コナン・ドイルの霊界通信
大本教にみられる方位線
忘れ去られた神・出されなかった神
コナン・ドイルの霊界通信
以前、大岳に住んでいて亡くなった笹目仙人の講演会を聞いたことがある。 そこで、出口王仁三郎に頼まれて崑崙山脈の近くに御神体を埋めにいった話が出た。二つの山(笹目仙人はその山名を言っていたが忘れてしまった)と正三角形をつくる場所に埋めて欲しいということだったという。立ち読みした笹目仙人の本では、笹目仙人は現地に向かい、そこである仙人と落ち合うと、鶴という空を飛ぶ仙人の乗り物である場所に行き、降りた近くの御神体を埋めるのに相応しそうな場所に埋めてきたというのである。
この話で興味深いのは、どのような方法で笹目仙人、あるいは現地の仙人が二つの山と正三角形になる場所を決定したかということと、その精度である。笹目仙人の話では、笹目仙人が現地に行くと、後はそこで待っていた仙人が目的地にそのまま連れて行ってくれたというようなことだったような気がするのだが、どちらにしても測量によって決定したわけではないであろう。地図上でその場所を特定していたということはあるかもしれないが、戦前の話であり、はたして崑崙山脈辺りの地図があったのかどうかもわからない。在ったとしても大雑把な地図なら、正三角形をつくる正確な場所の目印なるようなものは地図にはなかったかもしれない。そうすると、ひとっ飛びで目印もないような場所にどのように行ったのかという疑問も残る。
笹目仙人の話が本当なら、出口王仁三郎は正三角形というものを重視していたということになる。また、直線上に配置したという話や記録は、丹念に調べれば全国でかなりの例があるのではないだろうか。それに対して、方位線にはある問題がある。中国から十二支を使った方位を表わす言葉が入ってくる以前、日本には東西南北はともかく、30線・45度線・60度線方向を示す言葉がなかったのではないかということである。言葉が無い以上、それらの方向に意識的に配置されるということもなかったということになる。中国からそれらの方位を表わす言葉が入ってくる以前にも、日本に方位線を認めようとするなら、人間の意識とは離れた一種の客観的な力、構造化する力が存在するとするしかない。
コナン・ドイルからの霊界通信(アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』)によれば、「人類に関して言えば、四と三という数字は強烈な数字であり、人間が関わっているあらゆる事柄で人間に影響を及ぼします。世界の計算の土台はずっと昔、四角と三角のシンボルの上に築かれました。エジプトのピラミッドの意味について考えて見てください。そうです。ピラミッドは生命の数字のシンボルとして立っているのです。」とある。この本は、数秘術的な記載もあり、いかがわしそうにもみえるが、霊媒はホワイト・イーグル霊の霊媒のグレース・クックであり、ホワイト・イーグル自身も協力するという、唯物論者からいえばどちらにしてもインチキくさい話ということになるが、スピリチュアリズム的にはかなり筋のいい霊界通信ということになる。
四と三という数字が人間の関わるあらゆる事柄で人間に影響を及ぼすのだとすれば、それは人間と方位との関係にも影響を及ぼすということであろう。360度を四等分すれば90度、三等分すれば120度であるが、それを四本の直線と三本の直線で等分するとすれば、45度と60度が出てくる。30度線は南北線を軸にした60度線ということもできるわけである。もっとも、30度は四等分のさらに三等分で十二等分と考えることもできるが、そうすると60度線・90度線は出てきても45度線が出てこない。後で出てくるが、正三角形を組み合わせた六芒星を重視すれば、凸凹12の点からなることらか、30・60・90度が出てくるし、正四角形を組み合わせた八芒星も考えれば、45度も出てくる。ただ、この場合は、22.5度線、67.5度線も考慮しなければならないということになる。
三と四という数字が人類に関して言えば強烈な数字で、あらゆる事柄に影響を及ぼすというなら、三と四で構造づけられるものに、ピラミッドのように意識化されることもあるが、場合によっては人間は無意識に反応していくということもありうるのではないだろうか。それはまた三と四に結びつく角度に接したとき、人間にそれなりの強度を持った反応が引き起こされるということではないだろうか。何らかの意味があると感じてしまうといってもいいかもしれない。実際にどの程度深い意味があるかどうかは別にしても、またそれが偶然の産物かどうかは関係なく、その感覚を楽しむということが成り立つ可能性があるということである。一つの娯楽の在り方ということになるが、そうするとその感覚の様々な楽しみ方やそのための工夫ということが新たな分野として生じてくるということになる。そのなかには、今までは物語性の中で方位線を考えようとしてきたが、物語が与えられたものとしてあるのではなく、これからは方位線を使った物語の生成ということも楽しみ方の一つとしてあってもいいのかもしれない。また、コナン・ドイル霊のいうことが真実であり、その中には方位線も含まれてくるとするなら、あるものに関係付けたいとき、その方位線上に配置するということも意味をもってくることになるのであるから、方位線は過去のものというより、方位線を意識化したこれからの時代のものということもできる。
方位線ではないが、60度という角度と結びついた客観的な構造化する力の存在を意味しているとも考えられる話がある。ジョン・レナード『スピリチュアリズムの真髄』という本がハドソン・タルト『大自然の秘密』から引用しているもので、それによれば「土星の環がそのまま霊界の形体を示している。霊界は球形ではなくむしろ霊帯(霊的地帯)と言うほうが適当である。地球の霊帯の幅は一二〇度、つまり赤道から南北に六〇度の広がりがある。南北六〇度の両緯度を取り払って、その帯状の環を天空に上げていけば、それが霊界の格好になる。最初の界は地表から六〇マイルのところにある。第二界は第一界から同じく六〇マイルのところにある。第三界は月の軌道のすぐ外側、つまり地球から二六五、〇〇〇マイルの距離にある。」という。なお、タルトの書は内容的には霊界通信であるが、自動書紀や直接談話をそのまま記述したのではなく、さまざまな通信をタルト自身が整理して系統的にまとめたものであるという。
霊界の階層については、地球からの距離によって階層化されているのではなく、霊的波動の精妙さによって区別されるものであり、それらの階層は場所的には相互に浸透しあい、同じ場所に重なるようにして存在しているという説もあるが、ジョン・レナード氏は霊界は地球の南北両極を切り取った格好をしていることになり、霊界が地球からの霊的放射物質によって形成されているという説に結び付けていくと、地球の両極は極寒の気候のせいで物質の放散が少ないため、霊界の両極のあたりも欠けた状態か、もしくは非常に希薄になっているであろうという。ただ、物質の放射が垂直方向にだけ向けられているならそうかもしれないが、あらゆる方向に向かうなら、必ずしも両極方向が極端に希薄になるということもないであろう。地表にへばりついているような第一界・第二界はともかく月の軌道の外側にある第三界についてはそういえるのではないだろうか。また、階層と地球からの放射物の濃度が関係してるいとすれば、第二界、第三界に行くにしたがって、放射物の濃度は希薄化していくということであろうから、特に第三界は高度を下げながら同じ濃度の両極の方へとはみ出していってもいいはずである。
地上に生きていた人間で、このような霊界像を持っていた人間はほとんどいないであろう。生前の想念が死後形になってそういう霊界をつくっていったということはいえないことになる。死後、そのような想念を持つようになり、その想念がそのような霊界を作り出すことになったのであろうか。しかし、いろいろな霊界通信を読むと、霊界に行った人間が、その想念で作り出すものはあるが、それは霊界全体からいえばごく小さい部分のことであり、霊界そのものは客観的な存在として与えられているようである。ハドソン・タルトの述べる霊界が全てではないにしても、ある霊たちにはそのよう霊界に住んでいるとすれば、その霊界はある種の客観的な構造化の力が働いているということであり、その構造化の力は60度という角度と結びついていることになるわけである。
コナン・ドイルの霊界通信にまつわる話は、出口王仁三郎の崑崙山脈での正三角形と少し関係するかもしれない。コナン・ドイルの霊界通信が開始されるにあたって、コナン・ドイルの家族、霊媒のグレース・クック、それにポラレ・ブラザーフッドというパリのグループが関係している。ポラレ・ブラザーフッドはローマの北約60マイルの地にあるヴィテルボ近くに位置するバグナイアという小さな町の、ジュリアン神父と呼ばれる隠遁僧と一人の若者が1908年に出会うことから始まる。若者は町の人に魔術師と思われていた隠遁僧に惹かれるものを感じ、親しくなったが、若者の休暇も終りに近づき、隠遁僧の小屋に別れを告げにいったとき、隠遁僧から黄ばんだ数枚の紙を手渡された。それは『生と死の科学の書』の一断片で、いかなる質問にも答えることが可能な数字の体系が含まれていた。それから二年たって、深い悩みを抱いていた若者は、その紙を使うことになる。まず、最初に自分が望むことに強く心の焦点を絞り、それを書きだし、自分の名前を書き、母親の名前も書くというのが最初の手順で、それから質問を考え出し、長い時間をかけて所定の数字を計算してえられた答は、驚くほど正確で、深い叡智を宿しているようであった。しばらくして、若者は神秘的な現象を学ぶ友人のグループにその書のことを話し、多くのグループが誕生することになった。1923年、ジュリアン神父は自ら姿を現して質問に答え、1930年の四月には、星の力の神託によって、彼は三次元の肉体に身を宿して最後のメッセージを“愛する息子たち”に送ってきたという。
