神道集児持山之事
神道集と子持山
子持山の方位線
中之条町一帯の神社
子持山と榛名・赤城山
和理比売神社との方位線
子持山と出雲神族
伊香保大明神之事
赤城大明神之事
赤城山の西、北群馬郡子持村の北に位置する子持山は、麓に子持神社が鎮座し、南北朝時代の文和・延文年間(1352‐1360)に成立したともいわれる『神道集』のなかに、「児持山之事」がある。大筋を述べれば、伊勢の国で継母の弟加若次郎和理と幸せな夫婦生活を送っていた児持御前に、時の国司が横恋慕し、その策略で夫は下野国室の八島に流されてしまう。子どもを身ごもっていることを知った児持御前は、夫を助けようと継母と夫の甥であり上野の国の目代をしている藤原成次という人を頼って、阿野の港から乳母一人を連れて東国に向かう。尾張の熱田神宮に着いた児持御前は、鳥居の外の小さな家の女房の親切で無事子供を産む。熱田を出発した児持御前は途中二人の武士に助けられながら、上野の国の国府に着くと、藤原成次は山代の庄の岩下という山里に配置換えになっているという。二人の侍に同道され、児持御前が山里深く訪ねていくと、藤原成次は皆を大いに歓待し、夜になって二人の武士とともに児持御膳の夫を助けに下野に出発する。室の八島に着くと加若次郎和理は厳重に牢に閉じ込められており、二人の侍は神通力を現し和理を助け出すと宇都宮に至る。河原崎というところでもう一人の侍が出てきて、三人の武士は何事かを相談していたが、こうして和理は山代の庄岩下で待つ妻のところに戻る事が出来る。そこで三人の武士が実は尾張の国の守護熱田大明神、信濃の国の鎮守諏訪大明神、そして宇都宮大明神であることが明かされ、児持御前と和理は神道の法と「大仲臣経最要」が授けられ、神通力を備える身となって、それぞれの人間を神として顕す。児持御前は群馬の白井の保の内にある武部山を児持山と名を替え、そこで児持山明神となり、乳母の侍従の局は大鳥山の北の手向て羊午木守と顕れ、若君は友東宮(トツキトウノミヤ)といって岩下の鎮守と成り、加若次郎和理は見付山の手向神となって、和理(スサト)大明神といい、山を和理嶽と呼ぶ。藤原成次も尻高の山代大明神となり、山代の庄は吾が妻に合わせてくれた祝いの処なので山代を吾妻と換え、阿野の津より熱田まで馬に乗せてくれた人を神としたのが白専馬(シラタウメ)大明神である。また、児持御膳の実父母である阿野権守夫婦は津守大明神といって、伊勢大神宮の荒垣の内におられるのがそれであり、和理の父母も同じく神とされて伊賀の国三宮の鈴鹿大明神となる。児持御前の継母も阿野明神となり、熱田で産所を貸した女房も鳥居明神といって鳴海の浦に立っているのがそれである。 以上、主に平凡社東洋文庫の『神道集』によるが、一部尾崎喜左雄著『上野国神名帳の研究』を参照している。『上野国神名帳の研究』によれば、それぞれの場所は大略次のようになっている。
大鳥山北手向羊午木守
大鳥山の北の峠の神であろう。羊午木守とははっきりしない。長尾村(現在子持村)大字横堀字夏保に「大鳥神社」がある。神名羊午木守と地名横堀とに訓みで関係あるようにも見える。この神社にあたっているであろう。横堀という地は三国街道の中山峠越えの南側中腹である。
岩下鎮守(愛)東宮
(愛)東宮という文字がはっきりしない(愛の字は平凡社版によるが、『上野国神名帳の研究』では違った字になっている)。その訓みは「トツキトウノミヤ」とある。「トツキトウ」とは「懐妊十月十日」から発想されて、「東宮」にかけたものであろうか。若君を意味する神名である。且つ岩下は地名であり、その隣地大字矢倉には鳥頭(トットウ)神社が鎮座しており、この社名にかけたものではあるまいか。「トツキトウ」は「とっとう」から造り出されたものであろう。その「鳥頭」の名は岩櫃山の山頂が「とさか―鶏冠」に見えるところからとられたものであろう。
見付山手向神和理大明神
見付山の峠の神であるが、見付山は明らかではない。嶽山であろうかと言われている。「和理」の名は、中之条町(旧名久田村)大字横尾字七日市の吾妻神社に残っており、この神社を和理宮(わりのみや)、割宮と称した。その鎮座地は峠ではない。但し社殿では他から遷座したと言っている。
尻高の山大明神
現在、尻高には登録された神社の存在は見当たらない。字関田に尻高山明神がある由。
岩尾山駒形の白専馬大明神
岩尾山は不明であるが、中之条町大字青山に駒形明神の石宮があり、白専馬明神は大字市城に「はくとうめ」とよばれる石宮があり、明治年間に白鳥神社と改称した由である。
羊午木守神は、『神名帳の研究』における引用文では、乳母の子の侍従の局となっているが、これはやはり平凡社東洋文庫の『神道集』にあるように乳母そのものとすべきであろう。尻高(しったか)の山大明神であるが、これは平凡社東洋文庫版では山代大明神とあり、それから代が抜けたものと考えられる。関田地区の関田神社の社殿の脇に小さな石の祠が二つあり、その小さいほうに山神宮と刻まれていたが、これが関田の尻高山明神のことなのであろう。見附山のことではないかとされる嶽山は、吾妻神社の西北、中之条町五反田にある嵩山(たけやま)であろう。『群馬県の歴史散歩』(山川出版社・新全国歴史散歩シリーズ)によれば、嵩山近くの五反田には和利宮があり、吾妻神社は嵩山と関係深い社ではないかとする。吾妻神社の境内に立っていた由緒が書かれた板版にも、嵩山を神体山とするといったことが書かれていたような気がする。その部分はメモしてこなかったのであるが、メモした部分によればもともとは、西南三丁ほどのところにある御洗水(みたらし)山の山頂に本殿があり、現在地には拝殿があったのだという。白専馬(シラタウメ)大明神であるが、平凡社東洋文庫版では白専女(シラトウメ)大明神となっている。また、『神名帳の研究』では、「岩尾山ニ駒形トテ今ニ至ト云処ニ」とあるのが、平凡社東洋文庫版では今至というのが地名になっている。『吾妻郡社寺録』の東村大字奥田字宮貝戸にある白鳥神社の項によれば、本社石碑の断片に正応五年(1292)の年号のものもあり、少なくともその創建は文明十八年(1486)以前という古社であるが、その所在地が明治初年迄は白頭の森といわれていたといい、明治元年白頭神社と改め、その後白頭大明神から明治十二年現在の白鳥神社になったという。小泉の白頭目神と同神で、白頭明神は牧場守護の神で、牛馬の祖神であり、当社をはじめ市城の白頭神社、青山の駒形神社、小泉の旧白頭神社、植栗の駒形神社等吾妻川をはさんで南北に相対峙して馬に関係した神社があるのは、何れも市代牧と縁故のあるためであろうとする。市代の牧は古代の官牧である上野九牧の一つで、その場所については『群馬県の歴史散歩』に詳しく、市城駅から東方へ50m、目通り5.1m、樹齢500年以上というサイカチの巨木をさらに東に50mほど進んだ左側に応永年間(1394〜1428)の銘のある宝塔があり、その市城の古塔から左側の道を北の山に向かって登ると駒形明神があり、ゆるい傾斜地になっているが、その付近から東方の不動沢川にかけてが、市代の牧の中心だったのではないかという。そうすると、そのすぐ東にあるのが市城の白鳥神社であるから、市代の牧ともっとも関係が深いと考えられ、白専馬大明神はこの神社であろう。
