一夜明けて、午前中はいつものように掃除、洗濯など身の回りの生活上の仕事をしたあと、茅場と白浜は武田博士と一緒に少し早めの昼食をとった。朝食はとらず、このようにすぐ昼食になることが多かった。二人は博士に昨夜の詳しい報告をしたあと、謎の天体を発見した以上、もう私たちの役目も終わりではないのか、早く日本に帰りたいと、話をもちかけてみた。
博士も同意し、孫万歌教授を通じて科学院に頼んでみることになり、博士は大学に残り、今日も茅場と白浜の二人が天文台に行くことになった。
 
・・・いつもとちょっと遅れて趙が迎えに来てくれた。車の中で趙にも、日本に帰りたい旨の話を切りだした。
「え?とんでもない。ぜひもっと滞在して下さい。あなた達に帰られると、私たちはお手上げですよ」
 と、鼓楼広場から太平門に向かう直線道路で、車のスピードを少し落としながら、趙は全然そういう話には応じられないという風に応えた。
「そうでもないと思いますよ。もうCCD撮像装置なしで、直接、望遠鏡で観測出来ますから」
 と、茅場は事を荒立てないように優しく言った。もともと、そう何が何でも東京に帰りたいというほどでもなかった。ただ、こうして毎日白浜宏美と一緒に仕事をしていると、東京にいる武田美枝子に対する以上の何かを感じてしまうことが時々あるのが恐いのだ。
 今朝も東京に電話をしたら、昨夜もテレビで自分を見たこと、このところ新聞にも大きく新しい発見のことを報道しているなどを声を詰まらせて言い、早く帰って来てと、泣きつかれたのである。たぶんに甘えもあったろうが、夫人や博士の想いも同じだろう。
 一方で、武田美枝子には内緒とはいえ、最近は白浜宏美が洗濯物はもちろん部屋の片付け、拭き掃除までやってくれている。いけないとは思いつつ、自分の部屋に出入りしているのだ。大抵は午前中のことで、夜部屋に入って来ることはないが、そうならないとも限らない。なるべく早く東京に帰りたいと思うのは、茅場にとって自然な気持ちであった。
 
「茅場さん、そんなに帰りたい?・・昨日からそればっかり」
 と、白浜宏美が、冬でも外の緑濃い街路樹を見流しながら言った。昨夜、放送局のスタッフらと一緒に寮に戻る際にも、
<もう役目は終わったから帰ってもいいだろう>と話していたのだ。
「これからですよ。・・木星をかすめて更にスピードを増して地球の方向に突進してくるわけでしょう。一緒にあの天体の最期を見届けましょうよ。まさか地球にぶつかることもないでしょうから。きっと太陽に吸い込まれますよ」
 と、更に車の速度を落としながら趙は、本当に茅場が日本に帰ってしまうのだろうかと心配になって言った。
 白浜宏美は東京に帰りたいとは、少しも思っていなかった。このまま、南京大学に編入学して、こちらで学者の道を選んでもいいとさえ思っていた。しかし茅場や武田博士はそういうわけにはいかないから、自然、自分も帰ることにはなるだろうが、それにしても、もっとこちらで、すっかり心が通じあえるほどに仲良くなった趙や李、それに愛する茅場らと観測、研究を続けたいと願うのだった。
「修さん、そんなに帰りたいの?」
 返事をして欲しいように、もう一度、それも茅場に向かってでなく、外の景色を見ながら言った。
「いや、別にそういうわけでもないけど・・。博士の研究も遅れがちになっていらっしゃるようだし、未知の天体も発見出来たし」
「いわゆる、何とかシックね」
「そうじゃないったら。・・君はどうなんだ?東京が恋しくないか」
「ぜーん、ぜん。茅場さんと一緒なら、たとえ火のなか太陽のなか」
「熱い、あつい。窓を開けようか。ああ、いま冬だっけ」
 と、大きな声で笑いながら、趙がハンドルをぽんぽんと叩いて言った。
「ところが、ちっとも熱くないの」
