下野の田村麻呂伝承
下野の坂上田村麻呂・藤原利仁伝承と星信仰
鹿島神宮の悪路王首像は有名であるが、定村忠士『悪路王伝説』によれば同じ茨城県の桂村(現城里町)高久にある鹿島神社にも悪路王頭形(首形ともよばれる)があり、神社境内に表示された掲示板には「桂村指定有形文化財 悪路王面形彫刻 当鹿島神社の社宝として伝わるものである。延暦年間(七八二―)坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し凱旋の途中、この地を過ぎ携えてきた首級を納めた。最初はミイラであったが、これを模型したものといわれる。高さ五十糎、形相凄く優れた彫刻である。桂村教育委員会」とあるという。桂村鹿島神社の創建は天応元年(781)で、かつては安塚明神、それ以前は休塚明神と称していたといい、鹿島神社から西北二百メートルほどの森の中には今も「休塚」が残されているという。
ここでは岩手県平泉近郊の達谷窟ではなく下野の達谷窟となっているが、この悪路王頭形を研究していた三木日出夫氏は、栃木県出身の芭蕉研究家の早乙女常太郎氏から、栃木県矢板市に田谷という小字名があって、周辺には田村麻呂伝承が数多くあると教えられたという。桂村から那珂川を遡り、その支流の一つの箒川の西岸に突き出た小高い丘陵一帯が田谷地区で、この田谷を訪れた三木氏によると、田谷の他に将軍塚、ニママ、マダテ、矢ビツ、意味不明のイラメキなどの小字名が残っており、将軍塚は名称通り坂上田村麻呂がここに宿営したという口伝に基づき、「当丘は古来より将軍塚と称す。其の由緒は延暦二十一年(八〇二年)征夷大将軍坂上田村麻呂が東征のみぎり、此所に宿営せるによる口伝相伝えたり、附近には矢櫃、烹飯、馬立等の地名古録に見ゆ、蓋し因める欣、意は当の豊田の有志が口伝の後混を憂い……」というような将軍塚之碑が建っているという。また、この地方では「那須山に立籠った賊の高麻呂」としているが、この高麻呂(高丸)が討ちとられたという平沢(太田原市)一帯を将軍塚から一望のもとに見渡せるという。
定村忠士氏は、こうして三木氏は鹿島神社で下野達谷窟の賊将高丸(悪路王)とされる悪路王頭形を栃木県矢板市の田谷と関係づけ、同地に伝わる言い伝え、東征途上の坂上田村麻呂によって討ち取られたという「那須山に立籠った賊の高麻呂」らのことではないかと想像していき、那珂川流域にのこる田村麻呂伝説、例えば桂村内の三枝神社(田村麻呂が戦勝を祈願して軍扇を奉納した)、矢板市峰の木幡神社(田村麻呂が戦勝を感謝して赤松の厚板に自ら彫り、蝦夷の赤血を塗って仕上げたという天狗面を奉納した)などを紹介し、さらに烏山町(現那須烏山市)星宮神社に伝わる伝説「桓武帝の時代に蝦夷の族長悪路王が駿河方面まで進撃してきたため、田村麻呂は帝の命を受けてこれを追撃して、烏山町落合に軍団を集結し那須山に籠もった高麻呂(高丸)や、烏山付近で追討したと伝えられる悪路王などの蝦夷を平らげた」を紹介して、「この様にみると、桂村の高丸(悪路王)なる首級は、下野から田村麻呂軍団が持ち帰っても不思議ではありません。」と結論づけているという。
方位線的に下野の田村麻呂伝承地と桂村の鹿島神社を見ると、鹿島神社と将軍塚が西北45度線上をつくる。なお、那珂川の「那珂」は「ナーガ」で蛇のことといわれるが、吉野裕子『日本人の死生観』によれば、箒のよみは「ハハキ」が「ホウキ」になったもので、その原点は「蛇木(ははき)」あるいは「竜樹(ははき)」で箒=蛇であるというから、箒川も「蛇川」ということであろう。
将軍塚227m標高点―桂村高久の鹿島神社(W1.692km、1.96度)の西北45度線
下野の田村麻呂伝承地の三ヶ所のうち、矢板市峰の木幡神社であるが、諸サイトを綜合すると、田村麻呂は蝦夷追討の遠征途中峯村に宿陣し、遠江国の高島信保・信房兄弟を従えて追討に成功しての凱旋の帰途、延暦十四年(795)にも再びこの峯村に宿陣したが、その時山城国宇治郡の許波多神社を勧請し、峯村を木幡村と改めたということになる。大同二年(807)現在地に遷座、天慶三年(940)平将門追討の際祈願に功あって藤原秀郷が社領一千石寄進したという。宇治には許波多神社が二ヵ所あり、大海人皇子や坂上田村麻呂が戦勝を祈願したと伝えられ、どちらも天忍穂耳命を祭神とするが、式内社で天忍穂耳命を祭神とする神社は許波多神社だけであるとされる。
木幡神社の田村麻呂はあくまでも奥州で戦った田村麻呂ということになり、下野で戦ったという伝承を持つ他の二ヵ所と区別されるが、この三ヶ所は方位線的に密接に結びついている。将軍塚と矢板市の木幡神社が東北30度線をつくり、烏山町の星宮神社は伝承からいって落合にある星宮神社と考えられるが、そうすると矢板市の木幡神社と烏山町の星宮神社も西北45度線をつくり、将軍塚が地区名であり広がりを持つことを考えると、烏山町の星宮神社と将軍塚も東北60度線をつくるのである。高麻呂(高丸)が那須山に籠もった那須山であるが、現在の那須山とすると、将軍塚の北方に位置し、那須山にもある程度広がりを認めると、方位線まではいかないが方向線はつくるといえる。木幡神社の田村麻呂伝承がまずあり、それが発展して下野で田村麻呂が戦ったという伝承が出来てきたということなのであろうか。もしそうなら、将軍塚の田村麻呂伝承ができた頃には木幡神社は現在地に遷座していたと考えられる。
将軍塚227m標高点―矢板市木幡の木幡神社(E0.178km、1.90度)の東北30度線
田村麻呂が戦った高麻呂(高丸)という名は、中世の田村麻呂関係の物語を連想させるが、定村忠士『悪路王伝説』によれば、悪路王頭形について、水戸光圀が元禄六年(1693)に年久しくして朽ち損じていたのでそれを新たに彩飾したという記録が『水戸義公全集』上巻の中の「常山文集補遺」に見られるという。地元では、かつては悪路王のミニラそのものだったが、水戸の殿様が詳しく調べるからといって持ち帰り、その代わりにこの頭形を下されたという言い伝えもあるという。定村忠士氏はそのミイラの代わりに下された頭形を水戸光圀が修理したという可能性もあるのではないかとするが、そうするとミイラがあったのは江戸時代以前ということも十分あることになるり、どちらにしてもその悪路王の頭部が下野の田村麻呂伝承をもとにしたものであるとするならば、下野の田村麻呂伝承はさらに古くからあったことになる。
