八時がきた。中継映像も順調に送られているようだ。白浜の操作するコンピュータに現時点の謎の天体の位置がクロスポイントで示された。そして望遠鏡がコンピュータ制御によって、その位置に<ゴー、ブーン>っと、ギヤーの音やモーターの音を立てながら移動して止まった。
 全員の目がハイビジョンモニターに注がれる瞬間だ。すべてが順調に動作している。しーんと静まりかえった。
・・・見えた。
「昨夜より、ずっと明るいですね」
 趙がまず声を出した。
「木星の反射光を浴びて明るいんだね。ちょっと赤みを帯びている」
 李も覗き込むようにして言った。
「この、動いている星ですか?」
 と、美人女性キャスターの明令夏が、趙と李の間に入り込んで、モニターをじーっと眺めて、かすかに動くのが判る星を指差して言った。香水はオーデコロンだろうか、それともパヒュームコロン系の香水なのだろうか、お化粧と一緒になったうっとりするようなこころよい匂いが辺り一面に漂う。
「そうです。凄いスピードです」
 と、趙が応えた。
「ところで、いま放送してるんじゃないでしょうね」
 と、李が遠慮がちに明令夏から離れながら中国語で言った。
「してません、してません。ご安心を。ミキサーコントロールルームには届いていますが、オンエヤーはしてません。する時にはキューをかけますから」
 と、スタッフの一人が手を横に振りながら言った。もちろん中国語である。じつは局のミキサー室では、あとで編集するため全部を録画しているのだが。
「茅場君、デジタルVTRは回しているのかね」
 と、武田博士が聞いた。
「はい。録画しております。今夜の天体の動きは軌道計算する上で、最も重要ですから」
「ああ、頼むね。・・・・白浜君は天体の動きから正しい軌道計算をお願いするね。たぶん予想軌道も正しいだろうが、もし、少しでも違っていたら、補正するようにコンピューターにインプットしてくれ給え」
「はい、先生。見付けた天体は、今日はこれから、木星を楕円の焦点にして、急激なカーブをしますので、誤差が一番出る時です。これでパラメータの補正が出来れば、あとはとても正確な軌道を予想することが出来るようになります。楽しみにしていて下さい」
 と、白浜は明るく、はっきりした口調で、ディスプレーから目をちょっと離して博士を仰ぎ見ながら応えた。
「見ている前で、天体がぐーんとカーブして動くわけですか?」
 と、現場ディレクターらしいスタッフの一人が、茅場に聞いた。
「ええ、この謎の天体は物凄いスピードで動いているので、木星のそばを見て判るほどの速度でカーブしていきます」
「何時頃ですか?」
「私たちの計算では、こちらの時刻で二〇時一二分、八時十二分に木星に最も接近します」
 ディレクターは腕時計をちらっと見て、明令夏らと打ち合せを始めた。
・・・局に電話をかけたり、真剣な表情で話合っている。
 茅場ら観測班は順調に観測を続けていた。いよいよはっきりと見えるようになった。木星に接近中である。茅場が博士に言った。
「先生、光電測光器やスペクトル分析器があれば、この物体の表面の成分が分かるのですけどね。コンピュータで分析するほどのプログラムは、今回は持って来ていませんし」
「そうだね。しかし、それらによっても木星の反射光が強いので、はっきりした分析は出来ないだろう。私の勘だが、この色と質量から判断するとほとんどが鉄、ニッケル、オスミウムなどだろう。非常に重い物体だ」
 
「白浜さん、いよいよだね。・・・・計算軌道と寸分違いませんよ」
 と、趙がモニターと白浜の操作するコンピューターを見比べながら言った。
「いや、まだ分からないわ。・・・・でも、胸がどきどきするわ」
 白浜はコンピューターディスプレーのクロスポイントの周辺を拡大しながら言った。ディレクターが忙しく動き始めた。
「みなさん、じつは八時過ぎは通常放送はニュースの時間ではないのですが、本日は特別に八時五分から生中継をすることになりました。よろしくお願いします」
 と、大きな声で言って、カメラマンや照明係にも手で大きく合図した。
「すみませんが、ハイビジョンモニターのところに来てくれませんか」
 と、スタッフに、博士と孫教授は、強引ともいえる手振りで寄らされた。
