宮都と方位線

飛鳥の神奈備山と中ツ道・飛鳥寺
藤原京
宮都と宮都の方位線

 

飛鳥の神奈備山と中ツ道・飛鳥寺

 藤原京は奈良盆地を縦貫する中ツ道を東京極、下ツ道を西京極、東西に横断する横大路を北京極、上ツ道が山田寺付近から西に折れ曲がる山田道を南京極として採用したもので、中ツ道は飛鳥の甘南備山と関係するというのが岸俊男説である。岸俊男氏によれば、中ツ道は横大路の南がわでは道路痕跡はまったく消えてしまうものの、地図上で延長線を南におろしていくと、香具山の頂上あたりを通って、大官大寺の東、飛鳥寺の西、川原寺の東を通って橘寺の東門の前に出てきてミハ山に突き当たり、中ツ道の真南の正面にあって、ちょうど香具山と向いあっており、古道の正面は人々に意識されやすいので、その意味でも神奈備山と考えていいのではないかとし、平安京の朱雀大路の真南にも神奈備山があることにも言及している。平安京の北にある船岡山と南にある神奈備山が南北軸をつくり、その線上に朱雀大路と大極殿があることは多くの人に指摘されているところである。なお、藤原京の範囲は最近岸俊男氏の想定よりはるかに広いことが分かった。しかし、そのことがただちに中ツ道・下ツ道を基準にして藤原京が設計されたということを否定するということになるわけでもない。藤原京の中心軸が依然中ツ道と下ツ道の真中を通っていることには変わりないし、一坊あたりの長さが中ツ道と下ツ道の距離を四分割した長さであることにも変わりはない。中ツ道・下ツ道が藤原京の基準軸であった可能性はあるわけであり、東京極にかわって想定基準軸という言葉を使うことにする。

 飛鳥坐神社は高市郡加美郷甘南備山から同郡同郷の現社地の鳥形山に、天長六年(829)神の託宣で遷されたといわれるが、元の飛鳥の神奈備山の場所は諸説あり、手元にある岸俊男氏の本は講演集『日本古代史の謎再考』の中の一文として載っているものしかなく、詳細な論拠は語られていないが、飛鳥の神奈備山は普通雷丘とされているのに対し、岸俊男氏が橘寺の南の仏頭山の背後のミハ山を神奈備山とするのは、万葉の飛鳥の神奈備山を歌った歌を読んでみると、雷丘ではどうもしっくりしないのに対し、ミハ山はそれらの歌の情景にかなり一致するということらしい。

 岸俊男説では明確に方位線が問題になっているわけではないが、向井毬夫『万葉方位線の発見』では、中ツ道は横大路以南では香具山を登る道は急勾配なので西麓を迂回し、またその南でも石神遺跡の宮殿や庭園の中を通るのは考えられないから、やはりそこも迂回するなど、まっすく南北に中ツ道が通っていたとは考えられず、もしそうだとすると岸氏が考えた藤原京東京極は、道がもともと基準ではなく、別の基準があって、その基準によって道も南北の方向をとったのだと考えざるをえず、その基準は飛鳥の神奈備からの方位線であるとする。

 ただ、向井毬夫氏の考える飛鳥の神奈備山はミハ山ではなく、式内社飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社の西、飛鳥川の対岸にある標高356.1mの山とし、藤岡謙二郎氏も平安京の例を飛鳥にあてはめ、標高1306mの下辻山を神奈備山としてそこからの正南北線を条里や道路計画の基準線としているが、別稿では高取山地の残丘357mの山としており、それは自分の考えると同じであろうとする。なお、標高356.1mは356.7mの読み間違いと考えられ、掲載されている地図などを見ると標高356.7mの三角点のある山を神奈備山と考えているらしい。

 飛鳥坐神社の祭神は大己貴命の娘の賀夜奈留美命とされ、鳥形山に遷座したとき、その本霊は旧地にとどまったといわれ、「大神分身類社抄」によれば、賀夜奈留美神は高照姫の別名とされているという。宇須多伎比売神社については、向井毬夫氏によると『奈良県神社記』に「滝瀬の神窟と為り、いわゆる飛鳥川辺の神奈備是なり、社家の説に白滝姫神社は下照姫なり」とあり、『奈良県高市郡神社誌』には「神体は神鏡なりと称すれども実は山体なり」とあって、もともとは神殿もなく、滝瀬の神窟で神体山を拝したのだとわかるという。神社の石段の下のすぐ上流に美しい岩場があり、上流から詳しく調べたが岩盤や岩場が露出しているのはここだけで、神窟というのもそこの岩場と考えられ、標高356.1mの山頂の真東にあたるという。山頂の小字名はサシ山であるが山名が不明ということから、向井氏はその山をとりあえず「ナンブチ山」と名付けているので、本論でもナンブチ山ということにする。なお、谷川健一編『日本の神々 4』の所在不明式内社加夜奈留美命神社の項では、現在栢森の神社が比定されているが、栢森は飛鳥から地理的に少し離れすぎており、戒成集落に注目してカイナリがカヤナルの訛りであるとすれば、その背後の標高350mの南淵山が飛鳥の神奈備山ではないかとする。この南淵山は飛鳥川の東側にある標高356mの山のことであろう。

 ミハ山について向井毬夫氏は、飛鳥寺辺りからミハ山を見ると、等高にみえる丘陵が連なり、ミハ山は気をつけなければわからないほどごく低い突起に見え、香久山辺りから見るとその突起さえも認められず、万葉の歌にそぐわないという。ミハ山は神山とでも言うべき意味であるが、それに対しても明日香研修宿泊所の阿部乾六氏の話として、ミハ山西麓の上平田の古老の話によれば上平田とミハ山の間に江戸時代に金毘羅大権現の祠があって、その小高い頂を宮山といったのが後に転じてミハ山になったもので、古代地名ではないという。それに対して、ナンブチ山は稲淵の集落の手前の御所橋や祝戸のふぐり山から見るとナンブチ山を中央にして東西から二つの山がよりそって三つ峰に見え、万葉の飛鳥の神奈備山を歌った歌に三諸之神奈備山・神奈備之三諸山等とあるが、三諸とは文字どおり三つの神の居所という意味であり、三つ並んだ山のうち端の方を神奈備とするのは人間心理としてはありえないから、ナンブチ山こそ神奈備山であるとする。

