夕張岳
杉山僧正の方位線
烏山
寅吉と篤胤の方位線
宮地水位と国安普明
仙人・山人・天狗の物質性
サムハラ
方位線を使った小説でも書こうかと思って調べているうちに、平田篤胤の『仙境異聞』に出でくる寅吉の師の杉山僧正にも方位線があることを発見した。小説を書こうと思ったのは、物語性のある方位線のネタもだいぶ尽きてきて、方位線に自分で物語性を作り出すのも面白いかもしれないと思いだしからである。小説を書くとなると、自分の生まれた所を自分なりに盛り上げられないかと以前から考えていたので、その二つの考えを何とか結びつけられないかと思うようになった。
私が生まれたのは北海道の大夕張という所で、小学六年生の五月まで住んでいた。その地名からも分かるように、夕張市の一部なのであるが、夕張出身というより大夕張出身という方が、何かしっくりくる。夕張ではなく、あくまでも大夕張なのである。子供心には、確かに住所的には夕張市鹿島なのであるが、夕張は大夕張とは違う、別の町という感覚があった。夕張市はいわば炭鉱の連合体のようなものであり、共同体への一体感、帰属意識は何よりその炭鉱にあったのである。大夕張という場所は、私の子供の頃には道路も通っていない、鉄道だけで外とつながっている陸の孤島だった。その陸の孤島の河岸段丘の狭い谷間に、最盛期には二万人の人が、密集して建ち並ぶ炭住に住んでいたのである。その中には、大きな病院()や消防署、警察も交番という位置づけなのであろうけど小さな警察署のような建物であり、学校も私のいたときには中学校しかなかったが、その後高校もできるなど、一つの町として一通りのものが揃っていた。そういう事情も、大夕張を他から独立した場所という意識を作り出していたかもしれない。大夕張出身の人の中にはそういう人も多いのではないだろうか。実際、夕張市から独立して別の町になろうという話もあったが、市議会で一票差で否決されてその話は実現しなかったらしい。
大夕張は吉永小百合主演の『北の零年』のロケ地で、おそらく鹿島小学校のグランド方向を撮影したと思われる映像は、その頃はダムに沈むというので建物は総て取り壊されており、まるで原野が拡がっているかのように映っていたが、子供にはその狭い場所も、原野ほどではないが、あまり行ったことのない場所に行けば、そこは別世界であった。
一方、山に囲まれ隔絶されたような環境で、その外の世界の広さというのが分からないから、距離感というのがない。少し空の高い所に上れば、東京が見える、そんな感覚の世界でもあった。三橋美智也の『夕焼けとんび』に遠い東京を想って「そこら東京が みえるかい 見えたらここまで 降りて来な」という歌詞があるが、空を飛ぶ鳶には実際東京が見えるみたいな感覚だったのである。
大夕張からは夕張岳が見える。実際には、大夕張の人には夕張岳よりその前にある前岳という山の方が身近で、夕張岳は前岳にいわば隠れるように見える山でしかなかった。山容も前岳の方が特徴的で、雄大さを感じさせるものがあり、夕張岳より印象的である。先生が夕張岳の方向を指して、何という山か聞いた時があったが、生徒が答えようとしないので怒り出したことがあった。皆、前岳と言おうとして、やはり夕張岳と答えるべきではないかとも迷って、黙っていたのである。その夕張岳あるいは前岳でもいいが、奈良の三輪山と東北60度線をつくっている。大夕張のこの方位線を使って、何か小説を書けないかと思ったわけである。
夕張は江戸時代の17世紀、すでに夕張川での砂金採りが盛んだったらしい。遅くとも寛永年間には砂金が採られていたようであり、「土地に金銀多きこと余国と比類なし、70年前までは年々金砂をとる事多し、松前領内はいうに及ばず、東蝦夷地にては『クンヌイ』『ウンベツ』『ユウバリ』『シコツ』等を始、一場所とても数十里にわたりたる場所有之、広大なる事ともなり」と元文四年(1739年)の『北海隋筆』にあるといい、寛永十二年(1635)には松前藩主松前慶広が家臣に命じて、アイヌ数百名を使役し数年間に至り夕張川上流で砂金を採集したという(http://tabigeinintomato.blog.fc2.com/blog-entry-46.html)。しかし、夕張川での砂金採りは、幕府が蝦夷地の砂金採取を禁止にしたことにより、1699年のシャクシャインの蜂起からほどない延宝五年(1677)頃には終わりを迎えていた。 その後、夕張の砂金ブームは明治に再燃し、道内の砂金採取の中心地といわれたといい、その採取地も紅葉山・滝ノ上からさらに夕張岳周辺へと中心が移っていったが、北見枝幸で一大砂金山が発見されると夕張の砂金は一時、人々から忘れられてしまう。しかし、 昭和になると大夕張のシューパロ川で砂白金が発見され、日本ではこの地域でしか産出しないということで再び注目を集めることになる。第二次世界大戦中から戦後にかけて、多くの砂金採取者が集まってきたというが、しかしこのブームも昭和20年代で終わってしまったという。子供の頃、下流の方で砂金が採れたようなことを聞いた記憶が朧気に残っていたが、本当にあった話だったわけである。大夕張の入口の明石町に白銀橋があり、その近くには夕張岳から流れ出る、シューパロ川の支流の白金川という沢がある。そのすぐ南を流れるカネオベッ川は金がごちゃごちゃある川という意味であるという。小学生の頃、一度その辺りに遠足で行った記憶がある。河原の砂の中に磁石を入れると、砂鉄がいっぱいくっ付いてきたが、夕張の砂金に付随する鉱物の中に磁鉄鉱があるといい、何処でもそうだと思っていたが、必ずしも河原の砂から磁石に砂鉄が付いてくるということではないのかもしれない。また、川で採られる砂金は表層に出てきたもので、河岸段丘の土の中には砂金がいっぱいあるという話もある。実は今でも大夕張は砂金の宝庫なのかもしれない。
夕張で最初に砂金が発見された滝ノ上にある千鳥ヶ滝周辺は、安政四年(1857)アイヌ四名に案内されて夕張川上流一体を探索した松浦武四郎の『夕張日誌』によれば、カムイコタンとして畏敬されていたといい、夕張岳は金銀財宝が眠る宝の山というアイヌの伝説があつたという(https://mickymagicabc.hateblo.jp/entry/2020/07/06/151341)。また、多くの人間が砂金を求めて夕張岳に入ったが、帰ってこない人もいて、アイヌたちは魔物が住む山として恐れていたともいい、松浦武四郎も『夕張日誌』の中で「ユフバリノ山々ハ役ノ小角・行基・弘法トイッタ聖サエソノ足跡ヲ残シテイナイ霊山デアル」と誌しているという(o.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd600000002ee-att/e9fjd60000000378.pdf)。夕張岳は隠された、世に出ていない霊山ともいえる。その夕張岳が三輪山と方位線で結ばれているのである。
三輪山△466.9m―前岳1501m標高点(W0.619km、0.03度)―夕張岳△1667.7m(E1.907km、0.09度)の東北60度線
もう一つ私的な物語性でいうと、私の両親は北海道の浜益という所の出身なのであるが、その浜益に黄金山(こがねやま)という山がある。子供の頃には滝川からバスで浜益に行ったのだが、そのバスの車中で母が黄金山を指さし、大蛇がとぐろを巻いていると教えられたが、母親がいう黄金山がどの山なのか、その時はよく分からなかったという思い出がある。母の言った黄金山は、砂金を採りに入った和人が「黄金山(こがねやま)」と名付けたと云われているが(http://aikaze.co.jp/pdf/hamamasu_history_map.pdf)、その黄金山と夕張岳・前岳が西北45度線をつくっている。
小説に黄金山も入れようと思い、黄金山についても調べたのだが、以前インターネットで調べたときには、母親のいうように黄金山の大蛇伝説に触れたサイトもあったのに、今は黄金山とアイヌのユーカラ、あるいは義経伝説との関係を取り上げる情報ばかりであった。平成21年には文化庁からアイヌ文化に関連する名勝として指定を受けているというから、そのせいかもしれない。義経伝説の中に「タイルベシベ(丸山)といふ雷盆(スリバチ)を伏たる如き山あり、和人これをコガネ(黄金)山という。其後に廻り、源はアアラ岳と云、石狩樺戸の山に至るよし。一説、昔此タイルベシベは義経公が住居し給ひしと云、其時甲冑を置れしが、今化して皆マムシに成て有と云ひ、また文亀天正の頃に金坑盛んにありし故号くとも云り。」と松浦武四郎が『蝦夷日誌』に書いてあるというが(https://www.kitakaido.com/ororon/isikari/hamasu_13.html)、一応マムシが出てくる。
アイヌのユーカラの英雄ポイヤウンペはトミサンぺツのシヌタプカのチャシ(山城)で育ったが、日高のアイヌたちはにはその場所は浜益と伝えらていたという。トミサンぺツのシヌタプカは、トミサンぺツ川の大きく湾曲した河畔という意味で、ポイヤウンペのチャシがあった場所の一つとして黄金山説がある。黄金山は浜益のアイヌにとって特別な山で、儀式の祭壇を設置する場合、この方向に向くように作ったという。その西南にある摺鉢山とは夫婦山と言われ、二山一体で神聖な存在とされていた。摺鉢山もポイヤウンペのチャシがあった場所といわれ、とくに柏木神社境内であると伝承されていたという。
黄金山△739.1m―前岳1501m標高点(E2.532km、1.54度)― 夕張岳△1667.7m(E3.644km、2.16度)の西北45度線
黄金山は大本教の綾部の本宮山と東北60度線をつくっている。そうすると、小説には当然大本教という要素を入れたくなる。そして、数年間であるが茨城県の岩間町に住んでいたことがあり、岩間町は植芝盛平の岩間道場があって、その岩間には『仙境異聞』で寅吉が杉山僧正の許で修業したという愛宕山(岩間山)があることから、大本教→植芝盛平→茨城県の岩間→杉山僧正・寅吉ということにもなるわけである。
本当は夕張岳と植芝盛平が開拓に入った北海道の白滝が方位線をつくっていればいいのだが、残念ながら方位線をつくるのは芦別岳の方である。植芝盛平が開拓に入った場所に建てられた上白滝神社の建設には、盛平も大きな貢献をしたといわれるが、神社の東南200m程の所に合気道ゆかりの地という碑がある。その碑の案内板に、植芝盛平の父与六翁の本籍地にちなみ建てられたとある。植芝盛平の父親は田辺市で死んでいるはずであるが、北海道の上白滝に本籍があるということは、どういう経緯かは分からないが本籍が移されたということであり、その場所は盛平が開拓に入って住んでいた所ということになるであろう。植芝盛平は上白滝神社のすぐ近くに住んでいたということになる。芦別岳と上白滝神社が東北45度線をつくっている。
もっとも、大本教側からいえば、畝傍山と芦別岳が東北60度線をつくっていることは記したが、その芦別岳と白滝が方位線つくっている方がいいし、夕張岳とつくっていたとなる逆に残念ということになる。芦別岳は夕張岳の北に聳える山であり、芦別岳―畝傍山の東北60度線と夕張岳―三輪山の東北60度線が対になっているとも考えたくなる。あるいは、畝傍山が神武天皇とも結びつくとすれば、三輪山は神武天皇に征服された原住民の山ともいえ、その二つの方位線は対峙しているともいえる。
黄金山△739.1m―大本教本宮山神社(E2.434km、0.12度)の東北60度線
芦別岳△1726.1m―上白滝神社(W1.122km、0.57度)の東北45度線
私の父方はもともと石川県の羽咋出身であり、母の家は津軽である。羽咋には石動山があるが、石動山を含めこれという方位線が見つからなかったのに対し、津軽といえば岩木山であり、岩木山は夕張岳と三輪山の方位線上にあるともいえる。もっとも、津軽といっても陸奥湾の竜飛岬に近い方で廻船問屋のようなものをやっていたらしく、岩木山とはだいぶ遠い。夕張岳と岩木山の方位線も、幅的には少し大きすぎて、方位線をつくるというには問題があるかもしれない。ただ、岩木山神社とは東北60度線をつくるといっていいであろう。あるいは、浜益の黄金山に対し、岩木山の近くにも黄金山があり、夕張岳とやはり東北60度線をつくるが、近くには弘前市鬼沢地区の鬼神社があって、小説的には面白い場所ともいえる。鬼神社一帯では、鬼は人に危害を与える存在ではなく、逆に災いを払ったり、子供の成長を見守る、産土神のような存在である。
夕張岳と岩木山が東北60度線をつくるなら、芦別岳と岩木山も東北60度線をつくるといえる。岩木山は夕張岳、正確にいえば前岳の東北60度線と芦別岳の東北60度線のちょうど中間に位置しているのである。また、夕張岳が岩木山神社と方位線をつくるなら、芦別岳は岩木山神社がそこから遷ってきたという巌鬼山神社とやはり東北60度線をつくっている。岩木山神社も大本教的にいえば、富良野市山部には出口王仁三郎によって「綾部についで人位の霊場である」といわれた、大本教の大本北海本苑があるが、その大本北海本苑と岩木山神社の東北60度線ということになる。芦別岳と大本北海本苑を介して、岩木山は大本教と結びつく山ともいえるわけである。芦別岳と大本北海本苑も、数字的には方位線をつくるとはいえないが、感覚的には大本北海本苑の真西に芦別岳があるといっていいであろう。
岩木山山麓に限定しても、岩木山神社と黄金山(W0.166km、1.05度)が東北60度線をつくっているし、黄金山は巌鬼山神社(E0.029km、0.23度)とも西北45度線をつくっている。岩木山神社と鬼神社(W0.544km、3.03度)は数字的に東北45度線とするには問題であるが、感覚的には、ということは小説的には岩木山神社と黄金山・鬼神社が方位線をつくるとして物語を創作していくこともありかもしれない。
夕張岳―岩木山神社(E0.817km、0.13度)―岩木山(W4.151km、0.68度)の東北60度線
芦別岳―巌鬼山神社(W0.299km、0.05度)―岩木山(W1.777km、0.28度)の東北60度線
大本北海本苑―岩木山神社(W0.713km、0.11度)の東北60度線
