出雲神族と方位線

熊野大社
出雲の大神と神奈備山
吉備族・物部の出雲侵入
出雲神族と東北・九州
出雲神族と石動山
越の八口と出雲
出雲における八口の方位線
ヒボコ・物部連合と吉備

熊野大社

 出雲国内での出雲神族の方位線を考えるとき、問題になるのは熊野大社の場所である。かっては市場地区の上のほうにあったという伝承があり、あるいはそのあたりが本来の拝所であったかもしれない、ともされるからである。さらに問題なのは、現在の熊野大社の場所がもともとの鎮座地ではないらしいにもかかわらず、方位線的には無視できない場所にあることである。現熊野大社はまず美保神社と東北45度線をつくる。そして、美保神社は伯耆大山の弥山と西北45度線をつくるのであるが、伯耆大山の弥山の東西線上に現熊野大社が位置しているのである。この東西線を西に延長すると、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡近くの大黒山があるが、大黒とは大国主命のことであるから、この山も出雲神族と関係があるかもしれない。現熊野大社の東北60度線上に客の森がある。意宇の地名起源となった場所で、国引きを終えた八束水臣津野命が杖を立て「意恵(おゑ)」と叫んだところから意宇の地名が生じたというのであるが、杖を立てた意宇の杜に比定されており、ヤツカミズオミズヌを祀る小さな祠があるという。八束水臣津野命は最後の国引きとして、火神岳を杭とし、夜見島を綱として越の都都の三埼(能登半島の珠洲岬と考えられている)を引いてきたのが美保神社のある三穂の埼で、夜見島は弓が浜、火神岳は伯耆大山といわれるから、この国引き神話と現熊野大社とは方位線的に密接な関係があることになる。伯耆大山の大神山神社は里宮と奥宮からなるが、最初はそれぞれ独自の神社として祭祀されたものであるという。両宮とも大己貴命を祭神とするが、伯耆二ノ宮で式内社大神山神社にあたる里宮の社伝では、八束水臣津野命と大己貴命が伯耆大山山頂で神事を行って以来祭祀が始まり、大神や天穂日命の子孫が現在の奥宮の地に磯城の瑞垣神奈備を築き、頂上を遥拝するようになったという。ここに天穂日命の子孫と大神の子孫が出てくるが、当然天穂日命が出雲に来る以前は、大神の子孫のみが伯耆大山を神の山として遥拝していたということであろう。その大神の子孫はホヒ族も無視できない、共に伯耆大山を祀らなければならないような存在で、大己貴命としても無関係ではないとすれば、その一族は出雲神族で大神はクナトノ大神ということになる。出雲における出雲神族の祭祀の中心は伯耆大山だったのではないだろうか。
 風土記飯石郡三屋郷に「天の下をお造りなされた大神の御門がすなわちここにある。だから三刀矢という。」とある。三刀屋町三刀屋であるが、三刀屋の市街を三刀屋川の上流に向かい、両岸の山が迫るあたりに幸神神社がある。祭神も鎮座時期もわからないが、その名前からしてクナトノ大神と関係のある神社と考えられる。さらに、上流の殿河内地区には出雲井神社があり、祭神はサルタヒコらしいが、これも元々はクナトノ大神と考えるべきであろう。このように、三刀屋地区はクナトノ大神と関係の深い場所だったといえ、このことは幸神神社の鎮座も相当古い時代だったのではないかと推定させる。幸神神社と現熊野大社が東北30度方位線をつくる。また、熊野大社と東西線をつくる大黒山と南北線をつくる。幸神神社のあるあたりは、左右の山が急に狭まる場所で、御門というにふさわしい場所である。幸神神社が風土記の御門と関係するなら、この幸神神社と方位線的に結びつく現熊野大社の場所にも風土記の時代にクナトノ大神を祀る祭祀場所があったということになるのではないだろうか。大黒山と幸神神社の南北線上には飯石神社がある。飯石神社は風土記の在神祇官社の飯石社で、御神体石を二重の玉垣で囲み、その前面に弊殿・通殿・拝殿を建てて拝礼する古代の祭祀形態をもった神社であるが、飯石神社は弥山の麓にある出雲大社の摂社クナトの大神を祀る出雲井神社と西北45度方位線をつくる。
 現熊野大社と方位線をつくるもう一つ重要な場所は、楯縫郡の神名樋山とされる大船山で、峰の西に高さ一丈、周り一丈のタキツヒコ命の御魂といわれる石神があり、「旱に当ひて雨を乞ふ時は、必ず零らしめたまふ。」とあり、アジスキタカヒコの后アメノミカジヒメはアジスキタカヒコのいる神門郡高岸郷が見えるこの山でタキツヒコ命を産んだともいうから、大船山も出雲神族と関係の深い山ということになる。熊野大社は須我神社とも東北30度線をつくる。八雲山と現熊野大社も、微妙であるが東北30度線をつくるかもしれない。微妙という点では八雲山と天狗山の西北45度線も微妙である。現熊野大社は風土記の神奈備山の一つである朝日山とも方位線をつくるかもしれない。このことは風土記の四神奈備と四大神の中で改めて考えてみたい。
  現熊野大社―美保神社(E0.244km、0.46度)の東北45度線
  伯耆大山弥山―美保神社(E0.058km、0.11度)の西北45度線
  伯耆大山弥山―現熊野大社(N0.300km、0.40度)―大黒山(N0.151km、0.14度)の東西線
  現熊野大社―客の森±(W0.035km、0.26度)の東北60度線
  現熊野大社―幸神神社(W0.317km、0.87度)の東北30度線
  大黒山―幸神神社(W0.067km、0.38度)―飯石神社(E0.035km、0.15度)の南北線
  出雲井神社―飯石神社(W0.184km、0.46度)の西北45度線
  大船山―現熊野大社(W0.423km、1.05度)の西北30度線
  現熊野大社―須我神社(E0.107km、1.48度)の東北30度線
  八雲山―現熊野大社(E0.090km、2.43度)の東北30度線
  八雲山―天狗山(E0.149km、2.08度)の西北45度線
  現熊野大社―朝日山(E0.500km、1.66度)の西北60度線

 現熊野大社の場所がもともとの鎮座地ではなかったにもかかわらず、そこは多くの方位線が集まる場所であったが、熊野大社が遷座してくる以前から、その場所が聖なる場所であった可能性もある。川崎真治『日本最古の文字と女神画像』によると、熊野大社の社前の広庭に線刻石があるという。問題は何時頃からその石があったのかということであるが、同書には出雲の三刀屋町にある三屋神社にも同様の線刻石があることも載っている。三屋神社は平安初期まで近くの松本一号古墳の上にあったという。三屋神社の線刻石は写真で見る限り、大きさは3〜40センチで平べったい石であり、持ち運ぶのも容易であるから、遷座の際に一緒に持ち込まれたという可能性もある。しかし、熊野大社の線刻石は高さが2m50cmほどというから、簡単に運べる大きさではなく、もしそれが熊野大社の遷座の際に持ち込まれたとしたら、よほど重要視された石だったと考えられる。しかし、社殿の奥にある三屋神社の線刻石は竹串の御幣が数本立てられ、粗末ではあるが賽銭箱がその前にあるなど、祭祀の対象になっており、川崎真治氏も三屋神社の線刻石は線刻石に神性があるというなによりもの証拠であるとするのに対し、しかし熊野大社の線刻石には写真で見る限り、祭祀の対象になっているようにもみえないし、川崎真治氏にもそのような記述がない。もし、熊野大社の遷座の際に持ち込まれたものなら、このようなほとんど無関心といえるような扱いは受けないであろう。同様に、それが遷座後に置かれたものなら、やはり祭祀の対象になっているのではないだろうか。このことから、庭石として持ち込まれた石がたまたま線刻石であったという可能性も否定しきれないが、それはきわめて稀なことで在ろうから、遷座以前から、熊野大社の線刻石は現在地にあったと考えるべきであるし、同時にそれは現熊野大社の場所が遷座前から何らかの祭祀場であったということを意味している。
 ただ、熊野大社の線刻石についての川崎真治氏の解釈は、少し現在の熊野大社の公式的立場に寄りすぎているようである。同書には能義神社の線刻石も載っているが、川崎真治氏によると能義の能と熊野の野は同じ牛を意味する言葉で、シュメール語の牛を表すグという言葉が、インドシナ半島でg音がn音に転じて、グ→ヌ→ナウ→ノに転訛したのが能義や熊野のノであるという。一方、能義の義はキで、シュメールの蛇女神キであり、熊野のクマはシュメール語の蛇を表すグ・ビが倭韓古語では蛇がくねくねと曲がることから曲がるという意味のク・ビになり、それが現代韓語でフ・ミに倭人語でク・マに転じたのが熊野のクマであり、能義の義も熊野の熊も蛇でシュメールの七枝樹二神の蛇女神であるという。川崎真治氏によれば、この牛と蛇の組み合わせは、ウルク市の七枝樹二神思想が日本にまで伝わってきたもので、ウルクの意味は対面・七という意味で、ウルクから出土した円筒印章に一本の樹の向かって右に牛神ハル、左側に蛇女神キが互いに相手に片手を伸ばした形で向かい合って坐っている姿が刻まれており、中央の樹は牛神ハルの方に三本、蛇女神キの方に四本の枝がのびており、さらにその下に左右対称の枝のようなものが描かれ、その先端には実のようなものが垂れ下がっている。この中央の樹と同じ図柄が千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館にある弥生土器にも刻まれているという。川崎真治氏はさらに、能義と熊野では牛と蛇の語順が反対であるが、この語順にも意味があり、牛・蛇の能義は「牛神に向く蛇女神」で主語あるいは力点が蛇女神にあるのに対して、熊野は蛇・牛で牛の方が強調されているという。さらに、能義神社と熊野大社の線刻石の記号・文字の並び順も同じことがいえるという。能義神社の線刻石は頂上部にウルク語のイル・ガ・ガすなわち祈るという言葉が、目・水(三点)・コの字形の組み合わせで彫られ、その下に牡牛神ハルを表す三叉マーク、その下に蛇女神キの坐像と同神を表す甲骨文字のヒが刻まれているのに対して、熊野大社の線刻石は頂上部に祈るという文字でその下に蛇の記号、対面を表す甲骨文字の乙、三叉マーク、同じく牡牛神を表すV字形と楕円の中に点が三つ並ぶ記号の順である。
 すなわち、線刻石の語順からいっても熊野大社は牡牛神が強調されているわけであるが、川崎真治氏は熊野大社は素盞鳴尊を祭神とするから、力点が牡牛神ハルにあるのは当然であるとする。しかし、出雲神族の伝承では出雲神族は竜蛇族であり、熊野大社の祭神はクナトノ大神であって、牡牛神を主祭神にするものではない。吉田大洋氏の『竜神よ、我に来たれ!』にある當家の伝承によると、スサノオは出雲を制圧すると竜蛇信仰を捨てることを迫り、出雲神族はやむをえずオオクニヌシを代役に立てたが、天孫族のホヒ族はそれをいいことにオオクヌニシを出雲の主祭神に祭り上げ、自分たちの氏神のように見せかけ、さらに熊野の大神をクシミケヌだとしてこれにスサノオを当て、また、ヒボコ族の圧迫もあって、出雲の竜神信仰は陰のものになっていったという。この出雲神族の伝承から考えられることは、牡牛神ハルが強調されている線刻石はスサノオによる出雲神族の竜蛇信仰が弾圧されたときのものではないかということである。さらに、能義神社にみられないということは、恭順の印として、出雲神族にとって一番重要な場所に置かれたということではないだろうか。その線刻石が祭祀の対象になっていないのは、スサノオと天ノホヒの間に断絶があったということであろう。スサノオは出雲に長く居住せず、砂鉄を求めて石見から吉備の方へと移り、後にやはり朝鮮から渡って来たヒボコ族と同化し、大族になったという。吉備族がそうである。次に天孫族のホヒ族が来るまで間があったということは当然考えられるし、その間、出雲神族としてはスサノオに強制された線刻石を祭祀の対象にしようとは思わなかったであろう。ホヒ族は鳥トーテム族ではないかともされているから、牛か蛇かという争いにはあまり興味がなかったことも考えられる。熊野大社の神紋はもともとの出雲神族の神紋では亀甲に並び矛であったが、現在は亀甲に大の字であり、川崎真治氏によると大の字も牡牛神ハルを表す文字であるという。ここにも、牛族による竜蛇信仰への圧迫があるわけであるが、漢字化とともに線刻石の記号や文字の意味も忘れられていったのであろう。牛族による圧迫は、熊野大社の境内摂社の荒神社に牛の像が数体安置されていることにもみられる。川崎真治氏は荒神社の荒は牛を表すシュメール語のアルフドゥ、バビロニア語のアルプが古代日本でアラになり、漢字の荒があてられたのであり、牛を祭る神社であるとするが、一般に荒神は藁蛇をご神体とするように、蛇信仰と結び付けられているから、この川崎説は納得できない。吉野裕子氏の『日本人の死生観』によれば、島根県八束郡千酌の尓佐(にさ)神社の本社から数百メートル東寄りの森の中にある境外摂社の荒神社は同時に客人社でもあって、「オキャクサン」あるいは「マロトサン」と通称されているが、昔はアラハバキサンと呼ばれていて、島根半島にはこうした例が少なくないという塩田宮司の教示から、アラハバキ・マロト・荒神の三者は一つであるという。熊野大社の荒神社はヒボコ・物部連合の出雲侵攻以降、牛信仰を押し付けられた結果と見るべきであろう。
 ところで、川崎真治氏の本の他の例をみると、日本において蛇と牛の語順がそんなに重要だったのか、疑問に思える例もある。秋田県琴丘町の縄文遺跡から出土したメノウの線刻石では、祈るの文字の後、蛇・牛というものと牛・蛇という二つのものがある。これは、牛や蛇の記号や文字が刻まれていることが重要で、その語順はどうでもよかったということではないだろうか。ただ、熊野大社の線刻石に関していえば、そこに牛のマークが多く刻まれていることが、牡牛神ハルの強調として意味を持っていたのかもしれない。あるいは、もともと在った線刻石に、竜蛇信仰を捨てる証として、牡牛神のマークを多く彫らされたということもあるかもしれない。
 熊野大社の線刻石から、現熊野大社の地が遷座以前から何らかの聖なる場所という可能性が浮かんできたわけであるが、もちろんそれは出雲神族ではなくスサノオ族によるスサノオないし牡牛神を祭る場所だったということもありえる。しかし、もしそうならそこにもっとスサノオを祭る痕跡があってもいいのではないだろうか。熊野大社の祭神をクシミケヌとしてそれをスサノオに当てるというような間接的な方法ではなく、直接スサノオを祭神にしてもよさそうであるし、スサノオの子孫が祭祀に関わってくるはずであるが、それもなさそうである。やはり、出雲神族のきわめて重要な場所であり、そこは天狗山、市場地区にあった熊野大社と一体の場所だったと考える方が自然なのではないだろうか。現在佐太神社とされているものは風土記にいう佐太御子社であるが、その場所から朝日山を仰ぐこともできず、風土記の神名火山の条に佐太大神の社はこの山の麓にあるという記述とは合わないことから、現在の佐太神社とは別の所に佐太大神の社があったのではないかとも考えられている。佐太神社にかんしては、もともと神奈備山の朝日山に対して佐太大神の社と佐太御子社の二社があり、いつの時代か佐太大神の社が佐太御子社に吸収されていったということも考えられるわけである。現在地から西北へ約1.2km離れた大字佐陀本郷字志谷の奥の朝日山を正面に仰ぎ見る一角から銅剣六口と銅鐸二口が出土しているという。熊野大社についても、上社と下社、奥津宮の天狗山に対する中津宮と辺津宮、あるいは熊野の大神に対する御子社というように二つの神社があったかもしれないわけである。風土記には熊野の大社しか記されていないが、佐太神社についても、風土記では佐太の名のつく社が佐太御子社一社しか記されていない。谷川健一編『日本の神々』では、佐太大神の社が特定の氏人の祀る神社を意味せず、かつての狭田の国に共通する祖神の拝所とでもいうようなものであったとすれば、社名列記の条にあげられていないのは当然だともいえないこともない、とするが、熊野大社の場合は現熊野大社の地がもともとの出雲大社の鎮座地だったということも考えられる。出雲神族の伝承では出雲大社が杵築へ移ったのは霊亀2年(716)のことで、それまでは熊野にあってクナトノ大神を祀っていたという。出雲国造家が現熊野大社の地にあった下社あるいは御子社を杵築に移して独立させ、大国主命を祭神として自分たちの管理下においたのかもしれない。それは、クナトノ大神を抹殺し、大国主命を出雲の主神とする記紀の方針に沿った動きとも考えられる。ただ、出雲神族は壬申の乱の時には天武についたというから、持統と藤原氏が権力を握ることにより、出雲神族に逆風が吹き出したということなのであろう。

