縄文ピラミッド

黒又山と環太平洋学会の調査
  黒又山と大湯ストンサークルの方位線
  黒又山の周辺のピラミッド
  ピラミッドどうしの方位線とストンサークル
  三内丸山とピラミッド
  黒又山の太陽信仰の祀り場の再検討

黒又山と環太平洋学会の調査

 秋田県鹿角市の黒又山(クロマンタ)はピラミッドといわれる山でも、唯一本格的な学術調査が入った場所である。辻維周氏の活動に始まり、環太平洋学会によって行われた調査は、山頂で縄文後期から続縄文期にわたる祭祀用土器が多数発掘されたことから、黒又山が山岳祭祀遺跡であることを明らかにした。全山が階段ピラミッドに似た7段から10段のテラス状の人工構造物である可能性が高くなり、頂上部分では立石や7列に並ぶ規則的に配列された円弧状の配石が見られるという。黒又山の東北に続く小クロマンタといわれる丘陵やその北西にある鹿倉山が一体になって祭祀空間を作っているらしいことも浮かびあがってきた。また、信仰面でも最初は太陽信仰という面から考えられてきたが、周辺の調査から蛇神=龍神信仰とも関係が深いことも分かってきた。
 太陽信仰の祭祀場所としては、黒又山の東西線上に東の根市地区出羽神社と西の風張地区愛宕神社、南北線上に北の黒森山と南の中草木地区草城稲荷神社、冬至夏至に関係する二至線上には四角岳・安久谷川沿いの駒形神社跡・四ッ谷地区の四ッ谷稲荷神社・土ヶ久保地区の土ヶ久保稲荷神社があげられている。なお、東西線については、鈴木旭氏は出羽神社は「新山神社」「駒形神社」「稲荷神社」が合祀されているが、元々の神社がどこに、どういう形で祀られていたか不明になっており、古来よりその地に神社があったわけではないことから、諸助山あるいは犬吠森(いぬぼえもり)のどちらかに元宮あるいは古代祀り場が在ったのではないか、愛宕神社についても貴ノ宮神社の龍神様を分詞していることからクロマンタの一部と考えるべきで、西の祀り場としては、さらに西の西町神社あるいは狐森神社を考えるべきではないかとする。蛇神・龍神関係としては鹿倉山にある貴ノ宮神社の御神体は龍神であり、白山神社の御神体も、男女の性別は不明であるがふくよかな顔立ちの人物が椀に乗る蛇を捧げ持つ木像であり、白山姫の本性は龍神とされているという。白山神社と黒又山を結んだ直線の反対側ほぼ等距離にある猿賀神社の御神体は、本殿地下の巨石であるが、名前に猿がつくにもかかわらず蛇を描いた絵が非常に多く奉納されているという。猿賀神社のある場所は申ヶ野であり、鈴木旭氏はサル・タとは大蛇の日本古語という川崎真治氏の指摘から、猿賀神社や申ヶ野のサルはサル・タのサルではないかとする。
 太陽祭祀については問題がある。特に二至線にあたる場所は、太平洋を取り巻く文化の共通性の探求という環太平洋学会の趣旨からいえば、マヤの階段ピラミッドと太陽信仰の結びつきなどから、同じくピラミッドとされる黒又山に太陽信仰の痕跡を探すのは当然であるが、東西線対して22度から30度の範囲と対象範囲が広く曖昧で、それらの場所が太陽信仰の存在を証明しているというよりも、現時点ではあくまでも太陽信仰の存在を前提にして初めて成り立つ話にすぎないともいえる。黒森山と草城神社の南北線については、彼ら自身が5度ほど左偏していることを問題にしている。それは、かっての北極星である龍座α星が、四千年ほど前の北極に対するずれと一致する角度ということであるが、北極を中心に星は日周することを考えると、あまり説明にはなっていない気がする。ただ総合調査で、黒森山と黒又山、黒又山と草城神社の距離が測量で正確に2対1になっていることや、草城神社周辺の人が黒又山や黒森山を意識していることがみられることから、無視しええないものをもっている。辻氏によれば、四ッ谷稲荷と土ヶ久保稲荷を結ぶ線も南北線に対して5度左偏しているというのであるから、この一致も不思議である。

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黒又山と大湯ストンサークルの方位線

