神武東征と瀬戸内海
神武東征の宇佐からの経路が宇佐からの方位線上に位置することを述べた。特に、現在安芸の埃宮跡とされる多家神社は宇佐神宮奥社のある御許山と東北45度線を作った。しかし、宇佐神宮そのものの方位線からいえば、宮島の厳島神社との方位線が浮かんでくる。古代の厳島信仰は弥山を中心に島全体を神とする自然信仰であったといわれるが、厳島神社の祭神は御許山と同じ宗像三女神、特に市杵島姫であり、祭神の共通性からいえば、御許山と宮島の方位線も無視できない。御許山と正確に東北45度線を作るのは、向原町の北にある大土山である。大土山周辺には市杵島姫や宮島と結びつく伝承があり、市杵島姫の御子が大土山で失踪したので、市杵島姫はその行方を求めてさすらううちに宮島の地に落ち着くことになったとも、往古より厳島の一の木姫この地にあり、木樋山の頂に植えた瓢の瓜を取り、瓢箪舟を造り、安芸国厳島に渡ったともいう。また、山頂近くの潜岩(こぐりいわ)の案内板に「別書にニニギの尊大土山に天孫降臨し、神々を従え、出雲国に出立したとある。」と書かれているが、栗原基氏の『新説日本の始まり』という本では、大土山の大土とはオオツツ=大星=太陽の意味で、大土山周辺こそ太陽神アマテラスの都、高天原に他ならないと主張しているという。大土山には市杵島姫の伝承の他に、昔から高天原あるいは天孫降臨の伝承があったのだろうか。あるいは、この別書とは栗原氏の著書のことなのかもしれない。御許山・宮島・大土山の関係でいえば、御許山と大土山が正確な方位線を作り、大土山に宮島と結ぶ伝承があることなどから、御許山―宮島―大土山は一つの方位線を作るとみなすべきなのではないだろうか。
御許山―弥山(w2.444km、1.17度)―大土山(w0.095km、0.03度)の東北45度線
神武と宮島の関係であるが、宮島の伝承では神武は東征の途中、一時厳島に滞在したという。しかし、より興味深いのは宇佐氏の伝承であろう。宇佐氏の伝承では、直美(南海部郡直川村)を拠点にタヂヒナオミを首長とする宇佐族海部が激しく抵抗していたが、漁師のウヅヒコというものが菟狹族の宗主ウサツヒコに帰順を説得し、ウサツヒコは神武を根拠地に迎え入れ、神武達を歓待し、妻のウサツヒメを神武に差し出したという。ウサツヒメは神武の子を身ごもり、宇佐都臣命を産んだという。宇佐氏の系図では宇佐津日彦命の子が常津彦耳命で、その子の稚屋のことだという。さらにウサツヒメは神武東征に随伴し安芸国の埃宮で神武の間に御諸別命をもうけ、それからすぐにウサツヒメは病気で亡くなり、伊都岐島に葬られたが、その一年後に神武も病気で亡くなったので、ウサツヒメと同じく伊都岐島の山上の岩屋に葬ったという。また、宗像大社の社伝では、宗像から湍津姫命が宇佐へ、市杵島姫命が厳島に遷座したとあるが、宇佐氏の伝承では三女神は宇佐から厳島へ遷座し、そこから宗像へ遷座したのだという。山上の岩屋とは弥山のことと考えられているが、宇佐氏の伝承からいえば、埃宮より宮島の方が重要な場所ということができる。
大土山連山の大内山山頂には周囲30mヘほどの「天石位(あめのいわくら)」といわれる巨石があるといい、大土山の山頂近くにも潜岩という巨石がある。その他、大土山周辺には千畳敷、天神岩、千引岩など磐座ともいえる多くの巨石があるという。弥山や御許山にも磐座があった。御許山―弥山―大土山の方位線は、磐座を結ぶ巨石方位線と考えるべきであろう。
