出雲の熊野大社神体山の天狗山と防府市の玉祖(たまのおや)神社が東北45度線を作ることを「神武東征と瀬戸内海」の中で記したが、先日、玉祖神社を訪れてみた。境内に入ると、天然記念物の日本鶏黒柏の長い鳴き声が聞こえてくる。境内の小さな柵に囲まれた中に二羽の黒柏がいて、その側で子供が七、八羽の黒と白の雛と遊んでいた。近くの子供なのであろう、触ってもいいのだという。天気が良かったせいか、のどかで明るい感じの神社だった。餌をやりに来た神社の女性が、参道の横の奥に鶏舎があるというので行ってみると、鶏舎では右端にだけ白い鶏が飼われていた。その白さに目がとまったが、戻って聞くと、黒と白の雛は、黒は黒柏で白い方は鳥骨鶏の雛だと言う。後で気がついたのだが、これは紅白ではないが、黒と白を対にしていたということなのだろう。鳥骨鶏自体も羽が白と黒のがいる。
神社の300mほど北に景行天皇行宮跡がある事は前から知っていたが、出かける前にネットで厄神の杜という旧鎮座地が在るということを知った。神社の女性に両方の場所がどのあたりか聞いてみると、景行天皇の行宮跡は田んぼの中に木が一本だけ立っているだけで、何にもないという。旧鎮座地については、玉の岩屋という名前が出て来た。少し話が食い違うなと思ったものの、玉の岩屋が旧鎮座地なのかとそのときは理解して、目印として教わった多々良幼稚園の方に向かった。実際は、道を間違えて遠回りしてしまい、帰りに通ったのであるが、神社の裏を通る車道を渡ると、多々良幼稚園の脇の江良自治会館に向かう道があり、そこを歩いて行くと、春先だったので畑か田んぼか分からなかったが、左側の、道から2〜30mほど入った所に一本の木が立っており(写真http://sunyama.soreccha.jp/e304741.html ただ現在は幹の周りを小さな灌木が取り囲んでいるように見える)、景行天皇行宮跡だったか行在所跡だったか忘れてしまったが、木の根元に案内板がある。『日本書紀』では、景行天皇が熊襲討伐に向かう途中、周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に寄っている。神社でもらった『玉祖神社略紀』では、天皇が玉祖神社に戦勝祈願した時の行在所の跡となっており、宮城森(みやしろのもり)、ミヤキノモリともいうとあって、玉祖神社付属地という。
自治会館のところで突き当たると左に曲がって、そのまま進むと、左手に入る小さな道があり、その角に玉の岩屋の案内板がある。そこで曲がらずにそのまま進むと、広い車道に突き当り、車道の反対側に鳥居が見えた。そこから引き返して、玉の岩屋に向かったが、玉の岩屋も田の中にあり、石碑というべきであろうか、墓標というべきであろうか、大きな石が立っているだけであった。『玉祖神社略紀』では「玉屋命、大崎の閭(村里のこと)に隠れさせたまひ 御神体を納め奉るを玉の岩屋といふ。当社の後三町餘隔てる江良に有之 天正のころまでは歴然たり、今は其形少残れり、依て近歳石の小祠を立て験とす、四月上辰日祭……」と風土注進案に見えるとあり、また現在の玉の岩屋は明治六年修築したもので、祭典は5月上辰日に執行され、神社北方約五百メートルにあって、玉祖神社附属地であると記されている。
帰ってから地図を調べると、鳥居の見えた所が厄神の杜だと分かった(厄神の杜・玉の岩屋写真
https://sora07.exblog.jp/22209060/)。また、ネットで地元民には厄神の森一帯を玉祖神社の旧社地と伝承するが、神社では遷座したことを否定していることも分かった(www.geocities.jp/engisiki/suou/bun/suo520201-01.html)。道理で言葉を濁していた訳である。厄神の杜が旧鎮座地だとすれば、そこに厄神が祀られるというのも変な話ではある。あるいは、神社側の言うように旧鎮座地ではないのかもしれない。それにもかかわらず、地元の人が旧鎮座地とするのだとすれば、何かいわく因縁がそこにあるのであろう。玉祖神社、玉の岩屋、厄神の杜は一直線上に並んでいる。そのことも、玉祖神社と厄神の杜に関係がある事を示しているのではないだろうか。
玉祖神社本殿(0.94度)―玉の岩屋(0.003q)―厄神の杜祠(0.31度)の直線
