加波山・太平山・寒川神社の日月星信仰
比叡山の三光天子信仰
北野天満宮・城南宮の三光紋
加波山・太平山・寒川神社の日月星信仰
加波山神社中宮の由緒に、天御中主神の他に日の神・月の神の神を祭ったとあることは、加波山は星信仰にさらに日月信仰が加わった、日・月・星を祭る山だったということも考えられる。さらにいえば、天御中主神にあたる神が星神だったということになり、日月星信仰のなかでも星を主神とする信仰だったとも考えられる。『消された星信仰』によると、シュメールの信仰は日月星の三位一体であった。日月星の三位一体の信仰は、その後太陽中心になったり、月神あるいは星神が中心になったりしていくが、三位一体の形態を残している部族も残存しており、古代アラビア系の部族では月神が最高神で、太陽神がその妻、金星がその子という日月星の信仰をもち、それは今も続いているという。星神が主神の日月星信仰もあったということである。『消された星信仰』では、星信仰は先住系の信仰で「日・月・星」の三位一体の信仰であったが、太陽信仰のみの大和朝廷によって弾圧され、月神は月読神として脇役に追いやられかすかにスサノオ伝承の中に残され、星神のほうは完全に否定して悪神に落とされてしまったという。そして、古代の星信仰を物部に結びつけている。その理由は、星信仰と結びつく神社が多い下総が、物部小事など物部氏と関係が深いこと、大和朝廷以前の先住系はホアカリに代表される物部にほかならないとすることによってであり、天御中主は『日本書紀』では一書にでてくるが、一書は先住系の伝承であり、天御中主は物部氏の神であるという。なお、『消された星信仰』では渡来技術者集団の物部と物部氏を区別しており、星信仰は渡来技術者集団の物部の信仰であるされる。物部が先住民で、日月星信仰をもっており、天御中主が物部の神であるとすると、加波山神社中宮の天御中主は星神で主神だったということになるわけである。
ただ、先住系の代表が物部であるということは疑問であろう。関東の物部については、藤原氏の常陸制圧戦で一応先住民物部は敗れたことになっているが、香取神宮や八日市場市の式内社老尾神社が残っていることは、妥協があったことを物語っているという。しかし、老尾神社は継体天皇の頃、物部小事が関東に乗り込んで作った匝瑳国の名残ともいわれるから、そうすると継体が殺されて反乱を起こした関東の出雲神族を鎮圧するために物部小事が派遣されてきたか、出雲神族が敗れてその力が弱まったところに入って来たということにもなる。
『消された星信仰』によると、栃木県の太平山神社のある大平山は三光山とも称し、天長十年(833)に慈覚大師円仁が開山して山頂に大平権現を祀り、神体山男体山(日光)の前山にしたという。大平山権現は三光天子であり、三光とは日、月、星を意味するといい、本地仏は虚空蔵菩薩であるが、日、月、星を仏教的に置き換えたものであるという。山上にはもう一寺星住山松樹円通寺があった。また、淳和天皇の下野国の霊峰三輪山に天下太平を祈る社を造営せよとの詔により、「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りするために太平山神社が造営され、もともと此地でお祀りされていた神は奥宮に鎮座されたともいう。すなわち、「三輪山之大神之社」は奥の宮の神として、「剣之宮」と共に鎮座なされ(禁足地)、日月星の「三光の社」は現在の処に太平山神社として御造営されたという。日蓮も日月星信仰と関係が深いようであるが、日蓮と関係する千光山金剛宝院清澄寺も、宝亀2年(771)不思議法師が虚空蔵菩薩を刻み開創、桓武天皇の勅願所で慈覚大師が承和3年(836)中興したと伝わる。
慈覚大師は師最澄が尊信していた三輪神社を祭る大平山に入山しようとしたといわれ、『太平山開山記』では慈覚大師円仁は何年にも渡り入山を拒否されていたが、淳和天皇の勅額を奉じて天長4年(827)入山に成功したと記されているという。日光の星信仰はそれより少し遡るようである。『消された星信仰』によれば、日光市上鉢石町にある磐裂神社は通称「星の宮」といわれ、日光を開山した勝道上人の伝説では、明星天子の教導によるもので、開山の後にその恩を謝して星宮を祀った所で、その創建は天平宝字元年(757)であるという。明星天子の本地は虚空蔵菩薩とされているが、それがさらに拡大されて太平山では虚空蔵菩薩は日月星の三光天子の本地仏とされているわけである。
もし、太平山においてもともとあったのが「三輪山之大神之社」と「剣之宮」で、太平山神社は慈覚大師円仁により創建され、その日月星三光信仰も慈覚大師によって持ち込まれたものだとすれば、もともとの「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は日月星信仰と関係がなかったということになる。ただ、太平山神社に香々背男が祀られているということは、「三輪山之大神之社」や「剣之宮」の信仰は星信仰とは結びついていたと考えられる。では、慈覚大師以前の太平山に日月星信仰はなかったのであろうか。「三輪山之大神之社」という社名から太平山と出雲神族の関係が窺われるが、『消された星信仰』によると、神奈川県の寒川神社の八方除のお札には、太陽を上にしたの日月星の神紋が刻印されており、寒川神社も日月星の三位一体の形態を残しているという。寒川神社の祭神はタテミナカタであるという伝承が諏訪の語り部にはあったようであり、寒川神社のある相模国の国造はやはり出雲神族とされる伊勢津彦の子孫であるから、寒川神社は出雲神族とも関係があると考えられる神社である。その寒川神社に日月星信仰があるということは、もともとの太平山にも日月星信仰があったかもしれないわけである。もっとも、『消された星信仰』では、両社とも比叡山の三光信仰の影響が後に入ってきたと考えているようである。ただ、太平山神社のほうは天台系の北回りの騎馬族、寒川神社は海回りの海人族という違いが感じられるという。
出雲神族が日月星信仰と結びつく可能性はあるのであろうか。吉田大洋氏のいうように、出雲神族の原郷がオリエント付近であるとすると、出雲神族には日月星信仰がある可能性も否定できない。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば、スーサから出土した紀元前1200期のカッシュ王朝のときに立てられたメリシクの碑には、第一段目に月神シン・星の女神イシュタル・太陽神シャマシュなどが描かれ、第二段には獅子頭をもつ有翼竜の上にあの世の神のネルガル、第三段に竜に乗ったマルドゥク神とナブ神、第五段に角の生えた竜神ニンギジッタが彫られているという。吉田大洋氏によればメソポタミアで牛族が主導権握ったのは古バビロニアあたりからで、マルドゥクが竜神とされるのは竜蛇族を征服したからで、このころから竜は神から神使に格下げされたというが、日月星神を最上段に置くメリシクの碑に龍が執拗に描かれているのは、もともと日月星神信仰が龍蛇族のものだったからかもしれない。吉田大洋氏によれば、シュメール人は竜神ニンギジッタを奉じる龍蛇族で、近江和雅氏によれば、オリエントの古い信仰は日月星信仰だったというのであるから、そういうことになるであろう。吉田大洋氏は、龍蛇族であるシュメール人の多くは竜神の神紋である亀甲紋や龍神信仰の流れからみて、インド・インドネシア、マレーシフの方に逃れたのではないかという。龍神信仰と太陽信仰の関係であるが、『竜神よ、我に来たれ!』によれば、龍神は太陽神あるいは太陽神の紳使とされ、エジプトの日神ホルスは蛇の船に乗り、有翼の太陽円盤にも二匹の蛇が絡み付いており、インドの太陽神スーリヤは頭に七頭の竜王を飾っているが、龍神=太陽神は龍神=月神より新しいという。エジプトを龍蛇族が支配していたのは古第一王朝から第五王朝までで、その後は太陽信仰の牛族や鳥族などと混血し、龍蛇は王権の象徴以外のなにものでもなくなり、第二十王朝ともなると悪の蛇が現れ、テーベのイン・ヘル・カウの墓には聖なる樹の下で、太陽神ラーの象徴であるヘリオポリス聖猫が暗黒・悪の象徴のアポピ蛇を殺す壁画が描かれているし、『死者の書』には「おお、アポピ蛇よ。汝、太陽神ラーの敵よ」と記されているという。天孫族はこの龍蛇を太陽神の敵とする勢力の中から出てきたということなのであろう。
中国においても、近江雅和『記紀解体』によれば、伏羲と女?は蛇身人首で下半身はともに蛇体となって互いに合っているが、上には太陽と星、下には月と星が描かれているという。上下に太陽と月があるということは、陰陽で伏羲と女?がそれぞれ太陽と月ということかもしれないが、それにそれぞれ星がついているということは、龍蛇神である伏羲と女?は日月星と結びついているということであろう。