下野にはもう一つ、鎮守府将軍藤原利仁にまつわる伝承がある。『鞍馬蓋寺縁起』によれば、下野国高座山のほとりに蟻のように集まった群盗が千人党を結び、朝用雑物を奪うので、藤原利仁に討伐の宣旨が下されたが、利仁は勝ちがたきを恐れて天王の加護を仰いで鞍馬寺に参詣し、立願祈精すると示現があったので、下野に進発し高座山の蔵宗・蔵安などの賊を討つことができたというものである(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/heian1.htm)。説話化された利仁の群党討伐譚は、早ければ十世紀中葉には民衆に流布していたという(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。『吾妻鏡』には頼朝が達谷窟を訪れた時の文として、田村麿・利仁等の将軍云々とあるといい、当時すでに利仁は田村麻呂と並び称される武将だったことが分かる。利仁の官歴について、『尊卑分脈』には、武蔵守、従四位下、左(近衛)将濫、延喜十一年(911)任上野介、同十六年上総介、同十五年に鎮守府将軍となったとあるが、いずれも確実な史料からは確認できないらしい(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。定村忠士『悪路王伝説』の年表では、延喜三年(903)菅原道真没、同十五年(915)鎮守府将軍藤原利仁、東国の賊を討つ、天慶三年(940)平将門下総幸島で討たれるとあって、実際利仁が東国で賊を討った可能性があり、その東国とは下野であったかもしれない。 高座山については(毎日新聞宇都宮支局編『下野の武将たち』によると思われるが)、栃木県黒磯市高林の小丸山、塩谷郡の高原山、河内郡上河内村(現宇都宮市)の高倉山にあてる説があり、上河内村には利仁を祭神とする関白神社もあって、毎年八月七日の祭礼で奉納される一人立三匹の関自流獅子舞は高座山に寵もった千人の鬼を退治する姿といわれているという
(http://omodakashirou.web.fc2.com/lekishi/taharatouta2.htm)。
高倉山であるが、旧上河内村を地図で調べても関白神社の川を挟んだ西側に並んで高舘山・矢倉山という合わせて高倉山となる山はあるが、高倉山という名の山を見つけ出すことはできなかった。ただ、利仁の賊退治物語を記したホームページで高座山に「たかだてさん」とルビを振っているものがあった(http://61.194.63.139/ext/uyoupress/25.pdf)。高舘山の別名が高倉山で、地元では高座山とされているのかもしれない。また、「高座山神社」の鳥居が関白神社の周辺にあるらしい(http://blogs.yahoo.co.jp/qsa5238/23735185.html)。あるいは、関白神社周辺には他に神社が地図上では確認できないので、関白神社が高座山神社のことなのかもしれない。塩谷郡の高原山であるが、これは釈迦ヶ岳・鶏頂山・剣ヶ峰などよりなる高原山のことであろう。それに対し、栃木県黒磯市高林の小丸山については、そもそも高林に山といえるような場所がない。
『ウィキペディア』の高原山の項によると、高原山は古くは行基が開基したと伝わる法楽寺が剣ヶ峰に存在した山岳宗教のメッカであり、峰や山道には祠や石仏、鳥居などが点在し、釈迦ヶ岳には釈迦如来像や祠が祭られ、鶏頂山の山頂には鶏頂山神社の社殿が建つという。高原山のうち、剣ヶ峰の西北30度線上に将軍塚があり、その西北45度線上に矢板市の木幡神社と旧烏山市の星宮神社があるなど、剣ヶ峰の方位線上に下野の田村麻呂伝承地が位置している。旧桂村の三枝神社は地図や神社検索サイトではみつからなかった。これは、同じ桂村にある三枝祇神社の間違いなのではないだろうか。そうすると、剣ヶ峰と三枝祇神社が西北45度線をつくる。剣ヶ峰の西北45度線上には木幡神社・烏山町落合の星宮神社があったが、三枝祇神社と木幡神社は方向線をつくるとはいえるが、落合の星宮神社とは方位・方向線をつくるとはいえない。いえることは、剣ヶ峰の西北45度線上に木幡神社・落合の星宮神社・三枝祇神社が並んでいるのであり、そのことに一つの意味が隠されていることはありえるかもしれない。
剣ヶ峰―将軍塚227m標高点(W0.312km、0.89度)の西北30度線
剣ヶ峰―矢板市木幡の木幡神社(W0.307km、0.96度)―烏山町落合の星宮神社(W0.574km、0.75度)の西北45度線
桂村三枝祇神社―烏山町星宮神社(W2.363km、5.81度)
―矢板市木幡の木幡神社(W2.096km、2.47度)―剣が峰(W1.789km、1.53度)の西北45度線
では、高原山の中でもどうして剣ヶ峰なのであろうか。『ウィキペディア』によれば剣ヶ峰の山頂近くで、石器の特長より古いもので今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられる、日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡が発掘されている。剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が矢板市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され、氷河期の寒冷な時期に人が近付き難い標高1,500m近い高地で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこと等が分かっているという。山頂近くで黒曜石が採掘された剣ヶ峰は、高原山の中でも古くから意識された山であり、聖なる山ともされていたのではないだろうか。また、方位線的にいえば剣ヶ峰は日光男体山奥宮と東北30度線をつくり、那須山茶臼岳とは東北60度線をつくるという位置関係にある。男体山奥宮と茶臼岳も東北45度線をつくっている。
剣ヶ峰―男体山奥宮(E0.111km、0.20度)の東北30度線
剣ヶ峰―那須山茶臼岳(E0.904km、1.77度)の東北60度線
男体山奥宮―那須山茶臼岳(E1.451km、1.40度)の東北45度線
高原山釈迦ヶ岳・鶏頂山も男体山奥宮と東北30度線をつくるが、一番正確なのは剣ヶ峰である。日光二荒山神社との方位線については、鶏頂山は恒例山と東北45度線をつくり、釈迦ヶ岳は恒例山・もともと日光二荒山神社があった東照宮・現在味耜高彦根命を祀る本宮と東北45度線をつくり、剣ヶ峰は東照宮・本宮と東北45度線をつくる。釈迦ヶ岳は東照宮と正確な東北45度線をつくっているが、恒例山に関しても鶏頂山よりは正確であり、恒例山・東照宮・本宮と方位線をつくるのは釈迦ヶ岳などであることを考えると、二荒山神社ともっとも深く関係するのは釈迦ヶ岳ともいえるが、どちらにしても釈迦が岳・鶏頂山・剣ヶ峰の高原山は日光と方位線的に強く結びつく山といえる。高原山の性格を示しているのは、鶏頂山の山頂にある鶏頂山神社かもしれない。鶏頂山神社の祭神は道祖猿田彦とされるが、これはクナトノ大神が猿田彦に変えられた可能性が疑われ、もしそうすると高原山は出雲神族と関係の深い山だったということになる。
男体山奥宮―鶏頂山(W0.973km、1.91度)―釈迦ヶ岳(W0.267km、0.50度)の東北30度線
鶏頂山―恒例山(E0.586km、1.53度)の東北45度線
釈迦ヶ岳―恒例山(W0.372km、0.93度)―東照宮(W0.012km、0.03度)―本宮(E0.628km、1.58度)の東北45度線
剣ヶ峰―東照宮(W0.589km、1.38度)―本宮(E0.052km、0.12度)の東北45度線
