神武東征と大和

大和における出雲神族の方位線
長髄彦と草香山

宇佐・出雲からの方位線
饒速日の方位線
磐船神社と比売許曾神社
鳥見山
熊野から宇陀への方位線

 

 

大和における出雲神族の方位線

 吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、出雲神族の伝承では長髄彦はコトシロヌシノ命の子の天ノヒカタクシヒカタノ命の子孫で、神武に反撃を試みたが抗しきれず、大和をゆずって出雲にしりぞき、そこで他界したことになっているという。この時、天孫族が和平の条件に持ち出したのが、出雲神族の分散で、彼等は遠く関東から東北にまで追われ、東国に出雲系の国造や神社が多いのはこうしたことによるのであり、吉田大洋氏によれば国造は二十四人中十一名、神社は全体で約34%、特に下野国の約64%、武蔵国の約45%が群を抜いているという。大和の出雲神族の痕跡は式内社高鴨阿治須岐詫彦根社に比定されている高鴨神社、下照姫命を祭神にしている名柄神社・積羽八重事代主命・下照姫命・建御名方命を祭神とする鴨都波神社など、出雲神族の神を祭神とする葛城山・金剛山の麓に点在する諸社にみられる。これらの神社の方位線で目に付くのは、高鴨神社と大神神社の東北45度線である。

  高鴨神社―大神神社(W0.051km、0.16度)の東北45度線

 大神神社は拝殿のみであり、三ツ鳥居の向こうに見える三輪山を本殿とする。『三輪明神縁起』では祭神は大物主神であり、大己貴神・少彦名神が配祀されており、奥津磐座に大物主神、中津磐座に大己貴神、辺津磐座に少彦名命の三神が坐す、ともいわれる。大物主と大己貴の関係は、古事記と日本書紀ではことなる。古事記では少名毘古那が常世国にいってしまったので大国主が困っていると、海を光して依りくる神があり、「吾をば倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」といったとされ、大物主神と大己貴神は別神とされているのに対して、日本書紀では「吾はこれ汝の幸魂奇魂なり」と答え「吾は日本国の三諸山に住まむと思う」と言ったとされており、大物主神と大己貴神が同神とされている。また、大物主神と大己貴神を別神として、大物主を饒速日命とする説がある。ただ、三輪山が出雲神族の神体山であったとすると、三輪山にはクナトノ大神が祀られていたはずであり、クナトノ大神を抹殺する過程で大物主なる神が創作されたとも考えられる。大己貴神とクナトノ大神は別神であり、大己貴神と大物主神が別の神とされてもとうぜんであるが、一方クナトノ大神の身代わりである大物主神と大己貴神を同神とすることによって、クナトノ大神への信仰を大己貴に向けさせようとしたと考えられる。籠神社でも表面的には祖神の彦火明命を饒速日命のこととしながら、その裏では彦火明と饒速日の名につく彦天火明とをはっきりと区別している。ただ、彦火明と饒速日が習合させられていったように、大物主と饒速日が習合させられていった可能性はあるし、あるいはそもそも大物主が創作されたのは饒速日と習合するためだったのかもしれない。
 高鴨神社は高天彦神社と西北45度線をつくる。高天彦神社は高皇産霊神(別名高天彦神)他二神を祭神とし、金剛山別当の葛城家の祖神を祀るという。高天彦神社のあるあたりは高天原とも呼ばれ、鳥越憲三郎氏の葛城王朝説では葛城族の本拠地で、葛城族は平地に下りていって鴨族を支配し葛城王朝を樹立、それが大和朝廷に発展していったが、発祥の地の高天の台地を神々の集まった場所と考え、高天原といったとする。しかし、高天原は出雲神族が故郷の地をそう呼んだともいうのであるから、高天彦神社も、もともと出雲神族と関係する神社だった可能性もある。金剛山別当の葛城家の素性が問題になるであろう。金剛山は出雲神族の役行者が開いた山であるから、もともとは出雲神族である可能性もある。一方、高天彦神社は畝傍山と東北45度線をつくるから、神武が畝傍山の山麓で即位したことを考えると、やはり高天彦神社のあたりを天孫族が高天原と考えたということなのかもしれない。ただ、これも話は逆で、出雲神族の伝承では即位という言葉ももともとは出雲神族の言葉であったということであるから、天孫族が彼らの祖神の住む場所を示す名前としてやはり高天原という言葉を出雲神族から借用したとするなら、出雲神族が高天原といっていた高天からの方位線上にある畝傍山を神武の即位の場所としたのかもしれない。畝傍山と高天彦神社が方位線をつくるのに対して、背後の神体山といわれる白雲峯(694m)と耳成山が東北45度線をつくる。また、高鴨神社と高天彦神社と高宮廃寺が正三角形をつくり、高宮廃寺と金剛山の葛城神社が西北45度線をつくっている。

  高鴨神社―高天彦神社(E0.003km、0.11度)の西北45度線
  高天彦神社―畝傍山(W0.106km、0.52度)の東北45度線
  白雲峯―耳成山(W0.119km、0.46度)の東北45度線
  葛城神社―高宮廃寺(W0.032km、0.79度)の西北45度線

 三輪山と春日山(花山)、大神神社と御蓋山が南北線をつくっていたが、春日山も出雲神族と関係があるのだろうか。春日山(花山)と若草山が西北45度線をつくっていたが、若草山とクナトノ大神を祀っていたであろう道祖神社が東北30度線をつくる。また、大神神社の摂社の率川神社も春日山(花山)・御蓋山と東西線をつくる。これらのことから、春日山一帯も出雲神族の聖地だったことが考えられる。丹後の真名井神社と東大寺大仏殿が西北60度線をつくるとしたが、真名井神社からの西北60度線は東大寺大仏殿と道祖神社の中間を通るので、それは真名井神社と道祖神社が西北60度線をつくるというべきかもしれない。さらにいえば、真名井神社と御蓋山の方位線も成り立つであろう。東北から越に移動してきた出雲神族は、丹後から出雲と大和・伊勢に分かれたと考えられるが、春日山一帯が大和と丹後を方位線で結ぶ地点として、出雲神族によって特別な場所とされていたのではないだろうか。丹波・丹後との関係では、御蓋山と笠置山が東北45度線をつくるが、笠置山は兜山熊野神社・大江山・出雲大神宮の西北45度線上に位置している。

  若草山―道祖神社(E0.003km、0.07度)の東北30度線
  春日山―率川(S0.025km、0.39度)の東西線
  真名井神社―道祖神社(E0.539km、0.27度)の西北60度線
  真名井神社―御蓋山(E1.226km、0.60度)の西北60度線
  御蓋山―笠置山(E0.066km、0.33度)の東北45度線
  兜山(E1.242km、0.53度)―出雲大神宮(E0.549km、0.66度)―笠置山の西北45度線

 率川神社と三輪山との関係は、率川坐大神神御子神社と延喜式でいわれていることからもわかる。率川神社の祭神は中殿に媛蹈鞴五十鈴姫命、右殿に母神の玉櫛姫命、左殿に狭井神(大物主神と同神とされる)で、春日三枝神社とも言われるが、で六月十七日に行われる三枝祭は別名ゆりまつりともいい、もともとは狭井神社で行われていたものであるという。古事記の神武天皇段には狭井川の名のいわれとして、山由理草(笹百合)が多く、山由理草を佐韋というからだとあり、媛蹈鞴五十鈴姫は狭井川のほとりに住んでいたと伝えられている。この媛蹈鞴五十鈴媛を祭神とする率川神社が三輪山からはだいぶ離れた春日山・御蓋山の東西線上に鎮座しているのは、春日山(花山)と溝咋神社が西北30度線をつくることと無関係ではなののではないだろうか。神武は三島溝咋の娘と古事記では大物主神との間にできたホトタタライススキヒメ亦の名ヒメタタライスケヨリヒメ、日本書紀では事代主神との間にできたヒメタタライスズヒメを皇后としているが、三島溝咋は溝咋神社と関係するといわれる。

 春日山―溝咋神社(E0.005km、0.01度)の西北30度線

 春日山(花山)からの方位線上で三輪山と関係のある場所として堺市上之の陶荒田神社がある。春日山と陶荒田神社は東北30度線をつくるが、陶荒田神社のあるあたりが、大物主神を祀るため呼び出された大田田根子がいた茅渟縣の陶邑と考えられている。陶荒田神社の主祭神は高魂命・剱根命・八重事代主命・菅原道真で、大田田根子が祖先の霊を祭るため、この陶邑の太田森に社を建てたのが始まりで、主神の高魂命五世の孫剱根命の子孫にあたる荒田直が当社の祭祈を行っていたと伝えられている。春日山一帯は月神信仰の聖地だったのではないかとしたが、高魂命の子孫として葛城国造剱根命の他に宇佐国造宇佐津彦があり、春日山は宇佐氏の祖の高魂命とは方位線的に関係があったわけである。ただ、宇佐氏の祖を高魂命とすることには、その祖神を月読神とする伝承との関係から本質的な伝承なのかという疑問は生じる。

 春日山―陶荒田神社(E0.741km、1.16度)の東北30度線

 日本書紀では大田田根子は父を大物主大神、母をと陶津耳の女活玉依姫としており、活玉依姫について、別に奇日方天日方武茅渟祀(くしひかたあまつかたたけちぬつみ)の女ともいわれていると記されている。古事記では大物主神が陶津耳命の女活玉依毘売との間に櫛御方命を生みその子孫が意富多多泥古となっている。奇日方天日方と櫛御方命が似ていることはしばしば指摘されている。一方、先代旧事本紀の天皇本紀では事代主神と三嶋溝クイ耳神の女玉櫛姫との間に媛蹈鞴五十鈴姫が生まれたとなっているが、都味歯八重事代主神と三島溝杭の女活玉依姫の間に天日方奇日方命と妹の鞴五十鈴命がうまれ、天日方奇日方命の子孫に和邇君等の祖の阿田賀田須命や大田田禰古命が記されてもいる。古事記と先代旧事本紀ではオオタタネコは天日方奇日方(櫛御方)の子孫となっており、日本書紀では別伝として、天日方奇日方(櫛御方)が奇日方天日方と名前の上下を入れ換えられ、しかもオオタタネコの母方の祖先とされているわけである。活玉依姫の父親として陶津耳・三嶋溝杭・奇日方天日方武茅渟祀(天日方奇日方・櫛御方)が重なっているわけであるが、そのうちの陶津耳の本拠地にある陶荒田神社と三嶋溝杭に関係する溝咋神社が春日山の方位線上に位置しているわけである。日本書紀の立場はオオタタネコと天日方奇日方(櫛御方)命との関係を曖昧にしようとしているようにみえる。それに対して先代旧事本紀の立場は陶津耳とオオタタネコとの関係を切り離そうとしているように思える。先代旧事本紀にも陶津耳を思わせる人物があって、先代旧事本紀では大物主神ではなく単に大三輪大神と記されているのであるが、あやしき光海を照らして波浪の末を踊出でた神が、大己貴に「吾は是汝の幸魂・奇魂・術魂之神なり」、「日本国青垣の三諸山に住と欲ふ」といった後に続けて、大己貴神が天羽車の大鷲に乗って茅渟縣の大陶祗の娘活玉依姫に通ったことが記されており、この大陶祗について大野七三氏はヲオミカツチと読んで賀茂建角身命とするが、ヲオスエツミとも読むことが出来、それはスエツミミのことではないだろうか。天日方奇日方命は三輪叢書所蔵の系譜に「事代主神と、大陶祇命の娘活玉依比賣命の御子」とあるという。出雲神族の伝承では長髄彦はコトシロヌシノ命の子の天ノヒカタクシヒカタノ命の子孫となっていた。おそらく、古くはコトシロヌシノ命の子の天ノヒカタクシヒカタノ命とのみあったものが、後代陶津耳あるいは三嶋溝杭の女活玉依姫と事代主あるいは大物主の間に出来た子とされていったのであろう。水野正好「大神神社成立前後史」(三輪山文化研究会編『神奈備大神三輪明神』)によれば、『神名帳考證』に神坐日向神社について「櫛日方命、今三輪若宮」と記してあり、この神坐日向神社は「三輪山の嶺にあり、今、高宮と称す」と『大和名所図会』に書かれているように、今も三輪山頂にあるという。三輪山は長髄彦が斎き祀る山だったのである。陶邑は千田稔「三輪山と古代王権」(三輪山文化研究会編『神奈備大神三輪明神』)によれば、三輪山山麓出土の須恵器の大半は陶邑古窯跡群(陶邑)で焼成されたもので、その使用は五世紀後半から六世紀後半で、七世紀以降に急速に使用されなくなったことが佐々木幹雄氏によって指摘されているといい、そのことと崇神天皇紀の大田田根子の伝承とどう関係するかは分らないが、三輪山と関係の深い場所であったことは確かである。
 三輪山とも関係し、御蓋山と方位線をつくる神社として宇陀郡菟田野町大神の神御子美牟須比命神社がある(HP「神奈備にようこそ」http://kamnavi.jp/as/uda/miwanomiko.htm)。祭神は神御子美牟須比賣命で式内社の「神御子美牟須比女命神社」に比定されるが、三輪の奧宮と称している。ただ、その鎮座は寛平五年(893)に大神神社の分霊を遷祀したといわれ、その鎮座は平安時代であるが、それから20年ほどしかたつていない延喜式内社に選ばれていることから、神御子美牟須比命神社はある重要な意味をもって分霊を遷祀されたことが推測されている。神御子美牟須比命神社と溝咋神社が西北45度線をつくっており、現在も大神神社鎮花祭の百合根とともに率川神社の三枝祭の笹百合も当社からも出していることなどから、率川神社や春日山・御蓋との関係も無視できない。

 御蓋山―神御子美牟須比命神社(W0.077km、0.17度)
 神御子美牟須比命神社―溝咋神社(W0.038km、0.04度)の西北45度線

 丹後・丹波と大和を結ぶもう一つの方位線として、久次岳・伊去奈子嶽(磯砂山)・大江山と畝傍山の西北60度線がある。そうすると、畝傍山と三輪山の方位線も考えたくなる。三輪山の東北30度線に対して、畝傍山はE0.309km、2.02度で、これは少なくとも方向線としては三輪山と畝傍山を結ぶことが出来るということである。すでに、耳成山・三輪山・巻向山という直線に対して、忌部山・畝傍山・巻向山という東北30度線を考えていたが、それはあくまでも測量系の立場に立った場合ということで、測定系の観点からみれば畝傍山と三輪山は方位線で結ばれていたのかもしれない。

