伊勢志摩

伊勢神宮
天照伝承の山
外宮と滝原宮の方位線
内宮の方位線
伊勢の出雲神族
伊雑宮と佐美長神社
六芒星と五十鈴フトマニ・クシロ

 

伊勢神宮

 吉野裕子氏は『隠された神々』で、「斎宮の旧址は多少のズレはあるが、ほぼ内宮と外宮を結ぶ線の延長線上にあり、内宮から西北四五度の地点にある」といっている。斎宮の方位線を考えようとする時、斎宮の範囲が現在国の史跡に指定されているだけでも東西約二キロ、南北約〇、七キロという広大なものであるという問題点がある。「斎王の森」と言われていた場所に斎宮跡の石碑が建てられているが、シリーズ「遺跡に学ぶ」の一冊である駒田利治『伊勢神宮に仕える皇女 斎宮跡』を見ると、その場所が斎宮の中心的な場所ということでもないようである。同書によれば、斎王の森の西側、斎宮歴史博物館が建っている史跡の西部地区の南部に、大来皇女の最初の斎宮が造営されたことが推測されるという。その後、『続日本紀』宝亀二年(771)十一月の条に気太王が斎宮造営のために伊勢国に遣わされたとあり、発掘でも条坊制方格地割が史跡東部で発見されている。同書の地図をみると、斎王の森から約500m程東南の鉄道の線路あたり一帯に内院があり、その内院の西側部分に斎王の御殿があったと推定され、内院のすぐ北側に神殿があったとみられる。斎王御殿付近としては竹神社の東130m程の近鉄山田線と道路が交差する地点をとり、初期の斎宮としてはグーグル地図で斎宮歴史博物館より南に位置する斎宮公園の記号の地点をとることにする。斎王の森は新旧二つの中心地域の中間あたりの少し北に位置するといえる。
 内宮・外宮・斎宮の西北45度線であるが、正確にいうと、最初の斎宮と内宮の神体山といわれる鼓ヶ岳、奈良時代後期の斎王御殿と内宮正殿がそれぞれ西北45度線をつくり、内宮と外宮は正確に東北60度線をつくっている。斎宮以前に鼓ヶ岳は在ったわけであり、まず鼓ヶ岳の西北45度線上に斎宮が建てられ、次に内宮正殿と西北45度線上に斎王の御殿が来るように斎宮が整備されたとも考えられるわけである。その際、外宮も整備されて現在の場所に正殿が建てられたのかもしれないし、あるいは逆に、内宮と外宮の正殿が方位線をつくっているので、斎宮も内宮の正殿と方位線を作るように整備されたのかもしれない。

  斎宮公園記号―鼓ヶ岳355.1m三角点(W0.077km、0.34度)―内宮新旧正殿中央付近(E0.745km、2.98度)の西北45度線
  内宮新旧正殿中央付近―斎王御殿付近(W0.350km、1.51度)の西北45度線
  内宮新旧正殿中央付近―外宮新旧正殿中央付近(E0.026km、0.36度)の西北60度線

