宮山の小と成美の美で、コビとみんなから呼ばれている。小顔で可愛く、くりっとした大きな目が愛らしいとクラスでは人気者である。数学の先生は恐いので、みんな背筋を伸ばして、真剣に授業を聞いている。
 起こされたコビは、その大きな目をこすりながら頭をかきながら周りを見渡した。ふだん仲良しにしている友達は<いいから、いいから気にしないで>というように、目配せをしていた。
「聞いてないと分からなくなるぞ!それとも寝ながら先生の話を聞いていたのか」
どーっとクラスの笑い声が響いた。
「先生、コビは天才なんです」
うしろの方から誰かが大きな声で言った。
「聞いてなくても、分かるんです。コビちゃんは」
また誰かが言った。教室中がざわざわしてきたのを制止しながら、先生は、
「じゃ、ここのxはいくらだ、分かれば今日のところは許してやろう」
と、先程からやっていた問題の答えをいきなり求めてきた。分かるわけがない、というように黒板をとんとんと叩いて言った。
「xの2乗が5だから、結局プラス・マイナスルート5です」
コビは何食わぬ顔で答えた。クラスがまたどーっと騒めいた。「どうしてわかるんだよう」とか、「だから天才だって言ったんだ」、「寝てても分かるエイリアン」とか口々に叫んでいる。
 
 コビは寝ていたのではなく、じつは校長室に行っていた。
「いいえ、ぼくは絶対に子供をはねてはいません。みんなの誤解です」
同じクラスの慎吾が懸命に校長と教頭、担任の先生、それに昨日夕方、自転車で跳ねられたという幼稚園児の母親の4人に無実を訴えている。
「じゃ、なに、ウチの子がウソを言っているとでもいうの!交差点で何人もの人たちが見ていたのよ、ウソつきはあなたでしょう!最近の中学生はこれだから困る!」
母親はヒステリックに慎吾に食ってかかっていった。子供が膝を擦り剥いてケガをした、見舞いにも来ない、場合によっては慰謝料の請求も辞さないと、学校に乗り込んだのだ。
「まあ、まあお母さん、落ち着いて下さい。・・慎吾君、さっきから同じことの繰り返しばかりだが、どうして素直にごめんなさいと謝れないんだね。君が自転車でひっかけて転ばしてのは、みんなが見ていたから事実なんだよ。謝りさえすれば、これ以上君を責めたりはしないから、正直に言い給え」
教頭先生がうんざりしたような表情で、握りこぶしを机の上にとんとんやりながら言った。
「絶対にぼくじゃないんです。交差点で黄色になったのを飛ばして渡ったのは本当で、ぼくが悪いと思いますが、男の子が飛び出してきたので、それをさっと避けて渡ったあと、その男の子が突然泣きだしたので、後を見たら転んでいたんです。そしたら、みんながぼくが自転車で転がしたように言って、ぼくを捕まえたのです。あの子にもう一度ちゃんと聞いてみて下さい。絶対に自転車はどこも触れてはいません」
 必死になって説明しているところに、いつの間に現われたのだろう、コビがドアのところに立っていた。
「校長先生、慎吾君はウソを言ってはいません。本当にあの子は一人で転んだんです。昨日夕方わたし偶然にその現場をビデオに撮っていましたので、見て下さい」
「君、きみ、いつの間に入ってきたのだね。ここは校長室だよ。無断で入ってきてはいかんよ」
いきなりつっ立っているコビを見て、校長はどぎまぎして言った。
「すみません、でも慎吾君があまりに可哀相なので、さっき、昨日に行ってきて・・」
「昨日に行ったって、どういう事だね。おかしな事を言うでない。・・君は確か、2年E組の・・」
と、今度は教頭が口を挟んだ。
「はい、小宮山成美です」
コビはちょこんと頭を下げて、持っているビデオテープを無造作に担任に渡した。
 校長と教頭はちょっと困惑したが、母親の方を向いてどうしたものかと相談し、結局校長室にあるビデオデッキで見てみることにした。・・慎吾が走ってくるところも、男の子が飛び出した瞬間もきれいに映っている。慎吾はさっと男の子を避けて通っている。しかも男の子のうしろを避けているので自転車が邪魔で転んだのでもないことがはっきり分かる。どこも自転車は触ってない。見事な運動神経といえる動作だ。あっけに取られた母親は、信じられないという表情で、二、三度ビデオを巻き戻して見ていたが、納得して校長と教頭に向かって、さっきとは打って変わって丁寧に言った。
「そうですわねェ。・・ウチの子が一人で転んだようですわねェ。・・慎吾さん、ごめんなさいね。疑ってしまって・・校長先生、お騒がせしてすみませんでした。・・それにしても、あなた・・」
と、コビに何かを言おうとして振り向いたが、その時すでにコビの姿は校長室にはなかった。
 
「小宮山君、xの値が分かったからといって、居眠りをしていいわけではないぞ。今後気をつけなさい」
「はーい」
明るく答えたそのとき、校長室から解放された慎吾が教室に戻され、入ってきた。コビはほっとした表情の慎吾に、あまり上手ではないウインクをした。
「・・沢田慎吾君、話は担任の先生から聞いていた。今日の授業は重要なところだったから、家でよく勉強しておくように。・・今日はここまで。残りの問題は宿題だ。あさってノート提出!」
 いつものように疲れる授業が終わった。
・・休み時間に慎吾は友達にわっと囲まれ、校長室に呼ばれたことを根掘り葉掘り聞かれ、無実であることが認められたことを得意げに話していた。