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出雲の大神と神奈備山

 熊野大社の神体山である天狗山の方位線をみると、まず目に付くのは能義神社との東北30度線である。ただ、能義神社は中世火災で焼失するまで背後の丘にあったというから、その場合は天狗山との方位線も微妙になるが、能義神社がやはりクナトノ大神を祀る出雲井神社と東西線をつくることからも、天狗山と能義神社が方位線をつくると考えていいであろう。能義神社と出雲井神社の東西線は能義神社と出雲大社との東西線とも考えることができるかもしれない。
  天狗山―能義神社(E0.367km、1.5度)の東北30度線
  能義神社―出雲井神社(S0.209km、0.25度)の東西線
  出雲大社―能義神社(S0.290km、0.34度)

 風土記で四大神の一つ能義の大神とされた能義神社は、やはり熊野の大神とされた天狗山と所造天下大神とされた出雲大社と方位線で結ばれていたが、残る佐太の大神の朝日山とも西北30度線をつくる。このように風土記の四大神が方位線的と密接に関係しているとするなら、朝日山と現熊野大社の西北60度線も方位線として成り立つのではないだろうか。
 現熊野大社は神奈備山とされた大船山・朝日山と方位線をつくり、能義神社もやはり朝日山と方位線をつくっていた。また、大船山からの東北30度線には出雲大社が位置している。この方位線は出雲大社鎮座以前は弥山との方位線だったのであろう。また、同じく神奈備山と記されている茶臼山は佐太神社と東北45度線をつくる。これらのことから出雲風土記の神奈備山も方位線と深く関係しているかもしれない。残る神奈備山の仏教山であるが、布自伎弥社のある嵩山と東北30度線をつくり、嵩山は能義神社と西北45度線をつくっている。風土記に出てくる神奈備山や大神の社は出雲の方位線網の一部と考えるべきかもしれない。仏教山の東西線が市場地区の南を通るので、市場地区の上の方にあったという元の熊野大社と東西線をつくっていた可能性もある。仏教山と嵩山の東北30度線上に石宮神社がある。風土記では宍道郷の地名起源はオオナモチが追った猪の石の像が南の山に二つ、また猟犬の石の像が今もあるからとなっているが、猪の石像は石宮神社の鳥居の両脇にある巨石がそうであり、犬の石像はご神体の石がそうであるという。また、これには大字白石字宍岩の夫婦岩説もあるが、夫婦岩は家畜市場北西の丘陵で家畜市場の横から入っていくというから、家畜市場裏の丘ということであろう。そうすると、そこもまた仏教山からの東北30度線上に位置している。夫婦岩は出雲井神社の東西線上にも位置していると考えられるのに対して、石宮神社の東西線上には弥山がある。また、石宮神社と佐太神社が東北60度線をつくるが、もし銅剣と銅鐸が発見された場所近くに佐太の大神を祭る社があったとすると、夫婦岩と東北60度線をつくっていた可能性もある。夫婦岩は恵曇神社と東北60度線をつくる。また、佐太御子社である佐太神社の東西線上に朝日山が、西北60度線上に恵曇神社があり、西北45度線上に佐太の大神の社があったということなのかもしれない。佐太の大神の社は朝日山と東北30度線をつくっていた可能性もある。
 荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は仏教山と夫婦岩に関係しているのかもしれない。荒神谷遺跡と仏教山が東北45度線をつくる。また、夫婦岩の正確な位置はわからないが、加茂岩倉遺跡と東北60度線をつくっている可能性が大きい。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡も数字的には微妙であるが、西北30度線をつくっている可能性もある。もし方位線が何らかの実体性をもって存在しているとしたら、それは数字で割り切れる世界ではないであろう。そう考えると、仏教山・夫婦岩・荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡が方位線網をつくっていると考えてもよさそうである。荒神谷遺跡は権現山とも東北30度線をつくる。一方、加茂岩倉遺跡と大黒山の西北45度線は微妙である。
  朝日山―能義神社(E0.235km、0.54度)の西北30度線
  大船山―弥山山上神社(E0.388km、1.39度)―出雲大社(W0.166km、0.54度)の東北30度線
  茶臼山―佐太神社(E0.164km、0.82度)の西北45度線
  仏教山―夫婦岩±(W0.030km、0.21度)―石宮神社(W0.009km、0.05度)―嵩山(E0.211km、0.42度)の東北30度線
  嵩山―能義神社(E0.297km、1.22度)の西北45度線
  弥山山上神社―石宮神社(S0.075km、0.21度)の東西線
  出雲井神社―夫婦岩±(S0.302km、0.9度)の東西線
  石宮神社―佐太神社(E0.365km、1.52度)の東北60度線
  夫婦岩±―恵曇神社(W0.208km、0.72度)の東北60度線
  佐太神社―朝日山(S0.025km、0.59度)の東西線
  佐太神社―恵曇神社(W0.053km、1.63度)の西北60度線
  仏教山―荒神谷遺跡(W0.020km、0.39度)の東北45度線
  加茂岩倉遺跡―夫婦岩±(W0.004km、0.05度)の東北30度線
  荒神谷遺跡―加茂岩倉遺跡(W0.168km、2.85度)の西北30度線
  権現山―荒神谷遺跡(W0.012km、0.62度)の東北30度線
  大黒山―加茂岩倉遺跡(W0.118km、3.8度)の西北45度線

 能義神社には『延喜式』に出てくる天穂日命神と同一神とする説がある。現在、天穂日命神は安来市吉佐町の支布佐神社(旧天津大明神)に比定されているが、天穂日命を祖とする出雲国造の代替わりには能義神社への参拝・奉幣があったといい、出雲大社と能義神社の特殊な関係がうかがわれる。天穂日命神が能義神社であろうと、支布佐神社であろうと、支布佐神社も出雲大社の東西線上にあることから、出雲国造が出雲大社からの東西線を重要視したことは確かだと思える。出雲大社と飯石神社も西北45度線をつくる。祭神はこの地に天降りしたイビシツヘノミコトであるが、社伝ではアメノホヒの子武夷鳥命と同一神であり、出雲国造家によって祖神として崇められ、今も例大祭には出雲大社の宮司が参向、奉幣する慣わしになっているという。なお、出雲井神社と出雲大社は東西線をつくるわけではなく、偏角的には問題があるかもしれないが、西北30度線をつくっていると考えてもいいかもしれない。
  出雲大社―支布佐神社?(N0.529km、0.53度)の東西線
  出雲大社―飯石神社(E0.139km、0.34度)の西北45度線
  出雲井神社―出雲大社(W0.045km、2.38度)の西北30度線

