出雲神族・海部氏と丹後

籠神社・出雲大神宮・兜山熊野神社
凡海嶋と伊去奈子嶽
伊去奈子嶽豊受伝承の背景
天照国照神と彦火明命
丹後と常世信仰
伊去奈子嶽とイザナギ・天照
棚機つ女と竜蛇神と藤
大江山と大枝山
丹後の月神信仰と宇佐氏
海部氏の丹後進出と記紀
丹後の磐座と方位線網

籠神社・出雲大神宮・兜山熊野神社

 丹波の出雲大神宮は元出雲とも称され、出雲大社を勧請したとも、逆に当社祭神を遷したのが出雲大社ともいわれるが、第二次世界大戦終了後のある日、出雲大神宮の広瀬宮司が丹後の籠神社の海部宮司を祇園に誘って、お互いの秘密を打ち明けあった話が吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』にのっているので、引用させてもらう。

 (日本の神社など、つぶされてしまうだろう。いや、明日のことさえわからないのだ)広瀬宮司は酔いにまかせて、「神社にはいろいろ秘密があるだろうが、ここまできたんだ、お互いにバラしてしまおうじゃないか」と、宮司に言いました。「いいとも。なんでも話そう」「お前さんのところの祭神は、アマテラスだとか天のミクマリだとか言われているが、いったいどんな神さんを祭っているのかね」「うむ……。実は、主祭神は出雲の大神さんなんだ。あんたのほうは?」「中央は空位でね、左がミホツ姫とオオクニヌシ。右は天つヒコネの命と、天のヒナドリの命となっている」。籠神社では、祭神を知っていても公表しなかったのです。(いつ、弾圧されるかわからない)そう考えてのことでしょう。出雲大神宮の中央の空座には、クナトの大神が鎮座していたに違いありません。何代目かの宮司が危険を感じ、どこかへ遷座するなどして、心の中では礼拝を続けていたのでしょう。しかし、数代、数十年たつうち、祭神が不明になったものと思われます。

 出雲大神宮の中央の祭神であるが、出雲大神宮が出雲大社と関係しているのなら天のヒナドリの父の天のホヒということも考えられるが、そうするといつのまにか祭神が分らなくなるということも考えづらいから、やはりクナトの大神とするのが妥当であろう。また、籠神社の出雲の大神もクナトの大神と考えられる。籠神社奥宮の真名井神社は、社殿の後ろに天照大神出生の日之小宮と伝えられるイザナギ大神・イザナミ大神の磐座があり、さらにその奥にも小さな鳥居といつつかの磐座とおもわれる岩があり、その横に祭神の書かれた柱が立っている。その写真は籠神社で発行する『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』にも「奥宮(真名井神社)背後神体山」として写真がのっているが、鳥居に向かって右側に大きな岩と小さな岩があって、鳥居と磐座の中間あたりに、塩土翁・亦名住吉同体・大綿津見神・亦名豊受大神という立て札が立ち、二つの磐座に接するように宇賀魂神(稲荷大神)の柱がある。鳥居の奥には、大きな岩がありその両脇にも小さな岩がある。向かって右の磐座には道祖神、左の磐座には愛宕大神の柱が立っているが、真中の大きな磐座には柱が立っていない。ただ、そのさらに奥に熊野大神(須佐之男神)と書かれた柱が立っている。私が行ったときには、熊野大神の柱の横には磐座はなく、代わりに直径1メートルほどの穴があった。その時は、磐座群全体が新しいものにおもわれ、まだ工事中でその穴に岩が置かれる予定なのかも思ったが、後で考えると熊野大神の柱は真名井神社のある場所そのもの、その神体山そのものを示しているのではないだろうか。そうすると、それは真名井神社の本当の祭神が熊野大社の神であることを意味しているとも考えられる。柱の横の穴であるが、吉野裕子『隠された神々』によれば、磐座・神座のクラは本来穴の意味で、神事と穴が深い関係にあり、擬似女陰であって、日本の祭りの中枢にすえられているばかりでなく、古代日本の宇宙観、世界像の中枢に置かれているものであるという。ただ、そうすると磐座の一つが道祖神とされていることが問題になるが、それは熊野大神が須佐之男とされていることと関係しているのではないだろうか。それは、道祖神即ちクナトの大神が真名井神社の本当の祭神とは違うというよりは、一応現在の熊野大社の公式的立場である熊野大神がスサノオであることをそのまま受け入れているようにみせながら、道祖神をも出すことによって道祖神も関わっていることを間接的に示している、即ち本当は熊野大神はクナトの大神であることを言おうとしているのではないだろうか。それにしても、真名井神社の磐座群は少し変である。柱のない磐座があったり、逆に磐座のない立て札があったりする。鳥居の奥の大きな磐座が熊野大神ということなのかもしれない。あるいは鳥居の横の立て札の神が鳥居の奥の磐座ということなのかもしれない。もし、鳥居の奥の大きな磐座が熊野大神なら、それもまた真名井神社にとって熊野大神が重要な神だったということを示しているであろう。もしそれが塩土翁なのだとすれば、亦名が豊受大神というよな書き方ではなくて豊受大神が中心にきてもよさそうなものである。塩土翁は鳥居の横の大きな磐座で宇賀魂神が小さな方の磐座なのかもしれない。もしそうなら、先代宮司海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』によれば、宇賀魂は豊受大神のことであるから、大小の磐座は二つで一つの神を表しているのかもしれない。どちらにしても、この分りにくい配置には何か意図的なものがあるのであろう。
 籠神社と出雲大神宮は出雲神族と深い関係のある神社だったことが分ったが、もう一つ熊野郡久美浜町の熊野神社も出雲神族と関係いが深い神社と考えられる。熊野神社は久美浜湾東岸の兜山山頂に鎮座し、式内社「熊野神社」に比定されている三社のうち、当社を式内社とするのが妥当とされている。郡内の雨乞いは当社で行われるのが決まりであった。祭神は伊弉冊尊。中世に紀州熊野の熊野三社権現との関係を深めたが、『大日本地名辞書』や『特選神名牒』は出雲の熊野大社を遷したものとしているというから、本来の祭神はクナトの神と考えられる。籠神社・出雲大神宮・熊野神社は出雲大神宮と籠神社が西北60度線、出雲大神宮と熊野神社が西北45度線をつくり、方位線で結ぶことができる。

  出雲大神宮―真名井神社(W0.643km、0.54度)の西北60度線
  出雲大神宮―兜山(熊野神社)(E0.694km、0.46度)の西北45度線

 兜山の熊野神社と方位線をつくり、出雲神族とも関係があると思われる神社に名神大社であり但馬一ノ宮でもある粟鹿神社がある。粟鹿神社の社家は日下部宿禰であったが、最近発見された『粟鹿大明神元記』という、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しでは、粟鹿神主は古代神部氏が奉斎していたことが知られ、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なっており、また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されているという。そうすると粟鹿神社の神主神部氏は、大三輪氏と同族であり、出雲神族ということにもなるわけである。祭神は彦火々出見尊、あるいは日子坐王とされているが、摂社をみると厳島神社の市杵嶋姫命・床浦神社の大己貴命・天満宮の菅原道真など出雲神族系の神が多く、猿田彦神社の猿田彦神もクナトノ大神が猿田彦に代えられてしまったのであろう。兜山と粟鹿神社が南北線をつくり、三輪山の大神神社と西北45度線をつくる。さらに、粟鹿神社の東北45度線上に備前の美和神社・能登の石動山、西北60度線上に熊野新宮の阿須賀神社蓬莱山、西北30度線上に伊勢内宮神体山の鼓ヶ岳がある。また、阿須賀神社蓬莱山と伊雑宮神体山の青峰山が東北45度線をつくることから、粟鹿神社と伊雑宮も西北30度線をつくっているとみなしていいのかもしれない。ただ、伊雑宮と鼓ヶ岳とは西北45度線をつくっている。

   兜山(熊野神社)―粟鹿神社(W0.579km、0.95度)の南北線
   粟鹿神社―大神神社(E0.441km、0.21度)の西北45度線
   石動山(E0.282km、0.06度)―粟鹿神社―美和神社(E0.162km、0.09度)の東北45度線
   粟鹿神社―阿須賀神社蓬莱山(W0.726km、0.21度)の西北60度線
   粟鹿神社―鼓ヶ岳(E1.197km、0.36度)―伊雑宮(W1.764km、0.50度)の西北30度線
   阿須賀神社蓬莱山―青峰山(E0.391km、0.21度)の東北45度線
   伊雑宮―鼓ヶ岳(W0.306km、1.39度)の西北45度線

このページの先頭へ

凡海嶋と伊去奈子嶽

 籠神社の海の奥宮といわれる冠島・沓島は凡海嶋(おほしあまのしま)あるいは凡海の息津嶋と海部直等氏之本紀(勘注系図)では記され、海部氏の始祖彦火明命が天降った場所とされている。同系図には、凡海嶋について「其の凡海と号くる所以は古老傳へて曰く往昔天下治しめすに當り大穴持神少彦名神と此地に至り坐しし時海中の大嶋小嶋を引集へ小嶋凡そ拾を以って壹の大嶋と成す故名づけて凡海と云う 當國の風土記にあり」とあり、籠神社の祭祀において、もともと出雲神族と関わりの深い場所だったのかもしれない。籠神社と東北30度線をつくっていたが、正確には冠島と沓島の間にある中津神グリと方位線をつくる。除福伝説のある新井崎神社と冠島・沓島の東西線が指摘されているが、この場合も中津神グリと正確な東西線をつくる。


   中津神グリ―真名井神社(E0.049km、0.11度)の東北30度線
   中津神グリ―籠神社(E0.345km、0.79度)の東北30度線
   沓島▲74m―真名井神社(E1.709km、2.74度)の東北30度線
   冠島▲168.8m―籠神社(W0.818km、2.00度)の東北30度線
   新井崎神社―中津神グリ(N0.270km、1.36度)の東西線

 彦火明命の天降り場所は、伊去奈子嶽と凡海息津嶋の二箇所があり、伊去奈子嶽については、単にそこに天降ったことが記されているのみである。凡海息津嶋への天降りは、その後由良之水門に遷り、そこで神宝辺津鏡を天香語山に授けたことが続いている。さらに続いて、彦火明命のまたの名が天照国照彦天火明命櫛玉饒速日命すなわち饒速日命で、天磐船に乗り虚空に登りて凡河内国に降り、其の後大和国登鳥見白辻山に遷って登美屋彦の妹登美屋姫を娶って可美眞手命を生み、また天翔りて丹波国に遷り凡海の息津嶋に留ったことが記されている。時代が下って、大宝元年三月の大地震で凡海嶋が海中に没し、「漸く纔かに嶋中の高山二峯立岩神と海上に出で今常世嶋と号く 又俗に男嶋女嶋と稱す 嶋毎に神祠有り 祭らるるは彦火明命と日子郎女神なり 當國風土記に在り」と記されている。大地震によって「此の嶋一夜にして蒼茫変じて海と成る」という状態になったことから、「故爾に彦火明神佐手依姫命と共に養老三己未年三月廿二日籠宮に天降り給ふ」ということになった。籠神社の社伝では、養老元年以前には彦火明命の別名とも伝えられる彦火火出見命が主神とされていたが、彦火明命が主神となり、彦火火出見命は養老年間以後境内の別宮に祭られ現在に及んでいるという。
 最後の籠神社への遷座は降臨伝承とはいえないが、凡海嶋への天降り伝承の本筋は、凡海嶋への降臨とその後の籠神社への遷座にあるといえる。河内・大和への降臨は、先代宮司の海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』では、彦火明命と饒速日命は別神とされており、表面的に物部氏の立場に迎合して挿入されたとものといえる。ただ、海部氏に大和への降臨伝承がなかったわけではなく、ただそれは彦火明命の事跡ではなく、孫の天村雲命が大和へ天降ったのだという。海部穀定氏によれば、火明命・天香語山の大和降臨伝は、本来は、天村雲命をも加えて三代の降臨伝が変改されたもので、一考を要するのは、饒速日命と火明命についてではなく、饒速日命と天村雲命についてでなければならなく、「大和国に於て、古く、天神の御子の降臨伝が相続いて二度あった。その一つは、火明命、天香語山、及び、天村雲命の降臨伝であり、又、一つは、饒速日命の降臨伝であったと考えられ、天村雲命と饒速日命には、どちらにも降臨伝があったと考えられる」という。また、天村雲命と饒速日命が同神と考えられ、転じて、火明命と饒速日命とが同神であるという伝で生まれるに至ったことは、天香語山命・天村雲命の子孫である氏と、物部氏とが上古に於て、相当深い関係に置かれていたものであることを裏書しているものといえ、「火明命は本来は、特筆せられねばならぬ大和国の大祖神であるが、これを、饒速日命と習合同神とし、饒速日命の降臨伝をこれに付会して、天村雲命の本来の伝を抹消すると同時に、天村雲命を祖とする大和国開発の大氏族の発祥を厳秘としたもののようである。」とする。また、天村雲命は最初、日向国に降臨し、子の天忍人命・天忍男命が生まれたのは日向国とされ、次に丹波国に降臨し、次に大和国に降臨したとも伝えられているという。
 天香語山の天降り伝承であるが、父彦火明命に従い、子の天村雲命と凡海嶋に天降った天香語山命は、そこから百八十軍神を率いて伊去奈子嶽(いさなごだけ)に至り、そこで母の天道日女命に逢う。天道日女命はここは豊受大神のまします国であるから、清地を定めて大神を斎い奉らなければならないといって、弓矢を授ける。天香語山が弓で矢を放つと、矢は加佐郡矢原(やぶ)山に落ちた。天香語山が南東に到ると荒水があり、そこに神籬を建て大神を遷し祭った。さらにそこから百八十軍神を率いて由良之水門に率いて退いたとき、父の彦火明命と再会し、神宝を授けられ速やかに国土を造り修めんと詔りがあり、余社郡久志備之浜に到ると、御祖多岐津姫命がこの地は伊射奈岐命が天降りますいと清き地であり、来るのを待っていたという。そこでさっそく天香語山は天津磐境を起てて神宝を斎い奉り、豊受大神を遷し祭ると、分霊を矢原山に祭った。ここに国が成ったが、そのとき霊泉が湧き、天村雲命が天真名井の水を汲んでそそぎ、その水をもって神饌の料(みず)とした。また、その泉を久志備(くしひ)の真名井と名づけたが、今世にいう比沼(ひぬ)の真名井に訛ったという。その後、天香語山は木国熊野に遷り大屋津比売命を娶って高倉下を生んだが、天道日女命と多岐津姫命は留まって豊受大神に斎き仕えたという。
 天香語山の降臨伝承の中心にあるのは伊去奈子嶽であり、彦火明命の降臨伝承では凡海嶋のものが中心を占めている。海部氏の信仰体系において、凡海息津嶋と伊去奈子嶽の二ヶ所が最も重要な聖地だったのだろう。凡海息津嶋が真名井神社・籠神社と東北30度線をつくっているのに対して、伊去奈子嶽は現在磯砂山と記されているが、兜山の熊野神社と西北30度線をつくる。
  兜山熊野神社―磯砂山(W0.513km、2.16度)の西北30度線