「それから、白浜さんはコンピューターで、天体の予想軌道を分かりやすくディスプレーして下さいませんか、お願いします」
 と、まるで命令調で指示した。白浜は茅場と顔を見合わせて、苦笑しながらそれに従った。
 明令夏が落ち着いた足取りでモニターの横に行った。まもなく八時五分になる。
「それでは、お願いします。・・・」
 
 キューのサインが出た。すでに信号は送られているから、手際がよい。
「みなさん、こんばんわ。こちらは紫金山天文台です。番組の途中ですが、今夜は太陽系を賑わしている例の謎の天体が木星に急接近しますので、これを実況でお伝えする事にします。なお、予定の番組は後日改めて放送することにしますので、ご了承下さい」
 明令夏が話し始めた。
「この謎の天体を、世界で初めて発見した紫金山天文台と、観測班の方々です・・・・」
 映像はビデオによる紫金山天文台の全景から、スイッチャーによって現在の武田博士ら全員をカメラがパンしていった。
「ちょうど土星と木星は最接近中で近くにあるとはいっても、約七億キロと途方もない距離です。これを超スピードで飛来した天体は、まもなく木星の引力で大きく軌道が変化します。その前に、すでに計算によってどういう軌道を取るかが分かっていますので、それをコンピューターのディスプレーでご覧に入れましょう」
 そう言って、明令夏は白浜の方に寄って行った。カメラもパンしていった。
「これです。この軌道計算をプログラムしたのは、ここにいらっしゃる白浜さんです」
 カメラは、ディスプレーのアップをしばらく撮影していたが、次に白浜のアップに移った。お化粧も何もしてない、長い髪もごく自然にうしろで結んでいるだけである。しかしあどけさの残る可愛い小さな顔と、理知的にきらっと光る大きな目が、見る人すべてを魅了していた。
「このクロスポイントが、いま動いていますね。これが謎の天体です。そして予定の軌道は、これです」
 と、明令夏は、自らの指でディスプレーを指しながら説明した。
「実際に望遠鏡で見えている天体は、こちらです」
 と、今度は茅場の座って見ているハイビジョンモニターの方にカメラと共に移動した。
「この動いている星です。テレビをご覧の皆さま判るでしょうか」
 カメラはモニターをアップにして、しばらく動かないでじーっと写していた。地球が動いているための動きではない。望遠鏡は全天を追従しているから恒星の動きは静止している。木星と飛来した謎の天体の相対位置が変化していくのである。それにしても変化のスピードは早い。明らかに謎の天体の動いているのが判る。
「まるで画面の左から木星に向かって突進しているようですが、木星に衝突するわけではありません。・・・まもなく謎の天体は木星の向こう側に入りますので、見えなくなり、そして木星の右側から姿を現わして、引力で曲げられて左へ急カーブします」
 全員がほとんど同時に時計を見た。ある者は腕時計を、そしてある者は壁掛の時計を。八時十一分である。
「・・・隠れました。さっきまでの星が見えなくなりました。まもなく出てきます。・・・まもなく出てきます。・・・なかなか出てきません。・・・間もなく出てくるはずです・・・」
 明令夏が、茅場と武田博士の方を見て、何か言いたげに、そして不安げな面持ちを見せた。茅場もとっさに、これは何か起きたに違いないと感じた。<ひょっとして木星に衝突したか、いやそんな筈はない。予想軌道に間違いがある筈はない、自信がある。落ち着け!そのうち出てくる!>、茅場は、いや博士も白浜も同じことを考え、心の中で叫んでいた。
・・・全員が固唾を呑んで待った。・・・出てきた。
「これは!」
 茅場が、こんな大きな声を出したのは久しぶりの事である。ほかの観測班全員も、
「あ!何だ!これは!」
 と、驚きの声を出した。真っ赤になっているのだ。まるで燃えているかのようだ。
「衛星だ!衛星が衝突したのだ」
 と、武田博士が低い声で言った。
「ぼくもそう思います。どの衛星かは、これから観測してみないと判りませんが、きっと衛星が衝突したんです」
 と、趙が茅場に向かって言った。
「ガニメデやカリストなんかだったら、双方がバラバラになっていただろうね。たぶんそれらより小さなイオやアマルテアだろう」
 と、茅場が趙に答えるように言った。
「これじゃ軌道が全然狂ってきちゃうよ」
