神武東征と九州
宇佐からの方位線
宮崎以前の神武
東霧島神社
東霧島神社と鬼の方位線
日向三代と高千穂峯
日向三代の山陵
降臨神話と卵生神話
隼人と高千穂峯
韓国宇豆峯神社と隼人
高千穂峯と巨石信仰
鵜戸神社と開聞岳
伝承の地域分布及び隼人
王の山の玉璧
日向を出発し宇佐に至った神武軍は、そこから筑紫の崗水門の岡田宮、安芸の埃宮、吉備の高島宮を営んだ後、大和に向かう。このうち、崗水門は宇佐から大和に向う海路から外れ、逆方向にある。神武軍がそこに一度立ち寄った理由としては、海上交通の要所であったという説や遠賀川付近の海人族の関係が考えられているようである。東征本番への態勢固めというわけであろう。逆方向の岡田宮であるが、方位線的にみると、埃宮・高島宮と共通項がみられる。それぞれ宇佐からみて西北30度線・東北45度線・東北30度線の方位・方向線上に位置しているのである。このうち、方位線を作るのは埃宮とされる多家神社のみであるが、吉備との関係でいえば、吉備の中山が宇佐神宮、特に奥社の御許山と方位線を作る。興味深いことに、その方位線上には和気神社が位置している。多家神社は、延喜式に名神大社として多家神社が見えるが、所在不明となり、惣社と松崎八幡宮が争っていたが、明治4年両社を合祀して一社とする事が決定され、同7年両社の中間の誰曾廼森が比定地とされて多家神社が建立された。惣社と松崎八幡宮とも多家神社からそんなに離れておらず、どちらにしても方位線上にあるといえるであろう。
御許山(E0.258km、0.06度)―吉備中山南の頂▲128m―和気神社(W0.436km、0.73度)
御許山―多家神社(E0.794km、0.32度)
この宇佐からの方位・方向線に対して宇佐までの道順を考えると、神武出征の地としては、地元の伝承としてまず宮崎市近辺があげられる。黄泉の国でイザナミに追われたイザナギがたどり着いたのが「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で、イザナギはそこで禊をして天照などを生むことになるが、宮崎市のシーガイアのある辺りを阿波岐原といい、イザナギ・イザナミを祀る式内社の江田神社がある。また、宮崎市下水流町(鶴島三丁目)に小戸神社がある。もともとは阿波岐原の北部、動物園の側にある住吉神社の境内にがあったが、津波で壊された後、転々として現在地にいたるという。また、下別府村にあったのが漢文二年の震災により下別府村が海没したので、一時上別府大渡の上に遷したのが今の元宮町の宮址で、新たに上の町社地を築き遷宮したが、昭和になってさらに移転遷座したのが現在地であるともいう。この二つの記述から元々の小戸神社の場所を確定することは難しい。上下別府村は隣接していたと考えらるから、その場合、小戸神社の旧跡は現在地からそう離れた場所とはいえない。元宮町のすぐ東には別府町もあ。これらの場所は、住吉神社からかなり離れており、二つの小戸神社が同じ場所を示しているとは思われない。あるいは、両方に小戸神社があり、どちらも海の近くだったので、同じ地震による津波で流されてしまったということなのかもしれない。
どちらにしても、地元では橘の小門の阿波岐原から神武は船出していったという伝承があり、大淀川河口付近と考えられている。宮崎神宮は神武の孫の建磐龍命が神武の宮跡に創建したものだともいわれるし、その北にある皇宮屋(皇宮神社)が神武の元屋敷とも呼ばれる神武の宮跡で、この皇宮屋はその後鶏子峰(宮崎市南方町御供田)に移され長屋神社と称したのが、現在の奈古神社であり、奈古神社から保元の頃に神武天皇の神霊が遷座したのが現在の宮崎神宮であるともいわれる。住吉神社の近くでは、葬送の後、海浜で禊ぎをする風習が最近まで残っていたといい、また住吉神社の南の江田神社近くの遺跡は、宮崎県でも突出して古い弥生遺跡であるという。方位線的にみると、御許山の南北線上に西都市の都萬神社や皇宮神社、それに現在の小戸神社が位置しており、神武軍は宮崎から南北線上の宇佐に進軍したということになる。
御許山―都萬神社(W0.171km、0.07度)―皇宮神社(E0.754km、0.26度)―小戸神社E0.158(km、0.05度)の南北線
宮崎以前の神武や日向三代の宮都・山陵についての諸説は安本美典氏の『邪馬台国は、その後どうなったか』に詳しいので、主にそれを参考にすると、宮崎では高千穂宮というには高千穂峯から離れすぎており、神武たちは高千穂峯の近くの高千穂宮で東征を謀議し、宮崎に進駐して第二の宮を建てたという説もあるらしい。神武天皇の幼名である狭野尊は地名からきていると考えられており、高原町の狭野の地に狭野神社がある。社伝によれば、狭野神社はもともと1kmほど離れた、神武天皇誕生の地といわれる皇子原神社のところにあったが、元暦元年(1184)に霧島山が噴火した際に社殿が焼失したので、神輿は東霧島神社に災いを避け、長年東霧島神社と同じ殿中にあったのを、天文十二年(1541)年に薩摩藩主島津貴久が高原郷の麓に仮宮を建て、慶長十七年(1612)島津家久が現在地に社殿を造営したという。また、宮之宇都という所があり、そこは高千穂宮の跡と伝えられている。インターネットで検索すると、湯之元温泉というのが一件だけひっかかったが、その温泉の近くらしい。すぐ北に宇都という地名がある。そこの田んぼに囲まれたような小高いところにあるということなのであろう。写真を見ると、塚というより雑木林に囲まれているので、丘の上のようである。また皇子原神社の西4.2kmほどのところに皇子河原というところがあり、そこも皇居跡という伝承があるらしい。ちなみに、宇都地区の北側にある223m三角点をとると皇子原神社の東西線より150mほど南であり、これらの神武伝承の地はほぼ東西線上に分布しているということになる。この東西線を東に伸ばすと、宮崎がある。神武たちは、東西線を東方向に宮崎まで進出し、そこから南北線を宇佐に向かい、さらに宇佐から方位・方向線上にある地点に拠点を築きながら大和にむかったとも考えられるわけである。
皇子原―小戸神社(N0.772km、1.04度)の東西方位線
南九州の神武の高千穂宮伝承地としては、他に都城市都島の城山と東霧島神社付近の二ヵ所がある。都城市の城山は五十町の東、都城川の西というから、現在狭野神社がある城山のことであろう。この山にはもともと神代の宮殿跡の地をみだりに踏み汚さないように塚を造り、築塚(須久塚)宮古の神社があったが、築城の際四町ほど東の所に移したという。城山については、ホホデミノ命は最初国分市宮内に都し、海神の宮から帰ってのちは、内の浦をへて、この地に都したとも、ニニギノ命が高千穂の峯からここに移り、以後ホホデミノ命、ウガヤフキアエズノ命の宮があったとも、諸説がたてられている。城山の東北30度線方向に小戸神社があり、この場合も神武たちは方位線上を宮崎に進んだといえる。
城山―小戸神社(2.065km、3.04度)の東北30度方向線
高千穂宮の狭野、城山両説に共通するのは高千穂の峯と方位線的に関係することである。城山は高千穂の峯の西北60度線方向に位置しており、狭野は皇子原神社が東北30度線をつくる。天孫降臨の話はニニギノ命の高千穂の峯降臨で始まり、神武の橿原の宮での即位で終わる話である。その間にホホデミの命とウガヤフキアエズの命が入るが、朝鮮の檀君神話をみると、白頭山に天降った桓因と熊から人間になった女性の間に生まれた檀君が国の開祖となっており、この檀君神話が記紀の天孫降臨神話の原型であるとすれば、天孫降臨神話の基本は、高千穂の峯への天降り→神武の誕生→大和橿原宮での即位ということになり、天孫族は高千穂の峯から方位・方向線上を神武生誕地あるいは高千穂宮の違いはあるが狭野あるいは都島の地に進み、そこから方位線上を宮崎・宇佐にすすみ、そこから大和に向ったということになる。
