関東の方位線

一ノ宮の方位線
二荒山
貫前神社

 

一ノ宮の方位線

 常陸一ノ宮の鹿島神宮と下総一ノ宮の香取神宮が東北45度線をつくることは、多くの人から指摘されている。鹿島神宮と香取神宮は古代から密接な関係にあったと考えられ、そこに様々な物語が考えられるが、一ノ宮どうしというところに注目すると、鹿島神宮は相模一ノ宮の寒川神社と東北30度線を作り、香取神宮は安房一ノ宮の安房神社と東北60度線をつくる。寒川神社はさらに上総一ノ宮の玉前神社と東西線を作り、安房神社は上野一ノ宮の貫前神社と西北60度線を作り、貫前神社は男体山山頂にある下野一ノ宮の日光二荒山神社奥社と東北45度線をつくる。残る武蔵一ノ宮であるが、これまでの方位線が偏角的に1度未満であったのに対して、1.52度とだいぶ大きいが、貫前神社と大宮氷川神社が西北30度線を作る。

  鹿島神宮―香取神宮(W0.168km、0.71度)の東北45度線
  鹿島神宮―寒川神社(E0.408km、0.18度)の東北30度線
  香取神宮―安房神社(W0.553km、0.25度)の東北60度線
  寒川神社―玉前神社(S0.372km、0.24度)の東西線
  安房神社―貫前神社(W2.570km、0.85度)の西北60度線
  貫前神社―日光二荒山神社奥社(W0.128km、0.09度)の東北45度線
  貫前神社―大宮氷川神社(E2.120km、1.52度)の西北30度線

 はたして、これは関東の一ノ宮が一ノ宮という物語性のなかで方位線で結ばれているということであろうか。関東は坂東、関八州といわれ、歴史的にも地理的にも一つの独立した地域とみなすことには問題はないと考えられるのであるから、すべての一ノ宮で他の一ノ宮が方位線上にくる確率が等しいとして、推計学的に計算してみると、貫前神社と大宮氷川神社の偏角1.52度では危険率9%で、有意の水準を5%以内としても、有意すなわち偶然ではないということはいえなかった。危険率を5%以内に収めるためには、1.38度以内ではならなかったが、この計算はそれなりに複雑なパターンを簡略化して計算したもので、より精密なパターン化で計算すると危険率を下げることもできるが、おそらく1.52度で危険率5%以内というのは厳しいであろう。便宜的な仮定のもとでの計算とはいえ、有意の枠内に収まればそれに越したことはないであるから、残念な結果ということができる。

 関東の八つの一ノ宮のうち七つの一ノ宮が方位線で結ばれる可能性を計算してみると、貫前神社と安房神社の0.85度で計算すると危険率0.4%で有意となった。危険率5%以内では、1.3度強ということになる。日光二荒山神社は本社と奥社がかなり離れている。それで、この場合は本社と奥社それぞれ半分にした角度までを認めるとすると、日光二荒山奥社と貫前神社で0.09度であるから、その範囲内に収まっている。一ノ宮という物語のなかで総ての一ノ宮が方位線で繋がっていないとしても、一ノ宮どうしの間に方位線が無視できない力で作用しているということなのかもしれない。ただ、偏角的には安房神社と貫前神社は大宮氷川神社と貫前神社より小さいが、幅とい点では逆に大きくなり、大宮氷川神社と貫前神社の方位線が問題だとすると、安房神社と貫前神社の方位線にも問題がないとはいえないということにもなる。しかし、一ノ宮どうしに多くの方位線関係がみられることは事実であり、これは、物語性ということでは、一ノ宮を含む多くの物語性による方位線網があり、それらが一部分重なるようにあることによって、結果として一ノ宮どうしに方位線が見られるのかもしれないし、一ノ宮の方位線網はもっと大きな方位線網の一部ということなのかもしれない。

 下野国一ノ宮については日光ではなく宇都宮の二荒山神社という説もあり、延喜式の二荒山神社は河内郡となっており、宇都宮は河内郡で日光のほうは都賀郡であるなど、宇都宮のほうが可能性が大きいらしい。宇都宮二荒山神社が一ノ宮だとしても、鹿島神宮と西北45度線をつくり、一ノ宮どうしの方位線関係は維持される。宇都宮の二荒山神社はもともとは荒尾崎の地、今の下之宮に鎮座していたというが、下之宮の場所は、現在の社殿の階段お降りたところの大通りの向かい側というから、旧鎮座地をとっても鹿島神宮との方位線は成り立つであろう。現在地であるが、谷川健一編『日本の神々 11』によれば、大場磐雄説として、現社殿のある臼ヶ峰の本殿近くから平安時代の祭祀遺物が出ており、日光二荒山遥拝の絶好な場所であり、斉庭を設けてしばしば遥祭の儀を執り行った場で、この遥祭は国造時代に発したであろうという。日光と宇都宮の関係であるが、日光の中禅寺湖畔の中宮祠と西北30度線をつくっている。

  鹿島神宮―宇都宮二荒山神社(W0.538km、0.32度)の西北45度線
  宇都宮二荒山神社―日光二荒山神社中宮祠(W0.564km、0.78度)の西北30度線