 と、李がテレビに映っているのも忘れて大きく手を上下に振りながら言った。
「そうねえ。土星といい、木星といい、よくそれらに衝突しないで、衛星にばかり影響を及ぼすわねえ。・・・でも軌道計算は平気です。この位のパラメーター変化は簡単にインプットできますから」
 と、白浜は慣れた手つきでキーボードを激しく叩き始めた。ハイビジョンモニターからのデジタル信号を受けて白浜のコンピューターは計算を開始した。
 謎の天体は約四分の一ほどが、どろどろした溶岩のように真っ赤になって、木星の手前を左へ急カーブして進んでいた。
「土星や木星がなければ真っすぐ太陽に向かっていた天体なのに、ずいぶん曲がりましたな。でも、このあとは多分そのまま進むでしょう。・・白浜君、どういう軌道になるか計算は時間がかかるかね。」
 と、武田博士が白浜のそばに寄りながら言った。
「ええ、2、3分はかかります」
 白浜はコンピュータから目を離さないで答えた。
 テレビカメラはハイビジョンモニターから、白浜のコンピュータ、そして武田博士の動きなどに応じて忙しくスイッチングしていたが、ようやく美人キャスター明令夏のアップに戻った。
「木星の大きな引力で、飛来した天体が急カーブしたのが、分かったでしょうか。しかし思いも寄らない出来事に遭遇したようです。木星の衛星、まだどの衛星か判りませんが、衝突したようです。激しい衝突のエネルギーで双方の星はどろどろに溶けた状態になっている模様です。・・謎の天体全部が溶けたわけではないようですが、少なくとも木星の衛星は跡形もない状態になっています。・・武田先生、こういう衝突では星がばらばらになって散りじりになってしまうものではないのですか」
 と、明令夏が博士に尋ねた。カメラも武田博士にパンしていった。
「内部まで冷えて固まった星なら、ばらばらになることも考えられますが、この衝突した衛星は木星のすぐそばを回っていたものですので、木星の引力によって常に内部の圧力が変化して、そのため摩擦熱などによって内部は固まることなく、どろどろのマグマのままで何億年もの間存在していたのです。飛来した天体に捕獲され、衝突してもばらばらにならなかったのは、そのためでしょう。表面の固い地層は衝突の際の運動エネルギーによって溶けてしまいます」
「なるほど。だから、いま見えているように真っ赤になっているわけですね」
 カメラは武田博士のアップから明令夏に戻っていった。
「先生!」
 と、白浜宏美が、いまテレビ中継されていることなどおかまいなしの大きな声で博士を呼んだ。
「どういう軌道を取るか、計算結果が出ました。ディスプレー上に黄色い線で描かせてみます」
 茅場以外の全員が、白浜の操作するコンピューターのディスプレーを見に駆け寄った。テレビカメラは、白浜の打つキーボードのアップから、ディスプレーの方にパンしていった。茅場は相変わらずハイビジョンモニターに映し出されている木星と飛来した天体の動きを追っていた。
 ディスプレーには、現在の位置からの予想軌道を黄色い線で表示していった。きれいなカーブである。
「太陽系の仲間になって、安定な軌道を回るようになるのでしょうか」
 と、明令夏が誰に尋ねるのでもなく、ディスプレーを覗き込むようにして言った。
「まだ判りません。この辺が小惑星帯ですから、これを外れるようですと、その可能性はあります。でも、小惑星帯の中に入るようですと、安定な軌道はまず無理でしょう」
 と、白浜が科学者らしい予見判断を下した。全員がざわざわと騒めいた。・・ディスプレーは更に黄色いカーブを描き続けている。
「入りますねぇ。小惑星帯に」
 と、趙が小声で独り言のようにつぶやいた。
「小惑星帯に入ったらどうなるのでしょうか」
 と、明令夏が趙に向かって言った。カメラとマイクが趙の方に答えを求めるように移動した。
「小惑星を次々に捕獲していって、大きな惑星になる可能性があります。なった後の軌道が安定なものになるかどうかは全く判りません」
 と、趙はちょっと上がり気味に、予想できることを素直に中国語で述べた。
 話している間にも予想軌道が木星と火星の中間にまで達した。
「小惑星帯に入ります!先生!」
 と、白浜が興奮して言った。
「そうか、そうすると趙さんが今言ったように、太陽系も大きく変化することになるね」