寒川神社にも古くからの日月星信仰があったとすれば、太平山の日月星信仰は寒川神社の方から持ち込まれた可能性もある。太平山の南方10km程のところに小山市寒川があり、伊勢津彦の伝承がある八風山の東西線上に位置していた。寒川神社と栃木の寒川の関係性ははっきりしないが、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば、栃木県の寒川は龍神信仰の盛んな所といわれ、岩舟町の三鴨神社に建御名方命が祀られ、太平山が古くは三輪山といわれ三輪神社があることなどを考えると、太平山の日月星信仰は寒川神社近くの人々、それも出雲神族が持ち込んだ可能性もあるわけである。八風山と加波山も、より正確には加波山神社本宮里宮の方であるが、東西線を作っていた。小山市寒川は八風山と加波山の東西線上にあるといえる。八風山は藤岡町大和田の三毳神社とも東西線をつくっていた。
八風山―加波山三枝祇神社本宮里宮(N1.243km、0.51度)の東西線
小山市寒川・竜樹寺―加波山三枝祇神社本宮里宮(N0.847km、1.39度)―加波山(N1.750km、2.68度)の東西線
千葉市中央区寒川にも寒川神社があり、より正確には加波山本宮里宮とであるが、加波山と南北線をつくる。千葉市寒川の寒川神社は八風山とも西北30度線をつくる。
千葉市寒川神社―加波山三枝祇神社本宮里宮(W0.218km、0.16度)―加波山(E2.14km、1.57度)の南北線
八風山―千葉市寒川神社(E2.916km、1.05度)の西北30度線
加波山の西北45度線が息栖神社がもともと鎮座していた日川を通るとしたが、千葉市寒川の寒川神社とアラハバキ神とクナトノ大神とも結びつく地とも考えられる江ノ島が東北30度線をつくり、その方位線が日川を通る。二宮神社と千葉市の寒川神社はともに式内社寒川神社の論社であるが、神奈川県の寒川神社の西北45度線上に江ノ島があり、寒川神社・二宮神社・鹿島神宮が東北30度線をつくるのに対し、江ノ島・千葉市寒川の寒川神社・息栖神社が東北30度線をつくっていたと考えられるわけである。二宮神社と千葉市の寒川神社も西北60度線で結ばれている。また、小山市寒川は現在の息栖神社の西北30度線上に位置しているし、旧鎮座地の西北30度線上に位置していた可能性も高い。
江ノ島中津宮―千葉市寒川神社(E0.296km、0.25度)の東北30度線
二宮神社―千葉市寒川神社(W0.462km、2.00度)の西北60度線
小山市寒川・竜樹寺―息栖神社(E1.799km、1.11度)―日川西南隅
(E2.098km、1.23度)―日川東北隅(E3.478km、2.02度)の西北30度線
もっとも、千葉市寒川の寒川神社には日月星の三光信仰、あるいは星信仰の直接的痕跡は見られない。それに対し、二宮神社の神紋は『神社名鑑』には九曜紋と記されているが、亀甲に七曜紋であるといい(http://www.genbu.net/data/simofusa/ninomiya_title.htm)、七曜紋ということから星信仰と結びつく神社といえるかもしれない。また、亀甲紋ということから、出雲神族とも結びつくともいえる。二宮神社と二宮神社の姉君とされる姉崎神社が南北線を作っていたが、近江雅和『記紀解体』によれば、姉崎神社末社に新波々木社があり、アラハバキ社とする。また、船橋市には大神宮という神社があり、古くは音富比(オオヒ)神宮と呼ばれていたが、その社家は木更津市の富の家筋で、九十九代の系譜があるという。出雲神族の富氏と関係があるとみているようである。ただ、ウィキペディアなどを見ると、船橋大神宮の富氏は千葉氏系とされ、現在は千葉姓を名乗っているようである。しかし、九十九代の系譜があるとすれば、千葉氏よりはるかに遡る古い氏族ということになる。その富氏が千葉氏系とされ、現に千葉姓を名乗っているとすれば、千葉氏と出雲神族の特殊な関係を示しているのかもしれない。千葉市寒川の寒川神社と船橋大神宮が西北45度線をつくる。
千葉市寒川の寒川神社―船橋大神宮(W0.386km、1.38度)の西北45度線
大宮氷川神社と氷川女体神社が西北30度線をつくり、その延長線上に千葉県の二宮神社があった。大宮氷川神社と氷川女体神社も、大宮氷川神社が藤岡町大和田の三毳神社と、氷川女体神社が太平山と南北線をつくっていた。方位線的にみると、太平山と加波山の日月星信仰は寒川神社の日月星信仰と密接に結びついいるわけである。
千葉市の寒川神社の神紋はそのホームページを見ると、なんという名前なのかわからないが、正方形を二つ組み合わせた、八芒星とでもいうべきものを塗りつぶした紋で、亀甲紋ではない。出雲神族とも星信仰とも結びつかないが、二宮神社の亀甲の中に七曜が加わるのも千葉氏との関係を考えなければならない。千葉氏は三日月に星一つの月星紋であり、千葉神社では月星紋の外形の円が日を表すとして、それを日月星をあらわす三光紋としている。ただ、三日月に星一つは江戸時代中期になってからのもので、もともとの千葉氏の紋は三日月の周りに九曜を描いたものだったようである(http://www.harimaya.com/o_kamon1/hanasi/kamon_o.html)。月星紋であって、そこに太陽を見る事は出来ないであろう。
しかし、千葉氏にはまったく日月星信仰がなかったのかというと、そうでもないようである。平良文のお母さんが良文を身ごもった折に、夢の中に日、月、星の光が集まった中より妙見様が現れて、「月星を 手に取るからに この家の 久しきことは 恒河沙の数」という歌を子孫に伝え、家の紋にしなさいというお告げがあった、とい伝承があるらしい(http://www.mmjp.or.jp/tajimamori/sub11.htm)。妙見信仰の星信仰に月が入り込み、さらに日が入り込んだということも考えられるが、良文を身ごもった時の話は、千葉氏の妙見信仰を中心とした月星信仰と日月星信仰を結びつけるために生じてきた伝承とも考えられる。もし、後者なら日月星信仰はどこから来たのかが問題になるが、もしかしたら千葉氏の二宮神社や寒川神社の周辺に中に日月星信仰があり、千葉氏がその日月星信仰も取り込もうとしたということは考えられないだろうか。
千葉氏は桓武平氏であり、桓武平氏は桓武の子の葛原親王に始まるが、桓武天皇の母の高野新笠が出雲神族である大枝氏から出たのに対し、葛原親王の母は参議・多治比長野の娘である多治比真人真宗であり、宣化天皇の後裔ということでやはり出雲神族である。桓武の出としては出雲神族と特別つながりが強いともいえる。平安時代には母親の家柄が重要な意味を持っていたのであるから、そのような出自をもつ葛原親王の孫の高望王が上総介として下向してきた時、関東の出雲神族は高望王に好意をもったであろう。高望王を結集軸にするような動きもあったかもしれない。また、高望王の孫の平将門の頃には、まだ桓武平氏と多治比氏の間に強いつながりがあったことは、川尻秋生『平将門の乱』に、将門が上野で新皇に即位したときの叙目で、上野守に多治経明がなっており、また将門と敵対していた平良兼が将門の石井営所を急襲しようとして逆に将門によって逆襲された時、将門は上兵の多治良利をはじめ四〇人ほどを射殺したといい、同書では多治比真人真宗は多治真宗と記されていることから、それらの多治姓の者は多治比で、対立しあう両方の側に多治を名乗る者があることからもうかがえるのである。源基経が将門の謀反を訴えたとき、『将門記』に将門の私君である藤原忠平がその実否を問い合わせる御教書を中宮少進多治真人助真が所に寄せて下るとあり、川尻秋生氏はこの忠平の仰せを書き留めて送った助真を忠平の日記『貞信公記』に忠平の家司としてしばしば登場する多治助縄(すけただ)のことではないかとするが、忠平が多治助縄を使ったのも将門と多治比氏に強いつながりがあったからとも考えられるのではないだろうか。
多治経明は来栖院常羽御厩(茨城県結城郡八千代町尾崎)の別当で、将門の伴類で、伴類は従類より主人との関係は薄く、いったん戦況が不利になると蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまうというが、多治経明は将門の最後の戦いのときにも従軍しており、将門との関係は強固なものがあったといえる。これらの多治比氏は高望王が関東に下向するときに供をしてきた者の子孫かもしれないが、関東の出雲神族と桓武平氏をつなぐ接着剤のような役割を果たしたのではないだろうか。多治経明の叙目について、梶原正昭・矢代和夫『将門傳説』では、「腹心の中での実力者の興世王と藤原玄茂の両人だけが、二等官である介に任ぜられているのは、これらの国がいわゆる“親王任国”で、次官たる介が事実上の長官の権限をもっていたからとも思われるが、その点では上野の場合も同様な筈で、その辺にも不審がのこる。」としているが、これは多治経明が親王の扱いを受けたということを意味しているとも考えられる。もしそうなら、将門の独立国家は継体朝の再興という意味合いも持っていたのかもしれない。