  畝傍山―大江山(W0.130km、0.06度)の西北60度線

 この場合、三輪山と巻向山の信仰上の比重も判断の材料になるであろう。巻向山も信仰の山であった可能性があり、桜井市穴師町の穴師坐兵主神社は、式内社である穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を合祀したものであるが、かっては上下二社にわかれ、上社は弓月岳に穴師坐兵主神社があり、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であったという。左社大兵主神の境内表示に「纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。」とあるというが、HP「神奈備にようこそ」(http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm)によれば、この弓月岳については、竜王山、穴師山、巻向山の説があるという。穴師山説を出しているのが小川光二氏の『大和の原像』で、箸墓古墳の前方部から後円部をつらぬく線上に穴師大兵主神社下社(現穴師坐兵主神社)が鎮座、その延長線上に穴師山があり、角度は北東22度(稲の種まきの頃)この線上に穴師山の雄岳、雌岳もそろい、伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見ええ、冬至の日出の線で、山頂には二つの頂上があり、三輪山頂の真北に当たるという。また、穴師の真ん中の神さんがもと祀ってあった所を「ゲシノオオダイラ」と呼ぶという大兵主神社宮司中由雄氏の言葉を、小川氏は「夏至の大平」と解釈しているという。巻向山説は千田稔『鬼神の鎮魂歌』のなかで示されており、万葉集にある痛足川は穴師川のことで現在の巻向川、この川は巻向山の頂上近くに源流があことから、巻向の弓月が岳というのは巻向山のことで、伝崇神陵から南東30度で同じように穴師山頂上が見え、その延長上に巻向山頂上があるという。竜王山説については、「ようこそ奈良山岳会のホームページへ:巻向山」に江戸時代の『大和名所図会』に「釜ノロ東嶺は弓月ガ岳、頂上に十市兵部少輔遠忠の城跡あり…」とあるといい、釜ノロは長岳寺の山名で、十市城跡は竜王山のことであるという。 弓月岳が巻向山でそこに兵主神社が祭られていた可能性があるわけであるが、兵主神社の祭神は天ノヒポコともいわれるから、巻向山に兵主神社が祭られたのは出雲神族が大和にやってきてからはるか後のことともいえる。
 三輪山と巻向山との方位線のネジレは飛鳥の雷丘にもみられる。日本書紀雄略紀に天皇が小子部栖軽に三輪山の神を見たいというので、小子部栖軽が三輪山に登って大きな蛇を捕まえてきたが、天皇は斎戒されなかったので、大蛇は雷のような音をたて、目をきらきらと輝かせた。天皇が恐れ入って殿中におかくれになったので、大蛇を岳に放たせられ、あらためてその岳に雷という名を賜ったとある。伝承的には雷丘は三輪山と結びつくわけであるが、方位線的には雷丘は巻向山と東北45度線をつくるのである。この方位線的ネジレは伊那佐山にもいえるかもしれない。大神神社の奥宮といわれる神御子美牟須比命神社は伊那佐山と西北45度線をつくる。その方位線上に溝咋神社もあった。神御子美牟須比命神社も一義的には伊那佐山との方位線が重要だったのかもしれない。というのも、丹後の真名井神社の西北60度線上には、伊那佐山も位置しているからである。そうすると、伊那佐山と三輪山との方位線を考えたくなるが、伊那佐山は三輪山とではなく巻向山と西北30度線をつくるのであり、ここにも方位線的なネジレがみられるわけである。三輪山と巻向山は北は巻向川、南は初瀬川、東は白河川によって区切られ、一つの山塊となっている。これらの方位線のネジレは、古くは、三輪山と巻向山は一対の山あるいは一体の山と考えられていたことの名残なのかもしれない。日本書紀では大物主は「日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といっているのに対して、古事記では単に「倭の青垣の東の山の上にいつき祭れ」とのみいっており、それは三輪山や巻向山一帯を指していたとも考えられるのである。

  巻向山―雷丘(W0.067km、0.42度)の東北45度線
  巻向山―伊那佐山(E0.095km、0.66度)の西30度線
  真名井神社―伊那佐山(E0.408km、0.17度)の西北60度線

 巻向山と雷丘との東北45度線上に阿部山があり、阿部山は三輪山とも東北60度線をつくっていた。また、巻向山と鳥見山が東北60度線をつくっていたが、雷丘と鳥見山も東北30度線をつくる。一方巻向山と伊那佐山が西北30度線をつくっていたが、阿部山・鳥見山・伊那佐山が東西線をつくる。長谷寺の十一面観音は巨大な岩盤の上に立つといわれ、もともとは磐座信仰があった可能性があるが、三輪山と長谷寺が東西線をつくり、その延長線上に福地岳があり、福地岳は高鴨神社と東北30度線をつくっている。水谷慶一『知られざる古代』によれば、北緯34度32分の「太陽の道」の中に榛原町長峰の天満社裏山遺跡があり、環状列石があるとされているが、その場所は福地岳の北麓にあたり、その環状列石は福地岳崇拝と何らかの関係があったのではないだろうか。檜原神社―天神山山頂―天満社裏山遺跡が東西線をつくり、一方、三輪山―長谷寺―福地岳が東西線をつくり、天神山と長谷寺が一体のものであり、檜原神社も三輪山と深く結びついているとするなら、天満社裏山遺跡の環状列石と福地岳も密接な関係があったとも考えられるわけである。
 長谷寺をみると阿部山と東北30度線をつくり、阿部山は天神山・榛原町の鳥見山と東北30度線をつくる。長谷寺では毎朝僧侶が拍手を打って天神山(与喜山)を拝む「与喜山礼」が行われており、寺発行の説明書では与喜山はアマテラス大神の神体山で、長谷寺のあるところを小泊瀬山、与喜山を大泊瀬山といって、この二つの山が一体のものとすることにより長谷寺の信仰ができているという。長谷寺と天神山・榛原の鳥見山が一直線に並んでいる。ただ、長谷寺と天神山の方位線は幅的にはE0.053kmとして誤差の内ともいえるが、偏角的には3.72度と方位線とするには厳しい。といって、カシミールでシュミレーションしてみると夏至の朝日が天神山の山頂から昇るわけでもないようである。天神山の山頂近くには二ヶ所に磐座があるというから、あるいはその磐座の一つと長谷寺が東北30度線をつくっているのかもしれない。長谷寺の西北45度線上に初瀬山と竜王山があり、西北60度線上に石上神宮の神体山といわれる布留岳があり、東北45度線上に外鎌山がある。天神山山頂近くには磐座があるという。福地岳と榛原の鳥見山が西北30度線をつくる。初瀬山は巻向山・阿部山の東北45度線上に位置しているといえる。穴師山(斎槻山)と三輪山が南北線をつくっているといわれたが、布留岳も三輪山と南北線をつくっており、三輪山・穴師山・布留岳・春日山(花山)が南北線上に並んでいるわけである。

  初瀬山(E0.024km、1.61度)―巻向山―阿部山(E0.092km、0.97度)の東北45度線
  桜井の鳥見山―雷丘(W0.068km、0.81度)の東北30度線
  伊那佐山―桜井の鳥見山(S0.083km、0.95度)―阿部山(0.000km、0.00度)の東西線
  三輪山―長谷寺(N0.113km、1.79度)―福地岳(S0.075km、0.45度)の東西線
  福地岳―高鴨神社(E0.023km、0.05度)の東北30度線
  阿部山―長谷寺(W0.069km、0.61度)の東北30度線
  阿部山―天神山(て0.016km、0.13度)―榛原の鳥見山(E0.093km、0.54度)の東北30度線
  長谷寺―初瀬山(E0.03km、1.02度)―竜王山(W0.079km、1.11度)の西北45度線
  長谷寺―布留岳(E0.093km、0.68度)の西北60度線
  長谷寺―外鎌山(W0.001km、0.04度)の東北45度線
  榛原の鳥見山―福地岳(W0.100km、1.7度)の西北30度線
  三輪山―穴師山(E0.062km、2.4度)―布留岳(kW0.236m、1.93度)の南北線

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長髄彦と草香山

 日本書紀によれば、河内国の草香邑の青雲の白肩之津に上陸した神武軍は、竜田に向かったが、路が狭く険しいので引き返し、胆駒をこえて中洲に入ろうとして、孔舎衞坂で長髄彦軍と激突し、神武軍は兄の五瀬命が瀕死の重傷を負う敗北をきっする。かって東大阪市の日下町周辺には生駒山を越えて大和に入る直越の道があり、神武軍と長髄彦軍が最初に激突した孔舎衞坂は直越の道のこととされる。直越を登りきったあたりが草香山である。草香山には饒速日山と呼ばれる、饒速日命が祭られた峰があったといわれる。饒速日山については、その正確な場所はわかっていないようであるが、戦前書かれた勝井純『神武天皇東遷御聖蹟考』には、河内でいうボタンザキが大和側では饒速日山と称し、河内でいう饒速日山はボタンザキの中腹に位置しているという記述があるらしい。ボタンザキについては原田修HP「いこまかんんび」(http://www.geocities.jp/iko_kan2/ikoma-hokurei-map.html)に地図が載っている。ボタンザキについては、生駒山の北にそばたつ峰という記述もあるので、地図でボタンザキと記されたあたりに標高470mほどのちょっとした峰があるので、そこがボタンザキなのであろう。以後ボタンザキというときにはその峰を指すことにする。同地図にはボタンザキの北、灯篭ゲートの間に高さ4m南北8mほど北嶺巨石遺構や、戦前には注連縄の掛けられた巨岩を西側から行者の拝む姿がみられたという哮ヶ峯も記されいるが、その一帯のどこかに河内でいう饒速日山があったのであろう。料金所から少し登って行くと平坦な所へ出て、巨石群周りから東下道路部分は若干削り取られたためか、斜面下の余地には小型の石が散在していました、という記述から巨石遺構はスカイラインのすぐ側と考えられる。草香山の方位線を考えると、三輪山の西北45度線が北嶺巨石遺構やボタンザキと考えられる峰の近くを通る。

  三輪山―ボタンザキ(W0.100km、0.23度)―生駒山北嶺巨石遺構±(E0.088km、0.20度)の西北45度線

 ところで、孔舎衞坂の戦いに参加したのが長髄彦のみで、饒速日が参戦しなかったのは何故だろうか。饒速日が天孫としての神武の正統性を認め、自ら大和の統治権を神武に譲ったのは、熊野から宇陀に入った神武軍が連戦連勝の勢いで自分たちに向かってきてからである。孔舎衞坂の戦いの時には、饒速日も長髄彦とともに国を奪おうとやってきた神武と戦ってもいいはずなのである。同じ天神の子同士の神武と饒速日が戦ったというを記紀は認められなかったということなのかもしれないが、長髄彦のみが神武と戦ったとすれば、長髄彦のみが神武に立ち向かったのか、その理由が問題になる。長髄彦のほうが饒速日よりはるかに大和という国に愛着を持っていたということなのかもしれないが、三輪山と草香山が方位線で結ばれていることを考えると、長髄彦にとって草香山はよそ者の侵入を絶対に認められない、きわめて重要な聖地だったということが考えられないだろうか。もしそうだとすると、それは長髄彦軍が神武軍に勝利できた勝因なのかもしれない。北欧のイングリンガ・サガに「ベルゼルカーの怒り」と呼ぶものがあり、その状態になった戦士は楯も持たず進み、犬・狼のごとく敵の楯にかみつき、熊・牡牛のごとく強力な力で人々を殺し、火も鋼も彼らをいかんともなしえないという。エリアーデ『生と再生』によれば、若者はその存在様式を根本的に変革する呪術宗教体験の結果としてベルゼルカーたりえるのであり、若い戦士はその人間性を、攻撃的で恐怖におののかせる凶暴性発作によって変質し、極度に激昂し、神秘的で、非人間的、かつ抵抗しがたい力にみちあふれ、しかもその戦闘力と気迫はその存在の最深部から奮い起こされるのであって、古代ゲルマン人はこの聖なる力をwutとよんだという。エリアーデは若者のベルゼルカー化とイニシエーション儀礼の類似性を指摘しているが、イニシエーション儀礼とはいわば聖なるもの、超自然的存在として再生することである。草香山が長髄彦軍にとって、彼らの神の住まう所、神が降臨する場所だったとすると、長髄彦軍は彼らの神と一体化した状態で神武軍と戦ったということであろう。聖なる存在へと変身し、一種のベルゼルカー状態となった長髄彦軍に対して、神武軍はたとえ人数が数倍しようとも勝利することは難しかったであろう。一方、そのような状態の長髄彦軍に敗北した神武は、その敗北の理由を、日神の子孫が日に向かって敵を征つのは、天の道に逆らったから、すなわち自分たちは自分たちの神と一体化できなかったということに求めることも当然だともいえるわけである。
 神武軍にとっても、最初の目標は長髄彦にとって重要な聖なる山である草香山を制圧することにあったのかもしれない。日本書紀に「熊野の神邑に到り、天磐楯に登る。」とあるが、その地方の聖なる山を自分の勢力下におくことは、古代においては、重要な軍事目標の一つだったのかもしれない。聖なる山ではないが、日本書紀によれば蘇我入鹿を殺した中大兄は即法興寺に入ったといわれる。法興寺は蘇我蝦夷・入鹿父子が城柵で囲い門の傍らに兵庫を作っていた甘樫丘の眼下であり、軍事的には得策な場所とはいえないであろう。中大兄が法興寺に入ったのは、そこが蘇我氏の造った寺で、蘇我氏にとってのもっとも重要な聖なる場所、精神的拠り所だったからとしか思えない。単なる軍事の物理的観点よりも、相手勢力の霊的・精神的拠点を制圧することの方が重要なことと考えられていたのであろう。天平九年(737)の大野東人による男勝(雄勝)村への遠征は、『続日本紀』に詳しく記されているが、約六千の兵は敵地の聖なる山である神室山を目標として進軍したとも考えられるのである。軍を賊地の比羅保許山に屯すると、雄勝村の俘長ら三人が来降してきたので、十分武威を示したので後は寛典を施せば人々は従い、城郭も守りやすくなるだろうということから、結局戦闘はおこなわず、大野東人はそこから兵を引き返したという。比羅保許山であるが、雄勝峠周辺の山ともされるが、神室山のことではないかともされる。秋田に入部した佐竹義宣が、参勤交代や流通の利便性を高めようと、より標高の低い現在の雄勝峠と主寝坂峠を越えるルートを羽州街道とする以前は、雄勝村への峠は神室山近くの、黒森と水晶森の間の有屋峠のことであった。ここで問題にしたいのは何故その経路が比羅保許山だったのかということである。大野東人の遠征の目的は、陸奥から出羽柵までの直通路を開設するためであったのだから、玉野から比羅保許山までの八〇里、比羅保許山から雄勝村までの五〇里は地勢は平坦と記されているが、それでも有屋峠は佐竹義宣が別の道を造ったように険阻であり、大野東人も現在の雄勝峠の道を進んでもよかったはずなのである。大野東人には比羅保許山に向かわなければならない理由があったともいえるわけである。その目的とは、神室山を自分たちの手に押さえることだったのではないだろうか。神室の名は神霊の宿る岩窟の意味で、窟室(かむろ)大権現は最初神室山に鎮座し、そこから鳥海山に飛行して鎮座したといわれ、鳥海山を西の鳥海と呼ぶのに対して、神室山は、東の鳥海と呼ばれた信仰の山、修験の道場であった。神室山は雄勝村の蝦夷にとっても聖なる山だったと考えられる。その聖なる神室山を勢力下に置くことは、蝦夷の人々に精神的ダメージを与えることでもあり、雄勝村の俘長ら三人が降伏してきたのも、東人軍を恐れたばかりでなく、法興寺を押さえられた甘樫岡の蘇我蝦夷軍が結局腰砕けになったように、戦意を奪われたことも大きな要因だったのではないだろうか。
 神武東征が何らかの史実を基にしているのか、後代の創作なのかは分からないが、後代の創作だとしても、草香山を神武と長髄彦の戦いの場としたのは、草香山が長髄彦と結びつく山であるという記憶が残っていたからとも考えられる。草香山が長髄彦にとって重要な場所だったとすると、単に三輪山と方位線をつくるだけではなく、津軽の十三湖の北にある靄山とも方位線をつくるからだったのではないだろうか。ピラミッドともいわれる靄山は出雲の熊野大社、九州の高良山と東北45度線をつくっていたが、草香山とも東北60度線をつくる。草香山は三輪山と靄山を方位線的に結びつける場所でもあったわけである。なお、靄山からの東北60度線ということでは交野山の方がより正確であるが、靄山と草香山も方位線をつくるとみなしても問題がないであろう。交野山と巻向山が西北60度線をつくり、東北60度線上には陶荒田神社がある。