岩木山神社は大湯環状列石の西北45度線と亀ヶ岡遺跡の南北線が交わる場所であった。巌鬼山神社から岩木山神社が遷ってきた当時、亀ヶ岡遺跡も大湯環状列石も地中に埋もれていたといえよう。その埋もれた場所の方位線が、岩木山神社として地上に現れたわけである。夕張岳をまだ表に出てない聖山・霊山とすれば、方位線を通じてその聖性・霊性が岩木山神社に現れたともいえる。大本教的にいえば、芦別岳は艮の金神が押し込められていた場所であった。岩木山神社と方位線をつくる夕張岳、そして前岳を、誰か聖山・霊山として表に出してくれないかと期待したいところである。
『ムー』458号の「松原照子の大世見」に夕張岳と富良野のことが出ている。松原照子氏は東日本大震災を予言したことで知られているが、熊本地震が起こった2016年に、松原照子氏は2019年に起こった北海道の胆振東部地震を予知していたという。松原氏が「世見」を書くときには、「地図さん、おしえてください。」と口に出していつも使用する地図に触れるのだが、地震のときには大地や海の動きが指から伝わってきたり、火山活動が盛んになった山に触れたときには指先に火傷を負ったり、水ぶくれができたりするという。そのときの予知は松原氏のウェブサイト「幸福への近道」に書かれており、『ムー』の記事での引用によれば、「日本地図を開くと気になる場所の多いこと。私が書くことの中に何度となく出て来る地域がありましたら、もしかすると不思議な世界の方々の思いが入っているのかもしれません。いつも申し上げているのですが、書き終えると殆ど覚えていません。だからよけいに思うのですが、何度となく書くことには意味があるのかもしれません。今日も手元の地図はいつもと同じです。何となく指を突っ込み開けると北海道でした。」「勇払平野が他の字より大きく見えます。『ムカワ』アレ~漢字よりムカワが大きく見えました。近くには苫小牧があります。富良野までのこのあたりの沖で大きく揺れると影響を受けますが、夕張岳って火山なの?それとも普通の山なの?当別(とうべつ)ってどこですか?いまこんな地名のような言葉が聞こえました十勝、根室沖は揺れやすいと思いました。」「この度の熊本県大地震の後、北海道が揺れるかもしれないと思ってしまいました。『すぐ』とはどのくらいを指すのかがわかりませんが、これからの2~3年、北海道は揺れやすく、どこかの火山が活発になるかもしれません。名前が付く規模の地震はご免蒙りたいのですが、どうしてもそうはいかない気がしています。」といった内容である。
記事によれば「ムカワ」は勇払郡むかわ町、「当別」は石狩郡当別町のことであろうとする。胆振東部地震は胆振地方中東部を震源地とし、厚真町では震度7、その隣のむかわ町や安平町などでは震度6強の揺れに襲われた。苫小牧でも気象庁の震度分布図では震度6弱から5強となっている。また、震源地から少し離れた、札幌市の東区を中心に江別町、それに当別町や石狩市の南部でも震度6弱から5強の強い揺れに襲われている。夕張岳や富良野も震度4の揺れであったが、しかし震度4を観測された地点は帯広や滝川、函館さらにはむつ市まで広がっており、特に夕張岳や富良野に限ったものではない。また、十勝や根室の沖で地震が発生したとしても、富良野や夕張岳が特別強く揺れるとも考えられない。
何故、胆振東部地震の予知にあたって夕張岳や富良野の名が出てきたのであろうか。実は、松原照子氏が夕張岳や富良野に感じた一種のエネルギーあるいは波動は、「ムカワ」や「当別」「苫小牧」に感じた胆振東部地震予知のエルネギー・振動とは別のものだったという可能性もあるのではないだろうか。松原照子氏は異なる二つのエネルギー・波動・振動をごちゃ混ぜに感じとっていたというわけである。夕張山地には火山はなく、夕張岳・前岳も芦別岳も火山ではない。夕張岳や富良野に感じとっていたものは、地震や噴火といった物理的なものではなく、一種の霊的なものだったのではないだろうか。もしそうだとすれば、松原照子氏は出口王仁三郎によって発動されていた富良野の霊的エネルギーを感じとったのだと考えらる。そして、夕張岳については、夕張岳の霊的エネルギーがこれから発動されるということを予知したということではないだろうか。
夕張岳は空知岳ともいうが、神仙界を出入りした宮地水位は、神仙界の師である川丹先生に連れられて石狩国空知岳にも行っている(『類別異境備忘録 附記幽界記』)。その時芦別岳には訪れていないが、夕張岳はまだ世に出ていない、しかしこれから世に出る、神仙界の地、聖所・霊地なのかもしれない。
なお、亀ヶ岡遺跡と岩木山神社の南北線の数値を記すの忘れていたので、とりあえずここに記しておく。当時は今みたいにインターネット上で国土地理院の地図やグーグルマップで簡単に緯度経度を取得できる時代ではなく、五万分の一や二万五千分の一の地図から割り出したもので、あまり正確とはいえないものだったので、より正確な大湯環状列石と岩木山神社の数字も併せて記しておく。また、亀ヶ岡遺跡と大湯環状列石の西北60度線では万座環状列石との数字をあげていたが、野中堂環状列石との方が正確な西北60度線だったので、それも記しておく。そういう意味では、これまで方位線と見なしていたものの中には方位線をつくっていなかったものもあるかもしれないし、方位線をつくらないとして見過ごしていたもののなにか方位線をつくっていたものがあるかもしれない。もちろん、方位線を幅を持ったもっとぼんやりしたものとして捉えれば、これまでの方位線は方位線として語ることはできる。また、出雲神族についても、吉田大洋氏の著書と異なる情報が富氏自体から出て来ている。吉田大洋氏の著書では長脛彦は出雲神族であるような書き方をしていたが、富氏の情報では長脛彦は出雲神族ではなく、逆に八咫烏と言われていた加茂氏は出雲神族で、出雲神族は神武と対立していたのではなく、逆に神武と一緒に大和に侵入した一族であるともとれるような事を書いている。猿田彦にしても、クナトノ大神の子供であるという。しかし、伊勢津彦やイサワヒコが出雲神族であることを聞き出していた吉田大洋氏が、どうしてそのような、より重要で基本的なことを聞き出せなかったのであろうかという疑問も湧いてくるところである。吉田大洋氏はそれらのことを聞いていたのであるが、自分の考ていることと都合の悪いことは無視したということなのであろうか。あるいは逆に、富家に吉田大洋氏に告げてきたことを否定する必要性にせまられる事情が生じたということなのであろうか。どちらにしても、正確な数字を含め、今まで書いてきたことも書き直していかなければならないかもしれない。
亀ヶ岡遺跡―岩木山神社(E0.079km、0.16度)の南北線
大湯環状列石・万座環状列石―岩木山神社(W0.203km、0.20度)の西北45度線
大湯環状列石・野中堂環状列石― 亀ヶ岡遺跡(E0.013km、0.01度)の西北60度線
杉山僧正の方位線であるが、寅吉によると杉山僧正の本山は信濃浅間山であるという。そして、「我が知りて師の周られたる山々は、象頭山・烏山・妙義山・筑波山・岩間山・大山などなり。大山に居るときは常昭と称せられたり。其は大山の山人の長を常昭と云ふて僧形なるが、かつて人の通らざる杉山といふ深山に庵を結びて住み、他山の山周りに行かれしほど、師は其の庵に住みて其の名を称せられしなり。何れの山に行きても各々互ひに本よりの名は称せず、其の山の山人の名を称する例なればなり。其の後岩間山に住みては、杉山僧正と称せらる。杉山の称号は大山の杉山といふを用ひらる。僧正といふは岩間山の山人の名か、其れは知らず。双岳と云ふ号は唐土の山に住まれし時の名を用ひらるるとぞ。」といって、杉山僧正は浅間山以外の山も周ったようである。そのうちの、寅吉の知っている山は、象頭山・烏山・妙義山・筑波山・岩間山・大山というのであるが、烏山というのはどこの山なのか分からないが、その他の山をみると、象頭山すなわち讃岐の金毘羅さんと浅間山が東北30度線、浅間山と大山が西北60度線、大山と愛宕山(岩間山)が東北45度線、愛宕山と妙義山が東西線をつくっており、妙義山は浅間山と西北30度線をつくっている。愛宕山と筑波山も東北30度線を作っていることはすでに記した。これらの山々は方位線で結ばれているわけである。
このうち問題なのは浅間山と妙義山であろう。寅吉は単に妙義山といっているだけであるが、妙義山といっても例えば西南の星穴岳と東北の天狗岳では、2キロメートル以上もあり、点というより線であり、裏妙義などを含めれば面となってしまい、範囲が広すぎるのである。もっとも愛宕山は星穴岳ばかりでなく、天狗岳とも東西線をつくるといえるが、浅間山は天狗岳と西北45度線をつくるものの、星穴岳とはつくるとはいえない。妙義山といっても、もっと焦点を絞るべきなのか、それともそれらを一体のものと見るべきなのかが問題となるわけである。天狗・山人界的にみていったいどちらなのかということであるが、こちら側の人間としては分からないことなので、一応妙義山を一体のものとみて、愛宕山・浅間山は妙義山と方位線をつくるとみなすことにする。
金刀比羅宮本殿―浅間山2568m標高点(W0.157km、0.02度)の東北30度線
浅間山2568m標高点―相模大山標高点1252m(E1.556km、0.71度)の西北60度線
相模大山1252m標高点―愛宕山十三天狗祠(W1.745km、0.75度)の東北45度線
愛宕山十三天狗祠―妙義山星穴岳1073m標高点(S0.422km、0.17度)―妙義山天狗岳1084m標高点(N893km、0.37度)の東西線
浅間山2568m標高点―妙義山天狗岳1084m標高点(W0.024km、0.06度)の西北30度線
愛宕山十三天狗祠―筑波女体山△877m(W0.201km、0.75度)の東北30度線
もっと問題なのは、寅吉のいう大山とは相模の大山と思い込んでいたのであるが、よく考えると伯耆大山もあり、寅吉のいう大山は伯耆大山のことかもしれないわけである。もしそうだとすると、この方位線網は崩れてしまう。伯耆大山は他の山と方位線をつくらないのである。
大山を相模の大山だと思い込んだのは、『仙境異聞』では大山としては相模の大山の話しか出てこなかったからかもしれない。その話とは、次のようなものである。平田篤胤が寅吉に「下総国東葛西領新宿といふ所に、藤屋荘兵衛といふ者あり。先年此の者の家に、富士山に住む常昭といへる山人の来りて、二三日逗留し、三社の託宣の如き物を記して与へたる事あり。此の山人を知れるか。」と聞いたところ、寅吉は、「それは富士山には有るべからず。大山に住む山人の名なり。大山を富士と聞き違へ給へるなるべし。」と答えた。篤胤は下総国葛飾郡柏井村の門人である中尾玄仲に富士山の山人と聞いていたのに、寅吉が富士山ではなく大山というので、中尾玄仲に問い直してみた。中尾玄仲によれば、この話の荘兵衛は先代で、今の荘兵衛は六十五、六歳であるが、十二、三歳の頃のことなので、今の荘兵衛も覚えているということであった。先代の荘兵衛が、午の刻頃になって突然大山詣りに行くと言い出し、家のものが明日にしたらと止めるのもかまわず出かけたところ、途中で常昭という異人に出会い、その背に負われて大山まで飛んで行き、帰りも送ってもらったという。その異人は後日、荘兵衛の家を訪れ、「我は常昭といふ者なり、酒呑みかはさん」と言って二人は親しく話をし、五、六日逗留していった。そして、帰る時に「此の後汝等が家に火災なき様にすべし、然れども此の家に常に住すること叶はねば、火災の有らん時は、富士の方に向かひて我が名を呼ぶべし」と言って帰っていった。その後、江戸神田に住む親類の者が神隠しにあい、帰って来た後に荘兵衛方に来て、先年此の家に来たのは常昭という人ではないかと聞いたので、皆驚いてその人を知っているのかと訊ねると、今は富士山の下に隠居しているということであった。
この話の頃、篤胤はまだ杉山僧正が常昭という名でもあるということは知らなかったと思われる。もし知っていたら、常昭という山人を知っているかというような質問ではなく、その常昭とは杉山僧正の事かというような質問になっていたであろう。常昭が富士山ではなく大山の山人であるという寅吉の話を、篤胤は常昭が荘兵衛の許へ訪ねてきたのは五十年以上も前のことであり、一度富士山に隠居したが、再び大山で仕えはじめ、寅吉はその頃の常昭しか知らないので富士山ではなく大山の山人というのだろうと辻褄合わせをしている。
杉山僧正が常昭という名でもあるということを知った後も、篤胤の周辺では杉山僧正と荘兵衛の家に来た常昭が混同されていたらしい。「大山の常昭山人は、僧形なりと云ふこと心得がたし。其の故は新宿なる藤屋荘兵衛が許へ来りて逗留して、下総の三社(神号)を書きたりしは、黒髪長く生え下がりて山伏の如くなりし」という質問が寅吉になされている。それに対し、その常昭は真の常昭とは違う者で、真の常昭は僧形で、杉山僧正は軽々しく人間の家に逗留などする人ではないと寅吉は答えている。篤胤も二人の常昭を同じ人物とする気持がどこか捨てきれなかったようである。寅吉の書くものと荘兵衛の許へ常昭が書き残していったものを比べ、「寅吉が己れと書きたる物どもを見れば、神風野福、神野心悪、鬼野心神など様に、辞にかくの字に野をかけり。常昭山人が書にも、辞の所に野字を六つまで書きたるは、不測に符合して甚奇なる事なりかし。」と書いている。
寅吉のいう大山が相模の大山と思い込んだのは、浅間山や岩間山・筑波山・妙義山にしても東国の山であり、大山も東国の山と思ってしまったからかもしれない。象頭山は西国の山であるが、杉山僧正にとって象頭山は特別な山である。寅吉の言に、「 毎年寒中には諸国の山々より大勢の山人往き集まりて助けを為すなり。山人のみならず、鳥獣の化れる天狗までも集まりて助けをいたす。金毘羅様は山人天狗すべての長の如く座しませば、然する定めなり」とあり、杉山僧正も鬮(くじ)に当った年に象頭山に行っていたらしい。