 天香語山の降臨伝承は豊受大神をめぐる伝承ということができる。それに対して、彦火明命の降臨伝承は出雲神族をめぐる伝承といえる。伊去奈子嶽の天降りは、大己貴神が多岐津姫命またの名神屋多底姫を娶り生んだ天道日女命、またの名屋乎止女命、またの名高光日女命を娶って天香語山を生んだことが記された後に行われており、凡海嶋への天降りは、火明命が佐手依姫命またの名市杵嶋姫命またの名息津嶋姫命またの名日子郎女神を娶って穂屋姫命を生み、天香語山が穂屋姫命を娶って天村雲命を生んだ後に行われている。天道日女命は大己貴の娘であり、佐手依姫命すなわち市杵嶋姫命であるが、吉田大洋『竜神よ我に来たれ!』では市杵嶋姫は宗像三女神のなかでも一人出雲神族系の竜神とされている。この彦火明命の天降り伝承は、彦火明命と出雲神族の関係を示すとともに、伊去奈子嶽が天道日女命、凡海の息津嶋が佐手依姫命と結びつく場所だったということを意味してるのではないだろうか。「豊受大神當國の伊去奈子嶽に降り坐しし時天道日女命等大神に五穀及桑蚕等の種を請ふ」と當國風土記に在り、というのも豊受大神が天降りした時にはすでに天道日女命が伊去奈子嶽にいたということであろう。天道日女命が伊去奈子嶽の最も古い神ということであり、伊去奈子嶽も凡海嶋ももともとは出雲神族と関係する場所だったわけである。そうすると、天香語山命の別名として手栗彦命(たくりひこのみこと)の他に高志神(こしのかみ)があることも気になる。この高志が越の国のことであるなら、冠嶋・沓嶋が能登の石動山と富山の尖山と方位線をつくっていたが、やはり籠神社にも越の国と何らかの関係があった伝承があったということであろう。残欠風土記の志楽郷の条に、「志楽と号くる所以は、往昔、少彦名命・大穴持命天下治しめす時、巡り覧なはす。悉く此国を巡りおえて、更に高志国に到ります之時に当り、天火明神を召して、汝命は此国を領ら知べしと詔たまふ。」とある。これをみると、丹波・丹後のもともとの統治権は出雲神族にあったということである。さらに、丹波・丹後の出雲神族は古志から来たということを永く意識しつづけていたのではないだろうか。東北から越を経由して丹後半島に出雲神族は来たということであり、そこからおそらく主力は出雲に、別の一派は大和・伊勢の方へ移動していったのであろう。日向国かどうかはわからないが海部氏も西から丹後に移動してきており、さらにそこから大和のほうへ進出していったことが、天村雲命の伝承となっているのであろう。あるいは直接大和に入った同族もあったかもしれない。この同じルートをたどって来た出雲神族と海部氏あるいはその同族が、大和そして丹波・丹後で出会ったわけであるが、両者は敵対的というよりある程度親密な関係にあり、そのことが現在真名井神社に熊野大神が復活しているということにつながっているのではないだろうか。あるいは、持統・藤原朝の弾圧に、同じく大和朝廷による弾圧にさらされてきた出雲神族にシンパシーを感じるようになり、また朝廷への反発がもともとの統治者である出雲神族から自分たちは支配権を授けられたのだという意識につながっていったのではないだろうか。
 伊去奈子嶽の豊受大神伝承は、この凡海息津嶋と伊去奈子嶽を結びつける伝承になっているわけであるが、それに由良之水門で彦火明命と天香語山命・天村雲命が再会する話を挿入することによって方位線的にも凡海息津嶋と伊去奈子嶽を結びつける話になっている。凡海嶋にいるとき、すでに国土を修造せんと欲ほして神議りを以って天香語山は百八十軍を率いて出発しているのであるから、そのときに彦火明命は天香語山命に神宝を与え、「其の神宝を斎い奉り、速やかに国土を修め造らん」と詔して送り出してもいいはずであるし、天香語山も矢原山のある田造からそのまま余社郡の久志備之浜に向かってもよいはずである。由良之水門については大川神社に注目すると、熊野神社のある兜山と伊去奈子嶽の西北30度線上に大川神社が位置しており、冠島・中津神グリと大川神社も東北60度線をつくっている。大川神社が凡海息津嶋と伊去奈子嶽を方位線で結ぶ結節点になっているのである。大川神社は標高約108mの徹光(てっこう)山之東山腹にあるが、もともとは山頂にあったともいう。地図上ではその正確な山頂を確定できないが、大川神社から百ないし二百メートルのところのどこかということはいえるので、大川神社をめぐる方位線はその場合も成立するであろう。大川神社の社伝によれば、顕宗天皇の元年三月に、由良川域の漁師野々四郎が漁を営んでいたところに、『金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神』が川下から現れて、野々四郎に「当地に鎮座したいので社殿を造営せよ」と託宣したのが大川神社の起こりなのだというが、この「金色の鮭に乗り、右手に五穀の種、左手に蚕を携えた神」 は、冠島より海を渡り、川を上ってやってきたのであり、冠島から金色の鮭に乗ってやってきた神の伝承は由良川流域に多いという。

  大川神社―磯砂山(W0.276km、0.69度)―兜山熊野神社(E0.237km、0.37度)の西北30度線
  大川神社―中津神グリ(W0.193km、0.34度)―冠島▲168.8m(E0.032km、0.06度)の東北60度線

このページの先頭へ

伊去奈子嶽豊受伝承の背景

 矢原山であるが、最初佐郡大江町の元伊勢の一つ豊受神社近くの矢部山のことではないかと思った。矢部山は現在「やべさん」といわれているようであるが、「やぶ」とも読むことができるからであり、熊野神社のある兜山の西北45度線上に位置しているからである。
  兜山熊野神社―矢部山(W0.172km、0.31度)の西北45度線

 しかし、笶原神社に「ヤハラ」という読みの他に「ヤブ」という読みがふられていることに気が付いた。笶原神社は舞鶴市の愛宕山山麓に鎮座しており、籠神社の分宮ともいわれているから、「分霊を矢原山に於いて奉斎する」という記述にも合うわけで、矢原山は笶原神社周辺の山だったということになる。おそらく愛宕山のことと考えられる。というのも、熊野神社・磯砂山・大川神社の西北30度線を延ばすと、弥仙山があり、弥仙山と愛宕山が西北45度線をつくり、愛宕山と笶原神社が東北30度線をつくるからである。そして、笶原神社と大川神社が東西線をつくる。そうすると、伊去奈子嶽から由良之水門での彦火明命の再会まで、天香語山の経路は方位線と密接な関係があったわけである。

  弥仙山―大川神社(E0.045km、0.2度)―磯砂山(W0.231km、0.37度)―熊野神社(E0.282km、0.33度)の西北30度線
  弥仙山―愛宕神社(E0.113km、0.79度)の西北45度線
  愛宕山―笶原神社(W0.038km、2.34度)の東北30度線
  笶原神社―大川神社(S0.019km、0.18度)の東西線
  
 この豊受大神遷座の伝承はそんなに古いものではなく、養老三年以降のものと考えられる。というのも、「海部氏系図」において、児海部直千嶋祝のところだけ他に二人弟海部直千足と弟海部直千成と記されており、「海部氏勘注注系図」ではさらに千足は丹波直等祖、千成は笶原神宮祝部祖と書かれているという。千嶋は「海部氏系図」においては養老三年から十五年まで奉仕、「勘注系図」では養老三年から天平勝宝三年までの三十一年奉仕と記されており、伴とし子『古代丹後王国はあった』では、養老三年(719)に彦火明命が籠神社に天下るとあることから、現在の籠神社で祝部として奉仕したのは千嶋が最初とする。そうすると、笶原神社も千成が祝部として奉仕したのが最初ということになる。養老三年以前の和銅六年(713)年にもともとの丹波国は丹波国と丹後国に分割され、丹後国の国庁は籠神社近くに置かれた。それに伴って、真名井神社(当時なんと呼ばれていたかはわからないが)があった地に海部氏は籠神社を建て真名井神社を奥宮としたわけである。同時に、笶原神社の地にも何らかの神社があったのであろうが、そこにも笶原神社を建てて千成を祝部にして奉仕させたということであろう。この時の、伊去奈子嶽からの豊受大神の遷座を、後代天香語山命による遷座の話に神話化したわけである。一般に、豊受大神は雄略天皇のとき外宮として伊勢に遷座したことになっている。しかし、天照大神の伊勢鎮座に関して、『倭姫世記』では、大和の笠縫邑から丹波国の与佐宮に四年いて、そこから各地を巡ったあと最後に滝原宮から現在地に遷ったことになっているが、筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、皇大神宮のできた年は以外に新しく、文武天皇の二年十二月二十九日に成立したという。『続日本紀』に「文武天皇二年十二月乙卯、多気大神宮を渡会郡に遷す」という記事があるが、活字版で刊行されとき多気大神宮という文字の下に「寺」という字を一字加えて出版されたが、寺という字は、どんなむかしから伝えられ写本にもない文字で、そういう重大な事実に学者は最近になって気づいたという内容の文章が田中卓著『神宮の創祀と発展』(神宮司庁刊)から引用されている。そして大神宮の呼び名は古くは、いまの皇大神宮のほかには使ったためしのない呼び名なので、皇大神宮は698年によそから現在の場所に移されてきたものに間違いなく、続日本紀・風土記逸文・倭姫命世紀の三つの史料をかさねあわせてみるとこの多気大神宮が滝原神宮であることは疑う余地はないという。滝原宮に天照大神が鎮座していたときに豊受大神を祭る外宮があったとは考えられない。もしそうなら、年代はともかく豊受大神も天照大神と一緒に現在の地に遷座したという伝承になっているべきであろう。天照大神が現在の内宮の地に遷ったあとしばらくしてから豊受大神が丹波から遷ったということは、実際に外宮が造られたのは海部氏が現在の籠神社の地に移った後のことかもしれない。滝原宮は元伊勢の一つとされ、兜山(熊野神社)・出雲大神宮の西北45度線上に位置している。また、この方位線に接するようにやはり元伊勢伝承のある皇大神社・豊受神社がある。
  滝原宮―出雲大神宮(W0.179km、0.09度)―兜山熊野神社(E0.515km、0.15度)の西北45度線

