天文台に着くと、待ちかねたように車の音を聴いて、李鵬陽が飛び出して来て、怒鳴るように言った。
「やっぱりですよっ。やられましたよっ」
茅場、白浜、趙は、三人共ぎくっとした。泥棒でも入って何かが盗まれたのだろうか。南京放送局の器材だったらたいへんだ。こちらにも責任がある。
「何をやられたんですかー」
と、車のドアを閉めるのもそこそこに、趙先雲が大声で聞き返した。
「土星の衛星ですよっ」
「えっ?」
と、白浜も聞き返したが、茅場と趙は、ひょっとして第七衛星の事かなと、少しは感づいた。
「いま、南京放送の報道局から電話があったのですが、さきほど、ほんの少し前ですが、アメリカのH天文台で、ハイペリオンがタイタンに捕獲されたことを確認したそうです」
と、李が三人並んでやってくる方に駆け足で来て言った。タイタンは土星の第六衛星であり、ハイペリオンが第七衛星である。この二つの衛星の軌道は接近していたのは従前からであるが、昨夜タイタンが光ったのは、このハイペリオンの衝突であったのだ。三人とも、いや李も含めて全員予想はしていたが、しかし、他の天文台で確認されたのは、ちょっと悔しい思いもした。
「やはりそうですか。・・・・他の衛星は何ともないのですか?」
と、茅場が聞いた。
「いえ、一番外側の第九衛星フェーベが、かなり内側の軌道に入ってきたそうです」
「逆まわりで回っているので、その速度が落ちたのでしょう、きっと」
と、白浜が皆を見渡しながら言った。
「ああ、白浜さん。お元気でなによりです。心配しました」
と、李がいま気が付いたように、笑顔で言った。じじつ、今入ったばかりのニュースにいささか興奮していたため、白浜の、すっかり顔色も良くなって元気になった姿が目に写らなかったのである。
「ドゥオ クエ ラ ニン、ヘン ハオ ラ」
と、白浜はめずらしく、というより李や趙には初めての中国語で流暢に言ってみせた。
「やあ、白浜さん、お上手。私たちがいつも日本語でお話するものですから、白浜さんには中国語は必要ないかと思っていましたが、いつのまにか覚えてしまって、すごいです」
と、趙も白浜の前に立ちはだかるように、あとずさりに歩きながら言った。
「いえ、じつはこの程度なんですよ」
と、白浜は頭をかきかき、笑いながら言った。
「・・それより、・・・・とうとう具体的に異変の二つ目が起こったのね。しかも、こちらに向かって来ているのが、何ともいえず不気味だわ」
と、すぐ真剣な顔付きに戻って、言った。
「そうだね。・・ぼく達の発見した土星の環の揺れと、ハイペリオンを引き寄せた引力、タイタンの位置などから、今日は、謎の天体の通った軌道をもう少し計算して、拡大追跡してみようよ」
と、茅場が李と趙に向かって言った。
「そうですね。ぜひそうしましょう。白浜さんコンピューターの方、よろしくお願いしますね」
と、趙が白浜に言って、さーやるぞ、というように、大きく手をぐるんぐるんと回してみせた。
天文台に入ると、さっき趙が言っていたように、乱雑に置いてあった取材用の器材や観測機器がきちんと整頓され、清掃もして、きれいになっていた。観測用器材も埃など払いきれいになって、先日までとは違った印象を受ける部屋になっていた。部屋の周りはハイビジョンモニターをはじめ、コンピューターやデジタルVTR、各種観測器材等が並んでいるが、中央にはミーティング用の小さいテーブルと椅子が置いてある。
4人は誰からということなく、その椅子に座り、今日のやるべき仕事の内容の打ち合せに入ろうとしたが、趙が思い出したように、
「ああ、そうだ、武田先生にも、タイタンがハイペリオンを捕獲した事を伝えなくては」
と、急ぎ足で電話を掛けに行った。
その間<コーヒーでも入れましょう>と、白浜が立ち上がろうとしたが、李がすぐ立って、部屋の隅からカラフを持ってきた。見ると昨日までは無かったドリップ式のコーヒー沸かし器があった。今朝、李が持ってきたそうである。