高千穂の峯―城山(E1.193km、3.13度)の西北60度方向線
高千穂の峯―皇子原神社(W0.058km、0.78度)の東北30度線
残る東霧島神社付近説であるが、高千穂の峯からの方位線上にはなく、宮崎も方位線上に位置しない。この場合、神武達が方位線上を進んだという考えは成り立たないわけである。東霧島神社付近を高千穂宮とする説は、薩摩の国学者白尾国柱がとなえたようであり、ホホデミノ命、ウガヤフキアエズノ命の都が東霧島の地にあり、神武もここで生まれたという。その「神代山陵考」に記された根拠によれば、天文年間に高原郷に移るまで、この地に佐野権現神社があったということらしい。そうすると、皇子原神社の地から一時東霧島神社に同殿していたという狭野神社の社殿を否定しない限り、この説は成り立たないことになるが、もし東霧島神社がもともとから狭野神社そのものであるとすれば、東霧島神社そのものが狭野の地に遷座するのではなく、東霧島神社と狭野神社の二つに分かれたことが説明できなくなるのではないだろうか。東霧島神社付近を高千穂宮とする説は根拠が薄いといわざるをえない。
ただ、方位線的には逆にまったく否定できない事情もある。東霧島神社は鵜戸神宮と西北30度線を作るのである。方位線が何らかの意味を持つなら、この鵜戸神宮と東霧島神社の方位線も無視できないかもしれないし、その場合ホホデミノ命やウガヤフキアエズノ命がこの地に都したということも無碍に否定できないわけである。もっとも、鵜戸神宮が西北30度線を作るのは、皇子原神社の方ということも考えられる。
鵜戸神宮―東霧島神社(W0.025km、0.28度)の西北30度線
鵜戸神宮―皇子原神社(E0.638km、0.68度)の西北30度線
東霧島神社の東はツマとよみ、霧島の東の端の意味とも、霧島峯より東に連なる長尾山の端に位するため津末と言われ、西都市の都萬(つま)神社の信仰とも関係があるのでツマとも呼ばれるとある。都萬神社はコノハナサクヤヒメを祭神しと、近くはニニギノ命とコノハナサクヤヒメ神話と結びつく場所が点在している。方位線的にも、東霧島神社と都萬神社は方位方向線関係にある。より正確にはニニギノ命の墓といわれる西都原古墳群の男狭穂塚と東北45度線をつくるが、時代的には当然男狭穂塚をニニギの墓とすることは出来ない。問題は、この正確さをどう評価するかであるが、この正確さを重視するなら、もともとは東霧島神社と男狭穂塚が方位線で結ばれていたが、いつの時代からか男狭穂塚がニニギの墓といわれるようになると、東霧島神社と都萬神社も関連付けられて考えられるようになったということになる。もっとも、東霧島神社とニニギノ命・コノハナサクヤヒメ神話との方位線的関係は都萬神社関係ばかりではない。東霧島神社は野間岳とも東北30度線をつくるのである。八合目にある野間神社はニニギノ命を祭る。野間岳のある野間半島はニニギノ命の上陸地点ともいわれ、野間岳の南山腹にある宮ノ山遺跡は古来より神聖な場所とされ、ニニギノ命の宮居跡ともも伝えられている。野間半島はまた、近くに長屋山などがあり、ニニギノ命とコノハナサクヤヒメが出会った笠沙の御前の有力比定地である。
東霧島神社―都萬神社(E1.461km、1.98度)の東北45度線
東霧島神社―男狭穂塚(W0.228km、0.32度)の東北45度線
東霧島神社―野間岳(W0.404km、0.24度)の東北30度線
東霧島神社と都萬神社のニニギ・コノハナサクヤ線と重なるようにもう一つの方位線が考えられる。梅原猛の『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』によれば、男狭穂塚のある西都原古墳群は西都原台地の上に広がっているが、不思議なことに古墳があるのは台地の周縁部ばかりで、例外的に台地の真中に造られているのが「鬼の窟」といわれている古墳であるという。また、西都原の地名は「斎殿原(さいとのはる)」からきており、祭祀を行う神殿のある原の意味である、という日高正晴氏の説が紹介されているが、そうすると例外的に台地の真中に造られた鬼の窟のある場所が神殿のあった場所の可能性もあるわけである。そしてそのことが、鬼の窟が高千穂の峯と東北30度線を作っていることとも無関係ではないということではないだろうか。高千穂の峯・皇子原神社・鬼の窟が方位線上に並んでいるわけである。
鬼の窟―皇子原神社(W0.089km、1.1度)―高千穂の峯(E0.049km、0.06度)の東北30度線
斎殿原は天の児屋を祀る斎殿(つきとの)神社からきた地名であるという説もある。これは調殿(つきとの)にある調殿神社のことであろう。しかしそうすると、 調殿神社と斎殿原の間に都萬神社があることになるが、調殿神社より都萬神社の方が古代より有力であったと思われるから、都萬神社を通り越して斎殿神社の名前をつけるということがあるだろうか。もともと調殿神社は斎殿原の場所にあったのが、現在地に移ったということなのであろうか。
鬼の窟はその名のとおり、近くの石貫神社とともに鬼伝説と結びついている。石貫神社は大山祇を祭るが、この辺りに住む鬼がオオヤマツミに娘を嫁にくれとしきりに望むので、断りきれずに、一夜で岩の御殿を作ったら娘をやると言ったところ、鬼は一夜で御殿を建ててしまった。困ったオオヤマツミは、鬼がうたた寝をしている間に天井石を引き抜いて遠くへ放り投げると、鬼に向ってこの宮は石が一つ欠けているので娘をやれないと断ってしまう。それで、鬼はオオヤマツミを恨み、いろいろな祟りをなしたという。鬼の建てた石御殿が鬼の窟で、恨みを持って死んだ鬼を祀った塚であるといい、オオヤマツミに投げ捨てられた石が落ちたところに建てられたのが、1キロほど離れた所にある石貫神社で、今もその石は参道の入口にある。
男狭穂塚・女狭穂塚が造られたのが五世紀前半に比定されているのに対し、鬼の窟が造られたのはかなり後の七世紀の飛鳥時代だという。鬼の窟は背の高い土塁で囲まれており、古墳の周囲に堤を設けるのは、他に同じ日向の常心塚古墳と大和の石舞台古墳ぐらいであるといわれ、梅原猛氏はこの古墳が例外的に周囲に堤をもつのも、祟りをなす霊の封じこめという意味があるのではないかという。鬼の窟は石舞台と同じく巨石で造られた横穴式石室であり、石はもともと霊を閉じ込める呪力を持つという。鬼の窟の場所にはもともと神殿というより磐座の様なものがあったのかもしれない。
東霧島神社と鬼の窟・石貫神社も東北45度線をつくる。そして、東霧島神社も鬼と石に結びつく神社である。その石段は鬼が一日で築いたといい、石段の下にある鳥居には鬼が住むという。また、割裂石(わりさきいわ)といわれる石があり、この石が災いを引き起こしたので、霧島の神が十握剣でこれを三つに割ったという。このように鬼と石と結びつく東霧島神社と鬼の窟・石貫神社の方位線は天孫族あるいは弥生系の人達が渡来する以前の古い聖地を結ぶ方位線である可能が強いし、そうするとこの方位線上にある都農神社が土着の神に代わって大貴己を祀ることにしたときも、有名な神ならイザナギやニニギといった天孫族系の神でもよかったし、その方が日向という土地からいえば普通であると思えるのであるから、何か深い理由なり思いがあったということではないだろうか。
東霧島神社―鬼の窟(E0.38km、0.52度)―石貫神社(E0.25km、0.34度)―都農神社(0.102km、0.09度)の東北45度線
