次の朝、茅場修は小鳥の声とともに目が覚めた。寮といっても学生寮とは少し離れた奥まったところにある、森の中といったところで、百舌や四十雀、山鳥、呼子鳥などたくさんの小鳥が一斉に鳴き始める。いつまでも寝ていられない、といった朝である。
八時に寮の食堂に集まるということになっていたので、茅場は少し早めに来てみた。しかし、もう白浜宏美は来ていた。広い食堂であるが、入り口付近にいたので、すぐわかった。学生もかなりいた。
「お早ようございます」
と、明るい笑顔で白浜が挨拶をした。
「お早よう。よく寝られた?」
「ええ、疲れていたせいか、よく寝たわ。茅場さんは?」
「うん、昨日飲みすぎたせいか、ちょっと頭が痛い。飲みつけないものを、あまり飲むといけないね」
と、頭をとんとん叩きながら笑って言った。
「お部屋、全然片付いていないの。これから半年も暮らすんだから、少し機能的にお部屋に、持ってきたものを整頓しようかと思ったけど、時間がなくって」
「そうだね。ぼくもだよ。乱雑そのままだよ。今日は忙しそうだから、明日以降だね」
「洗濯物など、持ってきて」
「いやいや、いいよ。そんなこと。自分でやるよ」
とは言ったものの、心の中ではやって貰おうかな、という気持ちがふっとよぎった。そういう茅場の気持ちが態度に出たのか、白浜はさっとそれを見抜いた。嬉しかった。
「遠慮しなくていいのよ。美枝子さんには内緒しておくから」
そう言って、にこっと子供っぽく茅場を見て笑った。茅場も思わずそれに応えるかのように笑ってしまった。
ちょうどその時、外で車の音がして、李鵬陽と趙先雲の二人が入って来た。やはり、この近くの寮に入っていると昨日言っていた。大学の車だろうか、それともチャーターしたものか、ワゴンの、お世辞にも立派とはいえない車に一緒に乗ってきた。
「ニイ ザオ」
「おはよう、ございます」
二人も昨日は随分飲んだようだったが、いたって元気だ。頭が痛いなど、そういう気配は微塵もない。
「昨夜はよく寝られましたか。お風呂のお湯はよく出ましたか。寒くなかったですか」
と、李が白浜宏美に一気に尋ねた。
「はい、おかげさまで。・・結構でした」
別に問題ありませんでした、というのが、結構でした、という言葉になってしまったので、自分でもおかしくなってクスッと笑った。
「ああ、元気で何よりです。一日目からして、風邪をひいたとか、お腹をこわしたなど、トラブルがあったのでは、デリケートなお嬢さんにワルイですから」
と、趙も大きな声で笑いながら言った。すかさず茅場も、
「このオジョウサン、ちっともデリケートではありませんで、とってもタフね。何でも食べるし」
と、白浜に向かって言った。
「まあ、茅場さんったら」
茅場がこんな冗談を言うのは何ヵ月振りだろうか、白浜宏美は顔を赤らめて、ポンと茅場の腕を叩いて、喜びを表現した。
「武田先生はまだのようですが、入り口からよく見えるあの辺に座りましょう」
と、趙が言って、そちらに移動しようとした時、ちょうど博士が急いで入ってきた。寝不足気味で、目が真っ赤だ。
「いやあ、わるい、わるい。寝坊してしまった。あれから、ちょっと気になる計算が残っていたので、やっていたら、すっかり寝るのを忘れていたんだ。気が付いて寝たのは四時過ぎていたよ」
熱中したら傍に爆弾が落ちても判らないくらいの人物だから、さもあらんと茅場は思ったが、
「先生、そういうのは、今日コンピューターをセットしますから、私たちがやりますよ。無理をなさらないで下さい」
と、困ったように言った。
「そうですわ。先生。私たちに任せてください」
「はいはい。今度はそうするから、勘弁してくれ。とにかく腹が減った。早く朝食にしよう」
師弟の親しい会話を聞いていた李鵬陽と趙先雲は羨ましく思った。この人たちと一緒により充実した太陽系観測をしようと、ますますファイトが湧くのだった。
学生が増えてきた。留学生だろう、欧米系の学生もちらほら見える。学食とはいえ、日本の朝食のような海苔と卵焼きと薄い鮭の焼いたもの、味噌汁といったものではなく、朝から油をたっぷり使ったこってりした料理である。ボリウムもある。茅場と白浜はあまり食欲が進まなかったが、武田博士はおいしそうにもりもりと食べていた。
五人で、日本語と中国語のちゃんぽんで話をしながら食べていると、まわりで興味深くこちらを伺うものも何人かいたが、さして気にはしないでいた。ところが、その中の一人が手に新聞を持って、遠慮がちに近寄って来て、