関東の出雲神族と将門の結びつきは、将門の首塚が出雲神族の神を祀る神田明神の旧地にあることからも、将門が朝廷に反乱を起こしたとき、関東の出雲神族が将門を支援したことは十分考えられるであろう。多治経明の将門の新皇即位に際して菅原道真の怨霊が出てくるのも、関東の出雲神族を意識した演出だったとも考えられる。菅原道真と将門の関係でいうと、道真の子の景行と兼茂が常陸介となっている。川尻秋生氏によると、このうちの兼茂は承平年間(931〜38)の後半、将門が平氏一族や源護と戦っていた頃に常陸介であったのではないかという。また、菅原兼茂と藤原玄茂は同時期の国司であった可能性も十分考えられ、従来、将門の即位場面に菅原道真の霊魂が出現する理由は不明といわれてきたが、菅原兼茂と藤原玄茂という、まったく注目されてこなかった人物を通して、説明することが可能になったとする。ただ、将門と関東の出雲神族との関係を考慮にいれると、多治経明あたりの考えなのかもしれない。菅原兼茂と多治経明の間には、同じ出雲神族ということで、菅原兼茂と藤原玄茂のように単に職場での付き合い以上に深いところで通じ合っていたのではないだろうか。京都において多治比文子が道真を祀ったのも、関東における将門と道真の怨霊との関係に多治比氏が深く関わっていたことから生じた可能性もある。
梶原正昭・矢代和夫『将門傳説』によれば、道真の三男といわれる景行が、道真の遺骨を延長四年(927)に真壁郡紫尾大字羽鳥(現・桜川市)の天神塚(天神塚古墳)に葬ったといい、さらに延長七年(930)古くは菅原村といわれた現常総市大生郷に移し社殿を造営したのが日本三大天満宮の一つといわれる大生郷天満宮であるという。境内の鳥居のそばに一対の石碑があり、これはもと鳥居所という畠の中にあり、「鳥居戸の石」とも「刀磨ぎ石」ともいわれていたが、それには「常陸羽鳥菅原神社之移 菅原三郎景行兼茂景茂等相共移」とあり、また、天神塚の南三丁ほどのところにある歌女(うたつめ)神社の境内には天神塚から移されたと思われる板碑が残されており、「為右菩提供養也 菅景行源護平良兼等共也」とあり、この頃景行と源護平良兼等には親交があったことが知られ、羽鳥から大生郷に移した理由は不明であるが、大生郷は将門の勢力圏にきわめて近く、良兼の根拠地である羽鳥を故意に棄てて移ったのであるとすれば、あるいはこの間に景行が良兼から離れ、将門に接近するようになったのかもしれないという。
大生郷天満宮と将門の胴体を埋葬したという延命院が東北45度線をつくる。また、将門終焉の地で、天禄三年(972)霊夢を得た将門の三女である如蔵尼が、急いで奥州から下総に帰郷し、父の最期の地に庵を建て、傍の林の中の怪木で父の霊像を刻んで祠を建てたのが神社の創建という国王神社と東西線をつくる。延命院は天神塚とも東北60度線をつくる。
大生郷天満宮―延命院(E0.062km、0.78度)の東北45度線
大生郷天満宮―国王神社(N0.159km、1.59度)の東西線
天神塚古墳付近―延命院(W0.301km、0.56度)の東北60度線
菅原景行が天神塚に道真の遺骨を埋葬し、それを大生郷天満宮に移したという伝承には疑問も残る。川尻秋生氏によれば、景行は時期は不明であるが実際常陸介であったことが確認でき、『日本紀略』延喜九年(909)七月十一日条に下総国で起こった争乱の責任を取ったこともみえるといい、また、道真の孫の菅原在躬が『新国史』の編集材料として国史所に提出した、道真の伝記の内でもっとも信頼性の高い『北野天神御伝并御託宣等』には景行・兼茂・淑茂が「皆踵を継ぎて早世す」とあるといい、そうすると、延長七年まで景行が生きていたとすると、五十は越えていたと考えられ、早世したとはいえないであろう。ただ、常陸介の後常陸にそのままとどまっていた可能性はある。兼茂についても早世したとするのであるが、それについて川尻秋生氏は延喜元年(901)に父の道真とともに左遷された時の年齢を仮に二十歳としても、天慶元年には六十近くになっていたはずであるから、景行はともかく兼茂は早世したとはいえないし、あるいは兼茂は将門の乱に関係したと考えられたため、ことさら菅原一族から排除されたのかもしれないという。もしそうなら、景行についても同じようなことがいえるのかもしれない。もっとも、大生郷天満宮の石碑では景行・兼茂・景茂が大生郷天満宮の地に移したということなのであるが、兼茂が常陸介だったのは承平年間の後半だったとすれば、延長七年ごろ常陸に居たのかという問題もある。延長五年頃は大和守だったらしい。川尻秋生『平将門の乱』によれば、『扶桑略記』延長五年十月是月条に『重明親王記』からの引用として、ある人がいうには「故太宰帥菅原道真の霊が、夜、旧宅を訪れ、息子の大和守菅原兼茂に雑事を語っていうには、『朝廷に大事件が起こるだろう。そのことは大和国から起こるだろう。お前は慎んでその事を行わねばならない』と。その他のことについてもとても多くを語ったということである。ただし、他の人はこの話を聞くことができなかった。兼茂はこのことを秘密にして他人に話さなかった」とあるという。兼茂は霊媒体質の人だったようである。また、大和に大事件が起こるといったというが、兼茂は秘密にしていたというのであるから、大和というのもわざと違う場所を言ったのかもしれないし、兼茂が道真の霊によって知らされた朝廷の大事件とは将門のことだったかもしれない。また、「お前は慎んでその事を行わねばならない」とは何をしなければならないということだったのだろうか。もし兼茂が天神塚に道真の遺骨を埋葬した後に道真の霊の言葉を聞いたとするなら、延長七年に大生郷天満宮に移したのは、この時の道真のお告げに従ったのかもしれない。その大生郷天満宮あるいは天神塚の方位線上に将門の胴が埋められた延命院があることを考えると、道真の霊は子供たちが直接将門の乱に加わることを命じたというよりは、将門の敗北も告げた上でなすべきことを命じたのかもしれない。
出雲神族としての菅原道真という視点からみると、大生郷天満宮は大宮氷川神社と酒列磯前神社の東北30度線上に位置し、大宮氷川神社と岩瀬町の鴨大神御子神主玉神社が東北45度線をつくっていたが、鴨大神御子神主玉神社とも東北60度線をつくるのである。鴨大神御子神主玉神社は鹿島神宮の西北45度線上に位置していた。そして、鹿島神宮・香取神宮・氷川女体神社・氷川神社・鴨大神御子神主玉神社は筑波山を取り囲む出雲神族の方位線の環をつくっていたのであるから、道真の遺骨がその環に結び付けられたともいえる。あるいは、寒川神社と酒列磯前神社の東北45度線上に将門の首塚があることを考えると、大生郷天満宮が酒列磯前神社の東北30度線上にあることが重要だったのかもしれない。また、大生郷天満宮は岩舟町下津原の三鴨神社と西北45度線をつくるが、大宮氷川神社と南北線をつくる三毳山頂の三毳神社とも方向線をつくるといえる。大宮氷川神社と三鴨神社も南北線をつくっている。大宮氷川神社の南北線上に三毳神社・三鴨神社あるいは三毳山があるともいえるわけである。天神塚は下野国総社の大神神社と西北30度線をつくる。
大宮氷川神社(W0.681km、1.16度)―大生郷天満宮―酒列磯前神社(W0.900km、0.73度)の東北30度線
大生郷天満宮―鴨大神御子神主玉神社(E0.019km、0.03度)の東北60度線
寒川神社(W0.073km、0.09度)―将門の首塚―酒列磯前神社(E0.325km、0.17度)の東北45度線
大生郷天満宮―三毳山頂の三毳神社(W1.727km、2.45度)―三鴨神社(E0.716km、1.00度)の西北45度線
大宮氷川神社―三鴨神社(E1.005km、1.28度)の南北線
天神塚付近―栃木市・大神神社(W0.279km、0.50度)の西北30度線