広島湾沿岸には神武伝承地が広がっているが、巨石信仰も多くみられる。広島湾西部ではのうが高原ピラミッドが有名であるが、東部地区にものうが高原ほど巨大ではないが、多くの巨石信仰が見られ、それらは方位線で結ばれている。宮島の弥山でいえば、その東北45度線上に広島市の総鎮守である白神社とその磐座がある。白神社は海上の岩礁を祀ったのが始まりであるという。東西線上には同じく海に面した呉市天応の烏帽子岩があり、烏帽子岩は白神社の60度線方向にあたっている。
弥山―白神社(E0.244km、0.8度)の東北45度線
弥山―烏帽子岩(N0.045km、0.13度)の東西線
白神社―烏帽子岩(W0.402km、1.66度)の西北60度線
烏帽子岩の南北線と御許山と大土山の方位線の交わるところに高尾山がある。新幹線で東京から広島に近づくと、右側に三角形の岩山が二つ重なったように見えるが、岩谷観音跡で、そのすぐ後ろのこんもりしたあたりが高尾山で巨石も多い。現在の多家神社はこの高尾山と東北60度線上に位置しているのであるが、高尾山と白神社とは方位線を作らない。ただ、カシミール3Dでシュミレートしてみると、白神社から見た夏至の太陽は高尾山から昇るようである。烏帽子岩と高尾山の南北線近くに明神山があるが、明神山、発喜山、絵下山を矢野三山といい、その麓にもう一つの埃宮伝承地の多家宮(鷹宮、おたか堂)がある。それら三山は白神社の西北45度線上に位置している。
大土山―高尾山±(E0.160km、0.27度)の東北45度線
烏帽子岩―高尾山±(W0.248km、0.93度)の南北線
高尾山±―多家神社(W0.022km、0.44度)の東北60度線
白神社―明神山(W0.146km、0.85度)、発喜山(E0.039km、0.22度)、絵下頭(W0.211km、1.11度)の西北45度線
白神社と呉市の灰ヶ峰を直線で結ぶと、その直線に添って明神山やテレビ塔のある絵下山がある。灰ヶ峰も巨石方位線の中心になっているようである。『昭和地区のあゆみ』という本には、灰ヶ峰は「地区の住民にとって、地形的にはいうまでもなく、精神的なよりどころとなっていた。すなわち神山であった。」とあり、栃原という地名は、古代灰ヶ峰一帯は「カミ山」としてあがめられていて聖域であり、したがって、立ち入ることが禁じられた山、すなわち「ドジ山」であったところから名づけられたという。絵下頭のすぐ南の峰には巨石があるが、そのうちの龍ノ口山山頂近くの龍ノ口岩は白神社と灰ヶ峰の直線上にあり、またその西の峰の頂上にある破れ岩(はさみ岩)はあたかも方位岩のような割れ方をしており、人工的に加工された杯状の穴があるという。また、岩の下には5m四方の広場あるいは祭壇のような平たい石があるといが、この破れ岩と灰ヶ峰が西北45度線を作る。灰ヶ峰から東北60度線を引くと大積地区の神社があるが、この神社は社殿らしい社殿がなく、巨大な石をそのまま御神体としている。その神体岩の前にもやはり祭壇あるいは舞台のような平たい巨石がある。また、灰ヶ峰の西北60度線上に中倉山の巨石群があり、大積地区の神社とも西北45度線を作っている。中倉山は絵下山と矢野から焼山への道を挟んだ東側の414mの三角点のある山で、北と南から見ると三角形のピラミッド型に見え、南北それぞれ頂点付近に巨石群があり、背中に亀のような甲羅を持ちながら顔は猪といった不思議な巨石などもある。北側の巨石群は文化十二年芸藩通志の資料になった「国群志御編集に付下調べ書出帳」に附属の「絵図面」では、上の字は読めなかったが、下には神の字があるので、神体石ないし磐座だったのであろう。灰ヶ峰や大積地区の神社と方位線を作るのは北の方の山頂にある巨石群である。南の方の巨石群の中には灰ヶ峰を指しているように見える巨石などあり、天応の烏帽子岩の東北60度線方向に位置しており、また白神社と大積地区の神社を結ぶ直線上に並ぶ。また、大積地区神社の西北30度線に絵下頭と破れ岩があり、多家の宮は中倉山南の巨石群の西北45度線に位置している。