 ミハ山の位置であるが、向井毬夫『万葉方位線の発見』によれば、岸氏は海抜215mの山としているようであり、向井氏はミハ山から東に60mそれてナンブチ山があるという。60mという間隔からいうと、ミハ山は標高212.8mの三角点のある峰ということになるが、海抜215mの山ということからすると、その西南隣にある峰の標高が214.2mで215mの山に近い。小川光暘『黒潮に乗ってきた古代文化』によれば、飛鳥研修宿泊所の裏山全体がフグリ山で、その西端部の半ば独立した峰がミハ山であるという。そうすると、標高214.2mの峰がミハ山ということになる。ただ、小川光暘氏はミハ山ではなくフグリ山が飛鳥の神奈備山だったのではないかとする。というのも、その名の起こりとなったフグリ岩が存在するからである。東西に二群、それぞれ十個ぐらいの大小の石からなるフグリ岩は、横長の巨石の下に枕石の配されて状態などをみると、あるいは人の手の加わった配石や積石の構成かと頭をかしげてしまうといい、ともあれこの場所が磐座であることは間違いなく、神岳とよばれ、神名備と崇ばれたカミ祭りの主体的部分としてのミムロであったことは疑いないという。フグリ岩の名は磐座が二組の巨石群から成っていることから、これを男根の陰嚢であるフグリに見立てたものであるが、むしろ巨石群の構成から見ると巨大な女陰の象徴とも取れるという。フグリ岩は近くの祝戸のマラ石と対をなすという伝承もあるらしい。その場所については、フグリ山の東展望台が間もなくという所で、ラクダの背のように尾根が一段高くなった辺りに、遊歩道を塞ぐような恰好で巨石が群れているという。2万5千分の1地図でみと三角点の東北に少し高まりがあり、詳細な地図で見ると、さらにその先にも小さな高まりがある。その小さな高まりがおそらく東展望台で、フグリ岩があるのは2万5千分の1地図にもみられる高まりのあたりなのであろう。そうすると、フグリ岩はナンブチ山の正確な南北線上に在るということになる。

  ナンブチ山―フグリ岩±(E0.015km、0.58度)の南北線

 ミハ山・ナンプチ山・フグリ山のどれが飛鳥の神奈備山かという問題とは別に、飛鳥の神奈備山の南北線上にあるのは、中ツ道か飛鳥寺かという問題もある。ミハ山はともかく、飛鳥寺はナンブチ山・ヘグリ岩の南北線上に位置していると考えることができ、さらに方位線的に蘇我氏と香久山・フグリ岩・ナンブチ山の関係が浮かんでくるのである。香久山の西北30度線上に入鹿神社・宗我都比古神社が並び、宗我都比古神社の西北60度線上にナンブチ山が位置し、入鹿神社とフグリ岩が西北60度線をつくる。このことから、香久山・フグリ岩・ナンブチ山の南北線上で、宗我都比古神社から西北45度線上にあたる場所に飛鳥寺が建てられたとも考えられるのである。この蘇我氏関係の寺社から考えると、フグリ山とナンブチ山のどちらが飛鳥の神奈備山かということよりも、その二つの山が強く結び付けられていた可能性に注目すべきかも知れない。香久山・フグリ山・ナンブチ山が一体的なものとして結び付けられていた可能性は、三輪山との方位線からもいえる。香久山と三輪山が東北45度線をつくっていたが、フグリ岩は三輪山の東北60度線上に位置しているのであり、三輪山ではないがナンブチ山は巻向山と東北60度線をつくっている。ナンブチ山やフグリ山が飛鳥の神奈備山ではないとしても、それらの山が飛鳥における聖山として、きわめて重要な山だったことは考えられるのである。

  飛鳥寺塔跡―フグリ岩±(W0.058km、1.92度)―ナンブチ山(W0.073km、1.30度)の南北線
  香久山―フグリ岩±(E0.117km、1.85度)―ナンブチ山(E0.102km、1.15度)の南北線
  香久山―入鹿神社(E0.087km、1.43度)―宗我都比古神社(E0.120km、1.37度)の西北30度線
  宗我都比古神社―ナンブチ山(W0.038km、0.25度)の西北60度線
  宗我都比古神社―飛鳥寺塔跡(W0.022km、0.20度)の西北45度線
  入鹿神社―フグリ岩±(W0.031km、0.28度)の西北60度線
  三輪山―フグリ岩±(E0.256km、1.63度)の東北60度線
  巻向山―ナンブチ山(W0.245km、1.18度)の東北60度線

 三輪山とフグリ岩との関係をもう少し見ると、三輪山と福地山が東西線をつくっていたが、福地山とフグリ岩が東北30度線をつくる。ということは、高鴨神社と大神神社が東北45度線をつくっていたが、高鴨神社とフグリ岩も東北30度線をつくっているということである。また、巻向山とは直接方位線をつくらないが、巻向山と東北30度線をつくる畝傍山・忌部山とフグリ岩はそれぞれ西北45度線、西北30度線をつくり、忌部山と宗我都比古神社が南北線をつくる。畝傍山と入鹿神社も南北線をつくるといえるかもしれない。藤原京との関係でいえば、天武・持統陵が藤原京の聖なるラインとして南北中心軸上にあることに注目されているが、フグリ岩と忌部山の西北30度線上に天武・持統陵がある。

  福地山(E0.112km、0.40度)―フグリ岩±―高鴨神社(E0.136km、0.66度)の東北30度線
  フグリ岩―畝傍山(E0.076km、0.96度)の西北45度線
  フグリ岩―天武・持統陵(E0.022km、1.02度)―忌部山(E0.026km、0.29度)の西北30度線
  忌部山―宗我都比古神社(E0.050km、0.79度)の南北線
  畝傍山―入鹿神社(E0.094km、1.97度)の南北線

 小川光暘氏はもともとから鳥形山じたいが神名備の御室のカミと無関係の山ではなく、おそらくは御旅所のようなものだったのではないかとし、飛鳥坐神社には多くの陰陽石がみられるが、それらの中には遷座以前から存在していたものもあったのではないかとする。飛鳥坐神社が鳥形山に遷座したのは、その地がフグリ岩と何らかの関係がある場所だったことを方位線的にみると、フグリ岩が高鴨神社と東北30度線をつくっていたのに対して、飛鳥坐神社は高天彦神社と東北30度線をつくっていることと何らかの関係があるのかもしれない。高天彦神社は高鴨神社と西北45度線をつくるとともに、畝傍山とも東北45度線をつくり、畝傍山とも何らかの関係があったことも考えられ、フグリ岩も畝傍山と西北45度線をつくるのであるから、鳥形山が高天彦神社の方位線上にあるということも無視できないのではないだろうか。小川光暘氏が鳥形山とフグリ岩は遷座以前から関係があったと考える理由の一つは、フグリ山から見ると、フグリ山・酒船石・飛鳥坐神社が南北に一直線に並んで見えるという位置関係にある。フグリ岩の位置に間違いがないとすると、厳密にいえば飛鳥坐神社は南北線から少し東に寄っていることになるし、フグリ岩・酒船石・飛鳥坐神社も一直線に並んでいるわけでない。しかし、可視空間における祭祀空間というものを考えた時、見た感じというものも重要になるのではないだろうか。精度的には一直線に並んでいなくても、当事者が一直線に並んでいると感じれば、それは一直線に並んでいるのである。もしそうだとすると、精度や厳密性にこだわると逆に事実から離れていってしまうという危険もあるわけである。フグリ岩と畝傍山の西北45度線の近くに亀石があるが、これも実際にはフグリ岩・亀石・畝傍山が古代の人には一直線に並んでいるもの、あるいは方位線をつくるものとして見られていた可能性があるわけである。フグリ岩の南北線上にある飛鳥寺と亀石が東北45度線をつくることから、フグリ岩と亀石には何らかの関係性があった可能性も十分考えられるのである。