祀られている神が厄神とされるということは、祟る神ということであろうから、あるいは先住民の神が祀られていたということなのかもしれない。『日本書紀』では、娑麼に着いた景行天皇が南を見ると、煙が多くたっているので、賊がいるのだろうとと言い様子を見させにいくと、手下の非常に多い神夏磯媛というのがいた。天皇の使いが来たというので、神夏磯媛は賢木に八握剣、八咫鏡、八尺瓊をつけ、白旗を舟の舳先に立てて帰順したが、神夏磯媛によれば宇佐の川上に屯する鼻垂など四人の賊が皇命に従わないと言っているというので、それを殺したとある。宇佐という地名が見えるが、煙が見えるというのであるから、娑麼の近くの出来事なのであろう。『玉祖神社略紀』では周防国娑麼(佐波)に神夏磯媛(かむなつそひめ)と名乗る女酋が勢力を張っていたとしている。
玉の岩屋に葬られている玉屋命について、『玉祖神社略紀』では玉祖命は玉造連(たますりむらじ)の祖神で、別名櫛明玉命、羽明玉命、玉屋命とも称し、「天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八尺瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊の時供奉した五伴緒神の一柱として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、社伝には、後にこの大前(大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神避けりました後、御祖(江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀ったのが当社の起源とし創建年月は不祥であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ、…」とある。その記述からいえば、九州から中国地方に侵攻してきて中国地方を平定したのであろう。一方「神武東征と瀬戸内海」のところで記したが、出雲神族富氏の伝承(吉田大洋『謎の出雲帝国』)では、神武は防府、河内、熊野などで六人死んだというから、防府周辺には出雲神族が居たということになるし、玉祖命は防府で出雲神族と戦ったということになる。そうすると、出雲神族が防府で死んだという神武は玉祖命のことかもしれない。あるいは、やはりは「神武東征と瀬戸内海」のところで記したが、宇佐氏の伝承では景行は神武の兄とされるのであるから、防府で死んだ神武とは景行天皇のことかもしれない。さらにいえば、出雲神族のいう防府で死んだ神武とは、玉祖命であり景行天皇なのかもしれない。どちらにしても、厄神の杜で先住民の神が祀られていたとすれば、出雲神族の神だった可能性が高いのではないだろうか。玉祖神社では十六弁菊花文と亀甲紋様を三つの勾玉(www.genbu.net/data/suou/tamaso_title.htm)が囲んでいる神紋が散りばめられた幕があった。亀甲紋は出雲神族の紋であり、また勾玉も出雲神族の王の象徴であるから、玉祖神社の神紋は玉祖神社が出雲神族と何らかの関係を持つ神社であることを示しているともいえる。あるいは、玉祖命が八尺瓊曲を造ったとい話は、この出雲神族との関係から作られた話なのかもしれない。
玉祖神社は周防国衙跡と東西線をつくっている。この玉祖神社と周防国庁の配置は意識的なものだったのではないだろうか。その場合、玉祖神社に合わせて国庁が置かれたとすれば、奈良時代にはすでに玉祖神社は現在地に在った可能性が強くなる。国庁に合わせて玉祖神社は現在地に遷座したということも考えられるが、その場合でも国庁が出来てそんなに時間がたたない時期か、少なくとも国庁が機能していた時代のことであろうから、玉祖神社が現在地に在ったのは遅くても平安時代からということになろう。玉祖神社が国庁と東西線を作っているのにたいして、厄神の杜は防府八幡宮と東西に並ぶ。厄神の杜に元々祀られていた神は、菅原道真とも関係のある神だったのかもしれない。玉祖神社が厄神の杜に在ったとすれば、天満宮と東西線をつくっているのは差し障りがあるということで、現在地に遷されたということも考えられるが、それ以上に菅原道真の霊を抑え込むためにも、その地に留まったのではないだろうか。なお、あくまでも地図上の国衙跡記号についてで、国衙跡記号と政庁があった建物との関係は調べていないが、国衙跡記号と防府天満宮本殿が西北30度線、天神山とは西北45度線をつくっている。国庁域は方二町というから、現在の史跡公園とほぼ重なるということであろう。国庁の真ん中を朱雀通りが通り、南北軸の西側に政庁の建物があったと考えられているが、国衙跡記号は周防国衙跡史跡公園の真ん中あたりの少し西よりにある。
玉祖神社本殿―周防国衙跡記号(S0.022km、0.26度)の東西線