「・・・じつは、今朝ちょっと気が付いたんですけど、冥王星から土星に向かって、しかも土星とタイタンの間を通った謎の天体の、その後の予想軌道の計算ですけどね。わたし、引力の計算はいろんなパラメータを入れてプログラムを作ったのですけど、土星によるスイングバイの影響を入れるのを忘れてたみたい。恥かしい話ですけど、昨日は頭の中がパニックになっていたんだわ、きっと」
と、白浜は丁寧な手つきでコーヒーを全員に入れながら、そして時々コンピューターの方を見ながら言った。
「やはりそうだったの。・・・・ぼくも気が付いてはいたんだけど、どのくらい加速されるかは、質量が分からないと計算できないので、大体の検討で未知の軌道の範囲だけでいいと思って黙っていたんだ」
と、茅場がおいしそうに熱いコーヒーをすすりながら、同じようにコンピューターの方を向いて言った。白浜も、<そういえば昨夜の茅場さんの態度というか、何か言いたそうな気配は、この事だったんだ>と、ふっと思い出した。
「茅場さん、言ってくれればいいのに」
と、半ば甘えるような口元をして言った。
「方程式を立てるだけでも時間がかかるし、さらにそれをプログラムするとなると、大変だから、黙っていたんだ。ごめんごめん。・・・・それに、あれだけのパラメータを入れた広範囲なエリアだから、ひょっとして発見出来るかも知れないと思ったんだよ。今日、これから計算式を導こう」
「スイングバイの影響を計算に入れると、どのくらい変わってくるんでしょうね」
と、趙が言った。
「かなりスピードは上がると思うよ。とにかく計算してみよう。・・白浜君はプログラムのどの辺に補正項として入れるか、または初めから計算式だけでもプログラミングし直すか、検討してみてくれないか。またはサブルーチンでもいいし。
・・・・それから趙さんと李さんは謎の天体が土星とタイタンの間を通過したわけだけど、ちょうどその中央を通過したと仮定して、ハイペリオンへの引力がどのくらいだったかを概算してくませんか。軌道が外れてタイタンに落ちた事から大体の検討はつく筈だから。そうすれば未知の物体の質量が、やはり概算だけど分かるよね。・・ぼくは土星によるスイングバイの速度を計算する方程式を立てるから。質量さえ分かれば、あとはプログラミングしてコンピューターにかけるだけです」
と、茅場はてきぱきと、今日のやるべき事を全員に割り当てた。だれも反対するものはいない。妥当な各自への割り振りである。少人数だから出来ることかも知れないが、こういった作業はとにかくチームワークが必要である。勝手にわたしは何々をやる、ぼくは何をと言い出すと収拾がつかなくなるものだ。
「よーし、今夜の観測までにはコンピューターにかけられるよう頑張ろう!」
「やるぞ!」
と、趙と李はお互いの顔を見ながら、元気よく立ち上がって言った。
空は抜けるような青空で、今夜もシーングは良好のようだ。全員が今日こそはと、それぞれの持ち場のデスクに寄った。みな真剣そのものの顔つきになっていった。
白浜は、すでに余計なプログラムになっていると思われる部分の削除の検討や、サブルーチンで計算した結果をメインプロに持ってくるよりも、メインプロの中で計算した方が処理スピードは早くなることから、どの部分に削除、挿入をするかの細かい検討をした。
日本から持ってきた64ビット、800メガの高速コンピューターは、もちろん白浜が使用しているため、趙と李は、自分たちのコンピューターを使用している。謎の天体がどのくらいの引力をハイペリオンに及ぼしたかを初めに計算する。その場合、巨大な土星の引力は計算式の中に入れなくてよい。謎の天体とタイタンとハイリオンの三体問題として解く。人工衛星の軌道計算をするとき、太陽の引力は無視して、場合によっては月の引力は考慮に入れるが、地球と人工衛星だけで計算して良いのと同じである。とはいえ、三体問題は計算式を立てるだけできわめて難しい。計算式さえ出来れば、あとはコンピューターにかければいいが、あと数時間で出来るかと、二人ともあせった。