  高天彦神社―飛鳥坐神社(W0.116km、0.50度)の東北30度線
  フグリ岩(W0.142km、7.08度)―亀石―畝傍山(W0.065km、1.09度)の西北45度線
  飛鳥寺塔跡―亀石(E0.030km、度1.54)の東北45度線

 なお、南淵山が神奈備山だったとしても、ナンブチ山と同じく巻向山の東北60度線上に位置すると考えられ、畝傍山とも西北45度線をつくる。畝傍山とフグリ岩も西北45度線をつくったいたが、南淵山は356m標高点のある峰とその西側の二つの峰からなっており、フグリ岩と西側の峰については西北45度線をつくっている可能性もある。すくなくとも香久山の南北線上にナンブチ山があり、畝傍山の西北45度線上に南淵山があり、その二つの方位線の交わる場所にフグリ山があるという言い方はできるであろうし、それぞれの方位線に多少の幅を考えるなら、フグリ岩があるといってもいいのではないだろうか。さらに、ナンブチ山と南淵山の西側の峰も東北45度線をつくっている。この場合、ナンブチ山と南淵山がともに巻向山と東北60度線をつくっているということと整合性が取れないように思えるが、方位線にある程度の幅を考える以上はこういうことは起こりえる。これは、方位線が多重構造をとりえるということで、一種の入れ子状態として、飛鳥という地域で考えるとナンブチ山と南淵山は東北45度線をつくるが、より大きな範囲で考えると、ナンブチ山も南淵山も巻向山からの東北60度線上にあると考えられるわけである。

 一方、雷丘が神奈備山だとしても、雷丘は巻向山と東北45度線をつくっていた。雷丘は宗我都比古神社とも西北45度線をつくる。もともとは、香久山と宗我都比古神社が西北30度線、雷丘と宗我都比古神社が西北45度線をつくるという関係だったのであろう。飛鳥寺は単に宗我都比古神社からの西北45度線ではなく、宗我都比古神社と雷丘の方位線の延長として考えられたのかもしれない。ナンブチ山やフグリ岩ばかりでなく、南淵山や雷丘を含め、大和三山や三輪山・巻向山と方位線網をつくっていた可能性もあるわけである。

  巻向山―南淵山西側峰(E0.038km、0.20度)の東北60度線
  南淵山西側峰―フグリ岩±(W0.052km、2.90度)―畝傍山(E0.250km、0.26度)の西北45度線
  ナンブチ山―南淵山西側峰(W0.003km、0.16度)の東北45度線
  宗我都比古神社―雷丘(E0.075km、0.76度)の西北45度線
  
 岸俊男氏においては、地図上で中ツ道の延長線を南に下ろしていくと、香久山の頂上あたりを通って、大官大寺の東、飛鳥寺の西を通り、川原寺の東を通って橘寺の前に出るというような記述になっているのであるが、実際には飛鳥寺の西側の道を延長したのが中ツ道としなければならない。飛鳥寺の西側の道が飛鳥の神奈備山の南北線上にあることによって、初めて中ツ道も飛鳥の神奈備山の南北線上にあるといえるわけである。しかし、飛鳥寺の西側の道は飛鳥寺が建立されたとき付随的に作られたか、それ以前から通っていたとしても、飛鳥の神奈備山の南北線と結び付けられるような重要な意味を持った道だったとは思えず、飛鳥寺建立当時、飛鳥寺とその西側の道と、どちらが飛鳥の神奈備山の南北線上にあるかといえば、飛鳥寺ということになるのではないだろうか。

 また、向井毬夫氏の指摘するように、石神遺跡によって飛鳥寺の西側の道と中ツ道が切断されているということは、中ツ道が飛鳥寺の西側の道を延長したものともいえなくなるわけである。しかし、逆にそのことによって中ツ道が飛鳥の神奈備山ではないが、香久山の南北線上に設定されたという可能性が出てくる。もっともその場合、香久山とヘグリ岩・ナンブチ山が南北線をつくっていたとすれば、間接的には飛鳥の神奈備山の南北線上に中ツ道があるともいえるわけであり、飛鳥の神奈備山の南北線上にあるのは飛鳥寺か中ツ道かという二分法ではなく、飛鳥寺も中ツ道もそれぞれ飛鳥の神奈備山の南北線線上にあると考えるべきかもしれない。向井毬夫氏は耳成山と香久山の東西線との距離は一万五千分一地図で14.2p、実距離2130mで中ツ道と下ツ道の間隔と等しく、これは単なる偶然とは思えないという。このことからも、中ツ道が香久山と深く関係しているということができるのかもしれない。

 一方、斉明天皇が須弥山を作った場所が石神遺跡ではないかとされているが、千田稔『宮都の風光』では、推古天皇二十年に小墾田宮の南庭に須弥山と呉橋を作らせたとあるが、この推古朝の須弥山の場所と斉明天皇の須弥山の場所は同じ所だったのではないかとする。石神遺跡のあたりが推古天皇の小墾田宮の場所ということになるが、そうすると、小墾田宮が造営されたときに飛鳥寺の西側の道が朱雀大路的な意味を持つ道として整備された可能性も考えなければならない。その際に、改めてその道と飛鳥の神奈備山の南北線が結び付けられたということもありえるわけである。また、藤原京の最近の復元図では、藤原宮は藤原京の真中に位置し、朱雀大路は藤原宮を挟んで北にも延びている。同じように、小墾田宮を挟んで飛鳥寺の西側の道が北にも延びるように整備されたということも考えられるわけである。そして、中ツ道はその北側の道の延長として計画されたのかもしれない。その場合は、中ツ道は飛鳥寺西側の道の延長ということにもなり、飛鳥の神奈備山の南北線とも結び付けられることにもなるが、その場合、飛鳥寺・中ツ道両方が飛鳥の神奈備山の南北線上にあるという点では変わりがないわけである。

 

 飛鳥の神奈備山の南北線にあるのは中ツ道か飛鳥寺かという問題は、飛鳥の条里・地割という面からも考えることができるかもしれない。網干善教『飛鳥の遺跡』によれば、橘寺の塔の心礎と大官大寺の塔跡は真北の一直線上にあり、その南北線と飛鳥寺の塔心礎までの距離600尺、高麗(こま)尺で500尺が飛鳥京造営当時の地割だったのではないかとする。一辺600尺の東西・南北の方眼状の線を引くと、その交点に飛鳥寺・山田寺・橘寺・大官大寺の塔跡があり、その線上には川原寺塔跡・奥山久米寺塔跡伝承地・飛鳥京跡北一本柱列などがあるという。また、石田茂作『飛鳥随想』によると飛鳥に条里のようなものが考えられ、一辺約二町の東西・南北の仮線を引くと、飛鳥寺をはじめ飛鳥時代に建立されたと察せられる飛鳥及びその周辺の寺址の大部分がその交点上に位置しており、その範囲は西は丸山古墳近くの軽寺址まで広がっていて、このことは当時の寺と寺のへだたりに何かある制約があったことを暗示するのではないかとする。網干善教氏の想定図も主に寺どうしをを結びつけるもので、道路については言及がないから、これらの区画割は道路ではなく寺によってなされているといえるわけである。そうすると、飛鳥における位置関係は寺を中心にしているということになり、飛鳥の神奈備山の南北線上にあるのも、中ツ道よりは飛鳥寺と考えるべきことになる。もっとも、網干善教の地割を半分の300尺とすると、飛鳥寺の西から橘寺の東に向かう道を考えるなら、その道も飛鳥の地割上にあるともいえるかもしれないが、しかし、向井毬夫氏が指摘するように、その道が石神遺跡でふさがれ切断されているとすれば、やはり道による地割ということは考えにくくなるのではないだろうか。