 数学・推計学はあくまで一つの考え方であって、事実そのものでない。推計学的に否定されたものが、後に意図的な関係性であったことを示す文献が出てくるということもありえるわけである。大宮氷川神社と貫前神社の方位線についても、それを支持するような事もある。所沢市山口と三ヶ島の中氷川神社が式内社を争っているが、貫前神社の西北30度線上に大宮氷川神社があるのに対して、西北45度線上に山口の中氷川神社があり、貫前神社と氷川神社に何らかの関係性が存在しているかもしれないことをうかがわせるのである。ただ、それには大宮氷川神社と中氷川神社の間に相当強いつながりがなければならない。大宮氷川神社・中氷川神社に対して奥多摩に奥氷川神社があり、これらの関係について『式内社調査報告・第十一巻』で鈴鹿千代乃氏が大宮氷川神社と大宮市中川の中氷川神社(中山社・中川氷川神社・簸王子社)、浦和市三室の氷川女体神社が一直線上に等間隔に並び、大宮氷川神社・山口の中氷川神社・奥氷川神社もほぽ同一線上に同間隔を置いて鎮座していることを指摘しているという。大宮氷川神社と中氷川神社が強い関係性にあることを示すかもしれないものとして、大宮氷川神社と酒列磯前神社、中氷川神社(山口)と大洗磯前神社がそれぞれ東北30度線をつくるということもある。大洗磯前神社と酒列磯前神社は海から大奈母知少比古奈命が二つの石として現れ、そのうちの大己貴命を祀ったのが大洗磯前神社で少彦名命を祀ったのが酒列磯前神社ということで、密接不可分なものであり、その両社と方位線で結ばれている大宮氷川神社と中氷川神社にも強い繋がりがあるのかもしれないわけである。大宮氷川神社・中氷川神社・奥氷川神社を結びつける方位線は見つからなかった。あるいは、もともとは大宮氷川神社と中氷川神社、中氷川神社と奥氷川神社がそれぞれ関係があったのが、後にそれが一つに混合されて大宮氷川神社に対して中氷川神社、奥氷川神社というように言われるようになったのかもしれない。奥氷川神社と中氷川神社と方位線的に関係するものとしては、三多摩の御岳山があり、奥ノ院のほうがより正確なのであるが御岳山神社と中氷川神社(山口)が東西線をつくり、御岳山神社と奥氷川神社が西北30度線をつくる。

  貫前神社―中氷川神社(山口)(W1.050km、0.80度)―中氷川神社(三ヶ島)(W2.275km、1.81度)の西北45度線
  大宮氷川神社―酒列磯前神社(E0.082km、0.04度)の東北30度線
  中氷川神社(山口)―大洗磯前神社(E0.278km、0.13度)の東北30度線
  御岳山神社―中氷川神社(山口)(S0.466km、1.04度)の東西線
  御岳山神社―奥氷川神社(E0.032km、0.33度)の西北30度線

 貫前神社と大宮氷川神社の方位線については否定的なことになるかもしれない事もある。貫前神社と深い関係のある神社として富岡市富岡字下町の小舟神社があり、貫前神社の伝承に、小舟神社は貫前神社の祓戸(はらいど)であり、安中町鷺宮鎮座の咲前神社は前宮であるというのがあるという。祓戸とは祭りの時に神職や参列者がお祓いを受けるところである。この小舟神社が大宮氷川神社の西北30度線上に位置し、小舟神社と貫前神社が東西線をつくっている。大宮氷川神社と西北30度線をつくるのはこの小舟神社で、貫前神社が関係するとしても、この小舟神社を介してとも考えられるのである。ただ、小舟神社はもと烏川と高田川の合流付近にあったもので、現在も小舟という字名が残っているという。そうすると、小舟旧鎮座地と貫前神社の東西線は考えられなくなるが、依然として大宮氷川神社の西北30度線に対しては貫前神社より小舟神社旧鎮座地の方がより正確ということはいえる。

  大宮氷川神社―小舟神社(W0.064km、0.05度)の西北30度線
  貫前神社―小舟神社(N0.073km、1.05度)の東西線

 武蔵一ノ宮についても、男体大宮といわれる大宮氷川神社と女体宮といわれる浦和市三室の氷川女体神社が一ノ宮を争っているという。氷川女体神社については、菱沼勇『武蔵の古社』に江戸初期正保年間に作られた武蔵国の古図には大宮氷川神社は印されていないのに、氷川女体神社の方は女躰権現として表示されており、女躰宮のほうが大宮氷川神社より勢力があった時代もあったのではないかとされ、大宮氷川神社の一ノ宮であることは江戸時代末期の地誌類も多くは一致しており、今日でも一般にそのように思われているが、時代によって一概にはいわれないというのが、本当のようであるとする。同書によれば、『新編武蔵風土記稿』に女躰宮の別当寺の文殊院に持統天皇により寄付されたという大般若経があり、その末尾に「元弘三年書写」とあることから、同寺は鎌倉時代またはそれ以前に創建されたことは明らかであり、氷川女躰宮もその頃すでに存していたことも明瞭であろうとする。大宮氷川神社ではなく氷川女体神社が一ノ宮だったとしても、氷川女体神社は香取神宮と東西線をつくり、この場合、前記の計算では関東の一ノ宮はすべて方位線で結ばれているということになる。