西都原古墳群や都万神社が高千穂峯と皇子原神社を結ぶ方位線の延長上にあるということは、ニニギノミコト自身が高千穂峯から笠沙の御前へ方位線にそって進んだということになる。もちろんこれは都万神社周辺が笠沙の御前であったらということになるが、その他にも、加世田市裳敷野の笠沙宮跡が高千穂峯の東北45度線上に位置している。近くに竹屋山があり、『日本書紀』の一書に、コノハナサクヤヒメが産んだ児のヘソの緒を切った竹刀を捨てた所が竹林になったので竹屋と名付けたあるが、竹屋山の頂から百メートルほど下った西の方の山を竹刀山(またはへらたけ山)といい、竹刀が出来たと伝えられる竹林があって、神代竹とよばれている。加世田市宮原の竹屋神社はもともとこの竹屋山にあったといい、竹屋山は高さ約150mほどの山で、竹屋山の北北西1kmあたりに裳敷野があるというから、150mの標高点のある山が竹屋山と考えられる。高千穂峯の東北45度線は正確にはこの竹屋山を通る。
高千穂峯―笠沙宮跡(W0.714km、0.54度)―竹屋山?(W0.13km、0.1度)
竹屋山にはホホデミノミコトの山陵があったという。また、鹿児島神宮はその東北300mの所にある石体宮から和銅元年(708)に現在地に移ったといわれるが、石体宮はホホデミノミコトの宮跡と伝えられており、霧島神宮があったという高千穂河原と東北45度線を作っている。これは、高千穂の峯の東北45度方位・方向線上にニニギ・ホホデミの宮とホホデミの山陵が並んでいると考えられ、ニニギの山陵といわれる西都原古墳群の男狭穂塚を加えれば、高千穂峯からの方位・方向線上にニニギ・ホホデミの宮と山陵が位置しているわけである。
高千穂峯―男狭穂塚(W0.599km、0.7度)の東北30度線
ウガヤフキアエズノミコトであるが、吾平町の吾平山上陵が高千穂の峯の南北線上に位置している。ウガヤフキアエズの宮であるが、神武がウガヤフキアエズの宮で生まれたとすれば、皇子原神社がウガヤフキアエズの宮跡と考えることもできる。ただ、宮ノ宇都を神武の皇居跡としたのは、『三国名勝図会』や『薩隈日地理纂考』などの本で、梅原猛氏の『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』によれば、地元ではここをウガヤフキアエズノミコトの宮跡と信じているという。残念ながら高千穂の峯からの方位線上には位置していない。皇居跡とされる皇子河原もウガヤフキアエズの宮跡だったのかもしれない。皇子原神社から西に4.2kmというと、高千穂の峯をすぎて、霧島神宮が最初にあったという背門丘のほぼ北にあたる。ただ、それが南北線とみなせるかどうかは微妙である。しかし、皇子河原と石体宮は東北45度線をつくるようである。
高千穂峯―吾平町吾平山上陵(W0.392km、0.35度)の南北線
脊門丘―皇子河原±(W0.152km、3.89度)の南北線
石体宮―皇子河原±(E0.48km、1.29度)の東北45度線
これは、ニニギに野間半島あたりに上陸して、高千穂の峯の方位線上に宮を建て、次の代のホホデミがその方位線に沿って鹿児島神宮のあたりまで進出して、石体宮の所に宮を建て、次のウガヤフキアエズが高千穂の峯の北側にまで進出して、石体宮からの方位線上に宮を建て、、さらに東西線を狭野の地にまで進出して宮ノ宇都に宮を建て、さらに神武達がその東西線を宮崎にまで進んで宮を建てたとも考えられるわけである。ちなみに、笠沙宮跡と宮崎神宮が方位線をつくっている。
笠沙宮跡―宮崎神宮(W0.661km、0.33度)の東北30度線
『古事記』では、高千穂の峯に天降ったニニギはそこで「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此処はいと吉き地」といったことになっているが、笠沙の御前に真来通りとは高千穂の峯と笠沙の御前が方位線で結ばれていることを言っているのかもしれない。「朝日の直さす国、夕日の日照る国」も東西線を意味しているから、そうすると、残る「韓国に向ひ」も方位線と関係するということになるであろう。ニニギ達は朝鮮半島から来て、朝鮮半島にいた頃に彼らにとって重要だった場所が高千穂の峯と方位線を作っているのかもしれない。平壌の正確な緯度経度がわからないので大雑把なことしかいえないが、高千穂の峯の西北60度線が平壤かその近郊を通るようである。韓国とは韓国岳のことであるという説もある。方線的には、この方がありそうである。高千穂の峯と韓国岳が西北45度線をつくっている。
高千穂の峯―韓国岳三角点(W0.044km、0.34度)の西北45度線
明治7年明治天皇の裁下という形で、日向三代の山陵はニニギの可愛山上陵が川内市の新田神社、ホホデミの高屋山上陵が姶良郡溝辺町、ウガヤフキアエズの吾平山上陵が吾平町に定められた。安本氏によれば、山陵伝承地は各地にあるが、有力な候補地がたくさんあるわけでなく、これが三ヶ所が根拠も豊富であり、最も有力であるという。その他の有力地としては、ニニギ陵として東臼杵郡の可愛の岳、ホホデミ陵として内之浦町の国見山、ウガヤフキアエズ陵として鵜戸神宮裏山のは速日峰があげられている。このうち、まず明治天皇により山陵とされた三ヶ所が方位線で結ばれている。
新田神社可愛山上陵―溝辺町高屋山上陵(S0.278km、0.42度)の東西線
新田神社可愛山上陵―吾平町吾平山上陵(W0.616km、0.44度)の西北45度線
この方位線網は他の有力地にも延ばすことができ、何れも溝辺町の高屋山上陵につながる。
溝辺町高屋山上陵―国見山(W1.845km、1.7度)の西北60度方位・方向線
溝辺町高屋山上陵―可愛岳(W1.241km、0.57度)の東北45度線
ところで、可愛岳は野間岳とも東北45度線を作る。これは、野間岳・高屋山上陵・可愛岳が方位線上に並んでいるとみなせるのではないだろうか。
可愛岳―野間岳(E1.378km、0.41度)の東北45度線
野間岳―溝辺町高屋山上陵(E2.619km、2.27度)の東北45度方向線
野間岳にはホホデミの山陵があるという。国見山山頂もホホデミの山陵伝承がある。すなわち、野間岳―溝辺町高屋山上陵―国見山というホホデミ山陵伝承地を結ぶ方位線網が浮かびあがってくるわけである。このホホデミ山陵方位線網は、同じくホホデミ山陵伝承地である、宮崎市村角町橘尊の高屋神社、西都市都於郡の都於郡城跡にまで広がっている。
国見山―高屋神社(W0.352km、0.25度)の東北60度線
高屋神社―都於郡城跡(W0.026km、0.11度)の西北60度線
高屋神社はホホデミの山陵伝承の他に、景行天皇の高屋行宮跡ともいわれている。都於郡城跡の近くにも高屋神社があり、道を隔てた黒貫寺にも景行天皇高屋行宮址がある。また、内之浦町の高屋神社はもともと国見山山頂にあったといい、現在地の東南二十間ばかりのところにある天子山といわれるところは、景行天皇の御所であるという。地元の伝承では、もともとこの地はクマソタケルの居城があったところで、景行天皇がクマソ征伐した際、国見山の高屋陵を遥拝するために創建したともいわれている。ホホデミ山陵伝承方位線網の東側部分に景行天皇伝承が重なっているわけである。
この方位線網とニニギの関係も無視できない。宮崎市木花の熊野の郷にある木花山は、ニニギの行宮があった所といわれる。その南の久牟鉢山にはホホデミの山陵、その東1kmのところにあるという霊山にはニニギの山陵があるといわれる。木花山は、東に海を望み、左には平田が広がり、右には加江田川が流れる眺望絶景の場所であるという。地図で木花山を探しても見つからなかったが、木花駅の西側の丘陵のことであるなら、新田神社と溝辺町の高屋山上陵の東西線上に位置することになる。丘陵の南山麓には木花神社がある。またホホデミの宮殿があったという青島も近い。木花神社からみると、青島神社や久牟鉢山も方位線上にあるようである。
木花神社±―新田神社(s0.031km、0.02度)の東西線
木花神社±―青島神社(W0.179km、2.4度)の西北30度方位方向線
木花神社±―久鉢山(-0.133km、2.03度)の東北60度方位方向線