 よく指摘されることであるが、黒又山は大湯ストンサークルの艮方向に位置している。正確には野中堂遺跡が黒又山と東北45度線をつくるが、この野中堂遺跡からみると、その東北30度線上に出羽神社、東北60度線上に愛宕神社が位置している。すなわち、黒又山の東西線と大湯ストンサークルからの方位線とが交わる場所に出羽神社・愛宕神社があり、それら四ヵ所は同一の方位線上にある三ヵ所に対し、残りの場所が扇の要のように方位線で結ばれるという、扇構造を持っているということになる。その構図は、中央のピラミッドと広場を隔てた一直線に並ぶ神殿とが、夏至と冬至および春分・秋分の日の出方向線で結ばれるという、マヤのワシャクトゥン遺跡を思わせるが、あきらかに天体観測用の配置ではない。すでに環太平洋学会の調査で黒又山・小クロマンタ・鹿倉山が方位線的に関係することが指摘されているが、黒又山と方位線は密接に関係しているのかもしれない。
 野中堂遺跡はそこに「浅間神社」というお堂が建っていたことから付けられた名前だという。現在も存在しているということは、野中堂遺跡の近くにあったということであろう。その位置によっては、そのお堂を要として扇形の方位線構造ができるかもしれない。その場合、三つの神社のどれかが黒又山からの方位線上で位置を確定しないと、残りの二つの場所も確定しない。最初に現在位置に確定された場所として考えられるのは、愛宕神社であろう。というのも、愛宕神社は貴ノ宮神社の竜神様が分祀されているといったが、貴ノ宮神社のある鹿倉山と愛宕神社が東北45度方位線を作っており、黒又山の東西線と鹿倉山の東北45度線の交わる所として、愛宕神社を現在位置に確定することができるからである。この愛宕神社からの東北60度線と黒又山からの東北45度線の交わる所に浅間神社のお堂が建てられ、次にそのお堂からの東北30度線と黒又山からの東西線の交わる所に出羽神社が建てられたという進行になる。実際にその順序で建てられたのかどうかわからないが、黒又山周辺の神社に方位線の扇形構造がみられ、しかもその要の位置のお堂の側に縄文時代のストンサークルが埋まっていたというのは、不思議な話である。
 この方位線の扇形構造は、単なる偶然とも思えない。というのも、黒又山周辺にはいくつもみられるからである。野中堂遺跡ではないが、大湯ストンサークルの万座遺跡と大湯の町の東北にある標高429mの白山が東北45度方位線をつくる。白山は黒又山とも方位線を作るから、白山・黒又山・大湯ストンサークルは東北45度方位線上にあるといえる。それに対し、出羽神社も白山と西北60度方位線をつくるので、出羽神社は白山・黒又山・大湯ストンサークルと方位線をつくっていたから、出羽神社を扇の要に、扇形の方位線構造が出来上がるわけである。野中堂遺跡と出羽神社の東北30度方位線の延長線上に駒形神社跡がある(黒又山からの方向や安久谷川のすぐ近くという略図の位置から、手元の地図の5万分の1地図にあって、2万5千分の1地図には載っていない神社がその位置と考えられる)。白山はその駒形神社跡とも西北45度方位線をつくるので、ここにも白山を扇の要とする方位線の扇形構造が出来上がるわけである。
 白山まで視野に入れれば、黒又山の東西線と鹿倉山および白山からの方位線の交わる所に愛宕神社と出羽神社が位置することになり、そこから黒又山・愛宕神社・出羽神社の内の二ヵ所からの方位線が交わる所に浅間神社のお堂がくるという順序になる。ただ、そのお堂と残りの一ヵ所とが方位線を作るとは限らないから、それが方位線になっていることも不思議である。
 もう一つの考え方は、浅間神社のお堂と黒又山が方位線を作り、また黒又山の東西線とお堂からの方位線の交わる所に愛宕神社と出羽神社が配置されたという場合であるが、今度はなぜ浅間神社のお堂がそれほど重要視されたのかが問題になる。理由としては、そこがストンサークルのあった場所だからということになるのではないだろうか。野中堂遺跡が地中に埋まった後も特別な場所という意識が残った可能性も否定できない。方位線が密集すれば、当然方位線の扇構造も出現する可能性が増大することは確かであるが、縄文時代の山岳祭祀遺跡として確定された黒又山の東西線上にある神社や黒又山と方位線をつくるお堂の側に、ストンサークルが埋まっていたというのは単なる偶然とはいえない話なのではないだろうか。
  野中堂遺跡―黒又山(W0.031km、0.85度)の東北45度線