子持山と子持神社の関係をみると、方位線ではないが子持山と子持神社、それに子持神社奥ノ院が一直線に並び、そこに何か強い幾何学的磁場が働いていることを窺わせる。方位線的には、まず子持山と吾妻神社が東西線をつくり、大鳥神社が吾妻神社、子持神社奥ノ院とそれぞれ西北30度線、東北60度線をつくる。この方位線関係が単なる偶然とも思えないのは、吾妻神社―大鳥神社の方位線上に子持村(旧長尾村)大字北牧字宮地にある若子持神社が位置することである。『神名帳の研究』によれば、若子持神社は当初の子持神社の鎮座地で、ここから現在地に移ったとしている。ただ、これはそのような伝承があるのかどうかは分からない。著者によれば、若子持の若にはそういう意味があるというのである。大鳥神社はさらに、関田神社の尻高山明神と西北60度線をつくる。
子持山(0.53°)―子持神社奥ノ院―子持神社の直線(0.5°)
子持山―吾妻神社(S0.04km、0.17°)の東西線
子持神社奥社―大鳥神社(W0.03km、0.35°)の東北60度線
吾妻神社―大鳥神社(W0.02km、0.1°)―若子持神社(W0.02km、0.08°)の西北30度線
大鳥神社―関田神社(0km、0°)の西北60度線
吾妻神社の元鎮座地である御洗水山の位置であるが、現地であの山かと思ったのは方向違いであった。地図で西南三百メートルほどのところを見ても、明確に山あるいは峰とわかるような地形でなく、張出し台地のような地形はあるが、そこにあったということなのであろうか。とりあえず吾妻神社から西南45度で三百メートルの処とみなしても、そんなに違いはないであろう。いま、御洗水山をその地点とすると、御洗水山と市城の白鳥神社が西北45度線をつくる。白鳥神社の位置であるが、明治四十四年に中之条町大字伊勢町字天代の伊勢宮に合祀されたが、昭和十九年地元氏子崇敬者の希望により分霊し、旧鎮座地に復帰祭祀することとなったというから、いまの位置がもともとからの位置と考えられる。ただ、白鳥神社の由緒・沿革によれば昭和二十四年伊勢宮より分社勧請し、二十五年建立とあるから、戦争中にそのような話が持ち上がり、終戦後の収まった頃に社殿が建てられたということなのであろう。この白鳥神社と御洗水山の方位線を延ばすと嵩山があり、また若子持神社―大鳥神社―吾妻神社の方位線を延ばすと、嵩山の里宮である親都(ちかと)神社がある。また、吾妻神社と嵩山とが密接な関係があると考えられたが、そうすると鳥頭神社も嵩山と東北60度線をつくるので、嵩山を介して子持山方位線網に組み込まれていることになる。なお、親都神社は岩櫃山と東北60度方位・方向線をつくるので、このことからも鳥頭神社と岩櫃山の関係が窺われる。
嵩山三角点―御洗水山(0km、0°)―白鳥神社(E0.06km、0.47°)の西北45度線
親都神社―吾妻神社(E0.11km、1.86°)―大鳥神社(W0.13km、0.48°)―若子持神社(W0.13km、0.43°)の西北30度線
嵩山三角点―鳥頭神社(E0.07km、0.5°)の東北60度線
岩櫃山―親都神社(W0.20km、1.77°)の東北60度線
総ての神社が『神道集』の時代も現在の場所だったかどうかはわからない。とくに、尻高山代大明神が関田神社にある山神宮のことだとすれば、後代そこに合祀された可能性もある。これらの方位線が当時にも認められるかどうかは断言できないわけである。ただいえることは、『児持山之事」で結ばれた神社が現在的には深い方位線関係で繋がっているということであり、『児持山之事」が作り出す空間は、その時間軸の中で方位線ネットワーク化という磁場が強く働いているということである。
吾妻神社も問題であろう。中之条町観光協会の親都神社に関するホームページをみていたら、和利宮はもともと親都神社の地にあったのを、そのあたりを支配していた塩谷氏が自分を守ってくれる神として伊勢町の東端の「ミタラシ」というところに移したとあった。後に火災にあい、いつの頃か横尾の現在の地に社殿を造ったというのであるが、情報は錯綜していて、同協会の吾妻神社のホームページでは、弘治2年(1556)塩谷氏によって御手洗山から現在地に移されたことは出ているが、親都神社の地から移されたことは出ていない。それに、現在地に移った時期も明確で、いつの頃かという曖昧なものではない。火災が原因というのも、拝殿があった現在地に参詣に不便なので本殿も移したという吾妻神社の説明板と違う。『吾妻郡社寺録』では、文化9年(1812)の火災で本殿と共に古文書類も殆んど焼けてしまったとあるが、もし火災がこの時のことをいっているなら、現在地に移ったのはかなり後代のこととなる。この場合も、その時期はいつの頃かというような曖昧なものではなくなる。ただ、元禄6年(1693)の五反田村絵図には嵩山を「わりのたけ」、神社を七社大明神と記されており、吾妻七社とは神道集に出てくる神社のことであるというから、親都神社が江戸時代和利宮とされていたのは確かなのであろう。『吾妻郡社寺録』の親都神社の項にある貞享三年御検地水帳(1686)には「森一反十二歩 宮建有之 和利宮境内 宮守 四郎太衛門」とある。その項は後に親都神社に合祀された神社の御検地水帳における記載分を集めたもののようであるが、この記載に合うような合祀神社はないようなので、これは親都神社のことであろう。明治時代になって合祀された神社のなかには、字和利無格社諏訪神社というのもあるが、この字和利というのはどのあたりなのであろうか。他の合祀された神社の字名は地図で確認できるのであるが、この字和利は2万5千分の1地図にはない。吾妻神社が嵩山を神体山とするなら、もともとは嵩山の近くに在ったとする事のほうが自然であるから、和理大明神は親都神社の処にあったのが、御手洗山そして現在地へと移ったのであろう。それは、『神道集』が出来た後のことかもしれない。しかし、『神道集』の頃の和理大明神が親都神社の地にあったとしても、方位線的にはなんら問題はないであろう。逆に、鳥頭神社と嵩山との関係を考えるなら、その方がスッキリするともいえる。またその後、御手洗山さらには現在地へ移されたとしても、それらの場所は嵩山や親都神社と方位線を作っているのであるから、『神道集』の「児持山之事」に方位線が強く関わっていることの証明に逆になるともいえるわけである。