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吉備族・物部の出雲侵入

 吉田大洋氏が出雲の富氏や神魂神社の秋上氏、但馬の出石神社の神床氏などから聞き出した出雲の古代をまとめると、まず朝鮮半島からスサノオが出雲に鉄を求めて進入してきたらしい。富氏の伝承では、スサノオは馬を連れて須佐の港にやってきたが、斐伊川の古志人が暴れ、テナヅチ・アシナズチが助けを求めたので、スサノオがこれを制圧した。ヤマタノオロチの一件は砂鉄採取権の争奪戦をトーテム戦争の形で記したものであり、出雲人はみな口には出さないが、自分たちを龍蛇族と思っているという。出雲神族はスサ族に敗れ、やがて婚姻により習合したが、スサ族は出雲に永く居住せず、石見から吉備の方へ移動していたったという。秋上氏の話でも、出雲神族は弓ヶ浜を拠点とし、古志の人々を使って肥川を治水し、砂鉄を採っていたが、古志人はなかなかの暴れん坊で、鉄を求めてやってきたスサノオがまず衝突したのが古志人だったといい、また、須佐神社は分家で、ここらあたりでは須我神社に御参りすることになっているという。スサノオは出雲を我がもの顔に歩いたが、進んだ朝鮮文化を持ち込むという役割も果たしたらしい。
 次に侵入してきたのが、出雲で王の娘と結婚していたホヒが手引きした天孫族で、九州から船で攻めてきた天孫族と出雲神族は稲佐浜で戦ったが一敗地にまみれた。国造家の『出雲文書』にもホヒは隠忠(スパイ)であったと書かれているという。秋上氏も、ホヒ一族は九州から対馬海流にのり、海路出雲入りしたといい、天ノホヒの祖神は天ノコヤネであるという。ホヒ族はその後大和まで攻め入り、大和での戦いの方が激しかったというが、天孫族の支配はそれほど過酷なものではなかったらしい。その後、出雲神族は神武と山陽道から大和にかけて戦うことになるが、神武は出雲には侵入しなかったと考えるべきであろう。同じ天孫族であるが、ホヒの手引きで侵入してきた天孫族と神武の関係はよく分からない。富氏の伝承では神武の出身地は日向となっている。
 出雲神族の伝承によれば、最後に侵入してきたのが、ヒボコ族とスサ族が合流した吉備族と物部氏の連合軍であるという。出石神社の神床氏の伝えるところでは、天ノヒボコが当初上陸しようとしたのは出雲であったが、出雲人に追われ、但馬に流れてきたので、土地の豪族であった神床氏の祖先が娘をやり、出石谷に住まわせたのだという。富氏の伝承では、ヒボコ族はやがて若狭・近江から大和に進出し、新羅系と結んで一大勢力になると、播磨から吉備・筑紫へとさらに進出していったらしい。播磨国風土記にもあるように、ヒボコ族と出雲神族の正面衝突は播磨国でおこり、神床氏の伝承でもヒボコ族とそれに加勢した伊予国湯津の百済系渡来人が出雲の軍勢と戦ったという。富氏の伝承では、淡路の百済人もヒボコ族に加勢したらしい。播磨で出雲神族に勝利したヒボコ族は久米川沿いの鉄を求めて吉備に殺到し、「韓の奴」を使って製鉄にはげみ、やがて吉備王国と称される大勢力になっていく。このころからヒボコ族はスサ族と同化を始めたというから、吉備族はヒボコ族とスサノオ族の統合氏族ということになる。ヒボコ族が侵入してきた以前の吉備は出雲神族も吉備で大きな勢力をもっていたということから、吉備津彦神社の摂社の幸神社も祭神は猿田彦命で道祖神と記されているが、元々はクナトノ大神が祭神だったと考えるべきであろう。吉備で力を蓄えたヒボコ族は出雲に侵攻を始める。富氏の伝承では、物部氏とヒボコ系吉備津彦の軍勢が出雲に侵攻してきて、彼らは逃げまどう出雲人を捕まえ、殺し続け、出雲神族の主たるものはほとんど殺され、出雲神族は最後のトドメを刺されたという。このときの総指揮官が神魂神社の宮司秋上氏の先祖で、秋上氏は今もそのことを自負しているという。吉田大洋氏によると、彼らの最前線基地が神魂神社で、そこを拠点に出雲人の監視を始めた。ホヒ族の国造家では代がかわるごとに熊野大社に赴き、神火神水の儀式を受けることになっていたが、崇神天皇の時に起きたという出雲の神宝事件以降、儀式は神魂神社で行われることになったが、これは、神々の承認から天存続の承認に代わったことを意味するという。富氏の伝承では、神宝事件は熊野大社に安置していたクナトノ大神の神宝、勾玉を天孫族が奪ったのであり、秋上氏にも、物部・ヒボコの軍勢が出雲に攻め込み、弓ヶ浜に拠点をおいた高志人がハガネを採らせていた出雲人を討伐し、神宝を天孫族に献上したという伝承が残っているという(ここでは出雲人が高志人を使ったのではなく、高志人が出雲人を使ったように記されている)。
 吉田大洋氏によれば、ヒボコ族が出雲に入ったことは、吉備部臣、白髪部臣が吉備から出雲にかけて分布していることでもわかり、白髪・白髭の名のつく神社の祭神はヒボコであるという。また、出雲の松本一号古墳と神原神社古墳は、吉備の湯迫塚古墳と非常に似ており、両古墳の被葬者は吉備から進駐した指揮官だろうといわれているという。ただ、現在物部氏などは神魂神社の秋上氏や石見一の宮の物部神社などその存在感に大きなものがあるのに対して、ヒボコ族の影は薄いといえるであろう。風土記などを見ても、ヒボコ族の影は薄い。これは、ヒボコ族とスサ族が同化していたとするなら、ヒボコ族は出雲ではスサノオを前面に出したと理解すべきではないだろうか。そうすると、出雲のスサノオ関係は最初に出雲に来たときのスサノオに関するものと、ヒボコ族が出雲に侵入してから出雲に押し付けたスサノオ関係の二つのものがあることになる。出雲に来たスサノオはすぐ吉備の方へ移動したといのであるから、最初のスサノオ関係の伝承や場所は出雲にそんなに多くはなかったと考えられる。物部氏とヒボコ系吉備氏とどちらが指導権を握っていたのであろうか。近江雅和氏は『記紀解体』で物部氏がヒボコ族などを率いて出雲に侵攻したとみているようであるが、播磨から吉備、吉備から出雲という鉄を求めた一連の動きが連動しているとすれば、ヒボコ系吉備氏が主体であったようにも思われる。物部神社の社伝では祭神の宇摩志麻遅命は天香具山命とともに物部の兵を率いて尾張・美濃・越国を平定し、天香具山命は伊夜彦神社(弥彦神社)に鎮座したが、宇摩志麻遅命はさらに丹波・播磨を経て石見国に入ったという。丹波・播磨という進路は吉備に侵攻したヒボコ族の進路にほぼ一致するから、これはやはり出雲侵攻の主体がヒボコ族にあったことの反映ではないだろうか。ウマヒマジはニギハヤヒと出雲神族のナガスネヒコの妹トミヤ姫の間に生まれたことになっているが、富氏の伝承にはニギハヤヒは出てこないという。吉田大洋氏はニギハヤヒは尾張氏の祖神で物部氏とは無関係であるとする。
 物部神社と神魂神社が東北30度線をつくる。物部神社が総司令部で神魂神社が出雲の前線司令部、そして総司令部と前線司令部を方位線が結んでいると考えることができるであろう。神魂神社の南北線上には天狗山があり、西北45度線上には朝日山がある。これらの方位線もヒボコ・物部氏の出雲支配と密接な関係があると思われる。というのも、風土記では越の八口を平定して帰ってきた大穴持命は母里の郷の長江山で、自分が領有して治める国は皇御孫命に譲るが、ただ八雲立つ出雲の国は自分が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし、たま(霊魂)を置いて守ろう、といったとされる。長江山(永江山)は永江峠の西の標高570mの山であるが、大穴持が詔したのは永江峠の東の稚児岩であるという。永江から旧道を1km登った標高500m付近の尾根上にある、長さ10m、幅5m、高さ20mの巨石で、下は谷底まで80mの絶壁になっているというから、地図で永江峠のすぐ東、500m等高線上にある岩場の記号がそうなのであろう。そうすると、神魂神社と朝日山の西北45度線上に長江山の稚児岩があることになり、大穴持命の降伏宣言の場所が神魂神社と方位線をつくっているわけである。これは、神魂神社の方位線上にある場所が降伏宣言の場所に相応しいと考えられたということであろう。元々は、朝日山と稚児岩ないし長江山が方位線をつくっていた可能性がある。
 神魂神社は社伝では天穂日命が此地に天降って創建したといわれ、もともと熊野大社から松江に向かう途中の神納峠手前左側にあるイザナミの墓といわれる岩坂陵墓参考地のところにあったともいわれる。かっての出雲国造の居館は現在の神魂神社に近い場所ではなかったかといわれ、神魂神社は風土記にも延喜式にもみえず、文献に現れるのは鎌倉初期で、現在の研究段階では、もともの通常の神社ではなく、出雲国造の斎場ともいうべきものであったと推定されている。神魂神社と秋上氏、秋上氏と出雲国造の関係ももう一つ分らない。「秋上家文書」では、神主という言葉が初めて現れてくるのは16世紀初頭で、それまでは代官とか権神主と記されているという。これでは秋上氏が国造家から独立したのは16世紀以降で、吉田大洋氏のいうように出雲が秋上氏の監視下にあったとはとはいえなくなる。吉田大洋氏によると、南北朝時代に国造家が北島・千両家に分裂し、康永三年(1342)に両家は和議状をとり交わすが、この時一役買ったのが秋上氏で、以来国造家は秋上氏に頭が上がらなくなり、特に千家は秋上氏を敵視するようにまでなったという。しかし、それ以後も秋上氏が公式的には代官や権神主の地位にあったということは、同じ構造がそれ以前からあったかもしれないわけである。そうでなければ、単に北島・千両家の和議に一役買ったぐらいで、秋上氏の「千家は神々との対話の秘事を知らない。なにしろ私が伝えていないのだから」といった言葉が出てくるだろうか。この秋上氏の言葉は、千家が神魂神社ではなく熊野大社で新国造の火継式を行っていることとも関係していると思われるが、そうするとやはり神魂神社での火継式が出雲の神々の承認ではなく、ヒボコ・物部連合軍による承認だったということになる。火継式の熊野大社から神魂神社への交代が国造家の主導のもとに行われたとすれば、杵築への移転後は出雲大社で行われるようになってもいいはずであるし、神魂神社自体がもともと岩坂陵墓参考地から居館近くの現在地に移したのであるとすれば、さらに杵築に移してもいいはずである。そもそも国造の新任が出雲の神々ではなく国造家の神々の承認でいいなら、出雲の神を祀る出雲大社も必要なかったはずである。これはあくまでも出雲の神は国造家に祀らせ、ただ国造の新任はヒボコ・物部連合軍の手に置くということではなかっただろうか。現在神魂神社は伊弉冊を主祭神とし、伊弉諾を合祀しているが、伊弉諾はもともとは淡路の地方神であったともいわれるから、出雲神族とヒボコ族が播磨で衝突したとき、淡路の百済人もヒボコ族に加勢したという出雲神族の伝承から、出雲にイザナギ・イザナミ信仰を持ち込んだのはヒボコ・物部連合軍だった可能性もある。
 神魂神社と国造家と秋上氏の関係は方位線的にみても複雑である。神魂神社の東北45度線上に飯石神社がある。飯石神社の神は天穂日命の子の天夷鳥命と同一神ともいわれ、今でも例大祭には出雲大社の宮司が参向、奉幣する慣わしになっている。さらに、飯石神社は出雲大社と方位線をつくっていた。これからは神魂神社もやはり国造家と結びつきの強い神社ということになるであろう。しかし、出雲大社は物部神社とも東北60度線をつくるのである。これは、出雲大社も物部神社の監視下に置かれているということであろう。そうすると、神魂神社はもともと国造家の神社だったかもしれないが、そこに秋上氏が入り込んだということは、やはり監視する立場で入り込んだということになる。出雲大社と物部神社の東北60度線上に宇佐神宮があった。
 一方、神魂神社は須我神社とも東北60度線をつくる。これは、神魂神社と吉備族・物部連合軍指揮官秋上氏の強い繋がりを示しているといえよう。物部神社と神魂神社の東北30度線上には高麻山があるが、風土記ではスサノオの子のアオハタサクサヒコが山の上に麻を蒔いたとされ、今も山頂にその神を祀る小祠があるという。高麻山の東西線上に神原神社古墳が位置している。
  物部神社―高麻山(E0.317km、0.42度)―神魂神社(W0.102km、0.10度)の東北30度線
  天狗山―神魂神社(E0.184km、1.10度)の南北線
  朝日山―神魂神社(E0.100km、0.43度)の西北45度線
  神魂神社―稚児岩(E0.062km、0.14度)の西北45度線
  神魂神社―飯石神社(W0.114km、0.24度)の東北45度線
  神魂神社―須我神社(W0.204km、1.25度)の東北60度線
  高麻山―神原神社古墳(N0.075km、1.62度)の東西線                                   
 物部神社にとって重要な場所として四国の剣山を考えなければならない。というのも、物部神社と剣山が西北45度線をつくり、物部神社はスサノオが天降って来たという船通山と東西線をつくるが、船通山と剣山も西北60度線で結ばれているのである。船通山の西北60度線方向に須我神社がある。高知県の物部川の下流には物部氏がいたといい、物部川の上流に剣山があるわけであるから、出雲に侵攻した物部氏にとって、剣山は重要な意味を持っていた可能性がある。剣山からの方位線で興味深い場所がもう一つあり、剣山の東北45度線上に阿波一宮の大麻彦神社の神体山大麻山が位置している。大麻山の山頂にはサルタヒコが祀られているというが、これも元々はクナトノ大神だった可能性が大きい。というのも、方位線的にいうと、大麻山と大麻彦神社は出雲神族と密接な関係があるのである。天狗山と吉備の高島が西北45度線をつくっていたが、大麻山はその延長線上に位置している。また、大麻彦神社は吉備の美和神社と西北60度線をつくり、丹波の出雲大神宮と東北45度線をつくる。このように、その方位線上には出雲神族系の神社が展開していることが分かる。一方、石見にも大麻山があり、三隅町室谷の大麻(おおま)山神社の『石陽大麻山縁起』に宇多天皇の御宇仁和四戌申(888)のこととして、「南方ノ黒雲ノ中ニ有猛火、車輪ノ如ク来リ期山に停ル、天明テ之ヲ見レバ阿波国板野郡ノ権現ノ大麻アリ。」とあるといい、大麻比古神社と深い関係があるといわれるが、石見の大麻山も天狗山と東北30度線、出雲井神社と東北45度線をつくり、このことからも阿波一ノ宮の大麻比古神社と大麻山が天狗山と関係あることがわかる。なお、出雲大神宮と大麻彦神社の東北45度線上に淡路の伊弉諾神社が位置している。
  出雲大社―物部神社(E0.204km、0.37度)―宇佐神宮(E0.558km、0.13度)の東北60度線
  剣山―物部神社(W0.058km、0.02度)の西北45度線
  剣山―船通山(W0.215km、0.07度)の西北60度線
  船通山―物部神社(S0.075km、0.07度)の東西線
  船通山―須我神社(W0.563km、1.25度)の西北60度線
  剣山―大麻山(E0.228km、0.25度)の東北45度線
  天狗山―大麻山(E0.088km、0.25度)の西北45度線
  大麻比古神社―美和神社(W0.359km、0.32度)の西北60度線
  大麻比古神社―伊弉諾神社(W0.009km、0.01度)―出雲大神宮(W0.173km、0.07度)の東北45度線
  天狗山―石見大麻山(E0.876km、0.44度)の東北30度線
  石見大麻山―出雲井神社(W0.918km、0.59度)の東北45度線
 ヒボコ族は播磨から吉備に侵入したわけであるが、ヒボコ系の播磨と吉備の方位線はよくわからない。ただ、高島と吉備中山が西北30度線をつくっていたが、但馬の出石神社も吉備中山・吉備津彦神社と東北45度線をつくっていた。播磨一宮の伊和神社は、延喜式では伊和坐大名持御魂神社と記され、祭神を大己貴神とし、少彦名神・下照姫神を配祀する出雲神族系の神社と考えられるから、高島と伊和神社の東北45度線が吉備と播磨の出雲神族を結ぶ方位線になっている。その延長線上には丹後籠神社奥宮の真名井神社があったから、この方位線は吉備と播磨と丹波・丹後を結ぶ出雲神族の方位線であり、吉備と四国・丹波を結ぶ方位線が高嶋・大麻彦山・出雲大神宮の方位線連絡網だったわけである。なお、出石神社と伊和神社も東北60度線をつくっている。これは、出石神社を霊的拠点としながら、ヒボコ族は播磨から吉備へと進出していったということであろう。
  出石神社―吉備中山南の峰▲128m(W1.124km、0.50度)の東北45度線
  高島―伊和神社(E0.280km、0.21度)の東北45度線
  出石神社―伊和神社(W0.388km、0.44度)の東北60度線