寅吉は金毘羅様は山人天狗すべての長とするが、宮地水位『類別異境備忘録 附記幽界記』にも、「愛宕山にハ太良王子栄術天狗江州平野山にハ二良王子栄飛天狗信州戸隠山にハ三良王子智羅天狗駿河国富士山にハ四良王子尊足天狗加賀国白山にハ五良王子通達天狗熊野山にハ六良王子智吉天狗出羽国羽黒山にハ七良王子命師天狗伯耆国大峯山にハ八良王子仁命天狗信州秋葉山にハ九良王子飛頂天狗甲斐国金峯山にハ十良王子道仙天狗同国天目山にハ千眼大莾足天狗是を十一天狗といふ是に象頭山金毘羅釈女及ひ善月光華大天狗を添えて十三天狗といふ此中に釈女を以て主領とす釈女ハ十二天狗の形を一人して現するの徳あり」とあり、浅間山や相模の大山は出てこないが、金毘羅さんを十三天狗の主領としている。
また、寅吉や篤胤にしても江戸の人間であり、大山詣での盛んな江戸のことであるから、大山といえば相模の大山というのが常識で、寅吉もどこそこの大山という必要を感じなかったし、それで篤胤たちと話が通じていたとも考えられる。そう考えると、寅吉のいう大山はやはり相模の大山とみなすべきということになる。
ただ、伯耆大山と相模の大山には密接な関係がある。相模大山の天狗は、大山伯耆坊あるいは伯耆大仙清光坊といわれているのである。これには、相模大山の相模坊が讃岐の白峰に移った後、伯耆大山から伯耆坊が相模の大山にやってきたという伝承がある。崇徳上皇が亡くなったとき、相模坊は讃岐国の白峰山に移り、崇徳上皇の霊を鎮め、陵墓を守護した。そのため、大山の大天狗は空席になり、代わりに伯耆大山に棲んでいた伯耆坊が相模大山に移ってきたというのである。一説では、伯耆大山では、南北朝時代に大山寺の僧侶たちが南朝派と北朝派に分かれて争い、大山寺を炎上させる様に呆れて、伯耆大山を見限って、相模大山に移ってしまったという。元々は伯耆大仙清光坊と名乗っており、相模大山に移って相模大山伯耆坊と名乗ったとも、伯耆坊が相模大山に移った後、復興した大山寺を治めているのが清光坊だとも言われるという(https://hetappi.info/fantasy/daisen-hokibo.html)。
また、富士山も杉山僧正と関係があるかもしれない。宮地水位『類別異境備忘録 附記幽界記』によれば、『仙境異聞』で古呂明と言われている杉山僧正の弟は、杉山熙道僧正ともいい、また白石熙道君ともいうが、「此熙道君不二山に在りし時は大山日石と云ひしを後にハ日字の上にノを加えて白石としそれを名字にせられしとぞ又杉山僧正の寅吉に日石と云ふ名も付けられたり」とある。杉山僧正と古呂明はいつも一緒に行動しているから、杉山僧正も富士山にいたことがあるかもしれないわけである。また、富士山にいたときの古呂明が富士山日石ではなく大山日石といったということは、富士山に行く前に大山にいたということなのかもしれないし、富士山と大山を行き来していたのかもしれない。方位線的には伯耆大山と富士山が東西線をつくつている。また富士山は妙義山と南北線をつくっている。寅吉のいう大山が伯耆大山だとしても、富士山を含めれば、方位線で結ばれているともいえるわけである。
『類別異境備忘録 附記幽界記』にはもう一人の常昭も出てくる。宮地水位によれば、宮地水位と杉山僧正は神仙界において親しい仲で、杉山僧正にあちこち連れて行ってもらったといい、「杉山僧正に伴はれて諸所を見たるハ川丹先生之杉山僧正に命して我れを連れ行かしたるにて何によらずよく合点し知りたる山人にてハ杉山僧正に限るなり」と記している。杉山僧正は嘉永年間まては杉山僧正といっていたが、その後故ありて杉山清定(セイジャウ)と改めたといい、宮地水位は杉山僧正のことを清定君とか杉山石麿清定君、或いは杉山石麿僧正とも記す。その杉山僧正に妹背二別之島の山人の会議に連れて行ってもらったことがあり、その会議には日光山の大冠貴僧正、杉山石麿清定君、大山常照清定君などが出席していたという。ここに出てくる大山常照清定君も杉山僧正と同じ常昭であり清定であるが、親しい関係にあったようであるが別人であり、「古鷲に乗りて杉山大山二僧正の僧正の先に立ちて行く時ハ」などと、宮地水位の記述ではよく対になって出てくる山人である。この大山常照清定君は伯耆大山と関係が深いのかもしれない。「筑波山の月張法師比叡山の法性坊伯耆の大山の異生坊一名伯耆大仙坊…などいへる天狗ハ奇術をよく知りたる故に其眷族ハ種々の法術を行ふなり且大山僧正と伯耆大仙坊とハ愛宕東叡山との二所を住居と定めし故に互に往来を為して入替り居ることもありとそ」という記述や、「伯耆国大山の天狗界にハ横山左門といふ天狐ありて大山僧正に似たるやうに化れるなり」という記述がみられる。また、そこに出てくる大山の異生坊すなわち伯耆大仙坊も寅吉や杉山僧正と親しかったようである。土佐郡種崎町に商家に滞泊して価をとらず薬を病者に与えて忽ち功験を発し或ハ禁厭を行ひて病者を癒し評判になった若者が現れたが、水位はそれが寅吉ではないかと思い会いたいと使いを出すと、突然いなくなるということがあったが、やはりその若者は寅吉で、「其後大山常照僧正にとへハ白石玄達ハ奇符の官を越へ奇乙の上位になりて伯耆僧正の伴ひて九州の長崎に至れり然るに杉山石麿僧正の留守にて玄達奴の土佐国へ参りたりし時水位寿真の使来りて大いに迷惑せし事ありと長崎へ行く際に語りとそ」ということだったという。ここに出てくる伯耆僧正は伯耆大仙坊のことであろう。伯耆僧正は寅吉と一緒に長崎に行く仲であり、大山常照僧正は伯耆僧正に事の次第を聞いていたわけである。大山常照清定君が伯耆大山と関係するとすると、それに対しもう一人の常照清定君ともいえる杉山僧正は相模の大山と関係するといえるのではないだろうか。なお、愛宕東叡山の愛宕山とは岩間の愛宕山ではなく、東京の愛宕山であろう。寅吉によれば、「世間の御世話は金毘羅様がなされ、天下の事をば日光の御神の掌り給ふ様に思はるゝなり。天下に変事あらむとすれば、山人天狗いづれも苦行をなし、天道神明に祈りを為し、また非常の事ある時は云ふに及ばず、常にも禁廷また江戸の御城へは、日光よりも他の山よりも守護にまはり、正月元日と春秋の彼岸に、京の愛宕山より芝の愛宕山へ一人づつ遣はされ、また江戸に火災ある時は、東叡山なる俗に天狗の休み所といふ二本杉へ、日光より二人づつ来りて火をしめ(湿)す咒術を行ふ。」とあり、芝の愛宕山と東叡山は山人天狗にとって江戸守護の重要な二所だったわけである。
大山阿夫利神社の祭神は、大山祇大神・大雷神・高龗神の三神で、大山祇神は富士山の木花之佐久夜毘売命(浅間大神)の父親であり、杉山僧正の本山である浅間山の神は、寅吉が杉山僧正から聞いた話では、富士山の神の姉神ということであった。神界においては、大山・富士山・浅間山の神は親子・姉妹の密接な関係にあることになる。この神界での関係が、山人界・天狗界でどのような意味があるか分からないが、もし山人界・天狗界においても深い意味をもつとすれば、杉山僧正にとって浅間山・富士山・相模の大山は大事な山ということにもなる。そうすると、寅吉のいう大山はやはり相模の大山と考えたくなる。
寅吉のいう烏山とはどこの山なのであろう。寅吉があげる杉山僧正が周る山は岩間山にしろ、筑波山や妙義山にしろ、あるいは大山も相模の大山にしろ伯耆大山にしろ、天狗伝承と結びつく山である。ということは、烏山も天狗伝承と結びつく山ということがいえるかもしれない。また、岩間山は寅吉に聞いて始めて知った山かもしれないが、他の筑波山・妙義山はその山名を聞いたら篤胤達はすぐにどこの山か分かったであろう。それは浅間山や金毘羅さんの象頭山でもそうであり、大山もすぐ相模の大山が頭に浮かんだであろう。そうすると、烏山もその山名を聞いてすぐどこの山か篤胤達の頭に浮かぶ山だったのではないだろうか。もしそうでなければ、山人・天狗の世界のことを詳しく知りたがった篤胤のことであるから、烏山がどこにある山か寅吉に訊ねたはずであり、その場所を記したと考えられるからである。別の可能背としては、寅吉に場所を聞いたのであるが、その場所を記すほどの山ではないと判断したのかもしれない。篤胤は烏山を軽く考えたということである。
国土地理院の地図で烏山を検索すると、地名などを除いた山名としては、鹿児島県南さつま市の烏山、熊本県八代市の烏山、山口県美祢市の烏山 、呉市の高烏山、岡山市北区の烏山、津山市の烏山、長野県阿智村の夜烏山、山梨市の大・小烏山が出てきた。烏岳で検索すると、宮崎県高千穂町の烏岳、大分県豊後大野町の烏嶽、大分県臼杵市の烏岳、三重県松坂市の烏岳、福井県勝山市の烏岳、青森県今別町の烏岳が出てくる。グーグルで検索しても出てくるのはほとんど地名の世田谷区の烏山か那須烏山市であり、「烏山 山」で検索しても那須烏山市の「山あげ祭」などである。「烏山 山 登山」で検索しても出てくるのは国土地理院の地図で検索した山の他には、丹沢の烏尾山、伯耆大山山系の鳥ヶ山というところであろうか。あと、丹沢にあるらしい烏山山荘というのが出てくるが、地図で捜しても烏山とか烏山山荘というのは見つからない。三ノ塔から烏山山荘が見えるというような記述があったので、三ノ塔からは谷の向こうに烏尾山が見えるから、烏山山荘は烏尾山山荘のことなのかもしれない。登山のことはよく分からないが、登山者の中には烏尾山を縮めて烏山という人ものいるのかもしれない。これらに、那須烏山市の烏山城がある大高山も加えることができるかもしれない。
これらの山で、天狗信仰や天狗伝承のある山は存在しない。天狗と結びつきそうな山を考えても、調べた範囲では、近くに天狗を神の使いとして天狗像があり、御朱印にも天狗が描かれている大嶽山那賀都神社(だいたけさんながとじんじゃ)がある山梨市の大烏山・小烏山か、やはりすぐ北に天狗寺山(てんぐうぎさん、地元の一部ではてんぐうじ)がある津山市の標高701mの烏山(烏ヶ仙)、それに近くに相模の大山がある烏尾山、伯耆大山があるや鳥ヶ山(からすがせん)ぐらいのものである。寅吉の杉山僧正が山周りする山が天狗伝承と結びつく山だったことを考えれば、寅吉のいう烏山として考えられるのはその四つの山ということになる。
山梨市の大烏山・小烏山が、近くの天狗と結びつく神社や天狗伝承のある山のなかで、方位線的に結びつくのは大嶽山那賀都神社(だいたけさんながとじんじゃ)である。大嶽山那賀都神社は祭神は大山祇命・大雷命・高龗命を祭神とし、役行者小角が「霊峰富士開山前の修行の場として定めた霊場」といわれる。江戸時代には羽黒派修験東叡山支配となったという。国司ヶ岳に奥宮があるが、「日本武尊東夷御征定の砌、甲武信の国境を越えさせ給う時神助を蒙り、神恩奉謝の印として国司ヶ岳の天狗尾根(2,159M)に佩剣を留め置き三神を斎き祀る。」とされ、天狗尾根の天狗岩には奉納された剣が天に向かって立っている。大烏山と天狗岩が南北線をつくり、小天狗山と大嶽山那賀都神社が東北30度線をつくっている。そして、大烏山と小烏山自体も西北60度線で結ばれている。
大嶽山那賀都神社と国司ヶ岳の奥宮は天狗と深く結びついているわけであるが、方位線に意味があるとすれば、このように天狗岩や大嶽山那賀都神社と方位線網をつくっている大烏山・小烏山も天狗と結びつく山といえるかもしれないわけである。大烏山の正確な場所は国土地理院の地図上ではよく分からないのであるが、登山者が印す大烏山山頂が(https://yamap.com/activities/40116742)国土地理院の地図で大烏山を検索して旗が表示される場所と同じなので、そこが大烏山の場所としていいであろう。山頂の標識では標高1855mとなっている。
大烏山・小烏山ではないが、天狗岩・大嶽山那賀都神社と相模の大山が西北45度線をつくっている。正確には大嶽山那賀都神社であり、天狗岩は大山よりは近くの烏尾山と正確に西北45度線をつくる。大烏山・小烏山ではなく、天狗岩、あるいは天狗岩を含んだ国師ヶ岳が寅吉のいう烏山という可能性もあるであろう。そうすると、烏山も杉山僧正の方位線網の中に組み込まれていたことになる。
烏尾山は天狗ではないが修験と結びつく伝承がある。天狗と修験は密接な関係があるが、山の名前の由来は、山で修行をしていた修験者が、修行の最中にカラスが飛来した際に、そのカラスに修行の成就を祈念したという伝承に由来するといわれる。大山と烏尾山も東西線をつくっており、大烏山・小烏山・大嶽山那賀都神社・天狗岩・大山・烏尾山が方位線で結ばれている。
大烏山―天狗岩(E0.017km、0/16度)の南北線
小烏山1403m標高点―大嶽山那賀都神社(W0.028km、0.27度)の東北30度線
大烏山―小烏山1403m標高点(W0.016km、0.44度)の西北60度線
大山1252m標高点―大嶽山那賀都神社(W0.989km、0.92度)―天狗岩(W1.845km、1.52度)の西北45度線
烏尾山1136m標高点―天狗岩(E1.189km、1.02度)の西北45度線
大山1252m標高点―烏尾山1136m標高点(S0.109km、1.49度)の東西線
津山の烏山は烏でも烏天狗ではなく八咫烏と結びつく山のようである。烏山は烏ケ仙ともいわれ、山頂には烏ケ仙城の本丸跡がある。その烏ケ仙城跡の案内板には烏ケ仙の由来について、「『作陽誌』所収の「医王山記」の中に「苫田郡有烏之山出薬草有神祭八咫烏也麓有硫黄山出塩湯」(苫田郡に烏の山があって薬草がはえている。八咫烏を神としてまつっている。麓には硫黄山が有り塩湯が湧いている)と書かれています。ここに出てくる硫黄山が、現在、市内吉見にある医王山です。」とある。(https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1742061.html)。津山の烏山(烏ケ仙)は天狗と結びつく山とはいえないが、伯耆大山・鳥ヶ山(からすがせん)と西北30度線をつくっている。
伯耆大山と鳥ヶ山は、すぐ近くの鳥ヶ山から見る伯耆大山は大きすぎ、三つほぼ東西に並ぶ天狗ヶ峰・剣ヶ峰・弥山のうち西の弥山とは西北30度線をつくるといえるものの、東の天狗ヶ峰とはどちらかといえば西北45度線をつくるといえ、伯耆大山全体とは方位線をつくるとはいえないであろう。烏ヶ山は「山陰のマッターホルン」とも呼ばれているが、山名の由来は残雪期の東面に黒く鳥形が現れるからとも(https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=833)、遠くから見ると烏が羽を広げたような姿に見えることからこの名が付いたとも(ウイキペディア)いわれている。どちらにしても天狗や修験とは関係ないようである。