  野中堂遺跡―出羽神社(E0.013km、0.25度)の東北30度線
  野中堂遺跡―愛宕神社(W0.021km、0.7度)の東北60度線
  黒又山―出羽神社(0.000km、0.00度)―愛宕神社(S0.025km、1.27度)の東西線
  黒又山―小クロマンタ±(E0.018km、3.39度)の東北45度線
  小クロマンタ±―鹿倉山±(E0.011km、1.36度)の西北45度線
  鹿倉山±―愛宕神社(E0.011km、0.84度)の東北45度線
  白山―黒又山(E0.084km、1.16度)―万座遺跡(W0.018km、0.16度)の東北45度線
  白山―出羽神社(W0.002km、0.03度)の西北60度線
  駒形神社跡―出羽神社(W0.013km、0.59度)―野中堂遺跡(W0.049km、0.43度)の東北30度線
  白山―駒形神社跡(W0.015km、0.47度)の西北45度線
  
 これらの方位線網が縄文時代にまで遡るかどうかは分からないが、大湯ストンサークル―黒又山―白山の方位線は縄文時代のものという可能性は十分あるといえよう。神社の中では、駒形神社が一番縄文との結びつきが強い。鈴木陽悦氏の『クロマンタ―日本ピラミッドの謎を追う』によれば、駒形神社跡が見つかったとき、神社の跡に建てられた石の祠にはリンガ型の石棒が二体立てかけられていたという。また、現在駒形神社は大湯の町に近い白山地区に移さているが、その御神体は縄文時代のものとおもわれる石棒で、子宝をさずかりたい人々が奉納した金精様が数多く奉納されているという。
 白山については、鈴木旭氏の『日本ピラミッドの謎』の扉の地図に白山―黒森山―高寺山ピラミッドが直線で結ばれているのが載っている。この他、白山は黒又山と東西線をつくる諸助山・中岳と一直線に並んでいるが、この三山の重要性はあとでまた述べたい。中岳は黒又山・四ッ谷稲荷、草城神社・野中堂遺跡とそれそれ直線をつくる。方位線的には駒形神社跡と四ッ谷稲荷が東西線をつくる。この東西線に重なるように犬吠森の東西線があるが、より重要なのはその東西線上にある上芦名沢と下芦名沢の間にある標高301mの山かもしれない。黒又山と西北30度、高寺山と西北60度の方位線をつくるのである。黒又山と土ヶ久保稲荷とが東北30度方位線をつくり、土ヶ久保稲荷は黒森山と東北60度方位線をつくる。草城神社であるが、上芦名沢地区の神名社(芦名神社)近くにある衣掛の岩と西北60度方位線をつくる。衣掛の岩は方位線的に四ッ谷稲荷と東北30度、白山と東西線、高寺山・鹿倉山・小クロマンタと西北45度線をつくる。中岳とも西北30度方位・方向線をつくるといえるかもしれない。白山と方位線をつくるということは、白山と草城神社の東北60度線も方位線として考えたくなるが、これは微妙である。もし、それも方位線なら草城神社・白山・衣掛の岩が方位線正三角形をつくることになる。微妙さでいえば、四ッ谷稲荷と猿賀神社の西北60度線もそうである。猿賀神社は鹿倉山とは東北60度方位線をつくる。
 四角岳の西北30度方位線上に高寺山がある。そして、もうひとつの30度線である東北30度方位線上に玉内遺跡がある。玉内遺跡は縄文時代晩期前半のものとされる配石遺構で、高さ20cmほどの立石を中心に直径2mほどの日時計型の環状列石である。大湯環状列石の配石の変遷を考えるうえで重要なものとされる。この玉内遺跡と上下芦名沢の間にある標高301mの山が南北線をつくる。また、四ッ谷稲荷と土ヶ久保稲荷を結ぶ線を延長すると玉内遺跡に突き当たる。その直線はほぼ玉内遺跡と高寺山を結ぶ線にかさなるので、あるいは四ッ谷稲荷、土ヶ久保稲荷はその直線上にあるといえるのかもしれない。
  黒又山―諸助山(S0.075km、0.7度)の東西線
  黒森山―諸助山(W0.236km、1.79度)の西北30度線
  犬吠森―駒形神社跡(E0.124km、1.21度)―301m山(E0.049km、0.22度)―四ッ谷稲荷(E0.174km、0.69度)の東西線
  301m山―黒又山(W0.030km、0.56度)の西北30度線
  301m山―高寺山(W0.032km、0.43度)の西北60度線
  黒又山―土ヶ久保稲荷(W0.088km、1.12度)の東北30度線