 と、武田博士は孫万歌教授に向かって、ため息混じりの、つぶやきにも似た小声で言った。言った瞬間、ふっと脳裏を霞めたのは引力のことだった。<大きな変動はないだろうか>ということだった。孫万歌教授も一瞬鋭い目になったが、すぐもとの優しい目に戻っていた。
「小惑星帯に入るのは、いつ頃になりそうかね」
 と、今まで遠慮して発言のなかった孫万歌教授が白浜に尋ねた。流暢な日本語である。
「今までは、物凄いスピードで侵入してきたのですが、この衝突でかなりスピードが落ちてきましたので、明日あさってというほどではないと思います。計算してみます」
「一週間か、一ヵ月か・・」
 と、趙が言い終わらないうちに、白浜と茅場が殆ど同時に
「五日後です」
 と、大きな声で応えた。茅場はハンディノートパソコンで計算していたのだった。白浜の方がより正確なはずであったが、さすが茅場も誤差範囲内で五日後と当てた。
「スピードが鈍ったとはいえ、五日後とは早いね」
 武田博士は何か焦りにも似た心情でつぶやいた。テレビカメラはどこを狙って、何を中心に取材していくのか判らないように、あちこちと会話がある方に向けていたが、現場ディレクターが、実況はここまでというサインを出した。
「それでは実況中継はこれで終了します。お聞きの通り、飛来した天体は今後さらに太陽系の内側へと侵入を続けていく模様です。そして五日後に小惑星のある軌道、火星のすぐ隣の軌道ですが、そこに到達する予定です。どのような事態になるか予断は許しませんが、また実況ができることを願って、紫金山天文台からお別れすることにします。明令夏でした」
 テレビカメラは明令夏のアップから、白浜のコンピューター、そして現在の天体を映し出している茅場のハイビジョンモニターを映しながら、フェードアウトしていった。
 
「ありがとうございました。歴史的な瞬間をこのように実況できたことを本当に嬉しく思います。皆様のご協力の賜物です。本当にありがとうございました」
 と、明令夏がスタッフと共に武田博士ら研究員全員に丁寧にお辞儀をしながら言った。
 急に緊張感がほぐれて疲れが出たようで、みんな顔を見合わせながら、にっこりして、めいめいは椅子に座ったり、お茶をたてたり、李は冷蔵庫からジュースを持ってきてごくごく飲んだり、部屋全体がなごやかな雰囲気になった。明令夏をはじめテレビ中継のスタッフらは慌ただしく、器材の片付けなど要領よくして、早々に帰路についた。
 
「・・・さて、どうしたものかな」
 と、武田博士がしばらくしてから口を開いた。
「何がですか?」
 白浜が立ち上がって言った。長い間座ったままであったので、腰の辺りをぐいぐい押しながら中央のテーブルの方に歩み寄った。
「うん。・・もうこれだけ私たちも活躍すれば、十分なことをしたのではないかなと思ったのだ。日本に帰ることを本当に考え直してもいいのではないかとね」
 武田博士もテーブルの所に行って、白浜の肩にぽんと手をやりながら言った。白浜も茅場も博士が本気でそう考えているのがよくわかった。<そういえば、日本を立つ時よりもおやつれになられたようだわ>と、白浜は博士の方に向き直して、立っている博士を座らせるよう椅子を引きながら、思った。博士は、それに応えるように、椅子に座り、ふーっと深い息をした。白浜は茅場の傍に行き、何か言おうとしたが、口に出せなかった。
「あと一週間、いやあと五日でいい、観測データを積んでくれませんか」
 と、孫万歌教授が嘆願するように、博士と茅場、そして白浜の三人に向かって言った。
「本当はもっと居て欲しいのだけれど。・・何なら武田先生だけでも先に日本にお帰りになられる、というわけにいきませんか」と、趙が口を挟んだ。
「いや、そういうわけにはいかないよ。大学の研究部門の交流ならまだしも、国と国の間の、いわば契約で来たわけだから」
 茅場が趙に諭すように言った。
「そうねぇ。やはり一緒でなくっちゃ」
 白浜も、うつむいて床を見ながら小さい声で言った。
「いずれにしろ、科学院でいま、あとどの位滞在して戴くかを検討しているのだから、そんなに湿っぽくならんで下さい」
 孫万歌教授が、わざと明るい表情を見せながら言った。
「そうだな。頑張ることにしよう」
 武田博士も、にこやかな表情に戻って言った。