  靄山―交野山(W0.130km、0.01度)―生駒山北嶺巨石遺構(E2.118km、0.14度)の東北60度線
  交野山―巻向山(E0.436km、0.79度)の西北60度線
  交野山―陶荒田神社(E0.402km、0.03度)の東北60度線
  
 大和と東北の方位線では、岩木山の山麓にある大森勝山ストンサークルと三輪山が東北60度線をつくっていたが、岩木山自身は香具山と東北60度線をつくる。そして、三輪山と香具山、岩木山と大森勝山ストンサークルがそれぞれ東北45度線をつくるわけである。靄山の西北60度線上には東北のピラミッドと呼ばれる山々が並んでいたが、そのうち大和との関係では五葉山が桜井市の鳥見山と、六角牛が若草山とそれぞれ東北45度線をつくっており、大和ではないが比叡山が早池峰山とやはり東北45度線をつくっている。五葉山の方位線であるが、数キロまでがその範囲とすれば、三輪山・巻向山の山麓を通ることから、三輪山あるいは巻向山と方位線をつくっていたのかもしれないし、山麓の出雲地区が問題なのかもしれない。というのも、やはりピラミッドとされる富山県の尖山からの東北60度線が出雲地区を通るからである。三輪山と巻向山の間にある奥不動寺の東に「ダンノダイラ」という比較的平坦な土地があり、HP「神奈備にようこそ」(http://kamnavi.jp/as/yamanobe/juunisha.htm)によれば、奥不動の庵主さんが牛五頭分の大きさと形容する、まさにその形といい大きさといい言い得て妙である巨大な磐座があるというが、五葉山の東北45度線はほぼそのダンノダイラの磐座を通るようである。同HPによれば、十二柱神社について出雲地域と北方の三諸山のダンノダイラに住んでいた先先住部族の祭神との関わりありとする説を『大和出雲の新発見』の中で著者の榮長増文氏が述べているというし、 出雲地区では戦前までダンノダイラの磐座を祀っていた可能性もあるらしい。あるいは、このダンノダイラの磐座が五葉山・尖山と方位線をつくっていた、あるいは巻向山がそうだったということなのかもしれない。

  岩木山―香具山(E0.585km、0.04度)の東北60度線
  五葉山―桜井市の鳥見山(E0.512km、0.04度)の東北45度線
  早池峰山―比叡山三角点(W0.226km、0.02度)の東北45度線
  五葉山―巻向山(W0.728km、0.06度)―出雲地区十二柱神社(E0.733km、0.06度)―三輪山(W1.506km、0.11度)の東北45度線
  六角牛―若草山(E0.062km、0.00度)の東北45度線
  尖山―巻向山(W1.085km、0.24度)―出雲地区十二柱神社(E0.079km、0.02度)の東北60度線

 勝井純『神武天皇東遷御聖蹟考』には、饒速日山についてさらに「山上に在った饒速日命を祀ってあった社を上古上ノ社と称し、現在の奈良県生駒郡富雄村鎮座の登彌神社及び大阪府中河内郡旧日下の地域に鎮座された、石切劔箭命神社を何れも下ノ社と称していたと云われていますが、上古は此の山を神体として礼拝していたもので、社殿等は無かったようであります。然るに、其後、饒速日命の子孫、生駒山の東西に分布するや、各々、その根拠地に神社を造営して宇麻志麻治命を祀りこれを下ノ社と称し、山上にも神殿を造営して上ノ社と称したらしく、其後、更に、山上の饒速日命の社の御神霊を河内側の此の命の子孫は、その下ノ社に、大和側も亦、これを今の富雄村の下ノ社に奉遷し、草香山上の上ノ社は自然荒廃してしまったらしいのであります。」と書かれているという(原田修氏のHP)。現在奈良市石木町に登弥神社があるが、藤井純氏が大和側の下ノ社とする奈良県生駒郡富雄村鎮座の登彌神社は、長弓寺の伊弉諾神社(明治以前は牛頭天王宮といわれていた)のこととされ、河内側の下ノ社は石切剣箭命神社のこととされる。長弓寺伊弉諾神社がボタンザキと東北30度線をつくり、石切剣箭命神社と北嶺巨石遺構が東北30度線をつくると考えられる。長弓寺裏の岡を考えるなら、北嶺巨石遺構との東北30度線ということになる。これは、石切剣箭命神社と長弓寺伊弉諾神社が方位線をつくるということでもあろう。
 谷川健一『白鳥伝説』によると、『大和志料』に「大和国陳迹名鑑図」には鳥見の長弓寺の坊舎八坊は長髄彦の旧跡であり、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の廟社がある」とあるといい、長弓寺やその裏の岡とボタンザキ・北嶺巨石遺構の方位線もまた、長髄彦と草香山の関係を示しているともいえるわけである。大山元『古代日本史と縄文語の謎に迫る』によれば、石切神社の祭神は、石切剣箭命神社は饒速日尊と可美真手命、登美霊社が三炊屋姫、石切祖霊殿が石切大神となっているが、饒速日と長髄彦の系譜関係のうち、饒速日・可美真手命・三炊屋姫までが同定できるので、残る石切大神は長髄彦のことではないかという。そして、「石切」i-si-kiriはアイヌ語で「その・長い(大きい)・彼の足」の意味になるという。石切大神が長髄彦のこととすると、草香山がもともと出雲神族の長髄彦と結びついた山であり、石切神社が草香山と結びついたとき、長髄彦を祀る必要があったということではないだろうか。

  長弓寺伊弉諾神社―ボタンザキ(W0.033km、0.33度)の東北30度線
  石切剣箭命神社―北嶺巨石遺構±(E0.018km、0.35度)の東北30度線
  石切剣箭命神社―長弓寺伊弉諾神社(E0.212km、1.44度)の東北30度線

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宇佐・出雲からの方位線

 安芸の埃宮のある広島湾、吉備の高嶋宮のある児島湾から吉備の中山にかけては、それぞれ宇佐と出雲の天狗山それに丹後の真名井神社からの方位線上に位置していた。大和を考えると、丹後の真名井神社からの方位線は大和を通るが、宇佐と出雲の天狗山からの方位線は大和を通らない。宇佐と出雲の天狗山からの方位線が通るのは大和ではなく熊野である。宇佐からの東西線が串本から古座あたりを通り、天狗山からの西北30度線が熊野の鬼ヶ城近くを通る。ただ、これらの方位線が神武の熊野迂回と関係するのかどうかは検討を要するであろう。そもそも、安芸の埃宮や吉備の高島宮は、宇佐氏の伝承では古の菟狹族の神都で、宇佐の方位線上にそれらの神都があるのではなく、菟狹族が九州にまで移動したとき、それらの神都からの方位線上にあたる宇佐一帯に拠点が置かれたと考えるべきである。さらにいえば、菟狹族は大国主の支配下にあったというから、出雲神族が吉備や安芸に進出し、天狗山からの方位線上に拠点を置いていたとするなら、多くの菟狹族もその周辺に住むことになったということもありえるし、宇佐氏ではそれが吉備や安芸が古の菟狹族の神都という伝承になったとも考えられるわけである。菟狹族の古の神都に熊野は出てこないから、それからいえば宇佐と熊野の東西線は、神武東征の話とは関係ないのかもしれない。ただ、宇佐氏の伝承では日本の木の文化は宮崎県の日南あたりが発祥で、それが国東半島に入り、それから木の国に渡っていったという。この移動は、宇佐と熊野の東西線とも関係していた可能性はある。また、日南からの東北30度線が熊野を通る。神武が日向出身とすれば、神武と同族ともいえる人たちが紀ノ国には大勢いたかもしれないわけである。
 一方、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、出雲の熊野では、有馬氏は出雲の炭焼きを業とする集団であったが、縄文時代に大挙して木の国へ移住し、出雲の比婆山の祭祀や、熊野大神の信仰は、これら有馬氏が出雲からもたらした、という伝承が伝えられているという。日本書紀の一書に伊奘冉尊を紀伊国熊野之有馬村に埋葬したとあり、熊野市有馬町の花の窟神社が伊奘冉の墓とされる。天狗山からの西北30度線は、花の窟神社の近くを通るわけでもあるが、出雲の伝承を考えると、天狗山と花の窟神社が方位・方向線を作るっているのかもしれない。すくなくとも、天狗山の方位線上に出雲から移住した有馬氏は拠点を置いたということは考えられるであろう。もっとも、熊野の有馬氏は饒速日命の後裔で熊野国造の子孫とされている。ただ、有馬氏の出自については、本当のところは分からないとする人もある。花の窟神社と出雲との関係を考えさせるものとして、花の窟神社とゴトビキ岩の東北60度線の延長線上に潮岬の出雲地区がある。この出雲地区と出雲神族の関係はよくわからない。出雲地区には朝貴(あさぎ)神社があり、出雲崎で漂流していた神体を漁師が拾い祀ったという。海から漂着してくる神としては、大物主神がそうであり、茨城県の大洗磯前神社では夜半海上を光り輝きながら二個の石が漂着したといい、大己貴命と少彦名命とされている。ただ、朝貴神社の漂着神は女の神様らしく、それら出雲神族系の神とは違うのかもしれない。この潮岬の出雲地区は畝傍山と南北線をつくる。一方、宇佐との関係でいえば、菟狹族発祥の地である大江山と畝傍山が西北60度線をつくっていた。もともとの出雲・宇佐ではないが出雲・宇佐と方位線を作る場所に、神武は大和での宮を置いたともいえるわけである。

  天狗山―花の窟神社(W2.793km、0.50度)の西北30度線
  花の窟神社―ゴトビキ岩(W0.030km、0.09度)―朝貴神社(W0.013km、0.01度)の東北60度線
  朝貴神社―畝傍山(W0.929km、0.47度)の南北線
  
 神武東征としては宇佐からではなく、今度は吉備の高島宮からの方位線というのも考えてみる必要があるであろう。高島からの東西線上に三室山・石上神宮がある。この東西線は、神武軍は紀によれば最初竜田に向かったというが、この龍田越えと重なる。神武軍は最初この高島宮からの東西線上を大和に入ろうとしたのかもしれない。この東西線上には石上神宮もあるわけであるが、それよりも気になるのは石上神宮の東にある滝本の桃尾の滝である。近くには地元で石上神宮の元宮といわれている石上神社があるが、桃尾の滝には草薙の剣を持っていた八岐の大蛇が剣となって降臨したとの伝承が語られるているという(http://kamnavi.jp/mn/nara/tenriyy.htm)。出雲との関係がうかがわれる話であるが、桃尾の滝が興味深いのは、その西北45度線上に長弓寺伊弉諾神社・磐船神社があり、その西北30度線上にボタンザキ・北嶺巨石遺構すなわち草香山があることである。

  高島・神社―三室山(S0.167km、0.06度)―石上神宮(S0.471km、0.16度)―桃尾の滝(S0.454km、0.15度)の東西線
  桃尾の滝―長弓寺伊弉諾神社(E0.006km、0.02度)の西北45度線
  桃尾の滝―ボタンザキ(W0.023km、0.06度)の西北30度線