星の力のメッセージにより、二人の男がパリに行きポラレ・ブラザーフッドというグループを作るように命じられ、誰一人知る人もいないパリで、彼らのもとに瞬く間に人が集まって六十人ほどのグループになり、月刊誌『ポラレス会報』が発行され、その発行部数は最終的には一万部にも達した。「星の力」を使ってメッセージを送ってくる存在は、ジュリアン神父からやがて後に騎士の聖人、あるいは叡智ある騎士として知られるようになる存在に代わり、さらに後になってこの存在はマスターRであることが確認されたが、それはかってフランシス・ベーコンであった存在であるという。マスターとは、己自身をマスターした存在、人間としての自分自身の弱さを克服した存在ということであり、人間が体験する時間と空間の制限に甘んじる必要はなく、時間をマスターした存在として、年齢、病気、死を超越した存在であり、肉体的な次元に住む人間と同じように生活することもできたが、肉体を離れ、死の直後に行く未知の世界でも機能できるという。彼らは太古の時代に北極周辺に住んでいたが、惑星間の激動のため、地軸が移動し、氷と雪が北極地帯を覆い尽くすこととなると、地球の黄金時代も冷却し、物質主義の時代へと変化し、これに先立ってマスターたちは極東の山深くへと退却し、人間から隔絶された地に住むこととなり、人間の現在の波動に耐えられないため世俗の人間とまじわることなく、今日に至っているという。ただ、これらマスターたちの消息が、時として東洋の人々のもとまで届くことがあるという。
1930年にコナン・ドイルが死ぬと、その年の末に叡智ある騎士から「星の力」を通してコナン・ドイルが聖賢に接触し、援助を求めてきたというメッセージが語られた。それは長いメッセージで、コナン・ドイルが生前信じていた心霊主義の内容について多くの訂正が必要であり、彼は自らが支持した間違いを訂正したいと切に願っているというのである。彼のメッセージはきわめて重要であるため、それを正確に伝えるためには細心の注意と準備が必要であり、星の力によってはこれを行うことができないので、ブラザー・フッドの誰かがイギリスに赴き、コナン・ドイル夫人と会えば、夫人が霊媒を紹介してくれるであろう、霊媒はずっと前に選ばれて訓練を受けてきており、霊媒が誰であるかは会えば分るので、ただちに行動を開始するように、というものであった。
「星の力」は数字と密接なつながりをもっており、それを運用するには数字の計算が必要であった。「星の力」は3-6-9の振動で運用され、ポラレ・ブラザーフッドにシンボルとして与えられたのは六つの先端からなる星で、6の波動であり、このためポラレ・ブラザーフッドは主要な活動を毎月三、六、九日の三、六、九時に行った。また、霊媒のグレース・クックの誕生日は六月九日で、九番目の子供ということで、ここでも3-6-9の波動が彼女の人生において作用していることがわかり、コナン・ドイルの誕生日は五月二二日で、五と二と二を足すと九で、ここでも3-6-9の波動が明らかになるという。また、選ばれた霊媒は必要な力を高めるために、頂点が六つある星を身につけなければならないというメッセージから、イギリスに来たポラレ・ブラザーフッドのメンバーはグレース・クックと初めて会ったとき、その星を彼女のドレスにピンでとめている。ポラレ・ブラザーフッドの使者についてホワイト・イーグルはグレース・クックにその使者がチベットの指示によって派遣されてきていることを伝えており、また、ポラレ・ブラザーフッドの使者を含めたグレース・クックを霊媒とした降霊会では、おそらく騎士の一人と思われる声が「見よ、東洋に星が昇る。それはポラレスの印だ。それは二つの正三角形からなる星だ。」と述べ、グレース・クックは催眠状態から覚めると、非常に高い山と、光輝く黒い顔の人物が現れ、頂点が六つある星を彼女に差し出したといったという。
笹目仙人が会ったという仙人は、ここでいう極東の山深く退却したというマスターのことではないだろうか。そうすると、出口王仁三郎の正三角形とポラレ・ブラザーフッドの二つの正三角形からなる星、すなわち六芒星が結びつくのである。大本教の出口直や出口王仁三郎が本物かどうか以前から判断がつきかねていた。出口直の苦労ばかりの生涯をみれば、彼女に憑った霊が高級霊であって欲しいと思うのだが、首をかしげたくなることもいっぱいあったからである。しかし、笹目仙人が会った仙人がマスターのことなら、出口直や出口王仁三郎を基本的には信じていいということになるであろう。笹目仙人の話が本当で、彼の会った仙人がマスターだった場合の話であるが、もし直や王仁三郎に憑った霊が低級霊や邪悪霊ではなかったとすれば、彼らに対する疑問は、彼らに憑った霊は単に当時の日本の霊的水準に合わせただけで、その日本の霊的水準が低かったことから生じただけかもしれないし、霊界通信には、絶えず霊媒の潜在意識が入り込んでくるし、シルバーバーチによれば、時には意識的に霊媒の潜在意識を吐き出させることもあるというが、直や王仁三郎には潜在意識が少し出すぎているのかもしれない。浅野和三郎は始めて直に面会したとき、その神々しさと、現実の穢土に清らかさ、麗しさ、気高さの権化ともいうべき肉体を見て感動し、生来未だ曾って心の底の底から真に恭敬の念慮を以って、首をさげたことの経験の無い自分が、大本教祖によりて初めて敬服という言葉の意味を体験させられたという。出口先生、澄子刀自に対する悪口には自分はまだ、左程に感ぜぬが、ただ大本教祖を嘲り罵る片言隻言に対しては、自分は常に燃るがごとき憤怒を禁じ得ぬのである、とも述べている。スピリチュアリズムの方へ行った後、この出口直に対する見方が変わったのか変わらなかったのか気になるところである。
「星の力」によるメッセージには、その初期から、第一次世界大戦が終わって間もないに時期にも関わらず、世界がそのあり方を改めなければ必ずやってくるであろう、「火の年月」について語り、しかも経験したばかりのそれをはるかに凌駕する破壊と窮乏の時代になるだろう、と伝えてきていたという。「火の年月」とは第二次世界大戦のことと考えられるが、出口王仁三郎も第二次世界大戦の勃発をさかんに予言し、警告を発していた。武田崇元『出口王仁三郎の霊界からの警告』によれば、明治時代にすでにその予言はなされており、また第二次世界大戦が終わると、出口王仁三郎はあまり予言めいたを口走らなくなったというから、王仁三郎の使命は、第二次世界大戦に向かっている人類に対する警告というところにあったとも考えられる。それに対して、直が回避しようと努力したのは第一次世界大戦だったかもしれない。G・V・オーエン『ベールの彼方の生活』によると、第一次世界大戦に至らしめた大きな原因は、つまるところ霊的なそしてダイナミックな活動をさしおいて、外面的な物的側面を高揚する傾向であり、その傾向が西洋人の生活のあらゆる側面に浸透し、それがいつしか東洋人の思想や行動意志まで色濃く染めはじめたことにある。直のお筆先にみられる反近代・排外主義は、物質主義が日本に入り込んでくることを阻止し、第一次世界大戦を回避しようとする努力だったとも考えられるのである。高級霊になるほど予言めいたことは避ける傾向があるようなので、第二次世界大戦も終わってしまった今、その予言よりは王仁三郎が主張する霊主体従という人間の生き方の方に注目すべきであろう。
このページの先頭へ
大本教にみられる方位線
大本教と方位線の関係でいえば、出口直や出口王仁三郎が本物であれ偽者であれ、人類にとって四と三という数字は強烈な数字で影響を与えるというのであるから、方位線も四と三という数字に結びついているなら、大本教にも何らかの形で方位線が見られても不思議ではないということになるであろう。艮の金神という名前そのものが方位と結びついている。
明治三十三年から四年にかけて、出口直は「出修」といわれる宗教行為を何度か行う。順番でいえば、@冠島・沓島開き、A鞍馬山参り、B元伊勢皇大神宮における水の御用、B出雲大社における火の御用であり、それに続いて弥仙山ごもりが行われた。また、冠島・沓島開きに対応する神島開きが王仁三郎によって大正五年に行われている。
冠島・沓島開きについては、お筆先に「男嶋に参りて下されよ」と出たとき、どこにあるのかも分らなかったらしい。冠島に上陸した一ヶ月後には沓島にも上陸し、沓島に押し込められている艮の金神、冠島あるいは冠島と沓島の間の海に押し込められている竜宮の乙姫を世に出すことが、この岩戸開きの目的であった。神島は瀬戸内海の高砂市の沖合にある上島のことで、艮の金島の妻神である坤の金神が幽閉されていた場所であるという。艮と坤では東北45度線が予想されるが、実際には沓島と上島は東北60度線をつくっている。
神島開きは、出口利明『いり豆の花』によると、王仁三郎が神憑りの中で坤の方角の海の中に、どこかで見たことのある饅頭を伏せたような松が一本きりしかない丸い島が見えたことから始まる。王仁三郎にもそれがどこなのか分らなかったらしい。その夜から王仁三郎の目の下のところが疼き出して腫れ上がり、石の固まりのようなものができる。その固まりは次第に下へ下がりだし、王仁三郎は二人の信者を呼んで坤の方角にある神示の島探しを命じるが、大阪湾一帯から和歌山の辺りまで探しても雲を掴むような話だった。浅野和三郎が初めて綾部に行って王仁三郎と会った夜、王仁三郎は綾部を発って大阪で信者たちと合流、総勢二十名で大和の橿原神宮に参拝、続いて畝傍山に上り、山頂の神功皇后を祭神とする畝傍神社に額づいた直後、またあの島が目に浮かんできて、今度ははっきりと「朝日のたださす夕日のひでらす高砂沖の一つ島一つ松、松の根本に三千世界の宝いけおく」という神示がでる。信者に高砂沖の一つ島一つ松の島探しを命じるが、依然として島の所在が不明なまま、右目の下に疼きを覚えてから四十八日目に右の歯ぐきに真っ白な頭をのぞかせ、澄がそれを思いっきり引き抜くと、それはこんもとりもりあがった楕円形の純白の舎利で、金龍海の小松を植える前の大八州にそっくりであった。王仁三郎はその白い舎利と同じ形の島を探すことを命じ、見つかったのが上島であった。西郷武士『裏金神』によれば、地元の人は竜神が棲むとも大蛇がいるとも云っていたという。
