尺別炭鉱 南直坑跡 探検: 北の細道 尺別炭鉱 南直坑跡

尺別炭鉱 南直坑で都々逸(どどいつ)を聞く



北海道浦幌町

  『親のおんべつ(音別)しらぬか(白糠)せがれ、しょろ(庶路)に浮かれておたのしけ(大楽毛)』
この駅名を読んだ都々逸(どどいつ)は釧路線が釧路〜白糠間に続いて、
明治35年3月1日に音別まで延長したころから謳われていた。

尺別炭鉱の歴史をまとめると以下となる。

  年代    内容 
 明治23年(1890)  鉱業権設定
 大正3年(1914)10月  雄別炭砿鉄道(株)が鉱業権取得 雄別鉱業所の支坑として操業
 昭和11年(1936)10月  隣接の 浦幌炭鉱を譲り受ける
 昭和17年(1942)  尺別炭鉱〜浦幌炭鉱を結ぶ、尺浦(しゃくほ)通洞及び、総合選炭所、尺別鉄道の敷設が完了
 昭和19年(1944)8月  WW2による炭鉱整備法により休鉱を迎える
 昭和21年(1946)8月  尺別坑 再開
 昭和23年(1948)  雄別鉱業所から独立、雄別炭砿(株)尺別砿業所となる
 昭和26年(1951)  双久坑の開坑、繁栄が予想されたものの人員整理が行われる
 昭和41年(1966)  ベルト斜坑が開坑し、いよいよ開発は加速
 昭和45年(1970)2月27日  再建不能、雄別炭砿(株)所有の雄別・尺別・上茶路の各炭鉱と共に企業ぐるみの閉山


今回探索した南直坑は開発開始が昭和39年(1964)からである。
昭和40年(1965)に初出炭し昭和45年(1969)完成予定、
つまり結果的に閉山の年と完成予定年度が同一となるものの、
その地は期待のホープだった。

恐らくWWW上も未出の炭鉱跡。
しかも完成を見ぬまま閉山に至った悲運の鉱区だ。

当時の石炭産業は斜陽化を迎え、炭鉱業界は非能率炭鉱の整理(スクラップ化)と
ビルド鉱の近代化という相反するベクトルで歩んだ経営集約と合理化に努めた時期である。
その中で例外的に新鉱開発を推し進めた企業は「太平洋炭鉱」と「雄別炭砿」のみである。
その雄別所有であり、かつ閉山直前にその株価にも大きく影響を与えた 冀望のヤマを歩いてみよう。


なおルートは非常に山深く、遭難の危険性が高いため場所については伏せさせていただく。

トロッコ・ズリ山・新鉱開発・・・




戸車
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