 この神話伝承が作られていった背景には、単に古くからの豊受大神奉斎地である伊去奈子嶽と新しい奉斎地を神話で結びつけるというだけでなく、当時海部氏が置かれた政治状況が背景にあると考えられる。丹波国を丹波と丹後に分けたのは、海部氏の力を削ぐためだったともいわれる。また、伴とし子氏によれば、『続日本紀』の丹波と丹後に分けられ二年前の和銅四年(711)十二月壬寅条に「大初位上丹波史千足等八人、偽造外印、仮与人位、流信濃国」とあり、流刑は死罪に次ぐ重刑で、信濃国はその中流に位置する流刑地で、千足が流罪になったことが分り、外印とは太政官印のことで、それを偽造し位を与えるという罪が史書に記されたことは、海部氏・丹波氏の上に加えられた圧力とも考えることができるという。持統・藤原朝による弾圧・弱体化政策のなかで、海部氏は一族の団結を図らなければならなかったであろう。その一環として伊去奈子嶽と千嶋・千成がそれぞれ祝部としてある籠神社・笶原神社を結びつける神話も作られていったのであろう。さらに、神話上で由良之水門で彦火明命・天香語山命・天村雲命を再会させることによって、伊去奈子嶽と笶原神社と籠神社を方位線で結びつけることにより、方位線的にも籠神社と笶原神社の関係を強固にしようとしたのではないだろうか。

このページの先頭へ

天照国照神と彦火明命

 海部氏の始祖彦火明命は天照国照彦火明命ともいう。この天照国照彦火明命という名について、海部穀定氏はそのはじめは単に彦火明命であり、天照国照の四字はなく、彦火明命という神名と天照国照という神名の合一に成るものであり、「天照国照と申上げる大神は、元は火明とは別神であり、天押穂耳尊の御子ではあらせられなかった次第なのである。天照国照尊と申された大神は、天香語山命の祖神として、この所謂、天孫本紀伝系の太祖神であらせられた大神なのである。」という。すなわち、古くは天照国照と彦火明とが別になっていたもので、天照国照は彦火明の尊称、あるいは冠称ではなく、独立した古神名で、天照大神の古神名なのであるという。そうすると、海部氏の系譜は彦火明―天香語山―天村雲命ではなく、天照国照尊―天香語山―天村雲命ということになる。ただ、天照国照が天照大神の古神名で天皇家の祖神でもあるとすると、天照国照というのが後に単なる天照になってしまうのか、了解できにくいところであるし、何らかの事情があるということなのだろうか。
 海部氏の伝承では、大己貴神が多岐津姫命を娶って高光日女命を生んだとされる。『古事記』では、大国主神が多紀理毘売命との間に、アジスキタカヒコネ神と高比売命が生まれたことになっている。このことから、高光日女命と高比売命は同じ神と考えられる。母親が違っているが、宗像三女神では、古事記ではイチキシマヒメがナカツ宮、タキリヒメがオクツ宮、書紀では逆にイチキヒマヒメがオキツ宮、タコリヒメがナカツ宮というように混乱がみられるから、母親の違いはあまり問題にしなくてもいいであろう。古事記では高比売命はまたの名下光(したてる)比売とされ、下照比売ともある。すなわち、高光日女命、高比売命、下光比売命、下照比売命は同神で、高光日女命は高照ヒメということになる。下照ヒメが高照ヒメでもあるということは、もともとは高照下照ヒメということだったのではないだろうか。天照国照神と高照下照ヒメとの間に天香語山が生まれたというのが原型ということで、天照戸高照、国照と下照で形式的にも整合性がとれている。それが、高照ヒメと下照ヒメに分解されてしまっているのは、天照国照神が単に天照大神とされた事情とも関係しているのかもしれない。
 海部氏の伝承で天照国照神と彦火明命が別神で、天道日女命を娶って天香語山を生んだ後に伊去奈子嶽に天降ったとする彦火明命が彦火明命とは別神の天照国照神であるとすれば、佐手依姫命を娶って穂屋姫命を生んだ後に凡海嶋に天降ったというもう一人の彦火明命とはどういう神なのであろうか。佐手依姫命は市杵嶋姫で、市杵嶋姫は弁財天ともされる。出雲神族の伝承では、弁財天はアラハバキ神のことである。また、アラハバキ神と対になる男神はクナトノ大神と考えられる。そうすると、籠神社の本当の主祭神が出雲の大神、熊野の大神なのであるから、彦火明命が実はクナトノ大神であっても、そんなに不思議なことではないであろう。
 ただ、天照国照神と彦火明命が別神で、天照国照神が天香語山命の祖神という海部穀定氏の説には疑問も残る。記紀では下照ヒメが天ワカヒコの妻とされている。そうすると、天ワカヒコ=天照国照神ということになる。天ワカヒコは裏切り者として殺される神であるが、アジスキタカヒコネノ命と仲がよく、また両者は親も間違うほど容姿がそっくりであったという。そうすると、天ワカヒコ=天照国照神ならアジスキタカヒコネ=彦火明命ということになるのではないだろうか。ただ、問題は日本書紀の一書に天ワカヒコではなくアジスキタカヒコネこそが天照国照神であるような表現があることである。アジスキタカヒコネ神は「よそおいうるわしく輝き、二つの丘二つの谷の間に照り渡るほどであった」といい、下照姫が集まった人たちに、丘や谷に照り渡るものは、アジスキタカヒコネ神であることを知らせようとして詠んだ歌が載っている。この記述からは、アジスキタカヒコネこそ天照国照神にふさわしいであろう。
 これを天照国照神と彦火明命の関係に戻すと、簡単に天照国照神は海部氏一族の祖神で、彦火明命は出雲神族のクナトノ大神であるとはいえなくなる。海部穀定氏は照という字が神名に入っていることについて、「皇統の祖神と雖も、容易には、見受けることの出来ぬ尊称の場合に限られて、この一字が用いられているようである。況んや、照の上に、天、若しくは、国の一字が冠せられている場合は、至貴、至尊の意が存せられていることに、特に留意せられねばならないのである。」というが、海部氏一族は自分達だけの力で、自分達の祖神を天照国照というような最高の神格を持った押し上げることができたかどうかも考えなければならない。海部氏一族はクナトノ大神という出雲神族の大祖神と自分たちの祖神を習合していく中で、いわばクナトノ神の力を借りながら、自分達の祖神を天照国照という尊称を持つ最高神に押し上げていくことが出来たのではないだろうか。そういう意味では、天照国照は海部氏一族の祖神に掛かるとともにクナトノ大神にも掛かる尊称・冠称であり、天照国照神と彦火明命が別神ということではなく、天照国照は海部氏一族の祖神である彦火明命の尊称で、区別されるべきものは彦火明命とクナトノ大神ということではなかっただろうか。大和朝廷がクナトノ大神の抹殺をはかったとき、海部氏一族の祖神である彦火明命は天照大神として天皇家の祖神とされ、大和朝廷なりの国家統合が図られたのであろう。国照の名が削られたのは、地上の支配者はあくまでも自分達であるという意味がこめられていたのかもしれない。一方、海部氏一族と出雲神族との関係は記紀では天ノワカヒコとアジスキタカヒコネの話に変形されて残され、海部氏においても、クナトノ大神の残滓が彦火明命に習合される形で残ったということではないだろうか。

このページの先頭へ

丹後と常世信仰

 大川神社は宇良神社と南北線をつくり、宇良神社は伊去奈子嶽の東北45度線上にある。この宇良神社は浦嶋子伝承で有名であるが、神社には浦嶋子が行った常世の国とは冠島のことであるという伝承もあるという。沖縄ではニライカナイの神、すなわち常世の神は豊作をもたらす神であり、五穀の神であり、ニライカナイは五穀の種をもたらすところであるという。谷川健一『常世論』によれば、奄美大島の秋名地区では、ニライカナイはネリヤカナヤといわれるが、ツルやタカがネリヤの稲の種を脇羽や袖羽にかくして奄美に持ってきたといい、それと同じような話が志摩の磯部にもあり、『倭姫命世紀』には、ある日、鳥の声があまりにかまびすしいので、ヤマトヒメが使いを出して様子を見にやると、芦原で一羽のツルが稲穂をくわえていたという話がのこっているが、この挿話の背後には、すでに消されてしまった海の彼方の原郷があるという。冠嶋から大川神社にやってきた神は常世の神ということになる。ただ、沖縄では常世神の乗り物はザンの魚すなわち人魚といわれるジュゴンと見なされているが、大川神社では鮭であり、北方的色彩が強い。常世信仰が南方起源のものであるとするなら、丹後で南方から来た海人族と北から来た出雲神族が交わったということになる。ただ、出雲神族は祖先の地を海の彼方と考えていたというから、常世信仰も南方由来とは言い切れない。
 一つの方位線網で結ばれた伊去奈子嶽・凡海息津嶋・大川神社・宇良神社には、かって共通の信仰体系があり、それは常世信仰と密接に関係していたのではないだろうか。五穀の種や蚕をもたらす豊受大神も、もともとは常世からやってくる神だったと考えられる。残欠風土記の丹波という名前の由来を記したところでは、伊佐奈子嶽に天降った豊宇気大神に天道日女命たちは五穀と蚕などの種をお願いし、真名井を堀り、それで潅漑して水田陸田を定めて植えると、秋の垂穂八握莫々然甚快ちよかりき也ということになり、大神は大喜びされて高天原に登りたまうとある。これに対して谷川健一『常世論』に、石垣島川平の日は決まっていないが旧正月のニロートフヤンを迎える行事が記されている。フヤンは大主の意味で、この神は五穀の神で、ニロートフヤンは作物がとり入れられるまでは群星御嶽にとどまっているが、川平の節祭の最後の日に人びとは群星御嶽からお供してスクジ浜で神送りをするという。そこはニロートへの道で、ニロートフンヤは海の底に住んでいると信じられているという。豊受大神もニロートフンヤと同じく、種が播かれそれが刈り取られるまでそれを人びとの側で見守り、それを見守り終えると常世に戻っていく神だったのではないだろうか。谷川健一氏によると、南島では神は海の彼方から岬または小島に上陸し、そこから集落の上に垂直に降りるものと信じられていた。また宮古では井戸(自然に湧き水のたまった窪み)には底がなく他界への入り口であり、エラブ元島での神送りは古来の根所である井戸口において他界への神送りがなされ、この井戸は海につづくと信じられているという。伊去奈子嶽の真名井は常世から来た豊受大神が再び常世に帰っていく場所だったのではないだろうか。
 伊勢神宮では、豊受大神は天照大神の御饌都という位置付けであるが、常世神には御饌都神的性格もある。能登の気多神社の十二月二十六日の丑の刻におこなわれる鵜祭は七尾市の鵜浦の断崖にいる荒鵜を獲ってきて、気多神社の神前に放ち、鵜が参詣するのを見守る行事であるが、谷川健一『常世論』に、『官国幣社特殊神事調』ではオオナムチが諸国を巡って越の北島から、能登の鵜浦の神門(鹿渡島)似ついたとき、土地の神の御門主比古が鵜を捕えてささげ奉った事から、この祭は始まるといわているけれど、古事記の大国主神の国譲りの話の、水戸の神の孫櫛八玉神、膳夫となりて天の御饗を献りし時、櫛八玉神鵜に化りて海の底に入り、底の埴を咋ひ出で、天の八十びらかを作りて、海布の柄を鎌りて燧臼を作り、海蓴の柄をもちて燧杵に作りて、火を鑽り出でて、釣りする海人の、口大の尾翼鱸、さわさわにひき依せあげて、打竹のとををとををに、天の真魚咋献る、という儀式を伝えるものであろうとする。また、小倉学の『加能民俗』では、櫛八玉神は今は御門主比古神社に寛政年間に合祀されているが、もとは鵜浦の山崎の阿於谷に鎮座して阿於大明神と呼ばれており、櫛八玉神が鵜浦の御門主比古神と相談して鵜と化り、海に入って魚をとらえてオオナムチに奉ったという古伝から、櫛八玉姫は気多大神であるオオナムチが鹿渡島にたどりついたときに、御料理をつくってさしあげる御饌都神であり、鵜祭は櫛八玉姫が鵜と化って参向かすることであると推測しているという。谷川健一氏は櫛八玉姫は水戸の神の子孫であり、鵜は滄溟の神の使者で、鵜と同体である御饌都神が阿於(青)という地にましますということは、青という地名は海底にもぐってとってきた海の幸を神社や朝廷にささげる御厨のような役割をもった所であるという。また、青葉山の麓に青の郷があるが、平城京出土の木簡に若狭関係のものが二十五あり、その大部分は塩の調進札であるが、その中にタイずし・イワシと貽貝の贄物が三点混じっており、その三点とも青の郷からのもので、青の郷に他の海村とちがった役割が課せられていたことがわかるという。
 伊去奈子嶽が常世信仰と関係していたとすると、伊去奈子嶽と伊根町亀島部落の青島が東北30度線をつくることも気になる。谷川健一『常世論』によれば、青の島は死者を葬る島であり、他方では神の住む島、青の神のましますニライカナイと同様の島であるという。常世の神がまず海岸近くの島に上陸し、そこから集落にやってくるとすれば、死者はまず海岸近くの小島に葬られ、そこから死者の霊は祖霊のいるニライカナイ・常世に行くという考えは自然であろう。青は「おー」であり「おう」であり、粟とも記されるという。伊根町の青島も谷川健一氏によれば、かっては火葬場があり、また海難に遭って溺死したものや、幼児で死んだものは青島に葬ることになっており、その場合は火葬ではなく土葬だったという。亀島部落とその北隣の立石部落の境近くに「あしかの社」(立石の人たちはあじやさんと呼ぶ)があり、毎年七月十日前後には伊根の漁民は大挙して冠島にわたって島参りしたあと、「あしかの社」にもうで、豊漁と航海の安全を祈る風習があるという。この神社近くに立石があり、今は道路脇であるが昔は海中にあった。そして、冠島の北の方の海岸に、立神という竜宮つまり常世を拝む立岩があり、五十建石別尊と呼ばれているが、立石部落の立も同じ神名を持つという。この立石は青島が竜宮に通じる島で、青島を拝む立石だったのではないだろうか。青島の西北45度線上に青葉山があり、その方位線は志麻磯部の伊雑宮の神体山といわれる青の峯がつづいている。青の方位線と呼べるものであり、その方位線上にある青島が伊去奈子嶽とも方位線をつくっているということは、青島も特別な島だったのではないだろうか。弥仙山の東北45度線上に小浜市の蒼島(江戸時代は青島と書かれたという)があり、弥仙山も常世信仰と関係のある山でもあったのかもしれない。