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出雲神族と東北・九州

 富氏の伝承では、出雲神族は東北から出雲へ西下したという。その伝承の中には東北の山や湖が多く出てくるというが、出雲と東北の方位線をみると、天狗山が月山と東北30度線をつくる。月山は岩手山と東北60度線をつくり、岩手山は西北60度線上の岩木山麓の大森勝山ストンサークルを通じ岩木山と結びついていた。
岩木山では六月と十二月の末日に道饗祭りを行い、ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ、クナドノ神の三神を祀るというが、吉田大洋氏によると、天孫族が都を移すたびにサエの大通りをつくってクナトノ大神を祀り、六月と十二月に道饗祭を催し祝詞を捧げたという。また、岩崎敏夫『東北の山岳信仰』で引用している小舘衷三氏の『岩木山信仰史』では、「伝説に、開国大元尊(大己貴・大国主命ともいう)が津軽に降臨(岩木山なるべしという)して土地を経営した話の中に、津軽はよく土地が肥えていて多くの子どもを遊ばせるによい所とあり、阿曽部という名がついた。田光沼から竜女が大国主命に玉を献上し、夫婦になって津軽の経営にあたり、のちに岩木山上の磐椅宮に祀られた。それで玉を国安珠、竜女を国安珠姫という。」とあり、アラハバキ神は大元神ともいわれたとのことであるから、岩木山はクナトノ大神ともアラハバキ神とも結びつく山であったといえる。吉田大洋『謎の弁才天女』によれば、富當雄さんが亡くなる数日前、我々の大祖先はクナトの大首長(おおかみ・岐神)だが、もう一つ隠された女首長にアラハバキ(荒吐神)があり、体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変身した、と言い遺していったという。伯耆大山では根深い地蔵信仰がみられるが、これはもともとがクナトノ大神を祀る山だったからかもしれないわけである。同書によれば、倶知安のアイヌの酋長菊池俊一夫妻の言葉として、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で、本来一対のものだったという。また、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、竜神信仰を禁じられた出雲神族は弁才天と不動明王を裏信仰としたが、特に弁才天を選んだのは古くから出雲系宗像三神のイチキシマ姫と同体視されていたからだともいう。
 現熊野大社は津軽十三湖北の靄山と東北45度線をつくる。ただ、熊野大社が元々市場地区の上にあり、今の熊野大社の地に何も無かったとすれば、靄山の方位線上に熊野大社が位置しているという考えは微妙になるが、現熊野大社は九州の高良大社とも東北45度線をつくり、靄山―熊野大社―高良大社が方位線上に並んでいるというのは魅力的な話である。というのも、出雲神族の伝承では磐井の乱の筑紫の国造磐井と継体は出雲神族の一員で、渡来人たちが自分たちの天皇を立てようとして争い収拾がつかなくなった時、その混乱を収めるため、渡来人たちに対して中立的立場にあった出雲神族に天皇を出すように大伴氏や物部氏からの要請があり、ヒボコ族も協力を誓ったので、遂に古志方面で首長をしていたオホトが継体が天皇として即位したのだという。しかし、継体は渡来人に殺され、それを聞いた全国の出雲神族が反乱を起し、それにヒボコ族も合流したが、その最たるものが磐井の反乱だったという。高良大社の祭神については、様々なことがいわれているが、磐井が最後の決戦を行ったのが高良大社の近くで、磐井はその決戦場を自分たちの神の山である高良山の近くに求めたのではないかという指摘もある。越境の会編『越境としての古代』の兼川晋氏の論文によれば、名前は伏されているが磐井につながる系図・古文書を、高良大社の千六百年御神期祭でも古代に則って御神幸の先導をつとめた高良大社氏子総代によって現在まで伝承されており、その先祖は高良大社の祭祀を主宰する職であったという。兼川氏の論文には磐井と出雲神族との関係はまったく触れられていない。磐井を倭の五王の嫡系ではないが傍系筆頭の家系として、代々、高良大社の祭祀を主宰していたとするが、伝承されている系図・古文書の内容にはまったく触れられていないので、兼川氏の説が高良大社氏子総代の家に残された系図・古文書をもとにした説かどうかは分らない。ただ、磐井と高良大社の強い結びつきはいえるであろう。高良大社は英彦山と東北30度線をつくるが、英彦山の宮司をしているのが出雲神族の一員と考えられている大神氏の子孫であり、また、英彦山の西北45度線上には宗像大社とその中津宮があるが、宗像氏も出雲神族と関係が深いと考えられている。宗像大社の方位線でいえば、宗像の神が降臨したという六ヶ岳と宗像大社が西北30度線をつくっており、六ヶ岳ともう一つの宗像の神降臨伝承地である鐘ノ岬神社と宗像大社奥宮の沖ノ島が西北45度線をつくっている。また、六ヶ岳は出雲井神社と東北45度線をつくっている。
 市場地区の上にあったという旧熊野大社は、高良山山頂からの東北45度線を引いてみると、そんなに離れた所にはあったとは考えられない。さらに、高良大社を含めて高良山を考えれば、高良山―熊野大社―靄山の重要性から、それらが東北45度線を作っていると考えていいのではないだろうか。伯耆大山は厳鬼山神社と東北45度線をつくる。あるいは大山と岩木山が方位線をつくるといってもいいのかもしれないが、厳鬼山神社は靄山と南北線をつくっていたから、これらのことからも熊野大社と靄山が方位線的に関係していたのではないかと考えられるのである。天狗山と靄山の方位線も考えたくなるが、天狗山からの東北45度線上には興味深い場所がある。天狗山からの東北45度線は十三湊安東館跡や福島城跡を通って、その先に神名宮があるのである。神名宮が鎌倉時代まではナガスネヒコ神社といわれていたというが、出雲神族の伝承ではナガスネヒコも出雲神族で、神武に追われて出雲で死んだという。神名宮と靄山の西北60度線は微妙であるが、方向線としては成り立つのではないだろうか。神名宮からの西北45度線上にキリストの墓がある。キリストの墓は近くの沢口家のもので、十代塚と十来塚という二つの塚からなっており、もしかしたらそれは安日彦と長脛根彦の墓なのかもしれない。あるいわそこは奥州で長髄彦と関係するような人たちと結びつく場所だったのかもしれない。柞木田龍善『日本超古代史の謎に挑む』に、昭和23年頃の沢口家当主との会見記が載っている。それによると、当時より25、6年前、85才で亡くなった先々代が若い頃、村の庄屋からお触れが出て、古い文書はすべて焼いてしまったという。それはおそらく明治維新前後のことと考えられるから、神社やお寺でもみんな古い書物を焼いてしまったということは、戸来村一帯が明治政府との関係で、自分たちに災いをもたらすかもしれない伝承の根強く残っていた場所だったのではないだろうか。佐藤有文『津軽古代王国の謎』によれば、戸来地方ではキリスト教信者もおらず、隠れキリシタンの墓も見つかっていないという。そうすると、新政府にたいして自分たちに不利益になるような伝承とは、キリスト教とは関係ないものということになる。なお、同書によれば、秋田県鹿角地方では「十和田湖の山奥にはキリストの塚がある」という伝説が、江戸時代よりも古くから伝えられていたというが、キリシタン禁制の江戸時代にそのような伝承が一般に広がっていたとも思えず、その出所がどのような文献なのか気になるところである。沢口家では、キリストの墓について、先々代が亡くなる時に、「殿様を埋けたところだから粗末にするな」といって死んでいっただけだという。キリストの墓に隣接して、館跡と野月館といわれる場所が堀一本で区切られて在り、ともに1ヘクタールほどの、三方の高さ40mもあるような絶壁に囲まれた人工的に造られた城跡らしい場所で、石で作った丸形の細長いお膳とか水瓶のかけらなどが鍬に引っかかって掘り起こされるというし、本丸や二の丸的な構造を持った城に拠る豪族ともなれば、戸来村には名が伝わっていてもおかしくなく、またその子孫と名乗る人がいてもいいはずである。しかし、そのような伝承が残っていないということは、そうとう古い時代のもので、それは石でつくつたお膳などからもイメージされてしまうのであるが、安倍・安東氏と関係する城跡だった可能性もあるわけである。キリストの墓と靄山は方位線をつくらないが、キリストの墓と青森市の靄峠と靄山が一直線上に並ぶ。
 月山と刈田嶺神社がかってはその山頂にあったという青麻山が西北45度線をつくる。青麻山と刈田嶺神社も西北45度線をつくっている。この青麻山と丹後の籠神社奥宮の真名井神社が東北30度線をつくり、その線上にピラミッドといわれる尖山があり、尖山は諏訪神社の神体山である守屋山と西北45度線をつくっている。また、その東北45度線上には弥彦神社近くのピラミッドといわれる角田山がある。角田山はあまり関係ないと思われるが、船通山と西北30度線をつくる。諏訪大社上社本宮と塩竈神社が東北45度線をつくるが、『先代旧事本紀大成経』には祭神は長髄彦とされているという。諏訪大社と長髄彦との関係でいえば、高知県池川町寄合に長髄彦を祀る神社があるという。中町子菊『卑弥呼のくに土佐』に載っている、中平さんという人の語るところによれば、「神社の名前は明玉柄天神社で、祭神は『安家古文書』に建久三年九月六日(1192)長髄彦を祭ると書いてある。大昔から、カヅラも切られんと言われてきたきに。井戸が向うの坪井という所にあって、そこから移したのですが、そこも日当たりのよい、ええところです。」ということであり、明玉柄天神社はもともとは寄合の西のツボイ地区にあったらしい。守屋山の東北30度線がツボイの集落を通るので、井戸のある場所もそこからそう遠い所ではないであろうから、守屋山の方位線上にやはり長髄彦を祭神にした神社があったことになる。ツボイの集落の西北45度線上には厳島の弥山があり、東北60度線上に吉備中山があるが、明玉柄天神社とこれらの場所も方位線をつくっていた可能性もある。
  天狗山―月山(W0.590km、0.05度)の東北30度線
  月山―岩手山三角点(E0.266km、0.09度)の東北60度線
  靄山―現熊野大社(E1.464km、0.09度)の東北45度線
  現熊野大社―高良大社(E0.315km、0.06度)の東北45度線
  高良大社―英彦山(W0.121km、0.18度)の東北30度線
  英彦山(W0.799km、0.83度)―宗像大社―中津宮(E0.064km、0.35度)の西北45度線
  六ヶ岳―宗像大社(E0.168km、0.54度)の西北30度線
  六ヶ岳―鐘ノ岬神社(E0.812km、2.23度)―沖ノ島(E1.443km、1.69度)の西北45度
  六ヶ岳―出雲井神社(E0.697km、0.15度)の東北45度線
  天狗山―神名宮(E0.427km、0.03度)の東北45度線
  神名宮―靄山(E0.240km、2.51度)の西北60度線
  神名宮―キリストの墓(W0.024km、0.01度)の西北45度線
  キリストの墓(0.21度)―靄峠(0.156km)―靄山(0.16度)の直線
  伯耆大山―巌鬼山神社(W1.102km、0.07度)の東北45度
  月山―青麻山(W0.753km、0.57度)の西北45度線
  青麻山―刈田嶺神社(E0.077km、0.77度)の西北45度線
  真名井神社―尖山(E0.717km、0.18度)―青麻山(E0.120km、0.01度)の東北30度線
  尖山―守屋山(W1.326km、0.78度)の西北45度線
  尖山―角田山(W0.988km、0.29度)の東北45度線
  船通山―角田山(E0.241km、0.02度)の東北30度線
  諏訪大社上社本宮―塩竈神社(W1.243km、0.19度)の東北45度線

