それでも起きた、50年目の自然発火
アプローチは冬の森からとなる。
今回は国有林の入山許可を得ての探索となる。
しばらく進むと街灯の柱だけが残る。
おそらく付近は炭住街だったようだ。
スノーシューで斜面を登る際には、足裏を接地させて登るのではなく、
つま先のクランポン(爪)を食い込ませるように登る。
やがて平場に不思議な遺構がある。
坑口でもなく火薬庫でもない。
建屋内部は土砂が堆積し素性はよくわからない。
運搬のための複胴動力施設か排水のための施設かもしれない。
急な斜面をトラバースして進む。
大正末期の稼行坑は斜坑の『青葉』と『緑』、
立坑の『錦』、水準状に『霞』坑があった。
やがて斜面の上部には構造物が現れる。
橋のようだが組まれる鋼材は脆弱な感じだ。
レールも無いが選炭に関わる高架軌道か、
排水やフライアッシュ(微粉炭)を処理施設へ導くためのパイプを支える橋台かもしれない。
ズリや微粉炭など、
選炭副産物の投棄用シュート・搬送路の可能性もある。
更に山中へ移動する。
幾春別坑の炭層の傾斜は急峻で、
そのため金属鉱山に似た採掘法が採用されていた。
やがて斜面に残る構造物に到達、
大正期の遺構、青葉坑だ。
青葉坑は排気風洞として扇風機が設置されていた。
換気は自然発火防止の最重要要素である。
しかし通気を徹底しても自然発火しないわけではない。
炭層の性質・採掘跡の空洞・温度・湿度など複合的要因が絡むのである。
袖坑口から酸素濃度を計測しつつ入坑する。
冒頭の自然発火防止に繋がる岩粉散布車についての解説を行う。
岩粉散布車のタンクは車輪付きの台車に固定され、
蓄電車に連結、散布口の開閉も遠隔操作及び運転席からできる構造だった。
タンク内に投入する岩粉量は0.65m3、1,500kgとなり
充填圧力5kg/m3となっていた。
岩粉車を蓄電車に連結して7km/hの速度で坑内を走行、
約1,000mの区間内で散布することが可能であった。
圧縮空気は途中で一度補充するものの、
所要時間は散布に10分、準備等含めて1時間というものだった。
散布量は坑道1m当たり1.5kgであったが機関車の速度を調整すれば増大することが可能であった。
従来手撒きの場合は、1人5袋(200kg)を1方で散布していたが、
散布車は1,500kgを1時間で終了するので約60倍の高能率化が計れた。
また電車で牽引するので機動性が高く圧縮空気のない場所でも散布が可能であった。
また手撒きよりも坑道上部への岩粉装着率が良く、
効果も高く合理化が図れた。
奥では坑道は荒れ果て埋没している。
通気用のためレールや構造物は何もない。
だだし、散布車によりビニール被覆電線や金網などに岩粉が吹きあたると静電気が発生し、
放電火花による火災が懸念されることとなる。
そこで精電圧極性が反対の石灰石岩粉と粘土岩粉を混合して
散布されたが効果は薄く、水分との混合や散布方法が多数模索された。
北炭幾春別坑は「自然発火の起こらない炭層」とされていた。
しかし昭和21年(1946)6月、地表下425mで初の自然発火が発生。
開坑から50余年、誰も想定していなかった出来事が勃発したのである。
どれだけ対策を重ねても、炭鉱は常に“危険が隠れている”場所だったこととなる。
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