焦る気持ちは茅場も同じだった。多分世界中の天文台で、どこの国の観測グループも同様の計算はやり始めているに違いないからだ。なんとしても謎の天体の第一発見者になりたいというのは、みな同じである。本当は、昨夜タイタンが光ったとき、すでにハイペリオンが落ちたのだということに気が付いて、計算を始めていればよかったのだが、半信半疑でもあったし、あの時はそういう余裕はなかった。茅場の、土星によるスイングバイでの速度変化の計算は、土星の巨大な引力によるものであるから、もちろんタイタンやハイペリオンの引力などは無視してよい。
謎の天体の質量は未知数であるため、パラメータ入力 m として式を立てる。
二時間以上だれもしゃべらなかった。時折、李と趙が<ドゥイ(そうだね)とか、ブードゥイ(そうではないよ)>と小声で話し合っていただけである。途中で、電話がかかり白浜が出て、片言の中国語で対応していた。午後九時過ぎに南京放送の取材班が来るということであった。武田博士からも電話があった。これも白浜が出て、それぞれの役割や進行状況を説明した。それ以外は、まさしく無言であった。これほど全員が異様なほど一点に集中したことは今だかつてなかったことだ。音といえばキーボードを叩く音と、コンピューターの冷却ファンの音だけである。
・・・さらに幾許の時間が経ったか、ようやく李と趙が立ち上がって中央のミーティングテーブルのところへ来た。
「茅場さん、白浜さん、どうですか?」
と、趙が小さい声で遠慮がちに言った。
「ああ、出来ましたよ。見落とした部分はないか、チェックしていたところです。そちらはどうですか」
と、茅場もようやく口を開いた。あまり黙っていたため、かすれた声になっている。
「計算結果が出ました。もちろん概算ですが、なんと0・06地球単位です」
と、李がプリントアウトしたデータを見せながら言った。
「水星くらいかしら」
と、白浜もキーボードの手を休め、李の方を向いて言った。
「水星より若干重いね。水星は地球の十八分の一だから」
茅場は早速そのデータと、その元になった計算式を注意深く見ながら自分に言聞かせるように言った。
白浜は保温ポットからお茶を汲み、テーブルのまわりに座っているみんなに配って座った。
「凄いなあ、こんなに重い物体だったのか・・」
茅場はデータを満足そうに見ながら、感慨深そうに言ったが、すぐ、
「早速その質量を使って、スイングバイした速度と軌道を計算してみよう。・・白浜君、ぼくの作ったプログラムを見てくれないか。きみの昨日作ってくれたプログラムのどこに挿入すればいいかは、きみに任せるよ。というより、君でないと分からないからね」
と、白浜に言った。
「はい、・・・この質量 m の値はプラス、マイナスどのくらいの範囲で計算しましょうか」
「どのくらいがいいだろうか」
と、茅場は李と趙の方に向き直って聞き返した。
「そうですね。・・プラスマイナス二十%、五ポイントやってみたらどうでしょう」
と、趙が答えた。
「はい、分かりました。そうしてみます」
と、白浜は元気よく返事をして、素早くコンピューターの前に座り、キーボードを叩き始めた。かなり長いプログラムである。入力するだけで三十分、いやそれ以上かかった。白浜を囲むように三人は覗き込んで見ていた。疲れなどまったく感じない。
入力し終わって、にこっと笑顔をみんなに見せて、「さあ、ランするわよ」と元気よくジョブボタンを押した。しばらく動いていたが、チェックポイントのOKランプが1、2、3、と点灯したところで、アラームがついた。
「いやだわ、バグだ」