千葉氏の祖である平良文は反将門側にいたようであるが、川尻秋生はその子の忠頼・忠光と貞盛の弟繁盛とが「彼の旧敵」の関係にあり、またその孫の平忠経は繁盛の孫の維幹のことを「先祖ノ敵」と述べていることからすれば、貞盛流平氏と良文流平氏は敵対関係にあり、貞盛流平氏と敵対関係にあった将門をより身近に感じたのではないかとする。忠経は房総三国で反乱を起こし、その子孫が千葉氏なわけであるが、妙見菩薩が将門の家から良文の家に移ったという千葉氏の妙見信仰伝承からも千葉氏が将門に対し、強い親近感を懐いていたことは確かであるとする。桓武平氏に好意を持っていた関東の出雲神族は、その感情を将門が滅亡した後には、良文流平氏に集中していったことも考えられる。それにともない、千葉氏自身ももともと持っていた桓武平氏の出雲神族的要素をより強めていったのではないだろうか。そうすると、千葉氏の妙見信仰は将門と結び付けられているが、下総周辺の出雲神族が持っていた星信仰を千葉氏的に取り入れたものということも考えられるわけである。また、下総周辺の出雲神族の星信仰が日月星信仰でもあったとすると、それも取り入れたということではないだろうか。
天台宗においては『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」とあり、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社神は三光天子の垂迹と説いて、天台教義の中で三光天子は山王信仰と結びついているという。
(http://www.d1.dion.ne.jp/~janis/kenkyu1.html)。大宮は西本宮で大己貴神、二宮は東本宮で大山咋神、聖真子は宇佐宮で田心姫神を祭神としている。日吉大社の大宮は三輪山から大己貴神を勧請したものであり、太平山も元は三輪山であり大物主神を祀っていた。このことを考えると、もともと天台宗の三光天子は三輪山と大己貴神・大物主神と結びついていたとも考えられ、慈覚大師円仁は同じく三輪山・大物主神信仰があった太平山に三光天子信仰を持ち込んだということも考えられる。
もっとも、慈覚大師円仁が太平山に日月星信仰と三光天子信仰を持ち込んだとするには、一つ問題がある。日吉三聖の一つである聖真子、すなわち宇佐宮が建立されたのは、仁和年間(885-889)宇佐八幡宮より田心姫神が勧請されたことによるというのである。そうすると三光天子と結びついた日吉三聖が成立したのは、慈覚大師円仁が大平山に大平権現を祀った天長年間より50年ほど後ということになる。考えられる一つは、太平山に三光天子信仰を持ち込んだのは、慈覚大師円仁ではなく、それより後の出来事だったということである。もう一つの可能性は、それ以前から日月星信仰と結びついた三光天子信仰が比叡山にあったかもしれないということである。
天台宗で宇佐宮創建以前に三光天子信仰があったとすれば、それはどこから来たのであろうか。榎本出雲・近江雅和『消された星信仰』によると、天台山のある中国杭州湾は、かつては中国有数の月神信仰の地であり、おそらくインド経由の南回の月神系であろうとする。杭州湾の月信仰が龍神信仰であったとすれば、それは日月星信仰であった可能性もある。杭州湾の月信仰が月を中心とした日月星の三位一体の信仰形態であり、また天台山がその信仰と強く結びつく場所であったとすれば、最澄が天台山から日月星信仰を比叡山にもたらし、さらに三光天子信仰と結びついたということも考えられるわけである。
別の可能性としては、比叡山・日吉大社周辺にはもともと日月星信仰があったということである。琵琶湖北部の高島市マキノ町にある唐崎神社には、古来より日月星の三光紋が伝わっており、そのため三光神社とも称されることもあったという。日吉大社の摂社に大津市の唐崎神社があるが、高島市マキノ町の唐崎神社は社伝によると、かつての社名は、大川神社で、文徳天皇仁壽元年より「辛埼」とも称し、享保の頃より唐埼神社と号するようになったという。マキノ町には漢字にすることのできないアイヌ語の地名も、まだ多く残っているといい、唐崎神社の創建は不詳であるが、周囲に集落のできるはるか以前のことで、天智天皇の御代には既に鎮座していたと伝えられ、境内社として、大川神社(御祭神大宮女神)が残っているので、大川神社と唐崎神社は別の社だったのではないかともされる。
(http://plaza.rakuten.co.jp/beautifulgoddess/diary/200805110000/)
若狭に接するマキノ町を抜けて敦賀を通り、越前に行くと、日月星の三光紋を神紋とする足羽神社・船津神社がある。両社とも継体天皇と深く関係する神社である。足羽神社は代継体天皇と大宮地之霊又は坐摩神(生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、
波比岐神)を祭神とし、御母の里高向(現・丸岡町南部)で育った継体天皇は、越前の国は、沼地で人の住むにも限られた土地しかない国だったので、足羽山に土地を卜して御社殿を建て、大宮地之霊を祀って神前に誓い、沼地を干拓し、諸産業興隆の道を教えられたので、昔より越前開闢の御祖神と称え崇め尊ばれてきたという。皇位を継承し、都へ行くときに、「末永く此の国の守神に成ろう」と、自ら御生霊の此の宮に鎮め、御子馬来田皇女を斎主とし、皇女は阿須波の神名により足羽宮とし、福井、足羽郡、足羽川等の地名はその御神名に由来しているされる。
舟津神社は大彦命を祭神とし、相殿に式内社大山御板神社(おおやまみたのじんじゃ)・猿田彦命、孝元天皇、素佐鳴雄命を祭る。四道将軍の一人大彦命は崇神天皇十年北陸道に遣わされ、その際逢山(王山)の峰に楯三枚を以て社形を成し、猿田彦命を、成務天皇四年に市入姫が勅をうけ大彦命を舟津郷に奉斎したのが創りと伝え、前者が大山御板神社(上宮)、後者が舟津神社(下宮)である。社伝によると、崇神天皇の御代、勅によって北陸道へ遣わされた大彦命は、淡海から角鹿の津に赴き、八田という所に着いて舟場より乗船して東進し、途中「塩垂の長」という長老の教えを受け安伊奴彦の先導により、深江という所に到った。舟を付けたので舟津といい、その地の山に登ると先に消え去った長老に再び合ったので「逢山(王山)という。この長老こそ猿田彦命であり、継体天皇元年に両社の神殿が再建されたという。参道入口にある、幟の基礎部分に神紋が刻まれており、左側は三巴紋、右側は日月星の三光紋で、それぞれが舟津神社と大山御板神社の神紋かもしれないといい、また、賽銭箱には金色の巴紋が付けられているという。本殿前の参道から左に小道が延びており、本殿左奥に境内社・八幡神社が鎮座し八幡神社の横には、樹齢五〇〇年の大杉が聳えているが、その大杉の根元に小さな石祠があり、石祠にも三光紋が彫られているが、石祠の三光紋の中の月の向きと、参道入口にあった三光紋の中の月の向きが違っており、石祠の月が足羽神社の神紋と同じであるという。『福井県神社誌』には境内社として八幡神社の他に金山彦神社、金毘羅神社、疱瘡神社、熊谷稲荷神社、日吉神社、熊野神社、土輪神社、白山神社、稲荷神社、大日?神社、大洗磯崎神社の社名が記されているが大杉の根本に並んでいる石祠のことかもしれいなという。(http://www.genbu.net/data/etizen/funatu_title.htm)
足羽神社は継体天皇が創祀し、大彦命が大山御板神社を市入姫が船津神社を創建しそれを継体天皇が再建したということであるが、大山御板神社の猿田彦命はクナトノ大神から替えられたとも考えられ、もともとは出雲神族と関係があったことも考えられる。日月星の三光紋は大山御板神社の神紋かもしれないという指摘もあり、越前においても日月星の三光紋は出雲神族と結びつくの可能性があるわけである。大彦命が安伊奴彦に先導されたという社伝は、安伊奴彦はアイヌ彦であろうから、後世の伝承であろうが、高島市マキノ町の唐崎神社と同じように船津神社周辺にはアイヌと結びつくような要素が残っていたということも考えられるが、出雲神族の北から来たという伝承が残っていてアイヌに結び付けられたということも考えられるのではないだろうか。
石動山も猿田彦命を祭り、もともとはクナトノ大神ではなかったかとしたが、石動山の東北60度線が王山の東を通り、距離的には少し離れ気味ではあるが、猿田彦命を祭る石動山と王山が東北60度線をつくるといえる。継体と越前と出雲神族との関係では、近江雅和『記紀解体』によれば、大宮氷川神社宮司山田勝利氏の教示として、武蔵以外で氷川神社を祀るのは千葉県に一社、茨城県に二社、栃木県に二社、北海道に一社の六社であるが、福井県には十九社が集中しており、富氏の伝承にいうように継体が出雲系であることを裏付けるようであるとする。王山と大宮氷川神社が東西線をつくる。
石動山―王山62m標高点(W3.879km、1.63度)の東北60度線
王山62m標高点―大宮氷川神社(S2.490km、0.45度)の東西線