ところで、宇都宮大明神は話の筋ではなんら活躍の場はなく、とって付けたような感じが否めない。宇都宮大明神をどうしても話のなかに入れなければならない何らかの理由があったのであろうか。塩谷氏が下野の塩谷氏と関係するとすれば、下野の塩谷氏は源義家の孫頼純に始まるが、宇都宮座主宗円に始まる宇都宮氏から養子が入り以後宇都宮氏系とみられたということであるから、このことから宇都宮が重要だったのかもしれない。しかし、1440年頃には塩谷氏は嵩山周辺を支配していたというが、『神道集』の時代はどうだったのだろう。方位線的にいうと、宇都宮大明神とは宇都宮の二荒山神社のことであろうから、子持神社と東西線で繋がっていることになる。その東西線を西の延ばすと、矢倉の西隣の岩下地区を通る。和理たちは宇都宮からこの東西線上を子持御前が待っている岩下まで戻ってきたわけである。他の二神であるが、諏訪大明神も諏訪神社神体山の守屋山と吾妻神社が東北45度線で結ばれている。その二つの方位線は岩櫃山の東の方向約3kmから少し北よりのところで交わる。ただ、熱田神宮からの東北45度線は吾嬬山の西側、幅からいえば3.5km程のところを通り、子持山関係のポイントとは方位線をつくらない。熱田神宮については、鳥居明神に注目しなければならないであろう。鳥居明神になった女房はもともと熱田神宮の鳥居の近くに住んでいたはずなのに、鳥居明神となった後では、鳴海の浦に立っていることになっており、これはすこし変な話である。その女房は、熱田神宮と鳴海を結びつける、あるいは一体化するために挿入されているのでないかとも考えられるのである。鳴海の浦に立つ鳥居明神とは、鳥居だけが立っているとも考えられないから、それは神社の鳥居であろう。鳴海の神社といえば、成海神社がまず考えられる。その祭神はヤマトタケルとミヤズヒメで熱田神宮とも関係が深い。そして、成海神社はもともと鳴海城跡のところに在り、築城の時現在地に移転したというのであるから、この鳴海城跡の方位線をみると、親都神社と東北45度線を作る。あるいは、鳥居明神が女性であることから、鳴海近くのミヤズヒメを祭り熱田神宮元宮ともいわれる氷上姉子神社も浮かんでくるが、氷上姉子神社も親都神社と東北線を作ることにはかわりない。鳥居明神は子持山がつくる方位線のネットワークと熱田大明神を方位線をからめて結び付ける役割が与えられているのかもしれない。あるいは、もともとは成海神社あるいは氷上姉子神社が子持山方位線ネットワークと方位線で結びついており、その関係でそれらの神社と関係の深い熱田神宮の神が話の中に登場することになったのかもしれない。宇都宮二荒山神社・子持神社の東西線と鳴海城跡や氷上姉子神社の東北45度線とは、ちょうど岩下と矢倉の境目あたりで交わる。熱田神宮からの東北45度線を考えても、それらの方位線は岩下・矢倉を中心とした地域で交わるということがいえるであろう。「子持山之事」においても、岩下は重要な地である。これは単なる偶然なのであろうか。少なくとも、子持山の話に三人の神を持ち出してきた人々が、その地理関係を把握していたとは考えにくい。その一致が単なる偶然ではないとすれば、そこに何か見えない力が働いていたということになる。
宇都宮二荒山神社―子持神社(S0.17km、0.12°)の東西線
守屋山―吾妻神社(W0.39km、0.23°)の東北45度線
親都神社―成海神社(E0.26km、0.06°)―氷上姉子神社(E0.48km、0.11°)の東北45度線
『神道集』やその中の「児持山之事」を知ったのは、方位線のことを話しているうちに、知人の出身地にも方位線が見つかるかどうかという話になったことがきっかけであった。そのときに、注目される神社として五つぱかりの神社があげられ、同時に参考書として貸してもらった二冊の本の中の、『上野国神名帳の研究』に神道集のことが記されていたのである。その時あげた神社は、すでに出ている吾妻神社、親都神社の他に吾妻町大字原町字大宮の大宮巌鼓神社、同大字金井字市敷の一宮神社、同大字厚田字馬渡の太田神社であったが、調べると、次のような方位線関係が浮かんできた。
大宮巌鼓神社―一宮神社の西北30度線(0.02km、0.83°)
大宮巌鼓神社―太田神社の東北60度線(0.04km、0.49°)
一宮神社―太田神社の東北45度線(0.07km、0.81°)
これら三つの神社は十分方位線三角形を作っていると思えるが、その他にも吾妻神社をめぐって、
吾妻神社―親都神社の西北30度線(0.11km、1.86°)
吾妻神社―太田神社の東北45度線(0.16km、1.14°)
吾妻神社―一宮神社の東北45度線(0.23km、4.23°)
という方位線が一応考えられた。このうち、親都神社や太田神社との方位線は、幅あるいは偏角的にみて方位線とみなしていいであろう。それだけで、五つの神社は方位線で結ばれていることになる。ただ、吾妻神社・一宮神社・太田神社が一つの方位線にまとめた方がほうがすっきりする事も確かであるし、地図上で太田神社と一宮の東北45度線を引き、その線のそばに吾妻神社があるのを見ると、吾妻神社もその方位線に含めたくなる誘惑にかられることも事実である。それらの神社を一つの方位線とするためには、その方位線以外にそれらの神社間に何らかの関係性が欲しくなる。あるいは、その方位線上をより強力な方位線が走っていてもいい。いわば、その強力な方位線が発するより強力な磁場を考えるなら、その磁場を感知する場所はより遠くまで広がるから、その方位線の幅もそれだけ広くてもいいというわけである。実際、一宮神社のすぐ側を諏訪大社神体山の守屋山と武尊山を結ぶ方位線が通っている。
守屋山―武尊山(W0.1km、0.04°)の東北45度線
守屋山―一宮神社の(W0.16km、0.1°)東北45度線
守屋山と武尊山との関係であるが、武尊山はホタカと読み、信州の穂高とも関係があるのではないかといわれ、武尊山周辺の16社ほどある武尊神社のほとんどはヤマトタケルを祭神とするが、水上にある二社は穂高見命を祭神にしているという。信州の穂高であるが、穂高神社と諏訪大社上社本宮が西北60度線を作っている。このことから、諏訪神社とその神体山の守屋山がホタカと方位線で強く関係しているということがいえる。
諏訪大社上社本宮―穂高神社(E0.61km、0.79°)の西北60度線
吾妻神社と一宮神社の関係であるが、一宮神社は貞観3年(861)上野国一の宮の抜鉾大明神の御分霊を勧請し、旧号を正一位一宮大明神と称したとあるように、貫前神社と関係の深い神社であるが、吾妻神社がもともと在ったといわれる御洗水山がその貫前神社と南北線をつくっており、貫前神社を介して一宮と吾妻神社は関係しているといえる。一方、貫前神社もホタカと方位線で結ばれている。貫前神社と穂高神社奥社が東西線をつくるのである。