 斎宮と内宮が西北45度線上に並ぶことについて、吉野裕子氏は太一陰陽五行思想から説明している。吉野氏は鳥越憲三郎『伊勢神宮の原像』の、内宮は元々斎宮の場所に在ったが、内宮だけが現在地に移転したという説を受け入れながら、鳥越氏がその理由を持統天皇と大来皇女の確執に求めることには疑問があるとして、天武朝において伊勢にも陰陽五行思想が持ち込まれ、天照が北極星の神格化である太一と習合されていったことにその理由を求めている。太一と日神という二つの神の依り代としての斎王には、それぞれの本質を兼ねることが要求されたはずであるが、斎王はその在任中、三節祭に限って内宮・外宮に参入するが、それ以外は斎宮に在って動かず、その本性は動かないことを特徴とするという。そして、西北は「易」における「乾」であり、その象徴するものは天・太陽・円・車であり、「天」は天帝「太一」によって象徴されるから、この西北の宮に留まって動かない斎王は、動かぬ神「太一」の象徴とも受取られるし、また西北は太陽の象徴でもあるから、「天」と「太陽」を象徴する西北、「乾の宮」にじっと留まっていること、斎王は西北に留まっているだけで、その存在意義があったのだという。そして、新しい神には新しい祭りが必要とされ、新しく北辰の神々の象徴ともなった斎王を西北に固定させるために、むしろ斎宮を基準として、斎宮を西北とするような方位に、新祭祀地が求められ、それが五十鈴川畔に定められたのではないかとする。しかし、この吉野裕子氏の説明には少し苦しいところがある。やはり、主役は神である天照であるべきであり、天照に太一が習合された場合、北西に祀られるのは天照でなければならないのではないだろうか。内宮の北西に斎宮が在るという形は少し変なのである。
 吉野裕子氏あるいは鳥越憲三郎氏が斎宮の地から現在の内宮に伊勢神宮が移転したと考えた理由は、吉野裕子氏の考えはその本で説明していないのでよく分からないが、鳥越氏の考えはたまたま手元に在った『歴史読本』一九八九年三月号の特集「聖なる神社 謎の神々」中の「アマテラス大神 引き裂かれた神域」で、鳥越氏自身がその概略を書いていた。それによると、『日本書紀』に「大神の教えのままに、その祠(やしろ)を伊勢国に立てたもう。因りて斎宮(いわいのみや)を五十鈴川の上(ほとり)に興(た)つ。これを磯宮(いそのみや)という。」という記述から、垂仁朝以来、伊勢神宮は五十鈴川畔に鎮座していたものと思われていたが、ここで磯宮を考証しなければならないという。鳥越氏によれば斎宮というのは天つ神を祭る宮という意味で汎称であるのに対して、磯宮は固有名である。そして、『皇大神宮儀式帳』の倭姫命の伊勢巡行の条で多気の礒宮から度会国宇治郷の家田上宮に遷り、さらに現在の五十鈴川の宮地に鎮まったと記してあって、磯宮は多気郡にあった別の宮で、内宮の名称ではないことを内宮みずから認めているという。さらに、神道五部書の一つである『造伊勢二所太神宮宝基本記』に御饌を供進する天平瓫という土器のことで、内宮・外宮や別宮と並べて、「斎内親王の坐ます礒宮に八十口、これを進る」とあって、斎王のいるところに祀る宮を礒宮と称し、内宮とは別の宮であったことは明らかであるという。鳥越憲三郎氏によれば、斎王とは天照大神にお仕えする者であると同時に天照大神の現身ともなることであって、斎王と天照大神とは一体なので、天照大神を祭る宮は斎王が住む所と一緒でなければならない。すなわち、内宮に遷る以前には斎宮の磯宮が伊勢神宮だったことになる。そして、『皇大神宮儀式帳』では斎宮の事務をする神庤(かんだち)を、その長が中臣香積連須気の時、斎宮の近くから渡会評(郡)の山田原、すなわち宮川下流の沼木郷に移転し、名称を御厨と改め、後に大神宮司と改称したとあるが、これは沼木郷には渡会評の屯倉があったので郡司から人夫の徴発をはじめ、内宮・外宮の建設に必要な資材の調達に協力が得られるからであったからで、須気は天武が崩御する前年に亡くなっており、鳥越氏は内宮は持統天皇四年(690)、外宮はその二年後に完成したという。その根拠は明示されていないが、内宮の造営は鳥越氏は天武天皇十三年の神宮の二十年式年遷宮の制の宣布内宮と密接に関係していて、二十年式年遷宮の構想のもとに造営されたとみており、内宮の第一回式年遷宮は持統四年、外宮はその二年後とされているので、その式年遷宮が斎宮から内宮への遷宮だったと考えているのであろう。内宮と斎宮が離れていることについては、鳥越氏は持統が大津皇子を殺した後もその姉の大来皇女はそのまま斎王の任を解任されず、斎王の地位に留まっていたと考えているようで、弟を殺した持統天皇への女の意地で持統天皇によって造営された宮地に行くことを拒み、また持統が伊勢に行幸した時神宮に参拝しなかったのは大来皇女が祭主として導かなかったからで、結局この持統と大来皇女の軋轢の結果、その後の斎王は斎宮にとどまることになったという。そして、斎王の役割は神宮では大物忌という童女が勤める形式となり、一番重要な九月の神嘗祭の時も、十六日の夜と十七日の朝に幽祭で行われる祭儀には斎王は出席せず、それが終わった後の十七日の午の刻に斎宮は内宮に詣でるのであり、古代の祭儀が幽祭で行なわれることを考えると、それは形式的に参拝するにすぎず、また斎王は内玉垣の中には入らず、内玉垣の御門前で太玉串を大物忌に手渡し、大物忌がさらに内側の瑞垣御門の前の地面に挿し立てるが、斎王は内玉垣より中には入れず、祭儀は大物忌の童女が中心となって執り行なわれるのであって、斎王は「よそもの」としての立場でしかないという。