  黒森山―土ヶ久保稲荷(W0.138km、1.12度)の東北60度線
  衣掛の岩±―草城神社(W0.101km、1.05度)の西北60度線
  衣掛の岩±―白山(N0.095km、1.02度)の東西線
  白山―草城神社(kE0.162m、1.66度)の東北60度線
  衣掛の岩±―四ツ谷稲荷(E0.053km、1.39度)の東北30度線
  高寺山―衣掛の岩±(E0.033km、0.56度)―鹿倉山±(E0.042km、0.36度)―小クロマンタ±(E0.032km、0.26度)の西北45度線
  中岳―衣掛の岩±(W0.432km、1.59度)の西北30度線
  四ッ谷稲荷―猿賀神社(W0.133km、1.56度)の西北60度線
  猿賀神社―鹿倉山±(E0.09km、1.42度)の東北60度線
  四角岳―高寺山(W0.221km、0.65度)の西北30度線
  四角岳―玉内環状列石(E0.094km、0.31度)の東北30度線
  301m山―玉内環状列石(W0.167km、0.69度)の南北線

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黒又山と周辺のピラミッド

 黒又山を中心とする方位線網は、さらにその外側に拡大することができる。たとえば、万座遺跡は亀ヶ岡遺跡と西北60度方位線をつくる。また岩木山鳥ノ海と西北45度方位線をつくり、その方位線上には岩木山神社があり、岩木山神社は亀ヶ岡遺跡と南北線をつくる。岩木山頂は野中堂遺跡と西北45度方位線をつくる。亀ヶ岡遺跡は縄文晩期の遺跡で、その出土品から祭祀遺跡ではないかといわれている。岩木山神社は社伝では宝亀11年(780)、岩木山山頂に社殿が創建され、延暦19年(800)坂上田村麿が社殿を再建して奥宮または本宮とし、別に山北に下居宮(おりいのみや)を建て、寛治5年(1091)に現在地に遷座したという。厳鬼山神社がもともとの岩木山神社だったといわれる。岩木山神社の東北45度方位線上には森山と梵珠山がある。梵珠山は若いころ日本を訪れた釈迦が悟りを開いた場所といわれ、釈迦は晩年日本に戻ってきてここが死んだという。森山は十三湖北方の靄山とおなじく、お山参詣の日以外は禁足地となっていた岩木山の代りに参詣りする山である。岩木山神社と亀ヶ岡遺跡の南北線上には高さ3mの巨石を御神体とする大石神社があり、大石神社と梵珠山が東北30度方位線をつくっている。新岩木山神社である現岩木山神社と森山が方位線をつくるのに対して、旧岩木山神社である厳鬼山神社が靄山と南北線をつくる。佐藤有文氏は『津軽古代王国の謎』で岩木山・亀ヶ岡遺跡・靄山を結ぶ東経140度20分のレイ・ラインに注目しているが、この南北線はよりきめ細かくみていく必要があるようである。
 高寺山―四ッ谷稲荷―土ヶ久保稲荷―玉内遺跡が一直線をつくるとみなしたが、そのうちの高寺山・土ヶ久保稲荷・玉内遺跡が十和利山ピラミッドとそれぞれ東北30度・45度・60度方位線をつくる。また、残る四ッ谷稲荷も大石神ピラミッドと東北30度方位線をつくる。大石神ピラミッドはさらに中岳と東北60度方位・方向線をつくっている。中岳は諸助山・白山と直線をつくっていたが、諸助山はドコノ森と東北45度方位線をつくり、白山はドコノ森・西ノ森各ピラミッドと東北30度方位線をつくる。矢筈山がドコノ森と東北30度線をつくるので、その方位線には矢筈山も含むと考えるべきであろう。黒又山が直接方位線をつくるものとしては、西北30度線の石ノ塔がある。また、石ノ塔は姫神山ピラミッドと西北45度方位線をつくる。
 黒又山周辺でも一番重要なのは、四角岳と中岳であろう。というのも、そこを東北のピラミッドラインとでもいうべき方位線が通っているからである。四角岳と中岳の中岳寄りを姫神山と五葉山の西北60度方位線が通り、四角岳寄りを六角牛山の西北60度方位線が通っている。また、四角岳の外側を十三湖の北にある靄山や早池峰山の西北60度線、中岳の外側を石神山の西北60度線が通り、幅約2.5kmの西北60度線上に五葉山と靄山を両端とした東北の代表的なピラミッドとされる山が含まれているのである。なお、中岳と皆神山ピラミッドが東北60度方位線をつくっている。