鳥越憲三郎氏の『古代朝鮮と倭族』によれば、朝鮮半島に栄えたそれぞれの国において、始祖にまつわる卵生神話が伝えられており、民族的にも文化的にもその流れを汲んだ日本にあっても、同じ卵生神話が伝承されていてよいはずであるが、記紀ともに創生神話は中国思想によって粉飾され、そのために卵生神話は跡形もなく抹殺されているという。もちろん、朝鮮にも『三国遺事』に壇君神話があり、それは基本的に天孫降臨神話と同じである。壇君神話では、帝釈天ともされる桓雄の庶子に桓雄があり、地上の統治に興味をもっていることを知った父の桓因から、天符印三箇と三千の軍勢を与えられて、太白山(今の妙香山)山頂のの神壇樹の下に天降る。桓雄と熊から変身した女との間に生まれたのが壇君王倹で、平壤京から白岳山の阿斯達に移って都を立て、国号を朝鮮とし、さらに蔵唐京に移るが、国を治めること1500年、寿命1908歳にして阿斯達にもどって身を隠し、山神になったという。桓因が天照で桓雄がニニギ、熊から変身した女が、ワニから変身したトヨタマヒメとその妹のタマヨリヒメ、壇君王倹が神武ということになる。ただ、壇君神話は後代の『三国遺事』に載っている話で、新羅の朴昔金各氏や百済・高句麗の始祖神話は卵生神話であり、壇君神話の影響は感じられない。『三国遺事』の「駕洛国記」にある金官加羅の首露王神話では、天より垂れて地に着いている紫の縄の下に卵を発見することになっており、天降り的要素も感じられるが、鳥越氏によれば、これは新羅の金氏の小枝に卵の小箱が掛っていたというのと大差なく、大王を権威付けるための後世の粉飾にしかすぎないといい、また朝鮮の始祖神話の中では文献的に最も新しく、そのため文飾や修辞などに中国の文化的影響を強くうけるとともに仏教的潤色も濃厚であるという。「駕洛国記」では、新羅の昔氏の脱解王は卵から生まれた脱解が天に命じられて海から王位を奪いに来たことになっており、朝鮮半島でも後世になると天命といったものが強調されるようになっている。
卵生神話は中国でも東夷といわれる殷や徐にもあり、朝鮮半島の卵生神話はその影響下で作られたといわれるが、日本列島の倭人が朝鮮半島から来たにしろ、中国から直接来たにしろ、もし始祖神話というものを作り出していたとしたら、それは卵生神話型のものだったといえる。問題は、卵生神話から降臨神話にいつごろ変わったかということであるが、少なくともそれは神武の時代より後のことと考えるべきであろう。すなわち、もともと九州には降臨神話と結びついた場所などなかったということになる。降臨神話が作られる過程でも、高千穂峰は象徴的な山で、具体的な場所が想定されていたとはかぎらないわけである。現在天孫降臨や日向三代と結び付けられている場所も、もともとはその場所独自の祭祀や伝承のある場所だったと考えられるわけである。その中には、九州時代の神武達あるいは別の国の卵生神話と結び付けらていた場所もあるかもしれない。例えば、卵生神話の中には漂着型のものもあり、九州でも漂着型の卵生神話があって、その卵の漂着した場所が笠沙の崎とされていたのかもしれない。ニニギが真床追衾に包まれて降臨するということなどに、卵生神話では卵が箱や布に包まれていることから、卵生神話の名残なのかもしれない。
高千穂の峯の方位線を記紀神話から離れてみて見ると、その東北45度線上に国分市重久のと止上(とがみ)神社がある。梅原氏によれば、隼人が大和朝廷に支配される以前から、隼人の崇拝した神社に違いないという。止上神社は社殿背後東側の尾群山を神体山とし、以前は山頂に神社があったといわれる。慶長の中ごろまで、毎年正月七日神輿を守り下る「王の御幸」という祭式があり、往古隼人の霊魂祟りをなし、人民に害をなせし故に御幸の式が設けられたという。摂社の大隈神社には隼人の祖とされるホデリノミコトすなわち海幸彦が祭られており、付近の真板水田(まないただ)といわれる水田の中に、隼人の首塚といわれる隼人塚がある。
高千穂の峯の東北45度線にはもう一つ隼人と結びつく姫城がある。日向から大隈が分けられてから7年後の養老4年(720)、隼人は大規模な反乱を起こした。大和朝廷は大伴旅人を「征隼人持節大将軍」として一万の軍勢を派遣し、戦いは1年5ヵ月にわたったという。『八幡宇佐宮御託宣集』によれば、隼人は五つの城を陥され、最後は曾於の石城と比売の城の二つの城に立てこもったという。隼人にとって、それら二城は最後の拠り所となる、重要な場所だったと考えられる。谷川健一編『日本の神々―九州』において中村明蔵氏は、曾於の石城は城山公園のある国分市城山、比売の城は姫城にほぼ間違いないであろうとする。高千穂の峯の東北45度線が姫城の南の峯近くを通る。止上神社・尾群山と姫城の南の峯は方位線を作るとはいえないが、姫城南の峯と城山とは西北45度線を作る。隼人にとって戦いとは単なる物理的なものではなく、神の加護のもとに行うものであり、彼らの最後の抵抗はその神の御加護が最も得られる所で行われたと考えるなら、姫城が高千穂の峯と方位線を作り、城山が姫城と方位線を作ることは、高千穂の神の加護がこれら方位線を通じて与えられたということではないだろうか。
高千穂峯―群尾山(E0.446km、1.54度)―止上神社(E0.018km、0.06度)の東北45度線
高千穂峯―姫城南の峯(W0.164km、0.47度)の東北45度線
姫城南の峯―城山(E0.036km、0.88度)の西北45度線
石体宮は石を御神体とするが、中村明蔵氏は鹿児島神宮にはもともと神名は明確ではないが、在地の神として信仰されてきた祭神があったはずであり、それは自然神であって、隼人の守護神とされていたにちがいないという。石体宮も姫城南の峰と方位線で結ばれる。
石体宮―姫城南の峰(W0.013km、0.58度)の西北30度線
また、韓国岳と高千穂峰は西北45度線を作っていたが、鹿児島神宮・石体宮は韓国岳と東北60度線を作るから、隼人は高千穂の峯・韓国岳を中心に、方位線で結ばれた聖なる空間を作りあげていたと考えることができる。隼人にとって韓国岳が重要な山だったことは、熊襲の穴と韓国岳の方位線からもいえるかもしれない。熊襲の穴は妙見温泉にあるのは戦後観光用に作られたもので、古来から伝承されてきた熊襲が立てこもったという熊襲の穴は、牧園町塩浸温泉の下流100メートルほどのところにあるという。この熊襲の穴が韓国岳の東北45度線上にあり、これは同じように高千穂の峯の南北線上にあり、やはり洞窟である吾平町の吾平山上陵も、元々は熊襲と関係する場所だったと思われる。
韓国岳1700m三角点―石体宮(E0.540km、1.48度)―鹿児島神宮(E0.483km、1.31度)の東北60度線
韓国岳1700m三角点―塩浸温泉熊襲の穴±(W0.025km、0.09度)の東北45度線
隼人の高千穂峯―尾群山―姫城という方位線に高千穂峯―笠沙宮跡―竹屋山という日向三代の方位線が重なるわけであるが、笠沙宮跡や竹屋山の近辺では陰陽石が多いといい、どこか縄文的な色の濃い地域である。笠沙宮跡あるいは竹屋山も隼人あるいは縄文の聖地だった可能性がある。また、溝辺町の高屋山上陵も元々は隼人の聖地で、隼人の高千穂方位線網の一部をなしていたのかもしれない。高屋山上陵のある場所は神割岡(亀割岡、神在岡)と土地では言われ、昔から田を開いたり牛馬をつなぐことは堅く禁じられていたというが、高屋山上陵と尾群山が西北30度線を作る。また、姫城南の峰ではないが、その北の三角点と西北45度線を作る。
高屋山上陵―尾群山?(W0.113km、0.6度)の西北30度線
高屋山上陵―姫城三角点(W0.105km、0.64度)の西北45度線