 網干善教氏の想定する地割の、一辺600尺という数字であるが、新井宏『まぼろしの古代尺』によれると、朝鮮半島や日本の遺跡の計測値解析を行うと、朝鮮半島・日本ともに0.268m程度の基準尺度の所に著しい集中が認められ、それを古韓尺と称すると、古韓尺は古墳時代の頃から使われるようになったと考えられるが、七世紀中葉までの遣隋使・遣唐使の派遣を通じて唐尺が朝鮮半島より日本でいち早く使用され始め、これが前期難波宮(652年)における唐尺の使用であり、それ以前から多くのところで使用されていたと思われるとする。そして、隋代までは6尺で1歩が一般的であり、それがすでに日本に伝わってきていたが、大化改新の時いったん唐制に合わせて5尺1歩を採用したため混乱を生じ、結局また6尺1歩に戻ったといい、この時代の尺は隋の開皇官尺であり、唐尺と同じ長さであったという。すなわち、600尺というのは5尺1歩で60歩を1町とすると2町分ということになるのである。そうすると、飛鳥の地割は大化改新以後のものということになるが、それに対して、上ツ道・中ツ道・下ツ道については、壬申の乱にそれに当たると考えられる道の記述が出てくることから、七世紀前半には整備されていたと考えられており、さらには七世紀のはじめ頃につくられたのではないかともいわれる。中ツ道から上ツ道・下ツ道はそれぞれ約2100mで、岸俊男氏によれば、唐尺あるいは高麗尺が使われているという。唐尺の6尺1歩、60歩1町、5町1里の4里分、唐尺を0.297mとすると、2138mとなる。七世紀のはじめに作られたとすれば、開皇官尺=唐尺が使用された最初の大規模な土木工事という可能性もあるわけである。飛鳥の地割の方が上ツ道・中ツ道・下ツ道よりも新しいということにもなるが、ただ、飛鳥の地割が寺を中心になされているということは、やはり飛鳥ではそれ以前から寺と位置関係が密接に結びついていたということではないだろうか。

 飛鳥の地割については、唐尺ではなく古韓尺が使われていた可能性もある。網干善教氏の飛鳥の地割図を見ると、大官大寺と飛鳥寺の真中辺りに幅30mほどの遊びが東西に作られている。これは、網干氏が一辺600尺にこだわった結果、遊び部分をつくらざるを得なかったと考えられる。というのも、図を見ると山田寺塔跡の東西線は雷丘を通っているが、大官大寺と雷丘の南北距離は二万五千分一地図で21.5o、537.5mとなり、これが三等分されるわけであるから、一辺179.2mとなるが、これは唐尺600尺の178.2mにきわめて近い。それに対して、飛鳥寺塔跡と山田寺塔跡では少し広いのである。しかし、そこにも一辺600尺にこだわろうとすると、遊び部分が生じてくるわけである。飛鳥寺塔跡と橘寺塔跡の間も少し広い。大官大寺塔跡と橘寺塔跡の間隔は81mmから81.5o、間を取ると2031m、これが11等分されるわけであるから、一辺の平均は184.7mということになる。これは、古韓尺6尺を1歩とし、60歩1町の2町の長さを考えると193mで、唐尺600尺と古韓尺2町の中間ということになり、飛鳥の地割に古韓尺が使われた可能性も出てくるわけである。新井宏『まぼろしの古代尺』によれると、飛鳥寺や飛鳥京上層遺跡では建物配置・柱間間隔に古韓尺が使われており、大津京でも古韓尺と高麗尺が抽出できたが、そのうち古韓尺の方が1%有意となっているという。飛鳥京や大津京で古韓尺が使われているということは、飛鳥の地割にも古韓尺が使われたのではないだろうか。日本古来の尺度としてはヒロ(尋)があるが、大化二年(646)の薄墓令のなかでは、古墳石室の大きさは尺で規制しながら、塚の大きさは尋で規制しており、新井宏氏は大きな長さの単位としては歩よりも尋のほうが一般的だったのではないかとし、さらに白崎昭一郎『尋と歩―古代尺度雑考―』での、日本書紀でヒロは総て尋という漢字が使われており、日本のヒロと中国の尋とは概念的に非常に近いものとして奈良時代の知識人たちには認識されており、中国の尋は1.60m程度であったという説を引用し、古韓尺の6尺1歩が1.60mであり、古韓尺の6尺1歩の制度の流入があって、1歩がヒロ・尋となって残っていたのではないだろうかとする。飛鳥では測量系とし古韓尺が七世紀中頃まで使われていたとすれば、七世紀前半あるいははじめ頃に唐尺を使った上ツ道・中ツ道・下ツ道とは測量系に違いがあり、その点からも中ツ道は飛鳥寺西側の道の単なる延長ではなく、まったく新しく企画された可能性があり、そこに香久山の南北線といった新しい視点が導入された可能性もでてくるわけである。

 吉村武彦・山路直充編『都城』の諸論文をみると、小笠原好彦氏の論文に、近時黒崎直氏は相原嘉之氏によって報告された飛鳥で検出されている道路遺構をもとに方格地割を検討し、四分の一里と五分の一里による地割があるとし、当初は五分の一里、後に四分の一里を単位とする方格地割が存在した可能性が存在した可能性が高いとする見解を述べているという。ただ、小笠原好彦氏は飛鳥寺造営時に蘇我馬子によって飛鳥川右岸に計画的な都市空間が構想された可能性が少なくないとしており、それらの道路遺構の方格地割は飛鳥寺を中心にして行われた可能性がある。飛鳥の南北軸に関しては、林部均氏の論文に、伝承飛鳥板蓋宮跡(飛鳥京跡)のT期の遺構は地形に規制されて北で西に大きく振れており、また雷丘東方遺跡・石神遺跡周辺・明日香村島庄遺跡や阿倍山田に沿ったあたりでも北で西に振れた建物群が検出されており、この段階では正方位の建物群は飛鳥寺の周辺だけであったのであろうとするが、このことからも香久山とフグリ山・ナンブチ山の南北線上にあるのは飛鳥寺とすべきであろう。