貫前神社―御洗水山(E0.17km、0.26°)の南北線
貫前神社―穂高神社奥社(S0.18km、0.09°)の東西線
前提として一宮神社と太田神社が方位線を作っているとすると、吾妻神社と一宮神社は貫前神社を介して関係し、またホタカを介して守屋山と武尊山にも関係するわけであり、これらのことから、守屋山と武尊山それに吾妻神社・一宮神社・太田神社が一つの方位線を作っているとも考えられるわけである。一宮神社と太田神社の方位線であるが、太田神社が一宮神社・大宮巌鼓神社ばかりでなく、矢倉と三島の鳥頭神社と方位線をつくり、二つの鳥頭神社も方位線を作ることから、太田神社は方位線と関係の深い神社と考えてもいいのではないだろうか。なお、三島の鳥頭神社は御手洗山と方位線をつくるが、三島の鳥頭神社が造営されたのは元亀・天正(1570年代初め)の頃といわれるから、『神道集』の時代よりだいぶ後のことである。また、小池氏が日本武尊を祭神として祠を三島の荘に創建したというから、大穴牟遅を祭神とする矢倉の鳥頭神社とその点では関係がないようである。
守屋山―太田神社―一宮神社―吾妻神社―武尊山の幅0.39kmの東北45度線
太田神社―一宮神社―吾妻神社の幅0.23kmの東北45度線
太田神社―矢倉の鳥頭神社(0km、0°)の西北45度線
太田神社―三島の鳥頭神社(E0.01km、0.24°)の西北30度線
矢倉の鳥頭神社―三島の鳥頭神社(0km、0°)の東西線
三島の鳥頭神社―御手洗山(W0.06km、0.4°)の東北30度線
親都神社と大宮巌鼓神社の関係であるが、『上野国神名帳の研究』によれば嵩山山頂の尖岩を拝するように親都神社の社殿の背面が向き、社殿及び参道の石階の方向が大宮巌鼓神社付近にあたっているとある。実際に嵩山・親都神社・大宮巌鼓神社は一直線上に並ぶ。また、この辺りで直線が意識されていたことを窺わせる話が、『群馬県の歴史散歩』に載っている。それによれば、真田氏の支配下となった岩櫃城は1614(慶長19)年廃城となり、城下町を平沢から観音原と呼ばれていた現在の原町に移したが、原町の町割については、槻の木(原町大ケヤキ)と岩櫃山中腹の子持岩を結ぶ直線上に町を置いたのだという。 あるいは、子持山・子持神社奥ノ院・子持神社の直線と、嵩山・親都神社・大宮巌鼓神社の直線は対になるものとして捉えられ、対になる二つの直線にそれぞれ妻と夫が割り振られたのかもしれない。大宮巌鼓神社の創建は800年は下らないとされるが、子持神社奥ノ院と東西線を作り、『児持山之事』には出てこないが、子持神社と方位線的には直接結びついているのである。
嵩山―親都神社―大宮巌鼓神社の直線(0.3°、1.52°)
大宮巌鼓神社―子持神社奥ノ院(S0.07km、0.25°)の東西線
『神道集』の「赤城大明神事」「伊香保大明神事」はそれぞれ赤城山、榛名山と結びついており、「伊香保大明神事」は「赤城大明神事」の後日談で、子持山とも無関係ではない。子持山及び子持神社からの方位線をみると、子持山と榛名山最高峰の掃部ヶ岳が東北45度線をつくり、子持神社が赤城山最高峰の黒檜山と東西線をつくる。また、赤城山頂大沼の小鳥ヶ島にある赤城神社と矢倉の鳥頭神社も東西線をつくる。赤城神社は大洞にあったものが小鳥ヶ島に遷座したものであるが、大洞にあったころから小鳥ヶ島が聖地とされていたのであって、尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』によれば、大洞の旧社殿は大沼を背にして建てられているばかりでなく、拝殿前で礼拝すれば沼の上を越えて小鳥ヶ島を拝する位置にある。
子持山―掃部ヶ岳(W0.269km、0.82度)の東北45度線
子持神社―黒檜山(S0.102km、0.36度)の東西線
鳥頭神社・矢倉―赤城神社(N0.127km、0.20度)の東西線
子持神社は榛名山の相馬山とも東北45度線をつくっており、子持神社奥ノ院も榛名山の榛名富士と東北45度線をつくっている。一直線に並ぶ子持山・子持神社・奥ノ院と榛名山の代表的な三山が東北45度線で結ばれているわけである。
子持神社―相馬山(W0.071km、0.29度)の東北45度線
子持神社奥ノ院―榛名富士(W0.137km、0.49度)の東北45度線
この方位線が無視できないのは、掃部ヶ岳・榛名富士・相馬山もそれに烏帽子ヶ岳を加えると方位線網で結ばれていることである。烏帽子ヶ岳の西北30度線であるが、その方位線上に相馬山の他に吾妻山がある。幅からいえば相馬山、偏角的には吾妻山ということになるが、烏帽子ヶ岳・相馬山・吾妻山が一つの方位線をつくっているとも考えられ、そうすると榛名山の方位線網に吾妻山も加えることができる。
榛名富士―掃部ヶ岳(N0.033km、0.78度)の東西線
掃部ヶ岳―烏帽子ヶ岳(E0.072km、1.69度)の東北30度線
烏帽子ヶ岳―相馬山(W0.094km、1.93度)―吾妻山(E0.177km、1.52度)の西北30度線
吾妻山は榛名神社と東西線をつくる。また、榛名神社境内にはあちらこちらに奇岩が点在するというから、榛名神社を点ではなく面的に考えれば、榛名神社と掃部ヶ岳・烏帽子ヶ岳も方位線をつくるといえる。
榛名神社―吾妻山(N0.075km、0.55度)の東西線
榛名神社―掃部ヶ岳(W0.099km、2.71度)の南北線
榛名神社―烏帽子ヶ岳(E0.149km、2.21度)の東北60度線
子持山の関係でいうと、矢倉の鳥頭神社が榛名富士と西北45度線をつくり、榛名神社とも西北60度線をつくるし、大鳥神社が掃部ヶ岳・烏帽子ヶ岳と東北30度線をつくり、若子持神社が榛名富士と東北30度線をつくる。また、子持神社と若子持神社の間に方位線を考えなかったが、吾妻山の東北60度線上に子持神社と若子持神社が位置している。
鳥頭神社・矢倉―榛名富士(W0.090km、0.44度)の西北45度線
鳥頭神社・矢倉―榛名神社(W0.128km、0.61度)の西北60度線
大鳥神社―烏帽子ヶ岳(E0.289km、1.24度)―掃部ヶ岳(E0.361km、1.90度)の東北30度線
若子持神社―榛名富士(E0.076km、0.36度)の東北30度線
吾妻山―若子持神社(E0.179km、1.09度)―子持神社(W0.202km、0.88度)の東北60度線
鳥頭神社と榛名山の方位線に関連して、榛名山系と吾嬬山系の方位線も考えてみると、掃部ヶ岳の西北60度線上に岩櫃山と薬師岳があり、相馬山の西北45度線上に岩櫃山と吾嬬山がくる。これは、子持山・子持神社の方位線上に榛名山系の掃部ヶ岳・榛名富士・相馬山がきたように、子持山伝説と関係の深い鳥頭神社・岩櫃山の方位線上にも掃部ヶ岳・榛名富士・相馬山がくるということであり、『神道集』の「児持山之事」で鳥頭神社の地が重要な役割を果たしているのも、それが子持山と同じく榛名山系の代表的な三つの山からの方位線上に位置しているということなのかもしれない。吾妻山と嵩山も西北60度線をつくっている。