中村明蔵氏は、韓国宇豆峯神社と香春神社の前身が辛国息長大姫大目命神社で同じカラクニがつくことから、その関係性に注目して、豊前国からの移住者が朝鮮半島の神を持ち込み、そのとき八幡神も移されたのではないかという。香春神社と宇佐神宮が神事として結びつく放生会は、隼人の乱とも関係している。さらに、国分平野の西辺と東辺に八幡神と韓神が配置することによって、彼らの生活の安寧が図られたのではないかという。豊前からの移住については、『続日本紀』に和銅7年(714)に豊前の国の民二百戸を移すという記事があり、大規模な移住があったことが窺われる。現在の韓国宇豆峯神社は鹿児島神宮と西北45度線を作る。また、韓国宇豆峯神社と鹿児島神宮が方位線的に共通する場所として霧島神宮旧鎮座地の高千穂河原がある。
韓国宇豆峯神社―鹿児島神宮(E0.016km、0.18度)の西北45度線
高千穂河原±―韓国宇豆峯神社(W0.009km、0.03度)の東北60度線
高千穂河原±―鹿児島神宮(W0.062km、0.19度)の東北45度線
姫城三角点とも西北60度線を作るが、ただ韓国宇豆峯神社は現在地から南西五町ばかり離れた野岡に宇豆峯といわれる所があり、そこから永正元年(1504)以前に現在地に移ったのだという。旧鎮座地からの方位線をみると、旧鎮座地を現在地の南西500mのところと想定して、高千穂河原との方位線は変わらないが、西北60度線は姫城南の峯を通り、鹿児島神宮との方位線は成り立たないようである。ただ鹿児島神宮の伝承に、神社の南の鹿児山に八幡神が最初に出現したというのがあり、その位置によっては鹿児山と韓国宇豆峯神社が方位線を作る可能性もあるが、現在鹿児島神宮の南にそれらしい山はみえない。
高千穂河原±―韓国宇豆峯神社旧鎮座地±(W0.131km、0.38度)の東北60度線
姫城南の峯―韓国宇豆峯神社旧鎮座地±(W0.028km、0.41度)の西北60度線
韓国宇豆峯神社と姫城の方位線であるが、姫城が高千穂の峯との方位線を通じて高千穂の神に護られていたとすれば、大和朝廷は韓国宇豆峯神社を使って姫城に立てこもった隼人側に、彼らの神による霊的攻撃を加えたということなのではないだろうか。国分市下井の剣神社は韓国宇豆峯神社と祭神が同じで、韓国宇豆峯神社から勧請されたといわれるが、もともとは現在地の北方の剣岩に石祀があり、その麓に拝殿があったという。さらに、古文書の中には韓国宇豆峯神社はもともと剣岩に鎮座していたというものもあるという。写真を見ると剣岩はかなり高いところにある岩の崖であり、地図でさがすと、剣神社の北方でそれらしい場所として、上野原台地の少し張出した所がある。そこに剣岩を想定すると、真北に止上神社が来る。止上神社のある重久には隼人塚伝承地があった。隼人塚伝承地は止上神社の南500mの所であるいう。真南ではないにしても、剣岩想定地の南北線上に隼人塚伝承地があるといってよいであろう。一方、隼人塚としては隼人町の隼人駅近くにある方が有名であるが、こちらの隼人塚は剣岩想定地の西北30度線上に位置している。
重久の隼人塚伝承地は古くからのものとみなされているようである。そのことは、塩浸温泉の熊襲の穴と重久の隼人塚伝承地が方位線を作っていることからもいえるであろう。それに対して、隼人町の隼人塚の起源には、三つの説があるという。一つは、隼人と結びつくもので、和銅元年(708)に大和朝廷の軍によって殺された隼人の霊を鎮めるために造られたものであるというものである。他の二つは隼人と直接結びつくものではなく、一つは平安末期にあった寺院の一部ではないかというもので、最近の調査では平安時代後期に作られたものであるということが分かったという。第三の説は、時代的にはきわめて新しいもので、近辺にあった石塔や石造を明治時代に寄せ集めたものであるというものである。
剣岩の場所がもう一つ曖昧であるが、韓国宇豆峯神社と密接な関係を持つ剣岩と隼人塚との位置関係かが、実際に剣岩が想定した場所であるとすれば、二つの隼人塚がその方位線上にあるということは、二つの隼人塚は密接不可分なものと考えられ、隼人町の隼人塚も大和朝廷に殺された隼人と関係しているといえるのではないだろうか。
そのことは、隼人町の隼人塚が隼人が立てこもった姫城南の峯と、隼人の祟りと関係した尾群山と一直線上にあることからもいえるであろう。これは、二つの隼人塚と姫城南の峯が一直線上に並んでいるとみなすべきなのかもしれない。どちらにしても、隼人町の隼人塚は隼人と深く結びついているといえるのではないだろうか。このことは、隼人町の隼人塚と城山が東西線を作っていることからも無視できないと思う。これは、もしかしたら二つの隼人塚と方位線を作る、剣岩想定地のある上野原台地も隼人の砦が在ったということを逆に意味しているのかもしれない。曾於の石城を上野原台地に当てる人もいる。和銅元年という年については、この年に鹿児島神宮が石体宮から現在地に移ったということであるから、その年に大きな動きがあったのかもしれない。
剣岩想定地―止上神社(W0.101km、0.89度)の南北線
剣岩想定地―隼人町隼人塚(W0.007km、0.08度)の西北30度線
熊襲の穴±―隼人塚伝承地±(E0.108km、0.77度)の西北60度線
尾群山?(0.13度)―姫城南の峰―隼人町隼人塚(0.14度)の直線
城山―隼人町隼人塚(S0.031km、0.41度)の東西線
鹿児島神宮、韓国宇豆峯神社の方位線に共通する高千穂河原であるが、性空上人が背門丘にあった霧島神社を噴火で焼失したために高千穂河原に遷座したことになっている。しかし、隼人の聖なる空間が高千穂の峯や韓国岳を中心とした方位線網によって作られているとすると、高千穂河原は隼人にとってすでに聖地の一つであった可能性も否定できない。高千穂河原は韓国岳と背門丘の方位線上に位置しているのである。
高千穂河原―韓国岳1700m三角点(W0.166km、1.54度)の西北60度線
高千穂河原―背門丘±(N0.015km、0.52度)の東西線
姫城南の峯には天狗岩というのがあるらしい。姫城南の峯を天狗岩というのかもしれないが、どちらにしても姫城自体が凝灰岩で出来ているし、南の峰も岩で出来ているから、姫城と高千穂の峯の方位線は巨石信仰と関係するかもしれない。巨石信仰と高千穂の峯との関係は母智丘(もちお)神社にみられる。母智丘神社の背後には巨大な磐座群があるという。その母智丘神社と高千穂の峯が西北60度線を作っている。西都原古墳群の鬼の窟も、高千穂の峯と巨石信仰という観点から捉えるべきなのかもしれない。そして、姫城と母智丘神社が東西線を作っている。高千穂の峯を中心に、縄文時代に巨石方位線ネットワークが作られていたのではないだろうか。
高千穂峯―母智丘神社246m標高点(W0.170km、0.58度)の西北60度線
姫城南の峯―母智丘神社246m標高点(S0.803km、1.98度)の東西方位方向線
ヒコホホデミ陵伝承地を結んだ国見山、宮崎市橘尊の高屋神社、都於郡城跡の方位線網の意味を考えるとき、それら三ヵ所が母智丘神社の方位・方向線上にあることも無視できないかもしれない。都城市の城山とも方位線を作るから、母智丘神社は日向神話伝承地と関係深いといえる。
母智丘神社246m標高点―国見山(E0.633km、0.77度)の南北線
母智丘神社246m標高点―橘尊の高屋神社(E0.926km、1.16度)の東北30度線
母智丘神社246m標高点―都於郡城跡(W0.041km、0.05度)の東北45度線
母智丘神社246m標高点―城山(E0.028km、0.31度)の西北45度線