厄神の杜祠―防府天満宮本殿(S0.131km、2.20度)の東西線
国衙跡記号―防府天満宮本殿(W0.007km、0.31度)の西北30度線
国衙跡記号―天神山166.9m三角点(E0.010km、0.37度)の西北45度線
玉祖神社本殿と摂社の濱宮御祖神社も西北60度線をつくっている。延喜式神名帳には玉祖神社二座とあるが、主神は玉祖命で今一座は不詳となっていて、不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊、天日神尊とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神ではないかとしており、その天照大神を御祖神として、濱宮御祖神社を当てた時代もあったという。
玉祖神社本殿―濱宮御祖神社(E0.007km、1.52度)の西北60度線
濱宮御祖神社は明治十年(1877)に摂社になっているが、その前の明治六年(1873)に佐野の若宮社が摂社となっている。『玉祖神社略紀』によれば『風土注進案』に「昔仲哀天皇 神功皇后 筑紫を征伐し給う時、当所に御船を寄せられ、澤田の長(澤田中頃土田と称し今ハ内田と申候、当時弥三郎家なり)に命じて高田の土(高田は姫山の麓なり)を以て三足の土鍋を作り御供を炊き、大盎に盛り、玉屋の明神に備へて軍の吉凶を卜ひ祭り給う例にて当天保十二年丑年迄千六百四拾壱年之間闕如なく毎年八月一ノ宮大祭之節澤田家筋より鍋を備奉候……」とあり、玉祖神社の例祭当日の早朝、三足の土鼎(どてい)を以って、白飯(白米)黒飯(玄米)を炊き、これを盎(ひらか)に半分ずつ盛合せて神饌に献供するが、沢田長の子孫が代々この祭器を毎年調進するのが昭和三十年頃まで続いていたという。『日本書紀』の一書に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で急死したとき、最初に神懸る人物として、周防の佐波の人間と考えられている娑麼県主の先祖の内避高国避高松屋種の名が出てくる。社伝では、沢田の長の子孫が玉祖命の御分霊を祀り、壺神様として崇め奉ったのが佐野の若宮社であるという。伝承にある姫山は玉祖神社の東北30度の方角にあるのであるが、標高点をとると方位線も方向線も作ってはいない。これは、若宮社についてもいえる。ただ、玉祖神社からみた姫山の方角は意味をもっているのかもしれない。玉祖神社と姫山を結ぶ線を伸ばすと、姫山の反対側に日の本という地名がある。この日の本が太陽の昇る場所という意味だとすると、玉祖神社から見た日の本の方角は夏至の日の出の方角ということになる。これはまた、姫山が夏至の日の出と結びつく場所ということにもなるであろう。また、玉の岩屋から見ると姫山は真東にあたっているので、春分・秋分の日の出の方角ということになる。姫山が夏至と春分・秋分の日の出と結びつけられていたので、その山麓の土で作った土鼎が、玉祖神社の祭祀で重要な役割を持つことになったのではないだろうか。
玉の岩屋と姫山標高点は東西の方向線をつくる。ただ、これは玉の岩屋の元々の大きさや誤差を考えた時、元々は方位線をつくっていたかもしれない。また、姫山標高点は濱宮御祖神社と方位線に近い方向線の東北45度線をつくる。
姫山52m標高点―玉祖神社本殿(E0.065km、3.49度)の東北30度線
姫山52m標高点―佐野の若宮社(W0.118km、3.19度)の東北30度線
姫山52m標高点―玉の岩屋(N0.028km、2.36度)の東西線
姫山52m標高点―濱宮御祖神社(E0.044km、2.27度)の東北45度線
玉祖神社と濱宮御祖神社が方位線をつくり、姫山と濱宮御祖神社が方位・方向線をつくるとするなら、玉祖神社と姫山との間にも方位・方向線を考えたくなる。山を見た時、その山頂を見るともいえるが、山全体を見るともいえよう。さらに山に霊気を感じるという時、山頂というより、その山全体からくる霊気を感じているのではないだろうか。あるいは、ある広がりを持った山の中心部分から発しているように感じるかもしれない。山頂は、その山の持つ霊気の象徴とでもいえるかもしれないが、その場合でも山の霊気が山全体、あるいは広がりを持った山の中心部から来る以上、山頂の霊気は、山頂付近にも強く漂っているように感じるのではないだろうか。そういう意味では、山との方位線を考える場合、点としての山頂ではなく、山頂付近との方位線を考えるべきともいえる。その意味からいえば、玉祖神社と姫山も方位・方向線をつくっているとみなせるかもしれない。ただ、若宮社は偏角的には玉祖神社より小さいのであるが、その東北30度線が山頂付近を通っているとはどう見ても言えないので、姫山と方位・方向線をつくっているとはいえないであろう。それに方位線的には、若宮社は景行天皇行在所跡と東北30度線をつくっていることも考えなければならない。