鳥山(烏ケ仙)―烏ヶ山(W0.518km、0.59度)―伯耆大山剣ヶ峰1729m標高点(W0.128km、0.14度)の西北30度線
八咫烏と結びつく山としては呉市の標高380mの高烏山もある。芸藩通志巻39に「八咫烏神社。宮原村高烏山にあり」とあるという(https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-945548.html#google_vignette)。また、那須烏山市のの標高206mの八高山にある烏山城については、沢村(那須)五郎資重が当初は那珂川の東側の山へ築城しようとしたが、一羽の烏が飛来し、金の幣束(へいそく)を咥え、那珂川の西側の一番高い山の頂上にその幣束を落としたことから、烏は熊野権現の使いであり、権現様のお告げではないかと那珂川の西側の山に城を築き、その城を烏山城と名付けたともいわれている。熊野権現の使いの烏ということで、八咫烏と結びつく烏山といえる。別の伝承では、那珂川沿岸の丘陵には群鳥が棲む草叢があり『烏山』と呼ばれていたので、そこへ築城した沢村資重が烏山城と名付けたともいわれている。
後者の伝承では、天狗でも八咫烏でもなく、単に鳥と結びつくだともいえるが、同じような伝承があるのは松坂市の標高545mの烏岳である。カラスのネグラの山ということから「烏岳」というネーミングが付いたと言われているという(https://iko-yo.net/facilities/56587)。他の烏山にはこれはという伝承はないようである。
大烏山・小烏山、津山の烏山、相模大山近くの烏尾山、伯耆大山近くの烏ヶ山のうち、津山の烏山は天狗ではなく八咫烏と結びつく山であるから、除外すべきであろう。残る三つの山では、山自体には何ら天狗にも結び付きそうな伝承がない大烏・小烏山や烏ヶ山より、少なくとも修験と結びつく烏尾山の方が有力ということになる。問題は、烏尾山が相模の大山と近すぎるということであろう。同じことは、伯耆大山に対する烏ヶ山にもいえる。愛宕山と寅吉が最初に連れていかれた難台山では3キロメートルで、難台山も愛宕山という場合の範囲内とみるなら、相模の大山と烏尾山で4キロメートル、伯耆大山と烏ヶ山で3キロメートルであるから、それぞれが相模の大山、伯耆大山に含めて考えることができるし、そのような山を大山とは別に烏山として名をあげるだろうかということである。もっとも、烏山が烏尾山のことなら大山は伯耆大山、烏ヶ山のことなら大山は相模の大山ということにもなるかもしれない。烏ヶ山も富士山と東西線をつくっている。
烏ヶ山の問題は、伯耆大山に近いというだけで烏ヶ山自体には天狗と関係するかもしれないような伝承が何もないということであろう。そうすると、寅吉のいう烏山とは山梨市の大烏山・小烏山か烏尾山ということになる。問題は、それらの山が寅吉のあげる他の山と方位線をつくるかどうかということである。大烏・小烏山については、寅吉があげるどの山とも直接的に方位線をつくらないが、烏山を国司ヶ岳の天狗岩とすれば、相模の大山と方位線でつながるということであった。なお、大嶽那賀都神社は妙義山と南北線をつくつている。富士山・大嶽那賀都神社・妙義山が南北線上に並んでいるわけである。
一方、烏尾山については、愛宕山の東北45度線が大山と烏尾山の中間を通り、烏尾山は愛宕山と方位線で結ばれているといえる。同様に、浅間山からの西北60度線も大山と烏尾山の中間を通り、烏尾山は浅間山とも方位線で結ばれているといえる。問題は、烏山を烏尾山とするなら、大山は相模の大山ではないとしなければならないが、寅吉のいう大山は相模の大山の可能性が強いということである。そうすると、やはり烏山は国司ヶ岳の天狗岩で、大烏・小烏山や烏尾山は烏山である国司ヶ岳の天狗岩と方位線をつくる場所に 烏が付く山があると解釈すべきということになるのであろうか。
富士山標高点3535m―烏ヶ山△1709.2m(S0.796km、0.10度)の東西線
愛宕山十三天狗祠―烏尾山1136m標高点(W1.133km、0.48度)の東北45度線
浅間山2568m標高点―烏尾山1136m標高点(W2.12km、0.98度)の西北60度線
富士山(W1.317km、1.48度)―大嶽那賀都神社―妙義山天狗岳1084m標高点(E0.477km、0.51度)の南北線本文3
寅吉は五条天神前から難台山に連れていかれ、そこから岩間山へ移り、そして浅草寺前に戻ってきて篤胤と出会うことになるわけである。浅草寺前に戻ってくる途中、寅吉は杉山僧正から大宝村の八幡宮という所で脇指(脇差し)を与えられている。
このうちの、難台山と浅草寺が東北60度線をつくっている。また、江戸に戻ってくる前、杉山僧正と諸越から東北の山々を廻り、その後妙義山の山奥の小西という山中に一人で置いていかれる。寅吉が困っていると、老僧が現れ、筑波山近くの白石丈之進という人間の処に連れていかれる。この白石丈之進という人間は、寅吉に与えた手形書状に筑波六所社人と書いているから、筑波の六所神社と関係のある人物である。この筑波六所神社は、六所皇大神宮のことであろう。現在残っていないが、六所皇大神宮靈跡の立派な碑が建てられている。大宝村の八幡宮は下妻市大宝の大宝八幡宮のこととすると、大宝八幡宮と六所皇大神宮靈跡が東西線をつくっている。
難台山△552.8m―浅草寺(W0.379km、0.28度)の東北60度線
大宝八幡宮―六所皇大神宮靈跡(S0.441km、1.99度)の東西線
難台山は浅草寺と方位線をつくるが、出発点の五条天神とは方位線をつくらない。その代り、五条天神は寅吉と杉山僧正を結ぶ方位線ではなく、寅吉と篤胤を結ぶ方位線と関係している。寅吉当時の五条天神は現在地ではなく、アメ横あたりにあり、アメ横を上野駅方面から入ってすぐの右側に五条天神跡の碑がある。寅吉が篤胤の所に来た時、篤胤の所有する天岩笛をいたく気に入っていたというが、この天岩笛は篤胤が関東三社や銚子周辺を廻った時、小浜の八幡宮という所で手にいれたものである。その小浜の八幡宮(八幡大神)と五条天神が東西線をつくっている。この八幡宮の東西線は、篤胤は湯島天神男坂下に住んでいたというから、篤胤自身の方位線といえるかもしれない。湯島天神と小浜の八幡宮も東西線をつくってるのである。この篤胤の東西線上にある五条天神で不思議な老人が寅吉の前に現れたわけである。
浅草寺も篤胤とまったく関係のない場所ではない。篤胤は将門の子孫と称していたが、実際は千葉氏である。どちらにしても、浅草寺は平安時代、千葉氏の先祖である良文や将門の父の良将と兄弟の良兼の長子で、将門の従兄である平公雅(平公正、平忠望も同一人物とされる)が伽藍を整備したと伝えられており、この公雅の伽藍整備が浅草寺発展の契機になったといえる。また、平公雅は最初父と共に将門と争っていたらしいが、父良兼が将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟の公連と共にこれを将門の許に逃がしたといい、父が病死すると、将門と平貞盛との争いでは中立的立場をとったともいわれている。この平公雅が浅草寺を再建するにあたり現在地に移したとされ、伝説通り将門の首が首塚に埋葬されたとすれば、その方位線上に将門の霊を鎮める目的で、平公雅によって浅草寺は再建されたかのかもしれない。浅草寺と神田明神も東北30度線で結ばれていた。将門という視点から見ると、小浜の八幡大神は鎧神社の東西線上に位置しており、その東西線上には、平将門の首を祀り最初は血首明神と称されていた九段北の築土神社が現在地に遷座する前に在った筑土八幡神社があるわけである。鎧神社と湯島天神は東西線をつくらないが、鎧神社と小浜の八幡大神の東西線を軸に考えると、鎧神社・筑土八幡・湯島天神・小浜の八幡大神が東西線上に並んでおり、その線上に五条天神もあったといえる。鎧神社が平河天満宮と西北30度線をつくっていることは述べたが、さらに鎧神社の東西線方向にもう一つの江戸で有名な天神社の湯島天神、さらには寅吉当時五条天神があったといえる。平河天満宮と五条天神も東北45度線をつくっていた。そして平河天満宮と筑土八幡神社が南北線をつくっていたわけである。
小浜の八幡大神と杉山僧正との関係でいうと、愛宕山ではないが筑波山と西北45度線をつくつている。筑波山と香取神宮の西北45度線上に八幡大神があるといえるわけである。
小浜・八幡大神―五条天神跡碑(N0.499km、0.32度)―湯島天神本殿(N0.156km、0.10度)―筑土八幡神社本殿(S0.251km、0.15度)―鎧神社本殿(S0.219km、0.13度)の東西線
平河天満宮本殿―五条天神跡碑(W0.085km、1.10度)の東北45度線
小浜・八幡大神―香取神宮本殿(W1.115km、2.15度)―筑波女体山△877m(W1.275km、0.87度)の西北45度線
鎧神社本殿―筑土八幡神社本殿(S0.032km、0.41度)の東西線
鎧神社本殿―平河天満宮本殿(E0.090km、1.01度)の西北30度線
筑土八幡神社本殿―平河天満宮本殿(E0.030km、0.71度)の南北線
その後の寅吉であるが、知切光蔵『天狗考上』には「寅吉は文政八年六月十七日の神田祭を見物に出たきり平田家に帰らず、よく九年六月十一日「夜、大童子来、夜分の出入也」と『気吹舎日記』に出ており、文政十一年まで日記に散見するから、平田家を出たり入ったり、気儘な生活をつづけていたらしいが、長ずるにつれて、往年の異能が次第に消え去り、さすがの篤胤も幽界の事情を聞くことができなくなったらしい。ある時は能役者を志して果さず、あんなに嫌っていた坊主になったり、不肖な後半生であったらしく、晩年山に隠れたとも何とも言っていない。」とある。しかし、平田神社ホームページの「『仙境異聞』の現在」(http://hirata-jinja.org/column/2019/02-01/)によると、平田銕胤の万延元年(1860)8月3日付門人への書簡には、高山嘉津間(寅吉)は今も存生で下総国香取郡笹川の辺りに住んで医者をしているが、「大抵普通之俗」に近くなっているとあるという。たしかに年とともに往年の異能が次第に消え去っていったようである。ただ、別の門人への書簡には、「寡欲にして酒を好ミ、人愛を失はさる所、凡人ニハ無之候」とあるといい、「人愛」という言葉は江戸時代では人に好かれるという意味であるから、医者をしながら人々に愛された人生を送ったとすれば、必ずしも不肖な後半生であったというのは当たらないのではないだろうか。
寅吉が何故下総の笹川に行ったのかといえば、不二龍彦『日本神人伝』によると、平田篤胤の門弟で千葉県笹河村諏訪神社の神主・五十嵐某の招きに応じて,江戸から千葉に移ったのだという。そして、同地で杉山僧正から賜った「嘉津間」なる仙界名を名乗り、石井嘉津間の名で天狗直伝の医薬や「禁厭」で病気治しを始めたという。それが平田銕胤によれば医者をしているということになるわけである。そして「寡欲にして」というのであるから、自分の利得というより、他者への奉仕として天狗直伝の医薬や「禁厭」で病気治しをしていたのではないだろうか。もしそうなら、寅吉は江戸に戻るとき師の杉山僧正に「吾また影身にそひて守護すれば、兼ねて教へたる事どもの、世のため人の為となる事は施し行うべし」と言われたというが、その師の言葉を忠実に守って生きていたといえる。スピリチュアリズム的にいえば人の役にたつことをすることが何よりも重要であり、その超能力が失われていくということなどどうでもいいことなわけである。
五十嵐某とは『仙境異聞』では五十嵐対馬として出てくる人物で、寅吉が篤胤の所に行ってすぐの頃に会っている。寅吉が岩間山に戻るいうので、道は分かっているのかと聞くと、師とは空を飛んでいたので分からないという。それで、笹川村の須波(諏訪)社の神主をしている五十嵐対馬が笹川に帰るというので、五十嵐対馬に笹川に伴い、しばらく家に逗留させて幽境のことを聞き出した後、筑波山の麓まで連れていってほしいと頼んでいる。その時、篤胤は杉山僧正への書翰と『霊の真柱』を寅吉に託している。
その後、寅吉は笹川から銚子に移っている。寅吉の患者のなかに、銚子の富豪・西広重源という男の娘がいたが、重度の眼病を寅吉が治したことから、自分の持っている山林内に家を建て、寅吉を呼び寄せたのだという。その後、寅吉は53歳の時「しほ」という奉公の女との間に男児をもうけている。そして、そのすぐ後の安政六年(1859)十二月十二日、「わしは杉山僧正から急の御用でお召しに預かったから、早速現界から退かねばならぬ。わが亡き後は大僧正の御教示の薬方によりて薬湯を始めてもらいたい。さすれば子孫の生活は安全じゃ」と言い残し、知人を招いて宴を催し、その宴がおわると西北方日光山を伏し拝んでそのまま合掌して、眠るがごとく仙去したという(岩間の愛宕山も銚子の西北方向であるから、日光ではなく愛宕山を伏し拝んだのかもしれない)。これらの話は、浅野和三郎が主催する心霊科学研究会の会員の河目妻蔵という人が、嘉津平と名付けられ70歳になっていた寅吉の子供に直接取材して大正14年の『心霊と人生』に寄稿した「寅吉の晩年」によるもののようである。それによれば、寅吉が銚子で銭湯を始めたという情報もあったが、始めたのはその子供の嘉津平ということになる。その銭湯は昭和30年代頃まではあったらしいが、番地は銚子市清水町2726であるという(http://mahoranokaze.com/?cat=165&page=0)。 不二龍彦氏の本によれば、旅館も併設していたらしい。