と、頭をぽんぽん叩きながら白浜は照れて言った。
「落ち着いて、落ち着いて」
と、茅場は笑いながら、白浜の肩を叩いて言った。李も趙も大船に乗った気持ちでいるので、にこにこしている。
膨大なプログラムであるため、バグを探すのは容易ではない。しかし、チェックポイントの3まではOKであることと、昨日までのプログラムは正しく動いていたわけだから、今打ち込んだプロと、そのドッキングをチェックすればいい。茅場もディスプレーを覗き込んで、懸命に探した。いくつかスクロールした時、「そこだっ」と大きな声で茅場がストップをかけた。
「その、ジャンプ先、おかしくないか、データを一緒に持っていくジャンプ先・・」
「あ、ほんとだ。さすが茅場さん。・・これ、どの星座の範囲になるかの指示部のサブルーチンに行っちやうわ。これじゃ計算してくれないよ」
と言いながら、カーソルを素早く動かして訂正した。ちょっとしたミスだった。しかしコンピューターは正直なもので、プログラム通りに動くから、こういうことになる。
「でも、暴走しなくてよかったね」
と、茅場はほっとしたように言った。コンピューターの暴走というのは、同じところをぐるぐる巡回してしまうプログラム上のミスである。暴走であることが判ればエスケープさせればいいが、往々にして、こういう高度な計算の場合、計算に時間がかかっているのだと思い込んで、知らずにじっと長い時間待ってしまうことがあるのだ。いつまで待っても結果が出ないということになる。
「今度は大丈夫かしら」
と、ちょっと不安気に白浜はチェックポイント3以降をランさせた。通過だ。今度は動く。パラメータ m の入力待ちになった。
「OKよ、0・06地球単位を入力します。時刻は現在・・」
カーソル位置に未知の天体の質量を、地球の0・06倍に入力した。再びコンピューターは動きだした。今度はちょっと時間がかかる。高速機とはいっても、いわゆるスーパーコンピューターではないので、しかたがない。しかし、プログラムには茅場も白浜も自信はあった。東京にいれば、スーパーコンピューターで、このくらいの計算は、あっという間にやってのけるのに、と悔しい思いもしたが、今はそんな愚痴を言っている場合ではない。一刻も早く謎の天体の軌道を見付けてやる、そういう熱い思いが二人をよぎるのだった。
・・・出た。四人とも唖然とした。そして殆ど四人が同時に<なんてこった>という意味の事を口走った。ディスプレーには、土星とは遥か彼方の離れた場所、うお座の方に未知の天体の位置を示す点滅があるではないか、しかも速度は時速五百万キロに跳ね上がっている。
「・・・これじゃ、昨日、見つかるわけがなかったわね。・・ごめんなさいね、わたしのせいよ」
白浜は目頭が潤むのを感じながら言った。
「何を言うんだ、そんなことはないよ。君の力で、こうして判ったんじゃないか」
茅場は白浜の両肩をぐっと掴んで慰めるように言った。白浜はそっと左手を、自分の肩にある茅場の手の上に置いた。そして茅場の指の何本かをぐっと握った。右手は落ちてくる涙をぬぐっていた。
「やった!」
「やったね!」
と、李と趙は飛び上がらんばかりに叫んで喜んだ。
「・・・でも、これはまだ正しい軌道とは限らないんだ。この計算は多くの仮定が入っているわけだから、もう少し範囲を広げてみよう。・・白浜君、質量をプラスマイナス二十%変化して、軌道範囲をディスプレーさせてみてくれないか」
と、茅場は左手の指を握った、そのやさしい柔らかな手を握り返しながら言った。
「はい・・」
白浜は、もっとそのまま手を離さないでいたかった。しかし、自分のプログラムと自分の操作によって、大発見をするかも知れない重大な事態である。愛する人の手から離れた指は、もう素早くキーを打っていた。
再びプログラムを走らせた。時間が先程よりもっとかかる。星座の位置と予想エリアを色分けでディスプレーするからだ。全員が固唾を飲んで表示が出るのを待った。