  香取神宮―氷川女体神社(N0.118km、0.09度)の東西線

 大宮氷川神社と氷川女体神社も西北30度線で結ばれている。大宮氷川神社・中川氷川神社・氷川女体神社が直線上に等間隔に並ぶという指摘があったが、その直線は同時に方位線でもあったわけである。江戸時代の大宮氷川神社は正面に簸王子社(大己貴命)、左(西)に男体社(素盞嗚命)、右(東)女体社(稲田姫命)であったというから、それに対応する大宮氷川神社・中川氷川神社・氷川女体神社が西北30度線上に並んでいるということは、この西北30度線が大宮氷川神社にとって何らかの意味があると考えられるのである。

  大宮氷川神社―中川氷川神社(W0.013km、0.20度)―氷川女体神社(E0.003km、0.03度)の西北30度線

 寒川神社についても、国府六所宮の神揃山とその下の高天原に一ノ宮から五ノ宮までの神輿が集まり、一ノ宮と二ノ宮が互いに座をすすめて上座を譲らず、三ノ宮の神職が「いずれ明年まで」と申して終わる座問答で有名な国府祭(こうのまち)がある。これは相模国と師長国が合わさって一国になったときの、それぞれの一ノ宮である寒川神社と川勾神社による一ノ宮争いの再現という説もあるが、統合後に川勾神社が一ノ宮だったということではないようである。

 安房国についても、州崎神社が現在も一之宮と呼ばれているという。州崎神社が一ノ宮としても、貫前神社との西北60度線は安房神社より州崎神社の方がより正確である。ただ、香取神宮との東北60度線は成り立たない。州崎神社の一之宮については、館山市洲宮の洲宮と州崎神社が式内社后神天比理乃比当ス神社を争っているが、慶長二年(1597)の『金丸家系累代鑑』に州崎神社と洲宮神社は同一神を祀る拝殿と本殿の関係にあり、巡拝の順序からすると州崎神社が一之宮で洲宮神社が二之宮、とあるといい、そこから州崎神社に一之宮という言い方が出てきたのではないかともいわれている。安房国府から安房神社が国司が参拝するのが大変なほど離れているわけではないから、天太玉命を祭る安房神社よりその第一后神を祭る州崎神社が一ノ宮とは考えずらいであろう。菱沼勇『房総の古社』によれば、国司祭の神幸祭という神事では、安房神社ほか重要な五社の神輿が八幡神社(もともとは国府のあった府中にあったが、現在は遷座して鶴ヶ谷八幡神社となっている)に集まるが、神輿の安置される場所は安房神社だけ独立の場所で、国司の時代から同社が安房国の他社に比し、特別の待遇をされてきたことを示すものともいわれ、このことからも安房国一ノ宮は安房神社ということがいえるであろう。

 安房神社の位置について山田安彦『古代の方位信仰と地域計画』に気になる記述があった。森谷ひろみ『式内社の歴史地理学研究』によると安房坐神社の元社地と后神天比理乃比当ス神社社地(洲宮神社元社地)とが正南北に相対するというのである。安房にはこの他にも、千倉町北朝夷の丘陵上にある式内社高家神社元社地と同町牧田の丘陵と沖積地の接触線付近に鎮座する式内社下立松原神社(垂跡神社旧跡)、丸山町の中程で丸山川中流右岸字宮下東台南部の石神畑で、河岸段丘上の沖積土層上に鎮座する莫越山(なこしやま)神社(従前は沓見神門神梅に鎮座する莫越山神社が正社)が北より二度余り東偏するが、ほぼ南北線上に並ぶという。安房神社の旧社地であるが、菱沼勇『房総の古社』には、天富命が上陸したのは白浜町の布良ヵ崎で、そこから北方に連なる丘陵の尾根伝いに歩いて現在の安房神社の鎮座するあたりに降りそこに居を定めた、と伝えられているとあるが、安房神社の旧鎮座地についての記述はない。他書にも残念ながら見つけることができなかった。洲宮神社元社地であるが、同書によると現社地南方の魚尾山(とおやま)の上にあったが、文永十年(1273)に焼失し、永享十一年現在地へ遷座したという。略図も載っているが、それを見ると洲宮から安房神社へ向かう道が藤原地区に入る手前で大きく曲がっているが、その曲がり角にある山が魚尾山らしい。そうすると、現在の安房神社の南北線がその山を通る。現在の社殿が遷座したものであるとしても、旧鎮座地は現在地からそんなに離れた所ではないといえるであろう。安房神社と洲宮神社旧鎮座地魚尾山は南北線をつくるわけであるが、安房神社と州崎神社の間には方位線関係はみられない。ただ、安房神社の南北線上にある御神根島は州崎神社とも西北45度線をつくり、その名前からもすこし気になる場所である。御神根島は岸側に大きな島、その沖側に比較的大きな岩礁が三つと小さな岩礁が一つ並んでいるが、大きな岩礁のうち真中を一応御神根島の位置とする。