不二龍彦の本には、寅吉が一族に何か起こったときここにきて訴えれば救われると言い残したという、浅間神社の写真が載っている。写真からその浅間神社が銚子市後飯町の浅間神社であることが分かる。そして、愛宕山と鹿島神宮の高天原が西北45度線をつくっていたが、後飯町の浅間神社と高天原鬼塚も西北60度線をつくる。また、笹川の諏訪神社(諏訪大神)と息栖神社も西北60度線をつくるのかもしれない。点ではなく社殿の大きさを踏まえ、息栖神社と諏訪神社の方位線に社殿の大きさぐらいの緩やかさを認めるなら、息栖神社と諏訪神社が方位線で結ばれているという可能性は高いのである。平田篤胤は関東三社から銚子をめぐり、天岩笛を手に入れた旅から帰ると「気吹(いぶき)社」に名前を変えているが、息栖神社の神は「気吹戸主(イフキドヌシ・イブキドヌシ)」とも言われている。誰もが、篤胤が「気吹社」に名前を変えたことと息栖神社の関係を考えてしまうであろう。日川には息栖神社旧鎮座地の案内板が立っている。その案内板の内容では、その場所が息栖神社旧鎮座地跡なのか分からないが、少なくとも、その近くに息栖神社の旧鎮座地があったと推定できるということなのであろう。この息栖神社旧鎮座地の案内板と後飯町の浅間神社も西北45度線をつくっており、これは息栖神社旧鎮座地と後飯町の浅間神社が方位線をつくっているということなのかもしれない。
鹿島神宮が愛宕山・難台山と西北45度線をつくり、香取神宮が筑波山と西北45度線をつくり、息栖神社の日川にあったという旧鎮座地と加波山が西北45度線をつくるのではないかとした。息栖神社旧鎮座地の案内板と加波山では西北45度線が成立ち、同時に後飯町の浅間神社と加波山の西北45度線が成立ち、後飯町の浅間神社―息栖神社旧鎮座地の案内板―加波山が西北45度線上に並んでいる。また、加波山であるが、秋田の平田篤胤の墓と南北線をつくっている。大宝八幡宮であるが、大宝元年(701)に創建された関東で一番古い八幡宮とされる。一方、息栖神社が現在地に遷ったのは大同2年(807)であるから、大宝八幡宮の創建当時は息栖神社はまだ日川にあったわけであり、息栖神社旧鎮座地の案内板と大宝八幡宮が西北30度線をつくることから、創建当時は息栖神社と方位線で結ばれていたと考えられる。息栖神社と篤胤が深い関係があったとすると、その関係で杉山僧正は途中大宝八幡宮に立ち寄ったのかもしれない。
後飯町の浅間神社―高天原鬼塚(W1.145km、2.00度)の西北60度線
後飯町の浅間神社(W0.506km、1.45度)―息栖神社旧鎮座地の案内板―加波山△708.1m (W0.551km、0.45度)の西北45度線
笹川の諏訪神社(諏訪大神)―息栖神社(W0.219km、2.15度)の西北60度線
平田篤胤の墓―加波山△708.1m(W0.596km、0.09度)の南北線
息栖神社旧鎮座地の案内板―大宝八幡宮(E0.650km、0.49度)の西北30度線
杉山僧正のように他の山人も方位線で結ばれた山々を山周りしているのであろうか。おそらく、杉山僧正だけが方位線と関係していて、他の山人はそうではないように思われる。というのも、宮地水位のあげる金毘羅さんを主領とする十三天狗の山々をみると、金毘羅さんと方位線をつくるのは東北30度線をつくる京都の愛宕山ぐらいのものであり(金毘羅宮・愛宕山・浅間山が東北30度線に並んでいるということになる)、ほとんどの山人にとって方位線は意味を持っていないといえる。金毘羅宮・愛宕山・浅間山が東北30度線で結ばれていることを考えると、金毘羅宮と愛宕山の方位線も、浅間山や杉山僧正とも密接に関係する中での方位線とも考えられるのである。
江州平野山は比良山のことと考えられるが、愛宕山は比良山脈の武奈ヶ岳と東北45度線をつくる。しかし、愛宕山の太良王子栄術天狗が武奈ヶ岳と山周りのような関係がないとすると、この方位線は太良王子栄術天狗にとって深い意味はないということになる。また、比良山は比良山脈の別の山なのかもしれないし、比良山で比良山脈のことを指しているとすると、今度は比良山の範囲が広くなりすぎて方位線というものが意味をなさないということになる。同じことは、熊野山についてもいえるかもしれない。熊野山を紀州の熊野だけでなく、大峯山までも含んでいるとすれば、金毘羅宮の東西線はその一帯の中を通るが、熊野山の範囲が広すぎて、そのことをもって金毘羅宮と熊野山が東西線をつくるとはいえないであろう。また、熊野山はどこの熊野山かはいっていない。出雲の熊野大社の神体山の天狗山も熊野山というから、もしかしたらその天狗山のことかもしれないわけである。出雲の熊野大社の神体山である天狗山と金毘羅宮も方位線をつくっていない。
金毘羅宮(E0.860km、0.26度)―愛宕山924m標高点―浅間山2568m標高点(E0.703km、0.13度)
の東北30度線
宮地水位の記したものを見ると、杉山僧正と宮地水位は深い関係にあった。その宮地水位にも方位線がみられる。宮地家は代々高知市天神町の潮江天満宮の神官を勤めた家である。『類別異境備忘録 附記幽界記』付録の清水宗徳氏による「水位先生小伝」によれば、宮地家の遠祖は日本武尊の第四王子建貝児王であり、八代の子孫宮道(ミヤヂ)信勝大人が山城より土佐に転任し居宅を構え、配流の菅原道真の長子高視(タカミ)公に仕えていたが、「菅公筑紫に薨逝せらるゝや其常に佩かせ給ひし御劔並に御鏡を捧持し白太夫松木春彦之を高視公に授け参らせしを御霊代として斎ひ奉り、八大龍王社に合「ネ己(祀)」せられたのが今日の潮江天満宮」であり、宮地家は代々その「ネ己(祀)」官を勤めていたという。宮地水位すなわち宮地堅磐については、その父親の宮地常磐から話を始めなければならない。水位によれば、父の常磐は武術を好み、剣術砲術弓術などでは先生といわれていたが、砲術の師に神主の家に生まれながら武術ばかりに熱心でその本来の神明に勤める職務をおろそかにしていることを諭され、三十七歳の正月元旦より武術を止め、天を拝し神前に向い祈白する修業を始めたという。そのような修業を十年続けることにより、大山祇命に拝謁するこを得、大山祇命の依頼で土佐国吾川郡安居村の高山手箱山を開山し、そこに大山祇命を鎮祭したという。さらには大山祇命を介して少名彦那神とも神縁を結ぶようになり、その縁から、少名彦那神によって宮地水位は川丹先生を師とするようになったのである。もともと水位と川丹先生は神界において同官同位であったが、水位が冥官の掟を誤って神界を退けられている間に川丹先生は位階も進み、水位は川丹先生を師と仰ぐことになったのだという。そして、川丹先生が杉山僧正に命じて水位を各地に連れていくことになるわけである。
不二龍彦氏の本に手箱山山頂にある大山祇神社の写真が載っているが、おなじ神社が手箱山の隣の筒上山(つつじょうざん/つつじょうやま)の写真にあった。実際には、手箱山ではなく筒上山にあるということになるが、これは「 筒上山は現在の手箱山一帯を含めて手箱山と言われていた様です」という記載もあることから(https://japanesecrane.blog.fc2.com/blog-entry-68.html)
、かつては筒上山や現在の手箱山を含めて手箱山と呼ばれていたということらしい。宮地常磐・堅磐親子の潮江天満宮の西北30度線上に筒上山・手箱山が位置しており、宮地水位も方位線と無関係ではないのである。
潮江天満宮―筒上山△1859.6m(W0.077km、0.08度)―手箱山△1806.4m(E0.406km、0.62度)の西北30度線
さらに、清水宗徳「水位先生小伝」では菅原道真を祀る天満宮に八大龍王社を合祀したのが今日の潮江天満宮であるが、「此の八大龍王社が其の実は手箱神境の一環たる大滝の海神を勧請して奉斎した古社であることを想えば奇しき縁の糸に繋がる紋理の綾に驚くの外はない。」と書かれている。手箱山周辺には北側に大瀧、南側に大滝という二つの「おおたび」の滝があり、南の大滝に大滝(おおたび)神社がある。北側の大瀧はこれといった信仰の対象であるような情報は見つからなかったから、潮江天満宮の八大龍王社が勧請した大滝の海神とは、南側の大滝・大滝神社の神ということであろう。
この大滝が筒上山と南北線をつくり、手箱山と東北60度線をつくっている。手箱山はもう一つの「おおたび」である大瀧とも東北45度線をつくっている。また、大滝は石鎚山と西北60度線をつくり、筒上山と石鎚山が西北45度線をつくっている。
筒上山△1859.6m―大滝(0.000km、0.00度)の南北線
手箱山△1806.4m―大滝(E0.001km、0.02度)の東北60度線
手箱山△1806.4m―大瀧の滝(E0.033km、0.64度)の東北45度線
石鎚山天狗岳△1982m―大滝(E0.253km、1.82度)の西北60度線
石鎚山天狗岳△1982m―筒上山△1859.6m(E0.192km、1.92度)の西北45度線
不二龍彦氏の本に明治期に仙人といわれた国安普明のことが出てくる。その名前を知ったのは、小説で加波山のことを調べていたときである。加波山の天狗と結びつく場所がないかと探していた時、確か太郎坊窟とかいうその名から天狗と結びつきそうな場所があったはずだと思い出した。記憶では、山頂の宿泊所に泊まり、そこの人に太郎坊窟の場所を聞いても答えをはぐらかして教えてくれず、行けなかったという、少し謎めいた秘密の場所であった。ネットで捜しているうちに、普明神社という神社のすぐ近くであるということが分かった。その普明神社の祭神が国安普明だった。国安普明は加波山の太郎坊窟という所で修業したといい、そのすぐ傍に普明神社が建てられていたわけである。加波山普明神社は元の加波山神社中宮の真壁拝殿が拝殿となっており、本殿は加波山中腹の石岡側にある。現在ではグーグルマップにも普明神社本殿の印があるが、太郎坊窟はその本殿に登る鉄の階段の下に鳥居があり、その鳥居の手前右側にあるという。
普明神社は新潟県の南魚沼市にもある。この普明神社は、戦後松井慶一という人が国安普明の神徳布教を目的として、東京に苗場明道会を設立し、南魚沼市に普明神社を建立したということらしい。苗場という名が付くように、この新潟県の普明神社は苗場神社・苗場山とも関係するようで、松井慶一という人は、明治初年苗場山山頂に苗場神社奥の院を建立した中の一人の松井という人の子孫のようである。南魚沼市に普明神社が建てられた経緯は分からないが、南魚沼市の普神社と苗場山が東北60度線をつくっている。
苗場山△2145.2m―南魚沼市・普明神社(W1.275km、1.61度)の東北60度線
加波山の普明神社がこの南魚沼市の普明神社あるいは苗場明道会と関係するのかどうなのかよく分からない。南魚沼市の普明神社のホームページには加波山の普明神社のことが一切出てこないが、もし関係があるなら出てきてもよさそうなものである。それに、何故加波山なのであろうか。国安普明と関係する場所なら、もっと相応しい場所が他にありそうなものである。不二龍彦氏の本によると、国安普明は23歳の時から本格的な神仙修業に入ったが、その象徴的な山が岩木山であるというから、普明神社を建てるとすれば加波山より岩木山の方が相応しいであろう。あるいは、その拝殿がもとは加波山神社中宮の拝殿であったということは、新しい真壁拝殿が箱根大天狗山神社の資金提供で建てられたというのであるから、そのさい古い拝殿が箱根大天狗山神社によって普明神社として再利用されたということも考えられる。ただ、この箱根大天狗山神社の建物はどこも極彩色の派手なものであり、普明神社の簡素な佇まいとはどこか結びつかない。また、箱根大天狗山神の神紋は天狗の団扇であるが、加波山普明神社の社殿の幕の神紋は天狗の団扇ではない。南魚沼市の普明神社の幕の神紋は解像度の低い写真で、しかも皺がよっているのでよく確認できなかったのだが、加波山普明神社の神紋と似ているような気がする。もし同じなら、南魚沼市の普明神社と加波山の普明神社は関係するということなのであろう。
加波山普明神社の関係者が誰かよく分からないが、加波山普明神社自身は岩間の愛宕山と関係するかもしれない。林道丸山線から100m程登ったところに太郎窟と普明神社があるのであるが、逆に林道から少し下ったところに普明神社の鳥居がある。その鳥居の扁額には中央に普明神社とあり、左に愛宕神社、右に夷針神社と書いてある(https://osanpo.yokohama/location.php?L_ID=2456&O_ID=0)。普明神社には愛宕神社も合祀されているのであろうか。岩間の愛宕神社は式内社の夷針神社論社であり、その鳥居は岩間の愛宕山と普明神社の関係を示唆しているともいえる。それは、宮地水位ばかりでなく、国安普明も杉山僧正と関係しているということなのかもしれない。国安普明自身ではないが、普明神社は方位線的に寅吉・篤胤と関係しているといえる。南魚沼市の普明神社と篤胤が天岩笛を発見した小浜の八幡宮が西北45度線をつくり、加波山の普明神社本殿と後飯町の浅間神社・天狗湯が西北45度線をつくるのである。また、加波山の普明神社拝殿と息栖神社も西北45度線をつくっている。
八幡大神―普明神社・南魚沼市(E0.765km、0.18度)の西北45度線
普明神社本殿・加波山―天狗湯跡(E0.062km、0.04度)―後飯町の浅間神社(E0.245km、0.16度)の西北45度線
息栖神社―普明神社拝殿・加波山(W0.132km、0.12度)の西北45度線
また、不二龍彦氏のいうような理由で、国安普明にとって岩木山が特別な意味を持つ山だったとすると、芦別岳と巌鬼山神社、大本北海本苑と岩木山神社の方位線は、出口王仁三郎と国安普明の繋がりを示しているのかもしれない。