・・・表示が出た。さっきの位置を中心に放物線で見事にエリアが区切られている。しかし意外とその範囲は広くない。
「やりましたねー、ついに」
「これで観測する範囲が特定できましたね。今夜こそ発見できますよ」
と、趙と李が茅場と白浜を代わるがわる見ながら嬉しそうに言った。
「そうですね。・・・プラス、マイナス二十%の範囲で、たったのこれだけとは、太陽系の広さを実感しますね。これだけ狭い範囲に特定出来れば、発見は間違いなしですよ」
と、茅場もいささか興奮気味に答えた。
「発見できればいいわね。でも直接には見えないんでしょう?」
と、白浜も立っている茅場を見上げるようにして言った。
「多分ね。食で探すことになるだろうね。いや、ひょっとして、もう見えるかも知れないよ。とにかく今夜が勝負だ。
・・・白浜君、引き続き、今夜八時から、そう、三十分間隔で、このエリアがどう変化していくかを計算しておいてくれないか」
「はい、計算してメモリーしておきます。で、八時から随時それをディスプレーしていけばいいわね。・・・あした朝まで計算しておくわ」
と、白浜は早々にキーを叩き始めた。
「いや、いや、あした朝までなんていらないよ。もうとっくに発見しているから」
と、趙が笑いながら言った。
「ところで、お腹がすいたね。皆さんそうでもないですか?」
と、今度は李が笑いながら言った。
「ああ、もう六時を過ぎていますね。すっかり時間を忘れていた・・」
茅場が時計を見ながら、今夜が勝負となることを博士に告げるため、電話の方へ行きながら言った。
「お弁当買ってきますよ」
と、李が、言うよりも早くそそくさとジャンパーを着て、車のキーをカシャカシャ鳴らして出て行こうとした。うしろ姿に向かって趙が大きな声で言った。
「夜食もねっ」
いよいよ勝負の観測が始まった。いま現在、まだどこの天文台からも発見したという情報は入ってない。世界中の天文台が昨日に引き続いて土星の方向に望遠鏡を向けていることだろう。いや、われわれと同じ計算をすでにやって、およその軌道を見付けたかも知れない。十分考えられることだ。
李と趙がすっかり慣れた操作で、CCD冷却装置から、そのカメラの調整、ハイビジョンモニターなど一連の調整をいままでにない慎重さで行なった。茅場はデジタルVTRそして白浜はコンピューターの操作に神経を注いだ。
夜空は晴れ上がり、きわめて良好なシーングである。全員の胸が踊った。・・・しかし九時過ぎになっても発見は出来なかった。
・・・ちょうど、九時過ぎに南京放送の取材班が到着した。昨日と同じメンバーである。観測が中断しないように、バッファー出力から中継器に接続する。その辺の技術的な事は昨日と同様であるので、茅場達はもう手をかさなかった。勝手にやってくれ、と放っておいた。しかし、辺りをうろうろするのでいささか気が散る。茅場が渋い顔をすると、それを見てとったスタッフの一人が、
「茅場さん、今日こそ、ここから大発見の生中継を全世界に流しましょうよ、私たちも応援します」
と、茅場の気持ちをほぐすように、ソフトな口振りで言った。
茅場はハイビジョンモニターから目を離さないで、
「そうですね」
と、受け答えた。気持ちの苛立ちが、すでに出ていた。白浜も横目で茅場を見て、それが判った。
「茅場さん、コーヒーでも入れましょうか」
と、白浜は<気持ちは判るが、落ち着いてもらいたい>と、自分自身も昂揚する気持ちを抑えながら言った。
「ああ、熱いコーヒーを一杯飲みたい・・・・」