  魚尾山±(E0.008km、0.15度)―安房神社―御神根島(W0.036km、0.89度)の南北線
  州崎神社―御神根島(W0.195km、1.09度)の西北45度線

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二荒山

  鹿島神宮と宇都宮の二荒山神社が西北45度線を作ったが、香取神宮の西北45度線方向に男体山があり、方位線的には中宮祠と西北45度線をつくる。ただ、この方位線にはもう一つ考えなければならない場所がある。香取神宮とより正確に西北45度線をつくる山として白根山があり、白根山は宇都宮の二荒山神社とやはり正確に西北30度線をつくるのである。勝道上人が香取神宮と宇都宮の二荒山神社の両社と方位線をつくる場所として中宮祠のところに男体山の遥拝所を置いたということはありえる。しかし、それ以前の二荒山信仰というものを考えたとき、宇都宮の二荒山神社と方位線をつくっていたのは白根山だったのではないだろうか。白根山は山頂近くに白根山神社があるが、浅野孝一『関東霊山紀行』によれば、『日本山嶽志』に「俗ニ白根山ハ男躰山の奥社ナリト言ヒ傳フ」とあるといい、荒山とも女體山ともいわれたらしい。現在、男体山の男神に対する女神は女峰山とされることが多いが、かっては男体山に対して白根山を女体山とする二荒山信仰があったのかもしれない。さらにいえば、牛山佳幸『 小さき社の列島史』によれば、和歌森太郎「日光修験の成立」に現在の男体山自体が当初の「女体山」であった可能性が高いとされる山であることが指摘されているという。高藤晴俊『日光東照宮の謎』に日光山は山岳信仰の霊場として開けたが、もっとも古い形は男神・女神への信仰であったろうとあり、白根山近くには男根を表わす金精様を名前とする山などがあるなど、日光には女神信仰とともに男神信仰ももとからあったとすれば、二荒山信仰のもともとは白根山を男体山、現在の男体山を女体山とするものだった可能性もあるわけである。宇都宮の二荒山神社ももともとは二荒山遥拝所だったとすれば、男体山が見え、おそらく白根山は見えないと思うのだが、白根山と方位線をつくる場所が遥拝所とされたということではないだろうか。

  香取神宮―中宮祠(E1.478km、0.63度)―男体山奥宮(E3.542km、1.48度)―白根山(W1.090km、0.42度)の西北45度線
  宇都宮二荒山神社―白根山(W0.017km、0.02度)の西北30度線

 鹿島・香取と二荒山との関係で「二荒山神社縁起」に二荒山の神と赤城山の神が争ったとき、鹿島大明神を請申したとあるという。一方、鹿島・香取の近くでは桜川村阿波の大杉神社が香取神宮と西北30度線をつくっているが、谷川健一『日本の神々 11』によると、『大杉明神縁起録』に、勝道上人が、霞ヶ浦から日光に向かう途中で暴風に遭い難渋したとき、不動明王を念じたところ、「我は三輪の神なり」と名のる神が現れ、無事に船を進めることができた。そしてこの神は彩雲のなかに消えたので、上人がその雲を追うと、阿波の大杉の梢の上にとどまった。そこでその根元に「安波大杉大明神」と名づけて小祠を建てたのが神社の始まりとある。勝道上人は下野国の人で、二十歳で出家し、やがて出流山(栃木市出流の千手山満願寺)の大洞窟で修行し、四年後に北方の大剣峯に登り、三枚岩で木食千日行を行い、さらにその北方の深山巴宿で弟子たちと修行し(深山巴宿で修行の後、三枚石への登頂を果たしたとい伝承もあるらしい)、天平神護二年(766)には日光の大谷川のほとりに草庵を結び、また本宮の始まりとなる大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の三神を奉祀し、この地を本拠として男体山頂の登拝に向かったという。深山巴宿は三枚石から北の古峰ヵ原峠の車道に出、その車道を少し西に進んだ所に広い湿原と古峰ヵ原ヒュツテがあるが、さらに十分ほど下って行った左手の流れのほとりに旧跡があるという。地図を見ると神社があるがそのあたりなのであろうか。大杉神社からの西北45度線上に三枚石や深山巴宿、古峯神社がある。また、日光の霊的中心は、麓に二荒山神社や東照宮、勝道上人の墓所である開山堂などがある恒例山であるらしい。高藤晴俊『日光東照宮の謎』によれば、恒例山は標高781m(地図では774mとなっている)の神奈備型の山で、その南麓が古代から日光山の神々の祭祀の場であり、家光の墓所である大猷院も東照宮の方を向いて建てられているといわれているが、正確には本殿・拝殿の軸線は恒例山の頂上を向いているという。恒例山と三枚石が東北60度線をつくっている。また、高藤晴俊『日光東照宮の謎』では日光は男体山の真東にあたるとするが、奥宮からの東西線上に滝尾神社や外山はあるが、恒例山と男体山の奥宮が東西線をつくるかどうかは微妙なところである。外山の山頂には神社があるが、その東北60度線上に二荒山神社があり、滝尾神社とも東西線をつくる。恒例山とも山頂近くでの方位線の引き方によっては東北45度線をつくるので、方位線で結ばれていると考えてもいいのかもしれない。滝尾神社は弘仁十一年(820)空海によって創建されたといい、二荒山神社(新宮)は嘉祥三年(850)造立されたが、仁平三年(1151)に常行堂の後ろから山の奥の現在の地へ遷されたという。常行堂ももともとは陽明門近くにあったというから、二荒山神社(新宮)は最初は東照宮の地にあったということであろう。