 八岐の大蛇が剣となって降臨したとの伝承は、桃尾の滝周辺にみられるようであり、桃尾の滝がもともとの伝承の地というわけでもないようである。『石上振神宮略抄』に、夜都伎神社の縁起として「夜都留伎の神は八伎大蛇の変身にて神躰は八の比禮小刀子なり。仍て八剣の神と申す。神代の昔出雲の簸谷の八伎大蛇は一身にて八伎あり尊(素戔男尊)剣を抜きて八段に切断し給しか八つ身に八つ頭か取付八つの子蛇となりて天へ昇りて水雷神と化為て聚雲の神剣に扈従して当国布留河上の日の谷(属都祁郷)に臨幸ありて鎮座す(八龍王八箇石是也)。」 とあるといい(KOKORO『神社による古代史 八劍宮編』http://kamnavi.jp/log/kokoro8.htm)、式内社夜都伎神社の論社としては、天理市田井庄町八剣神社、天理市乙木町宮山の夜都伎神社などがあるが、乙木町宮山の現夜都伎神社の東南、約500mのところにある十二神社がもともとの夜都伎神社であるともいう。八岐の大蛇が水雷神となって最初に鎮座した布留河上の日の谷であるが、長滝町日ノ谷(火の谷)の龍王社が現夜都伎神社の上社的存在だったとも考えられ、ごく最近まで乙木の人々は、旱魃のとき雨乞のために竹之内峠を越え、そこに詣でていたという。布留川上流域には、長滝町・苣原町・仁興町にそれぞれ九頭神社が鎮座しており、建御名方神を祭神とするというが、長滝町にある九頭神社は、夜都(留)伎神社の上社とされる「長滝町日の谷の龍王社」が鎮座する「飛び火山」の麓に鎮座しており、山上の社を祀る里の宮だったと思えなくもないという。そうすると、長滝町あたりが八岐大蛇が剣となって天降ってきた場所となるが、長滝町の九頭神社近くを丹後の真名井神社からの西北60度線がとおる。真名井神社と高島が東北45度線をつくっていたが、高島からの東西線と真名井神社からの西北60度線が交わるあたりに、八岐大蛇が剣となって天降ってきたということになるわけである。

  真名井神社―長滝町の九頭神社(W0.381km、0.17度)の西北60度線
  高島・神社―長滝町の九頭神社(S0.609km、0.20度)の東西線

 夜都伎神社の縁起では八岐大蛇が剣に変身してしたが、出雲建雄神社の縁起では「石上振若宮は出雲建雄神也、此神は日本武尊帯る八握剣の神気御名也、旧名天叢雲剣申、熱田祝部尾張連等掌ます神是也、天智天皇御世、新羅の僧道行、件ノ宝剣を盗逃げしが、境を出る事不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮え送り遣さる、其の夜、石上神宮神主布留宿邑智が夢に東の高山の末に八雲がのぼり其の中に神剣光を放ち国を照す、其剣の本に八ッの竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、宜敬ひ祭れよ、仍て神託の随に神殿を造りて神を斎い奉る。出雲建雄神と申奉る」とあり(KOKORO『神社による古代史 八劍宮編』http://kamnavi.jp/log/kokoro8.htm)、八岐大蛇から出てき天叢雲剣が関係している。出雲建雄神社は式内社であり、石上神宮摂社の出雲建雄神社、山辺郡都祁村白石の雄神神社、山辺郡都祁村藺生の葛神社を当てる説があり、この神を祀るのは全国的にもその三社のみであるという。出雲建雄神社も日ノ谷と関係しており、『吉田神祗管領裁許状』(享保7年)という古文書に、「布留川上日谷山武尾大神」とあり、ここでいう武尾大神≠ヘ出雲建雄神社のことと思われるため、当社も日の谷と関係があるのは確かであるという(KOKORO『神社による古代史 八劍宮編』http://kamnavi.jp/log/kokoro8.htm)。大和では建御名方神が祀られている例はきわめて稀であるのに、長滝町の九頭神社をはじめ周辺の九頭神社に建御名方神が祀られているという。石上神宮の摂社である出雲建雄神社でも建御名方神を祭神とするともいうから、八岐大蛇・天叢雲剣・建御名方神複合が長滝町の日ノ谷を中心に一体に広がっていたということであろう。山辺郡都祁村白石の雄神神社は野野上岳の山麓に鎮座し野野上岳の雄雅山を神体山としているが、雄神神社・野野上岳も高島の東西線上に位置している。

  高島・神社―雄神神社(W0.029km、0.01度)―野野上岳(E0.102km、0.03度)の東西線

 夜都留伎は八剣であり、天河弁才天の神体山である弥山の隣に八剣山がある。八剣山の名前のいわれは分からないが、八剣山が諏訪大社神体山の守屋山と東北45度線をつくる。同時に、その南北線方向に長滝町の九頭神社が位置している。この八剣山と長滝町の九頭神社あるいは日ノ谷の関係が無視できないのは、八剣山の西北60度方向に大阪市鶴見区放出東3丁目の阿遅速雄(あじはやお)神社があるからである。阿遅速雄神社には八劔大神が配神としてあり、天智天皇の御世、新羅の僧道行は熱田神宮から草薙の剣すなわち天叢雲剣を盗み出し、それを難波浦に捨てたというが、その場所が神社近くの川で、里人に拾い上げられた剣は数年間当社に合祀奉斎され、その後天武天皇の時代に浄見原宮に移されたが、分霊が今日まで奉斎されてきたという。また、八岐大蛇ではないが、『播磨国風土記』に中川里の丸部具という人が河内国免寸村の人がもっていた剣を買ったところ、その家の人が皆死んでしまい、その剣は、のびちじみして蛇のようだったという話がある。和泉国はかって河内国だったので、河内国免寸村は高石市取石の等乃伎神社の地ではないかといわれるが、等乃伎神社も八剣山の西北45度線方向に位置している。八剣山からの西北45度線上により正確に位置しているのは等乃伎神社に近い大鳥神社である。大鳥神社は白鳥となった日本武尊が最後に留まった所といわれ、日本武尊は草薙の剣と結びつく。大鳥神社は阿遅速雄神社と東北60度線をつくるが、本来は高台にあったものを、JR線開設に当たりやや低い現在地に移転したというから、もともとから方位線関係にあったかどうかは分からない。  。

  守屋山―八剣山(E0.398km、0.08度)の東北45度線
  八剣山―長滝町の九頭神社(W1.416km、1.72度)の南北線
  八剣山―阿遅速雄神社(E1.428km、1.26度)の西北60度線
  八剣山―等乃伎神社(W1.930km、1.97度)―大鳥神社(W0.458km、0.46度)の西北45度線
  大鳥神社―阿遅速雄神社(W0.183km、0.54度)の東北60度線

 高島は出雲の天狗山、丹後の真名井神社、それに大和からの方位線の集まる場所として、出雲神族によって重要視されていたのではないだろうか。都祁村周辺は大和という国名の発祥の地とも、最初に人々が住みだした場所ともいわれるが、大和では珍しく建御名方が多く祀られるなど、出雲神族にとっても重要な斎祀の場だったとも考えられる。天狗山・高島の西北45度線上に阿波一の宮大麻比古神社神体山の大麻山があり、山頂の猿田彦はクナトノ大神が代えられたものではないかとしたが、大麻山の東北30度線上に阿遅速雄神社が位置し、大麻比古神社の東西線上に八剣山が位置する。大麻比古神社は丹波の出雲大神宮と東北45度線をつくっていた。阿遅速雄神社は阿遅鋤高日子根神を祭神とする。HP「神奈備にようこそ」の阿遅速雄神社のページ(http://kamnavi.jp/ym/ajihayao.htm)によれば、賀茂の血筋を受け継いでいる仲嶋氏からのコメントとして、阿遅速雄尊は祭神の御子神で、高鴨神社の古文書にも味鋤速雄尊として摂社に祭祀された記録があるというが、どちらにしても出雲神族の神社である。天狗山からの方位線上にある高島と大麻山からの方位線上に、出雲神族それに熱田神宮から盗まれた草薙の剣と関係する神社があるわけである。大麻山と阿遅速雄神社の東北30度線方向に交野の磐船神社がある。そして、桃尾の滝と長弓寺伊弉諾神社が西北45度線をつくるとしたが、その方位線方向にも磐船神社は位置している。

  大麻山―阿遅速雄神社(E0.495km、0.25度)の東北30度線
  大麻比古神社―八剣山(N0.297km、0.13度)の東西線
  阿遅速雄神社―磐船神社(E0.194km、0.82度)の東北30度線
  桃尾の滝―磐船神社(E0.160km、0.39度)の西北45度線

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饒速日の方位線

 饒速日は天磐船に乗って河内の河上の哮峰に天降り、そこから大倭国の鳥見の白庭山に遷ったといわれる。哮峰の比定地として一番有力視されているのは交野市の磐船神社であるが、長弓寺伊弉諾神社の背後の岡に注目するなら、磐船神社と西北45度線をつくる。この岡は北嶺巨石遺構・石切剣箭命神社と東北30度線を作っていたが、磐船神社と石切剣箭命神社も東北60度線をつくる。これは、磐船神社・長弓寺伊弉諾神社・石切剣箭命神社が方位線三角形をつくると考えてもいいであろう。


  磐船神社―長弓寺裏▲181.3m岡(W0.032km、0.43度)―長弓寺伊弉諾神社(W0.154km、1.99度)の西北45度線
  磐船神社―石切剣箭命神社(W0.154km、1.04度)の東北60度線

 石切剣箭命神社の社伝では、東にある上の社が元々の本社であったといい、さらに古くは、神武二年に宮山という所に饒速日命と宇摩志摩治を祀ったのが創建という。本社・上の社とも創建以来位置に移動はないらしい。宮山の位置については、瀬藤禎祥氏HP「神奈備にようこそ」掲示板ログ[4758] (http://kamnavi.jp/log/yumv0401.htm)に「生駒山登山コースの辻子谷の途中に宮山600mとの看板を認識しました。通る度に見ているのですが、それは上之宮の元社とは思わなかったのでした。宮山の祠は山の中腹にあり、少し登ると山の鞍部に出、尾根伝いに生駒山へ登れました。」とあり、生駒山山頂とその北の標高587.5mの峰の鞍部、あるいはその西側にすこし降ったところに最初祭られたということなのであろう。谷川健一編『日本の神々』の石切剣箭命神社の項には、本社と山腹の上の社・宮山を結んだほぼ延長線上に生駒山頂があると記されているが、これは本社・上の社・宮山がほぼ一直線上に並んでいるということであろう。本社と上の社は春日山・御蓋山の東西線上にあり、その東西線は生駒山頂と北の峯の鞍部を通るから、宮山に創建された石切剣箭命神社は生駒山を信仰の対象にしていたと考えられる。
 谷川健一編『日本の神々』の交野市の磐船神社の項で、大和岩雄氏は、難波宮趾太極殿の真西に生駒山の最高峰があり、すくなくとも五世紀代の難波の王は生駒山の哮峯およびその付近から昇る春分・秋分の日の出を拝していたのであり、偶然の一致といってしまえばそれまでだが、磐船神社と岩戸神社(天照大神高座神社)は難波宮趾を基点とすれば、それぞれ夏至と冬至の方向にあり、磐船神社と岩戸神社のほぼ中間に生駒山頂、その西方中腹に石切神社の上社があり、この三つの神社の所在地はほぼ夏至(磐船神社)、春分・秋分(石切神社上社)、冬至(岩戸神社)の日の出位置にあるという。また、石上神宮は生駒山頂付近に夏至の夕日が落ちる位置にあり、住吉大社から見るならば春分・秋分の朝日は岩戸神社の背後から昇り、夏至の朝日は田原の磐船山(饒速日山・哮峯)付近から昇るという。また、勝井純『神武天皇御東遷聖蹟考』には大阪城所在地に饒速日を祭神にした磐舟神社が存在したとという。大阪城天守閣付近からカシミール3Dで春分・秋分の日の出をシュミレーションしてみると、生駒山とその北の標高峰の鞍部から昇り最初に創建された石切剣箭命神社は、大阪城あたりにあった磐舟神社からみた春分・秋分の日の出の場所と深く関係していたということもありえる。また、天守閣の南、難波宮近くからは、春分・秋分の太陽は生駒山頂から昇る。どちらにしても、石切剣箭命神社が宮山に創建された頃の河内の物部氏にとって、神体山というものがあったとすれば、生駒山山頂だったと考えられる。
 生駒山頂は長弓寺伊弉諾神社とも東北45度線をつくる。長弓寺伊弉諾神社からみればその東北30度線にボタンザキがあり、東北45度線上に生駒山頂がくるという構図になるわけである。

  生駒山頂―長弓寺伊弉諾神社(W0.030km、0.27度)の東北45度線

 宮山に石切剣箭命神社が創建されたのが神武二年ということは、その頃には饒速日命は生駒山と結び付けられていたのであり、饒速日山に饒速日命が祭られたのは神武以降ということになる。生駒山頂こそ難波の王や物部氏にとって最も重要な山であり、饒速日命も祭られていたとすれば、それが、高度的に中腹ともいえる饒速日山に祭祀の中心が移ったのは一つの謎ともいえるが、草香山が大和の出雲神族にとって三輪山と靄山を結ぶ生駒山より重要な場所だったとすれば、物部氏が生駒山頂より草香山へ饒速日の祭祀場所を移したことも理解できる。長髄彦が排除された後でなければ、草香山に饒速日を祭ることはできなかったわけである。石切剣箭命神社と北嶺巨石遺構の結びつきは、石切剣箭命神社の上の社の東北45度線方向に北嶺巨石遺構があることからもいえるかもしれない。長弓寺伊弉諾神社がボタンザキ、生駒山頂と方位線をつくっていたことを考えるなら、草香山に饒速日が祭られると同時に、北嶺巨石遺構の東北45度線上に宮山から石切神社が遷され、さらに北嶺巨石遺構の東北30度線上に石切神社本社が造られたということではないだろうか。

  石切剣箭命神社上の社―北嶺巨石遺構±(E0.076km、2.05度)の東北45度線

 後々の物部氏にとって生駒山頂が重要な山だったことは、生駒山頂と石上神宮が西北30度線をつくることからもわかる。同時に、生駒山頂の北にある峰も生駒山頂との対の峰として重要視されたのではないだろうか。というのも、石上神宮の神体山である布留岳が北の峰と西北30度線をつくるのである。布留岳は矢田坐久志玉比古神社とも西北30度線をつくる。これを、生駒山北の峰と布留岳の方位線上に矢田坐久志玉比古神社があると考えれば、北の峰も無視できないことになるのである。石上神宮・布留岳・桃尾の滝が東西線上に並び、石上神宮・布留岳が生駒山頂・北の峰と西北30度線をつくり、生駒山頂と長弓寺伊弉諾神社が東北45度線をつくり、桃尾の滝と長弓寺伊弉諾神社が西北45度線をつくっているという構図になっていたのではないだろうか。