茅場は、いつもの白浜への優しい話し方とはちょっと違った、まるで自分の妻に向かって言っているような口振りで言った。白浜はふっと悲しい気分になった。観測に入ってから一時間以上になるが、茅場は今までとは人柄が変わったかのような鋭い顔つきになっていた。<そんなに第一発見者になることが名誉なことなのかしら・・・・そうかも知れない、判らないこともない、今まで一緒に苦労してきた努力が実る瞬間が近付きつつあるのだから、気持ちは十分過ぎるほどよく判る・・・・でも、でも・・・・落ち着いて茅場さん、普段のあの優しい貴方が好きなの・・・・>と、白浜は心のなかで訴えた。
みんなにコーヒーを入れようかとも思ったが、考えてみると、放送関係のスタッフやリポーターなども入れると、十人ほどになってしまう。今はそんな余裕はない、飲みたければ自分たちで適当に入れるだろうと、白浜は茅場にだけ、少し濃い目の熱いコーヒーをいれた。
局のスタジオのミキサー室にも、完全に、そつなく中継の映像と音声が調整、完了したようだ。何やらスタッフとリポーターが打ち合せをしていたが、茅場たちに、あと数分後に生中継で2分間流したいと申し入れてきた。ニュースの一環だという。
・・・きりっとした顔立ちのよい例のリポーターが、キューとともに、当然であるが訛りのない流暢な中国語で、マイクとカメラに向かってしゃべり始めた。
「こんばんは、こちらは紫金山天文台です。昨夜に引き続き、謎の天体の発見に全力を注いでいる現場から中継いたします。・・茅場さんです。・・白浜さんです。・・趙さんです。・・李さんです」
と、二台のカメラがスイッチャーによって切り替えられながら、ハイビジョンモニターに食い入るように見いっている茅場、コンピューターの前で星座を映し出し、望遠鏡の位置を示すクロスバーをチェックしている白浜、そしてそのコンピューターと連動で動く赤道儀を制御する追跡装置を入念にチェックしている趙、最後に望遠鏡のそばのもう一つのモニターとCCD冷却装置の温度などをチェックしている李を、それぞれカメラが追っていった。
ちょうど、武田博士も、寮の自室でニュースを見ていたところで、思わぬ場面で四人の真剣な姿が映り、ウンウンとうなずきながら微笑んだ。
「武田博士は、今夜は見えていませんが、先生は昨日までの研究結果をまとめるため、大学の方にいらっしゃるということです。・・見てください。この壮大な宇宙空間を。無数の星たちが、それぞれの運命を背負って生き続けています。私たちの太陽系も、その一員です。何も特別のものではないのです。ごく、ごくありふれた星のひとつです。私たち人間も特別の存在ではありません。今この瞬間にも、遥か彼方の星に住んでいる人間が同じように夜空を仰いでいることでしょう。
・・太陽系に、いま謎の天体が入り込み、昨夜土星の傍を超スピードで通過しました。世界中で、この天体を発見しようと懸命になっています。ここ紫金山天文台でも、・・・」
と、ここまでリポーターがしゃべった時だった。突然、茅場が、
「これだ!」
と、激しい口調でモニターの一点を睨み付けて叫んだ。
「えっ?」
と、殆ど同時に、全員が茅場の方を向いた。そして、どやどやとハイビジョンモニターの周りに集まった。
「このまま中継を続けます。このまま中継を続けます。茅場観測員が天体を発見した模様です。どれですか?私たちには何も見えませんが」
と、リポーターが目を輝かせて寄ってきた。放送用のモニターにもきれいに星々は映っているが、どの星が茅場が発見した星か素人にはさっぱり判らない。いや白浜や趙にも判らなかった。
「どれなの?茅場さん」
と、白浜も茅場の顔に自分の顔がくっつくほどに近付いて目をこらして探しながら言った。
「これだよ!」
と、多数の星々の中に何もない空白の部分がある所を指差して言った。
「あった、これだ!」
と、白浜と趙が揃って、小さな声で言った。その時、
「謎の天体による食らしいものを発見したんですが、確認してくれませんか」
と、望遠鏡のあるドームから駆け足で下りてきた李が、ハアハアと息を弾ませながら言った。
「うん、今発見したところなんだ。これでしょう」