 潮来町大生の大生神社は元鹿島ともいわれているが、大生神社と恒例山がやはり西北45度線をつくっている。このように、鹿島神宮・香取神宮周辺と日光の二荒山周辺とは方位線で密接に結びついているのである。また、大杉神社の西北45度線上には石裂山(おざくさん)があるが、日光山の信仰とも関連する修験の霊場といわれ、元慶二年(878)には従五位下を授けられている賀蘇山神社はもともと石裂山の山頂近くの剣の峰の直下に祀られていたという。賀蘇山神は「鹿島さま」とも呼ばれるが、これは鹿島神宮の武甕槌命を分祀したことに由来するものに相違ないとするが、ここにも方位線と結びついた鹿島・香取と日光の関係がみとめられる。

  香取神宮―大杉神社(W0.074km、0.28度)の西北30度線
  大杉神社―石裂山(W0.068km、0.04度)―古峯神社(E1.070km、0.55度)―三枚石(W1.328km、0.68度)の西北45度線
  三枚石―恒例山(W0.023km、0.08度)の東北60度線
  男体山奥宮―二荒山神社(S0.479km、2.82度)―外山(N0.049km、0.28度)の東西線
  外山―滝尾神社(N0.025km、1.55度)の東西線
  外山―二荒山神社(W0.010km、0.15度)の東北60度線
  外山―恒例山(E0.051km、4.09度)の東北45度線
  大生神社―恒例山(W0.034km、0.02度)―滝尾神社(E0.047km、0.02度)の西北45度線

 戦場ヶ原の神戦譚では、大蛇となった男体山の神と大百足となった赤城山の神が中禅寺湖をめぐって戦い、戦い不利だった男体山の神は、鹿島大明神の助言で、岩代国に住む弓の名人・小野猿丸に救いを求め、猿丸が百足の左眼を射抜き、男体山の神に勝利をもたらした。猿丸であるが、谷有二『日本山岳伝承の謎』に女峰山は小野猿丸の母の朝日姫を祭った山だから朝日山とも言われ、南会津下郷町の小野岳の頂上に朝日長者が住んでいたが、京の有宇中将が滞在中に、長者の娘の朝日姫との間にもうけたのが猿丸で、小野岳の母ザルが育てに来たという。小野岳の東北60度線方向に女峰があるが、より正確な方位線上には男体山があり、方位線としてはこちらを選ぶべきであろう。女峰が朝日姫と結び付けられたのは、男体山に対する女体山だったからであろう。小野岳は宇都宮二荒山神社とも南北線をつくる。また、子持山近くの小野子山とも東北45度線をつくる。

  小野岳―女峰山(E1.761km、1.51度)―男体山2397.7m標高点(E0.032km、0.02度)の東北60度線―男体山奥宮(E0.743km、0.58度)
  小野岳―宇都宮二荒山神社(W0.076km、0.05度)の南北線
  小野岳―小野子山(W1.053km、0.5度)の東北45度線

 田心姫命を祀る滝尾神社は女体中宮ともいわれ、女峰山を拝する神社で、男体山奥宮と東西線をつくっていたが、女峰とも西北45度線をつくる。また、女峰山は中禅寺湖の中宮祠とも東北60度線をつくる。男体山の2397.7m標高点とも西北45度線をつくるが、男体山頂においてその標高点は特別な場所ということでもないようなので、遠くから見た男体山という場合には意味があっても、すぐ近くの女峰山とでは、その標高点と女峰が方位線をつくっているからといって、男体山と女峰山が方位線をつくっているとはいえないであろう。

  女峰山―滝尾神社(W0.131km、1.04度)の西北45度線
  女峰山―中宮祠(E0.024km、0.15度)の東北60度線
  女峰山―男体山2397.7m標高点(E0.041km、0.21度)―男体山奥宮(E0.751km、6.36度)の東北45度線

日光と赤城山は近く、ともに多くの山が集まっているから、何処かの山と何処かの山を結べば簡単に方位線を見出すことができるともいえるが、興味深い方位線をあげるとすれば、虚空蔵山の東北60度線上に白根山があり、東北45度線上に男体山があることであろう。奥宮よりは2397.7mの標高点の方がより正確な方位線になっている。赤城山山頂には大沼と小沼があり、尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』によれば、赤城沼神としては古くは小沼の方が意識されていたといい、現在小沼の方には神社がないが、明治年間までは小沼の東の虚空蔵嶽(通称小地蔵嶽)に虚空蔵堂があったという。赤城山周辺の地名を記した地図を見ると、長七郎岳の北の標高1574mの山が小地蔵山(虚空蔵山)となっている。白根山は荒山ともいい、赤城山にも荒山があるが、白根山と香取神宮が西北45度線をつくるのに対して、香取神宮と赤城山の荒山も西北30度線をつくる。もし、荒山という名前に何らかの意味があるとすれば、この方位線も無視できないであろう。赤城山の荒山と虚空蔵山も東北30度線をつくっている。