掃部ヶ岳―岩櫃山(E0.254km、1.41度)―薬師岳(E0.135km、0.60度)の西北60度線
相馬山―岩櫃山(W0.061km、0.26度)―吾嬬山(W0.148km、0.48度)の西北45度線
吾妻山―嵩山(E0.200km、0.57度)の西北60度線
掃部ヶ岳の西北60度線上に岩櫃山と薬師岳があり、相馬山の西北45度線上に岩櫃山と吾嬬山がくるということは、榛名山の諸峰が方位線で結ばれていたように、吾嬬山系の諸山も方位線で結ばれているということなのかもしれない。方位線関係をみると次のようになる。
吾嬬山―薬師岳(E0.071km、1.92度)の西北30度線
吾嬬山―岩櫃山(E0.087km、1.12度)の西北45度線
岩櫃山―薬師岳(0.119km、2.74度)の西北60度線
このうち、数字的に吾嬬山と岩櫃山の方位線は認めていいのではないだろうか。吾嬬山と薬師岳の方位線であるが、幅的には一番狭い。また、薬師岳の東北45度線上に吾嬬神社がある。吾嬬神社は大同元年坂上田村麻呂が吾嬬山頂に日本武尊を祭ったといわれ、永正二年(1505)氏子一同協議して現在の地に遷座し、吾嬬山山頂の石祠を奥殿と称してきたという。その遷座の地が薬師岳の方位線上にあるということは、もともと吾嬬山と薬師岳が方位線的に強く結びついていたということであろう。
薬師岳―吾嬬神社(E0.068km、1.36度)の東北45度線
薬師岳と吾嬬神社の方位線上に嵩山がある。薬師岳の方位線上に吾嬬神社があるように、嵩山の方位線上に吾嬬神社があるということであるから、これは吾嬬山と嵩山の東北30度線も方位線として認めていいということではないだろうか。
嵩山―吾嬬神社(W0.055km、0.94度)―薬師岳(W0.123km、1.14度)の東北45度線
吾嬬山―嵩山(E0.316km、2.54度)の東北30度線
また、薬師岳・吾嬬神社・嵩山の方位線を認めるなら、嵩山・親都神社と直線関係にある大宮巌鼓神社と薬師岳・吾嬬神社も方位線として考えたくなる。なお、大宮巌鼓神社は相馬山と西北60度線をつくる。
薬師岳―大宮巌鼓神社(N0.125km、1.81度)の東西線
吾嬬神社―大宮巌鼓神社(E0.093km、1.97度)の西北45度線
相馬山―大宮巌鼓神社(W0.065km、0.28度)の西北60度線
岩櫃山と薬師岳の方位線は数字的に微妙である。岩櫃山は頂上が平面的な岩山であり、その意味では薬師岳からの方位線が岩櫃山を通るともいえるが、この方位線を考えなくても、吾嬬山・薬師岳・岩櫃山それに嵩山が方位線網で結ばれていることになる。鳥頭神社は嵩山と東北60度線をつくっていたが、吾嬬山とも西北60度線をつくっていると考えられ、その延長線上に榛名神社があった。鳥頭神社も吾嬬山系の方位線網に組み込まれるわけであるが、これは吾嬬山からの方位線上に鳥頭神社・岩櫃山・薬師岳・嵩山が配置されていると考えることもできるわけである。
吾嬬山―鳥頭神社・矢倉(E0.149km、1.92度)の西北60度線
「児持山之事」が問題にしているのは、鳥頭神社や岩櫃山というよりは、方位線網をつくり、榛名山とも方位線で結ばれている吾嬬山系なのかもしれない。吾嬬山系自体が子持山と方位線で結ばれている。宇都宮二荒山神社との関係で子持神社と岩櫃山が東西線をつくるとしたが、薬師岳と子持神社奥ノ院も東西線をつくり、吾嬬山が子持山の大黒岩と東西線をつくる。さらに吾嬬神社が子持山の東西線上にもあることを考えると、これらの方位線も無視できないのではないだろうか。岩櫃山と子持神社であるが、その幅は他の東西線よりも大きい。しかし、宇都宮二荒山神社からの東西線が幅は子持神社の方が小さいにもかかわらず、岩櫃山や鳥頭神社と関係しているということは、偏角的に方位・方向線は考えられる数字なので、岩櫃山と子持神社も東西線をつくると考えたい。
薬師岳―子持神社奥ノ院(N0.052km、0.15度)の東西線
吾嬬山―大黒岩(S0.048km、0.13度)の東西線
吾嬬神社―子持山(S0.111km、0.37度)の東西線
岩櫃山―子持神社(N0.453km、1.36°)―宇都宮二荒山神社(N0.623km、0.37°)の東西線
子持山と吾嬬山系の間には、小野子三山があるが、その山塊の小野子山・雨乞山と子持山・子持神社及び吾嬬山系が直線関係で結ばれているとも考えることができる。
子持山(1.13度)―小野子山(0.104km)―岩櫃山(0.49度)の直線
子持神社(0.26度)―雨乞山(0.033km)―吾嬬山(0.10度)の直線
小野子山と雨乞山が南北線をつくっているとみなせないこともない。あるいは、榛名山吾妻山の南北線上に小野子山と雨乞山が位置している。小野子山は烏帽子ヶ岳、榛名神社とも東北60度線をつくっている。また、子持山関係では、雨乞山が大鳥神社と西北45度線、市城の白鳥神社と東西線をつくる。また、若子持神社は十二ヶ岳と西北45度線をつくっている。
小野子山―雨乞山(E0.071km、2.90度)の南北線
吾妻山―雨乞山(W0.054km、0.25度)―小野子山(W0.125km、0.52度)の南北線
小野子山―烏帽子ヶ岳(E0.302km、1.44度)―榛名神社(E0.153km、0.55度)の東北60度線
雨乞山―大鳥神社(E0.046km、0.55度)の西北45度線
雨乞山―白鳥神社(N0.025km、0.32度)の東西線
十二ヶ岳―若子持神社(E0.054km、0.35度)の西北45度線
和理宮は広島県世羅町にある式内社和理比売神社とも関係が在るのではないかともいわれる。和理比売神社の祭神はイナダヒメあるいはイザナミとされるが、その南北線上にイザナミの墓が山頂近くにある比婆山やスサノオがイナダヒメを娶り宮を建てたという須賀神社の奥宮磐座がある八雲山が位置している。
和理比売神社―比婆山(E0.658km、0.72度)―八雲山(W0.349km、0.23°)の南北線