これらもまた、巨石信仰と関係ある場所なのであろうか。国見山については、山頂のヒコホホデミ陵の上には周りが八尺ばかりの自然の円い御影石が一つ置かれており、土に埋まっていて土から出ている石の高さは一尺ほどであるという。これがホホデミ陵ではないとすると、巨石信仰の名残なのではないだろうか。宮崎市橘尊の高屋神社については、巨石信仰と結びつくような岩があるのかどうか分からない。ただ、隣の大島町と結びつく気になる伝承がある。東霧島神社の割裂石は霧島神が剣で三つに割ったうちの一つが雷になって飛び去ったというのであるが、それにはイザナギノミコトがカグツチを切った話と結びついた伝承もあるらしく、それによれば、割られた石の一片が宮崎の大島平原村に飛び去ったという。これには、東諸県郡高岡町去川は飛び去った神石の一片のことを示したものという伝承もあるらしい。これは、大島町にも高屋神社のすぐ近くにも霧島神社があることから生じた伝承かも知れないが、もしかしたら大島町周辺が石と結びつく場所だったせいかもしれない。都於郡城跡も巨石信仰と結びつく場所であったのかどうか分からないが、方位線的にいえば、姫城と東北30度線をつくる。
都於郡城跡―姫城南の峰(東0.392km、0.35度)の東北30度線
高千穂の峰の東北30度線上にある皇子原神社の社殿背後にも、神武が生まれた場所を示す「産場石(うべし)」と呼ばれる石があるという。皇子原神社については、太陽信仰との関係を考えるべきかもしれない。日本列島では30度線はほぼ冬至・夏至の日の出・日の入りの方向に一致する。地形ソフトのカシミール3Dでシュミレートしてみると、冬至の太陽は、高千穂の峰ではないが二子石のある峰ね山頂に沈む。これには二通りの解釈が出来るであろう。一つは、探そうと思えば、皇子原神社のすぐ近くに高千穂の峯に冬至の太陽が沈む場所をいくらでも見つけることが出来るのであるから、太陽信仰が関係するならそういう場所を選ぶはずで、そうでないのは皇子原神社が太陽信仰となんら関係ないということであるというものである。しかし、皇子原神社にとってより重要なことは高千穂の峯の方位線上にあることであるが、太陽信仰とも結びつくことから、高度さを考えると30度線上で高千穂の峯に冬至の太陽が沈む場所を見つけることは不可能なのであるから、次善の策で二子石のある峯に冬至の太陽が沈む場所が選ばれたとも考えられわけである。この場合、方位線である30度線や東西線と太陽信仰と結びつく二至・二分線と別のものということになる。
山陵有力候補が作る方位線にたいし、鵜戸神宮のみが外れている。それにかわって鵜戸神宮には海の方位線とでもいえそうなものが考えられるようである。鵜戸神宮は海に面した洞窟内にあり、海との結びつきを強く感じさせる場所であるが、同じく航海の目印であり、航海安全の神として漁師たちから厚い信仰を集める開聞岳と方位線を作る。
開聞岳―鵜戸神宮(W0.638km、0.68度)の東北30度線
近くには開聞岳を身体山として開聞の神を祀り、やはり航海安全・漁業守護の神として信仰される牧聞神社がある。牧聞神社はかっては和多都美神社ともいわれ、ホホデミがトヨタマヒメと出会い、三年余りを過ごしという綿津見の神の宮跡であるといわれる。その開聞岳とトヨタマヒメがホホデミの子のウガヤフキアエズを産んだ場所とされる鵜戸神宮と方位線で結ばれているわけである。枚聞神社はやはり航海の目印とされた野間岳と方位線を作る。開聞岳と枚聞神社を一体のものとみなせば、海の方位線網が出来上がるわけである。霊的にみて神社とその神体山、あるいは山頂の奥社と麓の本社の間には何があるのであろうか。しばしば山頂の奥社と本社を一体とみなすと、興味深い方位線網が出来上がることがあるが、もしかしたら奥社と本社の間に流れているものと同じものが、方位線上を流れているのかもしれない。霊的なものが物質的な形として現れるとき、その形態の一つが方位線であるとすると、このようなこともありえないわけではない。
野間岳にはホホデミの山陵があったという。綿津見の神の宮とトヨタマヒメがホホデミの子を産んだ場所が方位線的に結びつくなら、同じ方位線上にホホデミの山陵があっても不思議ではないが、野間半島は笠沙の御崎ともいわれ、本来ニニギと関係の深い場所であり、ニニギの宮跡といわれる場所もあり、ニニギの山陵なら分かるが、野間岳にホホデミの山陵があることそのことに不思議な感じがする。ニニギの宮とホホデミの山陵の組み合わせは、加世田市の笠沙宮跡と竹屋山の組合せにもみられる。そして同じようにホホデミ陵のある竹屋山と枚聞神社が方位線を作る。しかし、竹屋山については、コノハナサクヤヒメが「無戸室(うつむろ)」を作ってホホデミらを産んだ場所でもあり、山の頂に「無戸室」跡があるというほうが重要かもしれない。すなわち、開聞岳=枚聞神社の方位線上でホホデミもウガヤフキアエズも生まれたわけである。そうすると野間岳もホホデミ陵と関係する野間岳ではなく海と関係する野間岳が重要だったということになる。開聞岳の方位線には海と誕生という二つの物語があることになるわけである。開聞岳の東北45度線上に宮崎神宮ないし皇宮神社がある。どちらにしても、神武天皇の高千穂の宮跡ということになるが、此処は神武が生まれた場所ではない。枚聞神社と宮ノ宇都も東北60度線をつくるかもしれない。そうすると、第三の物語として神武が浮かび上がるが、神武東征前の宮跡といわれる鹿児島県福山町の宮浦神社と宮ノ宇都もまた東北60度線を作るかもしれない。それに対して、枚聞神社と宮浦神社に方位線を考えることは難しそうである。これは、神武の物語は開聞岳に結びつくというよりも、宮ノ宇都と結びつくと考えるべきであろう。宮ノ宇都はウガヤフキアエズの宮跡と地元では考えられているのであるから、開聞岳を中心にみるなら、ウガヤフキアエズと関係する何らかの物語があるということになるのかもしれない。鵜戸神宮と宮ノ宇都は方位線を作らないが、鵜戸神宮と方位線を作っていた東霧島神社と宮ノ宇都は方位線を作る可能性がある。もしそうなら東霧島神社は野間岳とも方位線を作っていたから、これは海の物語とも絡んでいるのであろう。
宮崎神宮・皇宮神社であるが、宮崎神宮と住吉神社が東北45度線を作るから、これは開聞岳と住吉神社の方位線の方が重要なのかもしれない。「和名抄」に宮崎村塩路に阿波岐原なる地名あり、とあるという。住吉神社の所在地が塩路であり、古事記に「竺筑の日向の橘の小門の阿波岐原」、日本書紀一書に「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」でイザナギは天照ら三貴子や住吉三神を生むが、その場所には諸説あるが、日本書紀の神功皇后のところで、住吉三神は日向国の橘の小門で生まれたとなっており、そうすると考えられるのは住吉神社付近ということになり、同時にそこで天照たちも生まれたことになる。神武ではないが、これも誕生の物語の一つに加えることが出来るであろう。もっとも阿波岐原は住吉神社周辺という狭い場所に限定されるものではないよである。梅原猛氏が『日向の伝説と史蹟』という本から引用している寛延年中に僧雲蝶によって書かれたものによれば、日向小戸橘檍原の地形は扇の如くで三方三里とされているという。宮崎の場合その中のある場所が重要というより、宮崎という場所そのものが意味を持っているのかもしれない。
橘の小戸にはもう一つの話が結びついている。日本書紀の一書によれば、塩土老翁は山幸彦を橘の小戸にいる八尋鰐の所に連れて行き、八尋鰐は自分より速い一尋鰐を連れてきて、山幸彦は橘の小戸から一尋鰐に乗って綿津見の神の宮に向う。物理的には大隈半島を回ってということになるかもしれないが、方位線的には一直線にホホデミは綿津見の神の宮に向うわけである。住吉神社は青島と南北線を作る。地元の伝承では青島にはホホデミの宮があったが、ある日突然いなくなってしまったという。また旧暦の十二月十七日には裸まいりという行事が行われるが、それはいなくなったホホデミが帰ってきたので、服を着るまもなく、皆が裸で迎えにい出た故事によるという。塩土老翁に連れられてホホデミは南北線を北に住吉神社のある橘の小戸に向かい、そこから東北45度線を枚聞神社の綿津見の神の宮へ向ったということになる。
枚聞神社―野間岳(E0.774km、1.09度)の西北30度線
枚聞神社―竹屋山?(W0.122km、0.26度)の西北45度線