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出雲神族と石動山

 大穴持命が平定した越の八口は新潟県岩船郡関川村八ッ口とされるが、ヤマタノオロチのこととも、越ではなく出雲の地名ではないかともいう。関川村八ッ口であるが、その周辺で月山の東北60度線と青麻山の東西線が交わる。ただ、八口は方位線的に富山県高岡市の八口である可能性もある。八口周辺は竜神信仰とも結びつく場所だったようである。近くの手洗野の信光寺に龍梅水(りゅうばいすい)伝説が残っている。その伝説によれば、その昔、近くに夫婦の龍がすんでいたが、あるとき赤丸城の殿様が、狩りに出かけた時、身の丈60mもの大蛇の姿となって山を巡っていた雄龍に出くわし、驚いてこれを弓矢で射ち殺した。それ以来、殿様は原因不明の病気になり、ついに亡くなってしまった。このころ手洗野にある古いお寺へ、いつからともなく、一人の美しい女の人がお堂の外に佇んでそっと手を合わせる姿が見られるようになった。和尚さんが訳をたずねると「罪もない夫が害されたために、私は龍の身でありながら赤丸の城主を呪い殺してしまいました。この上は、夫とともに往生できるよう願うばかりでございます。」という。和尚さんはこの龍女の心を哀れに思い、後日、本身をあらわしてたずねて来るようにと言うと、約束の日、もの凄い暴風と大雨に混じって霰までもが降り注ぐ黒雲があたりをおおう中、一匹の巨大な龍がお寺の禅堂に巻きついている。和尚さんは、仏・法・僧に帰依するための三帰戒を授け、仏様の弟子となったことを示す血脈をこの龍の耳にかけてやると、龍女は満足の涙を流していずこともなく飛び去った。後日、龍女は女の人の姿となってお寺にやってきてなにかお礼がしたいと言うので、この寺は水の便が悪いので困っていると和尚さんが言うと、龍女は、お寺の境内のどこでも好きな場所を掘り、人間の肌のような木の根を起こせば水が湧くでしょうと答え、さらに梅の実を二つ、残していった。実からは立派な紅梅と白梅が育ち、また、教えられた通りに掘ったところから清らかな水があふれ出し、やがて人々は、この泉を「龍梅水」と呼ぶようになったというものである。
 高岡市八口は尖山の西北30度方向にあるが、注目すべきはその南北線方向にある石動山である。方線的には、信光寺のほうが尖山とも石動山ともより正確である。石動山は方位線的に出雲神族と関係が深い山である。その、東北60度線上に丹波の出雲大神宮、東北45度線上に籠神社海の奥ノ宮沓島、西北45度線上に諏訪大社下社秋宮がある。沓島・冠島と尖山が方位線をつくっていたのであるから、沓島・冠島の方位線上にある二つの山からの方位線上に高岡市の八口は位置しているわけである。石動山と出雲の関係でいえば伯耆大山と東北30度線をつくっている。伯耆大山は出雲の国引神話と結びついていたが、少なくとも、そのうちの三穂の埼に関しては、出雲と能登半島周辺との強い関係が根底にあるのではないだろうか。越の都都の三埼とされる珠州岬は石動山の東北60度方向にある。ただこれは、珠州岬というよりは近くにある須須神社が問題なのかもしれない。石動山は珠州市三崎町の須須神社と東北60度線をつくっているが、須須神社は尖山とも南北線をつくっている。真名井神社と沓島・冠島それに尖山と青麻山画東北30度線をつくっていたが、青麻山と諏訪大社下社秋宮が東北45度線をつくり、尖山は諏訪大社上社の神体山守屋山と方位線をつくっていたのであるから、これらの場所は出雲神族と結びつく方位線網をつくっているわけであり、その中の石動山と尖山と方位線をつくる須須神社も出雲神族と関係しているのかもしれないし、それが出雲風土記の国引き神話に反映しているとも考えられる分けである。ただ、社伝によると崇神天皇の御代に山伏山(鈴ヶ嶽)に創建されたといい、山頂に鎮座する鈴奥大明神を元の社としている。いつ頃現在地に遷座したか分からないが、山伏山と須須神社は西北45度線をつくる。山伏山は佐太神社とも東北30度線をつくる。また、石動山と出雲大神宮が東北60度線をつくるとしたが、より正確には山伏山と東北60度線をつくる。ただ、それは数字的にはということであって、おそらく方位線としては出雲大神宮と石動山が結びついていると考えるべきであろう。
  石動山―出雲大神宮(W2.446km、0.56度)の東北60度線
  石動山―沓島(E1.473km、0.42度)の東北45度線
  石動山―諏訪大社下社秋宮(E0.657km、0.26度)の西北45度線
  石動山―伯耆大山(W0.422km、0.07度)の東北30度線
  石動山―須須神社(km、度)の東北60度線
  尖山―須須神社(km、度)の南北線
  青麻山―諏訪大社下社秋宮(E0.241km、0.04度)の東北45度線  
  山伏山―須須神社(km、度)の西北45度線
  山伏山―出雲大神宮(km、度)の東北60度線