 下ツ道と中ツ道に関しては、近江俊秀氏の論文によると、岸俊男氏は下ツ道の南端が五条野(見瀬)丸山古墳の前方部で途切れている点に注目し、下ツ道はこの古墳の中央を起点として、そこから北進するように計画されたと推定したが、小澤毅氏はそれを発展させ、上ツ道・中ツ道・下ツ道の基準になったのは下ツ道で、下ツ道は丸山古墳を基準に設定され、丸山古墳の被葬者は蘇我稲目であり、奥棺には堅塩媛が埋葬されていたが、堅塩媛は推古20年に欽明陵に改装されており、その際に盛大な儀礼がおこなわれており、この儀礼は蘇我氏の氏族祭祀としておこなわれたもので、三道の整備もそうした顕彰行為の一環としておこなわれたという。下ツ道が中ツ道・上ツ道に対する基準であるとすると、中ツ道と香久山・フグリ山・ナンブチ山の南北線は無関係なのであろうか。この場合、三道間の距離を純粋に4里とする測量によって決定されたとすれば、中ツ道と香久山・フグリ山・ナンブチ山の南北線は無関係ということになる。しかし、向井毬夫氏によると丸山古墳の中心軸はナンブチ山と畝傍山を結ぶ線に一致するという。ナンブチ山の南北線に蘇我馬子が建てた飛鳥寺があり、丸山古墳の埋葬者が蘇我稲目であるとすると、この丸山古墳とナンブチ山との関係は無視できないものがあり、下ツ道が丸山古墳を基準にしているなら、中ツ道はナンブチ山あるいはそれとフグリ山・香久山の南北線を基準にしているということもありえるのではないだろうか。

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藤原京

 岸俊男氏の説は中ツ道を想定基準軸とし、中ツ道と下ツ道の真中を藤原京中心軸とするものであったが、この藤原京中心軸が天智天皇陵の南北線と一致する指摘もある。どちらにしても、それは南北中心軸は確定するだけで、大極殿の位置を確定するものではない。方位線的にみると、藤原京大極殿と巻向山が東北30度をつくる。藤原京の大極殿の位置に関しては、南北中心軸と巻向山からの方位線との交わる所として設定された考えることもできるわけである。巻向山と藤原京大極殿の方位線に対して、最近天武天皇の浄見原宮としてエビノコ郭が注目されているが、その大殿と三輪山が東北60度線をつくる。

  巻向山―藤原京大極殿(E0.143km、0.97度)の東北30度線
  三輪山―エビノコ大殿(W0.042km、0.29度)の東北60度線

 また、巻向山は藤原京羅城門とも東北45度線をつくっているとも考えられる。さらに、浄御原宮をエビノコ郭とすると、エビノコ大殿と藤原京羅城門が西北30度線をつくっていた可能性もある。渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』によれば、藤原京については北限と南限は未確定で数説あるが、有力な小澤毅氏の仮説では東西・南北とも約5.2kmの正方形で、南北十条東西十坊に復元され、その中心に藤原宮があるという。藤原宮の中心は大極殿と朝堂院の間にある大極殿閤門で、大極殿は大極殿閤門の北約70メートルであるから、藤原京にも羅城門があったらの話であるが、大極殿から羅城門まで約2670mということになる。ただ、約5.2kmという言い方は少なくとも数十メートルは丸め込まれているということになるが、エビノコ郭からの距離を考えるとその差は馬鹿にならない。また、一条を一里とすると約535mで、五条分で2675mとなり2600mと合わないし、大極殿と羅城門の距離も2745mということになる。各調査で得られた道路間の距離によると一町の実距離にはかなりの長短があるというから、結果2600mとなったとすると、北限・南限が確定されていないということは、東西と南北では少し距離が違うということもありえるわけである。このようなさまざまな誤差を考えると確言はできないことになるが、一応羅城門を大極殿の南、2670mと2745mの中間2707.5mとすると、エビノコ大殿と西北30度線をつくる。南北50mぐらいの誤差を考えても方位線は成り立つと考えられるので、エビノコ大殿と羅城門が方位線をつくっていた可能性は大きいといえるであろう。

  巻向山―藤原京羅城門±(W0.140km、0.79度)の東北45度線
  エビノコ大殿±―藤原京羅城門±(E0.001km、0.04度)の西北30度線

 藤原京大極殿の方位線でもう一つ注目されるのは、宗我都比古神社・入鹿神社とより正確に西北30度線をつくるのは、香久山ではなく藤原京大極殿だということである。これには、宗我都比古神社の創建時期が関係してくる。宗我坐宗我都比古神社は入鹿の宮とも称されているが、『五郡神社記』の推古天皇御代に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀って神殿を蘇我村に造営したとするものと、社伝の持統天皇が蘇我一門の滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男、徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神を奉斎するため土地を賜い、社務と耕作を行わせたのに始まり、祭神を蘇我氏の遠祖、彦太忍信命と石川宿禰の二神とする、という二つの創建伝承がある。それに対して、黛弘道編『古代を考える 蘇我氏と古代国家』で、黛弘道氏は「真菅よし」は宗我の枕言葉で、ソガはスガに由来すると考えられ、菅は「スガスガしい」の語源であることから知られるように、清浄・潔白・神聖なものとして尊ばれ、やがて菅そのものが神格化されることにもなったことから、延喜式の宗我坐宗我都比古神社二座とは菅を神格化したソガツヒコ・ソガツヒメ二神のことをさすのであろうし、この二神がソガの地霊神ともされていたのであり、それゆえソガの地は古代にあっては一種の聖地とみなされていたとする。そうすると、飛鳥寺は崇峻天皇の元年に寺地が定められたというが、それ以前すでに宗我都比古神社があった可能性もあるわけである。創建が持統天皇の時代であるとすると、大極殿の方位線上に宗我都比古神社が建てられたということになり、それ以前の創建だと宗我都比古神社の方位線上に大極殿が建てられたということになる。また、宗我都比古神社が推古天皇の時代に創建されたとすると、飛鳥寺の方位線上に建てられたということなり、もともとが曾我の聖所だったとすると、宗我都比古神社の方位線上に飛鳥寺が建立されたということになる。飛鳥寺は飛鳥真神原の衣縫造祖樹葉の家を壊してその跡地に建てられたというが、今でも家が密集しているとはいえない飛鳥で、衣縫造祖樹葉の家を壊さなくてもいくらでも飛鳥寺を建てる場所があったはずであり、すでに人が住んでいる家を取り壊して飛鳥寺を建てたということは、その場所でなければならなかったということであり、その理由としてその場所が香久山と飛鳥の神奈備山の南北線と宗我都比古神社からの方位線の交わる場所だったからとも考えられるのではないだろうか推古天皇のときに。蘇我氏が宗我の地へ移ったとき、その地の地霊神であった宗我都比古神社を自己の信仰対象とし、宗我都比古神社の方位線上に飛鳥寺を建てると同時に、宗我都比古神社に自分たちに祖先をも祭り、さらに持統天皇が何らかの理由で宗我都比古神社の祭祀に介入したということではなのだろうか。宗我都比古神社と藤原京大極殿の方位線を蘇我氏とかかわる場所との方位線と考えると、飛鳥寺を奈良に移した元興寺と平城京の第一次大極殿がやはり西北30度線をつくることも無視できない。

  藤原京大極殿―入鹿神社(W0.041km、1.04度)―宗我都比古神社(W0.007km、0.11度)の西北30度線
  平城京第一次大極殿―元興寺塔跡(E0.059km、0.86度)の西北30度線