灰ヶ峰―破れ岩(E0.090km、0.74度)の西北45度線
灰ヶ峰―大積地区神社(0.001km、0.04度)の東北60度線
灰ヶ峰―中倉山北の巨石群±(E0.06km、0.5度)の西北60度線
烏帽子岩―中倉山南の巨石群±(W0.166km、1.84度)の東北60度線
大積地区神社―破れ岩(W0.196km、1.68度)―絵下頭(E0.164km、1.35度)の西北30度線
中倉山南の巨石群±―多家の宮±(E0.029km、0.76度)の西北45度線
宇佐神宮と吉備の高嶋宮とは直接方位線をつくらないが、御許山と方位線を作る吉備の中山と高島とが方位線を作り、その方位線上に吉備津神社があり、吉備津神社は吉備津彦神社と方位線を作る。高島は方位線的にみると吉備における扇の要的な位置にあるともいえ、高島の東北30度線上には美和神社が、南北線上に美作一ノ宮の中山神社があり、また、井上高太郎氏の『吉備王国の崩壊』で取り上げられている金彦神社(金子宮)が東北45度線上にある。金彦神社は名神大社であったいうが、井上氏によると美濃南宮神社すなわち仲山金山彦神社、美作中山神社それに吉永町金谷の金彦神社(金子宮)はともに金山彦を祭る神社である。そのうち、吉備にある二社が高島の方位線上に位置しているわけである。また、美作の中山神社は吉備津神社の分社ともいわれるが、その両社も高島の方位線上に位置していることになる。安仁神社―美和神社―金彦神社が東北60度線上にならんでおり、その意味でも金彦神社は無視できない神社なのかもしれない。井上氏によれば、金彦神社のある吉永町金谷は壬申の乱以後300年間不入の地として、四方に木戸を設けて一般吉備人の立ち入りを禁止し、天武天皇は自分に敵対した吉備人の力を削ぐための秘密工作基地にしていたというのである。ただ、金谷の地がそのような秘密基地であったとしても、それが天武と結びつくがどうかは再考する必要がある。一つは天武朝といっても、持統天皇のころから天智朝の復活がなされつつあったという説もあるし、少なくとも桓武朝になればそれは完全な天智朝の復活であるから、300年も秘密工作をする必要はなかったということになる。吉備人の捉え方も問題であろう。吉備には出雲神族やヒボコ系の人々も大勢いたはずである。それらの人々は天武側についた人々といわれているから、吉備そのものが必ずしも反天武でまとまっていたとは考えられず、逆に温羅伝説などに見られるように反百済的意識が強い土地であることなどを考えると、吉備に対して工作を必要としていたのは天武ではなく、桓武朝であったとも考えられるわけである。
高島の神社―吉備中山162mの峰(E0.188km、0.75度)―吉備津神社(E0.201km、0.77度)の西北30度線
高島の神社―美和神社(W0.037km、0.13度)の東北30度線
高島の神社―中山神社(E0.368km、0.38度)の南北線
高島の神社―金彦神社(W0.117km、0.21度)の東北45度線
吉備津神社―吉備津彦神社(E0.025km、1.04度)の東北30度線
安仁神社(W0.232km、1.57度)―美和神社―金彦神社(E0.280km、0.91度)の東北60度線