高舘山であるが、木幡の木幡神社と東北60度線をつくっている。それに対して、関白神社と将軍塚も東北60度線をつくる。そして、将軍塚と木幡神社が東北30度線で結ばれているわけである。坂上田村麻呂と藤原利仁は田村丸利仁のように中世の物語では合成されて一人の人物になっているが、下野ではそれぞれに独立した伝承になっている。また、下野の田村麻呂伝承には中世の物語の影響が感じられるが、利仁には賊の名が蔵宗・蔵安とされるなど、悪路王や高丸などとする中世の物語とは異なる。しかし、高座山が剣ヶ峰であれ高舘山であれ、下野の田村麻呂伝承地と利仁伝承地は方位線的には関係が見られるわけである。高舘山と将軍塚であるが、両所を方位線的に仲介する場所として嶽山箒根神社(たげさんほうきねじんじゃ)がある。将軍塚と西北45度線、高舘山と南北線をつくるが、月山の西北西、標高960m付近にあり、「天武天皇の白鳳8年(679年)、山本良章が修験者小角と共に登山し木像を祀ったのを起源として現在に至る」旨が鳥居横の案内板に書かれているという(http://4.pro.tok2.com/~forester/dictionary/shrines&temples.htm#高原山の寺社%20/%20神道%20/%20仏教)。箒が蛇だとすると、嶽山箒根神社も龍蛇神を祀る神社といえる。
高舘山―矢板市木幡の木幡神社(W0.301km、1.15度)の東北60度線
関白神社― 将軍塚227m標高点(E0.399km、1.33度)の東北60度線
嶽山箒根神社―将軍塚227m標高点(W0.138km、0.47度)の西北45度線
嶽山箒根神社―高舘山(W0.014km、0.03度)の南北線
宇都宮二荒山神社は日光男体山の遥拝所だったのではないかといわれるが、勝道上人にとっての男体山遥拝所は中宮祠であったといえる。その中宮祠は男体山とは正確な南北線をつくらないが、日光信仰の他の二つの山、女峰山とは東北60度線、太郎山とは方向線ではあるが南北線をつくるのである。もっとも、いつもそうだとは限らず、宇都宮二荒山神社は男体山と方位線をつくらない。しかし、その宇都宮二荒山神社と二荒山神社中宮祠は西北30度線をつくるのである。神体山の遥拝所が時に方位線上に設けられることがあるとすれば、剣ヶ峰の方位線上に位置している木幡神社は高原山を遥拝する場所だったかもしれないし、そのような場所だったから田村麻呂は木幡神社を造営したのかもしれない。また、将軍塚も高原山信仰と何らかのかかわりがある場所だったのかもしれない。そうすると、方位線的には話が少し見えてくる。関白神社が高座神社であり、高舘山が高座山であとすれば、両所は深く関係していたことになり、藤原利仁はまず関白神社・高舘山という霊的拠点を押さえ、さらに方位線で結ばれた木幡神社・将軍塚という霊的拠点を押さえた上で、おそらく高原山に立て籠もった、あるいは高原山を霊的拠点とする先住民系反乱軍と戦いに臨んだということである。あるいは将軍塚に陣を置いたのは田村麻呂ではなく利仁だったのかもしれない。では、何故関白神社・高舘山なのかといえば、関白神社が宇都宮二荒山神社と南北線をつくっていたからであろう。さらに、その時期は道真の死と将門の乱の中間であり、道真の失脚・死が下野あるいは東国の利仁が活躍することになった騒乱に影を落とし、その騒乱が将門の乱にもその影を落としていた可能性もあるわけである。藤原秀郷が社領一千石寄進したというのは、藤原利仁が木幡神社に戦勝祈願したという先例があったからなのかもれない。もしそうなら、秀郷にとって将門に勝てるかどうか自信はなかったであろうから、利仁の先例は気持ちを強く奮い立たせてくれるものだったろうし、それが社領一千石寄進ということになったのかもしれない。
二荒山神社中宮祠―男体山奥宮(E0.306km、6.83度)の南北線
二荒山神社中宮祠―女峰山(E0.024km、0.15度)の東北60度線
二荒山神社中宮祠―太郎山(W0.352km、2.38度)の南北線
二荒山神社中宮祠―宇都宮二荒山神社(E0.564km、0.78度)の西北30度線
宇都宮二荒山神社―関白神社(W0.073km、0.30度)の南北線
高座山が高原山のことであるとすると、下野の利仁伝承、あるいは剣ヶ峰の方位線上に点在する田村麻呂伝承には別の背景があるのかもしれない。剣ヶ峰には藤原房前と結び付けられた鬼人・賊退治の伝承が残っている。剣ヶ峰の法楽寺にまつわる伝承で、法楽寺を行基が創建したのは、当時の剣ヶ峰を含めた高原山には山賊や盗賊が多く、それが鬼人伝説として残されているが、養老四年(720)に藤原房前がこれらの鬼人たちを退治し、この時霊験があったため、かの地に寺を創立した方が良いとの房前の助言により、開山に至ったというのである。この伝承が下野の田村麻呂。利仁伝承の背景になっているのかもしれない。また、この伝承は先住民系が朝廷に反乱するとき剣ヶ峰あるいは高原山がその精神的拠り所になっていたということを示しているのかもしれない。そうすると、利仁のときも実際高原山に立て籠もっていたということもありえるわけである。
賊退治・先住民征討ということでは、剣ヶ峰・将軍塚の西北30度線上には、さらに小川町(現那珂川町)三輪字宮元の三和神社を付け加えることができるかもしれない。推古天皇十二年大和国三輪山の大神神社を勧請したといわれるが、長治二年(1105)には藤原(須藤)貞信が八溝山中の巌嶽丸を討伐の折、当社に祈願したといわれ、貞信は天養元年(1144)社殿を再建したという。三和神社は時代は分からないがもと大字三輪字宮窪にあり、後に現在地に遷座したという(http://www.geocities.jp/engisiki/shimotuke/bun/smt270403-01.html)。字宮窪は現在地からそんなに離れた所ではないと思うが、現在の鎮座地は剣ヶ峰と正確に方位線を作り、現鎮座地を中心に左右1kmの西北30度線を引いてその範囲内に収まれば、旧鎮座地も剣ヶ峰と西北30度線を作っていたことになる。
三和神社―将軍塚227m標高点(W0.367km、1.59度)―剣ヶ峰(W0.055km、0.09度)の西北30度線
関白神社・高舘山の東北45度線上に、阿武隈山地最高峰の大滝根山があるが、大滝根山には坂上田村麻呂伝承がある。白銀城の大多鬼丸というものが田村麻呂と戦い、最後は鬼穴という所で自刃して果てたという。日本経済新聞2003年6月14日の夕刊によれば大多鬼丸は本名を大武丸あるいは大竹丸といったらしい。八溝山の巌嶽丸と似た名であるが、『田村三代記』など田村麻呂の物語には悪路王や高丸と同じようによく出てくる名前である。興味深いのは、大多鬼丸が土地の伝承では悪行を繰り返す賊(鬼)とするものと、民人を愛し、朝廷の租税徴収の命対して、重税で住民を苦しめないために立ち上がった地元の英雄とする、全く正反対の二つの伝承に分かれていることであろう。大滝根山であるが、『悪路王伝説』によると、福島県郡山市田村町から田村郡三春町一帯に威をふるった戦国時代の龍主で、坂上田村麻呂の二十六代の後胤と称した田村清顕の一代記で、史実と伝説をおり交ぜての創作物とされる『仙道田村兵軍記』では、奥州胆沢郡大滝根山の岩窟に立て籠もった大高丸が征夷大将軍として派遣された紀古佐美などを打ち破り、駿河国清見が関まで攻め上ってきたので、田村麿が征夷大将軍となって大高丸を追い、捕らえて山城国神楽岡で斬罪に処したとなっているという。また、田村麿は悪路王も討ち殺し、大墓公阿底(ママ)利為などは深山幽谷に立て籠もったという。田村麿は刈田麿が奥州宮田村で同地高野郷の公家橋本光忠の娘阿口蛇姫に産ませた子とされ、田村麻呂の子浄野が三春城を築いたとされる。