 能坂利雄『北陸古代王朝の謎』によれば、『肯構泉達録』にイスルギヒコは補益山(石動山)の神で、越中新川郡船倉山(大沢野南方の山)にいるアネクラヒメと夫婦であったが、その石動山の西、邑知潟をはさんだ杣木山(そまきやま・鹿西町能登部)にいるノトヒメとイスルギヒコがねんごろになったとのうわさがしきりと聞こえてきたので、アネクラヒメの嫉みが激しくなり、全山の石をツブテとしてノトヒメを攻めた。姉布倉山(立山町)の神布倉ヒメもアネクラヒメに力をあわせ、布倉山の鉄を打ち砕いて投げたので、ノトヒメは風を起し、海波をかきたて山にうちかけ、これを防いだ。カブト山(鳳至郡穴水山)の神カブトヒコがノトヒメを助け、氷見の宇波山まで出て戦ったので、闘争はいよいよ激しさを増した。天地の神はいたくこれを心配し、タカミムスビノミコトに告げたので、平定のためオオナムチを越路へ派遣した。オオナムチは雄山(立山頂上)からタチオウヒコ、船倉山からオサヒメ、越中篠山(婦中町長沢の山)からサダヂノミコト、布倉山からイセヒコ、能登鳳至の山中からカマナリヒコなどを集めて、平定の協力を依頼した上で、三神に仲裁を告げたが聞く耳はなく、やむを得ず武力による鎮圧となり、アネクラヒメを捕らえて小竹野(富山市呉羽付近の野)に流刑し、「布を織って貢にせよ、世に紡織の業をひろめ罪をあがなえ」と命じ、ヌノクラヒメを捕らえて柿椶(かきひ)にながし、「機織の道具をつくり、布を織るように」と命じた。一方、イスルギヒコとノトヒメもそれぞ捕まえ、二神を海辺でサラシものにした。カブトヒコはノトヒメを助けた罪があるので、山を崩し、海を遠くまで埋めてそこに流し、風壽涛が大きく起きた場合はこれを防ぎ、陸へ上げるな、また人に知らせることを業とせよと命じた。
 ヌノクラヒメの流された柿椶の宮というのは、柿沢の地にあり、中世のころまで柿の椶おさなど作るところであり、アネクラヒメが教えた八構布は今も越中の名産、一方能登の石動山、能登部の神は、中世まで二月初午にミコシを浜辺に移してこれをさらし、祭礼をおこなうと伝えており、また笠雲が湧き能登の海が荒れる時、必ずカブト山にのろしに似た気が生じるという。
 能坂氏は伝承のプロットは古いものであろう、加賀藩儒の森田柿園も『能登志徴』のなかで、伝説のよりどころは詳かではないが、「いとよしある古伝説」と述べており、単なる仮構ではなくあるいは古代の『越中国風土記』の逸文だったのかもしれないという。『越中旧事記』船倉村の条には、能登石動山の権現と闘争のことがあって、船倉権現が礫を打ち給うたので上野というところには石がない。というのは石動山権現とは夫婦の神だったが、嫉妬の余り礫を投げたものと記されてある。おそらく古くはこのように素朴な伝承だったらしい、と述べている。
 同様の話は広島県にもあるらしい。ホームページ レイライン・ハンティング(http://www.ley-line.net/2003_05_noto/noto_04.html)によると、伊須流伎比古は、広島県の中部にある船倉山にまつわる神話に登場しており、船倉山の女神である姉倉姫と伊須流伎比古は夫婦で、伊須流伎比古は越中と能登の国の境の補益山に住んでいた。ある日、能登の国を支配していた能登姫が越中国を自分の領土にしようと画策する。そして、まず伊須流伎比古に通じて、これを味方につけて、足場を固める。自分の夫を取られ、領土まで脅かされた姉倉姫は、逆に軍勢を集めて、能登攻略に乗り出す。そして、越中の氷見の宇波山で激しい戦いが巻き起こる。この戦いに介入したのが大国主神で、大国主神の軍勢はまず姉倉姫の軍勢を滅ぼし、姉倉姫は呉羽山の小竹野へ流される。さらに大国主神は、能登姫と伊須流伎比古の軍勢を撃破して、二人を殺す。これによって、越中から能登にかけてが大国主神の支配する場所になったというものだ。
 まとめると、オオナムチによる越の平定は、記紀にはなく出雲風土記にのみ載っていること、北陸の伝承に比べ広島の方がより武力征服的色合いが強いこと。北陸のもともとの伝承はイスルギヒコをめぐる妻の愛人への嫉妬といった話で、後にオオナムチによる平定という話が付け加えられたらいしことなどがいえる。オオナムチの越平定について、大和朝廷や北陸はその事実に否定的であり、出雲近辺では積極的に主張しているということになる。これはある意味わかりやすい構図である。征服された側の越としては、そのようなことを後世にまで残したい事柄ではないであろう。それで、征服ではなく、単に仲裁のこじれ話しにしたと考えられるわけである。出雲神族自体が『出雲国風土記』に八岐大蛇や国ゆずりの話がないのは、敗れた記録を残したい者はおらず、それらは怨念の歴史として、口から口へと語り継がれるもので、風土記はアメノホヒの後裔の出雲臣広嶋がまとめたものだが、先祖が敗残の記録は載させないように圧力をかけたのだという。大和朝廷にしても出雲勢力がかっては越まで支配圏に入れていたということなど、わざわざ記す必要はまったく無いであろう。それに対して、出雲側は勝利の記憶としていつまでも語り継いだということはありえる。
 ただ、出雲神族が圧力をかけてそのことを風土記に載せるように圧力をかけても、せいぜい敗残の記録を載せないようにすることはできても、天孫族に対して出雲神族はあくまでも敗者であり、敗者のそのような勝利の記録を載せることを大和朝廷側が認めるということには疑問がのこる。また、分かりやすい構図も、少し詳細にみると、いくつかの矛盾があることが分かる。まず、出雲神族が東北から出雲へ西下してきたとすれば、越はその中間点で、越から出雲への進出というなら分かるが、出雲から越へ出雲神族が進出していったというのには違和感がある。広島県の船倉山にしても、話の伝承の流れは越から広島である。そこにイスルギヒコの伝承があるということは、越から広島へその名前の移転があったということで、その逆ではないであろう。イスルギヒコとオオナムチの越平定伝承を残すために、わざわざ地名まで持ってきたというのは考えずらい。もちろん、ありえないことではないし、あるいはたまたま広島にも船倉山という名の山があったので、そこにイスルギヒコとオオナムチの越平定話を伝えたのかもしれないが、どちらにしても、もしそうならその伝承を広島に残した勢力はオオナムチが越を平定したということに対して強い執着を持つ人だったということがいえる。ただ、その場所が広島ということは、吉備にはスサ族とヒボコ族が合流して吉備族がいたのであるから、必ずしも出雲神族とはかぎらない。
 実際に西から越に進出していったのがスサノオやヒボコの一族だった可能性もありえる。敦賀の気比神宮には出雲神族の伝承では天ノヒボコが祀られているというのであるから、その一部が能登や越中にまで来ていてもおかしくない。能坂氏は石動山の三月二十四日の祭礼に風が石動山から吹くことになっていることから、イスルギヒコには風を自由に使い分ける神として鍛冶神・金属神の性格があったと考えられ、それは新羅の国から帰化したという鍛冶の守護神天日矛の面影になぜかよく似ているという。さらに、石動山に天漢石があり、そこからイスルギヒコが誕生したらしいのは、ツヌガアラヒトの妻が石から生まれたと似ており、天ノヒボコが逃げ出した妻を追いかけるのと同じ逃げた妻を追いかける話は石動山にもあるという。能登一ノ宮の気多大社は因幡国の気多崎あたりを本拠地にしていた倭人が移って来たのではないかという説もあり、現在大己貴命(大国主命)を祭神にするが、能坂氏によると第二義的成立で、古書には奥社はスサノオとクシイナダヒメとなっており、邑知潟一帯には気多神が竜蛇を討った伝説があるという。富山県射水郡の延喜社櫛田神社の祭神はスサノオとクシイナダヒメで傍らのツブラ池には大蛇が娘を呑み込もうとして娘のクシが喉に引っかかって死んだという話があるといい、石川県七尾市飯川町と国分町には久志伊奈太伎比盗_社があり、クシイナダヒメを祭神にする。しかし、この場合は何故スサノオによる越の平定ではなく、オオナムチによる越の平定なのかという疑問が残る。
 出雲神族が東北から越を中継して出雲に来たとすれば、出雲神話のいくつかはその原形が越にあったとも考えられる。能坂氏によると、出雲神話とイスルギヒコの共通点として、オオナムチの越のヌナカワヒメへの妻訪に対応するものとして、イスルギヒコにも越後の女神に対する妻訪神話があったのではないかとする。石動山でツキ山を設けて神事をおこなうのは三月二十四日、越後能生の中山権現の祭日も同日で、この日は午前中石動山から越後へ、午後は能生の方から風が吹くと伝えられているが、それとともに始めはイスルギヒコと能生中山の女神は夫婦だったが、のちに仲が悪くなり、女神は越後へ飛び給うたと古くから伝えているという。イスルギヒコという能登の地主神が美しい女性を求めて越後の女神への妻訪いする原形のあったものを『古事記』では八千矛神という金属性神に仕立て、対偶神をヒスイ女王ヌナカハヒメとする創作をみせたのではあるまいかとする。そうすると、古事記のオオナムチの妻であるスサノオノ娘のスセリヒメが嫉妬深い妻であり、八上姫がスセリヒメを恐れて因幡に帰っていったという話も、その原形は越のイスルギヒコをめぐるアネクラヒメとノトヒメの話にあったとも考えられるわけである。このように、出雲神話のもともとがイスルギヒコをめぐる越の話であったとすれば、オオナムチによる越の八口の平定という伝承が、元々から出雲や越にあったとは考えづらくなる。それは、出雲をめぐる情勢の中で、第三者によって作り出されのではないだろうか。それが、越に持ち込まれ、イスルギヒコの話にオオナムチの平定話に付け加えられていったのであろう。
 石動山の神は出雲神族の神だった可能性が強い。能坂氏の本によれば、クキは築山のことだというが、山頂とか洞穴を意味する古語で、上段に猿田彦神、中断、下段には浦島、尉、姥を隔年毎に飾るとあり、又、『放生津八幡宮略記』築山の条では、中央に猿彦(姥神)と称する像形を飾り、四隅に飾る像形を四天王と唱えるとあるという。これによれば、猿田彦が主神であり、この猿田彦はクナトノ大神が後代猿田彦に代えられていった可能性が高い。また、イスルギヒコを主神とする石動権現には五社あり、本社は大宮権現、客人社は客人大権現、火宮は蔵王大権現(大物主命)、梅宮は鎮定大権現(天目一箇命)、劒宮は降魔大権現(市杵島ヒメ)を祀り、ツキ山を設けるのは火の御前山の右の峰にある天目一箇命を祀る梅宮で、石動山の神社の正体はイスルギヒコという地方豪族神と複数の金属神による組織だったと推定されるというが、ここに客人社もあることが注目される。近江雅和氏の『隠された古代』によれば、本来は地主神であったのが、のちに新神にその所を取られたものが客神で、アラハバキ社の多くは摂社か末社に落とされ、門客人化されており、すべての門客人神がアラハバキ社とすることはできないが、出雲系の神を祀る神社については、門客人社、客神社があればそれはアラハバキ社だとみなしてよいという。また、アラハバキ神は門客人神に変容したが、それを担う出雲族がいる限り製鉄民特有の片目の伝承と結びつき、門客人神から門脚神、随神に変化して神像が置かれるようになっても、しばしば神像は片目にされたという。石動山の五社をみると大物主命や市杵島ヒメのように出雲神族系であり、また天目一箇命のように製鉄の神である。ということは客人社の神はアラハバキ神で本社大宮権現の神はクナトノ大神ということになるのではないだろうか。能登では猿田彦信仰がさかんだといわれているが、越と出雲の深い関係を考えるなら、能登の猿田彦はクナトノ大神を猿田彦にすり替えたものと考えるべきであろう。記紀にはオオナムチの越の八口平定の話はないが、書紀の一書に「経津主神は岐神を先導役として、方々をめぐり歩き平定した。従わない者があると斬り殺した。」とあり、越の地名はでてこないが、クナトノ大神が経津主神の諸方平定に一役かったことが記されている。一方、出雲風土記ではオオナモチの越の八口平定はあっても、クナトノ大神の名前は出てこない。これは、クナトノ大神と越が結びつくことを故意に避けているということではないだろうか。そのことが、クナトノ大神と越とのただならぬ関係をうかがわせるわけである。