石動山の東北60度線上に丹波の出雲大神宮が在ったが、王山と出雲大神宮も東北60度線をつくる。石動山・王山・出雲大神宮が方位線上に並んでいるわけである。石動山は大江山と東北45度線をつくっていたが、王山の東北30度線上に大江山・日置山がある。出雲大神宮・大江山・日室山は兜山の熊野神社の西北45度線上に並んでいた。石動山は丹後籠神社摂社の真名井神社とも距離は少し離れるが東北45度線をつくるともいえる。そして、足羽神社は真名井神社・冠島・沓島と東北30度線をつくる。真名井神社は大江山と東北60度線、出雲大神宮と西北60度線をつくっていたのであるから、石動山と丹波・丹後の出雲神族関係それに越前の足羽神社・舟津神社は方位線的に密接に関係しているわけである。弥仙山は出雲の熊野大社と相模の寒川神社の東西線上に位置しているとしたが、弥仙山と足羽神社が東北45度線をつくる。
王山62m標高点―出雲大神宮(E1.432km、0.73度)の東北60度線
王山62m標高点―大江山(W1.975km、1.01度)―日室山(E1.669km、0.86度)の東北30度線
石動山―真名井神社(W4.015km、1.03度)の東北45度線
足羽神社―沓島(W1.374km、0.98度)―冠島(E0.977km、0.67度)―真名井神社(W0.137km、0.07度)の東北30度線
足羽神社―弥仙山(W0.574km、0.31度)の東北45度線
籠神社の絵馬に日月を描いたものがあるという(http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/rokubousei3.htm)。絵馬を見ると、右側に三日月と日が六芒星の中に描かれ、その下に十種神宝・生命御守護と書かれており、右側には三つ巴紋の下に丹後国一の宮・元伊勢籠神社と書かれ、真ん中には船に乗った天照国照彦火明命(饒速日尊)と市杵島姫命が描かれている。六芒星が日本の古代において星として意識されていたのかどうか分からないが、もしそうならそれは日月星を表し、籠神社には日月星信仰があるとも考えられるわけである。ただそれが出雲神族によるものか、彦火明命系の海部氏によるのかは分からない。十種神宝の字の上にあるということは六芒星と日月は彦火明命系と関係するとも考えられるが、真名井神社の石碑の神紋はかつては六芒星が刻まれ、現在は三つ巴紋が刻まれているが、どちらも真名井神社の神紋ともいえ、そうすると出雲神族に由来するとも考えられる。
大和岩雄氏は下鴨神社の祭神について、大山咋とする説があることをあげ、それに同意していた。日吉大社の東本宮系には氏神神社に鴨建角身命、樹下神社に鴨玉依姫神、樹下若宮に鴨玉依彦神、産屋神社に鴨別雷神などカモの神が祀られており、鴨別雷神にとって鴨玉依姫神は母、鴨玉依彦神は伯父、鴨建角身命は祖父、東本宮の大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦で、4月の山王祭では、午の神事(12日)に、八王子山から二基(大山咋神荒魂、鴨玉依姫命)の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置され、婚儀、「尻つなぎの神事」の後、翌13日の神輿入れ神事では、御生れ祭りにより若宮(別雷神)が生まれる「宵宮落とし」が行われるという(http://everkyoto.web.fc2.com/report478.html)。
日吉大社にはもともと大山咋神・鴨玉依姫神を父母とし、鴨別雷神を子とする信仰があったわけである。さらに、『古事記』では、大山咋神は、近淡海国の日枝山と葛野の松尾に坐す神とされており、『日吉社禰宜口伝抄』に天智七年三月三日、鴨賀島八世孫宇志麻呂が大和国三輪の大己貴神を比叡の山口において祭るとあり、同年同日、『秦氏本系帳』に宗像の神が松尾山に天降ったとされているのであるから、宇佐神宮あるいは宗像神社の三女神と日吉大社の大宮は密接な関係があるといえ、もともとは大山咋神・鴨玉依姫神・鴨別雷神は大山咋神・市杵島姫神・鴨別雷神あるいは大山咋神・市杵島姫神・大己貴神であった可能性もある。そうすると、宇佐神宮から宇佐宮が勧請され、大宮・二宮・宇佐宮が日吉三聖とされたのも当然ともいえるわけである。
さらにいえば、平安京のところで大山咋神=火雷神=クナトノ大神、市杵島姫=弁財天=アラハバキ神で出雲神族の伝承ではクナトノ大神とアラハバキ神は夫婦であり、別雷神=アジスキタカヒコネとした。日吉三聖は西本宮はアジスキタカヒコネではなく大己貴神であるが、どちらにしても祖神であるクナトノ大神とアラハバキ神の子孫ということであり、簡略化すれば両神の子供ということになり、日吉大社の日吉三聖・三光天子信仰はクナトノ大神・アラハバキ神・アジスキタカヒコネ神と結びつく信仰だったとも考えられる。出雲神族の日月星信仰を大山咋神・鴨玉依姫神・鴨別雷神の三神信仰に変えて、鴨賀島八世孫宇志麻呂が日吉大社に持ち込んだのかもしれない。
比叡山から大平山に日月星の三光信仰が持ち込まれたのではなく、逆に慈覚大師によって太平山の日月星信仰が比叡山に持ち込まれ、それが三光天子信仰として発展していった可能性も考えなければならないであろう。日吉大社には琴御館宇志丸伝承というものがあるらしい。飛鳥時代の日吉社社家始祖とされる琴御館(ことのみたち)宇志丸(宇志麿)は、常陸国の国師だったといわれ、異説では鴨賀島八世の孫、上賀茂の祝であったともいう。琴御館とは家に伝来の琴があったことによるといい、舒明天皇の時、常州より三津浜(唐崎)に移り、庭に松(唐崎の松)を植えたという。また、常陸を追われて唐崎に着いたともいう。662年大比叡大明神(大己貴神)が松に影向し、宇志丸の導きにより西本宮に鎮座したという。また、宇志丸は、二宮、聖真子、八王子も建立したといい、宇志丸妻の女別当(わけまさひめ)は後に唐崎神社の祭神になったという。(http://everkyoto.web.fc2.com/report478.html)この伝承からも、日吉三聖と鴨神社の関係がうかがわれると同時に、琴御館宇志丸と常陸の関係が強調されているということは、日吉大社の日月星信仰が常陸から持ち込まれた可能性もうかがわれるのである。この場合、大平山から加波山にかけて、香々背男信仰と重なるように日月星信仰圏があったとも考えられる。慈覚大師は下野の国の生まれで、その出身地は壬生町と岩舟町がそれぞれ出生地としている。壬生町の大師町の壬生寺には産湯の井戸があり、岩舟町の三毳山の周辺には慈覚大師の父が駅長を務めたとされる東山道三鴨駅があり、三毳山の麓にも産湯の井戸がある。慈覚大師が九歳で出家した大慈寺も岩舟町小野寺にある。どちらにしても、慈覚大師は加波山から太平山・三毳山にかけての地域に生まれ育ったといえるわけである。
慈覚大師が大平山から比叡山に日月星三光信仰を持ち込んだとすると、比叡山の三光天子信仰が大山咋神・田心姫神・大己貴神と結びついているのに対して、大平山では、もともとは大物主神と天目一大神の二神を祀っていて、三神を祀っていたわけではないことが問題になる。あるいは、慈覚大師円仁が太平山を開山する五十年ほど前の天応二弐年(延暦元年782)に男体山に初登頂した勝道上人は、それに先立って大谷川のほとりに四本竜寺の起源となる草庵を結び、その傍らに本宮の起源とされる大己貴命・田心姫神・味耜高彦根命の三神を祀ったということは、加波山から大平山にかけて日月星信仰圏があったとすれば、勝道上人はそのすぐ近くの薬師寺で修行し、またその周辺で生まれたといわれるから、太平山周辺にも大己貴命・田心姫神・味耜高彦根命の三神を祀る信仰があった可能性もある。もっとも、勝道上人は磐裂神社を建てたが、それは明星天子の導きで日光開山をなしとげたことから、明星天子を祀る星宮を建てたといわれており、仏教的なものである。ただ、下野の虚空蔵堂が古くからの星信仰に起源を持つものだったとすれば、勝道上人と明星天子の結びつきにも、古くからの星信仰が関係していたということはありえるかもしれない。
方位線的には、高藤晴俊『日光東照宮の謎』によれば、中世期に成立した『補陀洛山建立修行日記』に天平神護二年(766)大谷川を渡り山内に足を踏み入れた勝導は、化神から「此の北嶺を四神峰と号す。東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武の住まう所なり」との教示を受けたと記され、四神峰こそ恒例山であるというが、恒例山は加波山の西北45度線上に位置している。また、八風山と加波山が東西線を作っていたが、恒例山は八風山とも東北30度線をつくる。もっとも加波山との方位線は、加波山の西北45度線上に息栖神社旧鎮座地があることを考えると、香取神宮・筑波山・男体山あるいはその奥社といわれた白根山の西北45度線、鹿島神宮・難台山あるいは吾国山・宇都宮二荒山神社の西北45度線に対する、息栖神社・加波山・恒例山あるいは日光二荒山神社の西北45度線ということなのかもしれない。