「え?どういうこと?喧嘩でもしたの?」
 と、趙がバックミラーで白浜を見ながら、心配そうに言った。
「ううん、そうじゃないの。・・・・茅場さんにはね・・・・」
「こらっ、余計な事言うんじゃない」
「いいのォー。趙さんには言ってもいいでしょ・・・あのね、茅場さんにはね。東京に恋人がいるの。武田美枝子さんって」
「え?本当ですか?白浜さんとお二人が・・」
「ノー、ノー、わたしなんか・・・・」
「信じられません。てっきりお二人は・・・・」
「それで、早く東京に帰りたいんじゃないかって、・・感ぐっているわけ」
 と、白浜はちょっといじわるそうに、流れていく外の景色を見ながら言った。
 趙は急に胸がときめくのを感じた。
「武田さんって、武田博士とご関係が?」
「そう、先生のお嬢さんなの」
「え!そうなんですかァ」
 趙はハンドルを握っている手が汗ばんだ。バックミラーでちらっ、ちらっと白浜を見たのを茅場も白浜も気付かなかった。
 車は急に元気が出たように、天文台への坂を登って行った。
 
 李は天文台にはまだ来てなかった。孫万歌教授から連絡があり、今までの経過やこれからの打ち合せ、とくに武田博士ら一行がまだ中国にとって必要かどうか、の聞き取りなどがあったためである。
 夕方まで、三人は持ち場の整備や点検、コンピューターの予備動作などを行なった。特に趙は、鼻歌まじりで元気に動き回った。このところ忙しくてやってなかった仕事、たとえばドームを動かすモーターへの注油、ギヤへのグリス塗り、望遠鏡を支える架台への注油など足まわりのメンテを入念に行なった。コンピューターと連動して動かすものだけについ忘れがちになるが、こういった足まわりはスムーズに動くように調整しておかなければならない重要なポイントの一つである。
 白浜は昨日までの不必要になったプログラムの整理をした。CD−Rやフロッピーへのセーブ。FDは防磁ケースに入れることを怠らなかった。
 夕方七時頃、武田博士と孫万歌教授、それに李が天文台に来た。中央のミーティングテーブルに今回の関係者一同が座った。合計六人である。椅子が足りなくて趙と李はコンピュータのところから持ってきていた。趙は白浜の隣に座っている。
「みんなご苦労さんだったね。ついに謎の天体を突き止めたね。それも世界初ということで、ビッグニュースで昨日は報道されてたよ。日本にも衛星中継されたし」
 と、武田博士が茅場ら四人を代わるがわる見渡しながら、目を細めて言った。
「今夜は木星のそばをスイングバイして急ターンします。それをぜひご覧下さい」
 趙が元気よく武田博士と孫万歌教授に向かって言った。
「そうさせてもらおうか。・・・・8時過ぎとお聞きしましたが。・・・・その軌道計算も白浜さん、あなたがプログラムを作ったのですって。李君から聞きました」
 と、孫万歌教授が白浜に言った。いつもながら流暢な日本語である。
「はい。・・・・でも計算式はみんなで立てたのですから・・」
 と、白浜は顔を赤らめて、うつむき加減に小さい声で言った。孫教授とはあまり話をしたことがないし、面と向かって讃められるように言われると、ちょっと気恥ずかしい思いもした。
「ところで、武田先生からお聞きしたのですが、日本へ帰りたいということですね。白浜さん」
 と、孫教授が白浜に向かって言い出した。
「え?、いえ、・・・・私・・」
 白浜は急に自分に帰国の話を言われたので、どう答えたらいいか判らず、どぎまぎし、茅場に<わたしじゃないよ、あなたから何か言って>と言わんばかりに目を向けた。
 茅場はちょっと戸惑ったが、すぐ、
「あ、いや、白浜君が言い出したわけではないんです。私から、もう謎の天体も発見出来たことだし、趙さんや李さんのような優秀なスタッフがいらっしゃるから、私たちはそろそろ帰ってもいいのではないかしら、と武田先生に申し上げたのです」