和理比売神社の祭神から考えられる氏族は、スサノオ族あるいは古事記ではクシナダヒメの父母テナヅチ・アシナヅチは国ツ神大山津見神の子となっているから、大山祇系ということになる。親都神社の祭神はスサノオであり、吾妻神社の祭神は火産霊命、すなわちカグツチである。カグツチを産む際、火傷をおってイザナミが死んだので、イザナギがカグツチを切った時に生まれたのが大山津見である。また、吾妻郡の神社で明治時代に合祀された神社を見ると大山祇神社も多く、親都神社にも二社合祀されている。このようにみると、吾妻郡には大山祇系の海人が多く移り住み、彼らの中に和理比売神社を祀っていた人たちがいて、吾妻郡にも和理宮を建てたのかもしれない。吉田大洋『竜神よ我に来たれ』によれば、大山祇一族は出雲神族と同じ竜蛇族で、その後物部と出雲神族に吸収合併されていったという。もしかしたら、和理宮を造ったのは、出雲神族系の大山祇一族だったのかもしれない。吾妻神社にも『吾妻郡社寺録』に祭神を大穴牟遅とする言い伝えが村人にあったことが記されている。 現在の吾妻神社は守屋山と武尊山の東北45度線上に位置していた。一方、和理比売神社は富山の尖山と東北30度線をつくっているとみなせないことはない。そして、守屋山と尖山が西北45度線をつくる。この方位線網から浮かんでくるのは、和理比売神社・和理宮と出雲神族の関係である。なお、尖山は穂高神社と西北30度線をつくる。
尖山―守屋山(W1.33km、0.79°)の西北45度線
尖山―穂高神社(E0.31km、0.32°)の西北30度線
尖山―和理比売神社(W2.76km、0.35°)の東北30度線
尖山―和理比売神社の方位線の幅が約3kmもあるのはすこし強引と思われるかもしれないが、これは間に丹後の籠神社の沖の奥社沓島と冠島を間に入れ、沓島と和理比売神社、冠島と尖山が東北30度線を作り、沓島と冠島の一体性から和理比売神社と尖山が方位線で結ばれると考えてもいいし、和理比売神社・沓島・籠神社奥社真名井神社・籠神社・尖山・冠島が強力な方位線を作っていると考えてもいい。
和理比売神社(W2.76km、0.35°)―沓島(W1.95km、0.56°)―籠神社奥社真名井神社(W0.72km、0.18°)―籠神社(W0.3km、0.11°)―尖山―冠島(E0.4km、0.11°)の東北30度線
しかし、この和理比売神社から守屋山までの方位線と守屋山と吾妻神社もしくは御手洗山の方位線の組み合わせは、和理宮が親都神社の所にあった頃には成立しない。代わりに尖山は吾嬬山と東西線をつくる。ちなみに、尖山と同じくピラミッドといわれる皆神山が岩櫃山と東西線をつくる。皆神山の山頂部分は平らで、山頂の神社の北にさらに数百メートル広がっているから、皆神山と岩櫃山の方位線は十分考えられるであろう。吾嬬山は嵩山と方位線をつくっていたが、嵩山と親都神社は神体山と里宮の関係であった。その意味で、やはり和理比売神社と和理宮は方位線で結ばれていたといえる。
尖山―吾嬬山(N0.128km、0.06度)の東西線
皆神山神社―岩櫃山(N0.502km、0.55度)の東西線
『迷宮』(Vol.1)の竹内健「阿比留字本源考―琉球古字と十二干の謎」によれば、「兒持山之事」は、もともと伊勢国度会郡神崎の地主神たる「アラハバキ比売」の物語であり、『安居院神道集』では、この神名を「荒人神」と表現して、あたかも一般の荒神のニュアンスに置き換えている。加えて群馬県吾妻郡の後藤菊次郎氏本「子持山縁起」では、加若太夫が伊勢神宮の「あらがきの内におはします。則あらははぎ是なり」と権現名としてのアラハバキ神の名を明記しているにも拘わらず、流布本『安居院神道集』の方では、阿野権守が「伊勢太神宮荒垣内在即是也」とあるばかりで、「アラガキ」なる類音にまぎらわせて実の神名を韜晦している、という。竹内健氏は相模や武蔵の小野神社がアラハバキ神を祀るなど、小野氏の保有した古代アラハバキ信仰が、本来は天台宗であった聖覚の浄土門への改宗を機に、小野氏の管掌する二荒山をはじめとする下野国ならびに隣接する上野国の唱導集団に流入して成立したのが、『安居院神道集』に盛りこまれた本地譚であろうとする。一方、近江雅和『記紀解体』では、伊勢の二見の興玉神社の沖合いに飛島という小島が在り、古くは「阿波良岐島、淡良岐島」といわれていたが、この呼び名はアラハバキからきたものであることは疑いなく、度会氏の『神道五部書』でも内宮の殿地の地主神と興玉神は同一神だと記しているから、渡会氏から分れた磯部氏が奉祭する荒祭宮と内宮の別宮興玉神も、二見の興玉神もアラハバキ神だったとある。近江雅和氏は伊勢から上野国に移住した磯部氏が、地主神のアラハバキ神を主張したのが「子持山伝承」だったとする。
しかし、「子持山伝承」が伊勢のアラハバキ神と関係するとして、子持山とアラハバキ神を結びつけたのは出雲神族そのものという可能性もある。『風土記伊勢国逸文』に莵田の下県で神武に東国平定を命じられた天日別命に、土着の神である伊勢津彦が「私は今夜をもって八風を起こし、海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です。」と言い残すと、天日別命が兵を整えてその様子をうかがうなか、夜ふけになって大風が四方に起こり、大波をうちあげ、太陽のように光かがやいて陸も海も昼のようにあかるくなり、ついに伊勢津彦は波に乗って去った。また、伊勢津彦は信濃の国に住ませた、とある。近江雅和『記紀解体』によれば、長野・群馬県境の八風山が伊勢津彦野遺跡とされ、長野市風間の式内社・風間神社が伊勢津彦の落ち着き先だったといわれているという。ただ、近江雅和氏は、「伊勢津彦を信濃に住まわせた」というくだりは、「註文」として入っているもので、後世の加筆だとされており、この註文と逸文にある「八風」から信濃がゆかりの地とされ、八風山の名もつけられたのであるから信をおきがたいし、風間神社は式内社で古社であることは間違いないが、これも註文が後作だとすれば同様に疑わしいという。
しかし、では何故現在八風山と呼ばれている山に八風山という名をつけたのかという疑問が残る。方位線的にみると、八風山と子持山が東北45度線をつくる。その方位線上には榛名山の掃部ヶ岳があり、掃部ヶ岳と岩櫃山が西北60度線をつくっていたが、八風山は岩櫃山とも東北60度線をつくる。八風山は方位線的に「子持山伝承」と深く関係しているわけであり、伊勢津彦は出雲神族の伝承では出雲神族であり、「子持山伝承」がアラハバキ神の物語であるとすれば、その伝承を持っていたのが上野国の出雲神族であった可能性も否定できないし、八風山が伊勢津彦の遺跡であるという伝承も無視できなくなってくるわけである。風間神社であるが、伊勢神宮外宮と西北60度線をつくり、この点でも風間神社が伊勢津彦の落ち着き先という伝承も無視できない。なお、岩櫃山と東西線をつくる皆神山と内宮が東北60度線をつくる。八風山と風間神社は直接方位線で結ばれないが、両所は四阿山の方位線上にあり、四阿山の東北60度線上に諏訪大社下社春宮、東西線上に赤城山地蔵岳がある。また、八風山の東北30度線上に小鳥ヶ島の赤城神社がくる。
八風山―掃部ヶ岳(E0.495km、0.88度)―子持山(E0.764km、0.86度)の東北45度線