  生駒山頂―石上神宮(E0.124km、0.39度)の西北30度線
  生駒山北の峰―矢田坐久志玉比古神社(W0.205km、1.50度)―布留岳(W0.060km、0.17度)の西北30度線
  石上神宮(S0.038km、2.02度)―布留岳―桃尾の滝(S0.021km、1.33度)の東西線

 石上神宮と三輪山との関係でいえば、生駒山頂からの西北30度線と大神神社と御蓋山の南北線の交わるところに石上神宮が造られ、生駒山北の峰からの西北30度線と三輪山と春日山の南北線が交わる峰が石上神宮の神体山とされたのではないだろうか。石上神宮と布留岳からの方位線ということでは、崇神七年に宮中に斎祀されていた布都御魂神と布留御魂神を物部連の祖の伊香色雄命が勅を奉じて石上の高庭に移し祀ったのが石上神宮とされるが、石上神宮と、同じ崇神七年に相前後して伊香色雄命により創建されたという茨木市福井の新屋坐天照御魂神社が石上神宮と西北45度線をつくり、布留岳が茨木市西河原の新屋坐天照御魂神社の旧跡すなわち現在の磯良神社(疣水神社)と西北45度線をつくり、福井と西河原の新屋坐天照御魂神社どうしも西北30度線をつくる。

  石上神宮―新屋坐天照御魂神社・福井(W0.015km、0.02度)の西北45度線
  布留岳―新屋坐天照御魂神社・西河原旧跡(W0.076km、0.12度)の西北45度線
  新屋坐天照御魂神社・福井―新屋坐天照御魂神社・西河原旧跡(W0.040km、0.79度)の西北30度線

 生駒市南田原町の岩船神社(現在住吉神社別名お松の宮の摂社となっている)について、谷川健一『白鳥伝説』に、おそらくニギハヤヒがはじめて大和に入った旧跡を祀ったものとあるが、ニギハヤヒとその妻の御炊屋姫の廟社とされる長弓寺が生駒山頂と方位線をつくっていることから、岩船神社すなわち南田原町の住吉神社も生駒山頂の東北60度線上に位置していると考えたくなる。南田原の住吉神社と生駒山頂が方位線をつくっていると考えたくなるもう一つの理由は、生駒神社と南北線をつくることで、さらに生駒神社は生駒山頂と東西線をつくっていることから、生駒神社とともに南田原の住吉神社も方位線と密接な関係があり、そのことから生駒山頂とも方位線をつくっているのではないかと考えたくなるのである。生駒神社はボタンザキとも西北30度線をつくっている。谷川健一編『日本の神々』の磐船神社の項に、生駒山の最高峰(642m)を吉田東伍が哮峰としたのは、江戸時代からそういわれていたからであるが、哮峰については江戸時代に書かれた『河内志』が讃良郡西田原(四条畷市上田原)の磐船山にあてているとあり、また磐船山を饒速日山とする説があることが述べられている。そして、磐船神社が山岳仏教の影響で衰退したとき、宝物を他の神社に移したが、四条畷市上田原の住吉神社に「磐船宮」と銘が入った蓮の台の神輿があるという。また『河内志』に交野市の磐船について「和州南田原村石船明神の神輿ここに遷幸す。因りて石船岩といふ。」とあり、このように河内・大和の両田原と磐船神社は縁が深いという。上田原と南田原の住吉神社が西北60度線をつくる。また、上田原の住吉神社が石上神宮と福井の新屋坐天照御魂神社の西北45度線上に位置している。矢田坐久志玉比古神社が布留岳の西北30度線にあり、上田原の住吉神社が石上神宮の西北45度線上にあることから、矢田坐久志玉比古神社と上田原・南田原の住吉神社との西北60度線も認めたくなる。さらに、矢田坐久志玉比古神社が布留岳と生駒山北の峰の方位線上にあり、南田原の住吉神社が生駒山頂と東北60度線をつくることから、生駒山北の峰と上田原の住吉神社も東北60度線をつくっていると考えたくなる。すくなくとも、住吉神社の裏山とは方位線をつくっているということが出来るであろう。この裏山は、矢田坐久志玉比古神社ともより正確な方位線をつくる。

  生駒山頂―南田原の住吉神社(W0.148km、1.77度)の東北60度線
  南田原の住吉神社―生駒神社(W0.048km、0.64度)の南北線
  生駒山頂―生駒神社(S0.056km、1.46度)の東西線
  生駒神社―標高470m強の峰(E0.060km、1.07度)の西北30度線
  上田原の住吉神社―南田原の住吉神社(0.035km、2.71度)の西北60度線
  石上神宮―上田原の住吉神社(W0.060km、0.18度)の西北45度線
  矢田坐久志玉比古神社―南田原の住吉神社(E0.131km、0.96度)―上田原の住吉神社(E0.096km、0.62度)の西北60度線
  生駒山北の峰―上田原の住吉神社(E0.104km、1.36度)の東北60度線

 矢田坐久志玉比古神社は信貴山と東北30度線をつくる。この方位線が興味深いのは、信貴山の東北30度線上には奈良市石木町の登弥神社が位置しており、登弥神社には矢田坐久志玉比古神社から分霊との説がある。矢田坐久志玉比古神社と登弥神社にも、もともと方位線的関係があったとも考えられ、登弥神社は長弓寺伊弉諾神社とも西北60度線をつくる。

  信貴山―矢田坐久志玉比古神社(W0.131km、0.89度)―登弥神社(W0.220km、1.224度)の東北30度線
  矢田坐久志玉比古神社―登弥神社(W0.089km、2.64度)の東北30度線
  長弓寺伊弉諾神社―登弥神社(W0.160km、1.26度)の西北60度線

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磐船神社と比売許曾神社

 かって、大阪城すなわち石山あたりに磐船神社があったことは、勝井純『神武天皇東遷御聖蹟考』に記されていたが、大阪城の地にはその他にも高津宮があった。高津宮は清和天皇が仁徳天皇の旧都を尋ねさせ、貞観8年(866)社殿を創建したといわれ、その後崇徳天皇の天治元年(1124)石山より現在の東高津宮神社の地に遷座し、天正11年(1581)秀吉により現在地に遷されたといわれる。現在の高津宮の地には、今は本殿の背後に地主神として鎮座している比売許曾神社がもともとあったという。この比売許曾神社の祭神はアジスキタカヒコネの妹の下照比売である。古事記では比売許曾神社の祭神は阿加流比売となっているが、式内社に比売許曾神社があり、式内社比売許曾神社の祭神は延喜以前から下照比売とされていたようである。『日本の神々 3』で大和岩雄氏は、平安時代には難波周辺の帰化人達は比売許曾伝説を忘れ、比売許曾の社の神は女神であるということくらいしか分からなくなっており、そこに女神ならそれは下照姫だろうというよな者が出てくると、皆もそうかと思い込んでしまったという説にたいして、女神で一般的なのは豊玉姫や玉依姫で、下照姫を祭神とする神社は数社しかないのだから、下照姫に変わったのは、それなりの理由があってのことであろうとする。
 高津宮の比売許曾神社は磐船社ともいわれていたらしい。『和漢三才図会』に、高津社は下照姫命が始めて天盤船に乗って地上に降られた場所で、その船の祠を磐船大明神と号するが、磐船社は東生郡にあるとするが今はない、とあるという。風土記逸文に「難波の高津は、 天稚彦が天くだったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐船に乗ってここまで来た。天の磐船が泊まったというわけで、高津という」とある。『日本の神々 3』の比売許曾神社の項によれば、『摂津名所図会』には、下照比売命について、「大己貴命命の御女にして、天稚彦命の妻、味耜高彦命の妹なり。亦の名、稚国玉媛、或は天探女とも号す。神代に天磐船に駕り給ひ、此地に天降り給ふにより、高津と号しける。」と記すという。式内社の比売許曾神社は、一般的には大阪市東成区東小橋の比売許曾神社ではないかといわれているが、そのもともとの鎮座地である産湯稲荷神社に隣接していた「味原池」も、天探女が天の磐船に乗って天降られた霊地とされていたという。ヒメコソ神社が磐船神社といわれていた例は九州にもあり、媛社神と織女神を祭神とする福岡県小郡市大崎の媛社(ひめこそ)神社は、江戸時代に奉納された鳥居に磐船神社の名が見え、祭神は饒速日命とされているという。
 大阪城すなわち石山の地にも比売許曾神社あるいは下照比売が祀られていた可能性もある。『和漢三才図会』によれば、そもそも仁徳天皇がここに高津宮を営んだのは、下照比売が天磐船によって天降った旧跡の地だったからだとあり、清和天皇が仁徳天皇の旧都を尋ねさせて大阪城に高津宮を創建したとすれば、大阪城の地こそ下照比売が天磐船によって天降った場所ということにもなるわけである。勝井純『神武天皇東遷御聖蹟考』の磐船神社は『和漢三才図会』にいう磐船大明神のことなのかもしれない。
 もし大阪城のあたりに下照比売と関係する神社があったとすると、阿遅鋤高日子根神を祭神とする阿遅速雄神社とほぼ東西線上に並んでいたことになる。これは、生駒山の北の峰の東西線上に下照比売の神社と阿遅速雄神社が鎮座していたということであろう。その生駒山北の峰の東西線上には坐摩(いかすり)神社の旧鎮座地も位置している。坐摩神社は秀吉の大阪城築城の際、東区渡辺町の現在地に移転させられてしまったのであるが、旧鎮座地は東区石町一丁目の現在御旅所となっている場所といわれ、「神功皇后の鎮座石」と呼ばれる巨石がある。坐摩神社も出雲神族と関係する神社と考えられる。坐摩神社の祭神は、生井神、福井(栄井)神、綱長井(津長井)神、阿須波神、波比祇神で前の三神は井泉神、後の三神は庭・敷地を守る宅神とされる。宮廷でも、これらの神は坐摩巫により祀られ、他の巫が「事に堪へる庶女を取りて、これに充てる」とあるのに、坐摩巫のみが「都下国造氏の童女七歳以上の者を取りて、これに充てる」と『延喜式』にあるという。大年神の子供に庭津日神・阿須波神・波比伎神があり、一方出雲の五井神社の伝承では、大国主の子を身ごもった八上姫は、大国主に会いに出雲大社へ行かれたが、正妻須世理姫の立場を慮り、会わずに引き返され、神奈火山の麓直江の里まで帰られた時産気づきやがて玉のような御子を挙げられた。そこで三つの井戸(生井、福井、綱長井)を順次掘り御子を産湯させてから木の俣に預け、母神のみ因幡へ帰られたが、御子を木俣神または御井神というとある。生井神、福井(栄井)神、綱長井(津長井)神は八上比売とその子の木俣神と関係する神ということになるわけである。鳥取県河原町曳田に八上比売を祭神とする八上売沼神社がある。河原町曳田は八上比売の根拠地と考えられるが、宇佐氏の伝承では隠岐を放棄して裸一貫になってしまった菟狹族が、大国主の好意で土地を与えられた場所でもある。八上売沼神社と生駒山の北の峰が西北30度線をつくる。これは、八上売沼神社の30度線上に生駒山があるということなのかもしれないが、その北の峰の東西線上に八上比売と関係する坐摩神社旧鎮座地が位置しているのである。

  生駒山北の峰―阿遅速雄神社(S0.008km、0.05度)―大阪城三角点(S0.122km、0.52度)―坐摩神社旧鎮座地(N0.084km、0.33度)の東西線
  八上売沼神社―生駒山北の峰(W0.006km、0.00度)の西北30度線

 大神神社と高鴨神社が東北45度線をつくっていたが、坐摩神社が出雲神族と関係する神社だったことは。坐摩神社旧鎮座地と大神神社が西北30度線をつくり、高鴨神社と西北60度線をつくることからもいえるかもしれない。また、その南北線上に下照比売を祭神とする高津宮の比売許曾神社があったわけである。

  坐摩神社旧鎮座地―大神神社(E0.045km、0.07度)の西北30度線
  坐摩神社旧鎮座地―高鴨神社(W0.243km、0.39度)の西北60度線
  坐摩神社旧鎮座地―高津宮(E0.025km、0.64度)の南北線

 水谷慶一『続知られざる古代』によれば、坐摩神社のあたりは古くはトガノといわれたが、これはトキノが訛ったもので、朝鮮の『三国遺事』に延烏郎・細烏女夫婦が岩に乗って日本に行ってしまったせいで、新羅の日月の光が失ってしまったので、二人を国に帰らせようと使いを送ったが、延烏郎は細烏女の織り上げたしろ絹を代わりに渡し、これをもって帰って天神を祭るがいいだろう、といったので、その言葉の通り天神を祭ると日月の光がもとのように輝いたとあり、その天神を祭った場所が迎日県あるいは都祈野と呼ばれたが、都祈は日の出を意味する韓国語のドジを漢字の音を借りて表記したもので、都祈は漢音で「トキ」、呉音で「ツゲ」で、坐摩神社宮司の渡辺氏は数代前まで都下(つげ)姓を名乗っていたという。古事記で難波の比売碁曽の社の祭神とされる阿加流比売神は、新羅の王子天之日矛の妻で、ある日「吾が祖の国に行かむ」といって、小舟に乗って難波に来た、とある。大和岩雄氏は、「オオヒルメムチ」はアマテラスという呼称の前の原初的性格を示しており、「大日女」の名から連想されるのは、朝日の光によって「日の御子」を懐妊した、大隅八幡宮の縁起にある「大比留女」で、この大比留女の説話は、新羅の阿具沼のほとりで昼寝をしていた女に「日の輝虹の如く、その陰上を指し」、女は妊娠して赤玉を生んだが、この赤玉は女となって新羅の王子天之日矛の妻となったという、日光感精説話と共通するという。坐摩神社周辺は太陽・日神信仰と強く結びついた地ということになるが、古事記に仁徳天皇の御世、ト寸(キ)河の西に高い樹があり、その影は朝日に当たれば淡路島におよび、夕日に当たれば高安山をこえたとあり、ト寸(キ)河は高石市取石の等乃伎神社の側を流れる川のことともされる。水谷慶一『続知られざる古代』によれば、ト寸河や等乃伎神社も「都祈」に由来しており、坐摩神社から見ると冬至の太陽が、等乃伎神社から見ると夏至の太陽がそれぞれ高安山から昇るという。大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』ではさらに坐摩神社と等乃伎神社を結んだ直線上に住吉大社があり、住吉大社の東西線上に高安山が位置している図が掲載されている。住吉大社がより正確に東西線をつくるのは信貴山である。また、等乃伎神社と高安山は東北30度線をつくるが、坐摩神社からの西北30度線を考えると、高安山よりやはり信貴山の方が方位線に近い。『住吉大社神代記』には、坐摩の神が住吉の大神の御魂と記されているという。住吉大社と坐摩神社は密接な関係があるということになるが、坐摩神社は信貴山の東西線上に住吉大社、西北30度線上に坐摩神社が鎮座していたということになるのではないだろうか。住吉大社は葛城山と西北45度線をつくる。そうすると、坐摩神社も葛城山の西北60度線上に鎮座しているということになるのかもしれない。ただ、葛城山と高鴨神社は西北60度線をつくるとはいえない。
 宮崎県の皇子原神社と高千穂の峰が東北30度線をつくるが、皇子原神社から見た冬至の太陽が二子石のあるほうの峰に沈むことから、30度線と夏至・冬至と結びつく二至線は異なるものではないかとしたが、坐摩神社や等乃伎神社あるいは住吉神社の太陽祭祀が高安山と結びつき、信貴山と住吉大社・坐摩神社の方位線が信貴山と結びついているとするなら、これもまた方位線が太陽信仰の二至二分線とは関係ないことを示しているのかもしれない。