この神島発見のいきさつをみる限り、方位線は浮かび上がってこない。ただ、それは王仁三郎についていえることであって、艮の金神・坤の金神の隠退場所として沓島・上島を選んだのは神界のほうである。神が坤の金神の隠退場所として上島を選んだ理由の一つに、そこが沓島からの方位線上にあったということも可能性としてはあるわけである。あるいは、王仁三郎の霊覚が無意識のうちに方位線上にある上島に反応し、霊眼で上島の姿を王仁三郎に見させたということもありえる。
沓島標高点―上島(E0.075km、0.03度)の東北60度線
神島開きは直と王仁三郎の立場の逆転という大本教にとって重要な転機であった。直を伴った三度目の神島参りの夜の大正五年九月九日のお筆先には、みろくが根本の天のご先祖で国常立尊は地の先祖、坤の金神、素盞嗚尊と小松林の霊がみろくの御霊で、これから変性女子の身魂を表に出して実地の経綸(しぐみ)を成就させるといったことが出ている。安丸良夫『出口なお』では末尾には直の書いた旨が明記されているけれども、じつは王仁三郎の手になるものであることは、たしかなことであろうとする。果たして王仁三郎が書いたものかどうかは別にして、王仁三郎に憑った神が上か、直の神の方が上かということはあまり意味がないように思える。というのも、二人の結びつきが霊界によって仕組まれていたとするなら、直と王仁三郎は一つの霊団、あるいは一人の指導霊の下で協力しあう複数の霊団により道具として使われていたと考えられるからである。もしそうなら、王仁三郎の神が上だ、直の神の方が上だという争いは意味がないことになろう。もっとも、ある霊媒に対し時間とともにより高級霊から通信が送られてくるということはあるので、その意味では直と王仁三郎を一体のものと考えるなら、直が死んだ後に王仁三郎により高級な霊から通信が送られてくるということはありえたかもしれない。
スピリチュアリズム的に重要なことは、艮の金神より坤の金神の方が中心になるという型を出したことではないだろうか。G・V・オーエン『ベールの彼方の生活』によれば、地球の過去は男性の過去だったが、地球の未来は女性の未来であり、その後にはまた別の時代がくるというものの、これから当分は女性が主導・誘導する時代であるという。ただ、それは男の仕事に女性が進出するということでも、女性が支配するということでもなく、女性の後を男が付いて行くということでもなく、男性支配が女性の柔和さにその場をゆずるといっても、男性支配という要素が完全に消滅するという意味でもなく、たどるべき道は女性が決め用意するが、その道を先頭をきって歩むのは男であるという。この女性が主導・誘導する未来という型を出したとも考えられるわけである。霊界ではしばしば重要なことが映像のようなものや儀式・演劇を通じて象徴的な形で伝えられるようである。『ベールの彼方の生活』にはそのような例がいくつも記述されているが、大本における型とはその地上版のようなものなのかもしれない。それ故、それは決して王仁三郎が直の上に立っていくということではなく、これから変性女子の身魂を表に出して実地の経綸(しぐみ)を成就させるというのも、王仁三郎が男性として女性が決め用意した道を先頭をきって歩むということなのではないだろうか。いくら変性女子だからといって、男の王仁三郎が女性の役割を果たすというのはおかしいし、中途半端な話である。霊としては男性的なものも女性的なものも、両方獲得していかなければならないというが、現実に肉体的には男女の区別がある以上、女は女性としての役割を、男は男性としてのの役割を果たしていくということであろう。
直の男性的な側面がこれまで強調されてきたが、女性としての直にも光をあてなけれはならないということでもある。『ベールの彼方の生活』によれば、友のために己を棄てるというのは男性的な愛で、それよりさらに大きな愛は敵のために己の生命を棄てることであり、自分を虐待する男になおもしがみつこうとする女性の姿には、そこに男性的愛よりも偉大な、女性特有の憎き相手に捧げる愛があるという。まるで駄目な男と知りつつ愛さずにはいられない女心を歌う演歌の世界であるが、そういう点では直に「地獄の釜の焦げ起こし」と言わせるほどの苦労をさせる元を作った夫の政五郎に対する直の愛が問題だともいえる。直が帰心神する少し前の明治二十五年の旧暦の正月元旦、直は夢とも現ともいえぬ状態で、黄金・瑠璃・真珠をちりばめた楼閣がつらなる神殿で、衣冠束帯をつけ、金銀宝石で飾り、神剣を持った神に会い、おそれおおさにその場を走り去ると美しい家の前にいた。家の中には死んだはずの夫政五郎が座っていて、嬉しそうに直を迎え入れ、二人は互いに過ぎし日を懐かしみ、行く末を語り、時の移るのを忘れたという。もしこれが霊界で本当に体験したことだとすれば、政五郎は直に苦労させるために駄目夫を演じていたということになり、直も心の底では政五郎を受け入れていということになり、もしそれが直の潜在意識が作り出した幻想だとすれば、なおさら直は恋愛感情といった次元を超えたところで、政五郎を受け入れ愛していたということになる。
出口王仁三郎によれば、男嶋女嶋(冠島沓島)に艮の金神、神島に坤の金神が落ちていたという話とは別に、北海道の芦別岳に艮の金神、その坤なる鬼界ヶ嶋の宮原山に坤の金神が落ちていたといい、なんだかわけが判らないというが、これはみな真実で、また型であるという。さらに、綾部から言えば男嶋女嶋と神島、日本からいえば北海道と鬼界ヶ嶋の宮原山、世界からいえば日本が艮でエルサレムが坤であり、三段の型があるという。沓島と神島が東北60度線なら芦別岳と鬼界ヶ嶋が東北45度線、日本とエルサレムが東北30度線を期待されるが、芦別岳と鬼界ヶ嶋は直接には方位線をつくらない。ただ、芦別岳と畝傍山が東北60度線をつくっている。
芦別岳―畝傍山(W0.125km、0.01度)の東北60度線
日本とエルサレムであるが、エルサレムについては現在のエルサレムの他に『霊界物語』ではトルコの東部、アルメニアと南北に相対している場所とされているようである。後者の場合、アララト山からヴァン湖の辺りということになるのであろうか。現在のエルサレムについていえば、大雑把な緯度しか割り出せなかったのだが、東北30度線ではなく東西線が鹿児島の国分市からその北のあたりを通る。エルサレムと天孫降臨の地である高千穂の峰とが東西線をつくるといっていいかもしれない。そして、最初の天皇である神武天皇即位の地と芦別岳が方位線をつくるわけである。艮の金神の隠棲の地が天孫降臨の地であるというのも何かしっくりこないが、出口ナオのお筆先が反天皇的なことを考えると、エルサレムと高千穂の峰の東西線は、艮の金神の隠退は天孫族・天皇によって征服された国津神系の人々と重なるということを象徴しているのかもしれない。エルサレムがトルコ東部とすると、鳥海山の東西線がヴァン湖の北を通る。鳥海山は出口王仁三郎によれば、艮の金神国常立尊が北海道の芦別山に、坤の金神豊雲野尊が鬼界ヶ島の宮原山に隠退した時、坤の金神は夫神恋しさの情に堪えかねてこの鳥海山の所まで来たが、その頂上まで登られて芦別の山を偲ばれ引き返した場所であるという。エルサレムと東北地方がが東西線をつくるともいえ、ここでも大和朝廷に征服された人々というのが浮び上がってくる。
芦別岳と鬼界ヶ嶋は、宮原山がどの山か分らないが、それを結ぶ測地線が元伊勢皇大神宮あたりを通りそうである。高千穂の峰と元伊勢内宮・外宮が東北45度線をつくっている。元伊勢内宮に注目すると、出雲大神宮・日室山・兜山の熊野神社が西北45度線をつくっていたが、そのうちの兜山と鬼界ヶ嶋が東北60度線をつくるといえる。兜山は弥仙山とも西北30度線をつくっていた。一方、出雲大神宮の西北45度線上に笠置山があり、兜山・日室山・笠置山が西北45度線上に並んでいるともいえるが、芦別岳と笠置山が東北60度線をつくる。笠置山と大本教の詳しい関係は分らないが、窪田英治編『霊界物語 地名備忘』の付録に、『神の国』誌の瑞霊ご活動のトポス・新シリーズ1993年3月号笠置山の弥勒さま(摩崖仏)、『いづとみづ』誌第26号(1982年5月号)の霊界物語現地研修会第八回に笠置山の弥勒立像(摩崖仏)を訪ねて、があって大本教と笠置山の関係がうかがわれる。
芦別岳―岩戸神社(0.475km)―喜界島204m三角点の直線
高千穂峰―豊受大神社(E0.375km、0.04度)―皇大神宮(W1.581km、0.17度)の東北45度線
喜界島204m三角点―兜山(E2.934km、0.19度)の東北60度線
芦別岳―笠置山(W2.188km、0.11度)の東北60度線
大本教と方位線の関係は、鞍馬山参りから弥仙山籠りまでによく現れているかもしれない。鞍馬山参りは「陸の竜宮」を目指すものであり、最初は八木の直の三女である久の所に行くようにだけ指示されていた。そこで次の差図があるということだったので、八木の家で王仁三郎が神におうかがいをたてて、初めて行き先が鞍馬山とわかったのである。鞍馬山については、方位線的には二つのことがいえる。一つは、冠島・沓島が籠神社の海の奥宮で、奥宮の真名井神社の東北30度線上に位置しており、鞍馬寺も籠神社・真名井神社の西北45度線上に位置していたから、冠島・沓島と鞍馬寺は籠神社を介して繋がっているということである。もう一つは、鞍馬山という目的地の確定にあたり、表面に出ているのが王仁三郎ともいえるが、鞍馬寺と王仁三郎が修行したという高熊山の岩窟が東北30度線をつくることである。高熊山は丁塚山のことで王仁三郎の修行した岩窟は丁塚山の西南の中腹とも、高熊山は丁塚山山中の高台で、岩窟は高熊山山頂のすぐ近くにあるともいわれ、少し混乱しているが、場所自体は異なる所をいっているわけではない(http://www.aizenen.info/mo/an.html#takakuma)。