大滝根山―関白神社(E1.314km、0.71度)―高舘山(E0.225km、0.12度)
大多鬼丸が根城とした白銀城はあぶくま洞付近といわれ、大滝根山麓の仙台平にはその大怪石のもとに田村麻呂が丁重に埋めたという大多鬼丸の首塚があり、鬼穴・仙台平近くの鬼生稲荷神社付近が大多鬼丸の生まれた所とされてるという(http://www2u.biglobe.ne.jp/~nemoto-s/tamurarekisi_onimonogatari.htm)。仙台平の首塚は将軍塚と東北45度線をつくる。大滝根山と将軍塚も東北45度線をつくるといえる。大滝根山の東北30度線上には高原山の鶏頂山、日光の女峰山があるが、剣ヶ峰・男体山とも西北30度線をつくるといえる。
仙台平870m標高点―将軍塚227m標高点(W0.853km、0.56度)の東北45度線
大滝根山―将軍塚227m標高点(W2.748km、1.75度)の東北45度線
大滝根山―剣ヶ峰(E3.012km、1.77度)―鶏頂山(E2.151km、1.23度)―女峰山(E0.621km、0.29度)―男体山奥宮(E3.123km、1.38度)の東北30度線
関白神社・高舘山と大滝根山の東北45度線上に、田村麻呂ではないが日本武尊が味耜高彦根命の神助を祈り、平国の鉾を立てたという福島県の都々古山(建鉾山)がある。鹿島神宮のところで記したが、都々古山と石川町の役場の裏山である八幡山の頂上にある石都々古和気神社が東北45度線をつくっていたので、その延長線上に大滝根山があることになる。都々古山は三和神社とも東北60度線をつくり、三枝祇神社とも南北線をつくる。都々古山は日本武尊の酒折宮と東北45度線をつくっていたが、酒折宮と都々古山・大滝根山の東北45度線上に関白神社・高舘山・将軍塚があるともいえる。都々古山は出雲神族の伊勢津彦伝承のある八風山と東北30度線をつくり、八風山と酒折宮が南北線をつくっていたが、将軍塚は諏訪大社上社の神体山である守屋山と東北30度線をつくる。また、守屋山は群馬県の武尊山と東北45度線をつくっていたが、将軍塚は武尊山の東西線上に位置している。
大滝根山―石都々古和気神社(E0.837km、1.44度)―都々古山(E0.290km、0.34度)
都々古山―関白神社(E1.024km、1.01度)―高舘山(W0.065km、0.06度)
の東北45度
三和神社―都々古山(W0.406km、0.60度)の東北60度線
三枝祇神社―都々古山(E0.117km、0.11度)の南北線
大滝根山―酒折宮(E0.144km、0.03度)の東北45度線
守屋山―将軍塚227m標高点(E2.964km、0.86度)の東北30度線
武尊山―将軍塚227m標高点(N1.119km、0.83度)の東西線
剣ヶ峰・将軍塚・三和神社の西北30度線を延長すると、宿魂石がある。宿魂石の伝承も先住民征討の話であるとすれば、先住民・賊の征討・討伐の方位線として、宿魂石も含めることができるわけである。なお、宿魂石は高原山の釈迦ヶ岳や鶏頂山のほうが正確な方位線となっている。
宿魂石付近―三和神社(E1.347km、1.44度)―将軍塚227m標高点(E0.980km、0.84度)
―剣ヶ峰(E1.291km、0.85度) の西北30度線
宿魂石付近―釈迦ヶ岳(W0.059km、0.04度)―鶏頂山(W0.630km、0.41度)の西北30度線
宿魂石が星神香々背男と結び付けられたのは水戸光圀等によるもので、ただそれ以前から建葉槌命によって宿魂石が蹴破られてその破片は各地に飛んだという伝承はあったかもしれない、というのが大和岩雄氏の説であった。下野の田村麻呂・藤原利仁・藤原房前の伝承地と宿魂石の破片が飛んで落下したという伝承地の間にも方位線関係がみられる。将軍塚と常北町石塚の風隼神社が西北45度線をつくる。その方位線上に桂村の鹿島神社があるということになるわけである。将軍塚と木幡神社が東北30度線をつくり、宿魂石と東海村石神外宿中堂の石神社が東北30度線をつくっていたが、木幡神社と石神社も西北30度線をつくる。木幡神社は笠間市石井の石井神社とも西北60度線をつくり、石井神社は関白神社と西北45度線をつくる。残る内原町田島の手子后神社と御根磯であるが、このうち手子后神社が三和神社と西北60度線をつくる。三和神社は建葉槌命を祭神とする静神社と西北45度線をつくっている。また、烏山町落合星宮神社も静神社と東北30度線をつくっている。残る御根磯であるが、これは宿魂石と同じく剣ヶ峰の西北30度線上にあるともいえる。宿魂石と同様、釈迦ヶ岳と最も正確な方位線をつくる。
風隼神社―桂村鹿島神社(E0.025km、0.79度)―将軍塚(E1.716km、1.91度)の西北45度線
石神社― 木幡神社(E0.505km、0.43度)の西北30度線
木幡神社―石井神社(E1.465km、1.57度)の西北60度線
石井神社―関白神社(E0.953km、1.17度)の西北45度線
三和神社―内原町田島の手子后神社(W0.250km、0.30度)の西北60度線
三和神社―静神社(E0.703km、0.99度)の西北45度線
烏山町落合星宮神社―静神社(E0.715km、1.35度)の西北30度線
御根磯―剣ヶ峰(E1.515km、0.97度)―釈迦ヶ岳(E0.169km、0.10度)―鶏頂山(W0.406km、0.25度)の西北30度線
将軍塚は天之可可背男を祭神とする友部市中市原の星宮神社とも西北60度線をつくる。また、将軍塚は烏山町落合の星宮神社と西北60度線をつくるとしたが、烏山町落合の星宮神社と友部の星宮神社も方向線ではあるが西北60度線をつくり、将軍塚・烏山町落合の星宮神社・友部市中市原の星宮神社が一つの西北60度線上に並んでいる。風隼神社と内原町田島の手子后神社が南北線、手子后神社と友部市中市原の星宮神社が東北60度線をつくっていたということで、将軍塚・風隼神社・手子后神社・友部の星宮神社・烏山町落合の星宮神社が方位線で結ばれた環を作っていることにもなるわけである。関白神社は友部市中市原の星宮神社と西北45度線をつくる。
友部市中市原の星宮神社―烏山町落合の星宮神社(E1.200km、2.13度)―将軍塚227m標高点(E0.218km、0.22度)の西北60度線
関白神社―友部市中市原の星宮神社(E1.694km、1.90度)の西北45度線
また、直接香々背男とは関係ないのかもしれないが、星信仰と結びつき、宿魂石や下野の香々背男を祭神とする神社とも方位線をつくる加波山も、関白神社と西北60度線をつくり、関白神社は桂村の三枝祇神社と方向線であるが西北30度線をつくる。加波山はやはり方向線ではあるが烏山町落合星宮神社とも南北線をつくる。
関白神社―加波山(W1.511km、1.74度)の西北60度線
関白神社―三枝祇神社(E1.885km、2.38度)の西北30度線
加波山―烏山町落合星宮神社(W1.386km、2.15度)の南北線