苗場山と普明神社の方位線は国安普明関係者の方位線であって、国安普明自身に関係する方位線ではない。国安普明に直接関係する方位線はないのであろうか。不二龍彦氏の本によれば、国安普明は諸国の山々で修業をしていた頃、東京にいる時は東京下町の神社仏閣の参拝を日課にしていたという。「当時の国安仙人の参拝コースは、今も歩くことができる。まず上野の東照宮に参り、谷中の天王寺から日暮里の諏訪明神に回って参拝。王子の南方山の小滝(おたき)で再度身を清めたあと、根津権現、白山権現、不忍の弁財天にお参りし、神仙道とは深い縁がある菅原道真の湯島天神に詣でてから、神田明神に至るというコースである。」と不二龍彦氏は書いている。このうち、 湯島天満宮と不忍池の弁財天が東北60度線、湯島天満宮と白山神社が西北45度線、弁財天と白山神社が西北30度線の方位線三角形をつくっている。また、根津神社が上野の不忍池弁財天と西北45度線、東照宮と西北30度線をつくっており、天王寺も弁財天・東照宮と南北線をつくつている。南北線では神田明神と諏訪神社が南北線をつくつているが、これは神田明神・湯島天神・諏訪神社が南北線をつくっていると考えるべきかもしれない。神田明神と湯島天神の本殿どうしでは偏角が二度を少し超えてしまうが、社殿を点ではなく社殿の大きさぐらいの面として捉えれば、社殿どうしで考えた場合、方位線をつくるといえる。そして、湯島天神と諏訪神社も本殿どうしの偏角が神田明神と湯島天神より大きくなってしまうが、その差は0.2度ほどであり、神田明神と諏訪神社、神田明神と湯島天神が南北線をつくるなら、湯島天神と諏訪神社も南北線をつくるとしてもいいのではないかと思うのである。天王寺と弁財天・東照宮の場合は弁財天と東照宮の偏角が大きすぎるが、幅は35mほどであり、これも天王寺・弁財天・東照宮が一本の南北線上に並んでいると考えてもいいかしれない。
湯島天満宮本殿―不忍池弁財天(W0.014km、1.47度)の東北60度線
湯島天満宮本殿―白山神社本殿(W0.017km、0.43度)の西北45度線
不忍池弁財天―白山神社本殿(E0.025km、0.66度)の西北30度線
根津神社―不忍池弁財天(E0.021km、0.91度)の西北45度線
根津神社―上野東照宮(W0.026km、1.39度)の西北30度線
天王寺―上野東照宮(W0.035km、1.58度)の南北線
天王寺―不忍池弁財天(W0.001km、0.04度)の南北線
神田神社本殿―諏訪神社(W0.082km、1.47度)の南北線
神田神社本殿―湯島天満宮本殿(E0.024km、2.15度)の南北線
湯島天満宮本殿―諏訪神社(W0.106km、2.37度)の南北線
不忍池弁財天―上野東照宮(W0.035km、5.57度)の南北線
この方位線は国安普明という物語性を持った方位線と言っていいのであろうか。何かしっくりこないものがある。例えば数ある神社仏閣の中で国安普明がそれらの社寺を選んで毎日お参りしていたというなら、そこに物語性を認めてもいいかもしれない。しかし、それらの神社仏閣を見ると、国安普明は単に近くの有名な社寺を単にお参りしていただけだとも見える。神田明神や湯島天神あるいは根津神社はいうまでもなく、日暮里の諏訪神社は日暮里・谷中の総鎮守、天王寺は29690坪の土地を拝領した将軍家の祈祷所で、目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として富突(富くじ)が許された寺、白山神社は明治初期には准勅祭社に指定された神社というように、その地域一帯において、それぞれの土地を代表するような有力な社寺である。国安普明は方位線とは無関係に、それらの有名・有力な下町の社寺をお参りしていただけかもしれないわけである。もっとも、下町の有名・有力な社寺をお参りするだけなら、それら台地の上の社寺ばかりでなく、普明は台地の下にある社寺もお参りしていいはずなのに、何故台地の上の社寺ばかりお参りしたのであろうかという疑問は成り立つかもしれない。それはそれらの社寺が方位線をつくっていたからかもしれないが、それらの社寺が高台にあるということが意味を持っていただけかもしれない。あるいは、それらの社寺の方位線には、国安普明とは関係ない何らかの物語性があるのかもしれない。
国安普明が身を清めたという「王子の南方山の小滝」であるが、南方山という場所を見つけることができなかった。そもそもそれは南方山という名の山なのだろうか、それとも王子の南方の山ということなのであろうか。王子で山といえば飛鳥山しか思いつかないし、飛鳥山は王子の南方の山ともいえる。また、山の小滝といっても、山から流れ出る川がつくる滝などというものを王子で考えることができないであろう。想像できるのは高台を流れてきた川が高台を流れ落ちる際につくる滝である。そのような滝としては王子では王子七滝が有名であるし、国安普明はそれらの滝のどれかで身を清めたと考えるのが自然なような気がする。そして、南方山が南方の山のことだとすれば、石神井川沿いの滝が考えられる。王子七滝で石神井川沿いにあるのは、上流から弁天の滝・不動の滝・権現の滝であり、それに七滝ではないものの湯滝というのがあるが、不動の滝の対岸にあったということで、場所的には不動の滝の近くということになる。この石神井川沿いの滝をみると、現在は再現された権現の滝しか残っていないのであるが、不動の滝は正受院の西側裏手、弁天の滝があった場所は松橋と呼ばれていたところで、すぐ下流側には松橋弁財天洞窟と呼ばれる天然の洞窟があったという(http://wanjin.blog.fc2.com/category58-0.html?pc)。歌川広重の浮世絵「王子滝の川」に描かれている滝は弁天の滝で、その絵を現在の金剛寺の西側にある松橋弁財天洞窟跡に当てはめると、弁天の滝はそこから10m程南にあったようである。
弁天の滝と白山神社、不動の滝と神田明神、権現の滝と湯島天神がそれぞれ西北60度線を作っていたと考えられる。もし、「王子の南方山の小滝」がそれらの滝のどれかだとすると、「王子の南方山の小滝」も他の神社仏閣と方位線で結ばれていたことになる。これらの滝のうち、不動の滝と権現の滝の間を加波山普明神社拝殿からの東北60度線を通るが、これは国安普明の関係者との方位線で、純粋に国安普明の方位線ということにはならないであろう。国安普明と直接関係するのは、加波山山腹にある普明が修業したという太郎坊窟ということになるが、太郎坊窟と権現の滝・不動の滝と一応東北60度線をつくるといえなくもない。ただ、その東北60度線はそれらの滝と白山神社の中間を通るので、白山神社まで入ってくるとなると、それらの滝や白山神社に他の場所と違った特別普明と結びつくような話があれば別であるが、ただ普明が毎日お参りしていた場所の中に太郎坊窟と方位線をつくる場所がありましたというだけで、その方位線が何か強い意味を持ってくる話でもない。まあ、王子の滝については他の場所からそこだけ少し離れており、何故そこを加えたのかという疑問も生じるから、あるいは太郎坊窟との方位線を認めてもいいのかもしれないが、ただ、王子は滝が有名で、普明は単にその滝に身を清めに行っただけかもしれないし、やはりもう少し国安普明との物語性が欲しいところである。また、国安普明自身にとっては、加波山の太郎坊窟は多くの修業の場の一つで、とりわけ重要性を持っていたわけではないとするなら、やはり太郎坊窟と王子の滝の方位線にの物語性は弱いということになるであろう。
湯島天満宮本殿―王子七滝・現権現の滝付近(W0.037km、0.36度)の西北60度線
神田神社本殿―不動の滝・正受院西側裏手付近(E0.054km、0.48度)の西北60度線
白山神社本殿―弁天の滝・松橋弁財天洞窟跡南10m付近(E0.024km、0.36度)の西北60度線
普明神社本殿(加波山山中)―権現の滝(W1.599km、1.27度)―白山神社(E1.259km、0.97度)の東北60度線
普明神社拝殿(加波山神社)―権現の滝(E0.048km、0.04度)―不動の滝(W0.100km、0.08度)の東北60度線
知切光蔵氏の『天狗考上』に、清野謙次氏が京都大学医学部法医学教室主任の小南又一郎教授に『平児代答』『仙境異聞』に誌された寅吉の言動を精神鑑定してもらった話が紹介されている。清野謙次著『日本人種論変遷史』(昭和十九年刊)に、「平田篤胤と山崎美成の仙童寅吉物語」という章があり、そこでの小南又一郎教授の診断は、寅吉は癲癇というものであった。小南教授は「之だけ詳しく書かれた参考書は、医学文献としても稀だ」と感心したそうである。また、寅吉が覚醒時には十五歳としては非常に怜悧で天才的であったことに対し、小南教授は「癲癇患者の多数は、其智能に於いて常人以下であるが、ごく少数は卓越人だ。…但し発作が重なるに従って痴呆が現れるから、寅吉が若し高齢に到るまで生存して居たならば、晩年には馬鹿になったかも知れぬ。」と語っているという。知切光蔵氏はその診断を受けて、「篤胤が畢世の彼岸をこめて問答し、観察し、収集した寅吉の霊界譚は、百数十年を経て今日の医学の前に、完全なカルテの役目を果たしたわけである。そのとき一緒に篤胤の精神鑑定もして欲しかったと、筆者は残念に思う。」と記している。
知切氏は平田篤胤が神道を強調するあまり、仏教を極端に卑下、排斥するのが気に食わないようであり、その気持ちは分からないわけでもない。シルバーバーチ霊はラベルにこだわらないと言っているが、神道はよくて仏教は駄目だというような立場は、高級霊からみれば極めて地上的な人間が抱く見解である。国学者だから上級界に行き、仏教者だから低級界に行くといようなものではなく、それはラベルではなく個々人の問題なのである。
知切氏は平田篤胤を精神鑑定の必要な人間と見ていたようであるが、杉山僧正は寅吉がやがて出会うべき人間として篤胤をまともな人間とみていたようである。もっとも、知切氏は『仙境異聞』で寅吉が語っていることは、寅吉の山籠もり経験と幻覚に篤胤の神道家としての強請と牽引が相当強く影響し、話を合作、もしくは篤胤流に補正していることは歴然たるものがあるとするから、知切氏からみれば、杉山僧正などという存在も寅吉の空想の産物ということになる。ただ、「型破りの話には妄誕の語も多いが、地味な部分には一種の稚気があって、山男の話を聞くような惹きつけるものがないでもない。」とは言っている。また、知切氏は天狗の存在を全く否定しているわけではない。もっとも、知切氏の認める天狗とは、此の世と神仙界を自由に行き来している存在というより、山籠もりなどで一種の超能力を身につけた人間のことのようである。シルバーバーチ霊は透視のような「この地上界の範囲だけの心霊的能力というのがあるのです。現に多くの人がそれを使用しております。五感の延長なのです。霊の世界とは何の関係もありません。」といい、そのような能力がどの程度まで延ばせるのか関心があるという交霊会参加メンバーの言葉に、「その可能性は大へんなものです。インドにはヨガの修行者ですごいのがいます。それでも霊界とは何のつながりもありません。彼らが霊の姿を見たら、たまげることでしょう」(『シルバー・バーチの霊訓(七)』)と語っているが、知切氏もそのインドのヨガ修行者と同じような存在なのかもしれない。
もっとも、私自身も寅吉や宮地水位の語る天狗・山人界あるいは神仙界の話には、半信半疑のところがある。その神仙界をスピリチュアリズム的な霊界観とどう結びつけたらいいのか戸惑ってしまうし、天狗・山人界の物質性が理解できないのである。寅吉自身は生きた身で岩間山で天狗・山人修業をしたとはいえ、宮地水位の伝えるところでは本格的に天狗・山人界に入ったのは死んだ後といえるが、生きたまま天狗・山人界に入る人もいるようである。寅吉の話に出てくる長楽寺といわれる天狗などはそうであろう。また、『ワードの「死後の世界」』(J・S・M・ワード)の中に、幽体離脱で霊界に行き、そこで地獄から這い上がってきたばかりの人間の体験談を聞いた話がでてくる。その中に、地獄の大宴会の様子があるが、ぜいを尽くした山海の珍味も食べると中は空っぽの影で、それをさも満足しているようにナイフとフォークを動かすという場面が出てくる。地獄でその宴会に参加したその人間は、やがてそれが馬鹿らしくなったというのだが、寅吉の話では、天狗・山人といわれる人達は中身のある物質的食べ物を飲食しているようであり、より物質的な世界に生きているといえる。そして、寅吉によれば杉山僧正などそのような生活を四千年近くしているし、今後何万年も続けるのだという。しかし、スピリチュアリズムでは死んだらさっさと物質性を捨て去って、霊界で霊的進化を目指すべきだとされるのだから、何故そのような物質性の中で何百年、何千年、何万年も地縛霊のような生活を過ごそうとするのか理解できないし、本当にそのような人間がいるのだろうかとも思ってしまうわけである。
彼らが物質性にこだわるのが、地縛霊・地獄界の存在ならまだ理解もできるが、杉山僧正などが地縛霊あるいは地獄界の人間とは思えない。そういう意味では不思議な世界なのだが、寅吉によると「凡て天狗道に入りては、いかなる尊き人と云へども、現世の人よりは位卑くなるが、大天狗になりては、段々に世人より位高くなるなり。」といい、天狗界に入って現世の誰よりも低い位のところから人生をやり直すのもいいかなとも思ってしまう。
『類別異境備忘録 附記幽界記』には「黒地山ト云フ処ニ至ル此山高キコト二里斗リ山上ニ大穴有リ実ニ寒シ此穴ニ仙人等肉身ヲ留ム立像有リ或ハ坐居有リ閉目シテ生ケルガ如シ此穴隠身ノ岩室トモ云フ此処ニ形身ヲ留メテ魂ヲ以テ諸ノ宮殿ニ仕エ又折々ハ其形身ニ魂ヲ通ワシ或ハ肉身ヲ以テ折々出ルモ有ルヨシ川丹先生ニ聞ケリ…(幽界記) 」とあるが、これも肉体などさっさと捨て去ればいいものを、どうして山の中の穴に大事に保持しようとするのか分からないし、尸解術などといって、死後に衣冠や刀剣を蝉の抜け殻のように残してその死骸を消失させることにこだわったり、死んでもその肉体が生前のようであることにこだわるのも、肉体へのこだわりであり、物質性から脱却していないといえよう。
また、「神仙界又天狗界ともに玄胎とて肉体の異なる体に転したるハ劒玉鏡幣等に我が生霊を止めて年に六ハ叮嚀に祭るなり其祭祀の法は寒暖によりて異なり」ともあり、玄胎という言葉が出てくる。スピリチュアリズム的には霊とそれが纏う体は厳密に区別され、生きているのは霊、個霊であって体はその霊が纏う衣にすぎない。しかし、宮地水位の言葉ではその衣である体が霊を劒玉鏡幣等に止めて祭るというのである。それでは、人間の主体性は霊にあるのではなく、衣である体にあるということになってしまう。もちろん、宮地水位のいう体とは肉体とは異なる玄胎とされる。神仙界又天狗界ではその玄胎を体として纏うわけであるが、しかし体は体であり、霊が纏う衣にすぎないことには変わりがない。