八風山―恒例山(W1.705km、0.92度)の東北30度線
加波山―日光東照宮(E1.655km、1.32度)―恒例山(E1.775km、1.41度)の西北45度線
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北野天満宮・城南宮の三光紋
北野天満宮に昔から伝わる七不思議のなかに、星欠けの三光門がある。御本殿前の中門は、日・月・星の彫刻があるために三光門と呼ばれるが、一説にこの彫刻は、日と月と三日月はあるが星はないといわれ、これは旧大極殿が天満宮の南方位に位置し、帝が当宮を遥拝される際に、この三光門の真上に北極星が瞬いていたので星は刻まれていないのだと伝えられているという。このように北野天満宮の三光門には星は欠けているとされるのであるが、北野天満宮の神紋は星梅鉢であり、図柄からいえば六曜紋で、その意味では菅原道真は日月より星に結びつけられているといえる。『将門傳説』に道真の遺骨が葬られた天神塚は現地では日月塚ともよんでいるらしいともある。ここでも星は出てこないが、天神塚は香々背男と結びつく宿魂石・東海村石神外宿中堂の石神社・吾国山の東北30度線の延長線上にあり、日月塚と呼ばれているが星信仰がちらつき、その背後には日月星信仰があるのかもしれない。天神塚と星信仰との関係では、岩井市猫実の香取星神社と東北60度線をつくり、こちらのほうが延命院より正確な方位線となっている。香取星神社は大生郷天満宮と延命院の東北45度線上にも位置しており、両所と方位線をつくる。また、天神塚と大生郷天満宮はそれぞれ加波山神社本宮里宮の東北45度線、東北60度線上に位置している。あるいは、天神塚の方は星信仰とのみ方位線的に関係するが、延命院とは方位線的には関係しないのかもしれない。それに対して、大生郷天満宮は星信仰と将門と方位線を作るように菅原兼茂によって移されたのかもしれない。
天神塚古墳付近―吾国山(W0.368km、1.75度)―石神社(W0.326km、0.37度)―宿魂石付近(W0.466km、0.46度)の東北30度線
天神塚古墳付近―岩井市猫実・香取星神社(E0.097km、0.19度)の東北60度線
大生郷天満宮 (W0.055km、1.06度)―岩井市猫実・香取星神社―延命院(E0.007km、度0.26)の東北45度線
加波山三枝祇神社本宮里宮―天神塚古墳付近(E0.110km、1.64度)の東北45度線
加波山三枝祇神社本宮里宮―大生郷天満宮(W0.077km、0.15度)の東北60度線
梅原猛『京都発見一 地霊鎮魂』によれば、道真を火雷神とする『北野天神縁起絵巻』は、その独得な文体においても記事内容においても『愚管抄』と甚だよく似ていることから、両書とも慈円ではないかというのが美術史家の源豊宗氏の説であるが、私も同感であり、その『愚管抄』に「天神ハ疑ヒナキ観音ノ化現ニテ」とあるという。観音が菅原道真であるとするなら、道真と同じ土師氏が祀った浅草観音も道真ともいえ、道真と浅草観音との結びつきが出てくる。道真を祀った天神塚古墳・大生郷天満宮の方位線上に将門の胴を埋めたという延命院があり、観音の化現である道真と観音で結びつく浅草観音の東北45度線上に将門の首塚があるということになるわけである。そして、大宮氷川神社・大生郷天満宮・酒列磯前神社の東北30度線上に延命院の胴塚があるのに対して、寒川神社・浅草寺・酒列磯前神社が東北45度線をつくり、その方位線上に将門の首塚があることになるのである。
酒列磯前神社―浅草寺(W0.314km、0.17度)―将門首塚 (W0.325km、0.17度)の東北45度線
そもそも、なぜ北野天満宮に日月星の三光門があるのであろうか。出雲神族に日月星信仰があったとすれば、出雲神族の伝承では道真自身出雲神族なのであるから、北野天満宮に日月星の三光門があっても不思議ではないともいえる。あるいいは、同じ出雲神族の北野天満宮創建にかかわった多治比文子や比良宮の神良種(みわのよしたね)が北野天満宮に持ち込んだのかもしれない。もっとも、多治比文子の場合、多治比には彦火明命系と出雲神族の宣化天皇系があり、文子が彦火明命系とすると、同じく彦火明命系の海部氏の籠神社には日月信仰があった。ただ、籠神社の日月信仰はもっと詳しく調べなければ、それが日月信仰なのか日月星信仰なのか、海部氏のものか出雲神族系のものなのかは分からないともいえる。多治比文子については、将門関係に多治比氏が多くみられ、将門自身もその祖である葛原親王が桓武と宣化天皇の後裔である多治比真人真宗を母としているのなど出雲神族と結びつきがあり、親皇になるにあたって道真の霊が深く関与していることなどを考えると、文子自身も多治比真人真宗と同族の出雲神族であったするのが妥当であろう。
比叡山・日吉大社に三光天子信仰があるのであるから、比叡山・日吉大社の三光天子信仰が北野天満宮に持ち込まれたということも考えられる。藤原忠平親子は北野天満宮の整備に力を入れたといわれ、もし、北野天満宮が比叡山の三光天子信仰と関係があるとすれば、忠平と深い関係にあり、八瀬天満宮の創祀にもかかわったといわれ、また水火天満宮とも関係の深い十三代天台座主法性坊尊意が日月星三光紋を北野天満宮に持ってきたことが考えられる。もっとも、法性坊尊意は北野天満宮が創建される以前の940年に死んでいる。しかし、法性坊尊意が生前道真の怨霊封じにかかわっていたとすれば、藤原忠平は北野天満宮かかかわる際、法性坊尊意の何らかの意向を実現した可能性はある。忠平は平将門の私君であり、将門の乱の時には、直接将門とも関っていた。将門が新皇に即位したとき、道真の霊が深く関係したこともよく知っていたであろう。将門とのやり取りに多治助縄を使っていることなどを見ると、多治比文子が道真を祀った天慶五年(942)は将門の乱の数年後であり、多治比文子や神良種・最鎮(珍)背後には忠平がいたのかもしれない。
北野天満宮の三光門は比叡山の三光天子信仰を持ち込んだものであり、それには法性坊尊意尊意の意向が働いていたとして、尊意は比叡山の中でも何故三光天子信仰を北野天満宮に持ち込もうとしたのであろうか。比叡山・日吉大社の三光天子信仰は下上賀茂神社と関係する信仰であったことが考えられ、道真と下上賀茂神社の関係が強く意識されていたのかもしれない。さらにその背景には道真と出雲神族の関係、出雲神族と日月星信仰の関係があったのかもしれない。方位線的には、生前の道真と関係の深い天満宮や重要な天満宮が下鴨神社あるいは上賀茂神社の東西線上に並ぶ出雲大神宮や愛宕山・片岡山・御陰神社と方位線で結ばれていた。
あるいは法性坊尊意自身が日月星信仰と強く結びついた人間だった可能性も考えなければならない。尊意は俗姓を息長丹生真人といい、左京の人であったとされる。法性坊尊意は息長氏ということになるが、息長氏は神功皇后と深く結びつく。
城南宮にも日月星の三光紋があり、それは神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願し、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管さていたが、桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納めたといい、御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来であるという。城南宮では三光紋は神功皇后と結びつき、神功皇后は息長氏と結びつくのであるから、それからいえば息長氏の法性坊尊意は日月星の三光紋と結びつくわけである。
山本眞嗣『京・伏見歴史の旅』に、城南宮の日月星の三光の神紋は朝鮮から伝来したもので、福井県の足羽神社、同じく鯖江市の舟津神社、美浜町の弥美(みみ)神社にも同じような神紋を伝えており、上記の三社は神功皇后を含めて同一家系に並ぶ人物であり、しかも継体天皇は越前三国で生まれた一地方豪族であり、それが天皇の位につくには、この地方に絶大な大陸文化の影響があったことを思わせるとある。継体天皇には琵琶湖北東部の息長(滋賀県近江町)を拠点とする息長氏の出身で、母の郷里である「越」で育ったという説や、息長氏と同族の三国君(福井県三国町)から出たというような説があり、その説が正しいとすれば、福井の足羽神社・船津神社の日月星三光紋も息長氏と結びついていることになる。