 藤原京大極殿の位置に関しては、方位線とはまったく関係しない考え方もある。大谷幸市『実在した幻の三角形』では、大極殿ではなく藤原宮という言葉を使っているが、その位置を大和三山のつくる二等辺三角形に結び付けている。藤原宮という言い方では点ではなく面となってしまうので、大谷幸市氏の想定する場所は大極殿のすぐ近くでもあることから、大極殿という言葉を使わせてもらう。大谷氏が注目するのは大和三山のつくる二等辺三角形の畝傍山における頂角が45度であり、それは円接正八角形に特有の三角形で、大極殿の位置はこの二等辺三角形の構図を意識した上で、企画・設計されたものであるという。円接正多角形の辺の数を増やしていくと、その極限とし円となるから、円接正多角形の図形の中で、三角形と円形との図形的相互の強い結びつきは、極限の概念の中に発見され、その図形的結びつきが『周髀算経』の説く、矩と数の結びつきこそがあらゆる事物を導き支配するものにほかならない、とする表現に合致するものと考えて支障ないであろうとし、また、『周髀算経』が「天は円であり、地は方である」と定義づけた上で、円接正多角形の図形の上で、宇宙論を展開することは、円接正多角形の図形的特質、つまり極限理論をこの図形がもつことを知っての上でのことであるこが理解されるのであるとする。なお、矩は直角定規のようなものであり、『周髀算経』に数を取り扱う術は円と方からでてくるもので、円は方から生じ、方は矩から生じるとあるという。そこにおける数を取り扱う術とは、3:4:5という整数比を持つ直角三角形のことのようであり、大谷幸市氏は円接正多角形には4→8→16→32→64の系統と6→12→24→48の系統の二種類があるとする。後者には正三角形も含めることができるであろう。

 大谷幸市氏はこの円接正多角形と極限の理論について、橋本敬造『周髀算経』で天円地方の宇宙観は陰陽や易との関係が無視できないとされていることから、陰陽五行説や易とも結びついており、中国古代天文学・陰陽五行説・易の複合思想は少なくとも七世紀のわが国において、測量概念とその行為に組み込まれ、わが国独自の思想体系として変容をとげていたもの考えられ、それは円接正多角形に特徴的に生じる角度、7.5、15、22.5、30、37.5、45、52.5、60、67.5、75、78.75、82.5度などを基本角度として、測量を実践して神社などを造営していくという基本構想であり、この測量行為は実際には前方円墳の発生時期において重要視されていたと考えられるという。大極殿の位置は畝傍山の頂角の二等分線上で、香具山と耳成山を底辺とする底角が22.5度となる点であり、それは円接正八角形の各頂点を結ぶ線を引くと、その内側にできるもう一つの正八角形の頂点の一つにあたる場所で、それは、円接正八角形の図形概念を背景とするものであり、背景思想としては、円接正八角形の図形から易に集約されるという。

 大谷幸市氏の理論で問題があるとすれば、大谷幸市氏は天智陵や天武・持統陵に対して「太極」の位置を考慮すると、その造営の背景思想として、ともに円の中心を太極とする「後天易」の影響が予測されるとする。そうすると藤原京大極殿は畝傍山・香具山・耳成山を内接する円の中心にあるのがふさわしいということになるが、実際にはそうなっていないことである。おそらく、それで大谷幸市氏は藤原京大極殿ではなく藤原宮という言い方をしたのであろう。円の中心は飛鳥川のすぐ近くであり、立地条件が悪いということで次善の策が採用されたということなのかもしれない。その際、大谷幸市氏は藤原宮造営に関わる総ての事柄が易の思想によるものといっているのではないとしており、その場所が巻向山の方位線上にあることも考慮されたのかもしれない。

 大谷氏の理論と方位線は必ずしも対立するものではない。大谷氏はその理論の一例として、三輪山・香具山・耳成山のつくる三角形の角度が22.5度、75度、82.5度の円接正多角形に特有の角度になっていることをあげているが、香具山における三輪山の方位線を45度、耳成山との方位線を60度とすると、香具山での三角形の角度は75度となるのである。そして、三輪山の角度を22.5度とすると残りは82.5度ということになる。ただ、三輪山での角度は実際には23.7度前後と考えられ、それを22.5度とみなせるかどうかは多少疑問が残る。また、22.5度という角度は黒又山でも東西線にたいして出てきたが、そうすると22.5度という角度、あるいは45度という角度は、中国の天文学・陰陽五行説・易の思想が日本に入ってくる以前から重要な意味を持つ角度だった可能性がある。巻向山・三輪山・耳成山が直線をつくっていたのであるから、その直線と東西線がつくる角度も22.5度ということになり、香具山・三輪山・耳成山の三角形のつくる角度より、こちらの方の角度の方が重要なのかもしれない。実際に巻向山と三輪山を結ぶ線と東西線のつくる角度は21.8度で誤差的にいえば、こちらのほうが小さい。

 22.5度という角度は吉野裕子『隠された神々』にも出てくる。吉野裕子氏は、天武天皇は最初現在の文武天皇陵に埋葬され、その後天武・持統陵に改葬されたのではないかとし、天武天皇の飛鳥浄御原宮と藤原京大極殿及び文武陵を結ぶ線が南北線に対して22.5度の角度になっているというのである。ただ、吉野裕子氏が最初文武陵に天武天皇が埋葬されたと考える理由は、22.5度という角度にあるのではなく、天武・持統陵に埋葬されたのが子の年の子の月であり、埋葬された場所が藤原京の正南であることは、子午軸撰用であるが、しかし天武天皇の都宮である浄御原宮からみれば西南に位置し、天武時代を支配していた子午軸撰用からみてありえないと思われ、浄御原宮から南方に陵を探してみるとギリギリの範囲に文武陵があるということである。またこの場合、浄御原宮の位置を飛鳥寺の西北説で考えており、エビノコ郭が浄御原宮とすれば22.5度という角度は出てこないことになる。

 大谷幸市氏は大和三山の二等辺三角形を円接正多角形との関係で考えたのであるが、整数比を持つピタゴラスの三角形と結びつける考えもある。渡辺豊和『縄文夢通信』によれば、京都芸術短大の鈴木盛也氏の説として、大和三山を結ぶ二等辺三角形に中線を引くことによってできる直角三角形は、5:12:13という整数比の直角三角形になるというのである。さらに、大和三山ほど正確ではないが、忌部山・香久山・耳成山の二等辺三角形では7:24:25、三輪山山腹台地・香久山・耳成山では9:40:41の直角三角形になるという。渡辺豊和氏によると、エジプトでは3:4:5の直角三角形を聖三角形として重んじ、メソポタミアでは5:12:13の比率を重要視していたという。7:24:25あるいは9:40:41の整数比をもつ直角三角形に古代人が気づいていたかどうかは疑問だが、大和三山が5:12:13の比をもつ直角三角形と結びつくという説は無視できないであろう。ちなみに、耳成山と畝傍山、それに耳成山の南北線と畝傍山の東西線の交点がつくる直角三角形を考えると、畝傍山の参三角点では、直交する二辺の比では3:3.86と3:4に近い。耳成山から3:4の比をつくる場所をみても、畝傍山山頂付近に設定できるのである。そうすると、大和三山の二等辺三角形は円接正八角形ではなく、5:12:13という整数比をもつ直角三角形と結びつくということになるのかもしれないし、藤原京大極殿の位置は大谷幸市氏の説にはよらないということにもなる。ただ、メソポタミアで5:12:13の比率が重要視されたのは、その比を持つ直角三角形を正八角形がつくる二等辺三角形と同一視したからということはないのだろうか。