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越の八口と出雲

 大穴持命による越の八口平定が実際にあった話というより、出雲をめぐる事情により創り出された話だとすれば、どのような事情が考えられるであろうか。まず、出雲で古志人と争ったのはスサノオであったということに注目してみる。出雲神族の伝承ではヤマタノオロチの話は朝鮮半島からやってきたスサノオと出雲神族との砂鉄採集権をめぐる争いの話で、出雲神族に対立する物部氏の秋上家にも伝わっているということは、古代の出雲においてこの話はよく知られた話だったということが考えられる。ただ、越の平定話がこのスサノオと古志人の争いの変形されたものとすれば、その主人公はスサノオというのが自然である。ただ、記紀のいうようにオオナムチがスサノオの子、あるいはその六世の孫とすれば、オオナムチが越を平定する話になっても、ありえない話ではないかも知れない。逆にいえば、オオナムチが越を平定したということは、オオナムチがスサノオ側の人間ということを示しているわけである。しかし、オオナムチがスサノオと無関係なことは、やはり出雲では自明のことだったと考えられる。一方、オオナムチをスサノオの系図にはめ込んで出雲を一本化するのが朝廷側の意志だとすれば、他の地方では朝廷がオオナムチはスサノオの子孫であったといえば、そんなものかと思うかしれないが、出雲では説得力もなく、それを受け入れさせるためには何らかの工夫が必要ということになる。オオナムチの越の八口平定という話は、スサノオとオオナムチの同系性を結果的に意味するとすれば、そのような朝廷の都合から生じた話ではないだろうか。あるいは、出雲風土記でもオオナモチをスサノオの子孫とすべしという朝廷からの命令に対して、出雲ではスサノオとオオナムチとは無関係なことはあまりにも自明なことから、もう一つ自明なスサノオと古志人の対立という事実を利用して、オオナムチによる越平定という話により、オオナムチがスサノオの子孫であるということを間接的に匂わすことしかできなかったのかもしれない
 もう一つの可能性は、風土記の長江山の話にその秘密があるかもしれない。風土記の意宇郡母理の郷の条に、「天の下をお造りなされた大神大穴持命は、越の八口を平定し給うて、お還りになった時、長江山においでになって詔して、「私がお造りして領有して治める国は、皇御孫命(天照大神の子孫)が無事に世々を治めになる所として〔統治権を〕お譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍(霊魂)を置き賜う手お守りしよう。だから文理という。」とある。ここでは、越の平定とその後の天孫族への国譲りが述べられている。しかし、話の順序は逆なのではないだろうか。もし、オオナモチの国が越も含んだ広い地域にわたっていたとして、その後その主権が出雲一国に限定させられたとすれば、そのようにオオナモチの主権を出雲一国に限定しようとする側の論理からいえば、出雲以外の地域に対するオオナモチの統治権は正統な統治権ではなく、あくまでも征服による支配ということなってしまうわけである。オオナモチの越の八口平定という話は、オオナモチを出雲一国に押し込めておこうという勢力の、オオナモチの国は出雲一国でしかないとする強い意志がうかがわれるわけである。実際には、出雲神族は出雲一国の統治権さえ与えられたわけではない。出雲において、天孫族を守ることを強制されたのである。その一端は、旧正月の十五日前後に行われる熊野大社の亀太夫の神事にうかがわれる。吉田大洋氏によると、当日、出雲の国造たちは熊野大社に呼びつけられ、厳寒の中、境内の荒むしろの上に坐らされる。亀太夫と名乗る神主は拝殿からこれを見下し、無理難題の問答を押しつけ、困りはてた国造たちに亀太夫は、「お前たちは、こんなやさしいことも答えられないのか。だらしのない奴め」と、罵倒し、最後にこう言い渡す。「この土地は、出雲人のものである。お前たちよそ者は、出雲の神のお陰で借り住いできるのだ。その恩恵を、決して忘れるな」と。
 この亀太夫の神事は伝統的な王国でみられる、毎年の乱痴気騒ぎの中で社会的立場が転倒し、王が逃走したり儀礼的に殺害される祭礼を思い起させる。また、亀太夫の神事では、土地と支配者の分離がみられるが、これは例えばフィジーなどで、土地の民が支配者に与えたのは土地の名、土地に対する支配もしくは権威であって、土地そのものは民のもののままであるとされることに通じる。フィジーの首長は海から来た征服者であり、東征により即位した神武と同じように外来者である。ただ、フィジー首長と神武や亀太夫の神事の国造たちと違う点がある。それは、フィジーの首長やローマのロムルスがいったん殺されたり自分を犠牲にした後、土地の神として生まれかわるのに対して、神武や国造たちと土地の神との間には断絶があることである。これは、フィジーの首長が外来の征服者であるとされるにもかかわらず、一方では土地の民によって吸収される存在でもあり、両者が統合されているのに対して、神武や国造たちと土地の民との間の真の統合が果たされておらず、日本という国は、真の国家として成立していなかったということを意味している。記紀では国譲りは話し合いで平和のうちになされたようにえがかれている。しかし、支配者と土地の民との真の統合がなされていないなら、このような記述は、勇ましく戦ったが結局俺たちの力の強さにお前たちは負けたのだといった記述ならまだしも、抵抗の事実も記されることもなく、敗者側にとって二重の屈辱である。そして、このような表面的な統合によって事足りとされ、一方では土地の民に対する弾圧が続いたとすれば、そこに生ずるのはただ裏と表のある陰湿な日本という国である。現代でも、神武は大和に婿養子に行っただけで、その権力委譲は平和的で正統なものだという人がいる。フィジーでも戦争に負けると、征服者にかごに盛った土(すなわち「土地」)と自分たちの首長の娘を差し出すという。このことにより、征服した首長は、被征服民の姉妹の息子になるわけであるが、フィジーの伝統的な親族体系では姉妹の息子は母方のオジに対する儀礼的特権を持っており、この親族関係を通じて、土地と女の受け手としての王権の正統性が確立されるのだという。しかし、そのためには征服者と被征服者とのあいだの真の統合がなければ、それは結局征服者のご都合主義による強制以上の意味は持たないであろう。それに、第一出雲神族にそのような親族関係があったかどうかもわからないのである。
 スピリチュアリストの間で高く評価されているシルバーバーチの霊訓の中に、英国の王室の存続が有益かどうかという質問に、「そう思います。なぜなら、何であれ国民を一つに結び合わせるものは大切にすべきだからです。」と答えているところがある。このシルバーバーチ霊の言葉の奥には、霊的真理にとって国民ばかりでなく全人類が兄弟のように一つにまとまることはきわめて重要なことで、人類はその一体性を獲得するよう努力しなければならないということがある。王室に関しては、やがて地球上から王制はなくなっていくだろうという他の霊界通信もあり、あくまでも現時点での人類のレベルからいえば、王室の持つ国民を統合していく力は大事にしていかなければならないということであろう。同時に霊的立場からいえば、その統合は国民に真の一体感をもたらす統合でなければならない。その点で、英王室は絶対王政が始まるかどうかの頃、王室がノルマンの征服王朝であることの正当性が広く国民の間で議論されたといい、革命の激動期に改めて王制の存在意義が問われるという試練の上に現在があるわけであり、その統合性が真の国民統合になっているがどうかという点に関しては、それなりに肯定的な評価が下せるわけである。では、日本の天皇は日本国民に真の統合をもたらす統合力となっているのであろうか。天皇を支えているのは上辺だけの統合力、偽善的な統合性でしかないのではないだろうか。
 国家の出現は、その共同体員に自己を肯定的存在と感じさせるための装置としてであった。もちろんそれは幻想であり、幻想を成り立たせるためには、矛盾を抱え込まなければならなかった。すなわち、本来全共同体員に平等に肯定性をもたらさなければならないものが、その実現のために特別な人間、神のごとき肯定性そのものとしての人間を選び出し、他方ではその特別な人間と他の共同体員との同質性を強調することにより、すべての共同体員もまた肯定的な存在であるとする、複雑で矛盾した構造を持たざるをえないのである。国家が共同体員の肯定性をもたらすという国家の役割は、先進国といわれる国では過去のものとなった。そこでは、経済・技術的な発展が国家に代わって人間に肯定性をもたらすものとされている。しかし、そこにも矛盾は存在しているのであり、そこにおいても人間の肯定性は幻想に過ぎないが、その幻想としての肯定性さえも人間がその肯定性を完成するのは経済・技術的発展の究極の時代としての未来であり、その発展は無限に続かなければならない以上、その時は決してこないのである。このことは、先進国といわれてる国々においても、その時点で人間に肯定性をもたらすという国家による補強を必要とせざるをえないということである。ただ、国家に対してより強く求められるのは、特別な人間の強調ではなく、その全共同体員の肯定性という平等的側面である。日本の天皇もそのような現代における国家の役割の中で考えていかなければならないわけであり、現代においては天皇の特殊性よりは全国民の平等性こそが重用だとすれば、天皇がこれまで持ってきた統合性の質というものが問われなければならないのである。過去の天皇の持つ統合力の偽善性は現在の問題でもあり、真の統合への不十分さは現在の問題なわけである。ただ、日本国民の真の統合への努力は、天皇を担ぎ上げる体制派ばかりでなく、出雲神族のような反体制派からもおこなわれなければならないが、体制派により誠意が求められていることは確かであろう。
 やはりスピリチュアリストに高く評価されているオーエンの『ベールの彼方の生活』によれば、霊的運動の原則はスパイラル運動であり、人間に関していえば個々の人間の個性よりも民族全体を指導する大精神に関わる事象においてそれが顕著に見られるという。例えば文明は東から西へと進行し、幾度が地球を循環しているのだという。そして、現在は顕著なスパイラル運動はしていないとはいえ、地球上の文明の進路が続けて二度同じコースをたどることは決してないという。現在の地球の文明はヨーロッパ及びアメリカであろう。シュメールの時代から文明の中心は中近東から地中海一帯を移動していたが、その重心が今アメリカにあるということは東から西へという文明の進路の一つの現れであろう。ただ、アメリカはヨーロッパ文明の一部であり、新しい文明ではない。次の文明は霊的文明といわれ、その中心はおそらく太平洋のこちら側ということになるであろう。それがどこかは分らないが、一部の超古代史関係者がいうように、日本の天皇がかっては世界を支配していたとすれば、二度同じコースをたどることはないのであるから、日本だけは蚊帳の外ということになる。日本の未来よりも過去の栄光の方が大事だとすれば別であるが、これは少し寂しいことである。日本もまたやはり来るべき文明の中心に相応しい国になるようせいぜい努力したいものである。天皇を持ち上げるのはいいが、度が過ぎれば日本の未来の足を引っ張るだけだということであり、それは対立を煽るだけの極端な反天皇主義者にもいえる。いずれは日本からも天皇はいなくなるかもしれない。しかし、それは今すぐ天皇は廃絶されなければならないということとは別問題である。小学一年生に数学の力をつけさせるために微分積分を教えても、数学嫌いを増やすだけであろう。同じように、将来の天皇制廃止を求めることはいいが、同時並行的に天皇による国民統合という事も認め、その統合性の質が真の統合性に向かうような努力も必要であろう。次の文明が霊的文明であり、霊的真理にとって人類の真の一体性が重用であり、霊的真理に対して誤魔化しは通用しないとすれば、真の統合性・真の一体性に敏感になるということは、日本が来るべき霊的文明の中心になるためには重要なことであり、アイヌ・部落・在日といった現在の問題だけではなく、出雲神族の富さんのように天孫族との対立を今も生きている人がいたり、偽書ということで決着がつきそうであるが『東日流外三郡誌』が多くの人の関心を引いたということは、過去の問題も決して疎かに出来る問題ではなく、そのぐらいの徹底さが必要なのではないだろうか。日本が次の霊的文明の中心になるかどうかは別にして、日本がそれを目指して努力し、霊的に進めば進むほど、その分地球もよくなるのである。

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出雲における八口の方位線

 オオナムチの越の八口平定を出雲の方位線でみるとどうなるのであろうか。出雲風土記でオオナムチによる越の八口の平定が出てくるのは、長江山の他に意宇郡の拝志の郷で、天の下をお造りなされた大神命が、越の八口を平定しようとしてお出かけになられたとき、林が盛んに茂っていたので「私の御心の波也志」といったところから林と名づけられたとされている。拝志の郷には風土記の布宇の社がある。風の宮ともいわれる布宇社と長江山の両方と方位線をつくる場所として八重垣神社がある。元々の布宇社は現在の布宇神社の西、宍道湖畔近くにあったようであるが、どちらにしても布宇社と八重垣神社が東西線をつくり、八重垣神社と長江山が西北45度線をつくる。稚児岩と長江山の西北30度上に元の熊野大社があった可能性もある。八重垣神社は素盞鳴尊・稲田姫・大己貴命を祭神としているが、風土記の大草(さくさ)郷に須佐乎命の御子青幡佐久佐丁壮命坐とあり、佐久佐社に比定されているが、須賀の地から佐久佐社の境内に毛利氏が進出してきた時に軌を一にして遷座してきたともいわれる。ただ、佐久佐社と八重垣神社が区別されていない書もあり、この場合、出雲神族の富當雄氏によれば、八重垣神社は出雲神族系の神社で、大国主の娘が祭神でスサノオと関係がなかったというが、それが佐久佐社のことなのか、須賀の地にあった八重垣神社のことなのかが問題になる。現在の八重垣神社の西百メートルのところに、佐久佐女の森と鏡の池があり、傍らに稲田姫を祭る小祠と神木「夫婦杉」があるが、佐久佐女の森と現熊野大社が南北線をつくり、あるいはそこに大国主の娘が祀られていたのかもしれない。ただ、重要なことは現八重垣神社の地にスサノオの子の青幡佐久佐丁壮命を祭る佐久佐神社があったということであって、同じく旧布宇社の東北60度線上にはやはり青幡佐久佐彦伝承のある高麻山がある。このように、オオナムチの越の八口平定とスサノオの子のアオハタサクサヒコが方位線的に密接な関係があるが、高麻山については、もう一つそれが物部神社と神魂神社の東北30度線上にあり、その東西線上に吉備との関係が深いとされる神原神社古墳があった。そして、神魂神社と長江山の稚児岩が西北45度線をつくり、佐久佐神社と長江山が西北45度線をつくることを考えると、アオハタサクサヒコやオオナムチの越の八口平定話ははヒボコ・物部連合軍の出雲侵攻と深い関係があるのではないかといことが浮かんでくる。高麻山の東北45度方向に三屋神社があり、三屋神社がもともと在ったやはり吉備・ヒボコ族との関係が指摘されている松本一号古墳は神社の西南の丘陵にあるというから、高麻山と松本一号古墳も方位線をつくっている可能性もあるわけである。これら、古墳との方位線からも高麻山はヒボコ・物部連合軍と関係があると考えられるわけである。一方、旧布宇社も船通山と西北60度線をつくり、その方位線上に須賀神社があるが、船通山もヒボコ・物部連合軍の出雲侵攻と方位線的に深く関係している山である。旧布宇社は石宮神社と東北30度線をつくるが、石宮神社も須我神社と西北30度線をつくる。そして、石宮神社の南北線上に高麻山がある。
  旧布宇社±―八重垣神社(N0.150km、1.03度)の東西線
  八重垣神社―長江山(E0.125km、0.18度)の西北45度線
  佐久佐女の森±―現熊野大社(W0.230km、2.14度)の南北線
  高麻山―旧布宇社±(W0.078km、0.43度)の東北60度線
  船通山―旧布宇社(W0.365km、0.59度)の西北60度線