京都府京田辺市天王高ヶ峰の朱智(すち)神社は息長帯比売すなわち神功皇后の祖父にあたる迦邇米雷王を祭神とし、建速須佐之男命、天照國照彦火明命を配神としているが、朱智神社は、土地では大御堂(おおみどう)と呼ばれ、通称では山城の観音寺で通っている、その名も「息長山普賢寺」の鎮守神であるという。朱智神社に天照國照彦火明命も祭られていることは興味深いが、その普賢寺の観音堂の左側に小さな地主神社が建っており、祭神は継体天皇で、かつては寺の東北の山中にあり、御霊神社と呼ばれていたという。「御霊」つまり「怨霊」であるが、朱智神社も、貞観11(869)年に祭神として祀っていた牛頭天王を、祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院に勧請したことから、「元八坂」と呼ばれていて、昔は祇園祭の時に天王地区の榊を移すことが恒例となっていたという(http://homepage2.nifty.com/amanokuni/okinaga.htm)。なお、地主神社という言い方は明治の初め頃のことで、現在は地祇神社となっており、祭神も大国主命・大山祇命・活気長足比売命である (http://501-600.wakkan.jp/594.html) 。竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、もとは御霊神社(祭神継体天皇)とも山王権現(祭神神功皇后)ともいったが、天文年間(1532〜55)現在地に移したと伝えられ、延喜の制には小社に列せられ、明治六年式内地祇神社と改めたといい、この地に栄えた先住民がその祖神を祀ったのが起こりであろうとする。神功皇后は山王権現とされているわけであるが、これは息長氏と日吉大社に何らかの関係があることからきているかもしれない。迦邇米雷王に雷がついていることも気になるところである。また、迦邇米雷王を祭神とする朱智神社の近くで継体天皇と神功皇后が一緒に祭られていたとすれば、継体が息長氏の出であるともとれるわけである。
しかし、御霊神社における継体と神功皇后・息長氏の関係についても、一つの神社を御霊神社とも山王権現ともいわれるというようなことはよくあることともいえるが、それぞれ祭神が違うのはどういうことなのであろうか。別々にあったのが、現在の所で合祀されたということも考えられるのではないだろうか。その場合、神功皇后は迦邇米雷王との関連で神社が建てられ、継体天皇は近くに継体天皇の筒城宮があったことから祀られたと考えられる。筒城宮があったと一般にいわれる都谷は、多々羅の北、興戸を境とした低い丘陵台地の南面というから、同志社大のあたりということになるが、地祇神社の東北にあたっている。都谷に御霊神社はあったということであろうか。
神功皇后や息長氏を日月星の三光紋に結び付けるには、息長氏が日子坐王から出ていることを考えると、その信仰は日神信仰だったはずではないかという疑問が生じる。ただ、『神皇正統記』には、「日月星ヒツキホシの天アメにあるにおなじ。鏡は日の体なり。玉は月の精セイなり。剣は星の気キなり。ふかき習ナラヒあるべきにや。」(http://www1.atchs.jp/tokyoblog/k/?a=read&t_id=37&st=11&end=20&c=1 15:名無しさん)と三種の神器を日月星と結びつける記述があるという。すくなくとも、『神皇正統記』時代には三種の神器と日月星信仰を結び付ける考えがあったということであるが、それは古代から天皇が日月星信仰と結びついていたということなのかもしれないが、天台宗の三光天子信仰の影響から来ている可能性もありえる。
美浜町の弥美神社の神紋は日月星三光紋ではなく、弥美神社公式ホームページの由緒沿革では日星紋とされるが、一般には月星紋とされる千葉氏と同じである。北野天満宮では星が消されているのに対し、弥美神社では月が消されているともいえるわけである。ホームページ『玄松子の記憶』では、弥美神社の神紋は日星紋と丸に五三の桐であり、「桐は、若狭周辺に多い紋で、当社独自の紋は月星紋だろう。ただし『福井県神社誌』には、日月紋と記されている。星じゃなくて日なのだろうか。」とある。(http://www.genbu.net/data/wakasa/mimi_title.htm)
弥美神社の祭神は第九代開化天皇御孫で若狭耳別の祖である室毘古王と二十八所の神社の神様である二十八所大明神で、他に建御雷神・天子兒屋根命・布津主神・比淘蜷_・大山祇命・天照皇大神・豊受大神・応神天皇・倉稲魂神・大山積命・菅原道真公が合祀されている。また、『玄松子の記憶』によれば、「『若狭国志』によると、大宝二年、伊勢の内外宮を祀り、後に、二十六柱の神を配祀したため、二十八所大明神と呼ばれるという。社記には、『大宝二年、日月両輪を祀り』とあるらしい。」とあり、また弥美神社は「地元の伝承では、かつては西方500mの『逢の木』という場所にあり、旧跡地を示す石碑が立っているらしい。」とある。また御岳山山頂付近に当社の奥宮御岳神社があるらしいともある。これを見ると、弥美神社の日月紋あるいは月星紋は必ずしも室毘古王に結びつくとはいえないようであり、また実際の神紋は月星紋であり、それを日星紋と記し、また社記では日月が強調されて星が消えているというように錯綜しているが、弥美神社には日・月・星が出てくるということであり、これはもともと弥美神社に日月星信仰があったことからくる混乱なのではないだろうか。
『若狭国志』からいえば、弥美神社はもともと伊勢神宮と関係するかもしれないわけである。『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによれば、伊勢三宮それぞれが日月星を祭る宮で、伊雑宮こそが礒宮(いそのみや)で天照大神を祀る日神の宮、外宮は月讀を祀る月神の宮、そして内宮は瓊々杵を祀る星神の宮ということであるという(http://www1.atchs.jp/tokyoblog/k/?a=read&t_id=37&st=11&end=20&c=1 16:名無しさん)。これは後代伊雑宮を強調するの立場から出た話で、普通は内宮こそ天照大神を祀る日神の宮であるはずであり、丹後周辺には月神信仰があることなどから外宮を月神の宮とすることは納得できる話なので、日月星との関係でいえば伊雑宮は星神の宮ということになる。
伊雑宮には北極星の太一信仰もある。吉野裕子『隠された神々』によれば、伊雑宮田植神事で神田他西側の畦にさし立てられる大翳(おおさしは)は長さ九メートルほどの青竹の先端に、巨大な団扇と扇型を取り附けたもので、上方の団扇には日月が画かれ、下方の扇には舟の絵と共に「太一」の二字が大きく墨書きされているが、「太一」は皇大神宮の祭神、天照大神を表すから、この大翳はそのままで神体として受けとられているという。大翳には日月も画かれているということは、この伊雑宮の太一=北極星信仰は日月星信仰でもあり、もともと伊雑宮には日月星信仰があったということではないだろうか。
吉野裕子『日本人の死生観』によれば、亜熱帯のシュロ科の植物、蒲葵が聖樹として信仰されたのは、その幹が蛇や男根相似のためであり、幹は簡単に動かせず持ち運びがきかないから、祭事の祭は、その葉を折り取って幹の代用とし、神事の扇となるという。この蒲葵の葉は本土では入手困難なため檜や杉の薄板を用いておこなわれていた檜扇となり、紙で造られて紙扇となるが、蒲葵の葉を祖とする日本の扇が古い神社のご神体となり、神紋ともされ、広範囲にわたって扇幣年手神の依料となっているという。伊雑宮田植神事の大翳は蛇ということであろう。そうすると、伊雑宮の日月星信仰は龍蛇神信仰と結びついていたということになるのではないだろうか。出雲神族の伝承ではイサワトミノ命も出雲神族になっている。
吉野裕子『隠された神々』によれば、内宮の宮域外における皇大神宮の祭りその他には、天照大神の象徴として「太一」または「大一」の文字がしきりに用いられるのに対し、宮の内側における神事には、「太一」の語はいっさい表れないという。これは伊勢神宮の「太一」が朝廷から持ち込まれたというより、逆に朝廷と結びつく伊勢神宮に対し、その外部から持ち込まれたものということではないだろうか。天照について龍蛇神であるという根強い考えが後代まで残っていたということは、そのような考えを持つ人々が天照を「太一」として、天皇側とは異なる天照をあくまで主張しようとしたのかもしれない。もしそうなら、天皇側としてはそのような主張は受けいられないから、当然宮の内側では「太一」が一切現れないということにもなる。もっとも、「太一」=北極星が中国では最高神であるということを利用して、天皇側でもそのことをなかなか否定できないというこで、そのような主張がされているのだとすれば、日月星信仰があったとしても、その最高神が星だったとは限らない。伊雑宮こそが天照大神を祀る日神の宮とされたということは、龍蛇神と結びついた太陽が最高神だったのかもしれない。