  大川神社―宇良神社(E0.003km、0.01度)の南北線
  磯砂山―宇良神社(W0.148km、0.30度)の東北45線
  磯砂山―青島・神社(W0.209km、0.46度)の東北30度線
  青島・神社(W0.095km、0.21度)―青葉山東峰―青峰山(E0.152km、0.05度)の西北45度線
  弥仙山―蒼島(E0.293km、0.02度)の東北45度線

このページの先頭へ

伊去奈子嶽とイザナギ・天照

 籠神社の伝承では、凡海の息津嶋に彦火明命とともに天降った天香語山命が伊去奈子嶽に至り、そこで母の天道日女命に会い、豊受大神を余社郡久志備之浜で遷し祭るという伝であり、残欠風土記の田造ノ郷の条ではそこに天道姫命が葦をもって占ったので伊去奈子嶽を葦占山というということが入っている。同じような伝承で、丹後国風土記逸文の豊宇賀能売命が竹野郡の奈具社に鎮座する由来を記した比治山の羽衣伝承がある。比治の里の比治の山の頂に真名井があり、八人の天女が水浴びをしていると、和奈佐老夫・和奈佐老婦という老夫婦が一人の天女の衣を隠してしまう。天に帰れなくなった天女は、老夫婦の元で暮らすことになるが、天女の造る酒が万病を治すということで、車に財宝を積んで人々がその酒を求めてやってきた。十余年がたち、老夫婦の家が豊かになると、老夫婦は天女を自分の子供ではないといって、家から追い出してしまう。路頭に迷った天女は比治の里の荒塩村から哭木村を通って、舟木の里の奈具村に至ったとき、此処は我が心なぐしく(平和に)成ぬ、といって、この村にとどまることになったというものである。比治山は伊去奈子嶽(磯砂山)と久次岳が争っているが、方位線的にいうと久次岳と現奈具神社が東北45度線をつくる。ただ、伊去奈子嶽も哭木村(内記)と奈具社があった舟木が直線的に並ぶ。伊去奈子嶽(磯砂山)と久次岳も西北60度線をつくるから、もともとそれらは一つの信仰圏をつくっていたと考えられる。それは、それぞれの山麓の富持(ふじ)神社と伊去奈子嶽、比沼麻奈為神社と久次岳がそれぞれ東西線をつくり、富持神社と比沼麻奈為神社が西北45度線をつくることからも窺える。

  久次岳―奈具神社(W0.079km、0.23度)の東北45度線
  久次岳―磯砂山(W0.012km、0.12度)の西北60度線
  久次岳―比沼麻奈為神社(N0.050km、1.44度)の東西線
  磯砂山―富持神社(N0.050km、0.75度)の東西線
  比沼麻奈為神社―富持神社(W0.177km、1.50度)の西北45度線

 海部穀定氏は伊去奈子嶽について、これら二種類の説話、神話に先立つ古伝が考えられ、それはこの山を伊去奈子嶽と呼び、その山頂の井を真井(まない)と称せられることについての因縁故由を物語るところの神話、説話であらねばならぬという。イサナゴはイサナギの転であって、イサナギ大神についての伝があったのが、その後の風土記の伝によって忘れられていったのであって、奈具は奈子の転であることは、奈具神社の旧宮処をナンゴの森といっていることからうなずかれ、哭木村の式内社名木神社のナキは伊射奈岐のナキに通じることは明らかであるという。山頂の真名井は、両説話以前において、その名があって、これについての信仰があったものと考えられ、この真名井は伊去奈子嶽に存在しているのであるから、伊去奈子の真名井と呼ばれることは必然であって、その略称は伊去の真名井であり、書紀の一書に、去来(いさ)の真名井の名称が見え、伊去は去来に通ずるから、上古において、この真名井を伊去の真名井といった時代があると考えられのであるとする。和奈佐老夫婦が本来の伊去奈子嶽に土着の神とみられ、和奈佐老夫婦は伊佐奈老夫婦で伊佐奈岐・伊佐奈美両大神のことであり、和と伊はワ行によって転訛し、奈と佐は伊佐奈岐の佐奈と同字同音であって、ただ二字が上下に転じて用いられているだけであるから、羽衣伝説では和奈佐老夫婦と姿を変えているという。
 又、残欠風土記の文中に「其秋垂頴八握莫々然甚快也」と見える一文は、書紀の一書から採って成文されており、その文中における天火明命の妃である天道日女命及びその子、その孫天香語山命、天村雲命が豊受大神に稲穂五穀の種等を請い求めて、水田陸田に植えられた所伝は、実は、書紀の一書の天照大神が稲穂五穀の種等を保食神から得られて、水田陸田に植えられた伝となっているのであり、書紀の一書の天照大神が水田陸田を造られた所伝が変形して、残欠風土記の伝が生まれたとする。すなわち、天照大神の孫の天火明命の妃が、皇祖の事績を此処に受継いだ形の伝になっているのであり、天火明明は天香語山命の祖神として、丹後丹波但馬等の国造の始祖と伝えられることは天孫本紀に明記されており、丹後、丹波国造等は、元、天照大神を太祖として、その事跡を伝えていたのが、天照大神は皇室の太祖ということで、後に、皇孫たちの事跡として改め記されたのではないかとする。元々は、天照大神が、この山で水田陸田を造られ、此処の真名井即ち去来の真名井で、五百箇御統之瓊を濯いで御子をお生みになったというような神話があったであろうことは、伊去奈子嶽の北麓、藤神社から遠からぬところに、天照大神がお生まれになった処と云い伝えて、今に同大神をお祭りしているというところがあることによって考えられ、伊去奈子嶽の上代の信仰は伊佐奈岐大神及び天照大神をお祭りすることにあったと考えられるという。
 海部穀定氏はイサナ→イナサ→ワナサという変化を考えているが、和奈佐という言葉は海部氏と関係の深い各地にみられるもので、和奈佐という言葉が伊佐奈岐・伊佐奈美両大神から生じたとは考えられない。播磨国風土記の志深(しじみ)の里の条で伊射報和気命(履中天皇)が井で食事をした時に、信深の貝が御飯を入れた筥のふちに上がってきたので、この貝は阿波の国の和那散に行ったときに食べた貝ではないかといったので志深の里とよぶとあり、阿波国の和那散(わなさ)は徳島県海部郡海部町鞆浦の古名で、式内社那賀郡和奈佐意富曾(わなさおふそ)神社の旧社地であるという。阿波国風土記逸聞にも奈佐浦があり、奈とは波のことで、徳島県海部郡穴喰町の海岸のことで、古くは那佐湾沿岸を広く和奈佐と呼んだという。出雲風土記にも和奈佐山があり、八束郡宍道町大字上來待、通称和名佐地区の北部にある標高282m三角点の山のことであるという。また船岡山の条ではアハキヘワナサヒコ命が曳いてきた船とある。宍道町和名佐には伴とし子『古代丹後王国はあった』によれば和名佐神社もあるという。また船岡山には船林神社があり祭神はアハキへワナサヒコであり、加茂町の貴船神社の主祭神もアハキへワナサヒコ命で阿波から来た和名佐彦の意味であるという。谷川健一『常世論』によれば、豊岡市西部の栃江、宮井、福成寺、大谷などがある谷には以前は奈佐郷と呼んでおり、大昔には海が入り込んでいたので、現地では渚が奈佐と変化したと言われているという。また、磯砂山の西麓にある大呂(大路)の安達家にも羽衣伝説があるが、安達家を中心とした大呂の中の五軒の家を「尾細(おぼそ)組」といい、このあたりの地名を「尾細」と呼んでいたというが、谷川健一氏は「オボソ」は「オフソ」で阿波の和奈佐意富曾神社の「オフソ」という言葉が丹後の山奥の盆地に残っていることは、阿波と丹後との密接な関係を物語っているのではないかとする。このように和奈佐は海部ともともとから関係した言葉なのであって、イサナギ・イサナミとは無関係と考えたほうがよさそうである。

このページの先頭へ

棚機つ女と竜蛇神と藤

 安達家の羽衣伝説は、三右衛門(さんねも)という狩人が羽衣を隠し、天女は三人の女児をもうけ、農業・養蚕・機織の業をひろめたが、子供から羽衣が大黒柱の中に隠してあるのを聞き、羽衣を取り出すと、軒先の夕顔(カンピョウ)のつるよじのぼり天に帰っていった。三右衛門はカンピョウのつるを伝って追いかけようとすると、天女が七日七日に会いましょうといったのを、天邪鬼が七月七日と言いかえたので、年に一度七夕の日にしか会うことができなくなったというものである。七夕のとき、安達家ではいくつかの儀式が行われるが、昭和30年頃までは当日臨時パスが出たほどだという。安達家は和奈佐老夫婦の子孫ということであるが、谷川健一氏はカンピョウのたぐいは朝鮮では天空をかたどるものとされ、泉の神を老翁と老嫗であらわすのは朝鮮の昔話にも出てくるから、この伝承は大陸渡来系のものかもしれないとする。伴とし子氏は大呂(おおろ)を筑前国風土記逸文に「高麗の国の意呂(おろ)山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十跡手是なり」とある「意呂」に語源を尋ねる考え方もあり、羽衣伝説は、天日桙の足跡と関連して考察することもできるという。ただ、比治山の羽衣伝説を単純に朝鮮渡来の伝説とみなすことはできない。
 北麓の鱒留にある藤神社は藤社(ふじこそ)神社ともいわれ、祭神について五箇村誌草稿に「田畑(たなばた)女神及ワナサ老夫婦を祭神とす境内の藤桜称すべし」とあるといい、このタナバタ女神は棚機つ女(タナバタツメ)であろう。筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、海または海に通じている川を通って年に一度やってくるカミを、村ごとに海岸や川端の人里はなれたところに小屋をつくって、棚機つ女とよばれるカミの妻となるべき処女を住まわせ、棚機つ女はカミが訪れてきたとき、カミに着せて一夜妻になるため、ふだんはカミの着物を機にかけて織っていたという。そして、一年に一度だけ男女がいきかうことや、織女=棚機つ女という名前の似通っていることなどから、シナから牽牛織女の七夕の星祭が伝えられたとき、わが国固有の棚機つ女のカミ祭りの風俗と大変素直に結びつけて、同化することになったというのが折口信夫『たなばたと盆祭りと』であきらかにされているという。伊去奈子嶽の天女も棚機つ女ということになり、伊去奈子嶽の羽衣伝説は、朝鮮半島から伝わってきたものもが習合される以前に、伊去奈子嶽には棚機つ女による祭祀がすでにあったわけである。
 筑紫申真氏によれば、このタナバタツメがアマテラスの本当の姿である。何故なら、アマテラスは女で、カミのためにみずから機を織っていたからであるという。スサノオが高天原に乱入したとき、アマテラスは神衣を織っていたが、アマテラスが自分のために神衣を織るのは理屈に合わず、この話はアマテラスがかっては神の衣を織りながら神を迎えるタナバタツメだったことを示しているという。日本書紀にみられるアマテラスオオカミは、はじめは太陽そのものであり、つぎに太陽神をまつる女となり、それから天皇家の祖先神と三回ほどカミの観念のうえで変化しており、日神→オオヒルメノムチ→アマテラスという三つの段階のカミの名が一つの神格のように表現された合成品なのであって、アマテラスが男の蛇であり織姫であるのは当然のことだという。伊去奈子嶽にもタナバタツメによる神迎えの祭祀があったとすれば、天照が祭られていても不思議ではないともいえるが、海部氏の祖神である天照国照彦火明命は男で天照国照という称号を持つことから、丹後が独自にタナバタツメを天照神として祭ったとは考えにくい。タナバタツメが天照大神として天皇の祖神とされた以後、その影響によって伊去奈子嶽のタナバタツメと天照の結びつきも始まったのであろう。ただ、伊去奈子嶽の棚機つ女が祭っていた神が、元々から太陽神であった可能性はある。
 伊去奈子嶽の山麓には藤神社や富持神社などフジ神社があり、それはヒジが訛ったものといわれる。しかし、最初からそれらはフジ神社だった可能性もある。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、『諏訪明神絵詞』で守矢神が鉄輪で戦うのをミナカタが藤の枝をとって降伏させたのは、藤が竜蛇だったからで、それに対応する高砂族の民話が施翠峰著『台湾の昔話』に載っているという。「蛇の子」というその昔話では、ツォウ族の若者が、山の中で、大蛇が抱いていた子供を拾ってきた。この子は十二、三歳になると、蕃社中で一番の強者に成長した。敵がこの村を襲ってきたとき、この蛇の子は、まず藤を腹に巻いて鎧とし、疾風の速さで駆け出して敵に向かった。ふしぎなことに、敵が彼を切ろうとすると、たちまち一匹の大蛇となり、敵を切るときは人に化るので、敵は恐ろしさにキモをつぶし、ことごとく死んでしまったという。籠神社の御神幸の神事は、藤の花を冠にかざすことが千古の慣例になっていて、社伝では欽明天皇の御代に始まったと見えているというが、海部穀定氏によれば、「花開けば、真名井の水を結ぶという。藤と真名井に関する神秘は、今尚、千古の古儀を伝えて、与佐宮、後の籠神社祭礼の伝統は、この神事を中心に存続されている。」のであり、御饌の井には、その周辺に藤が植えられていて、藤池とも云っているのであって、藤は即ち比治なのである。」とするが、藤が単に比治の転化だとすれば、これほどに藤へのこだわりが生じるであろうか。真名井神社の本当の祭神が熊野の大神すなわちクナトノ大神であり、諏訪大社では出雲神族とタテミナカタと藤が結びついているということは、丹波においても最初から竜蛇神をあらわす藤だったのではないだろうか。富持神社と出雲神族の関係を示すものとして、富持神社と粟鹿神社の東北60度線がある。
  粟鹿神社―富持神社(W0.066km、0.12度)の東北60度線

 筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、古事記で阿治志貴高日子根命を同母妹の高比売命がその御名を顕そうとして歌った「天なるや、弟棚機(おとたなばた)のうながせる、玉のみすまる、みすまるの、あな玉はや、三谷二渡らす、阿治志貴高日子根の神ぞ。」で折口信夫氏は「三谷二渡らす」とは、蛇の姿となって訪れてくる神のそのかたちが、谷をこえて長大であることを形容したものだと説いているという。日本書紀の一書では、天稚彦の喪に集まった人が詠んだとも、下照姫が集まった人達に、岡や谷を照り渡るものは、味耜高彦根神であることを知らせようとして詠んだともされている。弟棚機は棚機つ女と結びつく言葉であろう。吉野裕子『隠された神々』によれば、古代日本人が目にみえるものとしてとらえようとしたのは、常世の神であり、それは祖神としての蛇神であったと思われ、日本の古代信仰における祭りの大きな特色は、神を目に見える形に顕現させ、それを鄭重に迎えて饗応し、援福を願って再び常世に送り出す、とういことにつきると思われるとする。味耜高彦根神は蛇神であり、常世神ということになる。富持神社の祭神は、天叢雲命・大宜都姫命・椎根津彦命・別雷神であり、籠神社の極秘伝によれば、彦火明命は山城の上鴨の別雷神と異名同神であるという。丹後において、彦火明命はクナトノ大神と習合するとともに、天照国照という名前は天稚彦・味耜高彦根命とも関係しているから、富持神社の別雷神は味耜高彦根命と異名同神とみなすべきであろう。富持神社の祭神が味耜高彦根命だとすると、富持神社と粟鹿神社が東北60度線をつくり、粟鹿神社と兜山(熊野神社)が南北線、兜山(熊野神社)と伊去奈子嶽が西北30度線をつくり、伊去奈子嶽と富持神社が東西線をつくるとともに伊去奈子嶽は富持神社の神体山ともいえる山であることから、伊去奈子嶽と出雲神族が深く関係していたことは方位線的にもいえるのではないだろうか。
 藤と竜蛇神のつながりを考えさせる神社として、茨城県藤井村(現水戸市飯富町)の藤内(ふじうち)神社がある。藤井村の藤内神社であるから、共通するのは藤であり、藤が重要な意味を持っていると思われる。谷川健一『青銅の神の足跡』によると、『常陸国風土記』のクレフシ山の伝説に兄妹があり、妹は夜来て昼に去る姓名も分らない男の子を身ごもり、小さい蛇を生んだ。小蛇がだんだん大きくなり、もう私たちにはやしなうことができないから、父にいる所に去ってほしいと頼むと、小蛇は一人の小童をつけてくれという。母がそうすることはできないというと、母の兄を雷で殺して天に昇っていった。母が土器を投げつけると天に昇ることができず、クレフシの峰にとどまったというのであるが、この兄妹の子孫が今も祭りをおこなっているのが藤内神社で、この社は蝮蛇の霊を祀ったので立野社とも呼んだが、立野のタツは竜の意味であるという。同様に藤内神社の藤も蛇と関係し、また雷神とも関係するのであろう。谷川健一氏は飯富は昔は大部と呼ばれていた地であり、その名前からして多氏の居住した所と推定でき、同じような話が『多氏古事記』と称するものに載っていることから、クレフシ山の説話は多氏の伝承にほかならないとする。

このページの先頭へ

大江山と大枝山

 伊去奈子嶽・久次岳あるいは奈具社が方位線的にも結びついた一つの信仰体系をつくっていたとするなら、大江山もそれに深く関係していたことが考えられる。伊去奈子嶽と久次岳の方位線上に大江山があり、大江山の南北線上に奈具神社が位置しているからである。大江山はもともと出雲神族にとっても重要な山だったのかもしれない。大江山は兜山と西北45度線をつくる。それは出雲大神宮とも西北45度線をつくるということであるが、出雲大神宮は真名井神社と西北60度線をつくっていたが、大江山も真名井神社と東北60度線をつくるのである。久次岳の東西線方向に真名井神社があり、大江山・久次岳・真名井神社が方位線正三角形をつくっているとも考えられる。また、久次岳と奈具神社が東北45度線をつくっていたが、真名井神社の西北45度線方向に奈具神社がある。こうみてくると、元の奈具社と久次岳・真名井神社、大江山と久次岳・真名井神社が方位線二等辺三角形をつくり、大江山―奈具社の南北線と久次岳―真名井神社が東西線で結ばれるという構図が考えられるが、さらにその東西線と南北線の交わるところに大宮売神社がくるという配置になっていたのではないだろうか。

  大江山―磯砂山(W0.090km、0.42度)―久次岳(W0.078km、0.25度)の西北60度線
  大江山―兜山(E0.062km、0.14度)の西北45度線
  大江山―真名井神社(W0.201km、0.67度)の東北60度線
  大江山―大宮売神社(W0.462km、1.73度)―奈具神社(W0.276km、0.65度)の南北線
  久次岳―大宮売神社(S0.100km、0.67度)―真名井神社(S0.602km、1.98度)の東西線
  真名井神社―奈具神社E0.563(km、2.52度)の西北45度線

 大江山といえば、酒呑童子で有名であるが、高橋昌明『酒呑童子の誕生』によれば、酒呑童子の話はもともと山城と丹波の境にある大枝山が舞台であったという。大枝山について海部氏には興味深い伝承がある。彦火明命の十六世孫丹波国造大倉岐命が稚足彦(成務)天皇の御宇桑田郡大枝山の辺りで大蛇が人民に被害を与えているので、群臣を率いてこれを伐とうとしたとき大山咋命が現れて助けたので大蛇を斬ることができ、それが天庁に達したので丹波国造を賜ったというのである。どこか八岐大蛇の伝説を思わせる話であるが、大蛇とは竜蛇神を信仰する人たちだったのであろう。このような伝承が酒呑童子の物語の背景にはあったのかもしれない。大枝山がどの山かはっきり分っているわけではないようである。大枝山についてホームページを検索してみると、標高568mの大暑山のこと、標高470mの山、西山団地の西の山とするものや、老ノ坂近くの標高3〜400mの山並みの総称と記すものなど、様々である。大枝山として方位線的に注目される山のひとつは首塚のすぐ南の標高360mの山である。出雲大神宮と愛宕山が東西線をつくるが、この山と愛宕山が南北線をつくり、出雲大神宮とも西北60度線をつくるからである。標高568mの大暑山も出雲大神宮と西北60度線が成り立つ。また、出雲大神宮の西北60度線は真名井神社とも結びつくのであるから、真名井神社に注目すると真名井神社と西北45度線をつくる貴船神社とも東北60度線をつくる。出雲大神宮との方位線三角形としては、愛宕山の代りに、やはり出雲大神宮と東西線をつくる上賀茂神社あるいは片岡山と東北45度線をつくる。また、平安京との関係でいえば、平安京大極殿と東北30度線をつくる。

  出雲大神宮(S0.025km、0.28度)―愛宕山―上賀茂神社(N0.100km、0.53度)―片岡山(N0.150km、0.77度)の東西線
  ▲360m山―愛宕山(E0.024km、0.16度)の南北線
  ▲380m山―出雲大神宮(E0.047km、0.27度)の西北60度線
  大暑山―出雲大神宮(W0.188km、0.94度)の西北60度線
  真名井神社―貴船山(W0.685km、0.54度)の西北45度線
  大暑山―貴船山(E0.227km、0.66度)の東北60度線
  大暑山―上賀茂神社(W0.027km、0.11度)―片岡山(E0.186km、0.74度)の東北45度線
  大暑山―平安京大極殿(W0.111km、0.61度)の東北30度線

 高橋昌明氏によると酒呑童子の鬼が城が大江山に移動した背景の説明として、地元の研究家の芦田完氏に始まる麿子親王の伝説が吸引力・受け皿となったとする説は、それを活かそうとすれば、先行する当麻寺の勧進聖たちにより日子坐王伝説の麿子親王伝説への改作と勧進活動を通じての一定の流布という二重の過程を考えなければならないが、成立時期の接近ぶりから、逆に大江山を舞台とする酒呑童子説話の方が先行し、これが日子坐王伝説を麿子親王伝説に改作させる契機になった可能性も否定できないという。また、日子坐王伝説の麿子親王伝説への翻案にあたっては、中世太子伝が大きな役割を果たしているという。
 丹後周辺に広くみられる麿子親王の鬼退治伝説では、丹後の三上(みうえ)嶽に三鬼を大将とする数多くの鬼神が住んで民に煩いをなしていたが、用明天皇の第三皇子である麿子親王に攻められて、大将の三鬼は竹野郷の鬼が城に逃げ込むが、そこで退治されるというものである。三上嶽については、高橋昌明『酒呑童子の誕生』によると、長らく場所が特定できなかったけれど、西舞鶴図書館所蔵の「宮津領主京極時代宮津領峰山領絵図」に「大江山(千丈ヶ嶽)のかたわらに「ミうへヶ嶽」とあることから、かつての与謝の大山、現在の大江山連峰の一角であることが明らかになったという。一方、竹野の海岸にある立岩は麿子親王が鬼を封じ込んだ所といわれる。日子坐王の土蜘蛛退治については古事記に崇神天皇が丹波国に遣わして玖賀耳之御笠を殺させたとあり、残欠風土記では陸耳御笠は青葉山にいたが、日子坐王の討伐で由良港から与佐の大山に逃げ込んだとされる。舞鶴市の弥加宜神社の社伝では四道将軍として派遣された丹波道主命が父彦坐王の協力で青葉山の土蜘蛛陸耳御笠を平定したとあり、祭神は天御影命で、近江富士といわれる三上山を神体山とする御上神社の祭神と同じで、この神の外孫にあたるのが丹波道主命で、命が祖父神をむかえて創祀したものであるという。古事記では、近つ淡海の御上の祝がもと拝く天之御影神の女息長水依比売と日子坐王の間に丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばのひこたたすみちのうしのおう)が生まれたとなっている。また、日子坐王は開化天皇とワニノ臣の妹意祁都比売命の間に生まれたとされるが、ワニノ臣は海部氏と同族である。
 大江山と竹野神社が南北線をつくる。ただ、この方位線はしっくりこない。というのも、竹野神社が大江山と南北線をつくるなら、幾何学的に久次岳と真名井神社とも方位線を作ってもよさそうなのであるが、久次岳とは東北60度線をつくるが、真名井神社とは方位線をつくるとはみなせないのである。竹野神社が西北60度線をつくるのは笶原神社のほうである。大江山の南北線上には、竹野神社近くの立岩がある。立岩は竹野神社と西北45度線をつくり、笶原神社近くの愛宕山と西北60度線をつくる。愛宕山と弥仙山が方位線をつくっていたが、弥仙山と依遅ヶ尾山が西北60度線を作り、依遅ヶ尾山は竹野神社の神体山ともいわれているのであるから、もしかしたらそれらの方位線関係には何らかの関係があるのかもしれない。ただ、立岩も久次岳・真名井神社とは方位線をつくらない。竹野神社の祭神は天照大神であるが、境内摂社斎宮には日子坐王命・建豊波豆良和気命・竹野媛命のほか麿子親王も祭られている。竹野神社の祭礼には半々の米と砂を一緒に炊いた御供を夜中に立岩にある鬼の岩屋という所に供える風習があったらしい。御供は神主一人で持参し、この夜は全村が戸を閉ざして他出を禁じ、旅人があってもけっして泊めなかったという。竹野神社のすぐ南の牧ノ谷に鬼神塚という塚があり、麿子親王に誅殺された兇徒の墓といわれているが、同じような風習があったという。