宇佐国造家の伝承によると、「古の菟狹國の~都は、筑前・筑後・肥後・肥前・大隈・薩摩の六ヵ國には在らず。筑豊・日向・肥後・備前、この四ヵ所の所領のうち、最たるものは備前にして、古の菟狹國の~都は備前なり。備前・備中・備後・美作は古の菟狹國第一の~都にして、第二は九州、第三は蒲郡以西をもってこれに當つ。」とあるといい、それ以前には、鳥取県河原町(旧八上村)におり、隠岐ノ島からそこに移ってきた経緯が、因幡の白兎の話になっているのだという。また、吉備から安芸に発展し、古代菟狹国は安芸国の多祁理宮を拠点として山陽・四国・北九州を結ぶ圏内で、東九州から南九州の日南地方にまで勢力が広がっていたという。神武東征が宇佐族の勢力範囲を根拠地に行われたのか、宇佐氏の伝承が神武東征に合わせて出来上がったのか分からないが、和気清麻呂は宇佐との方位線を意識していたようにも思える。御許山の東北30度線上には、吉備津神社・吉備津彦神社・和気神社が存在しているとしたが、川原町曳田の八上比売を祀る売沼神社からの南北線と御許山の方位線が交わるあたりに和気神社があり、吉備における菟狹族の根拠地はもともとこのあたりで、菟狹族とも関係の深い土地の出身ということで、和気清麻呂が道鏡事件の際宇佐に派遣されたのかもしれない。熊山町大字佐古にある八幡和気神社は一説には延暦3年和気清麻呂が宇佐八幡宮を勧請したともいわれるが、和気神社が御許山と東北30度線を作っているのたいし、八幡和気神社は宇佐神宮と東北30度線をつくっている。
宇佐神宮―八幡和気神社(E0.420km、0.08度)の東北30度線
出雲神族の伝承によれば、九州から攻めてきた神武を出雲神族は穴門(長門)で迎え撃ち、神武は防府、河内、熊野などで六人死んだという。七人目の神武は強く、出雲神族が「カラの子」と呼んでいた朝鮮からの渡来人ヤタガラスが神武の味方につき、彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していき、まことに陰険であり、残酷であったという。王のナガスネ彦は傷つき、大和を神武に譲って出雲に退き、出雲で亡くなったという。この出雲神族の伝承には、神武は安芸で亡くなったという宇佐氏の伝承と共通するものがある。ただ、宇佐氏の伝承における出雲族の扱いには納得できないものがある。宇佐氏の伝承では因幡の白兎の話は、当時隠岐にいた菟狹族が、和邇氏の祖先の和邇族に経済取引で玄人くさい駆引を使って失敗し、和邇族に資産を押さえられ、オオクニヌシのアドバイスで、丸裸になって一度きれいな身になり、八上比売と一緒になって八上の地の支配権を手に入れたオオクニヌシによって、無償で八上に土地を与えられた事実を述べたものであり、このオオクニヌシの親切は現代の宇佐家にまで伝承されててきたものだという。このような菟狹族と出雲族の関係からいえば、宇佐氏は出雲神族についてもよく知っていたとしか思えないのであるが、出雲族についての宇佐氏の伝承はスサノオを出雲族の高祖とするなど、出雲族=スサノオ族として出雲神族隠しの一翼を担っていることである。『上記』にウガヤフキアエズ七十一代日子之命が五瀬之命や佐野之命など七つの船団を災害飢饉救援のために全国に派遣したという記述があるが、出雲神族の伝承では死んだ六人の神武に大和で即位した神武を加えて、七人の神武がいたことになるから、『上記』の七船団という話は、この出雲神族の伝承が入り込こみ、それを七船団という話に変えてしまった可能性もある。『上記』はサンカの伝承が多く含まれているともいわれ、出雲神族には布教団と称する出雲の神子、諏訪の神子という諜報機関があり、その下にはサンカのアヤタチ(乱破)やミスカシ(透破)といった忍びの者がついていたというから、可能性はあるわけである。