景行天皇御在所跡は玉祖神社本殿とも東北60度の方向線をつくっている。玉の岩屋と景行天皇御在所跡は南北に並んでいるのであるが、数字的には方位・方向線をつくるとはいえない。ただ、玉の岩屋は古墳としてそれなりの大きさがあったであろうし、景行天皇御在所跡も宮城の森というぐらいであるから、元々はそれなりの木々が生えた場所を御在所跡としていたであろう。元々は南北線をつくるような位置関係にあったとことも考えられるかもしれない。少なくとも、景行天皇の行在所の北に玉の岩屋は在ったという言い方はできるのではないだろうか。その修正された南北線が両所から大きく西もしくは東にずれない限り、玉祖神社や若宮社との方位・方向線は成立するであろう。また、その南北線が玉の岩屋からの南北線に近づけば玉祖神社と景行天皇御在所跡は方位線になっていく。
若宮社―景行天皇行在所(W0.041km、1.67度)の東北30度線
玉祖神社本殿―景行天皇行在所(W0.017km、2.33度)の東北60度線
玉の岩屋―景行天皇行在所(W0.018km、5.30度)の南北線
『玉祖神社略紀』に八籠山(やこもりやま)というのが載っている。景行天皇が宮城の森に行宮を設けられた際、この山に神皇産霊神・高皇産霊神・生産霊神・足産霊神・魂留産霊神・大宮売神・御膳都神・事代主神の八神を祭り、その時祭器を埋めたという。通称霞山(かすみやま)、糘山(すくもやま)といい、当社の北北西六百メートルにあるというから、標高125.2mの山が八籠山ということになる。その八籠山と厄神の杜は東西に並んでいるといっていいであろう。もっとも、三角点から見ると、厄神の杜とは方位線・方向線をつくるとはいえないかもしれないが、その山頂部を考えるなら、厄神の杜の東西線は八籠山山頂部を通るといえる。また、高度差などを考えると、厄神の杜から見る春分・秋分の太陽は八籠山標高点の少し南に沈むと考えられる。厄神の杜は八籠山の山麓に位置し、その西にはそんなに高い山もないので、現地で確かめたわけではないが、厄神の杜から八籠山を見ると、その背後にもっと高い山は見えないのではないだろうか。すなわち、厄神の杜から見ると、見た目にも春分・秋分の太陽は八籠山山頂付近に沈むといっていいのではないだろうか。
八籠山125.2m三角点―厄神の杜祠(N0.032km、3.58度)の東西線
玉祖神社のある地は、姫山・八籠山さらには西に低い山が連なり、それらの山と佐波川に囲まれた小宇宙を作っている。さらに、八籠山に景行天皇と結びつく伝承があり、姫山の麓には仲哀天皇・神功皇后と結びつく伝承があり、それら伝承に囲まれた小宇宙ともいえる。西側の山であるが、玉祖神社の西に標高65mの山があり、その南側の山中には古墳時代後期の向山古墳群がある。その山に古墳が造られたのは、玉祖神社から見ると、春分・秋分の夕日が沈む山だったからではないだろうか。厄神の杜から見れば八籠山に春分・秋分の夕日が沈み、玉祖神社から見ればその標高65mの山に夕日が沈むということだったのかもしれない。
神社の検索サイト(www.jinja.in/chugoku/yamaguchi/gy745)で防府市の神社を見ていたら、同じ大崎に玉祖神社があった。参道を二号線の方に向かうと、突き当たる手前に鳥居があり、場所のその付近の左側である。帰りにそのあたりを通ったのだが、地蔵さんには気がついたが、神社はなかったように思う。グーグルマップのストリートビュウで見てもやはり普通の民家にしか見えないし、一之宮から分霊するとしてもそんな近いところに分霊する必要があるのだろうかとも思う。不思議な話だと思っていたところ、「2号線側に鳥居があり、側に宮司宅がある。」(www.genbu.net/data/suou/tamaso_title.htm)という。おそらく、宮自宅が玉祖神社として掲載されていたのであろう。しかし、何故宮自宅が神社として掲載されることになったのであろうか。その「玉祖神社」と二号線の間の空き地に地蔵さんが在るのも、気になることである。おそらくそこは、一之宮か宮司さんの土地であろう。そこになぜ地蔵が立つことになったのであろうか。二号線や山陽自動車道を通すために移転する必要があり、神社側でその移転地を提供したということなのであろうか。