  万座遺跡―亀ヶ岡遺跡(W0.0005km、0.00度)の西北60度線
  野中堂遺跡―岩木山(E0.239km、0.21度)の西北45度線
  万座遺跡―岩木山神社(W0.174km、0.17度)―鳥ノ海(W0.051km、0.55度)の西北45度線
  梵珠山(E0.047km、0.09度)―岩木山神社―森山(W0.053km、1.49度)の東北45度線
  十和利山―高寺山(E0.372km、0.92度)の東北30度線
  十和利山―土ヶ久保稲荷(E0.292km0.62、度)の東北45度線
  十和利山―玉内環状列石(W0.308km、0.50度)の東北60度線
  大石神ピラミッド―四ッ谷稲荷(E0.675km、1.10度)の東北30度線
  大石神ピラミッド―中岳(E0.675km、1.46度)の東北60度線
  ドコノ森―諸助山(W0.079km、0.26度)の東北45度線
  白山―西ノ森(E0.063km0.26、度)―ドコノ森(W0.115km、0.36度)の東北30度線
  ドコノ森―矢筈山(W0.099km、0.38度)の東北30度線
  黒又山―石ノ塔(W0.072km、0.13度)の西北30度線
  石ノ塔―姫神山(W1.464km、0.89度)の西北45度線
  靄山(E1.095km、0.54度)―四角岳―早池峰山(E1.189km、0.72度)の西北60度線
  四角岳―六角牛山(W0.225km、0.10度)の西北60度線
  中岳―姫神山(E0.074km、0.08度)―五葉山(E0.212km、0.09度)の西北60度線
  中岳―石神山(W0.408km、0.30度)の西北60度線
  皆神山・神社―中岳(E0.093km、0.01度)の東北60度線

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ピラミッドどうしの方位線とストンサークル

 東北の代表的なピラミッドのつくる方位線上に四角岳・中岳があるということは、おそらく四角岳と中岳もピラミッド、あるいはピラミッドとその拝殿山なのであろう。中岳は大石神ピラミッドと方位線をつくっていた。そして、十和利山・大石神ピラミッド・ドコノ森・西ノ森も方位線で結ばれている。十和利山と西ノ森が南北線をつくり、西ノ森と大石神ピラミッドが東北45度方位線をつくる。また、西ノ森とドコノ森の東北30度線は微妙であるが、これらの山が方位線で密接に結びついている以上、ドコノ森と西ノ森も方位線をつくるとみなすべきであろう。このように見てくると、ピラミッドどうしも方位線網をつくっていることがわかる。
  ピラミッドどうしばかりでなく、ストンサークルどうしも方位線をつくっている。玉内遺跡の西北60度方位線上に岩手県松尾村寄木の釜石遺跡の環状列石があり、その延長線上に盛岡の三ツ石神社が位置している。釜石遺跡は直径12mの環状列石の中央に直径1.5mほどの石組があり、火を焚いた後があるという。また環状列石の周りには直径3mほどの衛星状に並んだ数個の環状列石および北側には石を敷き詰めた祭壇状の張り出しがあり、人骨や副葬品が見つかっていないことから、祭祀遺跡と推定されているという。この方位線が無視できないのは、玉内遺跡が十和利山と東北60度方位線をつくり、釜石遺跡がやはり十和利山・西ノ森と南北線をつくっていることである。
 ストンサークルの役目の一つは、直接には方位線で結ぶことのできないピラミッドどうし、あるいは聖なる山どうしを方位線で結ぶための里宮的な役割をはたしていることではないだろうか。大湯ストンサークルは黒又山と方位線をつくり、また岩木山とも方位線をつくっていた。すなわち、大湯ストンサークルを媒介にして、黒又山と岩木山が方位線で結ばれるわけである。同じようなことは、岩木山山頂や鳥ノ海の東北45度方位線上にある大森勝山ストンサークルについてもいえる。大森勝山ストンサヘークルは大湯ストンサークルと同規模のストンサークルであるが、四角岳・中岳と西北45度方位線をつくるのである。すなわち、大森勝山ストンサークル・四角岳を通じて、岩木山は五葉山や早池峰山・姫神山などのピラミッドと方位線で結ばれることになるわけである。