  大江山―竹野神社(E0.564km、1.03度)の南北線
  久次岳―竹野神社(E0.207km、0.63度)の東北60度線
  笶原神社―竹野神社(W0.485km、0.74度)の西北60度線
  大江山―立岩(W0.164km、0.19度)の南北線
  竹野神社―立岩(E0.022km、1.20度)の西北45度線
  立岩―愛宕山(W0.191km、0.28度)の西北60度線
  弥仙山―依遅ヶ尾山(E0.211km、0.27度)の西北60度線

 三鬼が逃げ込んだとい竹野郷の鬼が城であるが、鈴木昭男氏(『眠れる異能者への伝言』オリエント倶楽部著)によれば、三鬼が最後の戦いの砦にした所に魂鎮めの願興寺という寺が建てられ供養されていたようであり、寺のいわれによると金麿子親王が討伐の際、祈誓のために建立されたという。地図には願興寺という地名がある。三鬼の大将は土熊で父親が穴熊といい、熊野の出身で火と水と風を操る一族だったらしい(『丹哥府志』では海賊で、エイ古・軽足・土車とあるという)。一般に立熊山とよばれている土熊が葬られた山もあるらしい。また、三鬼が最後の砦とした丘のヒノタテと呼ばれた尾根を上がったところに立熊を祀る祠があったともいう。正確な位置関係はわからないが、鈴木昭男氏の言葉によれば、願興寺の丘陵は、U字の形になっていて、その凹みに「家の谷」があり、そこが昔は七堂伽藍のあった寺院への参道として家々が栄えていたらしいが、谷の奥には、鏡池という聖なる泉があり、そこから直進すると、祠が立熊山を背して鎮座し、依遅ヶ尾山がその後ろに位置しているというになる。この記述からいえば、標高45mの丘が三鬼の砦があった場所なのであろう。また、立熊山はその東の標高217mの山ということになるのだろうか。もしそだとすれば、土熊を祀る祠が竹野神社の東北60度線、立熊山が西北60度線上にあったという可能性も出てくる。また、砦は大江山の南北線上に位置し、また久次岳の東北60度線にも位置している。また、真名井神社からの西北60度線に対しても、竹野神社よりは近いし、出雲大神宮とは西北60度線をつくる。出雲大神宮と兜山の西北45度線上に大江山があるのであるから、願興寺の丘の砦と出雲大神宮の方位線も無視できないであろう。また、出雲大神宮と真名井神社は西北60度線をつくっていたのであるから、真名井神社の西北60度線上に願興寺の丘の砦があるといってもいいのかもしれない。出雲大神宮と西北60度線をつくるということは、大枝山と願興寺の土熊の砦が西北60度線をつくるということである。大枝山と大江山には願興寺の土熊の砦からの方位線上に位置しているという共通項があることになる。

  ▲45m(N0.062km、3.79度)―▲217m―宇良神社(S0.065km、0.29度)の東西線
  ▲45m―竹野神社(E0.003km、0.19度)の東北60度線
  竹野神社―▲217m(W0.003km、0.19度)の西北60度線
  大江山―▲45m(E0.083km、0.15度)の南北線
  久次岳―▲45m(E0.157km、0.50度)の東北60度線
  出雲大神宮―▲45m(E0.231km、0.15度)の西北60度線

 日子坐王と陸耳御笠であるが、方位線的にみると、青葉山と三上山が西北45度線をつくる。また、陸耳御笠が逃げ込んだ与佐の大山は大江山連山のことといわれ、大江山近くの鬼の岩屋と三上山が西北30度線をつくる。ただ、鬼の岩屋は大江山とも竹野の各ポイントとも方位線はつくらない。三上山は青峰山―青葉山―青島の西北45度線上にあるということになるが、青峰山と大枝山とされる大暑山も西北30度線をつくり、この方位線は標高360mの山とも成り立つ。また、青島と依遅ヶ尾山とが西北60度線をつくる。依遅ヶ尾山は竹野神社の神体山であり、竹野神社の摂社である斎宮には日子坐王が祭られているということは、大倉岐命の大蛇退治にしろ酒呑童子や麿子王の話にしろ、それらは青峰山・青葉山・青島の方位線と関係しているということになる。日子坐王の伝承の背景には、青峰山―青葉山―青島の方位線上にある三上山を青峰山―青葉山―青島という方位線ともともと結びついていた種族と異なる種族が押え、青峰山―青葉山―青島の方位線を分断したという事実があったのではないだろうか。青峰山―青葉山―青島の方位線は青の方位線であり、常世の方位線であったから、その方位線と結びついていた種族は常世信仰とも深く結びついた種族ということになるし、それが後の代に鬼といわれるようになったとすれば、鬼もまた常世と結びつく性質を持っていても不思議ではないことになる。高橋昌明氏によると、酒呑童子の住処である鬼が城は大江山のさらに奥にあって、そこへ行くには大江山の洞窟から入らなければならないのであって、酒呑童子の鬼が城のイメージはでは、仙境と冥界の統一、永遠と豊饒のパラダイムにして恐ろしき苦界、という両義性を帯びており、中世人の観念に即すれば竜宮に他ならないという。竜宮の主である竜王は水神であり、竜蛇神であり、説話・伝承に世界では、しばしば雷神の姿をとり、水神は多く童子姿で現れ、雷神も水神だから落雷すると童形に帰るという。麿子親王の三鬼討伐でも、『清園寺縁起』の画像で注目されるのは、三上ヶ嶽の鬼神がいかにも水神らしく描かれている点であるという。筑紫申真氏によれば、内宮の地はもともとは棚機つ女が常世神を祭っていた場所というが、青峰山と大暑山の西北30度線上に位置している。
  青葉山西峰―三上山(E0.134km、0.11度)の西北45度線
  三上山―鬼の岩屋(E0.273km、0.16度)の西北30度線
  青峰山―大暑山(E0.172km、0.08度)―▲360m(E0.625km、0.29度)の西北30度線
  青島―依遅ヶ尾山(W0.177km、0.66度)の西北60度線

このページの先頭へ

丹後の月神信仰と宇佐氏

 宇佐公康『正続・古伝が語る古代史』によれば、大江山は莵狹族が最初に拠点を置いたところであるという。現在の大江山に月神信仰はみられないようであるが、伊去奈子嶽や久次岳の信仰を考えると、かっては大江山に月神信仰があった可能性は考えられる。久次岳であるが、丹後旧事記に「久次嶽は宇気持神天降る地なり、山頂に二間四方の岩あり昔は此岩を以って神を崇祭りしとかや。岩の面に人の死形あり是宇気持神の身まかりし姿なりと伝ふ」とあるという。宇気持神であるが、日本書紀の一書に天照大神に言われて保食神(うけもちのかみ)のところに行った月夜見尊が、口から吐き出した食べ物でもてなされたことを怒って、剣を抜いて保食神を殺してしまった。そのことを聞いて怒った天照大神は、もう会いたくないといって、月夜見尊と昼と夜とに別れて住むようになった。そして、天照大神が天熊人に保食神を見に行かせると、死体の各部分から牛馬や蚕、稲や五穀が生じていたので、それを持ち帰ると、天照大神は喜んで天邑君を定め、稲種を植えると、その秋の垂穂は、八握りもある穂になって、大そう気持ちよかった、という伝承がある。保食神の神話は縄文時代にまで遡るのではないかともいわれる。また、それはハイヌウェレ型の神話であるが、ハイヌウェレは「月娘ハイヌウェレ」とも呼ばれており、月との結びつきが強いので、久次岳に保食神の伝承があるということは、久次岳一帯に月神信仰があったとは十分考えられる。ここに、「其秋垂頴八握莫々然甚快也」という記述がみえ、丹後では天照大神が天道日女命、保食神が豊受大神になっているわけである。日本書紀の保食神の話では、天照・月読・保食神がセットで登場しているわけであるが、そのうち久次岳が保食神を祭り、伊去奈子嶽では天照が祭られていたとすると、残る月読命が久次岳・伊去奈子嶽と西北60度線上に並ぶ大江山にあっても不思議ではないわけである。方位線的には、月読命を祖神とする菟狹族が大江山を根拠地にしていたという宇佐氏の伝承も無視できないものがあるということになる。
 一般的には日神と月神は対になっていることが多いようであるが、宇佐氏にも日神信仰があるという。宇佐公康『続古伝が語る古代史』によれば、御許山山頂に三女神が降臨する以前から祀られていた宇佐明神は、撞賢木厳之御魂であると伝えられ、三つの巨大な神籠石はもっとも原始的な太陽祭祀が行われた神の聖地で、この聖地は莵狹族の撞賢木厳之御魂が鎮まる墳墓の地であり、御許山(大元山)は莵狹族が九州地方にくだってから天地根元の神を祀った日少宮(ひのわかみや)であるという。また、宇佐シャーマニズム伝承の口伝として、「いまをいぬるいつちとせのいにし、葛原の塚に葬りやられし田川のひな、あまざかるむかつびめのみこと、つきさかきいずの御魂」という日神のたたえことばがあるという。葛原の地名は現在北九州市小倉南区と宇佐市(旧宇佐郡四日市町)に残っているという。宇佐氏の日神は、神功皇后に憑いた神であり、「神風の伊勢国の百伝ふ度会県の拆鈴の五十鈴宮に居る神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と名乗っており、天照大神と同じ神とされている。宇佐氏の天照とも結びつく日神信仰は伊去奈子嶽の天照信仰とも関係があるかもしれないわけである。もっとも、御許山に祀られる宇佐明神がはじめらか日神的性格を強く持っていたかどうかは分らない。撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という名前は筑紫申真氏によれば、ツキサカキイツノミタマはみあれ木によりつく尊い霊魂という意味で、アマサカルムカツとは天からはるかに遠く離れてやってきて、津に向かってくるという意味で、そのカミをヒメと呼んで女性とみなしたのは、そのカミの司祭者が棚機つ女であったからだという。常世神だったわけである。常世神と太陽の結びつきは沖縄にも見られ、もともとから日神的性格もあったかもれしないが、それが日神とされ天照大神とされる過程では、より直接的に日神とされる神との習合の可能性も考えなければならないであろう。宇佐氏の撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が常世神的性格が強いことは、宇佐氏の伝承では応神天皇とされる宇佐押人の母に常世織姫がいることからも窺われよう。
 宇佐公康氏によれば、莵狹族は日本最古の種族で、タカミムスビノカミを始祖、オオトノヂ・オオトノベを高祖とし、月読尊を祖神・氏神とする北方系の天孫族で、記紀では天孫族と神武族を混同しているが、天孫族は二万年前の日本列島が大陸と陸続きだった頃日本列島にやってきた人達の子孫で、南方系の天孫族はカミムスビノミコト系の饒速日族であるという。菟狹族が大江山で発祥したのが1万5000年前のことで、1万2000年ほど前に貴船山に根拠地を移したという。貴船山は出羽三山の月山と東北45度線をつくる。月山は熊野大社の神体山天狗山と東北30度線をつくっていた。そして、貴船山は真名井神社と西北45度線をつくっていた。月山の月読神信仰が何時頃からのものか分らないが、気になる方位線である。また、大江山と高良山が東北30度線をつくり、その方位線上に英彦山があるが、『日本民俗体系2 太陽と月』の松前健「月と水」によれば、高良大社の祭神が中世の『八幡愚童訓』や同社所蔵の『高良玉垂宮神秘書』などでは、月神と呼ばれているという。

  月山―貴船山(E0.535km、0.06度)の東北45度線
  大江山―英彦山(W1.207km、0.16度)―高良山(W0.354km、0.04度)の東北30度線