開聞岳―宮崎神宮(E0.408km、0.20度)―皇宮神社(W0.414km、0.21度)の東北45度線
宮崎神宮―住吉神社(E0.039km、0.34度)の東北45度線
住吉神社―青島神社(W0.177km、0.53度)の南北線
安本美典氏は「天孫降臨後の三代の、陵墓地、活躍の地、定説的な比定地をみると、南九州の西から東へと、しだいに移動している傾向がみとめられる」という。日向三代を直系的な繋がりでみればそういう直線的な配置にもみれるが、日南地方を中心にした同心円的な配置としても考えることが出来る。伝承地はいくつかの地域に分けることが出来る。ニニギ・ホホデミの宮跡と山陵、それにウガヤフキアエズの山陵でみると、野間半島付近はニニギの宮とホホデミの山陵、川内市はニニギの宮と山陵で、野間半島が笠沙の御崎とも考えられることなどからニニギ伝承が強い場所ということができる。大隈になると、国分市周辺にはホホデミの宮と山陵伝承のみがあり、大隈半島南部の内之浦町周辺にはホホデミとウガヤフキアエズの山陵伝承地がある。内之浦町あたりにホホデミの都があったという説を幕末の国学者が唱えているようであるが、これは無視してもいいであろう。大隈はホホデミ伝承が有力な場所といえる。日向は都城付近を除くと、南北軸に沿って三つの地区が考えられる。西都市周辺には三代の山陵伝承地があり、ニニギ
の宮跡とされる場所はないようであるが、都万神社周辺には笠沙の御崎をはじめニニギと関係の深い伝承地があるから、このあたりはニニギが有力となる。宮崎市はニニギの宮と山陵それにホホデミの山陵伝承地があるが、感じからいえば、ニニギとホホデミどちらが有力とはいえない。最後は鵜戸神宮を含めた久牟鉢山周辺であり、ここのみが唯一五つの伝承か揃っている。しかし、この日久牟鉢周辺も南北にさらに三つに細分化できる。真中は久牟鉢山から青島にかけてであり、ニニギの山陵とホホデミの宮と山陵伝承地があり、ホホデミが有力な場所ということが出来る。北は木花地区でニニギの宮伝承があり、ニニギが有力といえないことはない。ただ、それはニニギの行宮ともされおり、ニニギの宮は別にあったとも考えられる。南は鵜戸神宮でウガヤフキアエズの山陵伝承があり、またその南の油津神社にもウガヤフキアエズの山陵伝承があることから、日南地方はウガヤフキアエズ伝承が有力な地域ということができる。日南地方を中心に考えるなら、まずウガヤフキアエズ伝承の有力な地域があり、その外側にホホデミ伝承の有力な地域、さらにその外側にニニギ伝承の有力地域が分布するという同心円的構造が考えられるわけである。都城周辺であるが、都城は日向三代の都のあったところであるという江戸時代の国学者の見解もあるが、地元の伝承からいえば、神武とウガヤフキアエズと結びつく場所である。東西軸と南北軸を組み合わせると、東南から西北に向う軸が出来上がるが、この東南から西北に向う軸はウガヤフキアエズと結びつく軸であり、同心円的に分布するホホデミとニニギ伝承地に割って入っているというようにも捉えることが出来る。
日向三代の伝承地が直線上に移動しているならともかく、日南を中心に同心円状に分布していることは、ある種矛盾を含んでいるともいえる。一般に領土拡大というものを考えたら、まず始祖が国を作り、次の代がその周辺部を手にいれ、さらに次の代がそのさらに外側に領土を拡大するということになるのではないだろうか。その場合、中心に始祖の伝承があり、中間に次の代の伝承があり、一番外側に三代目の伝承があるということは考えられても、始祖は一番外側の地とは何の関係もないのであるから、その逆はほとんど考えられないのではないだろうか。中心に三代目のウガヤフキアエズの伝承があり、一番外側に始祖ニニギの伝承があるというのは、それからいえば矛盾している。
さらに、弥生遺跡の分布と重ね合わせると、その矛盾はさらに広がる。国立民族博物館の小山修三氏の手になる弥生時代の遺跡分布図を見ると、九州では筑後から肥後北部にかけてと日南地方から都城にかけての二箇所の密度が高く、逆に低いのは大隈国と延岡から佐伯市にかけての地域、それに別府湾から国東半島にかけての地域である。このうち日南から都城にかけての分布密度の濃い場所がウガヤフキアエズ伝承の地と一致するわけである。この遺跡分布図からいえば、日南・都城市にいた勢力がその周辺に勢力を拡げていったと考えることが合理的であり、ニニギ―ヒコホホデミ―ウガヤフキアエズという記紀神話の親子関係とその伝承分布の矛盾はさらに大きくなる。
宮崎市の江田神社近くの檍遺跡は宮崎県で最も古い弥生時代前期半ばの遺跡で、他の県内の弥生遺跡が中期に始まり、後期に多いことを考えるなら、宮崎県の弥生遺跡としては突出して古い遺跡であるという。弥生文化は宮崎あたりから日南や都城に広がっていったことが考えられる。日南と都城は千メートルほどの鰐塚山地によって隔てられている。これは、都城と日南にそれぞれ有力な勢力があった可能性を示している。これは、記紀神話の海幸彦・山幸彦の物語にとって都合がいいかもしれない。日南市の北の北郷町に海幸彦を祀る潮嶽神社がある。梅原氏によれば、海幸彦は山幸彦に破れ、海から追われたいわば負け犬であり、日向にはニニギ一族の神々を祀る神社はたくさんあるが、このような負け犬を主神とした神社は他にはないだろうという。日南地方は海幸彦の支配地だったのではないだろうか。それに対して、都城は内陸地方であり、山幸彦の名にふさわしい。海幸彦・山幸彦の物語は都城あたりの勢力が日南地方の勢力を破り、支配下においた出来事の反映とも考えられるわけである。ただ、そうすると余計日南や都城にヒコホホデミの伝承がなく、ウガヤフキアエズの伝承があるということが説明できなくなる。ヒコホホデミは両勢力を統一した英雄であり、ヒコホホデミの伝承こそ強く残っているべきであろう。このような疑問はあるが、方位線的には潮嶽神社はヒコホホデミ陵伝承のある久牟鉢山と東北60度線をつくり、東北45度方向にはホホデミの宮伝承のある青島がある。すくなくとも青島自体とは方向線を作っているのではないだろうか。
潮嶽神社―久牟鉢山(E0.391km、1.89度)の東北60度方位方向線
潮嶽神社―青島神社(E0.663km、2.35度)の東北45度線
海幸彦と隼人の関係でいえば、潮嶽神社と内之浦町の高屋神社の方位線も気になる。潮嶽神社と久牟鉢山の方位線を延ばすと高屋神社がある。高屋神社と隼人自身の関係はわからないが、高屋神社周辺に熊襲タケルの居城が在ったという地元の言い伝えや、高屋神社のすぐ近くに熊襲征伐にきた景行天皇の行宮跡があるなど、熊襲すなわち隼人と関係の深い場所から、高屋神社はもともと熊襲・隼人自身が祀る神社であった可能性も否定できないのではないだろうか。国見山に磐座があり、高屋神社はその国見山を祀る里宮的場所だったのではないだろうか。方位線的にみるなら、溝辺町の高屋山上陵の西北60度線は国見山より内之浦町の高屋神社と作るほうが正確である。さらに、ウガヤフキアエズとの関係も深い。吾平町の吾平山上陵と東西線を作り、東北45度方向にウガヤフキアエズ陵伝承のある吾平津神社がある。また、東霧島神社と南北線をつくるが、東霧島神社と鵜戸神宮が方位線をつくることから、ここからもウガヤフキアエズとの関係が浮かんでくる。
内之浦町高屋神社―吾平町吾平山上陵(N0.494km、1.97度)の東西方向線
内之浦町高屋神社―吾平津神社(W1.051km、1.36度)の東北45度方向線
内之浦町高屋神社―東霧島神社(W0.127km、0.12度)の南北線