さらに、大森勝山ストンサークルは十和利山と西北30度方位線、岩手山と西北60度方位線をつくっている。なお、万座ストンサークルが現岩木山神社と西北45度線をつくっていたが、旧岩木山神社である厳鬼山神社は大森勝山ストンサークルと西北60度線をつくっている。岩手山は鳥海山と東北45度方位・方向線をつくっていると考えられ、鳥海山はドコノ森と東北60度方位線をつくっている。また、十和利山の南北線は岩手山とその西の黒倉山の間を通るが、岩手山の南北線上には戸来岳三ツ岳がくるので、十和利山と岩手山が南北線をつくるといえるがどうかは、問題がある。ただ、岩手山を中心に考えるなら、その南北線上に十和利山と戸来岳三ツ岳がくるということは成り立つ。
 岩木山自身が方位線をつくる山は宇曽利の奥ノ院といわれた釜臥山とピラミッドともいわれる東ノ森くらいである。ただ、巨石として、アラハバキ神とも関係するといわれる丹内山神社の磐座が鳥ノ海の西北60度線上にあり、丹内山神社は船形山と東北60度線、栗駒岳と東北45度線をつくり、その延長線上には京都の稲荷山がある。船形山は皆神山と東北45度方位線をつくっている。また、東北30度上には出雲大社がある。大森勝山ストンサークルで興味深いのは、それが三輪山と東北60度方位線をつくることである。もしかしたら、その事実は三輪山の祭祀と重要な関係をもっているのかもしれない。
  十和利山―西ノ森(W0.187km、1.57度)の南北線
  大石神ピラミッド―西ノ森(W0.096km、0.43度)の東北45度線
  西ノ森―ドコノ森(W0.178km、2.33度)の東北30度線
  玉内環状列石―釜石環状列石(E0.234km、0.39度)―三ッ石神社(E1.235km、1.10度)の西北60度線
  釜石環状列石―西ノ森(E0.179km、0.21度)―十和利山(E0.365km、0.37度)の南北線
  大森勝山ストンサークル―岩木山(E0.105km、0.84度)―鳥ノ海(E0.087km、0.66度)の東北45度線
  大森勝山ストンサークル―四角岳(E0.256km、0.19度)―中岳(W0.558km、0.42度)の西北45度線
  大森勝山ストンサークル―十和利山(E0.390km、0.34度)の西北30度線
  大森勝山ストンサークル―岩手山(E0.230km、0.11度)の西北60度線
  大森勝山ストンサークル―三輪山(E0.477km、0.03度)の東北60度線
  大森勝山ストンサークル―厳鬼山神社(W0.04km、0.53度)の西北60度線
  岩手山―鳥海山(E1.523km、0.70度)の東北45度線
  鳥海山―ドコノ森(E0.764km、0.25度)の東北60度線
  岩手山―戸来山三ツ岳(E0.031m、0.03度)の南北線
  岩木山―釜臥山(W0.509km、0.28度)の東北45度線
  岩木山―東ノ森(W0.044km、0.04度)の西北30度線
  鳥ノ海―丹内山神社(W0.239km、0.08度)の西北60度線
  丹内山神社―船形山(W0.226km、0.11度)の東北60度線
  丹内山神社―栗駒岳(E0.117km、0.11度)―京都稲荷山(W0.146km、0.01度)の東北45度線
  丹内山神社―出雲大社(E0.027km、0.00度)の東北30度線
  皆神山―船形山(W0.070km、0.01度)の東北45度線

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三内丸山とピラミッド

 三内丸山遺跡からの方位線上にも多くのピラミッドとよばれる山がある。西北45度方位線上に靄山があり、十和利山ないしドコノ森と西北60度線をつくる。岩木山との関係は微妙である。東北30度線を引くと岩木山山腹を通るのであるが、はたして三内丸山と岩木山の間で方位線が機能してるかどうかは、数字だけからは判断できない。東北60度線上に恐山の大尽山がくる。