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宮都と宮都の方位線

 岸俊男氏によれば、宮都と宮都は道路でつながるように造られており、特に藤原京と平城京の関係は、北に延びた下ツ道が平城京の朱雀大路につながり、中ツ道と東京極大路はだいたい一致するという。さらに、中ツ道を北に行き、乃楽山を越えて木津町の南にでると、道はまたまっすぐな南北の道になっていたようで、道路の痕跡を示す地割と「作り道」という小字があり、恭仁京の右京とも関係あるとされていることを指摘している。さらに、平城京の西京極線と平安京の東京極線がほぼ一致し、日本の都は飛鳥・藤原京・平城京・恭仁京・平安京と古道を基軸にやや西よりにまっすぐ北上してきたとする。さらに、日本の宮都の展開には古道を利用して北上するものと、淀川の水系を利用して東北にさかのぼるという二つの流れがあって、それが難波宮から長岡京・平安京という展開であって、二つの流れが一つに合致したのが平安京であるという。

 この岸氏の説に対して、向井氏によれば腑に落ちない点があり、下ツ道は第一次朝堂院の南門跡でも下ツ道の延長の側溝が発掘されているなど、下ツ道と朱雀大路の結びつきに疑問はないが、中ツ道と東京極大路の関係は中ツ道は北進するにしたがって西偏し、東京極大路とは約100mずれてしまうが、道が基準ならずれはなかったはずだというのである。さらに足利健亮氏がつきとめた恭仁京の右京中心軸について中ツ道の延長である平城京四坊大路のさらに北への延長線上に当たると岸氏は指摘しているが、両京間の直行道路は確かめられないから、基準はこの場合はあきらかに道ではないという。向井氏によれば、都の基準は道ではなく方位であり、飛鳥の神奈備山であるナンブチ山と香具山間の聖なる子午線が藤原京東京極(すなわち想定基準軸)の基準であり、その真北への延長線が平城京東京極である四坊大路の基準となり、その真北の方位がのちに恭仁京右京の中軸線の基準になったと考えるべきだとするのである。

 向井氏は宮都と宮都は方位線で結びついていたのではないか考えているわけである。そして、天武の難波宮造営の詔にある「凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参に造らむ。故、先ず難波に都つくらむと欲ふ」の両参という言葉を、これまでいわれていた「ふたところみところ」という意味なら「両三」と書くのが正しく、両にはふたつながら、参にはまじわる(つらなり)という意味があることから、これは「必ずまじわって造れ」と訓むべきであろうとするが、何でまじわるかといえば方位線ということになるであろう。ただ、向井氏のように考えると、難波宮と天武の浄御原宮とは方位線で交わっているはずであるが、難波宮と浄御原宮とは直接方位線で結ばれていない。この方位線で交わるということを、宮都に関係する場所どうしが方位線をつくっているというように拡大して解釈することができるかもしれない。この場合、向井氏のいう方位線は耳成山の神聖八方位を陰陽五行説と結びつけて東西南北線と東北・東南・西北・西南線とするが、実際には60度線であり、向井氏の方位線は本論の方位線と実質的に一致していると考えることができる。

 しかし、その場合も適当な方位線関係はみあたらない。しいてあげれば、浄御原宮ではないが藤原京の中心軸を南に延ばすと上子島神社がある山があり、難波宮大極殿と西北60線をつくり、ナンブチ山とも東北30度線をつくっているが、上子島神社と藤原京を結びつける何らかの物語が出てこない限り、この方位線をもって難波宮と藤原京が方位線で交わっているとはいえないであろう。難波宮造営の詔を離れれば、岸俊男氏は長岡京について、一般に長岡京は平城京を移したものと考えられているが、じつは難波宮を移したものであるというが、難波宮大極殿と長岡京大極殿は東北60度線をつくっているといえるのである。

  藤原京大極殿―上子島神社(W0.011km、0.10度)の南北線
  難波宮大極殿―上子島神社(W0.146km、0.23度)の西北45度線
  ナンブチ山―上子島神社(E0.024km、1.06度)の東北30度線
  難波宮大極殿―長岡京大極殿(W0.311km、0.53度)の東北60度線

 向井毬夫氏によると「作り道」道路跡と平城京左京四坊大路が南北同一線上にあること、恭仁京の西京極線が平城京東二坊大路の北への延長線と一致することを発見したのは、恭仁京を復元したのは足利健亮氏であるが、その他にも恭仁京東京極線の南北線上に春日山・三輪山があるという。三輪山を介して恭仁京は浄御原宮と方位線で交わっているともいえるわけである。そのほか、各坊大路の南北線上には御蓋山・石上神宮・春日大社・聖武天皇陵などがあるというが、重要な指摘は、恭仁京大極殿の真北にある三上山を恭仁京の北の聖山とし、平城京の北の聖山である平城天皇陵の東北方向の方位線上にあるという指摘であろう。三上山と平城天皇陵の方位線は、実際には東北60度線であるが、方位線で結ばれていることにはかわりはない。三上山の山腹には東大寺大仏殿の工事の平安を祈って建てられたという海住山寺があり、井上氏によれば三上山はこの地方の小神奈備山と推定でき、海住山寺にはその地主神を祭っているという。

  平城天皇陵―三上山(W0.027km、0.13度)の東北60度線

 長岡京の南の聖山を千田稔『宮都の風光』氏は交野山とするが、交野山と三上山が東西線をつくる。千田氏は宮都をつくる時、北に山をもってくるのは四神思想でいう玄武に相当するものであるが、南の山も何らかの意味をもっており、古代宮都の場所が選ばれるときに、南の山も重要な条件ではなかったかとする。そして、神仙の住む山を宮の南に配するのは、道教において人は死後、南の南極宮に行きそこで蘇るとされていることから、この南極宮が南の聖山によって表現され、南の聖山は蘇りの山と解釈できるのではないかという。交野山は山頂に巨石があり、かって岩倉開元寺という寺があったことからも、磐座信仰があったのではないかともいわれるが、巻向山とも西北60度線をつくっていた。

  三上山―交野山(S0.015km、0.06度)の東西線

 千田稔氏はさらに、音羽山を天智天皇の大津宮の南の聖山とする。大津宮は錦織遺跡周辺がそうではないかといわれているが、大津宮の中軸線のほぼ真南に位置していることと、この山の西南の山麓に牛尾山法厳寺という、清水寺の奥の院といわれる寺があり、天智天皇に関る言い伝えとともに、清水寺の開基である延鎮という僧侶がこの付近で、行叡居士のはいていた沓を拾ったということがあり、これは「沓を脱ぎ落として神仙になる」という、道教の尸海仙のことであろうと思われ、伝承ということではあるが、音羽山が道教にゆかりのある山ということで、宮と南の蘇りの山にふさわしいからである。音羽山の南北線上に御蓋山がある。