 八口であるが、旧布宇社の東北45度線上に加茂町の式内社八口神社がある。八口神社は風土記では矢口社と記され、スサノオが毒酒を呑み眠っているオロチを矢で射られたところから矢口神社になったという。八重垣神社は八口神社とも東北30度線をつくる。そして、この方位線上には神原神社がある。神原神社は道路拡張まで50m北の神原神社古墳の上にあったが、元々は現在地から北東の方向の赤川の対岸にあったという。この旧神原神社と八口神社の方位線と高麻山の東西線の交わる場所に神原神社古墳が作られたとも考えられるわけである。矢口社・布宇社・八重垣神社・高麻山・神原神社古墳が方位網をつくり、それがヒボコ・物部連合軍の出雲侵攻と関係する物部神社・神魂神社それに船通山と方位線的に結びつくわけである。方位線でみると、オオナムチの越の八口平定とヒボコ族・物部連合軍、それとスサノオ の八岐大蛇退治と結びつく八口という場所が一つの関連性を持っているわけである。ただ、矢口社がスサノオと古志人がぶつかったとき、実際その争いに関係する場所だったかどうかはわからない。記紀に八岐大蛇伝承が記されているので、逆にそれが出雲に跳ね返って、中世になると、大蛇の遺跡という所が云々されるようになり、16世紀の書では大蛇がいたとか大蛇を埋めたという場所が五ヶ所にもおよび、それが江戸時代の書では斐伊川の全域にわたって十五ヶ所に増えているという。矢口社もその一つだったのかもしれないわけである。ただ、越の八口と矢口社とは無関係だったともいえない。というのも、布宇社と矢口社とは、方位線という視点からみると、互いに強い関係性をもった神社だったのではないかと思えるのである。天狗山をみると、その東西線に矢口社があり、西北45度線上に旧布宇社があった。また、仏教山についてもその西北30度線上に矢口社があり、東北30度線すなわち仏教山と嵩山の方位線上に布宇社が位置しているというように、天狗山・仏教山・矢口社・布宇社が方位線網で結ばれ、矢口社と布宇社も方位線で結ばれているということは、天狗山と仏教山に対して矢口社と布宇社が一対の神社のように見えるわけである。さらに、仏教山と布宇社の方位線上に石宮神社があるわけである。
  旧布宇社―矢口社(E0.251km、1.02度)の東北45度線
  八重垣神社―矢口社(W0.176km、0.48度)の東北30度線
  天狗山―矢口社(S0.301km、0.91度)の東西線
  天狗山―旧布宇社±(EO.458km、1.95度)の西北45度線
  仏教山―矢口神社(E0.016km、0.19度)の西北30度線
  仏教山―旧布宇社±(E0.188km、0.68度)の東北30度線

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ヒボコ・物部連合と吉備

 八岐大蛇神話とヒボコ・物部連合の関係をうかがわせるものとして、『日本書紀』の一書に、「素戔鳴尊の蛇を断り釼を場、號けて蛇の麁正と曰ふ。此は今、石上に存す。」とあり、別の一書では「素戔鳴尊の蛇を断りたまへる釼は、今吉備の神部の許に在り。」とある。神部とは神主の意味で、これは八岐大蛇を切った釼が、吉備の石上の神主の処にあるということをいっているとされ、その場所は吉井町石上の式内社石上布都之魂神社に比定されている石上布都魂神社であるという。現社殿は大正四年に建てられたもので、明治末に火災で焼失するまでは、大松山の頂の巨岩の前にある本宮が本社だったという。標高289.9mの山が大松山なのであろう。そうすると、高麻山と大松山が西北30度線をつくる。これは、吉備から出雲への侵攻方位線として大松山と高麻山の方位線が考えられるということになる。出雲への方位線で気になるもうひとつの場所として安仁神社がある。安仁神社は神魂神社が西北45度線をつくり、また剣山と南北線をつくる。安仁神社はもともと標高80mほどの宮城山にあったといい、今も磐座があるというが、安仁神社近くで80mほどの山というと、東の方にある山ぐらいである。その山としても、あるいは安仁神社の南側の山としても、神魂神社あるいは剣山との方位線は成り立つといえるであろう。
 安仁神社と石上布都魂神社がヒボコ族と物部氏の出雲侵攻の拠点だとして、石上布都魂神社が物部氏の拠点であるのにたいして、安仁神社はヒボコ族の拠点だったのだろうか。安仁神社の祭神は古くから分らなくなっていたようである。安仁は兄で神武の兄の五瀬命が祭神ともいわれるが、薬師寺慎一『祭祀から見た古代吉備』では犬島のそばの犬ノ島の丘の上に犬石といわれる巨石の磐座があり、それが沖ツ宮、宝伝の宝神社が中ツ宮、安仁神社が辺ツ宮と考えるべきで、それらはほぼ南北に一直線になっており、沖縄では今も「アニ」という地名や人名があり、犬が隼人とも関係が深く、吉備と海人族の結びつきも深いことから、隼人の海人に関わる神社ではないかとする。なお、同書は吉備の磐座に詳しい。薬師寺説によれば、安仁神社はヒボコ族とは関係ないということになるが、安仁神社を御先神・吉備津彦神社とする説もある。もしそうなら、出雲神族の伝承では、物部氏とヒボコ系吉備津彦の軍勢が出雲に攻め込んできたのであるから、吉備津彦神社はヒボコ系で、安仁神社もヒボコ系ということになる。吉備津彦神社は西出雲の斐伊川流域にもあり、一部は東出雲の古代の意宇郡梨川に沿った所にもあるというが、それはヒボコ・物部連合軍の出雲侵攻と関係しているように思える。井上高太郎『吉備王国の崩壊』によれば、吉備郡集成吉備之国地理聞書、邑久郡神社の項に平賀元義は、「安仁神社の末社にきつき大明神と申すあり。この御社の事奥に論ず、百二十八社の内なり。宮崎が家の説に古はきつき大明神の社地に坐せしを後に藤井村にうつし奉るという。いとうかがわし」と在り、また『吉備三国地理聞書』の「安仁神社御伝記」には、「当社創建の上古より神祝命の神裔を以って斎主と定め給ひしより世々□□しを軽島豊明朝御世孫左紀足尼を此れの大伯国造と定め給ひて祭政を兼ね給へり。扨佐紀は名にて此国の始祖なり、今邑久郡神崎村に在りて神崎大明神と云う社あり。備前風土記邑久郡神崎神社、応永本に邑久郡従三位神崎大明神とあり。佐紀と云う名は此神崎と云う地名に寄れるか。又神崎の社はやがて佐紀の足尼を祭る社か。扨此国造りは神魂命を祖として古記吉備の人と聞こえたり」とあるという。藤井村とは安仁神社の所在地で宮崎家は備前吉備津彦神社の神官で藤井氏を改姓したもので、明治まで藤井・宮崎・太美と何度も改姓を繰り返しており、またその家系図では多氏中臣藤井氏となっている。きつき大明神とは安仁神社の末社の松江伊津岐神社で、井上氏は「きつき神」は「気付神」で備中吉備津神社様方気付備前吉備津彦神社のことで、大和朝廷が吉備津弱体化をねらって全国の主要地の吉備津彦神社の分社の御先神を備中国に吉備神社を建ててその宮に寄宮した百二十八社の内の一つであるといっているのだという。また平賀元義が疑っている宮崎が家の説とは、藤井氏が宮崎と姓をかえた時のことのいきさつを家伝秘密文書として言い伝えたことであるが、宮崎と姓をかえたのは安仁神社の元の祭神である御先神備前吉備津彦神社を寄宮として強制収容されたので、吉備一族と相談してこの地に秘密に祭った。しかし、神官藤井氏としては祭られぬので、「この神社は崎(御先神)をまつる宮である」という意味で姓を宮崎とかえてこの宮に仕えたのであるという。美和神社も「斉崎」と名のって密かに祭っていたという。また安仁の「あに」とは足尼を音読みにした「あに」であり、足尼は天皇に最も近い親王を言っているのであり、佐紀の足尼を祭るとは、佐紀が御先神の同一語根である故、皆が安心するが、実は神社を朝廷の祭神に切りかえているのだという。安仁神社は御先神であり吉備津彦神社であり、ヒボコ系ということになるが、安仁神社の藤井氏の系譜にヒボコ族の影は見えない。藤井氏の系譜は混乱しているようにも思える。多氏であり中臣氏であり、神祝命を祖先とし、神魂命を祖とする。このうち、神魂命は安仁神社と方位線をつくっている神魂神社と共通する名前であり、気になる存在であるが、どこかとってつけたような立場でもある。神魂命もよく分らない神である。出雲風土記にも登場しており、カミムスビ神のことともいわれるが、神魂神社ではカモスと読む。神祝命=神魂命という説もあるらしいが、神魂命を祖とする者には、紀国造の大伴系、物部系の天津麻良命などがあり、忌部氏でも天太玉命の子の天日鷲命の子孫の飯長媛命と、神魂命の子孫の由布津主命の間に生まれた堅田主命からやがて阿波忌部と安房忌部が分れたともいわれる。神魂命が物部氏とも関係しているとすると、安仁神社にも物部氏が関係している可能性もあるわけである。しかし、これも安仁神社がヒボコ族と無関係だったということを必ずしも意味していないであろう。一緒に出雲へ攻め込んだ頃のヒボコ族と物部氏の関係も、その後の有為転変の中で変わっていった可能性もある。出雲神族の伝承では、ヒボコ族もやがて反体制派になっていったといい、体制側の物部氏とは対立する関係になっていった可能性もある。その結果、神魂神社と方位線で結ばれている安仁神社をも自分たちの影響下に置こうとして介入していったかもしれないし、安仁社側は神魂命を自分たちの祖とすることによって、その介入をかわそうとしたのかもしれない。一方、御先神と吉備津彦神社をまったく同一視することに疑問も残る。吉備の御先神は吉備ではオンザキというのが一般的らしいが、ミサキという言葉にはどこかアラハバキ神を思わせる響きがあり、それに対して吉備津彦とは吉備でヒボコ族とスサノオ族が習合していく過程で、共通の祖先としてつくりあげていった人物ということも考えられる。ただ、出雲神族もヒボコ族も多氏も壬申の乱のときには天武についた側であり、その後の持統・藤原朝から桓武朝の中で抑圧が強化されたとすれば、その弾圧の中で御先神と吉備津彦が一体化していったのかもしれない。
  ▲289.9m(大松山?)―高麻山(E0.002km、0.00度)の西北30度線
  安仁神社―神魂神社(W0.992km、0.44度)の西北45度線
  安仁神社―剣山(W0.148km、0.10度)の南北線