8月3日土曜日の件は、もめること無くすんなりと決まった。大磯海岸だ。江ノ島から湘南海岸はいっぱいの人々で、芋を洗うほどとはよく言ったもので、少し足を伸ばせば良いところがある。それでいて色んな施設が充実していて広い駐車場も完備している。駐車料金プラス入場料を払わなくてはいけないが、更衣室やトイレなどが気軽に使用できるので安心だ。間宮も行ってみたいと思ったことは何度もある。
一方の内田兄妹(きょうだい)も武田美枝子も行ったことはなかったようだ。二つ返事で<行こう>と決まったわけだ。
4人ならば電車よりも車の方が安い。<車で行こう>というのもすぐ決まった。内田の車か、間宮の車にするかは、帰りに武田美枝子を下北沢近くにある会社の独身寮まで送るので、道を知っている内田の車にすることで意見一致。内田も間宮も自由が丘の比較的閑静な豪邸の建ち並ぶ緑多い所に一戸建て住居を構えている。
当日の朝9時。武田美枝子を乗せた内田の車が間宮邸の門の前まで迎えにきた。内田伸夫は何度か来たことはあるが、妹は来たことはなかったし、もちろん武田美枝子も初めてである。
「えー!こんなに大きな豪邸に住んでるの、間宮さんは!」
びっくりして最初に声を出したのは妹の内田由美だ。門構えが凄いばかりか、覗いて見ると門から玄関まで10m以上はある。見える範囲で左手は日本庭園のようで、右手は2台の車が駐車できる立派な屋根付き車庫になっている。1台見えるのが克彦のものだ。もう1台は父親のものだろう、土曜日なのに出勤か、車はない。塀の高さは普通よりやや高い印象だ。
武田美枝子は声が出なかった。山形県の実家の小屋みたいな古びた農家の平屋の家が目の前に霞んだからだ。
やがてインターホンから若い女の人の声がした。
「すみません、お坊っちゃま、すぐ参りますから」
玄関前の風景は映像となって居間やキッチンなどでも見えている。
どさどさっと駈けだしてきた間宮のうしろから、母親とインターホンの声の女性が付いて出て来た。内田はとっさに
「お母さんとお手伝いさんだよ」
と説明した。
「え!お手伝いさんがいるの!」
内田由美は車の中から目をぱちぱちさせて見入った。3人とも車内で待っていたので、会話は外では聞こえない。
「弁護士ともなれば入るモノが違うからね」
内田伸夫は笑いながら言った。
武田美枝子はもう頭の中は真っ白で、まともに見えなかった。いや見た。そこには上品で高貴なご婦人であられる母親の代わりに見えたのは、実家で細々と農業をやっている野良着に頬かむりをして麦わら帽子の、自分の母の姿である。
「待たしてゴメン、ちょっと寝坊しちゃった」
大きな門扉が片側へすーっと開いて、まだ全部開いてないのに間宮が飛び出してきた。お手伝いさんが手に持っているのはリモコンである。門扉が左片側であるのは理由がある。普段お買い物とか人だけが出入りするのは、向かって右にある勝手口の戸口だからだ。今朝はお客様への挨拶だ。勝手口から出入りしたりはしない。
間宮は普段のどうって事のない服装で、手には着替えが入っているのか防水になっている手提げ袋を無造作に持って車内に入ってきた。後部座席は運転席のうしろに武田美枝子、その横に内田由美が座っていたので、当然助手席ということになる。入るなり、後ろの武田の方を向いて、
「間宮です。よろしくお願いします」
と、軽く会釈と挨拶をした。
武田美枝子は車が屋敷の門の前に止まったときから、いわば半分放心状態だったが、ふと、その声で我に返ったように、
「あ、武田です。初めまして」
と、やっとの思いで小声が出た。克彦は美枝子の手の動きを見逃さなかった。きちっと両膝に両手を合わせてお辞儀をしたのだ。
この瞬間だった。二人の心にぐさっとキューピッドの矢が突き刺さった。伸夫の言う通りだ。<何と可愛い子だ!>、この可愛さには誰もが認める理由があった。小顔で目が大きく真っ黒の瞳が大きい。小顔ながらふっくらした頬。前髪は眉毛と睫毛(まつげ)の真ん中あたり。隙間から見える前髪の奥のややハの字型になっている眉。ヘヤスタイル全体としては肩より10cmくらい下まで。克彦は職業柄、人の特長を見抜くのは一瞬である。ただ身長は座っているからよく分からないが、内田由美とほぼ同じなので160cmくらいだろうか。
まつげが長く上を向いている典型的なおしゃれだ。しかし今日は泳ぎに行く。こんな日に付けまつげをするか?じろじろ見るわけにいかないので克彦が唯一悩んだのは、この1点である。
「挨拶はそれだけかい」
と、内田伸夫は車のエンジンをかけながら言った。エンジン始動といってもバッテリー車だから、非常に静かで、うっかりするといつ始動したのか気がつかない。
自動の窓を開けて、外にいる二人に聞こえるように大きな声で言った。
「それでは行ってきま〜す」
由美も美枝子も声は出さなかったが、丁寧にお辞儀をした。
「お気をつけてね。楽しんでらっしゃい」
と、母親の優しい声。
「お土産はいらないから」
と、お手伝いさんが笑いながら言った。
「あ、そうだ。夕飯はいいよ。どこかで食べてくる」
克彦も大きな声で言った。
ゆっくりと車は加速して行った。美枝子と由美はうしろを振り返って挨拶したが、手を振ったのは由美と母親だった。お手伝いさんは深々とお辞儀をしていた。
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