出雲神族と何代にもわたる神武は、その東征経路の各地で戦闘を重ねたのであろう。安芸の埃宮や吉備の高島宮周辺も神武と出雲神族が激突した場所なのではないだろうか。方位線でみると、熊野大社の神体山である天狗山と高島が西北45度線を作る。高島はもともと出雲神族の聖地だったと考えられる。吉備はヒボコ族が侵入してくるまでは出雲神族の国であったし、高島は美保神社、丹後の籠神社奥の宮の真名井神社など出雲神族と関係の深い神社とも方位線を作るからである。高島は吉備の出雲神族と本国出雲や丹後の出雲神族を霊的に結びつける重要な場所であり、ここを占領することは吉備の出雲神族と出雲や丹後の出雲神族を切り離し、吉備の出雲神族を支配するという意味を持つばかりでなく、出雲や丹後の出雲神族に霊的攻撃を加える基地ともなる戦略拠点を確保することでもあったわけである。
高島(神社)―天狗山(W0.481km、0.24度)の西北45度線
高島(神社)―真名井神社(E0.260km、0.1度)の東北45度線
高島(神社)―美保神社(W0.560km、0.26度)の西北60度線
高島と方位線で結ばれる吉備内部の場所も出雲神族と関係が深い。美和神社は三輪神社で当然出雲神族系であるが、美作の中山神社の祭神については、大林太良氏の『私の一宮巡詣記』によりれば、『中山神社縁由』に、地主神の大己貴命が新来の中山神(鏡作命)にこの地を譲って、祝木神社に退いたとあるという。また、美濃の仲山金山彦神社にも『梁塵秘抄』に「南宮の本山は信濃の国とぞ承る。さぞ申す。美濃国には仲の宮、伊賀国には幼き児の宮」とあり、信濃という諏訪の社なりともいわれているという。伊賀の一宮敢國神社は南宮ともいわれ、金山比当スを祀る。また、伴信友の『神名帳考證』には「相殿南宮大明神 金山毘売。昔は南宮山に坐ます。今の小富士是也。円融院貞元二年[九七七]二月修造の時告ありて此南宮明神を敢國明神と同所に遷す。神体蛇形神、諏訪は南宮大明神と号す。伊賀にては伊賀南宮と云、美濃にては垂井南宮と云。」とあるという。これからすれば、吉永町金谷の金彦神社も出雲神族ともともとは関係する神社だったのかもしれない。そうすると、美和神社と方位線を作ることも理解できる。さらに、金彦神社と高島の方位線は丹後の真名井神社に通じる方位線でもあった。また、金彦神社は熊野大社・美保神社とも方位線を作る。吉備の中山もその一番高い峰は龍王山といい、竜神信仰とも結びついていると考えられる。吉備津彦神社の境内摂社に幸神社があり祭神は「猿田彦命 道祖神」とあるが、もともとはクナトの大神を祀っていた可能性も否定できない。
金彦神社(金子宮)―熊野大社(E0.765km、0.35度)の西北30度線
金彦神社(金子宮)―美保神社(W1.214km、0.58度)の西北45度線
安芸の埃宮であるが、埃宮とされる多家神社周辺と天狗山とは方位線を作らないが、天狗山と宮島の弥山とが方位線を作るといえる。また、多家神社ではなく矢野町の多家の宮と丹後の真名井神社が東北30度線を作る。
天狗山―厳島弥山(W1.435km、0.6度)の東北60度線
真名井神社―多家の宮(W0.640km、0.1度)の東北30度線
厳島はイチキシマヒメを祀り、記紀では宗像三女神はスサノオの子とされているが、出雲神族の伝承によればイチキシマヒメは出雲神族の神であるという。この伝承からいえば、天狗山と厳島の方位線も無視できないものがあることになる。