  住吉大社―信貴山(N0.045km、0.16度)の東西線
  坐摩神社―信貴山(W0.308km、1.07度)の西北30度線
  葛城山―住吉大社(E0.028km、0.07度)の西北45度線
  葛城山―坐摩神社(W0.429km、0.82度)の西北60度線

 住吉大社からの東北30度線は、戦前には注連縄の掛けられた巨岩を西側から行者の拝む姿がみられたという草香山山中の哮ヶ峯近くを通るが、等乃伎神社からの東北45度線もやはりその哮ヶ峯をとおるので、草香山山中の哮ヶ峯の方位線上に住吉大社・等乃伎神社があると考えるなら、住吉大社と哮ヶ峯の東北30度線も夏至の日の出と結びついた二至線のみとはいえないわけである。矢田坐久志玉比古神社も信貴山・生駒山北の峰とそれぞれ30度線をつくっていたが、葛城山の東北45度線上に石上神宮があり両社に共通する物部という視点からみるならば、やはり夏至・冬至の日没と関係した二至線と結びつくとは必ずしもいえないわけである。葛城山からの東北30度線上には耳成山や檜原神社がある。檜原神社は天照と関係の深い、太陽の道でも太陽信仰と結び付けられた神社であるが、檜原神社が生駒山北の峰と西北45度線を作ることをみると、それも必ずしも二至線をのみ意味しているわけではない。檜原神社は長弓寺伊弉諾神社とも西北60度線をつくっている。信貴山からの東北30度線とその西北60度線の交わる所に登弥神社があるともいえるわけである。登弥神社はやはり太陽の道にある天神山と西北45度線をつくっている。また、耳成山と布留岳が東北60度線をつくる。

  草香山哮ヶ峯±―住吉大社(W0.071km、0.22度)の東北30度線
  草香山哮ヶ峯±―等乃伎神社(W0.212km、0.44度)の東北45度線
  葛城山―石上神宮(W0.091km、0.24度)の東北45度線
  葛城山―耳成山(E0.034km、0.15度)―檜原神社(E0.057km、0.18度)の東北30度線
  生駒山北の峰―檜原神社(W0.167km、0.41度)の西北45度線
  長弓寺伊弉諾神社―檜原神社(E0.080km、0.20度)の西北60度線
  登弥神社―天神山(E0.045km、0.14度)の西北45度線
  布留岳―耳成山(W0.022km、0.12度)の東北60度線

 また、等乃伎神社の東西線上に二上山があり、西北30度線上に金剛山がある。しかし、二上山・金剛山の大和側をみると、二上山と春日山が東北45度線、金剛山と春日山が東北60度線をつくることから、西側の等乃伎神社との関係も二至・二分線と方位線は別物で、ただそれが重なっていると考えるべきかもしれないわけである。
 二上山は住吉大社とも西北30度線、阿遅速雄神社と西北60度線をつくる。住吉大社にとって一番重要なのは二上山からの方位線なのかもしれない。住吉大社は神功皇后が筒男三神の和魂を大津渟中倉長峡に鎮際されたのに始まるとされるが、神功皇后とも関係する出石神社の西北60度線上に住吉大社が位置している。また、出石神社の西北45度線上には春日山ではないが、春日大社・東大寺大仏殿があった。古事記の応神天皇の条に秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫の話が載っている。天之日矛が持ってきた八種の玉津寶、これは伊豆志の八前の大神なり、と記した後、この神の娘の伊豆志袁登賣神をめぐって兄の秋山の下氷壮夫と弟の春山の霞壮夫が競い、弟の春山の霞壮夫が母が一宿の間に藤葛で織った衣褌を服、弓矢を持って伊豆志袁登賣の家に遣わすと衣服と弓矢は藤の花になり、その弓矢を厠に繋けると、伊豆志袁登賣はそれをあやしいと思って持ち帰り、母屋に入るやいなや婚ったというものである。大物主神の丹塗矢伝説と通じる話であり、これから藤が竜蛇神と結びつくこともわかる。春山の霞壮夫という名であるが、霞は春日山と深く結びついた言葉なのである。吉村貞司『原初の太陽神と固有暦』によれば、万葉集では御蓋山は月と結びついているのに、春日をうたったもののうち目立ったものを集めると、霞とふかく結ばれており、霞を歌ったものも春日山が七種ときわめて多く、カスミは春のシンボル、カスガは朝の代名詞で、春日の土地の原初の神も太陽を迎える神、太陽神だったとする。万葉歌人には年さえ改ったなら、その日から霞がたなびくという偏執じみた信念があり、霞を新しい年のしるしとしたのは、外来のものではなく、伝統的な意識によるものであったという。そうすると春山の霞壮夫の話も春日山や春日神社一帯と関係していた可能性もあるのではないだろうか。もしそうだとすると、二上山からの方位線と出石神社からの方位線の交わるところに天之日矛と結びつく場所があるということにもなるわけである。

  等乃伎神社―二上山雌岳(N0.140km、0.40度)の東西線
  等乃伎神社―金剛山(E0.125km、0.31度)の西北30度線
  春日山(花山)―二上山雄岳(E0.084km、0.20度)の東北45度線
  春日山(花山)―金剛山(W0.228km、0.39度)の東北60度線
  二上山雄岳―住吉大社(W0.086km、0.26度)の西北30度線
  二上山雄岳―阿遅速雄神社(W0.120km、0.33度)の西北60度線
  出石神社―住吉大社(E0.797km、0.41度)の西北60度線

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鳥見山

 橿原宮での即位した神武天皇は、神武四年霊畤(まつりのにわ)を鳥見山の中に立てて皇祖天神を祭ったという。その後は三十一年腋上のホホマの丘で国見をしたという記事に飛び、鳥見山の中に霊畤を立てて皇祖天神を祭ることで神武東征は一段落したということになる。鳥見の山の中とは、鳥見山の山中とも鳥見地区の山の中の意味ともいわれているが、多くの推定地・候補地がある。そのなかで一番有力なのは、桜井市の鳥見山であるが、榛原町の鳥見山も有力視されている。この二つの鳥見山で方位線的にまず目につくのは、両方とも磐船神社からの方位線上に位置していることである。桜井の鳥見山は磐船神社と西北60度線、榛原の鳥見山は西北45度線をつくっている。磐船神社と榛原の鳥見山の方位線上には長弓寺伊弉諾神社が位置していることになるわけである。さらに、桜井の鳥見山は石切剣箭命神社と西北45度線、榛原の鳥見山は石切神社の上の社と西北30度線をつくる。このうち,磐船神社・桜井の鳥見山・石切剣箭命神社は方位線三角形をつくっていることになる。谷川健一『白鳥伝説』によれば、神武東征説話の第一の特徴はことごとく物部氏に関係していることであり、第二の特徴は金属精錬にかかわる記事がすこぶる多いことであるという。鳥見山中の霊畤で皇祖天神を祭ったことと饒速日命との関係は触れられていないが、饒速日に関係する神社と霊畤比定地の鳥見山とは方位線的に深く関係しているわけである。

  磐船神社―桜井の鳥見山(W0.225km、0.42度)の西北60度線
  榛原の鳥見山―長弓寺伊弉諾神社(W0.529km、1.13度)―磐船神社(W0.374km、0.68度)の西北45度線
  桜井の鳥見山―石切剣箭命神社(W0.029km、0.06度)の西北45度線
  榛原の鳥見山―石切剣箭命神社上の社(W0.284km、0.55度)の西北30度線

 磐船神社と榛原の鳥見山の方位線近くにもう一つ霊畤の地とされる鳥見山がある。乾健治氏の『鳥見山傳称地私考』(要旨がHP「神奈備にようこそ」http://kamnavi.jp/log/tomiyama.htmにのっている)によれば、奈良県山辺郡丹波市町大字滝本の小字丸尾という所の霊畤伝説地に磐岩、磐座があり、これは頂上より少し下がった所にあり、その頂上は矢倉王岳といい、最高峰(頂上)は海抜496.6mで鳥見山(桃尾山トウビ)といい山の中に小字大国見というのがあり、鳥見山は布留川と高瀬川との分水嶺をなすという。付属の略図では鳥見山は桃尾の滝の北に位置しているようであるが、そのあたりには標高496.6mの山はない。ただ、標高500mほどの大国見山があり、それが鳥見山ということらしい。磐船神社や榛原の鳥見山とは方位・方向線をつくるとみなしていいのではないだろうか。大国見山すなわち滝本の鳥見山と長弓寺伊弉諾神社との方位線はそれだけではむずかしいかもしれない。ただ、長弓寺伊弉諾神社は桃尾の滝と西北45度線をつくっていたが、大国見山と桃尾の滝がかって一体となった信仰体系をつくり、一つの霊性・地霊のもとにあったとするなら、磐船神社・長弓寺伊弉諾神社・大国見山と桃尾の滝・榛原の鳥見山を含む強力な方位線が考えられるかもしれない。同じように、桃尾の滝とボタンザキが西北30度線をつくっていたが、ボタンザキ・北嶺巨石遺構などを含む草香山も一つの霊性・地霊のもとにあり、この二つの地霊が西北30度線で結ばれているということなのかもしれない。
 立命館大学古代史探検部巨石班(『東アジアの古代文化』1981年夏号)によれば、京都府笠置町の笠置山と神野山を結ぶ直線上には、確率上ほとんどおこり得ない状態で、点々と奇妙な巨石が並ぶという。笠置山は奇岩怪石の修験の霊地であるが、笠置山側から見ていくと、高さ3mほどの露岩に仏像が線刻された阿対地蔵、白っぽく申し合わせたように平べったい三つの巨石、天然のものとは思えない10cmの間隔で向かい合う前立磐・後立磐など四つの巨石を御神体とする天磐立神社と、そこから数十メートル奥に入ったところにある、柳生石舟斎が天狗を一刀のもとに切ったが、次の日には石にかわっていたと伝えられる、真中から見事に割れた一刀石、牛が峰山頂付近ある高さ20mほどの垂直の一枚岩である桝型岩などである。笠置山と神野山それに桝型石は動かしようもないが、その他の巨石については、阿対地蔵や三つの巨石はともかく、天磐立神社の巨石や一刀石は偶然のものとは思えないという。方位線的にいうと、天磐立神社・一刀石や桝型磐は笠置山と西北60度線をつくり、笠置山と関係するようである。神野山に関しては、神野山の東北麓に鍋倉渓という、渓といっても周囲とほとんど高低さがなく、誰かがここに黒い石を集めたような幅20m長さ650mにわたって黒い岩石が累々と続く場所があり、伝説では神野山の天狗と伊賀青葉山の天狗が争い、石や芝を投げあったため、青葉山ははげ山となり、神野山は鍋倉谷に黒い岩石が積ったのだという。笠置山からの西北60度線が鍋倉渓の中ほど近くを通る。
 笠置山は御蓋山と東北45度線をつくっていたが、一刀石は春日山と東北30度線をつくり、笠置山と一刀石の方位線は春日山・御蓋山と関係の深い方位線である。一方、桝型岩は北嶺巨石遺構と東西線をつくり、大国見山と東北45度線をつくる。大国見山一帯と草香山一帯が方位線で結ばれているのではないかとしたが、少なくとも北嶺巨石遺構・桝型岩・大国見山は方位線で結ばれており、大国見山山頂近くにも磐座があることから、これは太古の巨石方位線網だったということが考えられる。三輪山山頂にも磐座があるから、その方位線網は三輪山まで拡張することができるわけである。笠置山は久美浜町の兜山を基点として大江山・元伊勢皇大神宮の神体山ともいわれ、ピラミッドともいわれる日室山・出雲大神宮・元伊勢滝原宮などが並ぶ西北45度線の一角を占めていた。このうち、出雲大神宮は榛原の鳥見山と西北60度線をつくり、笠置山が榛原の鳥見山と南北線をつくるので、出雲大神宮・笠置山・榛原の鳥見山が方位線三角形をつくっている。出雲大神宮の西北60度線とは真名井神社の西北60度線ということでもあるが、その方位線上にあるとした御蓋山より榛原の鳥見山の方が正確に60度線をつくる。ただ、御蓋山も榛原の鳥見山も真名井神社・出雲大神宮の西北60度線上にあり、出雲大神宮・笠置山・御蓋山の方位線三角形と出雲大神宮・笠置山・榛原の鳥見山の方位線三角形のどちらも成り立っていると考えたい。