鞍馬寺―高熊山岩窟付近(W0.061km、0.14度)の東北30度線
鞍馬山の出修の次に元伊勢水の御用が行われる。水晶の水を汲んだという元伊勢の天の岩戸の産盥、産釜は元伊勢内宮の皇大神宮と日室山(城山)の間を流れる宮川の岸にある岩戸神社近くにある。鞍馬寺からの西北30度線は正確には元伊勢外宮の豊受大神社近くの矢部山近くを通るが、その方位線を挟むように皇大神社の神体山である日室山と外宮である豊受大神社がある。天の岩戸の産盥、産釜も鞍馬寺の西北30度線上にあるといえるかもしれない。どちらにしても、鞍馬寺の西北45度線上に元伊勢の籠神社があり、西北30度線上には元伊勢の皇大神社・豊受大神社があるという言い方はできるであろう。高熊山岩窟・鞍馬山の方位線上に伊吹山があるが、地球上に無数にある気流の通路・交差点である伊吹戸中の伊吹戸といわれ、その東西線上に元伊勢内宮がある。
鞍馬寺―豊受大神社(W0.887km、0.78度)―岩戸神社(E1.853km、1.60度)―日室山(E1.582km、1.35度)の西北30度線
伊吹山―鞍馬寺(W0.047km、0.04度)―高熊山(W0.167km、0.10度)の東北30度線
伊吹山―豊受大神社(S1.696km、0.85度)―岩戸神社(N1.440km、0.72度)の東西線
元伊勢の水の御用と出雲大社の火の御用は対になっているが、方位線的には出雲大社は弥仙山籠りのほうと関係をもっており、出雲大社と弥仙山は東西線をつくる。弥仙山は綾部の梅松苑と東北45度線をつくり、高熊山岩窟→鞍馬山→元伊勢内宮に対し梅松苑→弥仙山→出雲大社という方位線経路になっているわけである。これからみると、元伊勢水の御用と出雲大社火の御用が火水の仕組みとなり、天照の神霊が憑る直と素盞嗚の神霊が憑る王仁三郎の争いに発展するわけであるが、方位線的にも直と出雲大社の火、王仁三郎と元伊勢の水というようにはっきり分かれていおり、大本教の二元性が方位線的にも現れているといえる。ただ、お筆先に月の大神は水、日の大神は火をあたえるとなっていることからみると、王仁三郎は月の神とも称していたのであるから、大本教で素盞嗚命に結びつけている出雲大社は水で、元伊勢内宮は天照と結びつくから火ということになり、話が錯綜してくるが、考えようによっては出雲大社を王仁三郎、元伊勢内宮を直とすればどちらの方位線経路も直と王仁三郎を結ぶ経路になっており、この二重性が、そのまま対立と和合という大本教の構造を現しているともいえるであろう。
弥仙山―出雲大社(N1.266km、0.30度)
本宮山―弥仙山(W0.189km、0.72度)
高熊山は方位線ではないが、沓島・上島の東北60度線と特殊な関係がある。上島の対岸の石の宝殿の北に高御位山(高御座山とも記される)という山があり、この山は沓島・上島の東北60度線上にあるといえる。綾部の藩主でもあった九鬼家に伝わる文献に、その遠祖がこの高御位山で鬼門八神を祭祀し、天皇みずから幣をたてる祭祀が後醍醐天皇の時まで続いたという。また、八幡書店の三浦一郎『九鬼文書の研究』の森克明氏の解説によれば、本文中に「加美登ノ加身和左ハ天中押別命○○高御位山ニ鬼門八神霊鎮守護ノ神事ニ創マリ」と伏字になっている部分は、もともとは丹波と記されているという。それに対して、出口王仁三郎の『霊界物語』では、高熊山は上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、のちに高座(たかくら)といひ、ついで高倉と書し、つひに転訛して高熊山となつたのであり、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社の在った所とあるというのである。直のお筆先にも「九鬼大隅守との因縁が分ると、どえらいことになるぞよ」とあるという。小幡神社は王仁三郎の産土神社であり、かっては高熊山に奥宮があったということであるから(この場合は高熊山が丁塚山なのかその山中の高台なのかで場所がちがってくるが)、高熊山と小幡神社を一体のものとみれば、その西北30度線上に内宮の神体山である鼓ヶ岳、西北60度線上に三輪山があるといえる。九鬼文献の丹波の高御位山がどの山を指すのか分らないが、方位線的にいえば高熊山は丹波の高御位山に相応しい場所に位置しているともいえる。
沓島標高点(E0.719km、0.35度)―高御位山三角点―上島(E0.794km、2.89度)の東北60度線
鼓ヶ岳―小幡神社(W0.191km、0.09度)―高熊山岩窟付近(W1.408km、0.65度)―丁塚山357m標高点(W1.156km、0.54度)の西北30度線
三輪山―小幡神社(E0.996km、0.95度)―高熊山岩窟付近(W0.726km、0.69度)―丁塚山357m標高点(W0.469km、0.44度)の西北60度線
直の生家の産土神社である福知山の一宮(いっきゅう)神社は堀という所にあるらしいが、福知山の地名表記がよく分らない。地図でみると野家という所に一宮神社がある。インターネットでみると、住所が堀となっている一宮神社と野家となっている一宮神社が同じ形なので、直の生家の産土神社である福知山の一宮神社は野家の一宮神社なのであろう。そうすると、播磨の高御位山と一宮神社が東北60度線をつくり、沓島・神島の東北60度線上に直の生家の産土神社があることになる。
沓島標高点(E0.593km、0.62度)―野家の一宮神社―高御位山三角点(W0.126km、0.12度)―上島(E0.668km、0.50度)の東北60度線
大本教には教団は認めていないが、王仁三郎に命じられて密かに行われた裏神業というのがあるのだという。以下、中矢伸一『出口王仁三郎 大本裏神業の真相』によるが、その裏神業を行った一人が辻天水で、彼は第二次弾圧の直後、護送される途中の大津駅で王仁三郎に後の仕組みを託され、郷里の三重県菰野町に帰ると、王仁三郎が布石の仕組みを残した全国の霊的地場を訪ね歩いた。辻天水の神業とは三雲龍三・生源寺勇琴といった霊媒の神憑に対して自分は審神者となるものであり、辻天水・三雲龍三に最初の神示が降りたのは籠神社の奥宮の真名井神社で、真名井龍神なる神からのものだったという。菰野町にはその後武智時三郎・岡本天明が集まり、辻天水は錦之宮、岡本天明は至恩郷を造る。錦之宮は「昭和二十年八月十五日、夫婦松のある処に茜大神を祀り、汝はそこに入るがよい」との神示が降り、村人達に尋ねて廻った末に、自宅近くの三保山に見事な夫婦松を発見し、そこに建てられたものである。
至恩郷の位置は確認できたが、錦之宮は菰野町福村に移転してしまったようである。ジャック・ニクラウスゴルフコースの辺りに三保山があるらしい。王仁三郎が修行した高熊山岩窟の東西線上に錦之宮や至恩郷があるといえる。正確には、至恩郷の東西線上には天恩郷や小幡神社があり、それに対して錦之宮は高熊山岩窟の東西線上に位置していた可能性がある。また、高熊山からの東西線、真名井神社の西北30度線、三輪山の東北45度線が武平峠と雲母峰の中間辺りで交わる。この交点には錦之宮より至恩郷が近い。王仁三郎は後で必要な場所だからといって一度献納した土地を辻天水に返したといい、また出口日出麿が菰野の地を訪れ湯の山温泉に滞在した帰り、湯の山温泉から降りる途中、今神明さまが出迎えにみえたといって、「ここはほんま大事な場所や」といったという。この必要な場所・大事な場所というのは、高熊山・真名井神社・三輪山からの方位線の集まる場所としての菰野町一帯のことをいったのかもしれない。
至恩郷付近―天恩郷・万祥殿(N0.275km、0.19度)―小幡神社(S0.318km、0.21度)―高熊山岩窟付近(S0.704km、0.47度)の東西線
真名井神社―至恩郷付近(E2.613km、1.13度)の西北30度線
三輪山―至恩郷付近(E1.993km、1.49度)の東北45度線
兵庫県川辺郡猪名川町の肝川龍神は貧農の主婦車小房が神憑りすることから始まるが、大本教とも深い関係にあり、王仁三郎らによる第一回肝川開きが大正五年、肝川に隠退していた神を世に出すために行われている。その後、肝川龍神は大本教から離れるが、高熊山岩窟の東北45度線上に肝川龍神がある。
肝川・大国宮―高熊山岩窟付近(E0.443km、1.31度)の東北45度線
竹内文書の皇祖皇大神宮天津教竹内巨麿は実母の仇を討つため武術の修行に励んでいたが、氏神の神明神社に願いをかけると、鞍馬山で武術の修行をするように告げられる。鞍馬山は高熊山岩窟と方位線をつくっていたのであるから、高熊山岩窟と竹内巨麿も方位線的に結びつくことになる。竹内巨麿の最初の鞍馬山修行は短いものだったらしく、二回目は鞍馬山の奥の大悲山で千日修行をしたといわれる。巨麿が大悲山中で修行をした洞窟などの正確な位置は分らないが、大悲山の峰定寺を基点に考えると、高熊山岩窟の東北45度線方向に大悲山がある。鞍馬山が高熊山岩窟と東北30度線をつくっていたことを考えると、大悲山も高熊山岩窟と東北45度線をつくると考えたい。出口王仁三郎が高熊山で修行をしたのが明治三十一年であるのに対して、竹内巨麿が大悲山から下山したのが明治三十年六月二十七日だったというから、巨麿の大悲山修行の方が早かったことになる。出口家は比沼麻奈為神社の祭祀とも関係するとされ、王仁三郎の弟の上田幸吉が比沼麻奈為神社の神主を三十年ほどつとめているが、大悲山は比沼麻奈為神社とも西北30度線をつくる。また、沓島とも西北60度線をつくるといえ、伊勢神宮外宮とも西北45度線をつくる。
大悲山峰定寺―高熊山岩窟付近(E1.063km、1.72度)―肝川・大国宮(E0.620km、0.65度)の東北45度線