 莵狹族と大江山や貴船山との関わりはきわめて古い時代のことで、現在その痕跡が残っているほうがおかしいことになるが、宇佐公康氏の本に出てくる年代は出雲神族の富氏に伝わる年代とすこし食い違っているようである。莵狹族は貴船山からさらに稲荷山に9000年ほど前に根拠地を移したが、裏日本沿いに移動してきて鞍馬山に住んでいたシベリア種族の猿田族が勢力を伸ばしてきて、8500年ほど前に稲荷山を追われ、各地に分散して行ったという。この宇佐氏の伝承の猿田族は出雲神族を思わせるが、この猿田族を出雲神族とするとその後の宇佐氏の伝承と矛盾が出てくる。稲荷山以後の伝承には混乱・錯綜が見られるが、稲荷山から隠岐諸島に移動していった莵狹族もいたらしい。竹野神社の神馬は、いつのころか隠岐国から奉納される慣わしで、神馬が倒れるたびに繰り返し奉納されたというから、はたしてそれが莵狹族の隠岐への移動と関係するかどうかは分らないが、隠岐と丹後は古くから何らかの関係があったようである。その隠岐の莵狹族と朝鮮から渡来してきた和邇族は出雲族の統治下で生活していたが、稲葉の素莵の話は莵狹族が和邇族に経済上の取引で玄人くさい駆引きを使って失敗し、和邇族に資産を押えられ、大国主命の教示で全財産や隠岐の領有権を和邇族に渡して赤裸になってしまったことを物語っているという。大国主命は莵狹族に因幡国八上の地を無償で与えたので、やがて此処を根拠地にして山陽・北九州・東九州にまで発展して古の莵狹国をつくって繁栄するに至り、大国主命の慈愛と恩恵は現代の宇佐家に至るまで伝承されているという。もし、猿田族が出雲神族であるとすると対立関係にあったことになり、この大国主命と宇佐氏の関係と正反対になってしまうわけである。また、菟狹族と大国主の出会いであるが、宇佐公康氏の本ではただ、6000年以上前の出来事と推測できる記述がある。ただそうすると、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば富氏の伝承に「この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため、一族をひき連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海ぞいに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。(今から4000年も前のことである)」とあり、それからすると出雲神族が出雲にきたのはどんなに古くても4000年前ということになり、宇佐氏の伝承と少なくとも2000年以上食い違うことになる。宇佐氏が大江山から九州の宇佐へ移動していったのは、もっと後の時代、それもかなり後の時代の可能性もあるのではないだろうか。
 丹後には月読信仰の影か濃いことは事実なのであり、それも莵狹族の月神信仰の名残とすれば、それも宇佐氏と丹波・丹後との関係がそんなに昔のことではないことを物語っているのではないだろうか。谷川健一『常世論』では、久次岳近くの苗田にある月の輪田(三日月田)について、豊受大神が清水戸という泉にもみをひたし、三日月形の田にまき、稲を作り始めたという伝承に、豊受大神はウカノミコト・ウケモチの神と同じ神であり、ウケモチの神の背後には月読命の影が動いている伝承であるという。外宮では、日神の天照大神にたいして、豊受大神は月神という扱いである。オリエント倶楽部著『丹後超古代秘話 眠れる異能者への伝言』によると、月の輪田周辺には、伊勢の外宮の神様が伊勢に鎮座する以前、東北の地から丹後にやってきたと伝えられているという。どのような人の間で、どのように伝わってきたのか、気になる伝承である。豊受大神が東北から来たということは、豊受大神は出雲神族の神の別名、さらに表立って出せない神だったのかもしれないし、もしそうすると、籠神社の隠された祭神と考えられるクナトノ大神が豊受大神ということになり、内宮の神がアラハバキ神で、外宮の神はクナトノ大神ということになるわけである。笶原神社の祭神も天照大神・豊受大神・月夜見命である。笶原神社の豊受大神が伊去奈子嶽から来たといわれ、伊去奈子嶽に天照信仰があるのであるから、笶原神社の月夜見命ももともとは伊去奈子嶽あるいは伊去奈子嶽と密接な関係のある場所で祭られていたということも考えられる。笶原神社は天香語山が弓で放った矢が落ちたところで、その話は真名井すなわち水と深く結びついた話であるが、この話ももともとは月神信仰から来ていたのかもしれない。松前健氏によると、信濃国佐久郡の大伴神社は、古来月読命を祭神とするが、『御牧望月大伴神社社記』に見える古伝承によると、最初蒼海原を支配していた月読が竜馬に乗り、四方の国々の河や渓を見まわり、千曲川を遡り、一奇巌の上に登り、金の弓矢を地に投げたところ、清水が湧き出した。そこでこの地に神殿を建てて鎮座した。この地を望月といい、その岩の上に月の御影が残ったので、その岩を月輪石と名づけ、その地の湖を月輪淵というとあるという。天香語山の話とよく似た話である。
 宇良神社でも、浦嶋子は日下部首の祖先に当り、開化天皇の後裔、太祖は月読命とされているから、常世と冠嶋と月読命が結びついている。日下部首は日下部連と同族で、沙本毘古が日下部連の祖とされている。沙本毘古は日子坐王の子供で、妹の垂仁皇后沙本毘売と垂仁天皇に反乱を起こし殺されたが、その母が春日の建国勝戸売の娘の沙本の大闇見戸売とされることから、奈良の春日や佐保と関係してるのではないかともいわれる。春日山は太陽信仰と結びっているのではないかといわれるが、月神信仰もあったと思われる。それも、日神・月神と対で語られる際の日神のついでのような月神ではなく、独自の信仰としての月神信仰である。吉村貞司『原初の太陽神と固有歴』に載っている熱海美術館本の春日曼茶羅について、春日山をはなれようとする月と、三笠山山頂に神鏡をのせた鹿が描かた図であるというが、この他にもインターネットで見た春日曼茶羅の中に太陽というより月と思われるものが描かれたものがあったので、春日山ないし三笠山(地図では若草山が三笠山とされるが、地元の人にも若草山と御蓋山が混同されることがあるといい、この場合は御蓋山のことであろう)と月との特別な結びつきがうかがわれる。吉村貞司によると、三笠山には有名な安倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の他にも月をうたった歌はあるのに、朝日の和歌を万葉歌人はうたわず、春日といえば春の日が立ちのぼり、三笠といえば月を思ったという。これは春日一帯に日神信仰とともに月神信仰もあり、特に御蓋山と月神信仰とが結びついていたということではないだろうか。春日山(花山)・御蓋山・春日神社それに河内の石切劔箭神社奥社と石切劔箭神社が東西線上に並んでいるが、石切劔箭神社近くの春日神社は、同社の伝えるところ月夜見宮・本宮・大神社をはじめ哮峰にあったのを草香津の高庭(現在地)に遷したといい、奈良の春日大社とも密接な関係にあると思われる草香の春日神社に月夜見宮があるということは、奈良の春日神社一帯が月神信仰の聖地でもあったからであろう。有名な東大寺二月堂のお水取りも、一種の若水の行事の仏事儀礼化したものであろうともいわれ、若水は月と結びついているから、東大寺二月堂のお水取りの行事はそこが月神信仰の地であったということと無関係ではないのではないだろうか。松前健氏によれば折口は沖縄の「節(シツ)の若水」即ち変若水(すでみず)は、ニライカナイから通ってくるものと信じられ、人々はこれを浴びて若返りしたが、日本の変若水(おちみず)も同様に常世郷から通ってくると信じられており、二月堂のお水取りの水も若狭から通じる水だということになっているが、それは常世の国からの変若水ということの変形にすぎないという。
 向井毬夫『万葉方位線の発見』によれば、御蓋山を取り囲むように幅10m、長さ1kmほどの石敷の道が発見され、祭壇跡と思われる石敷広場や線刻画のある石などが発見され、御蓋山や春日山(花山)一帯は奈良遷都以前からの信仰圏が想定できるという。そして、若草山の頂上にある鶯塚古墳の中心軸が春日神社本殿の神域に当たり、御蓋山山頂・春日神社・お旅所・率川神社を結ぶ東西線と60度角をなし、同じく春日神社本殿から南東60度角の線を引くと若宮の社殿にあたるという。これは春日神社本殿の所に春日神社が造営される以前から何らかの祭祀場があり、春日山一帯が方位線とも密接な関係のある場所だったと考えられる。

  春日山(花山)―御蓋山(0.000km、0.00度)―春日大社本殿(0.000km、0.00度)―率川神社(S0.025km、0.39度)―石切劔箭神社奥社(N0.013km、0.19度)―石切劔箭神社(N0.075km、0.21度)の東西線
  春日大社本殿―若草山(W0.063km、3.00度)の東北60度線

 春日神社には春日神社と方位線が強く関係していると思われる面白い話が残っている。鹿島神宮から馬代わりに鹿に乗ってこられた武甕槌命は、伊賀国名張郡夏美郷(三重県名張市)、伊賀国薦生山から大和国城上郡阿倍山(奈良県桜井市)に至ったが、そこに春日の地主神の榎本の神が来られて、自分が長年住んでいた御蓋山は武甕槌命にもっともふさわしい所だと、土地の交換を申し出た。こうして、武甕槌命は御蓋山へ、榎本の神は阿倍山に住まわれることになった。ところが、あとで阿倍山は参詣人が少なく困っていると榎本の神が武甕槌命に訴えた。それなら社の瑞垣のきわに住めばいいと言われて、できたのが本社回廊の南西角に祀られる摂社榎本神社だという。武甕槌命は阿部山から現在地に遷って来たわけであるが、春日大社本殿と阿部山が南北線をつくるのである。さらに、向井毬夫氏によれば、三輪山と春日山(花山)が南北線をつくり、恭仁京左京東京極線に重なるという。春日山(花山)と御蓋山それに春日大社本殿が東西線をつくったが、残る三輪山と阿部山も東北60度線をつくる。春日大社本殿と東大寺大仏殿も西北45度線をつくることから、春日山一帯は方位線を強く意識させる磁場を持った場所なのかもしれない。

  春日大社本殿―阿部山(W0.281km、0.83度)の南北線
  三輪山―春日山花山(W0.100km、0.35度)の南北線
  三輪山―阿部山(W0.102km、1.56度)の東北60度線
  春日大社本殿―東大寺大仏殿(E0.038km、1.93度)の西北45度線

 春日山一帯が月神信仰の聖地であったとすると、その春日山に東大寺大仏が造られる時に宇佐神宮が関わったのも、単にそれを機会に宇佐神宮側が自分を売り込んだというよりも、聖武天皇側でも月読神を祖神とする宇佐氏の宇佐神宮をもってくることにより、大仏と春日山の神霊である月神とを媒介してもらう必要があったということではないだろうか。宇佐神宮と東大寺大仏殿の結びつきが平安時代にも強く意識されていたことは、石清水八幡宮と大仏殿が西北60度線をつくることでもわかる。この石清水八幡宮の方位線は、石清水八幡宮にとって東大寺の大仏からの方位線であるとともに、岩清水八幡宮の方位線上に春日山の信仰圏があることも重要だったのではないだろうか。ただ、直接丹波・丹後の莵狹族と春日山を結びつける方位線はないようである。
 三輪山と春日山(花山)が南北線をつくっていたが、丹波・丹後の出雲神族との関係でいえば石清水八幡宮と東大寺大仏殿の西北60度線が真名井神社と出雲大神宮の西北60度線と重なるのである。大枝山もその方位線上にあるということになる。海部氏の祖先の大倉岐命の大枝山での大蛇退治の話は、沙本毘古王・沙本毘売の反乱とも関係しているのかもしれない。日下部氏には微妙に出雲神族の影か見え隠れする。古事記では、垂仁と沙本毘売との間の子の本牟智和気王は八拳鬚が胸まで伸びるまで物を言うことができなかった。それが、鵠の声を聞いて口をバクバクさせたので、もう一度鵠を見たら、物を言うのではないかと期待したが、期待通りにはならなかった。それを患いて寝ていると、夢で「我が宮を天皇の御舍の如修理りたまはば、御子必ず眞事とはむ。」と告げられ、太占で占うと出雲の大神の御心と出たので、御子を大神の宮を拝ましにやったところ、大神の宮の帰り、肥河の仮宮で、出雲国造の祖の岐比佐都美が青葉の山を飾り、大御食を献じたとき、はじめて言葉を話した。また、檳榔の長穂宮で肥長比売と一夜をともにしたが、かいま見ると蛇だったので天皇のもとまで逃げ戻ったとある。本牟智和気王に従って出雲までいった曙立王にトミのつく倭者師木登美豊朝倉曙立王という名を与えたということいい、本牟智和気王さらには沙本毘古王・沙本毘売と出雲神族との関係を暗示しているとも思える話である。弘計王・億計王は後の顕宗天皇・仁賢天皇は丹後とも関係がふかく、またその隠れいてた播磨の縮見(しじみ)山の岩屋がある縮見の里は、播磨国風土記では志深の里とあり、伊射報和気命(履仲天皇)の話があり、そこに阿波の国の和那佐が出てきて、伊去奈子嶽との何らかの関係が窺われる場所であるが、両王子の父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺され、両王子が丹後から播磨へと逃れたとき、それに従っていたのが舎人の日下部連使主とその子の吾田彦とされている。このように、弘計王・億計王は日下部氏と関係があったと思われるが、市辺押磐皇子を殺した同じ月に、雄略は市辺押磐皇子の同母弟の御馬皇子も殺しているのである。日本書紀では、御馬皇子がかねて三輪君身狭と親しかったので、心をたのしませようとして思って出かけたときに、途中で伏兵があり、三輪の磐井のほとりで合戦になった。ここで日本書紀では、御馬皇子が急に三輪皇子となって、皇子が捕えられて処刑されるときに、井戸を指して「この水は百姓だけが飲むことができる。王者だけは飲むことができない」と呪いをかけたというのである。御馬皇子が三輪君身狭と親しいだけでなく、三輪皇子とも記されているということは御馬皇子と出雲神族に何らかの関係があったことを示しているといえる。
 同じ月神族の宇佐氏と日下部氏の関係はわからないが、宇佐氏と対立している神功皇后とも関係深い天日槍を祭る出石神社と春日大社・大仏殿が西北45度線をつくる。この出石神社と春日山の方位線の意味は、天日槍というよりも、それ以前の出石の豪族が問題なのかもしれない。出石神社は四道将軍のひとり”谿羽道主命”(たちはみちぬしのみこと)が、”天日槍”の曽孫”多遅摩比那良伎”(たじまひならぎ)と相談して天日槍を祀ったのが始まりと云うから海部氏も関わっているわけである。