吉野裕子氏の説に対しては、千田稔氏が『伊勢神宮――東アジアのアマテラス』で、なお十分な検討を要するであろうとし、伊勢神宮の創祀の年代、太一が道教の最高神であった時代などとの整合性がはたしてあるのかどうか、容易には解けない課題があり、これについは金子修一氏(『中国――郊祀と宗廟と明堂及び封禅』井上光貞他編『東アジアにおける儀礼と国家』)も中国では後漢以降廃れてしまう太一が、伊勢神宮の神事に姿を見せるその経路を考えることが、今後の重要な課題となろうと述べている。中国の皇帝が北極星とむすびついていることから、日本の天皇も北極星と結び付ける考えが生じ、それが伊勢神宮にもたらされて「太一」信仰が生じたとは、単純にいえないわけである。
方位線的にみると、弥美神社旧鎮座地がマキノ町唐崎神社と西北60度線をつくり、その延長線上に内宮・外宮ではなく伊雑宮があり、御岳山と伊雑宮神体山の青峰山がやはり西北60度線をつくる。
マキノ町唐崎神社―弥美神社西500m付近(W0.002km、0.01度) の西北60度線
伊雑宮―マキノ町唐崎神社(E0.193km、O.08度)―弥美神社西500m付近(E0.197km、O.O7度)の西北60度線
青峰山―御岳山548m標高点(W0.873km、0.33度)の西北60度線
弥美神社とマキノ町の唐崎神社であるが、舟津神社王山・弥美神社旧鎮座地・出雲大神宮が東北60度線をつくり、御岳山と出雲大神宮神体山の御影山も東北60度線をつくる。それに対して、マキノ町の唐崎神社も出雲大神宮と東北45度線をつくる。また、籠神社奥宮の真名井神社の東西線上に弥美神社旧鎮座地・御岳山があり、真名井神社・出雲大神宮・大江山が方位線三角形を作っていたが、マキノ町の唐崎神社と大江山も東西線をつくる。唐崎神社は下鴨神社とも東北60度線をつくる。この方位線関係をみると、弥美神社・唐崎神社と出雲神族との関係性も考えたくなる。
舟津神社王山62M(W1.248km、1.63度) ―弥美神社西500m付近―出雲大神宮(E0.184km、0.15度)の東北60度線
舟津神社王山62M(W2.520km、3.38度) ―御岳山548m標高点―出雲神社御影山335m(W0.947km、0.78度)の東北60度線
マキノ町唐崎神社―出雲大神宮(E0.262km、0.24度)の東北45度線
真名井神社―弥美神社西500m付近(N0.848km、0.70度)―御岳山548m標高点(N1.324km、1.07度)の東西線
マキノ町唐崎神社―大江山(N0.161km、0.11度)の東西線
マキノ町唐崎神社―下鴨神社(E0.699km、0.76度)の東北60度線
マキノ町の唐崎神社と越前の足羽神社・船津神社の中間にある滋賀県長浜市余呉町上の丹生神社は息長氏の一族といわれる息長丹生真人が天武天皇の時、丹保野山に神籬を設けて天津神を祀ったのが始まりで、天平年間あるいは天平宝字八年(764年)に現在の地に社殿を創建したという。その神紋は円山水であり三光紋ではない。なお、『滋賀県神社誌』には「円山水」と記されているが、社殿には、三つ巴紋が付けられているという(http://www.genbu.net/data/oumi/nyu_title.htm)。どちらにしても、丹生神社で見るかぎり息長氏と三光紋は結びつかないようである。
城南宮についても、その伝承で重要なことは御旗に八千矛神を招き寄せたということであり、その御旗に三光紋があったということは、もともと三光紋が八千矛神と結びつく紋だったことから来ている可能性もいえるのではないだろうか。竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、城南宮の社伝では神功皇后が三韓征討のとき、兵船上に立てられた御旗をのちに宮中に奉安し、皇后と八千矛神とともに奉斎したのが起こりとつたえ、桓武天皇はまた平安京遷都に際し、国常立尊を併祀して王城の守護神とされたとつたえるが、史上における初見は「延長三年(925)八月、城南寺祭行幸」と『吏部王記』にみえる一文で、平安中期ごろから城南寺の鎮守社として、神社よりむしろ寺として知られていたものであろうとする。鳥羽離宮が造営されると寺や神社はその域内となり、応仁の乱後、離宮は荒廃し、城南寺も退転し、神社だけが残ることになった。中世以降は上鳥羽・下鳥羽・竹田三ヶ村の産土神として崇敬されたが、明治三年城南離宮皇神と称したが、いつしか城南宮と呼ばれるようになり、明治十年には式内真幡寸神社と認定されたが、昭和二十七年再び城南宮とあらため、真幡寸神社は境内摂社として奉祀されることとなった。いまは摂社となっている真幡寸神社は、西竹田の真幡木町から移した旧竹田村の産土神で、祭神は鴨別雷神、旧地は真幡寸ノ里といわれ、式内真幡寸神社の旧鎮座地と伝えるという。城南宮が真幡寸神社と結び付けられたのは真幡寸ノ里から真幡寸神社が移されたからなのであろう。
『京・伏見歴史の旅』によれば、城南宮が記録に登場するのは『中右記』の康和四年(1102)の九月二十日の条に「此暁、上皇(白河上皇)白地有御鳥羽殿、幸是今日鳥羽城南寺明神御霊会也」とあるのが最初であり、城南宮という名が示すように、桓武天皇の平安京遷都のさい、京城の南を擁護する神として国常立尊を祀ったと一般にいわれていることも、ほぼ正しいように思われるとする。また同書によれば、『山城名所図会』には「当社は久代(中略)神号を真幡寸社と称す。延喜式に出ず、祭神は国常立尊にして、日本不易皇太神となづく、其後、桓武天皇、平安城開闢の時、鎮護の為、伊勢、岩清水、加茂、松尾、平野、稲荷、春日の七社を併せて王城の南方なれば、城南神となづけ、即ち桓武天皇の宸筆の神名を当社の神体とす」とあるように、城南神として祀られる前に、国常立尊を祭神とした真幡寸神社があったとしており、御祭神の伝記についてはさまざまであるが、だいたいにおいて、神功皇后についで国常立尊が祀られ、そうしてさらに七社が合祀されたことにほぼ落ちつくようであるとする。また、真幡寸神社の祭神について『日本記略』に「鴨別雷神の別也」とあるが、今城南宮の東北の竹田村のなかに真幡寸の里という地名があり、それが旧社地であったことは間違いないとし、城南宮表参道北脇にある真幡寸神社はここからうつされたもので、昭和41年までは摂社若宮八幡と呼んでいたのである。社殿には加茂神を表す二葉の葵紋がついており、その石玉垣には東・西の真八寸村の村名が刻み込まれているという。
真幡寸神社の旧地については、城南宮と東西線をつくる藤森神社は神功皇后が三韓征討より凱旋した後、その軍旗と兵具を埋めたのが始まりといい、今も境内にある旗塚はその埋納したところといわれるが、竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、「旗」は「真幡寸」の約言という説があり、『山城名勝志』や出雲路敬和『京都古社寺詳説』では真幡寸神社の旧地説を採り、のちに城南宮の地に遷ったとするという。
城南宮―藤森神社(N0.044km、1.12度)の東西線
藤森神社と下鴨神社は南北線をつくっていたから、藤森神社が真幡寸神社の旧地とすると、下鴨神社と真幡寸神社がもともと南北線をつくり、さらに東西線上を城南宮に遷って行ったということになるわけである。情報が錯綜しているが、真幡寸神社は下鴨神社と何らかのつながりがあったとも考えられる。そうすると、城南宮の三光紋は真幡寸神からきており、さらに真幡寸神の三光紋は下鴨神社と関係しているという可能性もあるわけである。また、マキノ町唐崎神社も下鴨神社と東北60度線をつくっていた。また、北野天満宮の創建にかかわった神良種の比良宮と早良親王が最初に祭られた塚本社が東北60度線をつくり、塚本社は北野天満宮とも西北60度線をつくり、塚本社を取り込むように藤原忠平・法性坊尊意によって法性寺が建てられているから、忠平・尊意と北野天満宮との関係としても考えなければならないのかもしれない。当時の法性寺の金堂の位置などは分からないか、法性寺と城南宮、北野天満宮、下鴨神社、比良宮がそれぞれ方位線で結ばれていたのかもしれない。比良天満宮と城南宮も東北60度線をつくる。あるいは多治比文子ばかりでなく、神良種の背後にも忠平がいたのかもしれない。
比良天満宮―城南宮(E0.034km、0.06度)の東北60度線
城南宮は方除けの神社として有名であり、寒川神社の日月星三光紋が方除けのお札にあるということは、あるいは城南宮と寒川神社の三光紋の間にも繋がりがあるのかもしれな。
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