茅場が指で、その食をモニター上で示しながら言った。
「そう、そう、それです。やはり天体ですね!やったー!」
と、李は小躍りに飛び上がって叫んだ。
「どういう事なんでしょうか。みなさまの一部始終が、ただ今中継されて全国に放送されています。ご説明ください」
と、リポーターもモニターを覗きながら言って、マイクを茅場の口元に寄せた。
「ここには今、ミラという星があるはずなんです」
と、茅場はモニターの、その点を指で示しながら説明し始めた。
「ところが、消えて見えないんです。その周辺の星もきれいに何個か見えないでしょう。他の星の密度から、すぐ空白となっているのが、お分りでしょう」
と、リポーターにも納得させるように執拗に指でその部分を押しながら言った。
「そう言われてみると、他の部分とは異なっているようですね。これが謎の天体なんですか?テレビをご覧になっている皆様お分りでしょうか。この部分です」
と、リポーターは、カメラがハイビジョンモニターをアップで映したので、指差した。
スタジオでも中継映像で、それが判ったようで、すぐ矢印のポインターで、その部分を示した。
「ここに謎の天体が今あるんです。あまり光を反射しない黒い物体のようです。だから見えないのですが、向こうにある星の光をさえぎっているので判るのです。これを食と言います。日食は太陽の光を月がさえぎる現象ですね。月食は地球が月に届く太陽の光をさえぎるものですし、放送衛星の食というのもありますね。地球の影になって放送衛星の太陽電池がストップしてしまう事です」
と、茅場は落ち着いて説明した。
「そのうち、ミラが見え始めますよ。謎の天体のスピードが早いから、その動きにつれて見え隠れする星が移動するはずです」
と、趙も茅場の説明を補足するように言った。
スタッフがリポーターにスタジオからの伝言を紙に書いて渡した。
「ついに発見しましたね。おめでとうございます。しかも世界初です。この中継は中国全土だけでなく、ただいま入りました知らせでは、日本にも衛星中継されているということです。・・すばらしい快挙です」
スタッフもリポーターも一緒になって長い拍手をした。テレビカメラは観測に携わっている四人を代わるがわる映しだしていた。
「白浜君、さっそくこの天体の動きをコンピューターに入力して、速度、質量、軌道を計算するよう、プログラムを変更してくれないか。何時間かかるか判らないが、できるだけ細かく入力していこう」
と、茅場は今度は丁寧な言い方で白浜に言った。
「はい。天体のスピード如何では、早く判るでしょう」
ミラが見えてきた。凄いスピードである。四人の観測員よりも、報道関係者の方が興奮している様子である。スタジオの方でも、先程の発見の瞬間の模様を生で放送できたことを喜び、五分ほど続いたが、その後は連続して放映はしてないようである。
世界の著名な天文台から、つぎつぎと発見の知らせが入ってきた。武田博士からも<よくやった>と電話があった。テレビで、その瞬間を見ていたのである。
一時間たち、二時間たった。コンピューターは予想軌道をはじきだした。全員が目をほころばせて、ディスプレーに見入った。ディスプレーには太陽系の土星から内側の各惑星を表示しているが、予想軌道は木星を横切っている。
「これは面白い!あと二十時間後に木星に衝突だ」
と、趙が低い声で言った。
「いや、まだ判らない。もう少し詳しいデータの積み重ねがないと、予想軌道は正確なものにはならないと思うよ」
と、茅場は趙に言ったあと、白浜に、
「できるだけ正確に、細かく入力してよね」
と、言った。
「はい。・・・でもこの軌道が正しいとすると、木星に衝突して一巻の終わりね」
と、白浜は一種の安堵感に似た気持ちを込めて言った。
「衝突したら、また光るでしょうかね」