 三内丸山で興味ぶかいのはその東北45度方位線上に葦嶽山、東北60度線上に位山という二つの代表的なピラミッドがくることである。この二つの山には、ピラミッドというばかりでなく、神武とも関係しているという共通項がある。葦嶽山、正確にはその拝殿山と考えられる鬼叫山の鏡岩の側に神武岩という石柱がある。酒井勝軍が葦嶽山ピラミッドを発見するきっかけとなった葦嶽山の宝捜し騒動は、神武天皇が宝をどこかに埋めたらしいという薬売りのうわさ話から、そういえば神武岩というのがあったということになって、大騒動になったのである。渡辺豊和氏の『縄文夢通信』によれば、葦嶽山の方位岩の割れ目は東西線に対して30度の角度をなしているという。また、鏡岩は真南に対して45度傾いていおり、また鏡岩の下部左前面には鏡岩から正確に45度をなして切り取られた敷石があったり、これら拝殿の巨石や、そことちょうど山頂をはさんで対角線上にある階段状に積まれたドルメン風の平石などの場所を調べてみると、一様に山頂を中心とする東西南北の軸に対して、正確に45度の角度の位置にあることがわかり、巨石は山頂に対して真南西から真東北に位置しているという。また、拝殿山である鬼叫山の山頂は葦嶽山の北側、正確に東偏30度のところにあるという。要するに、東北60度線上にあるということである。このようにみてくると、葦嶽山は方位線と密接な関係があるということになる。
 位山には両面宿儺の伝説がある。それによれば、位山の主は神武天皇へ位を授くべき神で、浮船に乗って降臨してきた。この山で神武天皇に位を授けたので位山というのだという。この伝説は、大嘗祭で使う笏が位山のイチイの木を使うことからきているのかもしれないが、ではなぜ位山のイチイの木でなければならないのかという疑問が残る。飛騨こそ高天原でかっては日本の中心だったという説がある。ただ、日本のピラミッドにおける葦嶽山の大きさから考えると、葦嶽山と位山の両方と方位線をつくる三内丸山こそ日本の中心だったとすべきかもしれない。一人の王によって統一されていたわけではないが、精神的あるいは霊的に統一された国というものがあり、その中心が三内丸山だったのではないだろうか。神武あるいは大和朝廷もそのことを無視することができず、天皇の即位をその国の統治権を継承するという形でしか正統化できなかったのであり、その正統性を証明するために、三内丸山と方位線で霊的につながっている位山のイチイの木で出来た笏を使ったということなのではないだろうか。
  三内丸山遺跡―靄山(W0.228km、0.28度)の西北45度線
  三内丸山遺跡―ドコノ森(E0.100km、0.10度)の西北60度線
  三内丸山遺跡―十和利山(W0.439km、0.47度)の西北60度線
  三内丸山遺跡―大尽山(E0.095km、0.08度)の東北60度線
  三内丸山遺跡―岩木山(W1.77km、2.5度)の東北30度線
  三内丸山遺跡―葦嶽山(W0.723km、0.04度)の東北45度線
  三内丸山遺跡―位山(E1.454km、0.13度)の東北60度線
  葦嶽山―鬼叫山(W0.005km、1.11度)の東北60度線

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黒又山の太陽信仰の祀り場の再検討

 環太平洋学会の調査で太陽信仰の祀り場とされた地点は、その根拠が曖昧ではないかとしたが、方位線を絡めてみると、それらの地点は黒又山を中心にした濃密な方位線網で結ばれていることが分かった。ただ、そのことをもってやはりそれらの地点が特別な場所だったともいいきれない。例えば、草城神社や黒森山の代わりに、黒又山と南北線をつくる地点として級ノ木地区の神社や大湯の町の西部にある神社があげられていたらどうであろうか。少なくとも、それらの神社のほうがより正確に黒又山と南北線をつくるのであり、その場合も、級ノ木地区の神社については、さっそく四角岳と東西線をつくり、万座遺跡と西北60度方位線をつくることを見いだすであろう。また、大湯の町西部の神社に関しては、やはり万座遺跡と西北60度方位線をつくるとみなしてしまうかもしれないし、出羽神社と高寺山とを結ぶ線上に位置していることに注目するかもしれない。二点からの方位線が交わる場所は56ヵ所もあるのであるから、黒又山周辺の神社の多くでこのようなことが起こる可能性は十分あるわけで、結論をだすにはさらに深く幅広い研究が必要なわけである。