  榛原の鳥見山(W0.275km、1.87度)―滝本の標高500m強の山―長弓寺伊弉諾神社(W0.804km、2.49度)―磐船神社(W0.650km、1.63度)の西北45度線
  笠置山―一刀石(E0.023km、0.40度)―桝型岩(E0.075km、0.56度)の西北60度線
  春日山―一刀石(W0.204km、1.15度)の東北30度線
  桝型岩―北嶺巨石遺構(N0.014km、0.03度)の東西線
  桝型岩―大国見山(E0.021km、0.09度)の東北45度線
  榛原の鳥見山―出雲大神宮(W0.232km、0.20度)―真名井神社(W0.875km、0.37度)の西北60度線
  笠置山―榛原の鳥見山(W0.206km、0.52度)の南北線
  
 奈良市石木町の登弥神社にも霊畤伝承がある。登美神社は長弓寺伊弉諾神社と西北60度線をつくるとしたが、大国見山からの西北30度線方向にも位置している。

  大国見山―登弥神社(E0.236km、1.14度)の西北30度線

 奈良市中町の大倭神宮にも霊畤伝承があるという(http://kamnavi.jp/as/ooyamato.htm)。大倭神宮は生駒山頂の東西線上に位置しており、矢田坐久志玉比古神社と南北線をつくり、矢田坐久志玉比古神社は信貴山と東北30度線をつくっていたが、大倭神宮も信貴山の東北45度線上に位置している。これは、信貴山からの方位線上に大倭神宮と登弥神社という霊畤伝承が位置していることになるわけである。

 大倭神宮―生駒神社(N0.031km、0.43度)―生駒山頂(N0.087km、0.79度)の東西線
 大倭神宮―矢田坐久志玉比古神社(W0.041km、0.81度)の南北線
 大倭神宮―信貴山(W0.046km、0.26度)の東北45度線
  
 丹生川上神社中社近くの東吉野村萩原も霊畤比定地で石碑も立てられている。霊畤が鳥見山の山中に設けられたとすると、萩原集落そのものが山の上にあるが、その集落の西にある標高685.5mの山が鳥見山と考えられる。これまでの鳥見山は饒速日・物部氏と関係が深かったのに対して、東吉野村萩原では出雲神族の影か色濃くなる。標高685.5mの山の方位線をみると、西北45度線上に大神神社、西北30度線上に香久山があり、またその東西線方向に高鴨神社、南北線方向に三輪の奥宮と称する神御子美牟須比命神社がある。ただ、饒速日や物部氏との関係がまったくないわけではなく、西北45度線上には生駒山山頂もあり、西北60度線上には布留岳がくる。鳥見山はトミ山で、トミはトミノ長髄彦や出雲神族の伝承を伝えてきたのがトミ氏であるなど、出雲神族と結びついた名前である。その鳥見山が饒速日や物部氏と結びつくのは、もともと出雲神族の聖地であった場所が饒速日族に奪われたり、出雲神族の聖地に方位線的に対峙するように饒速日族の聖地がつくられたからではないだろうか。饒速日族は出雲神族の聖地ばかりでなく、尾張氏系の聖地も奪ったのかもしれない。矢田坐久志玉比古神社は、饒速日が降臨に先立って落ちた所を住居と定めようと思い、三本の矢を射た内の二の矢が落ちた所という。これは、伊去奈子嶽に至った天香語山が母の天道日女命に弓矢を授けられ、放った矢が落ちた場所に神籬を建て豊受大神を遷し祭った、という海部氏の伝承と似ている。矢田坐久志玉比古神社はもともと海部氏の天香語山と結びつく聖地で、その後物部氏がそれを奪ったので、似たような伝承が残ったのではないだろうか。石上神宮の地にしても、祭られているのは高倉下の剣であるが、高倉下について海部氏の伝承では天香語山の子で天村雲の弟となっており、尾張氏・海部氏系の人物である。天孫本紀では饒速日が天道日女を妃として天上でもうけた天香語山が地上に降ってからの名とされるが、饒速日が地上に天降ってから御炊屋姫に産ました物部系の祖の宇摩志信眞冶とは区別している。石上神宮の地も、もともとは尾張氏・海部氏と関係の深い場所だった可能性もあるわけである。

  標高685.5mの山―大神神社(W0.084km、0.27度)の西北45度線
  標高685.5mの山―香具山(W0.138km、0.43度)の西北30度線
  標高685.5mの山―高鴨神社(S0.563km、1.24度)の東西線
  標高685.5mの山―神御子美牟須比命神社(W0.257km、1.93度)の南北線
  標高685.5mの山―生駒山頂(E0.445km、0.62度)の西北45度線
  標高685.5mの山―布留岳(W0.063km、0.15度)の西北60度線

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熊野から宇陀への方位線

 孔舎衞坂の戦いで長髄彦軍に五瀬命が重傷を負わされた神武軍は、熊野に迂回する途中、古事記では紀国の男の水門で五瀬命が亡くなり、竈山に葬ったとあり、日本書紀でも紀国の竈山で亡くなりそこに葬ったとある。ただ、紀では男の水門は茅渟の山城水門(雄水門)と書かれており、和泉国とされている。紀ではさらに、名草邑で名草戸畔を誅したとある。名草邑は和歌山市西南の名草山近辺が推考地に指定されているが、名草山は丹後の真名井神社の南北線と阿波の大麻山の東西線が交わる場所であり、出雲神族という視点から見た場合、無視できない場所ということになる。大麻山と大麻比古神社・名草山・八剣山が東西線をつくり、さらに諏訪大社の守屋山につながるということなのかもしれない。名草山についてはさらに桜井の鳥見山と東北30度線をつくるが、その方位線上には金剛山があり、金剛山は春日山と東北60度線をつくっていた。また、住吉大社が東北60度線に位置している。

  名草山―真名井神社(E0.244km、0.09度)の南北線
  名草山―大麻山(S0.212km、0.19度)の東西線
  名草山(E0.267km、0.30度)―金剛山―桜井の鳥見山(W0.008km、0.02度)の東北30度線
  名草山―住吉大社(W0.093km、0.10度)の東北60度線

 竈山の五瀬命陵であるが、香久山と東北30度線をつくる。ただ、五瀬命陵について森浩一『日本神話の考古学』では延喜式に名草郡にあって兆域東西一町、南北二町とあり、前方後円墳の可能性が強く、名草郡で墳丘の主軸が南北で、しかも九州との何らかのかかわりのある古墳として井辺八幡山古墳と大谷古墳があるという。このうち、大谷古墳は律令時代に何者かによって管理され、祭祀していた気配は知られていないが、井辺八幡山古墳のくびれ部にある造り出し部からわずかながら律令時代の土器が出土していて、このころに祭祀がおこなわれていたことがわかるという。現在の五瀬命陵が延喜式の頃の五瀬命陵かどうかわからないわけであるが、もし、現在の五瀬命陵が延喜式のころからの五瀬命陵だとしても、東北30度線は榛原の鳥見山とするべきかもしれない。そうすると、名草山が桜井の鳥見山、五瀬命陵が榛原の鳥見山と東北30度線をつくるわけであるが、榛原の鳥見山に注目する理由はそれだけではない。茅渟の山城水門(雄水門)は泉南市男里の天神の森に比定されており、現在の男神社の元宮で北へ1キロほどのところにある摂社浜宮が鎮座している。また、紀国の男の水門は和歌山市小野町の水門吹上神社にその伝承がある。榛原の鳥見山と長弓寺伊弉諾神社・磐船神社は西北45度線をつくるとしたが、水門吹上神社の東北45度線方向に生駒山・長弓寺伊弉諾神社があり、男神社摂社浜宮の東北45度線方向に磐船神社が位置しているのである。榛原の鳥見山は真名井神社とも西北60度線をつくっていたのであるから、五瀬命陵も香久山ではなく榛原の鳥見山と方位線をつくるとみなすべきかもしれないわけである。ただ、香久山も熊野の神武伝承との関係でいうと無視できない場所となっている。
 また、男神社摂社浜宮は大鳥神社と東北45度線をつくると考えるべきかもしれない。その場合も、大鳥神社は八剣山と西北30度線をつくっていたのであるから、八剣山・大麻比古神社・出雲大神宮・榛原の鳥見山という方位線ネットワークとの関係が考えられる。そして大鳥神社は天神山と東西線を作っていたわけであるが天神山は榛原の鳥見山と五瀬命陵の東北30度線上に位置していたということになる。大鳥神社と天神山の東西線は太陽の道であり、檜原神社も鎮座しており、檜原神社は長弓寺伊弉諾神社と西北60度線をつくっていた。これらは出雲神族と饒速日にかかわる大きな方位線網をつくっており、その中に組み込む形で五瀬命伝承がつくられたのかもしれない。水門吹上神社は五瀬命陵とも西北45度線をつくる。また、名草山とも西北60度線をつくると考えたい。

  五瀬命陵―香久山(W0.183km、0.16度)の東北30度線
  五瀬命陵―榛原の鳥見山(E0.165km、0.12度)の東北30度線
  水門吹上神社―生駒山(W1.723km、1.45度)―長弓寺伊弉諾神社(W1.753km、1.35度)の東北45度線
  男神社摂社浜宮―磐船神社(W1.169km、1.16度)の東北45度線
  男神社摂社浜宮―大鳥神社(E0.337km、0.74度)の東北45度線
  五瀬命陵―水門吹上神社(W0.098km、1.13度)の西北45度線
  名草山―水門吹上神社(E0.216km、2.07度)の西北60度線
  
 古事記では、その後神武軍は熊野村に至り、大熊が出てきて気を失うが、高倉下が授けられた建御雷が中つ国を平定したときの横刀を神武に献じると、神武軍は正気を取り戻し、熊野の山の荒ぶる神は自ら切り殺され、そこから八咫烏の案内で吉野河の川尻に出て、さらに宇陀に進んだとされる。日本書紀ではさらに詳しく、名草邑で名草戸畔を誅した神武軍は、狭野を越えて熊野の神邑に到り、天磐楯に登る。その後再び船に乗るが、稲飯命・三毛入野命は自ら入水してしまい、兄弟を失った神武は熊野の荒坂津(亦の名丹敷浦)で丹敷戸畔を誅すが、神が毒気を吐いて気を失ってしまう。そこに高倉下が武甕雷神の剣を献じたので目を覚まし、八咫烏の案内で大伴氏の遠祖日臣命(道臣命)・大来目を帥いて菟田の穿邑に出たとされる。
 熊野の神邑は新宮のあたりといわれ、阿須賀神社には大正時代に建立された神武天皇熊野神邑顕彰碑がある。また、天磐楯はゴトビキ岩のある神倉神社のことではないかとされている。新宮を熊野の神邑とすると、その一帯は男神社摂社浜宮からの西北45度線方向にあたるが、男神社摂社浜宮と阿須賀神社やゴトビキ岩が方位線をつくるとするには躊躇するものがある。玉置山についても、八咫烏に先導された神武天皇が兵を休め、神宝を置いて勝利を祈ったと伝えられ、物部の十種神寶は石上神宮ではなく玉置神社にあったとする伝承があるそうであるが、水門吹上神社からの西北30度線方向に位置しているが、はたして方位線関係があるのかどうかは微妙なところである。

  男神社摂社浜宮―阿須賀神社蓬莱山(W2.022km、1.19度)の西北45度線
  水門吹上神社―玉置神社(E1.091km、0.90度)の西北30度線
 
 神武が丹敷戸畔を誅した熊野の荒坂津(亦の名丹敷浦)であるが、昔は荒坂村といわれたことから三重県熊野市二木島町とも、丹敷浦とあることから三重県紀勢町錦ともする説がある。しかし、日本書紀は荒坂津(亦の名丹敷浦)はそれら二つの場所をあたかも一つの場所のように記したのではないだろうか。というのも、男水門が日本書紀では茅渟の山城水門(雄水門)とされ、古事記では紀国の男の水門と別々の場所になっているが、泉南市の男神社摂社浜宮からの西北30度線方向に二木島があり、和歌山市の水門吹上神社や五瀬命陵からの東西線方向に錦が位置しており、和泉と紀国の二つの男(雄)水門に対応するように、二木島と錦があるからである。和泉と紀国の二つの水門が同じ名の男(雄)水門とされたのに対して、熊野では異なる名の所が同じ場所とされてしまったのではないだろうか。錦には神武山と呼ばれる山があり、山頂には神武さんの腰掛け石と呼ばれる石があるらしいが(http://www.webmie.or.jp/%7Ekisei-t/history.html)、その山がどの山なのか分からないので、とりあえず錦のポイントとしては現在の錦神社としておく。錦神社は武速須佐之男命を祭神とするが、大正の頃向井ヶ浜近くから現在地に移されたという。 三重県熊野市二木島町付近には、神武天皇が上陸した場所といわれる楯ヶ崎や、湾の入り口を挟むように東西線上に並ぶ神武の兄弟の稲飯命を祭る室古神社と三毛入野命を祭る阿古師神社があるが、男神社摂社浜宮からの西北30度線は室古神社近くを通る。室古神社は八剣山とも西北45度線をつくっている。

  水門吹上神社―錦神社(S1.761km、0.89度)の東西線
  男神社摂社浜宮―室古神社(E1.408km、0.82度)の西北30度線
  八剣山―室古神社(E0.092km、0.14度)の西北45度線
  
 新宮と二木島と錦の関係であるが、阿古師神社は錦神社と東北60度線をつくるが、これはもしかしたら錦の神武山と阿古師神社・室古神社あるいは楯ヶ崎のどれかが東北60度線をつくるということなのかもしれない。また、阿古師神社は花の窟と東北30度線をつくるが、花の窟はゴトビキ岩と東北60度線をつくっていた。

  阿古師神社―錦神社(W0.278km、0.45度)の東北60度線
  阿古師神社―花の窟(W0.046km、0.21度)の東北30度線

 阿古師神社から西北60度線を引くと神武天皇が上陸した場所といわれる楯ヶ崎があるが、この西北60度線を逆に延長すると草香山があり、草香山の孔舎衞坂の戦いで長髄彦軍に敗れた神武軍は、熊野に迂回して、草香山の西北60度線上にある楯ヶ崎に上陸したということになるわけである。室古神社の方は生駒山頂と西北60度線をつくる。阿古師神社の西北60度線はより正確には香久山とつくるが、香久山は草香山とも西北60度線をつくるとすれば、三輪山・香久山・草香山が方位線三角形をつくるわけである。熊野との関係で香久山が無視できないとしたが、香久山の西北30度線は錦を通る。