玄胎とは、道教や神仙思想における不滅の霊的な体、あるいは霊魂を指す言葉で、肉体の死後、魂が移り住む場所、あるいは修行によって形成される霊的な体などと解説される。道教や神仙思想において、修行によって形成される霊的な体として玄胎が求められているということは、これもまた道教や神仙思想が物質的なものにいまだ囚われているということを示しているといえる。霊にしろ神体・霊体・幽体にしろ、それは修業によって形成されるようなものではない。個霊が個霊として誕生した時から、それは自分に備わっているのである。ただ、霊的に進化していく過程で、幽体、そして霊体を脱ぎ捨てていくということなのであって、新しい体を形成していくわけではない。神体・霊体・幽体そのものの波動をより精妙化していくということはあるかもしれないが、それもまたそれらの体そのものを形成していくということではない。シルバーバーチ霊によれば、霊としての私は最初から存在しているが、その私が永遠の霊的進化を続ける個霊となるのは、ある段階で卵子に精子が結合した瞬間の受精卵と結びつくことによってなのだという。おそらく、最初から存在している私という霊は、ある段階で物質と結びつく。その最初はアメーバーのようなものであるが、その状態は類魂と呼ばれる状態で、個性を持った存在ではない。その類魂としての私が、ある段階で個性を持った個霊になるということらしいが、その個霊になる瞬間とは、卵子に精子が結合した瞬間の受精卵と霊としての自分が結び付いたときといことである。そして、個霊としての永遠の霊的進化を開始するわけであるが、その過程の一部で、やはり受精卵に結合して地上に再生するということを繰り返すことになる。そうすると、霊としての私は最初から存在しているが、個霊としての私はある段階で誕生するということになる(もっとも、今度は最初から存在している私とは何なのか、自分にはよく分からない)。肉体だけは、そこに受精卵との結合による個霊の誕生ということが入ってくるから、個霊としての誕生は肉体という体の形成を伴うといえなくもない。そうすると、体の形成と結びついた玄胎という観念には、肉体という物質的要素が結びついているといえるのではないだろうか。肉体にこだわっているから、霊的な体、体としての霊などという観念が生じてくるともいえる。
道教や神仙思想では、玄胎が霊なのか体なのか曖昧にされているといえよう。それに対し、スピリチュアリズム的にいえることは、人間は霊格を向上させるに従って古い体を脱ぎ捨て、より精妙な体を纏っていくが、霊が体から切り離されることはないということである。そういう意味では、いつまでも人間は霊と体が一体のものとしてあるといえるが、それは霊と体の関係が曖昧になるということではない。あるいは、玄胎という言葉で、道教や神仙思想は霊と体の一体性としての自分という、人間の在り方を示そうとしているのかもしれない。ただそうすると、霊と体は一体のものとして密接不可分な関係なのだから、霊と体が一体化している人間が霊を劒玉鏡幣等に止めて祭るということはおかしいであろう。そこでは霊が対象化されており、霊と体の一体性の否定ともいえるからである。
あるいは、霊を劒玉鏡幣等に止めて祭るということは、そこで祭られているのは象徴としての霊なのかもしれない。霊と体が一体化している人間が、霊だけの存在になることを目指して、その目的の象徴としての霊を祭っているということなのかもしれない。そのことをスピリチュアリズム的にいえば、無限の霊的進化は神に成ることを目指しているということなるわけである。確かに、無限の霊的進化は神を目指しているのかもしれない。しかし、スピリチュアリズムは、霊的進化が無限に続くということは神に成れないということであり、神に成る必要もないともいう。そうすると、そこに存在するのは神を目指す人間ではなく、単に霊的進化を目指す人間ということになり、霊的進化をすればいいのであるから、その結果として神に成るとか成らないとかはどうでもいい、あるいは二次的なことになるわけである。突き詰めれば、人間の主体的在り方とは瞬間瞬間に霊的進化を求めるところにあるということになる。また、スピリチュアリズムは別に無限に続く生を求めているわけではないということにもなる。その生は有限でもいいのである。ただどういうわけか、個霊の生は有限ではなく、個霊が永遠に存在し続けるなら、結果としてその霊的進化は無限に続くだろうということである。
道教では、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み、万物は道のあらわれであると説き、道はこの現実世界にこそ在るとかいわれるが、確かに霊性進化は地上生活においても可能であり、そう努めなければならないが、霊性進化はこの現実世界にこそ在るというほど現実世界は霊性進化にとって重要とはいえないし、一度も地上に誕生したことがない霊もいるのである。地上に生活している以上は、地上生活で霊的進化に努めなければならないということでしかないであろう。道教における現実世界の重視には過剰性があり、その過剰性は道教の物質性を示しているともいえる。
知切氏は「幕末以来の平田学派の神道者の中には、狂信的な神仙思想の追求者が生じ、高山寅吉、島田幸安、沢井才一郎等の追随者が生れ、幽界出入を呼号する篤胤一派の亜流が次々と輩出している。いまめぼしいところを拾ってみると、土佐国潮江村(現高知市)の天満宮の神職出身の宮地常磐、堅磐父子、豊後国安崎浦出身の河野至道、江戸深川に生れた国安普明などという実践家で、各々仙人と呼ばれた人々と、それに、『本朝神仙記伝』を書いた土佐国高地出身で、宮内省掌典をつめとめた宮地厳夫は、神仙研究に生涯を捧げ、神仙の実在を堅く信じた人として逸することはできない。」と述べ、宮地水位や国安普明を篤胤一派の亜流としている。また、宮地水位について、「幽界のことを誌した多くの著書を残しているが、中でも『異境備忘録』が最も奇にして具体的で、あたかも篤胤寅吉の昔の答問録に戻ったような気がする。しかも両者に出てくる共通の神仙が多いことでも、『異境備忘録』が『仙郷(ママ)異聞』の影響というより申し子的著述であることは明らかである。」という。河野至道についても、「至道の事蹟については、自筆の『新誥』、義兄木村知義の『至道物語』その他があり、篤胤の『仙境異聞』に出てくる相模大山の道昭坊と邂逅するくだりなどもあって、前著の神仙や天狗が後者にまた出てくるが、他流の書には殆ど出てこない。これが篤胤の亜流の一種の信用状の如き感を呈している。」と書いている。
宮地水位については、さらに「寅吉も数十年後に、自分の言の偽りでないことを実証してくれた堅磐に感謝しているにちがいないが、小南教授に『異郷(ママ)備忘録』をカルテとして宮地堅磐の精神鑑定を仰いだら、果して何と診断を下すであろうか。」とも記す。知切氏にとって『仙境異聞』が寅吉の妄想なら、『異境備忘録』も宮地水位の妄想が生み出したものということなのだろう。では、その宮地水位の妄想が生み出した『異境備忘録』が『仙境異聞』とその内容に共通なものが多く、その申し子的な著述であるのはどうしてかといえば、宮地水位が無意識のうちに『仙境異聞』の内容の影響を受けていたということであろう。
そうすると、宮地水位は『仙境異聞』の内容をどの程度知っていたのかが問題になる。また、もしその影響を受けていたとすると、『仙境異聞』と『類別異境備忘録 附記幽界記』にある違いをどう理解すべきなのであろうか。
『仙境異聞』は平田家で秘蔵されていたというから、水位が直接それを見たとは思えない。多少なりともその内容を知ったとすれば、水位の所には平田学派の人間も出入りしていたというから、それらの人間を通じてであろう。しかし、それらの人間が『仙境異聞』を見たことがあったかといえば、清水宗徳「水位先生小伝」に出てくる人物としては、水位に師事していたという矢野玄道ぐらいのものであろう。その矢野玄道も秘蔵物である『仙境異聞』を何度も見たとは考えにくいし、その内容をどの程度覚えていたであろうか。矢野玄道が生まれたのは文政六年(1823)というから、篤胤と寅吉が出会った三年後であり、直接寅吉に会ったこともなければ、その話を直接聞いたこともないであろう。それは、水位の所に出入りしていた他の平田学派の人間にもいえることであろう。彼らが、寅吉と杉山僧正のことを何かしら知っていたとしても、それは他の篤胤門人からの又聞きだったと思われる。知切氏的にいえば、『類別異境備忘録 附記幽界記』における杉山僧正や寅吉の話は、その断片的ともいえる情報に刺激を受けて、水位が妄想した話ということになる。しかし、水位の書いたものにも寅吉の名前として高山白石平馬が出てくるが、『仙境異聞』を呼んだことがある人間も、又聞きで知っている人間も、いくら平田学派の人間だからといって、重要なことは寅吉が岩間山で天狗の修業をやり、その師は杉山僧正だということであり、寅吉は寅吉でいいのだから、『仙境異聞』に寅吉の名前として高山白石平馬が出てくることまで覚えているであろうか。それ以上に、『類別異境備忘録 附記幽界記』に寅吉の同友の左司間が左司馬の名が出てくるが、水位の所に出入りしていた平田学派の人間が寅吉の修業仲間の名前まで知っていたり、『仙境異聞』を見たことがある人間がそこまで覚えていたとは思えないし、水位の耳にその名前が入ったとも思えない。左司間などという名前を聞いたこともない水位が、妄想でその名前を作り出したとする主張には無理があるといえよう。
左司馬という名前を妄想で作り出したのではないとすると、宮地水位はその名前を杉山僧正か寅吉に実際に聞いたことになる。そして、『類別異境備忘録 附記幽界記』の内容が宮地水位の妄想の産物ではないとすれば、『仙境異聞』の内容も寅吉の妄想ではないということにもなるが、今度は『類別異境備忘録 附記幽界記』と『仙境異聞』の間に見られる違いが問題になる。『仙境異聞』では寅吉は杉山僧正が山人になって四千年近くになるといっているが、『類別異境備忘録 附記幽界記』では「光仁天皇の宝亀八年二月に入りたる杉山石麿」とあり、宮地水位によると杉山僧正は天狗・山人界に入って千数百年しかたっていないわけである。一方、知切氏は『仙境異聞』と共通のものが出てくることが、「篤胤の亜流の一種の信用状の如き感を呈している。」というが、このような違いはどのように解釈するのであろうか。
私の読んだスピリチュアリズム的霊界通信が、霊界を含めた大きな意味での宇宙の全てを語っているとはいえないであろう。妖精の存在を認めているのであるから、龍神は出てこないが実際に龍神はいるのかもしれないし、杉山僧正のような天狗・山人も存在しているのかもしれない。また、私には理解できないとしても、天狗・山人界あるいは神仙界で生活している人達にとっては、そのような境涯である期間生活することには、重要な意義があるのかもしれない。
天狗・山人といっても知られるのはその名前ぐらいのものであろう。その考えや在り方が深く知られているのは杉山僧正ぐらいといもいえる。その杉山僧正が寅吉と平田篤胤によって広く知られることになったことには、深い意味があるかもしれない。江戸に戻ってきたはいいものの、「吾が誠の心を語る人なく、事を弁へざる徒は、何くれと悪しざまに評し云ふ由なども聞こえ、また我は世間の交らひ世の所業も知らざれば、いかにして宜けむと、吾身ながらに持ちあぐみたる心地して、をりをり火の見に昇り外に出でて、岩間の空を長目(眺め)て日を送りける」ときに、「近き間に汝が便(頼)りとなる人有れば、然(さ)しも物思ひする事勿れ」という師の言葉を同友の高山左司間が伝えに来たという。それを見ると、寅吉が平田篤胤と出会うことは、何か計画されていた事なのではないだろうか。スピリチュアリズム的にいえば日本における霊界の計画の一端なのかもしれない。そして、その杉山僧正が方位線と密接に関係しているとすれば、方位線というものもその霊界の計画と関係しているのかもしれない。また、天理教や大本教といったものが出てきたのも、その日本における霊的計画の一つなのかもしれない。ただ、その場合の計画とは、直接霊界から霊的真理を日本に伝えるとうより、その前段階の計画のような気もする。シルバーバーチ霊によれば霊界通信において時に霊媒の潜在意識を語らせるということを意識的に行うことがあるというが、潜在意識ともいえる日本の底に溜まった霊的意識・霊性を一度解放する必要があったかもしれないのである。いわば禊である。そういう意味では、方位線というのも日本のもつ潜在的霊性と関係するものの一つなのかもしれない。あるいは、引っ掻き回されて表面に浮いてきた日本の潜在的霊性をもう一度引っ掻き回し、霊的真理、霊的意識へと向かわせる、掻き回し棒が方位線なのかもしれない。禊をしてもそれはただ霊的真理を受け入れる妨害物を排除するということであって、禊をしたからといってそこにすぐさま霊的真理が現れるということではない。いわば余計なものが入っていた入れ物が空っぽになるだけで、入れ物が霊的真理で満たされるわけではないということである。禊と霊的真理を受け入れるということは別物であり、水をかぶったり滝に打たれても、そこに霊的真理は存在していないのである。もちろん、空っぽになった自分には、霊的真理が流入してくる余地ができるということはいえるかもしれない。ただ、重要なことはその流入してきた霊的真理を正しく認識する、正しい知識をもつということであろう。