「そうですか。じつは中国科学院に問い合せて、その件を検討してもらったのです。正式な返事はまだですが、感触ではまだまだ居てもらいたいようだったですよ」
「そうなんだ、茅場君。世界初の大発見をした直後に、そそくさと帰るような印象を与えるのもどうかと思うんだがね」
 と、武田博士も孫教授のあとに続いて言った。
「はい、僕もそんなに帰りたい一心で申し上げたわけではないんです。・・・もう少し天体の様子をみましょう」
 と、茅場は言って、白浜の方を見た。白浜は嬉しそうにうなずいていた。
「よかった、よかった。じつはどうしても帰りたいと言われたらどうしようかと、迷っていたところなんですよ。とくに可愛いお嬢さんに泣き付かれたら、どうしようもないですからね」
 と、孫教授が笑いながら、白浜の方を向いて言った。
「いえ、私は孫先生がおっしゃるなら、1年でも2年でもいますわ」
 と、意外と孫教授も気さくな所があるのに安心してか、白浜も笑いながら応えた。
「すっかり、こちらが気に入ったもんだね。何なら、こちらにおいて行こうか」
 と、武田博士も、つい乗って言った。
「それがいい、それがいい。ずっとここにいて下さいよ」
 大きな声で口を挟んだのは趙だった。さっきから白浜の傍に座っているが、落ち着かない様子で会話を聞いていた。
「はい、ずーっといます」
 白浜は趙に向かって、ぴょこんとお辞儀をしながら言った。こういった冗談めいた言葉でも趙には非常に嬉しい一言だった。
「コーヒーでも入れましょう」
 と、白浜が立った時、外で車の音がして、どやどやと騒がしい足音が聞こえた。南京放送の中継車である。昨夜訪れたのは九時過ぎであったが、今夜は八時過ぎから、発見した謎の天体の、木星での急激な軌道変化が見られる筈なので、早々とやって来たのだ。
 昨日までのスタッフであるが、今日は女性キャスターである。明令夏(ミン・レイカ)という目鼻立ちの整った、多分二十代であろうと思われる日本系の顔立ちをした若い美人だった。スタッフの一人が「中国一の人気美人キャスターです」と紹介した。
 白浜の白衣だけの質素ななりと対照的に、コートを脱ぐと、すぐそのままテレビカメラの前に立てる豪華なフェミニンスーツを着ていた。ブラウスとのコーディネートではなく胸元の大きく開いたサンドベージュ色のツーピースで、胸元から肩の方にかかったレース飾りがシャープな印象を与える。大きく開いた胸元には十ミリはあろうかと思われる大粒の真珠をゴールドで包んだペンダントが、光線の向きによってピンク色に、あるいはブルーにと微妙な色に変化している。誰もが見惚れる着こなしとスタイリングである。
 皆に紹介されたあと、こと細かく観測装置やコンピュータについてスタッフに聞いていた。台本なしで、直接カメラに向かってしゃべるらしい。茅場らにも、今夜の観測はどういった部分なのか、見どころはどこかなどを、かなり詳しく聞いてきた。茅場は片言の中国語では恥ずかしくもあったので、途中で李と趙に説明を任せてしまった。
 明の言動は研究室の中を一挙に変えてしまったようで、コーヒーを入れかけた白浜も一杯しか入れず、そのコーヒーを持て余してしまった。
 あれよあれよという間に、中継ケーブルの接続や調整をやってのけて、準備が出来ていた。三日目にもなれば慣れたものである。
 孫教授らは、もう打ち合せなどはすることもなかったので、狭い研究室内が右往左往する人でごったがえしても、別段煩わしくは感じなかった。むしろ、こちらもちょうど天文台ドームを開けて望遠鏡のセットやCCD撮影装置、冷却装置などの電源投入などをする時間でもあったので、一緒になって李や趙、それに茅場なども動き回った。