 土ヶ久保稲荷についても、玉内遺跡―土ヶ久保稲荷―高寺山が一直線に並び、それらの場所が十和利山と方位線をつくるとしたが、十和利山と東北45度線をつくるのは錦木地区古川の錦木塚であるともいえるのである。錦木塚は巨石であり、十和利山ピラミッドと方位線をつくる場所としては、土ヶ久保稲荷よりふさわしいともいえる。方位線的にみても、高寺山と南北線をつくっている。さらに野中堂遺跡と東北30度線、万座遺跡と東西線をつくる茂谷山と西北45度の方位線をつくっているのである。さらに、注目されるのは鹿角の南に位置する五ノ宮岳と西北60度方位線をつくることである。錦木塚には一つの伝説があって、草木の若者が錦木地区の古川という部落のまさこ姫という機織り娘に恋をするが、当時錦木塚周辺の里では、五ノ宮岳の麓から飛んでくる大きな鷲が村々の赤ん坊をさらっていくというので、非常に悩んでいた。ある時、旅の僧がやって来て、まさこ姫の織る白鳥の毛をおりまぜた布を赤ん坊に着せると、さらわれないようになると教える。それを聞いたまさこ姫は、三年間織り続けるという願をかけるが、まさこ姫に恋した若者は三年間毎日通い続けたが、九九九日目に病に伏して死んでしまう。それを知ったまさこ姫も後を追って死んでしまうという悲恋物語であるが、ここに出てくる五ノ宮岳と錦木塚が方位線をつくっていたわけである。五ノ宮岳はドコノ森とも東北60度方位線をつくる。玉内遺跡との西北30度線は方位線として微妙であり、白山との南北線はさらに微妙である。ただ、白山がドコノ森と方位線をつくっていたことを考えるなら、五ノ宮岳と白山の方位線も無視できない。
 四ッ谷稲荷と大石神ピラミッドの東北30度線も、大石神ピラミッドの30度線に反応しているのは衣掛の岩ないし黒森山かもしれない。黒森山は少しずれているようにもみえるが、白山を中心に両翼に黒森山・高寺山と諸助山・中岳が一直線な並び、黒森山と諸助山が西北30度線をつくり、四角岳と高寺山がやはり西北30度線をつくった。四角岳と中岳を一体のものと考えると、これは無視できない構図である。このうち、中岳・諸助山・白山・高寺山が十和利山・大石神ピラミッド・ドコノ森・西ノ森と方位線をつくっていたのであるから、黒森山も大石神ピラミッドと方位線をつくっても不思議ではない。黒森山山頂には黒森神社があるなど、周辺の山の中では明確な信仰の山であることなどを考えると、精度として測量系ではなく測定系を考えれば、ずれているのはそれだけ感度がよかったともいえるわけで、ある意味重要な場所ともいえるわけである。
 縄文時代すでにあった山や環状列石、それにおそらく有史以前から現在位置にあったとおもわれる巨石だけを選んでも、黒又山は三つの山、小クロマンタと一体と考えれば四つの山と方位線をつくり、その他のポイントもすべて方位線で複雑に結ばれているから、黒又山周辺は縄文時代すでに濃密な方位線網があったということができる。なお、小坂町小坂の曹源院裏山の山頂には環状列石を含む縄文時代の遺跡があるという。この小坂遺跡については、山頂部付近の地形しか分からないが、楕円形の山頂部が東北にのびている。これに当てはまるのは、曹源院の東側の山である。もし、その山の山頂に小坂遺跡があるとすれば、その場所は高寺山と西北45度方位線をつくり、万座遺跡と東北60度方位線をつくる。
  十和利山―錦木塚(E0.549km、1.10度)の東北45度線
  錦木塚―高寺山(E0.007km、0.05度)の南北線
  錦木塚―野中堂遺跡(W0.003km、0.04度)の東北30度線
  錦木塚―茂谷山(W0.093km、1.77度)の西北45度線
  茂谷山―万座遺跡(W0.013km、0.14度)の南北線
  錦木塚―五ノ宮岳(W0.313km、1.21度)の西北60度線
  五ノ宮岳―ドコノ森(W0.243km、0.42度)の東北60度線
  五ノ宮岳―玉内環状列石(E0.261km、2.45度)の西北30度線
  五ノ宮岳―白山(E0.614km、1.94度)の南北線
  大石神ピラミッド―黒森山(E0.792km、1.60度)―衣掛の岩(E0.578km、1.08度)の東北30度線
  曹源院東の山―高寺山(E0.034km、0.75度)の西北45度線
  曹源院東の山―万座遺跡(E0.206km、1.19度)の西北60度線