  春日大社本殿―東大寺大仏殿(E0.038km、1.93度)―出石神社(W0.0005km、0.00度)の西北45度線
  出雲大神宮―東大寺大仏殿(W0.006km、0.01度)―春日大社本殿(E0.250km、0.29度)の西北60度線
  真名井神社(W0.637km、0.32度)―石清水八幡宮W0.451(km、1.05度)―東大寺大仏殿の西北60度線

このページの先頭へ

海部氏の丹後進出と記紀

 海部氏の伝承でもう一つ興味深いことは、その系譜伝承に天御蔭命があることである。『先代旧事本紀』の天孫本紀では彦火明命の十一世孫が乎止与命(小豊命)で十二世孫が建稲種命になっているが、海部穀定氏によると、小豊命・建稲種命の前あるいは後に三代が加わった形のいくつかの伝承があるという。国造本紀からは建稲種命と十六世孫の大倉岐命の間に宇介美都彦(宇介水彦命・笠水彦命)・宇介津彦命(笠津彦命)・川上真稚命が加わり、新撰姓氏録では十世孫小登与・十四世孫が小豊命・十五世孫が建稲種命で小登与命と小豊命の間に天御蔭命・宇介美都彦命・宇介津彦命が加えられているという。天御蔭命は彦火明命の十一世孫ということになるが、さらに秘伝では、天御蔭命自身が火明命又は瓊々杵尊あるいは天押穂耳尊、宇介水彦命にも火明命又は彦火火出見命あるいは瓊々杵尊、宇介津彦命にはウガヤフキアエズノ尊又は武位起命の異名があるという。海部穀定氏によれば、小豊命及び建稲種命を中心として、その前後に火明命や瓊々杵尊といった名がみえるのは、「その頃に、地神三代に類して、神代とも見られるような時代があったことを暗示している」というが、小豊命や建稲種命等の時代が景行や成務・仲哀・神功の時代に対応していることを考えると、これは景行を神武の兄とする宇佐氏の伝承と共通するものがあるといえ、やはりこの時代には大きな謎があるということなのであろう。もっとも、天孫本紀自体が、十八世孫尾治乙訓与止連の弟に宇摩志麻治命がくるなど、謎をこの時代に限定するのは危険かもしれない。宇介津彦命すなわち笠津彦命であるが、残欠風土記では青葉山の東の峰には若狭彦神・若狭姫神、西の峰には笠津彦神・笠津姫神を祭り、笠津彦神・笠津姫神は丹波国造海部直等の祖とある。また、川上真稚命にも異名として道主命(丹波道主命)あるいは倭宿祢命があり、稚足彦(成務)天皇の御宇大県主を賜り、竹野郡将軍山あるいは熊野郡甲山に葬られたという。古事記では天之御影神の外孫が丹波道主命であるが、此処では直系の孫が青葉山に祭られる宇介津彦命(笠津彦命)で、別伝ではその子の川上真稚命が丹波道主命となっており、どちらにしても天皇の子孫ではなく海部氏の子孫となっているわけである。
 倭宿祢命にもまた、天皇につながる伝承と海部氏につながる二つの伝承があるという。先代旧事本紀皇子本紀に倭宿祢命は景行天皇の子とあるが、海部氏系統の系譜でも倭宿祢命は川上真稚命あるいは大倉岐命の異名となっているという。また、大倉岐命の異名には大矢田宿祢(大矢田彦命)があり、建田背命の六世あるいは九世の孫と伝えられているが、新撰姓氏録には考昭天皇の皇子天足彦国押人命の六世孫とされているという。倭宿祢というのは国造本紀・皇孫本紀等に大和国造の祖であり、彦火火出見尊の裔ともされているが、この伝に対しても、彦火明命を天押穂耳尊の第三子とし、その子を武位起命、孫を宇豆彦命、三世孫を倭宿祢命とする古伝もあるという。また、天孫本紀では彦火明命の六世の孫とされる建田背命に付いても、丹後旧事紀では火明命を皇孫としてその六世の孫とし、海部穀定氏によれば、皇孫というのは皇統の直系、普通は瓊々杵尊以降を言うのであって、所謂神別氏姓の祖先人の場合は皇孫の称を用いないのが例であり、建田背命の場合に特に皇孫の称が用いられているのは、この命が普通の神別氏姓の祖先人と同様に考えられておらず、皇統に属する格別に尊貴な方のように考えられて来た事を意味するという。また、建田背命と天足彦国押人命を同一人物とする見方も存在するという。このように、皇統と海部氏の系統の混同は様々な年代に亘っているわけである。
 天御蔭命が海部氏の祖先であるということは、海部氏の女と日子坐王の間に丹波道主命が生まれたということになるが、海部氏の伝承に川上真稚命が丹波道主命であり、日本書紀では丹波に派遣されたのは日子坐王ではなく丹波道主命であることを考えると、日子坐王の陸耳御笠討伐は元々は海部氏の丹波・丹後征服譚が四道将軍の話の一つとして取り入れられたということになるのではないだろうか。海部穀定氏によれば、海部氏が丹後国之沿海地方に本拠を置くに至ったのは、大倉岐命の父あるいは祖父といわれる川上真稚命が成務天皇の御世に大県主に任ぜられてからこのかたのように海部直の伝では伝えられており、そうすると大倉岐命による大枝山の大蛇退治もこの海部氏の丹波・丹後進出と関連していると考えられる。
 神功皇后に従って香坂王・忍熊王の軍と戦った将軍は、古事記に丸邇(わに)臣祖難波根子建振熊命があり、日本書紀では和珥臣の祖武振熊とある。海部穀定氏によれば、一伝に大矢田宿祢―大振熊―難波根子建振熊―建振熊という系譜があり、三代にわたる熊は熊野郡の熊に関係があり、難波根子建振熊命は和珥臣の祖であるばかりでなく海部氏の祖でもあるという。忍熊王と戦った難波根子建振熊あるいは武振熊が熊野郡の熊と関係あるなら、忍熊王の熊も熊野郡の熊と関係があるのではないだろうか。また、香坂王・忍熊王の母大中津比売の父は大江王であり、大江王は景行天皇が倭建命の曾孫で須売伊呂大中日子王の娘の河具漏比売に生ませたという大枝王と同一人物であろう。この大江王あるいは大枝王と、大倉岐命の大枝山の大蛇退治との関係も考えたくなる。海部氏に伝わる一伝では、神功皇后の新羅出兵に従軍したのは大矢田宿祢あるいは建振熊宿祢ともいわれ、新撰氏姓録にも神功皇后の新羅征伐に従って凱旋後鎮守将軍とされたとあるという。そうすると、忍熊王と戦ったのが大矢田宿祢すなわち大倉岐命だった可能性もあるわけであり、海部氏の伝承では、大倉岐命―大振熊―難波根子建振熊―建振熊とあるが、日本書紀の仁徳65年和珥臣の祖先の難波根子建振熊に飛騨のいわゆる両面宿儺を殺させたとあり、そうすると大振熊が応神で、大倉岐命が神功皇后の時代となって、忍熊王と戦ったのは大倉岐命ということになる。あるいは、海部氏の祖先と忍熊王との戦いも、もともとは海部氏の丹波・丹後の侵入の話だった可能性もあるわけである。神功皇后に従って戦った建振熊命について、海部穀定氏は最高軍将として竹内宿祢と共に中央政権の確立に貢献した振熊宿祢が、その所管が三国に亘っていたとはいえ、地方の国造に任ぜられ、海部直の姓を賜ったことは、明かに栄進を意味するものとは考え難いとして、その処遇を訝っているが、もともとが海部氏の丹波・丹後への進出を基にした話だったとすれば、振熊宿祢がそれらの国の国造に任ぜられるという結果になるのは当然ともいえるわけである。

このページの先頭へ


丹後の磐座と方位線網

 弥仙山は依遅ヶ尾山と西北60度線をつくり、依遅ヶ尾山は網野町の高天山と東北30度線をつくる。依遅ヶ尾山は山頂近くに巨石群や神代文字があるといい、高天山にも磐座があるという。高天山は久次岳と南北線をつくる。久次岳には『丹後旧事記』にいうところの「此所は宇気持神天降るの地なり山頂に二間四方平面の岩」があった。久次岳が伊去奈子嶽と西北60度線をつくり、伊去奈子嶽にも山頂に巨石群があるという。そして伊去奈子嶽と弥仙山(弥仙山は出口なおが修行したという滝から於成神社に向かう途中に縦6m30横15m30という巨石があるらしいが、山頂には磐座らしき巨石はないようである)が方位線をつくっていたから、丹後半島を覆う神山・磐座の閉じた方位線の環があるわけである。また、大宮町谷内の朝日山岩屋寺の背後の崇山(アラタヤマ)は行基によって開かれた霊場であるが、10m四方を超える剣岩、方形の石柱、牛を食べたという牛取石などがあるという。標高343.7mの三角点が頂上らしいが、伊去奈子嶽と東西線をつくり、高天山と西北60度線、愛宕山と西北30度線、沓島と東北30度線をつくっている。
 兜山(熊野神社)の西北45度線上には、大江山や出雲大神宮があり、その方位線近辺には元伊勢の一つである皇大神社や豊受神社が点在していたが、方位線的には、皇大神社の神体山でピラミッドともいわれる日室(城)山が兜山や出雲大神宮と西北45度線をつくる。大江山と日室山は直接方位線関係にはないが、皇大神社と大江山が西北30度線をつくる。日室山の山頂には磐座があるようである。依遅ヶ尾と南北線をつくる。兜山(熊野神社)と依遅ヶ尾はその方位線上に日室山と弥仙山があるわけである。日室山は比沼麻奈為神社と西北60度線をつくるが、依遅ヶ尾山の東北60度線上に藤神社と比沼麻奈為神社が位置している。高天山は冠島とも東西線をつくる。
  依遅ヶ尾山―高天山(W0.212km、0.89度)の東北30度線
  高天山―久次岳(E0.100km、0.63度)の南北線
  磯砂山―崇山三角点(0.000km、0.00度)の東西線
  崇山三角点―高天山(E0.188km、0.66度)の西北60度線
  崇山三角点―愛宕山(W0.054km、0.13度)の西北30度線
  崇山三角点―沓島三角点(W0.177km、0.28度)の東北30度線
  高天山―冠島三角点(N0.752km、1.13度)の東西線

 弥仙山が方位線的には丹後・丹波と出雲を結びつけるポイントで、その東西線上に能義神社・出雲井神社・出雲大社がくる。上古を考えるなら山と山で、弥仙山と出雲井神社近くの弥山の東西線を考えるべきかもしれない。丹後の弥仙山と阿波の大麻比古神社が東北60度線をつくる。すなわち、兜山にある熊野神社の方位線上にある出雲大神宮と弥仙山が大麻比古神社とも方位線をつくっているわけである。この大麻比古神社との方位線を考えると、弥仙山は岩手山と東北45度線をつくり、岩手山は月山と東北60度線をつくっていたが、月山が熊野大社神体山の天狗山と方位線をつくり、熊野大社が大麻比古神社と方位線をつくっていたのであるから、出雲と丹後を直接結びつける山として弥仙山の重要性が分るわけである。熊野神社のある兜山は黒又山と東北45度線をつくり、黒又山は大湯ストンサークルを通じて、岩手山は大森勝山ストンサークルを通じて岩木山に結びついていたのであるから、兜山(熊野神社)と弥仙山は東北と丹後・丹波を考える上でも無視できない場所ということになる。
  弥仙山―出雲井神社(E0.767km、0.18度)の東西線
  豊受神社―能義神社(W0.328km、0.11度)の東西線
  弥仙山―弥山山上神社(E1.567km、0.37度)の東西線
  弥仙山―大麻比古神社(W1.339km、0.51度)の東北60度線
  弥仙山―岩手山山頂神社(W0.293km、0.02度)の東北45度線
  熊野神社―黒又山(W1.045km、0.08度)の東北45度線