大悲山峰定寺―比沼麻奈為神社(W0.294km、0.21度)の西北30度線
大悲山峰定寺―外宮正宮(W0.157km、0.08度)の西北45度線
大悲山峰定寺―沓島標高点(W1.550km、1.42度)の西北60度線
王仁三郎によれば岡山県和気郡熊山の頂上部にある謎の石積み遺跡といわれる熊山遺跡は素盞嗚大神の御陵であり、将来修行場にするとよいと思うといったという。熊山連山は弘法大師の入定地の候補地だったともいうが、王仁三郎によれば高野山の方にしたのは、熊山の地形が蓮華台をしていなかったからだという。熊山遺跡は鑑真開基と伝えられる霊山寺の境内跡の一角にあり、戒壇説の他、経塚、仏塔、墳墓、修験道関係の遺構などの説があるが、同じような石積遺跡は規模は小さいものの熊山連山で30基以上発見されており、三段目の壁面に設けられた龕は、インカ帝国の建築様式の一大特徴という指摘もある。熊山遺跡と綾部梅松苑が東北30度線をつくる。熊山遺跡は笠置山とも東西線をつくっている。
本宮山―熊山遺跡(W0.013km、0.01度)の東北30度線
熊山遺跡―笠置山(S0.030km、0.01度)の東西線
梅松苑と弥仙山が東北45度線をつくったが、その延長線上に鳥海山がある。また、鳥海山は信州の皆神山と東北60度線をつくる。王仁三郎によれば天教山の富士山に対して、信州の皆神山は地教山(ヒマラヤ)とされる。また、高熊山の修行の時、第一番に富士山、次に皆神山に連れて行かれたという。昭和四年に王仁三郎は皆神山に登り、一行の者と言霊を発射するが、それまでの言霊は練習で今度のが真の生言霊の発射だったとされる。皆神山は伊勢神宮内宮正宮と東北60度線をつくっていた。それに対して鳥海山は鼓ヶ岳と東北60度線をつくる。鳥海山・皆神山・伊勢神宮内宮が方位線上に並んでいるということになる。
王仁三郎は大石凝真素美の霊学に深い影響を受けたといわれるが、大石凝真素美は皆神山に帝都を置いたなら万代不易の松の代が出現すると王仁三郎にいっていたらしい。王仁三郎は大石凝真素美に連れられて信州の皆神山に明治三十五年頃登っている。その時、先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われたと『新月のかけ』にあるという。武田崇元『出口王仁三郎の霊界からの警告』によれば、大石凝真素美は伊勢大神宮が自分を見すてるなら、この世のいっさいを、ある霊的秘儀によって滅ぼしてみせる、といったというが、大石凝真素美において伊勢神宮と皆神山は強く結びついているともいえる。
鳥海山―弥仙山(km、度)―本宮山(W0.570km、0.05度)の東北45度線
皆神山・神社―鳥海山(W2.710km、0.46度)の東北60度線
鳥海山―鼓ヶ岳(E0.480km、0.05度)の東北60度線
大石凝真素美でいうと、明治二十二年、大石凝真素美は新しく出来た国会議事堂と伊勢皇大神宮の火災を予言していたが、明治二十四年に国会議事堂、明治三十一年に伊勢神宮が火災にみまわれたことから、大石凝真素美は放火の疑いがあるとして、武田崇元『出口王仁三郎の霊界からの警告』によれば修行中の近江の太郎坊宮で警察に拘束されるということがあった。太郎坊宮と鞍馬寺が東西線をつくり、沓島と西北45度線、籠神社・真名井神社と西北30度線をつくる。疑いは晴れたが、大石凝真素美はそれらの炎上は世界中の軍隊が日本を蹂躙する前兆であると予言したという。出口王仁三郎の第二次世界大戦の予言は、大石凝真素美の予言を受け継ぐものとしてあったということになる。大石凝真素美は旧姓を望月大輔といい、その祖父の望月幸智は王仁三郎の祖母宇能の兄であり言霊学の後継者であった中村孝道の高弟であったという。なお、「明治三十一年、吾勝山(あがやま)参拝の折は山上の茶屋に禁足」(http://misogi.org/masumi.htm)と記すものがあったが、太郎坊宮のある山を吾勝山というのかどうなのか分らない。
太郎坊宮―鞍馬寺(N0.120km、0.18度)の東西線
太郎坊宮―籠神社(E0.075km、0.04度)―真名井神社(E0.522km、0.29度)の西北30度線
太郎坊宮―沓島標高点(W1.091km、0.66度)の西北45度線
綾部の熊野新宮神社はもともと本宮山にあった熊野本宮社を、綾部藩が藩邸を新しく造った際に遷したものであるという。この熊野新宮神社は出口家の産土神社であり、王仁三郎によれば、綾部の熊野本宮社は熊野の熊野本宮大社に対応するものであった。鞍馬寺と熊野本宮大社が南北線をつくる。熊野本宮大社はもともと大斎原にあったが明治二十二年の洪水で現在地に遷されている。
鞍馬寺―熊野本宮大社(E0.202km、0.08度)―本宮旧地大斎原(E0.250km、0.10度)の南北線
大悲山は高熊山岩窟と東北45度線をつくるとしたが、正確には出雲大神宮と東北45度線をつくる。竹内巨麿は籠神社・真名井神社と方位線で結ばれる鞍馬山と出雲大神宮と方位線で結ばれる大悲山で修行したとも考えられるわけである。肝川龍神も出雲大神宮と東北45度線をつくるともいえ、さらに出雲大神宮と東西線をつくる上賀茂神社と東北30度線をつくる。大本教でいうと、綾部の梅松苑が上賀茂神社と西北30度線をつくり、亀岡の天恩郷が出雲大神宮神体山の御影山と南北線をつくる。天恩郷は出雲大神宮と上賀茂神社の東西線上にある愛宕山とも東北45度線をつくるといえるかもしれない。大本教には富士と鳴門の仕組みというのがあるが、この東北45度線上に鳴門海峡がある。籠神社の極秘伝によれば、籠神社の彦火明命と上賀茂神社の別雷神は異名同神であり、出雲大神宮と籠神社・真名井神社は西北60度線をつくっていた。出雲大神宮・籠神社・上賀茂神社は深い所で特殊な関係にあるとも考えられ、直や王仁三郎の大本教、竹内巨麿の皇祖皇大神宮天津教や車小房の肝川竜神はその深く隠された霊的磁場の上で動かされているともいえるかもしれない。
大本教と籠神社は方位線的には鞍馬山と冠島・沓島によって結びつくが、冠島・沓島は籠神社の海の奥宮であって、籠神社と一体であり、冠島・沓島をもって籠神社・真名井神社と方位線的に結びつくという言い方ができるがどうか問題であり、鞍馬山は大本教では籠神社というよりはもう一つの元伊勢である皇大神宮と方位線的に結びつく役割だったともいえる。大本裏神業の辻天水が真名井神社で最初の神示を受け、方位線的にも菰野と籠神社・真名井神社が結びつくとすれば、大本裏神業は大本独自の霊場と籠神社・真名井神社を方位線的に結びつけるのが目的だった可能性もあるのではないだろうか。
大悲山峰定寺―出雲大神宮(E0.008km、0.02度)
肝川・大国宮―出雲大神宮御影山335m三角点(W0.461km、0.97度)の東北45度線
肝川・大国宮―上賀茂神社(E0.257km、0.37度)の東北30度線
本宮山―上賀茂神社(W0.191km、0.21度)の西北30度線
天恩郷・万祥殿―出雲大神宮御影山335m三角点(W0.007km、0.08度)の南北線
愛宕山(E0.245km、2.00度)―天恩郷・万祥殿―鳴門海峡(E0.674km、0.32度)の東北45度線
このページの先頭へ
忘れ去られた神・出されなかった神
『大地の母』第七巻で出口利明氏は元伊勢の水の御用・出雲大社の火の御用の意義について「つまりや、国祖のみ心をわしはこう考える。天津神と国津神、征服者と被征服者、世に現れたる神と世に落としめられた神、その天系地系の両者の霊魂の象徴である水と火を地の高天原に迎えてとけ合わせ、まず天地和合の型を示す。それが立替え、立直しの初めの型や」と王仁三郎に語らせている。しかし、天津神と国津神の真の和合を図るなら、国津神とは被征服者の神そのものでなければならないのではないだろうか。しかし、大本教では国津神とは素盞嗚命であり、せいぜい大国主命という記紀がとりあげる神なのである。世に落としめられた神とは国常立命のような記紀の神ではなく、被征服者自身の神であるはずであり、大本教の本来の役目はそのような被征服者の神を世に出すことだったのではないだろうか。出雲でいえば素盞嗚や大国主ではなく、クナトノ大神ということになる。
出雲大社への出修の後、天照の霊の憑った直と素盞嗚の霊の憑った王仁三郎の争いが激しくなり、見物人が集まる騒ぎになった。その対立は、安丸良夫『出口なお』によれば、二度目の岩戸隠れである直の弥仙山籠りで神々の和合が成立するとされ、神々の和合とは世に出ている神と隠れている神の和合、「出雲大社大神殿殿と弥仙山の木花咲哉姫殿」との和合、艮の金神と坤の金神の和合などとされているというが、この神々の和合についても少しおかしなところがある。直が籠ったのは中腹にある於成神社で彦火火出見命を祭神とするが、弥仙山の頂上には金峰神社があり、木花咲耶姫命を祀る。「出雲大社大神殿殿と弥仙山の木花咲哉姫殿」との和合とされるが、出雲・出雲大社が大本教では素盞嗚命と結び付けられていることを考えるなら、出雲大社大神殿殿と和合すべきは天照大神でなければならないのではないだろうか。「出雲大社大神殿殿と弥仙山の木花咲哉姫殿」の和合は、方位線的には出雲大社と弥仙山が東西線をつくっていることに対応しているといえるが、こ方位線を木花咲耶姫を中心に見てみると、木花咲耶姫は富士山の神でもある。そのことから、弥仙山と富士山が東西線をつくるとみなせるかもしれない。弥仙山と出雲大社が東西線をつくるということから、富士山と出雲大社も東西線をつくるということにもなる。しかし、出雲で正確に富士山と東西線をつくるのは伯耆大山であり、大山の弥山と東西線をつくる熊野大社なのである。出雲と木花咲耶姫を問題にするなら、出雲大社と弥仙山の東西線は副次的なものであり、熊野大社・伯耆大山と富士山の東西線こそ主要なものであり、その意味でも大本教はクナトノ大神を表に出していないといえる。なお、鹿島神宮と出雲の 日御碕の東西線が語られているが、出雲と関東の東西線で重要なのは熊野大社と寒川神社との東西線であろう。