矢野の多家の宮周辺も出雲神族がいた可能性がある。矢野中学のすぐ後ろの小山を幸崎神森といい、その東北の矢野と海田の境にある峰を西崎山、またそこから北に向かって降る途中に道祖崎というところもあり、幸崎・西崎のサイサキは幸崎神森山頂には賽ノ神社跡があり、そのサイの神からきているという。また、幸崎神森の山頂から2〜30メートルほど離れたところに、神体石と思われる石を中心に、その周りを石が囲む環状列石があり、顕著な人工加工が施されているという。また、矢野峠に上っていく途中には、かって樫木茶屋というのがあり、樫ノ木の傍には賽ノ神社があった。現在社殿はないが、礎石の大岩がのこっており、文化十二年の絵図面にも祖神(おそらく道祖神のこと)とかかれている。ただ、古くからそうだったのかどうかは分からないが、少なくとも明治・大正頃には祭神は猿田彦大神とされていたようである。幸崎神森の賽ノ神社の方であるが、香川家に残る『御社記』に中世(野間氏の頃。野間氏は毛利元就に滅ぼされた)の寺社が記されており、「わずかに社地を残し名のみありて、それと伝えよく明らかざるものあり」として、高尾山(茶臼山)の山の神、幸崎の神森、愛宕神社の神並森、大井の大年社などがあげられているという。また、この幸崎神森・西崎山を囲むようにその山裾には古墳が密集しており、環状列石の存在などからもここが古くからの神聖な場所だったことがわかり、そこは古くから賽ノ神・道祖神が祀られていたと考えられる。吉田大洋氏の『謎の弁才天女』によれば、「後世、猿田彦と混同し、またすり替えられたりしたが、熊本や島原をのぞけば、猿田彦と称するものは、ほとんどが久那斗大神である。この点に関しては、中央大学の名誉教授で、日本神道宗教学会の元会長・中西旭さんが、東北地方の猿田彦を調査し、論証されている。」とあり、幸崎神森もクナトの大神を祀る出雲神族の聖地だった可能性が大きい。幸崎神森は破れ岩の南北線方向にあり、これは破れ岩・絵下頭・多家の宮・幸崎神森が南北線上に並んでいるということなのかもしれない。
破れ岩±―絵下頭(W0.060km、7.59度)―多家の宮(W0.110km、2.84度)―幸崎神森(E0.218km、2.54度)の南北線
幸崎神森と籠神社奥社の真名井神社が方位・方向線を作るといえないこともないが、それよりも興味深いのは幸崎神森と葦嶽山が方位線を作ることである。幸崎神森と葦嶽山が方位線をつくるとなると、のうが高原からの東西線が幸崎神森とその北の日浦山の間を通ることが気になる。ただ、数字的にはそれを方位線とみなせるかどうかは微妙である。この微妙さはのうが高原につきまとうもので、たとえばのうが高原から西北60度線を引くと宮島を通る。宮島全体が神であるとすれば、のうが高原と宮島は方位線を作るということになるが、宮島の大きさを考えると、漠然としすぎている。対象を絞るとのうが高原と厳島神社は方位線を作るとみなせないことはなが、弥山とは方位線を作らないし、のうが高原と厳島神社とでは巨石どうしの方位線ということにはならない。ただ、宮島には弥山以外にも磐座が在るといわれているから、あるいはその一つとのうが高原の巨石の一つが方位線を作っているという可能性もある。
幸崎神森は日浦山とも南北線を作り、日浦山は破れ岩とも南北線を作る。その線上に多家の宮があるわけである。弥山からの東北30度線では、烏帽子岩と南北線を作る岩滝山が気になっていたが、日浦山とも方位線を作ると考えるべきかもしれない。日浦山は全山いたるところ巨岩が露出した岩山であるが、岩滝山も山頂近くの稜線に巨岩が露出している。
葦嶽山―幸崎神森(E0.427km、0.32度)の東北45度線
のうが高原三角点―幸崎神森(S1.210km、2.79度)の東西線
のうが高原三角点―厳島神社(W0.300km、1.87度)の西北60度線