と、報道キャスターが誰に尋ねるということもなく、ディスプレーを見ながら言った。そういうシーンはぜひ生中継で流したいと、報道マンらしい発想での質問であった。
「衝突する前に燃え尽きてなくなるよ」
と、李が答えた。
「そうだろうね。木星は惑星の中では最大の星で、殆どが液体と気体で出来ているので、気体はかなり上層まで分布しているだろうから、いわゆる流れ星になって燃え尽きてなくなるだろうね。・・そうなってくれれば一番いいよ」
茅場は、これ以上太陽系に異変が起きるのは、もうたくさんだ、早く帰りたい、新しい理論である多変数位相渦理論の研究に没頭したいという気持ちから、この謎の天体が木星の引力圏に捕獲されることを真に願っていた。
観測は夜十二時を過ぎた。
「見えた!これだっ!」
李がドームの望遠鏡の操作をしながら、モニターを見て叫んだ。聞きつけた趙が確認するや下のコンピューター室に駈け下りて来た。李と趙は先程から望遠鏡のあるドームとコンピューターのある茅場などのいる部屋を、行ったり来たりしている。落ち着いていられないのだ。
「こちらではどうですか!」
「にぶい光だね。うっすらと見えてきたよ」
茅場が落ち着いた声で答えた。ついに星として実体が見えてきた。しかし刻々と時間とともに移動する食から、すでに正確な軌道計算が出来るようになっていたので、茅場はさほど、この天体が見えるようになったことには興味を示さなかった。
・・・コンピューターディスプレーに映しだされた軌道は、やはり訂正されていた。
「木星には衝突しないわね」
「また、すれすれの所を通っていくみたいだね」
と、茅場は白浜に答えた。
「木星の引力でどのくらいスイングバイされるか、今度は正確に計算してみます」
と、白浜はコンピューターをオペレートし始めた。それまでのディスプレーは、あくまで木星の引力は考慮に入れてない軌道であるため、一直線に太陽に向かって描いていた。ところが、その途中に二十時間後には木星が来る。衝突はせず、すれすれの所を通っていくのだ。当然、木星の巨大な引力で、この謎の天体の進路は曲げられ、加速される。
結果がディスプレーに出た。全員がオーっと言う溜め息をついた。ほとんど九十度に近いカーブに進路が曲げられている。これが正しければ二十時間後には、このような軌道を取ることになる。
「やったね、白浜君。この予想軌道が確認できるのは、二十時間後だ。・・今夜はひとまず寮に帰ったらどうかな。・・昨日、今日と連日で、大変な重労働だったからね」
と、茅場は白浜に、あの普段のやさしい語り口で言った。
「重労働だなんて、大丈夫よ、わたしは。・・それより茅場さんこそ、さっきから立ちん棒よ、ずっと。わたしは座っているから平気だけど」
なるほど、そう言われてみるとそうだ。立ちっぱなしである。茅場もいささか疲れが出たようだった。それを見て悟った李と趙は、ほとんど一緒に、口を開いたが、李の方が先に言った。
「茅場さん、白浜さん、私たち二人がこのあとは観測を続けますから、お帰りください。もう見付けた以上、この謎の天体は見逃しはしません。徹底的に追い続けて、必ず正体を暴いてみせますよ」
「その通りです。よほどのことがない限り、この軌道は変わらないでしょう。木星の傍を通過したあと、どういう軌道になるかは、明日以降の観測になりますから、今夜のところは私たち二人で充分です」
と、趙も白浜の方を向いて言った。
「ありがとう。・・じゃ、そうさせて貰おうか」
と、茅場は白浜を促した。白浜は
「ええ」
と、茅場にうなずいた。
テレビ局のスタッフも、技術関係の者が二人残って、もっとはっきり光って見えるようになったら、いつでもVTRを回せるように待機することになって、その他の報道キャスターなどは茅場達と一緒に帰ることになった。
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