  北嶺巨石遺構―香久山(E0.399km、0.89度)―阿古師神社(E0.451km、0.27度)の西北60度線
  生駒山頂―室古神社(W0.191km、0.12度)の西北60度線
  香久山―錦神社(W0.091km、0.08度)の西北30度線

 孔舎衞坂の戦いから熊野への迂回ということでは、二木島すなわち荒坂津が方位線的に重要と言うことになるが、熊野から宇陀への行軍ということになると、熊野の神邑すなわち新宮周辺が重要になる。神武が宇陀に入ったとき、そこには兄猾・弟猾という兄弟がいて、弟は神武に恭順したが兄は逆らい、自分の作った仕掛けにより死んでしまったという。その屍を斬って血が流れたとこを血原といい、また、その後弟猾は酒宴をはって神武軍をねぎらい、そのとき神武は「菟田の 高城に 鴫羂張る」と久米歌を歌ったという。菟田野町宇賀志の入り口には菟田穿邑顕彰碑が建ち、菟田野町史によると、宇迦斯兄弟を祀る宇賀(うか)神社は神武が八咫烏の先導によりたどりついた穿邑(むら)で、神社の前の宇賀志川に架かる橋は血原橋が斬られた兄猾の血が流れた所とされる(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jimukita/jimkita5.html)。宇賀志の隣の佐倉には桜実神社があり、そこら辺が久米歌に歌われた菟田の高城の地といわれ、桜実神社の西北に「高城(たかぎ)」、東北に「たかがき」という地名があるという。桜実神社は菟田の高城に駐屯して、その四方に定めた神籠の1つともいわれる。また、神社の手前に北へ辿る細を道があり、そこを登ると「神武天皇御東征 菟田高城」(http://urano.org/kankou/haibara/haibara032.html)の石碑があるという。菟田の高城については、榛原町赤埴(あかばね)の高城山のことともいわれる(http://www.town.haibara.nara.jp/3kankou/kankou/bunka/takagidake.htm)。地図には高城山は出ていないが、標高810mで諸木野から登り、その先に三郎岳があるというから、三郎岳の西の810mほどの山がそうなのであろう。また、血原については、室生村田口付近ともいわれるが、室生村田口は三郎岳の東側であり、その伝承は赤埴の高城山を菟田の高城とする伝承と結びついているのであろう。桜実神社と高城山が東北60度線で結ばれている。そうすると、桜実神社周辺と高城山は単に菟田の高城の伝承地を争っているというのではなく、もともと何らかの結びつきがあって、そのことから両方とも菟田の高城伝承を持つにいたったとも考えられるわけである。

  高城山?―桜実神社(E0.100km、0.72度)の東北60度線

 熊野との関係に戻ると、桜実神社がゴトビキ岩と南北線をつくり、宇賀神社が阿須賀神社と南北線をつくる。桜実神社とゴトビキ岩の南北線上には丹生川上中社があり、宇賀神社と阿須賀神社の南北線上には鳥見山とみなした東吉野村萩原の標高685.5mの山がある。そして、阿須賀神社の南北線上に神野山があり、ゴトビキ岩の南北線上に桝型岩がある。そして、神野山の方位線をみると、東北45度線に神武天皇の橿原宮と結びつく畝傍山があり、東北30度線に石上神宮がある。石上神宮は高倉下が神武に献上した剣を祭神にしており、ゴトビキ岩のある神倉神社は高倉下命を祭神にしているのであるから、ゴトビキ岩の南北線と阿須賀神社の南北線は密接な関係があるといえる。ゴトビキ岩と阿須賀神社は東北30度線をつくっていたが、あるいはゴトビキ岩と神野山も南北線をつくっているのかもしれない。
 ゴトビキ岩と南北線をつくる桜実神社であるが、三輪山と西北45度線をつくつている。ということは、北嶺巨石遺構と東北45度線をつくるということであるが、北嶺巨石遺構は桝型岩と東西線をつくっていた。大和の巨石方位線網は熊野のゴトビキ岩まで拡がっていたとも考えられるわけであるが、その方位線網には三輪山も含まれるのであるから、桜実神社はもともとのその巨石方位線網と方位線的に結びついていたと考えられる。高城山にも磐座のような巨石遺構があるなら、高城山と桜実神社の方位線関係も大和の巨石方位線網と高城山の巨石遺構との関係のなかで考えるべきものともなるわけである。高城山の西北30度線上には石切剣箭命神社があるが、桜実神社は北嶺巨石遺構とも方位線をつくり、石切剣箭命神社は北嶺巨石遺構と東北30度線をつくるのでないかと考えたのであるから、その点からも桜実神社と高城山の何らかの関係が浮かびあがり、それは巨石信仰と関係があるとも考えられるわけである。その他、桜実神社は阿部山と西北30度線をつくり、阿部山は三輪山と東北60度線をつくっていた。高城山も阿部山と東西線をつくるが、その東西線上には桜井の鳥見山・伊那佐山があった。桜実神社は天神山とも西北60度線をつくるが、阿部山と天神山が東北30度線をつくり、その方位線上に榛原の鳥見山があり、現五瀬命陵があった。

  ゴトビキ岩―丹生川上中社(E0.299km、0.23度)―桜実神社(W0.526km、0.38度)―桝型岩(E0.174km、0.09度)の南北線
  阿須賀神社蓬莱山―標高685.5mの山(W0.237km、0.18度)―宇賀神社(W0.291km、0.21度)―神野山(W0.037km、0.02度)の南北線
  神野山―畝傍山(E0.079km、0.17度)の東北45度線
  神野山―石上神宮(E0.169km、0.63度)の東北30度線
  桜実神社―三輪山(E0.026km、0.10度)の西北45度線
  高城山?―石切剣箭命神社(W0.139km、0.20度)の西北30度線
  桜実神社―阿部山(W0.021km、0.09度)の西北30度線
  高城山?―阿部山(N0.017km、0.06度)の東西線
  桜実神社―天神山(E0.319km、1.61度)の西北60度線

 兄猾を討った神武は、菟田の高倉山に登り、敵情を偵察すると、国見丘に八十梟帥があり、磐余邑に兄磯城の軍が満ち溢れている。その夜夢に天神が出てきて、天香山の社の中の土を取り、天平瓮八十枚を造り、あわせて厳瓮を造って天神地祇を敬い祭り、厳呪詛すれば、敵は自ら降伏してくるというので、神武は椎根津彦と弟猾を天香山の頂の土を取りにいかせる。天香山の埴で八十平瓮・天手抉八十枚と厳瓮を造ると、丹生の川上、菟田川の朝原で天神地祇を祭った。そうして、神武は国見丘の八十梟帥を討ち、忍坂邑に大室をつくって敵を騙し討ちにし、さすがに連戦で疲労した兵士の心を慰めるため、「楯並めて 伊那瑳の山の 木の間ゆも」という歌を作ると、女軍を忍坂の道より出し、男軍をもって墨坂を越えて後ろから挟み撃ちにして兄磯城を斬る。日本書紀では、次に神武は長髄彦を撃つことになるが、古事記では長髄彦と戦う話はなく、饒速日が降参してきたとという話になって、長髄彦はどこかにいってしまった格好である。
 高倉山であるが、大宇陀町守道の高倉山に比定されているが、高城山と東北30度線をつくる。しかし、宇陀には他にも高倉山と呼ばれる山があり、高見山も高倉山とも呼ばれ、山頂に八咫烏を祀る高角神社が鎮座している。また、福地山も高倉山ともよばれていたようであり、式内社椋下(むくもと)神社は高倉下を祭神とするが、慶雲2年(702)に建角身を祭神とする八咫烏神社と一緒に創祀され、最初は福地山の山中に祭られたのが、いつの頃か現在地に遷座したという。八咫烏神社も現在の鎮座地はもともと遥拝所で伊那佐山山頂に祭られていたともいう。守道の高倉山・高見山・福地山という三つの高倉山は榛原の鳥見山からそれぞれ南北線、西北45度線、西北30度線の方位線上に位置している。また、福地山と三輪山が東西線をつくっていたが、高見山は三輪山と西北30度線をつくる。守道の高倉山は三輪山と方位線をつくらないが、伊那佐山と東北60度線をつくり、高城山・高倉山・伊那佐山が方位線三角形をつくるわけである。さらに、高倉山は石上神宮と東北60度線をつくるが、伊那佐山と石上神宮も西北45度線をつくり、高倉山・伊那佐山・石上神宮がやはり方位線三角形をつくる。石上神宮は生駒山頂と西北30度線をつくっていたが、高倉山も生駒山北の峰と西北45度線をつくる。高城山の東西線上に伊那佐山と桜井の鳥見山があり、高倉山・高城山・伊那佐山が方位線三角形をつくっていたとするなら、高倉山と桜井の鳥見山も西北30度線をつくり、高倉山には濃密な方位線三角形が関係していると考えたくなる。さらに、それは高城山・伊那佐山・桜井の鳥見山・阿部山という東西線の残る阿部山が桜実神社と三輪山さらには天神山と方位線三角形をつくっていたことから、高倉山と桜実神社が補完しあう形で、高城山・伊那佐山・桜井の鳥見山・阿部山の東西線をめぐる方位線三角形が存在していたとも考えられるわけである。このように宇陀における神武伝承地は密接な方位線関係で結ばれているが、これはもともと方位線網と結びついた信仰体系があり、それを取り入れる形で神武伝承が作り上げられていったということではないだろうか。もしそうなら、神武伝承地が何処かということよりも、その基となった信仰体系を探ることのほうが重要であろう。

  高倉山―高城山?(E0.160km、1.12度)の東北30度線
  榛原の鳥見山―高倉山(E0.110km、0.71度)の南北線
  榛原の鳥見山―高見山(E0.028km、0.08度)の西北45度線
  榛原の鳥見山―福地山(W0.100km、1.7度)の西北30度線
  三輪山―高見山(W0.083km、0.20度)の西北30度線
  高倉山―伊那佐山(E0.024km、0.31度)の東北60度線
  高倉山―石上神宮(E0.020km、0.07度)の西北60度線
  伊那佐山―石上神宮(W0.069km、0.27度)の西北45度線
  高倉山―生駒山北の峰(W0.091km、0.15度)の西北45度線
  高倉山―桜井の鳥見山(W0.306km、2.14度)の西北30度線

 天香山の土で造った八十平瓮・天手抉と厳瓮で天神地祇を祭った丹生の川上、菟田川の朝原の地には雨師丹生社と丹生川上中社近くの二つの説がある。物語の流れからいえば、その呪術祭祀は国見丘の八十梟帥と、磐余邑の兄磯城に対するものということになるが、国見丘は経ヶ塚山のことといわれており、経ヶ塚山の西北45度線上に丹生川上中社があり、東北60度線方向に雨師丹生社がある。雨師丹生社は伊那佐山と巻向山の西北30度線上に位置している。巻向山は正確には音羽山であるが、経ヶ塚山と南北線をつくり、熊野との関係でいえば、この南北線上に那智の大滝があり、那智の大滝はゴトビキ岩・阿須賀神社と東北30度線をつくっていた。兄磯城のいた磐余邑であるが、神武の名は神日本磐余彦であり、神武との特別な関係もうかがわれる場所である。千田稔『日本文明史3 宮都の風光』によれば、磐余は石寸とも書かれ、寸は村という漢字のつくりだけをとったもので、石寸は石村であり、「石あるいは岩がたくさん群がっている場所」で、「むら」は「群」のことで「いわむら」は「いわむれ」で、それが転訛して「いわれ」となったという。そして、岩がたくさん群がっている場所、つまり「磐余」という地名の起こりとなった風景はどこかというと、上之宮遺跡を発掘した清水真一氏によれば、阿部山の丘陵を発掘してみると、すぐに巨大な岩石にぶつかる場所があちらこちらにあり、阿部山のことであるという。また阿部山が磐余とよばれた地域の象徴的な山であることは、式内社の石寸山口神社が阿部山の北端の桜井市谷に鎮座することからも、阿部山が「石寸(磐余)山」であったとみることができるという。阿部山については、これまで幾度もその名前が出てきたが、高城山・伊那佐山・桜井の鳥見山・阿部山が東西線をつくり、阿部山と巻向山が東北45度線をつくるということは、方位線的には、伊那佐山に陣取った神武軍は阿部山と霊的に対峙し、雨師丹生社で天神地祇を祭ることにより、経ヶ塚山と霊的に対峙し、伊那佐山と雨師丹生社の地を合わせて巻向山と霊的に対峙したということになるわけである。

  経ヶ塚山―丹生川上中社(W0.272km、1.22度)の西北45度線
  経ヶ塚山―雨師丹生神社(E0.231km、2.08度)の東北60度線
  巻向山(E0.029km、0.39度)―雨師丹生神社―伊那佐山(E0.124km、1.75度)の西北30度線
  巻向山―音羽山(W0.0001km、0.01度)―経ヶ塚山(E0.259km、1.96度)―那智大滝(E0.060km、0.04度)の南北線

 御所市の日本武尊陵近くの国見山は三輪山と香久山の東北45度線上に位置しており、以前から気になる場所であったが、もしかしたら国見山が国見丘なのかもしれない。というのも、国見山は桜実神社とも東西線をつくっており、神武伝承ともまったく無縁ともいえないからである。三輪山と桜実神社が西北45度線をつくっていたのであるから、国見山と桜実神社は三輪山からの方位線上にあるということにもなる。さらに、国見山は雨師丹生社と東北30度線をつくる。香久山と耳成山が西北60度線をつくっていたが、国見山と耳成山も東北60度線をつくり、少なくとも、国見山はかっては大和における重要な場所の一つだったということは十分考えられる。耳成山は経ヶ塚山とも西北30度線をつくっているから、国見山と経ヶ塚山を含んだ方位線信仰圏があった可能性もある。

  国見山―香久山(W0.091km、0.65度)―三輪山(W0.044km、0.18度)の東北45度線
  国見山―桜実神社(S0.063km、0.18度)の東西線
  国見山―雨師丹生神社(W0.233km、0.75度)の東北30度線
  国見山―耳成山(W0.092km、0.59度)の東北60度線
  耳成山―経ヶ塚山(W0.100km、0.64度)の西北30度線

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