八風山―岩櫃山(E0.005km、0.01度)の東北60度線
風間神社―外宮正宮(E0.544km、0.11度)の東北60度線
皆神山神社―内宮正宮(W0.648km、0.14度)の東北60度線
四阿山―八風山(W0.289km、0.49度)の西北60度線
四阿山―風間神社(W0.213km、0.60度)の西北30度線
四阿山―諏訪大社下社春宮(E0.113km、0.11度)の東北60度線
四阿山―赤城山地蔵岳(S0.084km、0.07度)の東西線
八風山―赤城神社・小鳥ヶ島(W0.052km、0.05度)の東北30度線
四阿山も四阿山を神体山とする式内社山家(やまが)神社が大国主神を祭神をとしているので、もともとは出雲神族が崇拝する山だったのであろう。しかし、その祭祀権はかなり古い時代に失われたのかもしれない。旧字古坊に鎮座していた山家神社が、天安元年(857)に洪水で社殿が崩壊したので現在地に遷座したとき、神主清原眞人某は姓を押森に改称したと伝えられているが、例えばこの神主清原氏が天武天皇の皇子舎人親王を祖とする清原氏の一族だったかもしれないというように、出雲神族ではない可能性もあるわけである。さらに古く、山家神社は「はくさんさま」とも呼ばれ、祭神に菊理姫が在り、社伝に、「本社の別当浄定というもの越の泰澄の徒弟にして加賀の白山比め神社を信仰し、其の神霊を勧請し、養老二年奥社を四阿山絶頂に奉遷す。」とあるが、四阿山の祭祀の中心が白山系の信仰に移っていった可能性もある。泰澄は秦氏ともいわれ渡来系であり、その山岳信仰は出雲神族である役小角系修験とは別系統と考えるべきであろう。もっとも浄定は出雲神族だった可能性もある。泰澄にまつわる伝記では浄定は出羽の船頭で神部浄定とあるが、神部氏の中には出雲神族につながるものがあるからである。土師氏のなかに神部氏があり、土師氏は出雲神族の伝承では出雲親族であった。また但馬の粟鹿神社の社家は日下部宿禰であったが、『粟鹿大明神元記』という、和銅元年八月に但馬国粟鹿神社の神主(祭主)神部根が勘注上申した案文の写しでは、粟鹿神主は古代神部氏が奉斎していたことが知られ、系図を見ると素戔鳴尊より五世に大国主命がみえ、さらに太田々弥古命に連なっており、また、太田々弥古命の子太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となり併せて粟鹿大神祭主となったと記されているという。そうすると粟鹿神社の神主神部氏は、大三輪氏と同族であり、出雲神族ということにもなるわけである。浄定が四阿山に目をつけたのは、自分と同じ出雲神族の山だったからという可能性もあるわけである。ただ、方位線的にいえば、浄定あるいは泰澄にとって四阿山が出羽三山と結びついていることが重要だったのかもしれない。泰澄は出羽修験にも深く影響を与えたようであるが、白山と羽黒山が東北45度線をつくり、羽黒山と四阿山が東北60度線をつくるのである。鎌倉時代に羽黒山は御家人武士真田家久が執行となったというが、この真田家久は信州の真田氏、あるいは山家神社のある真田と関係があるのであろうか。
白山―出羽三山神社(E0.978km、0.14度)の東北45度線
四阿山―出羽三山神社(W0.547km、0.11度)の東北60度線
真田一族あるいは海野氏・滋野氏は清和源氏とも大友氏とも神魂命の五世の孫天道根命の後で紀伊国造である紀直と同祖ともいわれるが、出雲神族であった可能性もある。滋野氏に望月氏があり、吉田大洋『謎の弁財天女』によれば、出雲神族の伝承に出雲の神の子、諏訪の神の子という忍者が登場するが、後者の中で有名になったのが諏訪(望月)三郎兼家で、彼は将門の乱の功により、近江の甲賀郡を与えられ、甲賀近江守三郎兼家を名乗ったが、甲賀望月氏はタテミナカタノ命の裔とも称したという。そうすると、望月氏もその同族の真田氏も出雲神族だったということになる。甲賀の望月氏が諏訪神人の職掌にあったのは応永三十年(1423)前後までともいう。甲賀の望月氏の伝承にもとづいて生成されたのが『神道集』にもある甲賀三郎の物語で、畿内を中心に西日本各地に広がったが、これが伊賀一の宮の敢国社、京都松原通り諏訪社を経由して信州の諏訪大社に運ばれて主人公も兼家から諏方とかえられて東日本に広がったという。もし、望月氏が出雲神族でないとすると、いくら甲賀三郎の話が西日本に広がったとしても、主人公の名前を変えているとはいえ、諏訪大社までがその話を広めようとするとは考えられないのである。
八風山に関して、高山村と新治村の境にある破風山も気になる。読みは「はふさん」であるが、八風山と同じく「はっぶうさん」とも読むことができる。秩父の破風山は「はっぷさん」で八風山と西北30度線をつくる。秩父の破風山は八風山であり、群馬の破風山も「はっぷうさん」で八風山なのではないだろうか。
八風山―破風山・秩父(E0.635km、0.76度)の西北30度線
群馬の破風山と八風山は方位線をつくるわけではないが、破風山と子持山が西北45度線をつくり、岩櫃山と東北45度線をつくっている。子持山伝承とも方位線的に密接に関係しているといえるであろう。その東北30度線上に嵩山と吾嬬山があり、西北30度線上に赤城山地蔵岳がある。また、十二ヶ岳と南北線をつくっている。
破風山・群馬―子持山(W0.222km、1.25度)の西北45度線
破風山・群馬―岩櫃山(E0.002km、0.01度)の東北45度線
破風山・群馬―嵩山(E0.166km、1.00度)―吾嬬山(W0.150km、0.51度)の東北30度線
破風山・群馬―赤城山・地蔵岳(E0.329km、0.70度)の西北30度線
破風山・群馬―十二ヶ岳(E0.160km、1.15度)の南北線