  音羽山―御蓋山(E0.002km、0.00度)の南北線

 平城遷都の詔に「三山鎮を作し」とある三山は、坪井清足編『古代を考える 宮都発掘』の金子裕之氏の論文によれば、藤原京では大和三山、平安京では船岡山・神楽岡(吉田山)・双ヶ丘で、平城京の場合は先の二例にみる三山の要件として、比較的規模の小さい独立丘であること、北の山に対し残る二山が東西軸上にほぼならぶことであり、この要件を満たすものとして北の山として平城天皇陵、そしてほぼ東西線上に並ぶ山としては御蓋山と垂仁天皇陵がそうではないかとする。三山は京城との位置関係からみて、京ではなく宮城を囲んでいるようであり、『史記』の渤海中の三神山伝説と関連させて考えると、宮城の周囲に神仙の住む三山があるということは、宮城が不老不死の永遠の理想郷であることを意味し、天皇の住まいとして最もふさわしい場所となるという。当該論文にはないが、金子裕之氏が垂仁陵を三山の一つとする理由の一つは、垂仁陵が「宝来山」と呼ばれていることらしい(千田稔『宮都の風景』)。

 平安京の北の船岡山は山頂に磐座があるが、南の神奈備山と南北線をつくり、その南北線と平安京の大極殿・朱雀門・朱雀大路・羅城門という平安京中心軸とが重なることが指摘されているが、平城京の場合、平城天皇陵は第二次大極殿の中心軸上に存在するという。平城京の場合そればかりでなく、藤原京大極殿と大和三山の関係は、方位線を作っていそうで方位線にはなっていなかったのに対して、三山を平常天皇陵・御蓋山・垂仁天皇陵とすると、御蓋山と羅城門、垂仁天皇陵と朱雀門がそれぞれ東北30度線をつくる。さらに、平城天皇陵は第一次大極殿とも東北45度線をつくる可能性もあるが、第一次大極殿の位置に関しては数十メートルの誤差は考えなければならないから、確定的なことはいえない。

  御蓋山―平城京羅城門(E0.078km、0.73度)の東北30度線
  垂仁天皇陵後円部―平城京朱雀門(E0.008km、0.33度)の東北30度線
  平城天皇陵―第一次大極殿(E0.008km、1.06度)の東北45度線

 大津宮に南の聖山があるなら、北の聖山も意識されていたのではないだろうか。北の聖山であるが、まず考えられるのは音羽山と南北線をつくる壷笠山であろう。しかし、日吉大社神体山の八王子山も無視できない。音羽山西南の山麓の寺が牛尾山と言ったが、八王子山も牛尾山、波母山(はもやま)ともいわれたのであり、山頂の金大巌(こがねのおおいわ)といわれる磐座の側に牛尾宮がある。両方に牛尾という名前があるということは、この二つの山が何らかの関係を持つものして意識されていたということではないだろうか。天智天皇陵に関していうと、音羽山の西北30度線、八王子山の東北60度線上に造られているのである。

  音羽山―壷笠山(W0.112km、0.73度)の南北線
  音羽山―天智天皇陵(W0.108km、1.30度)の西北30度線
  八王子山―天智天皇陵(E0.124km、0.73度)の東北60度線

 吉村武彦・山路直充編『都城』の小笠原好彦氏の論文によれば、大津宮付近には米倉・田村氏が復元した条里とみなされる地割と、福尾氏が見出した特殊区画と呼称した地割があり、錦織から滋賀里にかけてみられる特殊区画は、秋山氏によると令制の100歩(500大尺)すなわち唐尺で600尺に相当するとされ、南北10条東西6坊におよぶとみなされたが、小笠原好彦氏はさらに穴太廃寺跡付近にも特殊区画が考えられ、また大津宮南門の中心と内裏正殿の中心の距離である88.95mは、大津宮南門の中心から小字「御所ノ内」の東縁までの距離の半分の長さに近似し、特殊区画の平均値である176.5mの半分にもきわめて近いことから、特殊区画は大津宮に関連して設けられた可能性が高いのではないかとする。令制の100歩・500大尺という考えは、新井宏『まぼろしの古代尺』とは考え方が違うが、それを5尺1歩の60歩を1町とする大化の改新の制度の2町分とするなら、天智天皇にふさわしい単位ともいえ、飛鳥の網干氏の地割も氏のいうように600尺ということなのかもしれない。音羽山と大津宮内裏正殿の南北線の間隔は175m前後であり、音羽山の南北線が特殊区画の西縁になっているとも考えられる。また、大津宮内裏正殿の南北線と特殊区画南北中心軸までの距離353mに対して、八王子山の南北線との間隔は400m強であり、特殊区画の中心軸と八王子山の関係も窺われる。中心軸は穴太廃寺付近の特殊区画の西縁にもなっており、このことからも八王子山と大津宮とは関係があったのではないかと考えられる。

 八王子山の南北線上に、三上山があり、その南北線を南に延長すると桜井の鳥見山、さらには藤原釜足の墓がある御破裂山にいたる。御破裂山上の藤原鎌足の墓は、谷川健一編『日本の神々 4』の談山神社の項によれば、実際には藤原不比等の墓らしいが、八王子山の東北60度線上に天智天皇陵があることを考えると、八王子山と藤原鎌足の墓の南北線も無視できないであろう。御破裂山藤原釜足墓の東西線上にエビノコ大殿がある。高橋徹(『歴史読本』87年6月臨時増刊号)によると、道教経典の『真話』によれば、生前善徳を積んだ者は、死後に紫宮(紫微宮、大極殿のあるところ)の南方の朱宮(朱火宮)で特訓を受け、神仙となって東方の東海青童君の遊ぶ東華宮に遊ぶとあるという。斉明天皇は多武峰に道教寺院の両槻宮をつくったといわれるが、吉野の山が飛鳥京にとって南の聖山だったのに対して、御破裂山は東華宮に擬せられた山だったのかもしれない。御破裂山は二つの峰よりなるが、標高607.7m三角点のある峰と耳成山が西北45度線をつくっている。また、藤原鎌足の墓がある峰と南淵山東側峰、標高607.7m三角点のある峰とナンブチ山がそれぞれ東北30度線をつくる。南淵山に関しては、その西側の峰と鳥見山が東北60度線をつくっている。また、桜井の鳥見山は巻向山とも東北60度線をつくっていたが、巻向山と藤原京羅城門が東北45度線をつくっていたと考えられるのに対して、鳥見山も羅城門と東北30度線をつくっていた可能性がある。

  八王子山(W0.181km、0.15度)―三上山(W0.101km、0.17度)―鳥見山(E0.037km、0.57度)―御破裂山藤原釜足墓の南北線
  御破裂山藤原釜足墓―エビノコ大殿(S0.050km、0.79度)
  耳成山―御破裂山607.7m三角点(E0.080km、0.65度)の西北45度線
  南淵山東側峰―御破裂山藤原釜足墓(E0.045km、0.79度)の東北30度線
  ナンブチ山―御破裂山607.7m三角点(W0.106km、1.40度)の東北30度線
  鳥見山―南淵山西側峰(E0.001km、0.01度)の東北60度線
  鳥見山―藤原京羅城門±(E0.119km、1.18度)の東北30度線

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