  赤城山虚空蔵山―白根山(W0.152km、0.26度)の東北60度線
  赤城山虚空蔵山―男体山2397.7m標高点(E0.384km、0.59度)の東北45度線
  香取神宮―赤城山荒山(E0.582km、0.23度)の西北30度線
  赤城山荒山―赤城山虚空蔵山(W0.082km、1.78度)の東北30度線
  
 大宮氷川神社と氷川女体神社の西北30度線を伸ばすと、武蔵二宮とされたこともある金鑽神社神体山の御室山に突き当たる。御室山は日光二荒山神社奥宮と東北60度線をつくり、宇都宮の二荒山神社とも東北30度線をつくる。貫前神社や金鑽神社が男体山と方位線をつくり、香取神宮や宇都宮二荒山神社が白根山と方位線をつくるということは、日光の山岳信仰の中心が古くはやはり白根山と男体山だったことの反映ではないだろうか。なお、金鑽神社の西北60度線上には榛名山掃部ヶ岳と岩櫃山がある。『神道集』の子持山のところで、宇都宮二荒山神社と岩櫃山が東西線をつくるとしたが、もしかしたら子持山伝承の背景となった信仰体系には金鑽神社も何らかの形で係わっているのかもしれない。掃部ヶ岳と男体山が東北30度線をつくることからも、これらの方位線網には何らかの物語がありそうな気がする。

  金鑽神社御室山―大宮氷川神社(W0.163km、0.16度)―氷川女体神社(W0.160km、0.14度)の西北30度線
  金鑽神社御室山―日光二荒山神社奥宮(W0.101km、0.08度)の東北60度線
  金鑽神社御室山―宇都宮二荒山神社(W0.470km、0.31度)の東北30度線
  金鑽神社御室山―榛名山掃部ヶ岳(W0.510km、0.75度)―岩櫃山(W0.256km、0.30度)の西北60度線
  岩櫃山―宇都宮二荒山神社(N0.623km、0.36度)の東西線
  榛名山掃部ヶ岳―男体山2397.7m標高点(E0.193km、0.17度)の東北30度線

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貫前神社

 貫前神社の社伝では旧東横村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎し、次いで南方鏑川沿岸に至り、蓬ヶ丘綾女谷に居を定め祀ったのが安閑天皇元年とある。鷺宮には前宮とされる咲前神社があるが、咲前神社では「さきのみや」で貫前神社は荒船山より咲前神社の地に移り、現在地に遷座したと伝えているという。尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』によれば、貫前神社の伝承に、@荒船山から現在地に遷座した、A荒船山より稲含山に移り、更に現在地に遷座した、B荒船山より尾崎郷に移り、更に現在地に遷座した、という三つの説があり、また『神道集』では、抜鉾大明神は上野と信濃の境の笹岡山に現れたことになっており、印度から来た女神、荒船山の神、水源の神、諏訪神の愛神で本地仏は弥勒とされているという。『和名抄』の甘楽郡に尾崎の郷名はみられないが、尾崎という地名は舌状台地あるいは丘陵の先端に付けられるもので、咲前神社のある鷺宮は安中市尾崎の地に隣接し、舌状台地の先端近く位置していることから、もと大字尾崎の地に属し、「さきのみや」から鷺宮の地名が生じたのではないかとする。

 貫前神社の祭神は現在経津主命一柱とされているが、他に女神一柱があったと伝えられており、現在でも実際には男・女二神を祀り、女神の存在を意識した神事もあるというが、女神である比売大神は、鎮座地である綾女庄の養蚕機織の神という説もあるが、正確な神名も祀られた由緒も伝わっていないらしい。尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』によれば、祭神について古来から貫前神と抜鉾神があり、混同も見られたが、二神の存在は確定的なものであり、その内容は貫前神が女性であり、抜鉾神が男性であることも知られるという。また、明治初年の『群馬県神社明細帳』では、貫前神社、咲前神社、荒船神社、稲含神社、小舟神社の祭神は経津主神であるが、現在の祭神をもって古代の祭神と考えるわけには行かないが、抜鉾神の性格は経津主神を以って示されており、現貫前神社の祭神が経津主神ということも、その意味では首肯できるという。貫前神が女神とすると、比売大神は貫前神とも考えられるが、そうすると抜鉾神は大同元年(806)、貫前神が貞観元年(859)に文献に表れており、さらに、『三代実録』の記事は貫前神は正五位下勲八等から従四位下に昇進した記録であり、文献にはないが貫前神社はそれ以前から正五位下勲八等に叙せられていたことを考えると、正確な神名も祀られた由緒も伝承も伝わっていない比売大神とでは齟齬をきたす。比売大神は抜鉾とも貫前神とも違う第三の神で、『神道集』でいう諏訪神の愛神なのかもしれない。