日浦山―幸崎神森(E0.075km、1.68度)―破れ岩(W0.140km、1.07度)の南北線
弥山―岩滝山(W0.142km、0.37度)―日浦山(E0.320km、0.79度)の東北30度線
烏帽子岩―岩滝山(W0.158km、0.8度)の南北線
出雲神族の伝承では神武の一人は防府で死んだというが、防府市大崎の周防一ノ宮玉祖神社と天狗山が方位線を作る。ただ、玉祖神社と結びついているのは景行天皇で、社伝では景行天皇が熊襲征伐の折り剣を奉納したといわれ、神社の北方200mの宮城の森は当時の行在所跡とされる。
天狗山―玉祖神社(E0.608km、0.17度)の東北45度線
ではまったく神武と関係ないかというと、宇佐氏の伝承では、安芸で神武が死んだあと、跡を継いだのが兄である景行天皇であるという。景行天皇も出雲神族でいう神武の一人ともみなせるわけである。ただ、宇佐氏の伝承では景行天皇と防府を特に結びつける伝承はないようである。景行天皇は九州を親征し、その途中病気にかかり阿蘇の高原で亡くなったので、智保の高千穂嶺に葬ったという。智保の高千穂嶺は阿蘇の馬見原高原を指し、蘇陽町大野の幣立神社の鎮座地が景行天皇の御陵と伝えられているという。また、『肥前風土記』の景行天皇の「宇佐の浜の行宮」は宇佐家の古伝では宇佐郡和間浜、現在の宇佐市和間であり、当時の宇佐の国主は常津彦耳命であったという。一方、宇佐氏の伝承では景行天皇は吉備の高島を都とし、畿内の長髄彦と対峙したという。景行天皇の後は稚足彦尊が成務天皇とよばれ、長門国の豊浦宮および筑前国の香椎宮を根拠地とし、下関市長府町豊浦の二宮八幡宮がその遺跡で、その御陵は下関市一の宮の住吉神社の社地がそうであると伝えられているという。成務天皇の後は子供がなかったので、日本武尊の第二男子の足仲彦尊が仲哀天皇となったが、宇佐氏の伝承では仲哀天皇の死亡状況は古事記と同じであるが、ただ仲哀天皇は武内宿禰に矛で殺されたという。その御陵は天皇の亡くなった筑紫橿日宮、今の香椎宮の宮地で、この所はアラキノミヤ(殯宮)のままであるという。宇佐氏の伝承で興味深いのは、応神天皇が神功皇后の子ではないとされることである。応神天皇とされる神功皇后の子は武内宿禰との間に出来た子で、神功皇后達は香坂王と忍熊王兄弟を破ったが、神武天皇の皇子宇佐都臣命すなわち宇佐稚屋の子宇佐押人は、神武天皇と宇佐津姫命の間の子である御諸別命の協力で神功皇后達の軍勢を破り、中央に進出して大和国高市郡白橿村大字大軽の軽島豊明宮で即位し、都をこの地に定め、初めて天下を統一したという。御諸別命に敗れた神功皇后達は、武内宿禰は行方不明となり、神功皇后とその子の誉田天皇は香原岳の麓の勾金(香原町勾金)に幽閉されて、この地で亡くなり、誉田天皇も四歳で早世したという。なお大神比義の心眼に童子の姿で幻じて「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した神霊は、神功皇后と武内宿禰との間に出来た、四歳で早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊で、応神天皇の霊ではないという。