田村麻呂・藤原利仁の伝承地はまた下野の香々背男を祭神とする神社とも方位線で結ばれている。将軍塚と関白神社の東北60度線を延長すると、岩舟町下津原の三鴨神社と藤岡町大和田の三毳神社の東北60度線に重なる。関白神社と宇都宮二荒山神社は南北線をつくっていたが、関白神社と宇都宮二荒山神社の南北線も結城市の八幡神社・星宮熊野神社の南北線と重なる。結城市の八幡神社・星宮熊野神社は烏山町落合の星宮神社の東北60度線上に位置しており、烏山町落合の星宮神社の東北45度線は小山市上国府塚の星宮神社と小山市押切の星宮神社の東北45度線に重なる。
将軍塚227m標高点―岩舟町下津原の三鴨神社(E0.997km、0.89度)―藤岡町大和田の三毳神社(E0.917km、0.79度)の東北60度線
関白神社―岩舟町下津原の三鴨神社(E1.396km、1.70度)―藤岡町大和田の三毳神社(E1.315km、1.52度)の東北60度線
関白神社―結城市結城八幡神社(W0.623km、0.81度)―結城市上山川星宮熊野神社(W0.673km、0.82度)の南北線
烏山町落合星宮神社―結城市結城八幡神社(W0.441km、0.56度)―結城市上山川星宮熊野神社(E0.989km、1.19度)の東北60度線
烏山町落合星宮神社―小山市市上国府塚の星宮神社(E0.901km、1.08度)
―小山市押切の星宮神社(E0.952km、1.04度)の東北45度線
香々背男と田村麻呂・利仁との間には時代的な開きがあり、直接的な物語は考えられない。これらの方位線に物語を見ようとすれば、下野の田村麻呂・利仁伝承地は香々背男ともともとなんらかの関係のあった場所ということにしなければならないであろう。そのうちの一部が田村麻呂や利仁と結び付くようになったとすれば、もともとは大和朝廷と先住民との抗争に結び付く方位線であり、先住民の信仰が香々背男を祭神とする星信仰だった可能性もあるわけである。もしそうなら、先住民の香々背男信仰・星信仰が弾圧されたということでもある。しかし同時に、現に香々背男を祭神とする神社が在るということは、それらの信仰が完全に圧殺されたわけでもないということも示している。あるいは、現在香々背男信仰が残っている場所は、激しい弾圧にも関わらず、その信仰を保ち続けた、下野・常陸でも香々背男信仰の盛んな場所だったということなのかもしれない。
先住民の香々背男信仰・星信仰は縄文時代にまで遡るかもしれない。宿魂石の西北30度線上に剣ヶ峰があり、宿魂石の東北30度線上に吾国山があったが、剣ヶ峰と吾国山も西北60度線をつくる。剣ヶ峰のように縄文時代に遡る遺跡として、栃木県小山市の寺野東遺跡がある。寺野東遺跡は旧石器時代から縄文・平安時代にかけての遺跡で、その中には縄文時代後・晩期につくられた直径165mの環状盛土遺構などがあり、居住跡ともいわれるが、盛り土の中に焼けた土や焼けた骨が多量に出てきたり,おまじないの道具である土偶や,石剣,シャーマンがつける土面などが出土していることから、火を使ったお祭りや,儀式が行なわれていたことも想像されている。寺野東遺跡は単なる居住跡ではなく、祭祀場としての性格もあったとも考えられるわけであるが、寺野東遺跡と吾国山も東西線をつくる。これら吾国山と剣ヶ峰・寺野東遺跡との方位線関係は、吾国山の信仰も縄文時代にまだ遡るということなのかもしれないし、その場合、現在に残る吾国山の祭神からいえば、香々背男が祀られていたということもありえるわけである。
剣ヶ峰―吾国山(W0.994km、0.75度)の西北60度線
吾国山―寺野東遺跡(N0.468km、0.92度)の東西線
寺野東遺跡から見た冬至の日の出は、筑波山山頂から太陽一個分南から昇るという計算もある(http://www.geocities.jp/whhxj855/terano2.htm)。寺野東遺跡は筑波山と西北30度をつくるということである。そうすると、寺野東遺跡と筑波山の西北30度線の延長線と吾国山からの西北45度線が交わる場所が鹿島いうことになる。なお、鹿島神宮の西北45度線上に宇都宮の二荒山神社があった。鹿島神宮・吾国山・宇都宮の二荒山神社が方位線上に並ぶわけであるが、関白神社と宇都宮の二荒山神社の南北線上に寺野東遺跡がある。ただ、結城市の八幡神社と星宮熊野神社は寺野東遺跡と南北線をつくるとはいえない。
寺野東遺跡―筑波山男体峰(E0.060km、0.15度)の西北30度線
吾国山―宇都宮二荒山神社(W1.018km、1.47度)の西北45度線
関白神社(E0.271km、0.39度)―宇都宮二荒山神社(E0.344km、0.75度)―寺野東遺跡―結城市八幡神社(W0.351km、4.86度)―結城市星宮熊野神社(W0.401km、3.26度)の南北線
山田安彦『古代の方位信仰と地域計画』によれば、常陸国府の南北中央線の北方への延長上約400メートルのやや西寄りに星の宮が鎮座し、これは国府内国衙の正北方にあたり、国府の北に星の宮を勧請したということは、太一思想に基づく北辰信仰と、さらに密教の影響による妙見菩薩信仰と大いに関係があると考えられるとする。常陸における星の宮を北辰信仰や妙見信仰に結びつけることには疑問もあるが、もしその星の宮が常陸の国庁を造るにあたって勧請されたものであるとすれば、常陸の先住民の星信仰が当時においても無視できないものであったことを示しているのではないだろうか。また、下野の国府について山田安彦氏は同書で、下野国府擬定地の北に下野総社の大神神社があり、擬定地の北西の字大塚と南東の字大光寺に「星の宮」が鎮座し、この「星の宮」については下野国府と直ちに関連があるというのではないが、存在だけは記しておきたいと述べている。
常陸国庁は石岡小学校の場所にあったとされ、そうすると大神神社と常陸国庁は西北30度線をつくり、大神神社の南に国府があったとすると、下野国府と常陸国府も西北30度線で結ばれるていた可能性がある。もっとも、下野国府については1950年代の情報をもとにしているようであり、1970年代の発掘により、栃木市田村町の宮野辺神社の敷地を正殿とする国庁跡が明らかになった。南門からは幅9メートルの朱雀大路が延びて、その左右に官衙や国司館が立ち並んでいたが、京のように整然とした碁盤目状の街路は認められていない。下野国庁は8世紀前半から10世紀前半の間に、4期の変遷が認められるようであり、藤原利仁が高座山の賊を退治したとされる頃までは国庁として機能していたようである。
栃木市惣社の大神神社―石岡小学校・常陸国庁(E1.036km、1.17度)の西北30度線
山田安彦のいう字大光寺の「星の宮」は栃木市田村の星の宮神社と考えられるが、宮野辺神社付近に国庁を考えると、常陸国府と同じようにほぼその正北近くに位置することになる。常陸国府北の星の宮と下野国府北の星の宮が国庁設置に伴って勧請されたのか、それ以前から鎮座していたのかはわからないが、田村の星の宮に関しては三鴨神社と東北30度線をつくる。それに対して、常陸国府の北の星の宮は地図では確認できなかったが、詳細地図では国分尼寺跡の東、石岡第二高校の北、若松3町目5番地あたりに星の宮マンション・ハイツ星の宮が並んでおり、そのあたりに在ったか、あるいは現在も小祠として残っているのであろう。星の宮がそのあたりとすると、護摩壇石と東北30度線、御根磯と東北45度線をつくる場所にあたる。