 同書によれば、尾崎の地は旧磯部町で、『和名抄』碓氷郡に磯部郷があり、『続日本紀』の称徳天皇天平神護二年五月の条に「上野国甘楽郡人外大初位下礒部牛麻呂等四人賜姓物部公」とあり、また孝謙天皇天平勝宝元年五月の条に上野国碓氷郡人外七位上石上部君諸弟なる人物が出てくるが、礒(いそべ)は石上部(いそのかみべ)の上を除いたものであり、磯部の地名は石上部の転訛したものではないかという。また金井碑に物部君が記されているが、物部君、礒部君、石上部君は碓氷郡・甘楽郡に多い物部を支配下においた上毛野君の一族であるという。そして、碓氷郡の石上部が崇敬したのは職業神としての石上神、布都御魂劔・経津主神で咲前神社に祀ったのではないかという。貫前神社は経津主命から連想される物部氏の神社ではなく、毛野君の影響下にあった神社ということになる。また、荒船山神社と稲含神社は現在貫前神社の摂社であるが、貫前神社には荒船山を対象にした帰化人系の神と、石上神を祭って稲含山と結合した神との二系統が考えられるという。

 尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』には咲前神社と稲含山を結ぶ直線と、荒船山と小舟神社旧地を結ぶ直線が交わる所に貫前神社がある図が載っている(谷川健一編『日本の神々』の貫前神社の項にも転載されている)。このうち、稲含山・貫前神社・咲前神社の直線はなりつたが、荒船山・貫前神社・小舟神社旧社地については、荒船山北端の艫岩(荒船山は艫岩と南の最高点である行塚山まで南北約1.5kmもある)と小舟神社旧社地を考えても、貫前神社が400mほど離れてしまいすこし微妙なところである。咲前神社と稲含山に関しては、貫前神社は十三年目毎に式年遷宮式が行われているが、その仮殿に使用の竹と縄を咲前神社鎮座地の旧東横村より納められ、萱を稲含山の南方尾根続きの千駄萱という所から刈りだすのであり、式年遷宮式を介して咲前神社と稲含山には関連性がある。一方、荒船山・貫前神社・小舟神社旧社地のラインであるが、富岡市神成の式内社宇芸神社は貫前神社の御饌津神、あるいは、貫前神の姉神との伝承があり、その神宝に船があり、貫前の船ライン(荒船・貫前・小船)上に、当社の古社地があることから、舟を表す「槽(おけ)」との説もあるという(http://www.genbu.net/data/kouzuke/uge_title.htm)。現社地の西500mほどの道端に、「吉田の池」と呼ばれている小さな池があり、その池から山を上り中腹の岩の割れ目に、当社奥宮で「ウガジンサマ」と呼ばれる小祠があり、当社の古社地と考えられているというが、その記述から受芸神社の旧鎮座地を推測すると、荒船山艫岩と小舟神社旧地を結ぶ直線上にピタリと位置している。

 咲前神社と荒船山を結びつける伝承もあり、咲前神社社伝では、経津主大神が健御名方神を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地で、 安閑天皇元年(534)六月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神「健経津主命」をお祀りし、社を建てられたのが始まりという(http://www.sakisaki.net/yuisyo.html)。荒船山には「皇朝家古修武之地」の標識がある(http://www.geocities.jp/ishildsp2004/kikou/gunma.htm)。群馬県側の荒船神社は明治初年頃には経津主命であるが、荒船山頂や長野県側の里宮である佐久市相立の荒船神社の祭神は建御名方命である。宇芸神社にも健御名方神が祀られ、『神道集』では貫前神社の神は諏訪神の愛神であるというが、この出雲神族の貫前神社周辺での祭祀は、神道集よりもはるかに遡るのかも知れない。佐久地方開拓の祖神である新海三社神社の興波岐命(おぎはぎのみこと)は健御名方神の子供であり、少なくとも荒船山の長野県側は出雲神族が開いた土地である。それは、帰化人系や上毛野君・下毛野君の祖の豊城入彦が上野国に進出して荒船山を信仰の対象にする以前の話であり、佐久地方を開拓した出雲神族が、さらに山を越えて宇芸神社や貫前神社の方まで進出していた可能性は十分あるわけである。興波岐命については、抜鉾大明神と諏訪大明神の子供という伝承もあるらしい(http://blog.yama-nobo.com/?month=200507)。健御名方神と荒船山との関係では諏訪大社の神体山である守屋山と荒船山艫岩が東北30度線をつくり、さらに下仁田町南野牧三ツ瀬の荒船神社とも守屋山は東北30度線をつくる。