安芸で神武が死に宮島に葬られたという宇佐氏の伝承は、七人の神武がいたという出雲神族の伝承を補強し、また、神武のあとを景行が継承したという宇佐氏の伝承は、景行もまた出雲神族の七人の神武の一人ということになり、防府市の玉祖神社の景行伝承も、宇佐氏の伝承にはないけれど神武としての景行についての地元での伝承という可能性があるわけである。景行から仲哀にかけての伝承は、記紀においても多くの矛盾がある。例えば古事記では、景行天皇は子どもである倭健命の曾孫のスメイロオオナカツヒコの娘カグロヒメとの間に大枝王を生んだとされているが、理解に苦しむ話である。ただ、景行天皇もヤマトタケルも七人の神武の一人であり、さらにヤマトタケルは複数の神武がヤマトタケルという名前に統合されてしまったとすれば、それなりに話の辻褄はあう。ただ、宇佐氏の伝承にある神武は初代ではなく、何代目かの神武ということにもなる。山田宗睦氏の『古代史と日本書紀』によれば、仲哀紀にも矛盾がみられるという。仲哀二年、熊襲が叛いたので仲哀天皇は熊襲征討のために穴門の豊浦宮にいたが、八年春正月の四日筑紫に幸けた。この時岡の県主の祖である熊鰐が沙バ浦まで参り迎えて魚塩の地を献じ、岡津まで同道した。また、伊都の県主の祖の五十迹手も天皇が行けると聞き、穴門の引嶋に参り迎えて献じ、仲哀は二一日儺の県に着き、橿日の宮に居た。山田氏によればこのどこがへんなのかというと、熊鰐は仲哀は下関にいるのに、その東の周防の沙バすなわち防府まで迎えに行っており、五十迹手も仲哀が岡津にいるのにその東の関門海峡の彦島まで迎えに行っていることであるという。もっとも、五十迹手は豊浦宮まで迎えに行く途中の彦島で仲哀天皇と出会ったと解することもできるが、熊鰐は説明ができない。山田氏はこれは進路が逆で、橿日宮から周防の沙バに進んだのではないかとする。五十迹手は儺の津から引嶋まで見送り、途中熊鰐も岡津から周防の沙バまで見送ったとすれば、そこに何の矛盾もないというのである。さらに、景行天皇は熊襲征伐の為に沙バから出発したが、そこに話がつながるのではないかという。さらに、神功摂政前期・仲哀九年三月条の熊襲を征伐の記述はホノニニギの妻のカシツヒメの記録で、カシツヒメはkaasihi→kasii→kasiとなったもので、橿日の姫ということであるという。父ニニギは博多湾岸(日向、橿日)、母カシツヒメは筑紫一円、子ヒコホホデミは中部九州を平定したということであり、橿日宮から周防の沙バまで進んだのは、このヒコホホデミのことであるとする。山田氏はカシツヒメとヒコホホデミの聖母子は紀の作為で神功・応神にふりかえられ、八幡信仰のもとは、海の彼方から来たニニギにはじまる聖家族、倭国の始皇の物語にあったとする。そうすると、景行もまたヒコホホデミということになる。山田氏は神武のカンヤマトイワレヒコというのは死後の贈り名で、生前の本名がヒコホホデミであることから、倭国の歴史の中でニニギとカシツヒメの業績は神代に、ヒコホホデミの中部九州平定は仲哀、景行紀にはめこんだが、その景行紀をもとに神武紀が作られ、景行紀ではヒコホホデミの名は伏せられたが、コピーの神武紀では、その冒頭、諱はヒコホホデミと書きおこされたとする。そうすると、やはり景行=神武ということになるわけである。ところで、景行天皇は沙バから豊前国の長峡県(ながおのあがた)について、行宮を立て、名づけて京というとあるが、この長峡宮は行橋市の長尾ではないかといわれている。方位線的に見ると、この長尾地区は宇佐神宮の西北30度線、すなわち宇佐神宮から岡水門方向に位置する。また、英彦山の東西線上でもある。英彦山にはオシホミミノミコト降臨伝承があるから、景行紀の記述には背景としてオシホミミノミコトもかかわっていると考えるべきかもしれない。宇佐神宮と出雲大社も方位線をつくり、宇佐と出雲は方位線的に深く関係しているともいえる。
宇佐八幡宮―長尾地区神社(W0.390km、0.48度)の西北30度線
英彦山―長尾地区神社(E0.198km、0.39度)の南北線
出雲大社―宇佐八幡宮(E0.558km、0.13度)の東北60度線