栃木市田村の星の宮―三鴨神社(E0.212km、0.80度)の東北30度線
星の宮マンション・ハイツ星の宮付近―護摩壇石(W0.362km、0.56度)の東北30度線
星の宮マンション・ハイツ星の宮付近―御根磯(kW0.176m、0.21度)の東北45度線
宮野辺神社すなわち下野国庁正殿は三毳山上の三毳神社と東北30度線をつくる。宮野辺神社は宮延神社あるいは宮目(みやのめ)神社とも記される。木下良『国府』によれば、寛喜二年(1230)の小山朝政の譲状にあげられる守護領のなかに「宮目社」があるという。武蔵府中の大国魂神社境内摂社の宮之盗_社も嘉慶二年(1388)の願文に「宮目」とされており、上野国庁は前橋市の元総社地区内に求める説が有力になってきているが、元総社集落の北部中央に宮鍋(みやなべ)様と称される小祠を中心とする一画があり、総社の旧地といわれているが、平安時代に宮中や貴族の邸宅で正月と十二月の初午に行われた宮之桃ユ(みやのめのまつり)は「みやなべのまつり」ともいっていることから、宮目と宮鍋が同一であることは疑いがないという。そして、国府跡にある宮目神社は自分の知るかぎり武蔵・上野・下野だけであるが、本来国庁の一隅に存在していたものか、国庁の廃絶後にその故地に祀られたものかはわからないが、国庁跡を求める手掛かりとしては重視すべきであろうとする。
そうすると、宮目神社は国府ができた後あるいはその廃絶後に創建されたとも考えられるが、田村の星の宮が三鴨神社と東北30度線をつくるのに対して、宮目神社と三毳神社が東北30度線をつくるという関係になってることから、もともと国庁以前から神社が鎮座していた可能性もあるのではないだろうか。もしそうだとすると、その神社は星信仰と関係する神社だったのかもしれないし、香々背男を祀っていた可能性も考えられる。田村の星の宮は結城市の星宮熊野神社とも西北60度線をつくり、宮野辺神社は押切の星宮神社と東北60度線をつくる。田村の星の宮についても、現在の祭神は磐裂であるが、もともとは香々背男だった可能性もあるのではないだろうか。田村の星の宮は笠間の石井神社と東西線をつくる。それに対し宮野辺神社は友部の星宮神社と東西線をつくる。
宮野辺神社―三毳山上三毳神社(E0.334km、1.13度)の東北30度線
栃木市田村の星の宮―結城市星宮熊野神社(E0.174km、0.60度)の西北60度線
宮野辺神社―押切の星宮神社(E0.241km、1.28度)の東北60度線
栃木市田村の星の宮―笠間の石井神社(S0.208km、0.29度)の東西線
宮野辺神社―友部の星宮神社(S0.222km、0.27度)の東西線
宮野辺神社は筑波山とも西北30度線をつくる。山田安彦『古代の方位信仰と地域計画』によれば、常陸国府は冬至の日の出方向に鹿島神宮の明石の浜、その反対の夏至の日没方向に筑波山、夏至の日の出方向に大洗・酒列の磯前神社、反対の冬至の日没方向に富士山があり、太陽運行の神秘性と古代人が信仰上意識した自然の摂理との関係に、古代人は畏敬の念を抱き、天の理=神の意に沿わなければ、天の咎をうけるのではないかという観念から、国府の平安鎮護・息災ならびに繁栄隆盛のために、自然的摂理に適うように国府の位置を選定したのではないかという。宮野辺神社の場所が下野国庁正殿の跡であるとすると、冬至の太陽が筑波山から昇り、三毳山に沈む地が選ばれたということなのであろうか。もっとも、国府のすぐ南を東山道が通っていたと推定されているから、東山道のすぐ傍で、筑波山周辺から冬至の朝日が昇る場所が国府として選ばれただけなのかもしれない。
宮野辺神社―筑波山女体峰(W0.512km、0.86度)の西北30度線
宮野辺神社が三毳山上の三毳神社と、田村の星の宮が三鴨神社と東北30度線をつくるのに対して、総社の大神神社と大平山がやはり東北30度線をつくる。これは、大神神社も星信仰と関係がある神社だったということなのかもしれない。また、方位線で結ばれた三毳神社・三鴨神社・大平山に強い結びつきがあったとすれば、宮野辺神社・田村の星の宮・大神神社にもなんらかの強い結びつきがあったということかもしれない。大神神社は大平山と南北線をつくり、やはり香々背男を祀る都賀町大柿の星の宮浅間神社とも西北30度線をつくる。太平山神社の旧号も「大神社」であり、ともに式内社大神神社の論社であるが、どちらから式内社であるかどうかというよりも、栃木市惣社の大神神社と太平山が深い関係があったことを考えなければならないのかもしれない。
栃木市惣社の大神神社―大平山341m(W0.176km、1.05度)の東北30度線
栃木市惣社の大神神社―都賀町の星の宮浅間神社(E0.30km、1.68度)の西北30度線
栃木市惣社の大神神社は崇神天皇四十八年、豊城入彦命が大和三輪の大物主神を勧請したと伝えられる。そうすると、国府以前から鎮座していたことになる。東北60度線方向に豊城入彦を祭神とする宇都宮二荒山神社があるから、この伝承にも無視できないものがある。太平山神社の旧号も「大神社」であり、垂仁天皇の時に鎮座したという伝承もあり、崇神天皇の時代の創建という大神神社より後ということになるが、垂仁も豊城入彦命も崇神天皇の子であるから同時代といってもいいであろう。太平山については、榎本出雲・近江雅和『消された星信仰』では、弥生時代にまで遡る信仰の山ではないかとしている。また、民俗学者の中山太郎氏が「八朔に大平山でお籠りする風習は歌垣の遺風である」と指摘していることなどから、筑波の歌垣と同じく歌垣の行われた庶民の信仰の山でもあったという。豊城入彦命が大和の三輪山から勧請したという伝承についても、三鴨神社の祭神が香香背男命の他に事代主命・建御名方命であることなどを考えると、下野における出雲神族との関係も考えなければならないのではないだろうか。
栃木市惣社の大神神社―宇都宮二荒山神社(W0.728km、2.07度)の東北60度線
惣社の大神神社と大平山の東北30度線上に栃木市大宮町印役の高天ヶ原御釜神社というのがあり、ホームページ上のグークルマップから、その緯度・経度を取得できるものがあった(http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-2062.html)。印役神社の近くの道端の小さな祠で、祠の脇の立て札には「この地は昔から、高天ヶ原(たかまがはら)と呼ばれている天御祖の神(おめのみおやのかみ)と呼ばれる天地創造の神、万物生成の神が息吹された時大きな洞穴ができ、そこに空風火水地出来たという伝承があり、大きなうつろ(釜)を尊崇する古代人の信仰によって生まれてきたものといわれている。今の私たちにはとても信じられないことではあるが、古代伝承がこの地に残っているのも大変珍しいことである。」とあるという(http://cc9.easymyweb.jp/member/mukasi-tochigi/default.asp?c_id=39813)。出雲神族の伝承にも高天原がでてくるが、この高天原も出雲神族と関係があるのではないだろうか。高天ヶ原御釜神社と鹿島神宮近くの高天原が西北30度線をつくっている。この方位線上に筑波山があるともいえるが、筑波山にも高天原があった。
