竹野鉱山 青化製錬所跡 探検: 北の細道 竹野鉱山跡

竹野鉱山で銅精錬の副産物を想う



兵庫県豊岡市

 為替相場は外貨の需給関係で決定される。
つまり、日本の国際収支が赤字の場合は日本円が海外の自国通貨にどんどん換金され、
外貨が多く必要となりこれは円安に繋がる。

円安は日本円の海外での相対的価値が下がることを意味する。
かつてはそれを防ぐために金の海外現送を継続し、
為替の安定を図ることが必須となり、その為には多量の金が必要となっていた。

世界的に誰もが同等に価値を認める『金』を貨幣とし、
各国の中央銀行が金と相当の紙幣を発行したのが金本位制の始まりである。
イギリスで金1オンス=約3ポンドと取り決めたのが発端となる。
しかし第一次大戦で輸出品目の規制が多くなり、一時的に金本位制は崩壊、世界中の金市場は機能不全となる。
しかし戦後の昭和5年(1930)金本位制は日本を含めて復帰する。

その後、国際収支は好転するなかで、
日中戦争勃発直後の昭和12年(1937)8月に産金法が制定された。
これにより金は政府指導で生産から使用まで統制下におかれることとなり、
これは結果的に金増産を奨励するものだった。

国による金買取価格の引き上げが行われ、半官半民の日本産金株式会社の設立、
融資事業や産金機械の輸入税免除など優遇措置が講じられる。
これらにより旧坑や新鉱の開発が積極的に行われ、
昭和14年当時には国内の稼働青化製錬所は65か所に及んだ。

しかし第二次大戦戦禍時は輸出入が消極的となり、金は国際決済手段としての重要性が薄らぐこととなる。
日本は従来、相当な産金国であり国家による産金奨励が積極的だったにもにもかかわらず、
国は直接、軍需に効力のない金の採掘を中止し、マンガンや銅の鉱床を積極的に開発する方針を定める。
これが昭和18年の金山整備法となり、大部分の金山、青化製錬所は休廃止されることとなる。

戦後も荒廃した青化精錬所は復元されることが無く、戦後再稼働した青化精錬所は6か所に留まる。
これは当時の政府による金の買取価格が低いことも要因の一つであった。
これにより採算可能品位が7g/t以上と辛辣な条件となり、青化精錬所の復旧が無ければ、
多くの金山が採算ベースに載らない状況があった。

この結果、製錬後の金の出荷を断念し、金を低品位で含む『珪酸鉱』という鉱石のまま出荷に至る鉱山が発生する。
『珪酸鉱』はケイ素Siと酸素oを主成分とする鉱物で、岩石の主要構成鉱物である。
珪酸鉱はやがて銅の製錬に利用されることとなる。

稼働中の製錬所
稼働中の竹野鉱山 青化製錬所

中竹野村阿古谷に金銀の鉱脈が発見され、明治38年(1905)採掘権申請、
大正元年(1912)8月に久原鉱業株式会社が買取り竹野鉱山は本格操業となった。
大正11年初夏から電力会社による送電が始まり、
昭和3年(1928)に久原鉱業株式会社は日本産業株式会社に、
そして日本鉱業株式会社に商号が変更された。

東大谷の7坑口に最も近い山の斜面に青化製錬所の建設が開始されたのが
昭和13年(1938)からで、翌昭和14年8月に処理能力2,000t/月の製錬所が完成した。
再び産金奨励の波もあり、機械掘り、鉱脈開発も行われ活況を呈した。

青化製錬所
青化製錬所 断面図

第二次世界大戦に突入してからは、金・銀よりも銅の生産に重点が置かれることとなり、
金山整備令の影響もあり昭和18年(1943)4月1日、製錬所は取り壊された。
この時、全国で約400余りの金山が休山された。


今回の探索は NPO法人 J-heritage 総理事 前畑 洋平様 をアドバイザーとする、
中竹野地区コミュニティのご協力のもと、森に眠る青化製錬所の調査を行った。

昭和14年(1939)完成の青化製錬所はたった5年の稼働。
その製錬メカニズムを検証しつつ遺構を巡る。

今回は ckc様 より多数の情報提供いただきました。
ここにてお礼申し上げます。

鬼神谷坑・青化製錬・珪酸鉱・・・



選鉱施設
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