子持山と出雲神族の関係で考えさせられるのは、子持神社の地が高天原と呼ばれていたという話である。『上野国神名帳の研究』に神職牧氏の話として、子持神社のあるあたりは高天原ともいわれ、吾妻郡の諸神が集まり祭祀を行った場所であった、というのが載っている。『古代出雲帝国の謎』が伝える出雲神族の伝承では、「首長は『カミ』と呼ばれた。毎年十月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。多い国は、少ない国に分け与えた。この時、我々は祖国をしのんで、竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。(これが、現在の神在月につながる。各国のカミがいなくなるので、出雲以外では神無月というのである)我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」とある。高天原は鹿島神宮の近くや筑波山にあるが、それらの土地は出雲神族が進出した所であり、おそらく関東の高天原という地名は出雲神族に由来するのではないだろうか。鹿島神宮近くの高天原は海の近くで、海の彼方の祖国をしのぶ場所であったのだろう。筑波山の高天原はやはり海の彼方の祖国と結びつくが、常世思想とも結びついているような気がする。茨城には磯前神社や72年に1度の浜降祭で今年話題になった金砂神社のように、海の彼方から着たとされる神社も多いが、浜降祭で降りる浜が神社の東南方向にある神社も多い。同じように、筑波山から東南方向に線を引くと、香取神宮を通って千葉県飯岡町の通蓮洞に至るが、そのすぐ近くに常世田というところがある。この常世田という地名と、それが筑波山の東南方向にあるということが気になるのである。これは、常世田にあがった常世の神が筑波山から辰巳に延びるその線を逆に筑波山に登っていったということではないだろうか。五来重『石の宗教』に「紀州加太の淡島明神の縁起は、インドラか流された王妃の話になり、また少彦名神を祀ったことになっているが、その古代的発祥は海の民の道祖神(同祖神)を常世から迎え祀ったのではないかとおもう。『今昔物語』には紀州美奈部(南部)の海辺の道祖を小柴船に乗せて海上に流し放った話があるからで、これは道祖神が海の彼方の常世(補陀落)との間を、去来する信仰があったことをしめしている。」とある。それに対して、子持神社の高天原は吾妻郡各地の首長が毎年そこに集まり、収穫物の分配を話し合うと同時に祖国を偲ぶ場所だったのであろう。子持山は香取神宮と西北30度線をつくる。
子持山―香取神宮要石(E0.459km、0.16度)の西北30度線
和理宮は中世以前は和流宮(ワリュウノミヤ)といわれていたが、それが転訛して割宮・和利宮と称するようになったという吾妻神社の説明板も気になる。もしそうだとすると、和理宮は広島県の和理比売神社とは関係ないということになるが、和流とは唐流に対する和流の義だという。国学が盛んになった江戸時代ならまだ分かるが、中世以前になぜ和流を強調する神社があったのであろう。上野国の古墳は小さいのまで入れると1万ぐらいあり、東日本で最も多く、そのことから古墳時代に上野国では渡来系の勢力が強かったことが分かるという。和流に対する唐流とは渡来人のことで、和流の名は渡来人に対する反発の気持ちが込められているとすれば、その気持ちを込めたのは出雲神族だったかもしれない。『古代出雲帝国の謎』によれば、「出雲神族ぐらい、朝鮮系の渡来人を嫌う種族はない。富氏などは、『朝鮮』と聞いただげで、目をつりあげる。当然なのである。第一番の出雲侵略はスサノオであり、さらに最後のとどめを刺したのが天ノヒボコであったからだ。」とある。このような渡来系に対する気持を引き継いでいた上野国の出雲神族が、古墳時代以降の渡来人たちの勢力拡大に反発する感情を持っただろうことは容易に想像できる。
『神道集』の「八ヵ権現の事」もまた榛名山に関係する物語であるが、都に出仕していた夫の田烈藤次家保が、三月十五日の夕ぐれ、右近の馬場の桜の花の下で遊んでいると、若い女が頭に薄紫の小袖をひきかぶり、その桜の木の下に立ち寄って満開の小枝を一つ折り取ってかんざしに挿し、歌をよんで感慨深そうに眺めて、やがてスウッと消えるようにいなくなった。妻の千手姫にあまりにも似ているので、家保が国に帰ってみると、妻はすでに亡くなっており、都の桜の花を恋い慕ってなくなったのだという。清水沢の檜に杣人があげた棺箱の蓋を開いてみると、桜の花を顔にかざして、姫は眠っているようであった。ここで死者が木につるされて風葬にされるという風習は、王が死ぬと檜に吊るして、三年経ってから改めて山の岩の陰に埋葬したという出雲神族の風習を連想させる。『神道集』の話は総て京都で創作されたのであろうか。それとも、核となるような物語は地元で神々の本縁を説く行者達によって作り上げられていたのであろうか。もしそうであるなら、千手姫の棺が檜に吊るされていたというのも、死体を木に吊るすという風葬が群馬郡辺りで広く知られていた事柄だったのではないだろうか。このような樹上葬は北アジア・朝鮮・日本に古く存在した葬法で、各地に残る棺掛け松、人掛け松伝説はこれを裏付けるという。このような葬法がどこまで出雲神族と結びつくのか分からないが、もしかしたら千手姫の話は群馬における出雲神族の名残が中世にはまだ残っていたということだったのかもしれない。
吾妻郡には諏訪神社や建御名方命が多い。『吾妻郡社寺録』に載っている78社中23社である。その他にもオオナムチを祭神とする神社が4社、出雲神族である土師氏の菅原道真を祀る神社も複数ある。特に吾妻町以西に出雲系の神社が多い。これも出雲神族との関係を考えたくなるが、群馬県に諏訪神社が多いことについては、武田信玄が上州に勢力を伸ばしてきた時、諏訪神社を崇敬する信玄から土地の神社を守るために変えてしまったという説があるが、これは吾妻郡についてもいえるかもしれない。『吾妻郡社寺録』の中之条町大字下沢渡にある諏訪神社にかんして、「創建年月不詳なれども按ずるに当地へ元亀天正の頃武田氏の勢力範囲に属せるを以って各村共に武田氏の崇敬せる諏訪明神を祭祀する事実あればその頃建立せしものならん、史籍の伝わらざるを遺憾とす。」とある。しかし、武田氏から自分達の神社を守るためという理由であるが、武田氏の支配した時期が極めて短かったこと、その後には武田と敵対する織田氏が入ってきたのであるから、その後も諏訪神社のままであるというのは納得がいかない。すぐにも元に復してもいいはずである。これは、もともとが出雲神族系であった人たちが、出雲系の神を表立って祭れなかったところに、諏訪神社を崇敬する武田氏が入ってきたので、これ幸いにと諏訪神社を表に出したという方が可能性があるのではないだろうか。吾妻神社の祭神に関して、村人が大穴牟遅だといっていたという話には、本当は大穴牟遅を祭りたいが表立っては祭れないという、村人の鬱屈した心情を感じる。もしそうだとすると、武田氏が入ってくると同時に各村で諏訪神社が建てられたというのも分かる。ただ、武田氏が支配していた時期に立てられたという伝承があるのは諏訪と妙見が合併して出来た報徳折田神社だけで、不詳とするものがほとんど、源頼朝以前からあったという神社も多い。大己貴命を祭神とする上沢渡の沢渡神社は建久二年(1191)勧請とされている。それに、武田氏の上州攻略を担ったのは真田氏であり、西吾妻には真田と同族の下屋系海野氏が平安時代からすでに勢力を張っていたのである。海野氏については、各地の諏訪神社の神官になった者もあることが指摘されており、もともとから諏訪大社との関係は深く、真田が来て初めて諏訪神社を持ち出す必要もなかったはずなのである。