  守屋山―荒船山艫岩(E0.161、0.16度)―荒船神社里宮(W0.104km、0.10度)の東北30度線

 ところで、『群馬県神社輯覧』によると群馬県には西野牧字奥宮と南野牧字里宮に荒船神社があるという。このうち南野牧三ツ瀬の荒船神社が略図などを参照すると里宮らしい。それに対して西野牧の荒船神社は奥宮ということになるが、奥宮とすると西野牧の荒船神社は里宮より荒船山に近くなければならない。尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』では、字名が山上の奥宮と山麓の里宮であることを示していて、もとは一社であるとする。しかし、地図を見ると西野牧は南野牧の北側に位置するのに対して、荒船山は南野牧の西南方向に位置しており、荒船山山上が西野牧に属しているか疑問なのである。そして、奥宮のある西野牧を流れる矢川川の遡っていくと、出雲神族とされる伊勢津彦の伝承のある八風山に突き当たるの。これは荒船神社がもともと八風山と結びつく神社だったということではないだろうか。あるいは、里宮の荒船神社はもともと荒船山を祀る神社で、奥宮とされる荒船神社は八風山を祀る神社であったが、いつの時代か八風山を祀る神社も荒船神社とされてしまったということではないだろうか。あるいは、守屋山と荒船山艫岩が方位線をつくることから、荒船山も八風山と同じように、もともとは出雲神族と結びつく山だったのかもしれない。そして、稲含山が八風山と西北30度線をつくることから、稲含山も出雲神族と結びつく山だった可能性もある。そうすると、この八風山と稲含山の方位線上に荒船神社里宮があると考えることもできる。すくなくとも、稲含山と荒船神社は西北30度線をつくるとみなしてもいいのかもしれない。一方、佐久市相立の荒船神社であるが、相立には地図上には一つしか神社はなく、社名は記されいないがおそらくその神社が荒船神社と考えられ、そうすると、相立の荒船神社も八風山と東北60度線をつくるとみなしてもいいのではないだろうか。八風山と相立の荒船神社が深い関係にあるかもしれないことは、、八風山の東北45度線上に榛名山の掃部ヶ岳・子持山があるのに対して、荒船神社の東北45度線上に榛名山の榛名富士・子持神社奥社があることからもいえるかもしれない。浅野孝一『関東霊山紀行』によれば、富田永世『上野名跡誌』に荒船山について、「山状屋上平也故博風(はふ)ト云」とあるという。子持山近くの破風山が「はふさん」で、秩父の破風山が「はっぷさん」であることから、それらの破風山も「はっぷうさん」で八風山ではないかとしたが、荒船山についてもいえるかもしれないわけである。相立の荒船神社の東北30度線方向には新海三社神社があるが、約270mという幅からいうと、両社の周辺を精査すれば、両社が方位線で結ばれていることを示すものが見つかる可能性は十分あるのではないだろうか。

  稲含山―荒船神社・三ツ瀬(W0.602km、2.13度)―八風山(E0.410km、0.97度)の西北30度線
  八風山―荒船神社・相立(E0.252km、1.89度)の東北60度線
  荒船神社・相立―榛名富士(E0.055km、0.08度)―子持神社奥社(E0.192km、0.19度)の東北45度線
  荒船神社・相立―新海三社神社(E0.266km、3.07度)の東北30度線

 妙義神社は境内に旧本社と伝えられ波己曾神社と「影向岩」と呼ばれる磐座がある。波己曾神社は丹生都姫を祭り、帰化人との関係が深いといわれている。貫前神社との関連を記すものはなかったが、方位線的にいうと妙義神社と貫前神社と密接な関係がある。妙義神社と貫前神社自身が西北30度線をつくるばかりでなく、貫前神社と関係する咲前神社と東西線、宇芸神社旧地と西北45度線、荒船山の行塚山と東北45度線をそれぞれつくっているのである。

  妙義神社―貫前神社(W0.127km、0.72度)の西北30度線
  妙義神社―咲前神社(S0.009km、0.05度)の東西線
  妙義神社―宇芸神社旧地±(W0.071km、0.47度)の西北45度線
  妙義神社―荒船山行塚山(W0.314km、1.14度)の東北45度

 妙義神社と荒船山の方位線であるが、諏訪大社神体山の守屋山と荒船山艫岩が東北30度線をつくっていたのに対し、諏訪上社本宮と妙義神社がやはり東北30度線をつくり、守屋山と武尊山が東北45度線をつくっていたが、妙義神社も武尊山と東北60度線をつくっている。

  妙義神社―諏訪上社本宮(E0.294km、0.25度)の東北30度線
  妙義神社―武尊山(E0.627km、0.54度)の東北60度線

 貫前神社と妙義神社の西北30度線上に浅間山がある。浅間山は稲含山と西北45度線つくる。また、貫前神社が男体山と東北45度線をつくるのに対して、浅間山は白根山と東北30度線をつくり、その線上に伊吹山がある。白根山は妙義神社とも東北45度線をつくる。白根山・妙義神社・荒船山が東北45度線をつくるわけである。貫前神社・妙義神社・浅間山の西北30度線上にもう一つ気になる山として、皆神山ピラミッドがあり、皆神山は岩櫃山と東西線をつくっていたが荒船山艫岩とも東北45度線をつくっている。

  浅間山―妙義神社(E0.551km、1.27度)―貫前神社(E0.424km、0.69度)の西北30度線
  浅間山―稲含山(E0.504km、0.75度)の西北45度線
  白根山(W0.312km、0.20度)―浅間山―伊吹山(W0.126km、0.03度)の東北30度線
  白根山―妙義神社(E0.374km、0.27度)―荒船山艫岩(W1.310km、0.79度)―荒船山行塚山(E0.060km、0.04度)の東北45度線
  浅間山―皆神山・神社(E0.625km、1.12度)の西北30度線
  皆神山・神社―荒船山艫岩(W0.420km、0.45度)の東北45度線

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