栃木市惣社の大神神社(E0.062km、1.53度)―高天ヶ原御釜神社―大平山341m(W0.115km、0.91度)の東北30度線
高天ヶ原御釜神社―鹿島高天原鬼塚付近(W0.108km、0.07度)の西北30度線
また、嘉永四年(1851)に記されたという『鶏頂山開闢開山記』(http://moaej.shinshu-u.ac.jp/?p=674)という書に「山ノ中服ニ往古高天原ト称スル地アリ。此処ニ鶏頂山里宮ヲ祭ル。此処ニ浮洲森アリ」とあるが、高天ヶ原御釜神社と鶏頂山が南北線をつくる。同書には「下野国塩谷郡鶏頂山は下野三山ノ一ニシテ往古三賀茂山ト和歌ニ詠メリ」ともある。鶏頂山と三鴨神社・三毳山に古く強いつながりがあったことが考えられる。鶏頂山中腹の高天原であるが、現在川治温泉にある里宮は文久3年(1863)、高原新田宿が廃村となり、その住民が当地に移住した際勧請されたものと云われているという(http://kawaji.dotera.net/keityou.html)。高原新田宿は現在の鶏頂開拓にあったといい、会津西街道の宿場町であったが。会津西街道に代わり新栃久保街道が開通し、宿場自体が成立しなくなって廃村となり、現在の川治温泉付近、男鹿川左岸に移住し、この時移住地を高原としたという。そうすると、鶏頂開拓あたり、あるいは高原高原一帯が高天原ということになるのかもしれないが、同書によれば「高原村ニ少シ高キ山アリ。鶏原山里宮ナリ。高原村ノ鎮守トナス。」とあり、現在川治温泉にある鶏頂山里宮と嘉永四年(1851)に創建されたという高天原の里宮、高原村鎮守の鶏原山里宮の関係がよく分からない。鶏原山の位置もよく分からないが、現在鶏頂開拓近くに狸原山がある。鶏頂山の南北線上には小山市市上国府塚の星宮神社もある。
鶏頂山―高天ヶ原御釜神社(W0.268km、0.27度)―小山市市上国府塚の星宮神社(E0.210km、0.19度)の南北線
なお、『鶏頂山開闢開山記』によれば、「下総国結城ノ人中里守常。御嶽山巴大講元先生。下野高原村ニ来ル。嘉永元年十一月十八日。御嶽山神事祈祷中。神懸リ告ニ曰ク。我レハ天地開闢以来道祖神。即猿田彦命鶏頂山大権現ナリ。汝等ノ信スル御嶽山ノ山中赤岩ノ神ト同体ナリ。…大日本国郡分轄ノ際。天富命我レヲ以テ當山ノ祭神トナス。」とあり、「神託ニ感シ。共ニ當山開山シテ諸人登山ノ道ヲ講究ス。」ということになったという。また、嘉永三年十一月二十七日にも別人に神託があり、「昔古天富命祭神猿田彦命ヲ祭リ。其後垂仁帝ノ御宇ニ。末社ノ諸神ヲ勧請ス。後延長ノ頃ニ至リ山繁栄ヲナスト雖。…神跡隠ル。其後仏法行者等開山ト欲スト雖。祭神ノ尊号ヲ知ラズ」とあり、「神道ニ依ラザレバ開山ナシ難シ。」ということで、翌嘉永四年に南藤原口、五十里口、高原口の三道による開山登山が行われたという。これによれば、現在鶏頂山神社の祭神とされる道祖猿田彦命は幕末近くになって定められたもので、それ以前は祭神名は知られていなかったということになる。もっとも、この書をもって祭神名がまったく忘れ去られていたとは断定できないであろう。「道祖神。即猿田彦命」という言い方は、それまで道祖神とされていたのを、それは猿田彦命のことであると言い直したようにも思える。記紀に出てくる神名のみを尊号とするなら、岐神は記紀に出てくる神かもしれないが、それが単に道祖神とされているだけなら、道祖神では尊号とはいえず、尊号が知られていないということも間違いではないということになる。この場合、幕末の神道復興の流れの中で、祭神を記紀にある神にしようとしたのであって、直接出雲神族の痕跡を抹殺しようという動機から出たものともいえないであろう。どちらにしても、鶏頂山は三加茂山とも称されていたとも記すから、鶏頂山は三鴨神社・三毳山と同じ背景がかつてはあったことが覗われ、出雲神族との関係も否定できないといえる。
現在の伝承でいうと、大神神社と高天ヶ原御釜神社は木花咲耶姫で結びついているかもしれない。高天ヶ原御釜神社の地は木花咲耶姫の伝説の多い土地で、数メートル行くと「一度(いちどん)橋跡」があり、この橋の由来は、木花咲耶姫命が父・大山低(おおやまのつみ)の神の譲りを受けた秀峰・富士山に神として移るとき、故郷・室の八嶋(大神神社)を離れる際に、二度と帰らぬと決意をして渡った橋で、「二度と帰らぬ一度橋」と伝えられており、さらに数メートル行くと「見返り浅間」があり、木花咲耶姫が秀峰・富士山に赴くときにこの地に留まり、ここに腰をおろして室の八嶋の方に向かって感慨無量となり、暫く故郷の地を眺めて目に焼き付けたのち、先ほどの一度橋を渡って一路富士山へ向かって出発したところと伝承されているという(http://blog.goo.ne.jp/shuban258/e/fba5165c98057dd119284bd7c896ce8c)。この大神神社や高天ヶ原御釜神社の木花咲耶姫伝承は都賀町大柿の星の宮浅間神社ともともとは関係のある話しだったのかもしれない。大柿の星の宮浅間神社は浅間神社という名前が付くように富士山信仰とも関係があるわけである。方位線的にいうと、大柿の星の宮浅間神社と高天ヶ原御釜神社も西北45度線をつくる。大柿の星の宮浅間神社と東北30度線上に並ぶ大平山・高天ヶ原御釜神社・大神神社が方位線で結ばれているわけである。
都賀町大柿の星の宮浅間神社―高天ヶ原御釜神社(E0.132km、0.81度)の西北45度線
栃木市惣社の大神神社について、式内社大神社の論社でもあるが、同時に下野国の総社でもあるとすると、通常、総社は国司によって、国内の神々を合せ祀ったもので、式内ではないので、『明治神社誌料』にも、それを理由に、式内・大神社は太平山神社であるとしているが、総社であった社に、三輪神を勧請し、相殿に祀ったのか、あるいは、大神神社境内に、何らかの理由で、総社を祀ったものか、総社としての当社と、式内・大神社としての当社の関係は微妙であるという(http://www.genbu.net/data/simotuke/ookami_title.htm)。このことはいろいろな可能性を考えさせる。総社であった社に三輪神を勧請し相殿に祀ったのだとすると、豊城入彦命が大和三輪の大物主神を勧請したという伝承は成立しなくなる。また、大神神社境内に何らかの理由で総社を祀ったものとすれば、豊城入彦命が大和三輪の大物主神を勧請したという伝承は成立するが、この場合そのような伝承が生じたのは総社が祀られたことを契機にしたものかもしれないという可能性も出てくる。栃木市の大神神社がもともと出雲神族と関係する神社だったとするなら、その豊城入彦創建伝承は総社と関係する可能性が強まる。実際、下野の毛野氏が国府設置に関わったのではないかと考えられるのである。『ウィキペディア』によると、「下毛野古麻呂は下野国の国造家である下毛野君を出自とする貴族で、下野国河内郡を本拠地とした。天武天皇から持統天皇の時代にかけて藤原不比等らとともに大宝律令の選定に関わり、文武天皇の代に律令を完成させると参議に任ぜられ公卿に列した。その後、兵部卿・式部卿を歴任した。最終官位は正四位下式部卿大将軍。下野国河内郡に下野薬師寺を建立し氏寺としたと云われる。」とあり、律令制のもとで国府が置かれたとすれば、下野国府には当然下毛野古麻呂の影が大きく被っていたとみなすべきであろう。剣ヶ峰の藤原房前伝承もこの下野国府設置と無関係ではないかもしれない。というのも、藤原房前は藤原不比等の子供であり、宮野辺神社と剣ヶ峰が南北線をつくるのである。その南北線上には栃木市の大神神社、田村の星宮神社も位置するが、両社は高原山でも釈迦ケ岳の南北線の方が近いし、宮野辺神社もほぼ中間、剣ヶ峰のほうが少し近いという感じである。律令体制には当然それに抵抗する勢力もあったであろう。下野では,その勢力が剣ヶ峰に拠って反抗したということがあったのかもしれない。それを鎮圧したのが下毛野氏で、下毛野古麻呂と藤原氏の関係でそれが藤原房前の話しとなっていったのかもしれない。