潮嶽神社とウガヤフキアエズの関係は微妙である。鵜戸神宮の背後の山でウガヤフキアエズの山陵伝承のある速日峯と潮嶽神社が方向線を作っているようにもみえる。また、霧島東神社とも西北30度線をつくるが、霧島東神社は東霧島神社の奥社とも、島津忠昌によって東霧島神社が東西両社にわけられ、西が霧島神宮で東が霧島東神社であるともいわれるように、霧島東神社と東霧島神社は関係の深い神社であり、鵜戸神宮―潮嶽神社―東霧島神社―霧島東神社という一つの方向線が考えられるかもしれない。ただ、霧島東神社についての情報も錯綜していて、もともとの所在地は現在地の東南半里ほどのところの瀬戸尾であったともいわれることから、この方向線が成り立つかどうかも分からない。
潮嶽神社―速日峯(E0.523km、2.45度)の西北30度方向線
潮嶽神社―霧島東神社(E0.187km、0.27度)の西北30度線
九州の弥生遺跡で不思議なことは、日南と都城が一番密度の濃い場所であるのに、その隣の大隈が数少ない低密度地帯になっていることである。日南からも都城からも、そんなに高い山があるわけでもない。考えられことは、大隈に日南や都城の弥生人と拮抗するような力を持った縄文人あるいは熊襲の勢力があったということである。ただ、拮抗していたからといって対立的だったとは限らない。住み分けることにより共存していたのかもしれないわけである。海幸彦が日南さらには都城の支配者であったとすれば、彼が隼人の祖とされていった背景にはそのような隼人との関係があったとも考えられるのである。潮嶽神社の伝承では海幸彦は石の舟に乗ってここに着いたという。海幸彦は渡来人で弥生人だったわけである。潮嶽神社の地元では、子供が生まれて初詣りするとき、額に必ず紅で犬という字を書くという。梅原氏によれば、犬はこの地では明らかに隼人を意味するという。それは海幸彦を隼人の祖とする記紀への迎合ともいえない。海幸彦が弟に釣り針を貸したことから海幸彦の災難が始まったことから、この地方では婦女子は縫い針を決して他人に貸さない風習があり、記紀に単純に迎合していくとも考えられないからである。それは記紀への迎合ではなくて、隼人との習合であろう。もし、隼人との関係が敵対的ならそのような習合は起こらないはずである。
日南でもう一つ考古学的に重要なものとして、串間市字王の山の石棺から出土した直径33cmの玉璧がある。日本最大なばかりか、中国にもこれほどの逸品はいくらもないものだという。それは、この地の豪族が卑弥呼からもらったものだという説もあるらしいが、中国からの渡来者が持ってきたのではないかという説もある。中国でもそうはないものを、卑弥呼が簡単に下賜するかどうか疑問であり、中国からの渡来者が持ってきたというほうがありそうである。壁は殷周時代には身分の印だったというから、もしかしたら王侯クラスの人物がここに渡来してきたのかもしれない。その渡来者あるいはその一門は、出自からいって求心力として働いていった可能性もある。日南から都城を中心に小王朝ができていたのではないだろうか。その王朝を王の山王朝と一応呼ぶとするなら、その王朝の王が海幸彦だったのかもしれない。あるいは、日南から都城にその伝承を残すウガヤフキアエズがその王だったのかもしれない。古史古伝の中にウガヤ王朝を記すものがあるが、それはこの王の山王朝のことだったのかもしれない。それに対し、神武すなわち大和朝廷の出身は、この王朝の周辺部であったのかもしれない。神武達の祖先が別にその王の山王朝を倒したわけではないのだろう。神武達は大和で思わぬ成功をおさめ、故郷に錦を飾ったかどうかはわからないが、大和王朝は王の山王朝をはるかに凌ぐ力を持った存在として、日向に再進出してきた。しかし、神武達がもともと王の山王朝の傍流であり、王の山王朝の血筋が中国大陸の王侯に出ていたとすると、大和朝廷としてもその正統性を無視できなかったのではないだろうか。梅原猛氏が日高正晴氏の著書『古代日向の国』から引用するものによると、筑紫国のほうが人口も多く地理的にみても大和朝廷との関係が深いにもかかわらず、前方後円墳の分布では日向のほうが数でも規模でもはるかに勝っているのだという。日向には柄鏡式古墳が多いが、他の地域にあまり存在しないにもかかわらず、大和には茶臼山古墳とメスリ山古墳という柄鏡式とよく似た形式の巨大古墳があり、梅原氏によれば、それらの古墳は大和の磐余の地にあるが、磐余の地は神武の名がカムヤマトイワレヒコであることからもわかるように、初期の大和朝廷の根拠地であった。また、出土品も優秀なものが多く、その多くは近畿地方の出土品と類似しているという。初期大和朝廷と西都原古墳群との密接な結びつきが考えられるが、これはもともと西都市周辺が神武の出身地で、再び日向に進出してきた大和朝廷は最初の日向における根拠地を、この神武自身の出身地に置いたということではないだろうか。
大和朝廷は、王の山王朝の血統を自分達の中に取り入れる、あるいは自分達をその正統な後継者として示す必要があったのかもしれない。神武が王の山王朝の傍流なら、そのコンプレックスには根強いものがあったのかもしれない。一方、王の山王朝側に対しては自分達の優位性を誇示する必要もあった。その優位性の強調が海幸彦・山幸彦の物語だったとすれば、自分達を王の山王朝の正統な後継者とする系図操作が、ウガヤフキアエズをヒコホホデミの子、神武の父親にすることではなかったかと思われる。海幸彦とウガヤフキアエズは同一人物という可能性も否定できないわけである。この一人二役は、系図的にはウガヤフキアエズがヒコホホデミの子どもであるとともに(義)兄弟でもあるという二面性に現れている。大和朝廷が自分達の出自を単に王の山王朝に結びつけるだけならヒコホホデミとウガヤフキアエズを兄弟とするだけでよかったであろう。しかし、自分達が王の山王朝の正統な王統の継承者とするためには、神武をウガヤフキアエズの子にする必要もあったということである。
ニニギは王の山王朝の始祖だったのではないだろうか。そう考えると、都万神社周辺にその伝承地があることも説明できる。大和朝廷が自分たちを王の山王朝の正当な後継者としたとき、それを根拠付けるために自分たちの出身地周辺とニニギを結びつける伝承を作り上げていったのではないだろうか。西都市周辺が神武の出身地とすると、神武東征との関係でいえば、御元山と南北線を作るのは都万神社ということになる。
御元山―都万神社(W0.171km、0.07度)の南北線
王の山の壁は串間市から出てきたが、串間市が王の山王朝の中心だったとは限らない。ただ、大和朝廷の圧迫でその勢力範囲を日南地方に後退させていったのかもしれない。壁が石棺から出てきたということは、その埋葬者が王の山王朝がその独立性を維持できた最後の王だったのかもしれない。どちらにしても、そこには重大な出来事があり、その埋葬地も重要な意味を持っていたと考えられる。王の山の西に笠祗山というのがあるが、高千穂の峯と西北60度線を作る。高千穂の峯―母智丘神社の磐座―笠祗山が同一方位上に並ぶわけである。もしかしたら、その王朝にとって重要な山だったかもしれない。山頂に神社がある。
高千穂峯―笠祗山(W0.566km、0.69度)の西北60度線
笠祗山は鵜戸神宮と吾平町の吾平山上陵と方位線を作り、ウガヤフキアエズと方位線的に深い関係がある。また、宮浦神社とも方位線をつくるから、宮浦神社と宮ノ宇都が方位線を作る可能性を考えると、それからもウガヤフキアエズと結びつくといえる。なお、笠祗山と鵜戸神宮の方位線は鵜戸神宮と開聞岳の方位線でもあり、また鵜戸神宮と江田神社は南北線を作り、江田神社は笠祗山の東北60度方向にあるから、笠祗山と江田神社は海の方位線網の一部をなしていると考えられる。
笠祗山―吾平山上陵(W0.527km、0.92度)の東北45度線
笠祗山―鵜戸神宮(W0.351km、0.65度)の東北30度線
笠祗山―開聞岳(E0.358km、0.30度)の東北30度線
鵜戸神宮―江田神社(W0.202km、0.35度)の南北線
笠祗山―江田神社(W1.542km、1.58度)の東北60度方向線
笠祗山―宮浦神社(W0.427km、0.66度)の西北30度線