1940年12月14日の午前2時から植芝盛平は1時間の水行をすると、中西光雲を前座、秋山清雲を中座(霊媒)として天の叢雲九鬼さむはら龍王が降臨し、「我は植芝の血脈に食い込んでいるぞよ。我は合気の守護神であるぞよ。汝は伊豆能売(いずのめ)となって、この世を禊がねばならぬ」との神示を下した。この時、盛平に合気道を通じた真の使命が与えられたとされる。この時の天の叢雲九鬼さむはら龍王の「さむはら」が何を意味するのか問題になっている。植芝盛平自身は「合気道は天之叢雲クキサムハラ竜王の働きであります。天ノムラクモとは、宇宙の気、オノコロ島の気、森羅万象の気を貫き息吹く気の働きであります。クキとは、大地の妙精の現れと、天の現れとを一つに貫く、即ち天と地の両刃の剣であります。サムハラとは、世の最高の徳と巧しを称えた言葉であります。かくて合気道とは、地上天国建設のため、宇内(うだい)の完成に進むのであります。」(『武産合気』)とかたっている。天之叢雲クキサムハラ竜王のサムハラは、大阪のサムハラ神社と関係しているのではないかともいわれている。それは、大阪のサムハラ神社を創建した田中富三郎がサムハラ大神をあつく信仰していたため、日清・日露戦争で数々の危難をまぬがれ、戦時中に兵士に『サムハラ』のお守りを贈る活動をしていたということと、植芝盛平も『サムハラ』を身に着けていたお蔭で、日露戦争従軍時、奇跡的に何度も危機を逃れたがと語っていた(https://www.yachiyoaikikai.com/founder_teach/gods.html)ということが結びついた説のようである。大阪のサムハラ神社は田中富三郎が生まれ故郷の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)に在った小さな祠が荒廃しているのを嘆き、昭和10年に再興したのが起源で、戦後大阪に創建されたものであるという。津山市のサムハラ神社は現在大阪のサムハラ神社の奥の宮とされている。大戦中に『サムハラ』のお守りが流行ったことは、葛飾区郷土と天文の博物館に展示されている防空頭巾にその『サムハラ』のお守りが縫い付けられていることからもわかる。説明に東海地方で信仰されてる弾よけのお守りとあるという(http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20160112p3680)。
サムハラ神社では𪮷「抬の台の厶からヽを除いた字」𪮷𪮇の四字を「サムハラ」と読んでいるが、似たような字が不二龍彦氏の本の、国安普明が信者に与えた霊符の写真にも出てくる。不二龍彦『日本神人伝』によれば、それは神仙界の文字で「タク字」といわれるものだという(『ムー』525号の不二龍彦氏の「知られざる植芝盛平の鎮魂力」によれば、修験者らが用いた咒字で、山岳霊場の仙人堂などに伝わってきたもので、タク字という言い方は国安普明によって伝えられたという)。国安普明の霊符では、𪮷抬𪮷それに𪮇ではなく「扌に巴の下に口」と書かれており、それぞれ横に「けん」「しよう」「けん」「ご」と平がなで読みが書かれている。サムハラ神社とは二番目と四番目の字体が微妙に違う。
ウィキペディアによると、『耳嚢』巻2に、「サムハラ」のお守りのことが書かれているという。それによれば、天明二年(1782) 、新見愛之助という小姓が登城の時に馬ごと坂の下に落ちたが怪我がなかったということがあった。他の者に理由を聞かれると領民から送られた守護札を見せ、領民が野においてキジを矢で射たが当たらず、逃げようともしない。弓がうまい者たちが競ったが駄目であった。このキジを捕まえたところ背中に𪮷「抬の台の厶からヽを除いた字」𪮷𪮇の4文字が書いてあり、「この文字を書いた札を懐に入れておくと良いことがある」と流行ったと語ったという。
同じような話が『類別異境備忘録 附記幽界記』にも「紀州の事を種々書きたる雑誌に云ふ紀州の御家中にて殺生に出て美麗なね雉を打ち申処に鉄砲あたり不申其後毎度打候得ども中り不申に付き後には其雉子に見知りを付け不思議の事と沙汰有之鉄砲の上手の人承伝へ行きて毎度其雉子を打けれどもいよいよあたり不申右の風聞有之故に不思議なる事につき網にて取り候様に被仰付其雉子網に捕へ吟味致し候処翼下に文字ある札つき候由これによりて其文字を写し的角之裏に張り付けて弓鉄砲にてためし被仰付候処兎角に中り不申不思議なる事と申候由矢除の守にて可有之哉と被存候然るに雉の翼下に付け有候札の文字左の如し(註六 𪮷抬「扌に合の下に辛の十の縦棒の下半分が無い字体」「扌に巳の下に口」)右ハ天明二壬寅年四月聞之とあり此文字ハ世上ノ人の門戸に常に張る人多くして皆知りたる事にて或ハ守として懐中すれハ怪我過ちなしとて不転の守とも云ひて此字を書して授る人もあるに何と云ふ文義を世中に知る人なし然るを我思ふに此文字ハ天狗界に見たることあり或時杉山僧正に問へばバ(註六)の四字ハ其よみハ「サンバ。サンバ」「シヤクカウ。シヤカウ」「キンカツ。キンシン」と四音によみ一には(註七)とも書きて剣難鉄砲難悪病難を除る近勝初。近勝(一名先勝といふ)といへる印の別名なりといへり之に付きて思い出したる事あり先年印形と印名と印歌とを彼界にて写し来れるが其印名ハ彼界の字を以て書きたる後に尋ねて漢字を以て其字義を解したり其印名の字ハ右の文字も入りたり今其印名を記する事左の如し(註八)右は天狗界に秘する所の五十印の名なり此五十印を以て印元と名づく此外に種々の印あれども人間用ゐて霊験なし印法も術ハ此五十印に限るべし此外に九仙八海印飛行印長高童子印大鷹印小鷹印水印火印霞印などいふハあれど五十印の中より出たるものにて諸の印ハ此五十印を以て主印となすなり偖又右の五十印にハ一名に付きて四名ありといへり我れハ一通りうつしたるなり」と出てくる。 天明二年といえば、植芝盛平が紀州田辺で生れる百年ほど前のことであるが、植芝盛平が生まれた当時も紀州で「サムハラ」のお札が流布していたことは十分考えられる。ただ、宮地水位がその字を天狗界で見たことがあると言っていることは、土佐では見たことがないということかもしれないし、紀州や岡山や東海では流行したが、土佐までは流布していなかったのかもしれない。
『仙境異聞』では「慶長中大樹公御狩の時、鶴羽に在りし文字とて、怪我除けの由にて、𪮷拾𪮷招、『一に𪮷抬𪮷「扌に己の下に力」、但し守り札の板形を写す』かくの如き四字を記して守りとす。寅吉云はく、此れ仙人の常に謡ふ、符字の如き物の中に有る文字なり。寅吉云はく、仙骨の人の常にうたふ符字の如き物の中に有りしを見たり。ジヤク、コウ、ジヤウ、カウと云ふ様に聞きたれど、能くは知らず。」とある。
「サムハラ」のタク字表記を「𪮷抬𪮷𪮇」で代表させるとして、「不二龍彦氏によれば(「知られざる植芝盛平の鎮魂力」(『ムー』525号)、禅僧である今井福山(ふくざん)の『軍符講評』に、遅くとも中世には矢弾除けの秘符として用いられており、両部神道の社家においても、軍陣祭や軍旗祭の時に用いたとあるという。不二龍彦氏の『ムー』の記事には、このタク字としてサムハラ神社・国安普明・『類別異境備忘録 附記幽界記』・『仙境異聞』とはまた別字体の今井福山が書いた三つの字体の「サムハラ」の写真が載っている。
「𪮷抬𪮷𪮇」の読み方であるが、宮地水位の記す「シヤクカウ。シヤカウ」という読みと寅吉の言う「ジヤク、コウ、ジヤウ、カウ」とはよく似ている。杉山僧正の発音が宮地水位には「シヤクカウ。シヤカウ」と聞こえ、寅吉には「ジヤク、コウ、ジヤウ、カウ」と聞こえたということであろう。「サムハラ」はサンスクリット語の「サンバラ」、「シャンバラ 」から来ているとも、古朝鮮語の「サム(生きる)」「ハラ(しなさい)」で「生きなさい」が語源ともいわれるが、不二龍彦氏の『ムー』の記事では、「サムハラ」は修験における真言流の読み方「サンバラサンバラ」「サンパラサンパラ」「サンバサンバ」が一般化した後の俗訓なのだという。一方、寅吉の話から「シヤクカウ。シヤカウ」は「 シヤク、カウ、シヤ、カウ」ということが分かる。そうすると、宮地水位が杉山僧正から聞いた「サンバ。サンバ」は「 サン、バ、サン、バ」ということになる。宮地水位が杉山僧正から聞いた「サンバ。サンバ」と真言流の「サンバサンバ」が一致しているわけである。話としては、杉山僧正は仏教を嫌っていたことを考えると、天狗界が真言流の「サンバサンバ」を取り入れたというより、天狗界の「サンバ。サンバ」から真言流の「サンバサンバ」の読み方が発生したと考えられるのではないだろうか。杉山僧正が仏教由来の「サンバ。サンバ」の読みまで水位に教える可能性は低いような気がするのである。杉山僧正にも国安普明にも「サムハラ」という読みは出てこないが、紀州では「サムハラ」と読んでいた可能性はある。植芝盛平が日露戦争出征の時身に着けていたお守りの字を、植芝盛平自身も「サムハラ」と読んでいたかもしれないし、天之叢雲クキサムハラ竜王の「サムハラ」とそのお守りの「サムハラ」を結びつけて理解していたかもしれない。
『ムー』の不二龍彦氏によると、植芝盛平を指導したのは猿田彦神ではないという。氏と一緒に活動している霊媒の梨岡京美に降りてきた猿田彦神がそのことを否定したからだというのである。そして、不二龍彦氏は植芝盛平を指導したのは富士山の天狗ではないかという。その理由は、出口王仁三郎を高熊山の修業に導いたのが松岡芙蓉という富士山の天狗だったからというものである。その松岡芙蓉について出口王仁三郎は『霊界物語』第1巻で富士浅間神社の祭神である木花咲耶姫命の天使だと述べており、天使は天狗の別称であるという。不二龍彦氏によれば、松岡天狗の導きで上田喜三郎が出口王仁三郎へと生まれ変わったように、盛平は松岡天狗の蔭からの導きで「魂の合気」へと進んだのではないかという。植芝盛平を導いていたのが松岡天狗かどうかは別にして、愛宕山の杉山僧正も富士山と関係していた可能性があった。少なくとも、その弟の古呂明(杉山熙道僧正)は富士山と関係している。愛宕山は富士山の天狗・山人界と関係するということは、出口王仁三郎は愛宕山とも縁があったともいえる。それ故、植芝盛平は愛宕山の在る岩間に引き籠ったのかもしれない。愛宕山はもう一人の大本教と関係する笹目仙人とも方位線で関係する。笹目仙人は大岳山山頂近くの道院に住んでいたが、大岳山と愛宕山が東北30度線をつくるのである。これは、大岳山と植芝盛平の岩間道場との方位線ともいえる。
大岳山△1266.5m ―愛宕山十三天狗祠(W0.200km、0.10度)―合気神社(E0.812km、0.39度)の東北30度線
サムハラ神社については、グーグル検索で不思議な体験をした。「サムハラ神社」で検索すると、出てきた地図上に三つの神社が印されていた。そのうちの二つは大阪と津山のサムハラ神社だったのだが、もう一つは広島の神社でただ神社とあり、住所は広島市安佐南区祇園1丁目29で所在施設はヴィラージュ帆立Aとある。そんな所にサムハラ神社と関係のある神社があるのかと思い行ってみたが、神社名が分かるようなものは何もなかった。祠ともいえる小さな神社で、真ん中に中が覗けるような小さな穴が開いており、覗くと横4、50センチ、高さは1メートル以上はあるかと思われる長方形の平べつたい石が立っていた。上の方は暗くてよく分からなかったが、何かが刻まれているわけでもなく、ただ真ん中から少し上の方に赤い四角い布が金太郎の腹掛けのように巻かれていた。グーグル地図では近くのいぼ地蔵と少し離れたところにの神社の印があったが、実際はいぼ地蔵がある場所で、その隣りに建っている。というか、その神社の小さな境内の隅にいぼ地蔵とされる三体の石像がある。「いぼ地蔵」で検索してみると、「旧南下安村に入る。祇園の町の手前で、街道をおおうように枝を広げた二本の松が見えてくる。この松の木の下に小祠があり、『いぼ地蔵』と呼ばれている地蔵が祭られている。祠の中をみると高さ約一メートルの長方形の石が安置されている。『いぼ地蔵』と呼ばれるのは、ここに生えている松の葉で人の体にできたイボをつくとイボがとれるということからつけられたらしい。また、この地蔵は、別名『投石地蔵』とも呼ばれ、その昔武田光和が、武田山から投げた石が地蔵になったとも伝えられる。また、一説では、神社の力石だともいわれる。この付近は『帆立』と呼ばれている。古くは『掘立』と書かれていたという。何故そう呼ばれるようになったのかはよくわからない。神武天皇にまつわる説では、当時この付近まで海が入り込んでおり、旅陣の際この付近で帆を立てたからだという。」(https://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/unseki/unseki1.pdf)と記すものがあった。その神社の御神体と思われる四角の平べったい石がいぼ地蔵のようなのである。サムハラ神社とは関係がない、そんな名もない祠のような神社が、サムハラ神社で検索したらどうして出てきたのだろう。グーグルの検索機能が結構いい加減なのかもしれない。実際、「サムハラ神社 広島市」で検索してみると、この神社の他に三輪明神広島分祠など数社の神社が表示され、「サムハラ神社 広島県」で検索すると広島ではこの神社だけが表示された。一方「サムハラ神社 岩国市」で検索してみると、AI による概要として「サムハラ神社は、広島県岩国市にはありません。サムハラ神社は、大阪市西区にあり、奥の宮が岡山県津山市にあります。」と出て来て、サムハラ神社についてはまともな解答なのだが、そもそも岩国市は広島県ではなくて山口県の都市であり、そのような基本的なところがいい加減なのである。
その後、サムハラ神社で検索しても、この名も分からない神社が印された地図は表示されなくなった。その神社が表示されたのは、検索した場所が広島で、しかもその神社の名がグーグルでも分からないということが、逆にサムハラ神社の検索で表示されるということになったのかもしれない。名前が分からないということはサムハラ神社かもしれないということであるが、違う名前の神社は明確にサムハラ神社ではないということになるであろう――もっとも違う名前の神社もサムハラ神社として表示されたのであるが。この名前も分からない祠のような神社が検索で表示されたということを不思議な体験と思ったのは、その神社が津山のサムハラ神社と東北30度線をつくっていたからである。さらに、宮地水位の潮江天満宮とも西北45度線をつくっているし、岩木山とも東北45度線をつくっているので、岩木山が国安普明にとって重要な山とすれば、国安普明も絡んでくるわけである。もちろん、その方位線はその神社だけでなく、その周辺の神社にも成り立つ話であるが、やはり少し不思議な話である。
いぼ地蔵・神社―サムラハ神社奥の宮(元宮)(E1.166km、0.40度)の東北30度線
いぼ地蔵・神社―潮江天満宮(E0.678km、0.28度)の西北45度線
いぼ地蔵・神社―岩木山三角点1624.6m(W0.741km、0.04度)の東北45度線