剣ヶ峰―栃木市大神神社(W1.013km、1.04度)―田村の星宮神社(W0.853km、0.85度)―宮野辺神社(W0.727km、0.71度)の南北線
常陸国府近くの八郷町柿岡にある前方後方墳の丸山古墳は毛野氏の祖とされる豊城命の墳墓、その東にある古墳を孫の彦狭嶋王の墳墓と伝えられているということは、常陸国府近くの龍神山の佐志能神社が豊城入彦命を祭神とすることを含め、常陸国府の設置にも下毛野氏が関わったということなのかもしれない。染谷の佐志能神社の西北45度線上に常陸国庁・常陸総社があり、常陸総社は竜神山とも西北45度線をつくる。また、竜神山・村上の佐志能神社の西北30度線上に常陸国庁北の星の宮が在ると考えられる。
佐志能神社・染谷―石岡小学校・常陸国庁(E0.014km、0.20度)―常陸総社(W0.137km、1.90度)の西北45度線
龍神山163m―常陸総社(E0.113km、1.51度)の西北45度線
星の宮マンション・ハイツ星の宮付近―佐志能神社・村上(E0.096km、1.63度)―竜神山196m(E0.071km、1.06度)の西北30度線
豊城入彦創建伝承のある栃木市惣社の大神神社と常陸国府が西北30度線をつくっていたが、大神神社は総社として下野国府と密接な関係にあるのであるから、これは下野国府と常陸国府が強く結ばれ、また二つの国府に下毛野氏が関わっていたことを示す一つの例なのかもしれない。下野国府・常陸国府と豊城入彦を方位線で結び付けるものとしては、豊城入彦をやはり祭神とする笠間の佐志能神社もある。笠間の佐志能神社は常陸国府の真北に位置するのであり、笠間の佐志能神社と酒列磯前神社が東西線をつくり、宮野辺神社と友部の星宮神社、笠間の石井神社と田村の星の宮が東西線をつくっているとしたが、宮野辺神社は笠間の佐志能神社と東西線をつくるともみなせるのである。下野国府と常陸国府が豊城入彦を祭神とする笠間の佐志能神社を結節点として南北線と東西線で結ばれているわけである。大神神社と常陸国府の方位線は総社どうしの方位線とみることもできる。
笠間の佐志能神社―星の宮マンション・ハイツ星の宮付近(E0.425km、1.21度)―常陸国府国庁付近(E0.107km、0.29度)の南北線
笠間の佐志能神社―宮野辺神社(S0.285km、0.37度)の東西線
下野総社大神神社―常陸総社(E0.839km、0.95度)の西北30度線
一方、笠間の佐志能神社はやはり豊城入彦(豊城彦)を祭神とする宇都宮二荒山と西北30度線をつくる。これもまた常陸国府と下毛野氏との関係から説明できるかもしれないが、宇都宮二荒山神社と南北線をつくっていた関白神社は笠間の石井神社と西北45度線をつくるとしたが、より正確には笠間の佐志能神社と西北45度線をつくる。関白神社は石岡市染谷の佐志能神社とも西北60度線をつくる。もし、関白神社が古い大和朝廷と原住民の抗争に関わる神社であり、それが藤原利仁と結び付く伝承のもとになっているとしたら、律令制のもと常陸国府との関係で佐志能神社に豊城入彦(豊城彦)が祭られる以前に、すでに下毛野氏は常陸に進出しており、その関係で既に佐志能神社には豊城入彦(豊城彦)が祭られていたということもあるのかもしれない。筑波山の西北45度線上に日光男体山があり、鹿島神宮の西北45度線上に宇都宮二荒山神社があるということは、古くから常陸と下野には深い関係があったとも考えられるのである。風土記に筑波の県は昔は紀の国といっていたとあることから、日本書紀では崇神天皇と紀伊国の荒河戸畔の娘との間に豊城入彦命、古事記では木国造荒河刀辧の娘との間に豊木入日子命があることと関係しているのではないかとしたが、風土記の記述は古い下毛野氏の常陸進出を示しているのかもしれない。
関白神社―笠間の佐志能神社(E0.297km、0.35度)の西北45度線
関白神社―龍神山染谷の佐志能神社(E1.149km、1.06度)の西北60度線
森浩一編『日本の古代2』によれば、八郷町柿岡にある前方後方墳の丸山古墳は栃木県那須郡小川町吉田にある那須八幡塚古墳と墳丘の形や内部の構造まで一致しているということであった。小川町で前方後方墳を造った勢力と近い勢力が八郷町にもいたと考えられるわけである。八郷・笠間・桂村が一直線上に並び、桂村から那珂川を遡ると烏山町の星宮神社、小川町、さらに遡って支流の箒川に入ると将軍塚があるわけであるが、この前方後方墳勢力が星信仰あるいは香々背男信仰をもっていたのであろうか。小川町近くの湯津上村に那須国造碑があり、那須国造の勢力の中心地だったと考えられていることから、前方後方墳勢力を那須国造としたが、もしそうであるとすると那須国造も天孫族であり、星信仰を持っていたとは考えずらい。あるいは、那須国造は毛野氏と一緒になってそれら前方後方墳勢力を征服していったということなのかもしれない。
関白神社の西北45度線上に石井神社と友部の星宮神社それに笠間の佐志能神社があった。笠間の佐志能神社・石井神社・友部の星宮神社の関係であるが、笠間の佐志能神社からの距離をみると、石井神社と友部の星宮神社は約2.5kmのその差は3〜40mほどの等距離にあり、なおかつ、三つの神社は一直線上に並んでいるともみなせる。この三つの神社の間には密接な関係があるとも考えられ、あるいは、佐志能神社のある佐白山も香々背男と関係する山だったのかもしれない。龍神山の染谷佐志能神社と宿魂石が東北45度線をつくり、笠間の佐志能神社が静神社と東北45度線をつくっていたのであるから、その可能性もまったく否定できないのではないだろうか。笠間の佐志能神社・石井神社・友部の星宮神社は酒列磯前神社の東西線上に位置している。また、大洗磯前神社は石井神社と佐志能神社、石井神社と星宮神社を結ぶ線に挟まれた部分に位置する。これは、石井神社・佐志能神社・星宮神社が一直線状に並んでいるとするなら、その延長線上に大洗磯前神社があるとみなしてもいいということなのではないだろうか。そうすると、大洗磯前神社・酒列磯前神社と関係があった護摩壇石と方位線をつくる常陸国府の北の星の宮と笠間の佐志能神社もなんらかの物語性がもともとはあったということなのかもしれない。
石井神社(3.40度)―笠間の佐志能神社(0.296km)―友部の星宮神社(1.69度)の直線