富士山火口中心付近―弥仙山(N3.144km、0.59度)―出雲大社(N4.41km、0.46度)の東西線
富士山火口中心付近―大山・弥山(N0.903km、0.11度)―熊野大社(N1.203km、0.13度)の東西線
熊野大社―寒川神社(N0.649km、0.06度)の東西線
冠島・沓島は籠神社の伝承から考察するとクナトノ大神が鎮まる島だったと考えられ、また綾部の梅松苑・亀岡の天恩郷が方位線をつくる上賀茂神社・出雲大神宮は出雲神族の神をもともとは祀っていたと思われ、大本教は出雲神族の信仰と密かに深く関係しているといえる。特に王仁三郎をみると、その産土社の小幡神社は出雲大神宮神体山の御影山と東北60度線をつくるのであり、国分の愛宕神社とも東北30度線をつくる。また、三輪山とも西北30度線をつくっていた。小幡神社の祭神は、開化天皇・彦坐王、小俣王で、伝承では丹波道主命がその祖父にあたる開化天皇を創祀したといい、社伝によれば、和銅元年(708)に、大神朝臣狛麻呂がその社殿を建立した。方位線的に出雲神族の神とつながり、大神朝臣が出てくることは、小幡神社と出雲神族には何らかのつながりがあったとも考えられ、王仁三郎は出雲神族の霊的磁場のなかで生まれ育ったともいえるのである。
小幡神社―出雲大神宮御影山335m三角点(W0.162km、1.39度)の東北60度線
小幡神社―亀岡市国分の愛宕神社(E0.002km、0.02度)の東北45度線
小幡神社は賀茂神社とは方位線をつくらないが、乙訓の火雷社とは西北30度線をつくっていたとみなしていいであろう。神尾山の宮川神社とは直接方位線をつくっていなかったかもしれないが、丹波市市島町梶原の鴨神社とは西北30度線をつくるので、火雷神と伊賀古夜姫命の方位線上に小幡神社もあるといえる。神尾山の宮川神社は上島と東北30度線をつくる。また、鴨神社は綾部の四尾山と東北45度線をつくり、福知山の一宮神社と南北線をつくる。西郷武士『裏金神』によると、王仁三郎は芦別山に隠遁している国常立尊の神霊を四王山(四尾山)に奉迎したというが、この綾部の四尾山のことであろう。
角宮神社西600m地点(W0.091km、0.36度)―小幡神社―神尾山(W0.493km、3.60度)―鴨神社(W0.537km、0.71度)の西北30度線
神尾山―上島(W0.524km、0.38度)の東北30度線
鴨神社―四尾山(W0.019km、0.07度)の東北45度線
鴨神社―一宮神社(E0.078km、0.45度)の南北線
王仁三郎自身、出雲神族の神を密かに意識していたふしもある。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』に載る出雲大神宮の広瀬宮司の話によれば、王仁三郎を宮司の父が預かって学校にも行かせたことがあるらしい。大本に入っても、亀岡に戻ってくると、二日に一度は出雲大神宮の社殿の前に長いあいだ座り込んでいたという。また、第二次弾圧の時、広瀬宮司は亀岡の警察に呼ばれ、宗教施設などはほとんど破壊したが、どうにも薄気味悪くて、手がつけられんところがあるので、王仁三郎をよく知っているそうだから、ちょっと見てもらいたいといわれたという。薄気味悪い所とは、洞窟の中につくられた王仁三郎の祈祷所で、鍵をこわして中に入ると、正面に白木のお社が安置してあり、広瀬宮司が礼拝をした後、お社の扉を開き中の神様を見たが、「出雲の大神さんです」というと、皇室と関係のない神ということから警察がすぐ爆破しようとしたので、急いで洞窟に戻り、お祓いをしてご神体を取り出したが、出雲の大神とはオオクニヌシとミホツ姫のことだという。
王仁三郎が秘密の祈祷所で祀っていたオオクニヌシとミホツ姫は出雲大神宮の祭神でもあるが、ミホツ姫は一般にはタカギの神の娘でオオクニヌシの妻ということになっているが、出雲神族ではオオクニヌシの娘と伝えられているという。あるいは、王仁三郎は出雲神族の神と知りつつ、密かに祀っていたのかもしれない。単に出雲大神宮の神として祀っていたのかもしれないが、そうならそれを秘密にする必要もなかったであろう。また、弾圧を恐れてオオクニヌシとミホツ姫という出雲神族系の神を密かに祀っていたということもありえるが、一方では王仁三郎は第二次大本教弾圧を挑発していたところもあるのである。王仁三郎には出雲神族の神を世に出す気がなかった、さらにいえば天孫族がしたように意識的に出雲神族の神が表に出ることを抑圧しようとした可能性も考えなけれはならないであろう。どちらにしても、出雲大神宮の中央は空位で、クナトノ大神を祀っていたと考えられるが、王仁三郎が秘密裡で出雲神族の神を祀っているにしても、それがクナトノ大神ではないということは、王仁三郎は出雲神族の祖神がクナトノ大神であることを知らなかったのかもしれない。
王仁三郎が広瀬宮司の父親に世話になったことがあるかどうかはよく分らない。『我が半生の記』の小学校時代の話にはそのことはでていない。出口和明『大地の母』あたりにはそのことが記されている可能性もあるが、手元にあるのは第七巻だけで、そこでは明治三十五年の三度目の高熊山修行の前に出雲大神宮や愛宕山に参拝しており、出雲大神宮では藤本宮司という人と社務所で話をしたが、王仁三郎とは歌席を共にしたことがある旧知の仲とされている。
皆神山の小丸山古墳は天照大神の陵とされるが、いずとみず発行『出口王仁三郎聖師と信州・皆神山』の資料中の長野市松代町豊栄地区の『とよさか誌』によれば、同じく山上の熊野出速雄神社は熊野とは本来関係なく、単に出速雄神社であったものであり、社伝では養老二年(719)に勧請されたとされるが、延久元年(1069)神家大祝為盛が豊栄関屋に移り関屋氏と称した頃に創まるとも考えられている。出速雄命は健御名方の三男といわれ、北信地方を開拓した神であり、皆神山はもともと出雲神族と結びつく山だったといえる。皆神山を介しても王仁三郎と出雲神族が結びついているといえる。大石凝真素美の皆神山帝都論にしても、皆神山がもともと出雲神族と結びつく場所であることを考えるなら、単に天皇を皆神山にもってくればいいということではなく、出雲神族と天皇・天孫族との和合の上での帝都であって、その時万代不易の松の代が出現するということだったのではないだろうか。
直と出雲神族であるが、出口王仁三郎は皆神山の熊野出速雄神社の神は綾部の産土神と同じであるとする。それに関しては、王仁三郎が綾部の熊野新宮社と熊野出速雄に同じ熊野がつくからそういったのか、熊野の神がもともと出雲神族の神であった可能性があることを踏まえてそういつたのかよくわからない。また、安丸良夫『出口なお』によれば、のちに王仁三郎が大本教団に参加してくると、国学系の神道説をかりた多様な神々が登場するが、直のより原初的な神学では、いくつかの仏と土俗神が、零落して「世に落」されていた神々とされているいい、そのような神の中に不動明王が出てくる。また、竜宮の乙姫、金勝要神、「出雲大社大神宮」など、初期に登場する神に竜蛇体のものが多いことは興味深いという。不動明王は出雲神族の裏信仰でクナトノ大神にあたるものであった。お筆先では不動明王は仏の眷属神におちぶれているが、本当は力のある立派な神で、「今度出世が出来るぞよ」といわれているというが、このお筆先の不動明王を直接出雲神族の不動明王に結びつけるのには無理があるであろう。弥仙山籠りは「出雲大社大神殿」と弥仙山の「木花咲哉姫殿」との和合をはかったものともされるが、本来和合がはかられなければならないのは、「出雲大社大神殿」と「木花咲哉姫殿」でもなく、「出雲大社大神殿」と天照大神でもなく、熊野大社のクナトの大神と天照大神なのかもしれない。
本宮山には破壊された長生殿の十字の礎石の上に穹天閣などの瓦礫となった石などを集め、土を盛った月山不二があり、その頂上に延暦の富士山噴火で山梨県富士吉田市の明日見に落ちてきたという丸い霊石が置かれている。あるいは、この月山不二も出雲神族と関係するかもしれない。明日見は三輪義熈『神皇記』で概説された「宮下文書」が出てきたところであり、武田崇元『出口王仁三郎の大降臨』によれば、大本教と「宮下文書」には深い関係があり、「宮下文書」は「富士文庫」といわれているが、『霊界物語』第七十三巻「天祥地瑞」子の巻に、本書は富士文庫に明記されたる天之世を初めとし、天之御中主之世、地神五代より今日に至る万世一系の国体を闡明せんとするものにして、とあるという。さらに、これだけでは王仁三郎が「宮下文書」を参考にしたかもしれないということで終わってしまうかもしれないが、両者にはもっと根底的で不可解な謎があるという。「宮下文書」のなかに、国狭槌尊が大陸から渡来した時のルートに「休通島」という地名があるが、三輪義熈はこれを「きゅうつうしま」と読んで隠岐島と推測しているが、これは「くつしま」と読むべきで、国狭槌尊は対馬から日本海を北上して休通島を通り佐渡島に渡っているから、この休通島は沓島以外にはありえないといういう。
能登の石動山の東北45度線上に沓島・大江山があったが、石動山からの西北45度線上に明日見がある。また。また、石動山の東北60度線上に出雲大神宮・愛宕山・国分の愛宕神社があるとしたが、天恩郷もその方位線上にある。石動山がもし出雲神族と関係する山であるとすれば、月山不二の頂上の丸石は出雲神族とも何らかの関係があるとも考えられるわけである。また、鈴木貞一『日本古代文書の謎』では「宮下文書」の農立比古すなわち国常立命が淡路島から移った田場の国真伊原の桑田宮の地は出雲大神宮の地であるとする。『神皇紀』の関係のありそうなところを拾い読みした限りではそこまではっきり書かれていなかったので、あるいは鈴木貞一氏の推定かもしれないが、もし淡路島の宮が伊弉諾神社の地だったとすると、出雲大神宮と伊弉諾神社が東北45度線をつくるので、石動山と出雲大神宮が東北60度線をつくることも合わせ、方位線的には魅力的な仮説となる。なお、伊弉諾神社は内宮神体山の鼓ヶ岳と東西線をつくっている。