「チュー ツー ジェン ミェン(はじめまして)、ウオ シ シュエション(私は学生です)、ウオ ジェンダオ ニン ヘン ガオシン(お目にかかれて嬉しいです)」
と、大きく新聞を広げて武田博士と茅場、それに白浜の三人の写っているところと白浜のアップ写真を指差して、目を細くしながら言った。その学生は、すでに李鵬陽と趙先雲はよく知っているとみえて軽く挨拶をしただけであったが、一行三人に対しては丁寧に何度も何度も頭を下げて挨拶をした。李はその新聞を読み、また趙はその学生と何やら早口で話をしていたが、李が、
「先生達のことが、随分大きく、詳しく載っています。たいへん歓迎しているということです。とくに白浜さんのことは、若手女流科学者おおいに期待されると、その美貌とともに紹介されていますよ」
と、白浜に近付いて言った。白浜は照れて、
「そんな、・・」
と、博士と茅場の方を向いて頬笑んだ。
博士と茅場も、その新聞を貸してもらい読んだ。といっても、博士は中国語は達者で、よく理解できるが、茅場は会話程度しか出来ないので、大雑把なことしか判らなかった。しかし科学欄や日常報道欄ではなく、政治欄に大きく取り上げられて、日本の協力は中国にとってたいへんプラスであることを強調していた。
「天文台の方には新聞がきますので、毎日ご覧ください。寮の方にも学生が自由に読める新聞がありますが、順番がくるまでに明日になってしまいますので」
と、趙が笑いながら言った。
その学生は、自分の席に戻って、仲間に盛んに話し込んでいた。タケダ、カヤバ、シラハマという名前が頻繁に出てきたところをみると、一行三人のことを話しているに違いないが、早口であることと、かなり訛りがあるので、ほとんど内容は判らない。しかし自分も日本に留学したいのが希望だというようなことも話しているのが少し分かった。若い趙や李も、以前は日本に留学していた学生で、いまは、帰国後こうして助教授職として活躍していることを知っているのだろう。羨望の目で、テーブルの五人を見ていた。
食後、もう一度九時半に、駐車場のワゴン車のところに集まることを約束して一行は別れた。部屋に戻って、天文台に持っていく荷物を用意したり、身の回りの整理整頓も、ある程度はしておきたいからだ。
茅場は、観測機器類はかなりこまかいものまで、別便で既に天文台に送っているとはいえ、自分の電子手帳や、ちょっと計算するという時よく使うノートパソコン、研究メモなどをまとめた。また夜寒くなってはいけないので、ジャンパーも忘れなかった。これは向こうに置いておけばいい。
白浜は何をさておいても、最も大切なプログラムの入っているCD−Rやフロッピーディスクをまとめた。これらのCD−RやFDは空港での検査の折り、外国為替と外国貿易管理法の規定で、戦略物資等輸出規制製品に該当するものとしてチェックされたが、前以て日本国政府の許可証を用意していたので、問題はなかった。その他女性らしいこまやかな手回り品をまとめた。
武田博士は、昨夜計算をしたという、びっしりと式と図面、それに計算結果の書かれた研究用ノートと、数冊の自分の書いた書籍などを荷物にまとめた。また、昨日は夜遅かったので、電話をしなかったが、東京の自宅に、何かの問い合わせや新しい情報、あるいは変わったことはないか等の電話をするのを怠らなかった。今朝の新聞に、「昨日のテレビでの発言に対抗したかのように、藤川教授の反論が載っている」と夫人が言ったが、博士は別段気にするでもなく、「あァそう」と短めに電話を切った。
食堂こそ、学生と一緒であったが、寮はこの南京大学の中では最も高級なデラックスなもので、高級ホテルなみのものであった。もちろんバス・トイレ付きで、ベッドはセミダブルで、小柄な白浜にとっては大き過ぎるほどの贅沢なものである。午後は日がよく入り健康的な明るい部屋でもある。バスとトイレ、それに部屋の掃除を毎日、専門の係がやってくれるという。白浜宏美は自分でするからいいと、昨夜、趙と李、それに管理人に案内された時言ったが、聞き入れられなかった。したがって三人とも、とくに白浜は女性らしいナイーブさで、部屋の整頓を恥ずかしくない程度にやっておいた。
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