石動山―大明見と小明見の中間の814.6m標高点(E1.718km、0.41度)の西北45度線
石動山―天恩郷・万祥殿(E0.329km、0.07度)の東北60度線
出雲大神宮御影山335m三角点―伊弉諾神社(E0.089km、0.05度)の東北45度線
鼓ヶ岳―伊弉諾神社(N0.128km、0.04度)の東西線
安丸良夫『出口なお』によれば、王仁三郎の加入以前の段階では、達磨と艮の金神が一体視さるようなばあいがまれにはあったにしても、直の神は、たんに艮の金神とよばれた。それが、王仁三郎の国学的・国家神道的影響により、艮の金神は国武彦命・稚姫君命・国常立命・大国常立命・弥勒などのことだとされていき、王仁三郎の神格も小松林命から素盞嗚命、坤の金神、弥勒とされていく。安丸良夫氏によれば、天皇制国家の公的タテマエをすすんで受容していくことが、青年期以来の彼の立場だった。それに対し、直には王仁三郎の国学的神道説の系統にたつ教学へのなにか根本的な異和感と、みずからの神の独自で根元的な権威性についての、あるしたたかな感覚があったという。また、直にとって宇宙の至高神は月日様であって、艮の金神はその指図によって地上を支配する神にすぎず、月日様は天照皇大神宮殿と結びつけられているが、こうした月日様→天照皇大神宮殿という色調をもって、なおの神学が伊勢信仰から天皇制神話の受容に通ずるものとは考えることはできないという。伊勢信仰についての批判は「伊勢の地、大神宮殿、伊勢の地はみぐるして地では守護が出来んから、天に御上り遊ばして、大神様が天へおあがり遊ばして、地に守護神が四足の守護神となりて居る故に、さぱり世が乱れてしまうのざどよ。」などと弥仙山籠りにさいして述べられており、これは元来、伊勢に鎮座すべき大神様が天にのぼってしまったとするものだが、それ故、直にとって伊勢とはけがれてしまって神のいなくなってしまった伊勢ではなく、元伊勢であり、「四足の守護神」とは伊勢神宮の神官のことなどというより、天皇を指すものであり、筆先には、天皇制をはじめとする現存の秩序や価値へのはげしい批判がふくまれているという重要な問題があるという。ただ、お筆先はごく初期以来一貫して天照大神、出雲大社、宇佐八幡宮、直の生家の氏神である福知山一宮神社、出口家の氏神である熊野新宮社などを肯定しており、艮の金神が天照大神の妹神の稚姫君命のことだとか、国常立命のことだとかされたのも、直独特の神道説の発展による至上神化であり、そこに王仁三郎の知識が媒介されているとしても、それは直の思想にとって異質のものではなかったともいう。
直は伊勢ではなく元伊勢を重視したというが、出雲神族の立場からいえばその区別はどうでもいいことともいえる。大本教は出雲神族と方位線的に深く関係しているが、同時に伊勢・元伊勢とも深く関係しているのであり、さらにその両者は複雑に重なっている。真名井神社・籠神社はクナトの大神と関係すると同時に元伊勢でもあり、元伊勢内宮は兜山の熊野神社と出雲大神宮の西北45度線上にある。小幡神社と方位線をつくる伊勢神宮内宮は伊雑宮と方位線で密接に関係しているが、伊雑宮は元伊勢であると同時に出雲神族とも関係している。内宮自体が、伊勢はもともと出雲神族の国であることを考えると出雲神族の神と関係していた場所だった可能性もあるであろう。
小幡神社・高熊山岩窟が鼓ヶ岳と西北30度線をつくっていたが、小幡神社・高熊山岩窟の西北30度線上には元伊勢伊雑宮の神体山である青峰山もあるといえる。それに対して、出雲大神宮神体山の御影山の西北45度線には元伊勢の滝原宮がある。これは、元伊勢の皇大神社と滝原宮が方位線で結ばれているともいえる。鞍馬寺と南北線をつくる熊野本宮大社と滝原宮が東北45度線をつくり、その方位線上に斎宮があり、斎宮と内宮、鼓ヶ岳と伊雑宮が西北45度線をつくるという関係になっている。内宮と伊雑宮の関係でいえば、青峰山と内宮正宮が西北30度線をつくっていた。
青峰山―小幡神社(W0.694km、0.30度)―高熊山岩窟付近(W1.911km、0.81度)の西北30度線
滝原宮―出雲大神宮御影山335m三角点(E0.087km、0.05度)―日室山(E1.030km、0.35度)―の西北45度線
本宮旧地大斎原(W0.214km、0.11度)―熊野本宮大社(W1.097km、0.76度)―滝原宮―斎宮DT中央部(W0.787km、1.72度)の東北45度線
斎宮DT中央部―内宮正宮(E0.133km、0.58度)の西北45度線
鼓ヶ岳―伊雑宮(E0.306km、1.39度)の西北45度線
綾部の梅松苑は亀岡の天恩郷と西北45度線をつくるともいえるが、より正確には国分の愛宕神社と西北45度線をつくる。なお、国分の愛宕神社の西北45度線上に元伊勢外宮の豊受大神社があるが、豊受大神社と梅松苑とは方位線をつくるとはいえない。出雲大神宮と日室山あるいは元伊勢内宮、国分の愛宕神社と元伊勢外宮の豊受大神社がそれぞれ西北45度線で結ばれているわけである。籠神社の場合はその地が元伊勢であるとともに出雲神族の地でもあったが、出雲大神宮では元伊勢と出雲神族の地が分離し、方位線で結ばれているともいえるわけである。
本宮山―天恩郷・万祥殿(E1.494km、2.00度)の西北45度線
国分の愛宕神社―本宮山(W0.983km、1.38度)―豊受大神社(E0.406km、0.41度)の西北45度線
本宮山―豊受大神社(E1.390km、5.04度)の西北45度線
日室山―出雲大神宮御影山335m三角点(W0.943km、0.94度)
この複雑に重なる出雲神族と伊勢・元伊勢のうち、大本教は伊勢・元伊勢の部分だけで活動しているともいえるわけである。 直もまた基本的には記紀の呪縛から逃れられなかったともいえ、出雲神族の神を世に出せなかったともいえる。ただ、「むかしのまことの神々様は、おすがたはみなながもの(長物)でありますそうな、てんせうこうだいじんぐう(天照皇大神宮)も、つきの大神さまも、りうぐうのおとひめさまも、おすがたは大蛇といふことじゃ。そうでなければ、とても三千せかいのたてかへはでけません。大蛇が一ぺんすっととうりたら、せかいは一ぺんにどろうみになるとのことじゃ。こんどの世のたてかへは、世にでゝござる神さんや、くろうなしのやす神ではまにあはんのぢゃ。」というようなお筆先をみると、基本的に直の神は龍蛇神であり、その意味では出雲神族の神にも通じるといえる。
王仁三郎が出雲神族の神に冷淡なのは、国学的・国家神道的傾向だけでなく、その出自からくるのかもしれない。王仁三郎の実家の上田家は天兒屋根命の子孫とされるから天孫族であり、王仁三郎は有栖川宮熾仁親王の落胤ともいわれるが、もしそうなら天孫族中の天孫族ということになる。もっとも、王仁三郎は『我が半生の記』の最初で「王仁は祖先が源平であろうと、藤橘であろうと、將又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要はない。ただ、王仁は日本人であって、畏くも天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。」と記しており、その出自などはどうでもいいことだったかのように語っている。しかし、王仁三郎が有栖川宮熾仁親王の血統を異様に重視していたという指摘もあり、それによれば開祖「神定の」4代教主、出口直美の婿として王仁三郎が選んだ出口栄二の母、家口いくは有栖川宮熾仁親王公認のご落胤だったという(http://onisablog.seesaa.net/category/637487-2.html)。
孝明天皇の子の睦仁親王には長州藩に匿われていた南朝子孫の大室寅之祐とのすり替え説があった。その場合、出口王仁三郎が有栖川宮熾仁親王の落胤とすると、王仁三郎の出自とのかかわりにおいても、王仁三郎と出雲神族との関係は複雑である。有栖川宮熾仁親王は明治になって皇位継承順位では第一位とされていたともいう。すなわち、本来の明治天皇が殺された後の明治天皇は南朝系であり、それに対する北朝系を代表するのが有栖川宮熾仁親王ということになる。そして、睦仁親王を殺し大室寅之祐を擁立した長州藩の毛利氏は大江氏であり、大江氏は土師氏の出で出雲神族ということになるのである。王仁三郎によれば、小松林命は南北朝を合一した北朝の後小松天皇の霊で、後小松天皇のことをよく調べることといっていたらしい(http://onisablog.seesaa.net/category/637487-2.html)。王仁三郎の意識の中では、新たな南朝・北朝の和合ということはあったが、睦仁親王を殺した毛利と出雲神族は許せない、受け入れられないということだったのかもしれない。
このことに関しては、はたして毛利氏が出雲神族だったかどうかという問題もある。毛利氏の祖の毛利広元が大江姓を名乗ったのは晩年になってからで、それまでは中原広元と名乗っていたのであり、その実父についても、大江維光とする他に藤原光能、中原広季とするものなどはっきりしないのである。また、毛利氏が出雲神族に繋がるとしても、睦仁親王殺害にまでいたる維新のエネルギーを支えていたのが長州藩の下級武士や民衆だったとすれば、彼らにどの程度藩主の出雲神族的意識が伝わっていたか疑問である。しかし、王仁三郎にすれば長州藩=出雲神族だったのかもしれない。毛利氏自身どの程度出雲神族的意識があったかも考えざるをえないが、この点に関しては別冊歴史読本『歴史検証 天皇陵』の「阿保親王廟の創出と長州藩」という岸本寛氏の論文に、現在毛利氏の正統系図は天穂日命に始まり、諸士宿祢―本主宿祢―(大江)音人となっているが、これは明治以降のものであり、近世初期に作成され幕府に提出された『寛永諸家系図伝』では平城天皇―阿保親王―本主宿祢―音人とされていたという。文政期(1818〜30)には長州藩による阿保親王墓所の正確な場所を決めるという作業がなされ、阿保親王ゆかりの地が調査されたが、墓所を決定する根拠は現段階では見つからないとしながら、由緒を有し、祖先祭祀を行うことができるなら場所は問題ではないとして、摂津国打出村親王寺に決められた。しかし、明治初年、長州藩の国学者近藤芳樹らによって阿保親王は正統系譜から姿を消されることとなる。明治以降天皇に繋がる家系を否定したということはそれなりの理由があったと考えられ、もしそこに藩主の毛利家の意向が反映していたとすれば、依然として天穂日命を祖としているが、天皇家に繋がることを潔しとしない意識が毛利家では密かに続いていたということかもしれない。
王仁三郎に対して出口直の出自はどうなのであろう。出口利明『いり豆の花』によれば、『大本教祖伝・開祖の巻』では丹波道主命の後裔綾津彦野命は本宮山といわれる綾部の郷・神部の地を卜して永住し、豊受大神を祭っていた。のち神勅によって丹波郡丹波村の比沼の真名井に遷し、子孫が代々奉仕していたが、雄略天皇の時再び神勅により伊勢の山田に遷すことになり、その時神霊を奉持て伊勢へ移住したのが出口の分家で渡会家の始祖となり、その子孫神道家・国学者として著名な出口(渡会)延佳が出ているが、出口家の本家は綾部に子孫繁栄し、現在の綾部市味方にある経津主命を祭神とする斎神社が出口一族の氏神であるとする。出口利明氏は詳細な記録や系図は中世火事によって煙滅したというから、出口家の伝承によったものであろうとする。丹波道主命は開化天皇の孫であり、開化天皇を祭神とする小幡神社と直の関係も出てくるが、伴とし子『古代丹後王国は、あった』によれば、『海部氏勘注系図』によれば丹波道主命は川上眞稚命と称したと考えられ、川上眞稚命は籠神社の海部氏の先祖であるから、そうすると出口直は海部氏とも結びつく。度会氏はその祖を天牟羅雲命あるいは天牟良雲命とし、籠神社の海部氏に繋がるようである。外宮の渡会氏と出口直が同族だとすれば、その点でも出口直は籠神社の海部氏と同族ということになり、出雲神族には繋がらないことになる。
直は出口家の養女であり、福知山の大工桐村五郎三郎とそよの間の長女として生まれたのであり、この桐村家の出自も考えなければならないが、『大本教祖伝・開祖の巻』では桐村家の遠祖を四条山蔭中納言としているというが、その系図は現存していないという。山蔭中納言は吉田山に吉田神社を創建し、その子孫は吉田姓を名乗り吉田神社の神主となっており、吉田兼好や吉田兼倶がいる。「大本教祖評伝」(『神の国』大正十一年一月号付録)のある一説を基にすれば、山蔭中納言が九州におもむいたとき子孫が止まって八代辺りで繁栄していたが、足利尊氏が博多より東上の際それに従い、丹波の船井郡桐の庄を根城にした。明智光秀で丹波を領有したとき、桐村氏は重用されたが、光秀の没落とともに威勢を失い、野鍛冶などをしていたが享保の頃福知山へ移住したということになるらしい。直は自分の血筋は一方は天朝さまに縁の深いもの、一方は天朝さまに敵したものと神さまから教えられたと語っていたらしい。出口和明氏は母方の血筋の出口家の先祖が皇大神宮と縁が深いことと、父方の血筋が逆臣といわれた尊氏を助けたことをいうのか、とする。桐村家は王仁三郎の上田家と同じ藤原氏ということになる。
出口直が伊勢神宮外宮の渡会氏と関係があり、その渡会氏が籠神社の海部氏と結びつくなら、出口直は籠神社の海の奥宮の冠島・沓島とは縁があったということになる。そして、籠神社では少しづつではあるがクナトの大神を表に出そうとしているようにも見えるのであるが、出口直が冠島・沓島開きを行うのも、本来は明治時代にクナトの大神を表に出さなければならなかったということではないだろうか。そして、大本教が和合の教えであるとするなら、弥仙山籠りが東西線上にある出雲大社大神殿と弥仙山の木花咲哉姫殿との和合であったように、冠島・沓島の東西線上にある皇居の天皇とクナトの大神すなわち出雲神族との和合を目指すということでなければならなかったのではないだろうか。大本教得意の型についていえば、直も王仁三郎も出雲神族ではない以上、天孫族と出雲神族の和合の型をだすことは難しい仕事だったはずであり、結局大本教はその型を出すことに失敗したといえるかもしれない。
直の初期のお筆先には、海の底に落とされたり、零落してしまったり、仏に姿を変えてしまった神と一緒に、天照大神、出雲大社、宇佐八幡宮といった有名な神社の神も出ていた。そのなかでも宇佐八幡神は時とともに忘れられていった神のようにも思える。最初に神憑りした直の長女の米が隣家から掘り出した青石を、宇佐八幡の使いという神憑りした女が、その丸石は宇佐八幡の性念であり、掘り出したお礼にお宮を建てるから、今豊前に帰るので御神体を持ってついてこいというので、直は長田と土師の境に性念石を持っていったが、女はそこで「もうこれでよい。ご苦労様でした」といって姿はかき消すように見えなくなり、翌年宇佐八幡の神が直に憑って礼を言ったということがあったという。この話で重要なのは、長田と土師の境に行く途中で、女と直は坪の内の出口家まで行くと、そこで直の息子の清吉と三人で石を集めて四角に積み、石の宮の型をつくったということかもしれない。石の宮は大正二年に元屋敷に建てられたが、中央の石の宮に天照大神、その北側の宮が日の大神、南側が月の大神を祀り、天の御三体の大神の昇降される最も神聖な所とされたが、宇佐八幡神はどこかにいってしまい祀られていない。また、石の宮の型をつくった時のことを語ったと思われるお筆先には、出口の元屋敷には世界の大本になるしるしにおもと(万年青)が植えて見せてある、ともあるが、万年青は大本とも書かれ、その日本名の起源の一つとして、『大言海』には宇佐神宮東方の御許山に良種を産することからこの名が出たとあるという。御許山は宇佐神宮の神体山であり、弥仙山と東北30度線をつくる。出雲大社と宇佐八幡宮が東北60度線をつくっていたが、その出雲大社と弥仙山が東西線上に並んでいるわけである。
弥仙山―宇佐八幡宮(W3.527km、0.48度)―御許山(E0.926km、0.13度)の東北30度線
王仁三郎の方も、彼が小幡神社の社前で拝んでいる時に憑かり、一日も早く西北のほうへ行くことを命じた小松林命は男山八幡宮の眷属とされるが、男山八幡宮と小幡神社が西北45度線をつくっている。男山八幡宮は出雲大神宮と西北60度線をつくるとしたが、御影山とも西北60度線をつくるといえ、より正確には国分の愛宕神社と西北60度線をつくる。真名井神社・出雲大神宮・国分の愛宕神社・岩清水八幡宮の西北60度線のうち、出雲大神宮・国分の愛宕神社・岩清水八幡宮と小幡神社は方位線をつくるといえるわけである。小松林命も後に王仁三郎の神格は素盞嗚命とされ、大本教が国学化・国家神道化していくとともにその散在は小さいものになっていったといえる。
小幡神社―岩清水八幡宮(W0.215km、0.62度)の西北45度線
岩清水八幡宮―国分の愛宕神社(E0.028km、0.08度)―出雲大神宮(E0.382km、0.96度)―御影山335m三角点(W0.735km、1.84度)の西北60度線
速素盞嗚命は世界の人々に代わって天地の罪のあがないをし、後に天津神のゆるしを得て月の国にのぼり、月読命になったと『道の栞』にはあるといい、王仁三郎は自分を月の神さまなんやと言っていたらしい。男山八幡宮の眷属から素盞嗚命、素盞嗚命から月の神・月読命に神格が移行しているわけであるが、菟狹族すなわち宇佐氏は月読命を祖神としていた。その意味では、石の宮の月の大神は八幡宮の神といえなくもない。ただそうすると、王仁三郎の大江山に対する見解が腑に落ちない。宇佐氏によれば、菟狹族の原郷は大江山であり、大江山は月読命と結びつく山であり、王仁三郎にとっても重要な山でなければならなかったはずである。また、畝傍山と大江山が西北60度線をつくり、兜山と西北45度線をつくっていた。芦別岳と方位線をつくるのが畝傍山だったとするなら、大江山は芦別岳の艮の金神と喜界ヶ嶋の坤の金神を方位線的に結びつける結節点のような場所だともいえる。しかし、王仁三郎によれば大江山は日本の悪霊の集まっているところとされるのである。
大江山が悪霊の集まるところとされるのは、直のお筆先に王仁三郎の肉体に憑っている小松林命は悪霊で、坤の金神の守護に変ることが望まれているから、あるいはそのことと関係があるのかもしれない。出口和明『いり豆の花』によれば、王仁三郎の妻の澄は山城と丹波の境の大枝山(大江山)近くの王子に住んでいた次姉琴のもとにやらされ苦労したが、酒呑童子の住む丹波の大江山は大枝山のことで、琴が澄にそそぐ異常なまでの憎しみも、大江山の鬼の霊が姉に憑依しての仕業と考えていたという。直のお筆先にも、大槻鹿蔵は大江山の酒呑童子、米は大蛇の霊魂、世を乱し、世界の極悪の神ゆえ、とある。大江山の酒呑童子から、大江山と悪霊が結び付けられているのかもしれない。
あるいは、王仁三郎によって日本の兇党界の頭の山本五郎衛門の本拠とされれる筑波山は、その方位線上に鹿島神宮・香取神宮・氷川女体神社など出雲神族と関係のする神社が取り巻く場所であるが、大江山も兜山の熊野神社と出雲大神宮の西北45度線上にあり、また真名井神社とも東北60度線をつくっており、その方位線上に出雲神族と関係の深い場所が存在している。大本教は出雲神族の方位線上に展開しているように見えるととしたが、悪霊こそ出雲神族の方位線上で活動しているということなのであろうか。王仁三郎によれば素盞嗚命は安来港に上陸して大蛇退治をしたが、退治された八岐大蛇は邪霊になったという。また、八岐の大蛇は当時における大豪族の意味であって、八人の大将がいたから八岐というのであり、伯耆の大山に逃げ込んで割拠していたのを討征されたのだという。この素盞嗚命に退治された八岐大蛇すなわち豪族は出雲神族をさしているとしか思えないから、王仁三郎は出雲神族を悪霊と見ていたということになる。