 斎宮と内宮の西北45度線、正確には旧斎宮と鼓ヶ岳の西北45度線を延ばすと、伊雑宮がある。江戸時代の伊雑宮の神人達が主張したように、伊雑宮が内宮以前から天照を祭っていたとすると、伊雑宮の西北に、後から内宮で天照が祭られたことになるわけである。このように伊雑宮と内宮の関係を捉えると、吉野氏が内宮と斎宮に認めた関係、北極星であり太陽の象徴である斎宮は内宮の西北になければならないという論理が、今度は斎王ではなく天照について伊雑宮と内宮の間に成り立つことになるし、これは内宮と斎宮の関係よりも無理のない論理といえる。吉野氏は天照と太一の習合はいつの世にか、隠密の裡に慎重に行われたのではないかという。段階を追って行なわれたということでもあろう。伊雑宮における天照は純然たる日神としての天照だったのかもしれない。それに対して、斎王は太一的性格が強い存在ということにもなる。そうすると、古来からの日神天照と陰陽五行思想の太一では立脚点が違うから、陰陽五行思想に立脚する斎王が伊雑宮の西北に位置することは斎王にとって意味があっても、日神天照にとっては何ら意味はないし、どうでもいいことである以上問題もないということになる。そこにおいては、まだ日神天照と太一の習合はなされてないわけであるが、次の段階として日神天照と太一を習合し、その新しい天照を祭る宮を新しく造ろうとする場合、その場所もまた伊雑宮の西北ということになるであろうけれど、同じ西北でも伊雑宮からみればより太一と結びつく、斎宮からみればより古来からの日神に近い、伊雑宮と斎宮の中間に求めることは十分ありえることなのではないだろうか。もっとも斎宮と伊雑宮とでは遠すぎるともいえる。ただ、それは大来皇女が斎王としてどのような役割をしていたかにもよるであろう。特に、斎王の役割が太一の象徴としての斎王であったとすると、斎王には動かないことが求められていたということにもなり、そうすると斎王は動かないのであるからその遠さも何ら問題にならないわけである。

  伊雑宮旧正殿中央付近―内宮新旧正殿中央付近(E0.475km、2.43度)―鼓ヶ岳355.1m三角点(W0.348km、1.58度)―斎宮公公園記号(W0.271km、0.61度)の西北45度線)

 斎宮が鼓ヶ岳あるいは伊雑宮の西北45度線上になければならないとしても、それはその方位線上の何処でもいいわけであり、何故その場所だったのかという問題もある。その答えの一つは、檜原神社と斎宮は東西線をつくっており、いわゆる太陽の道の東西線と交わる場所だったからというものであろう。吉野裕子氏によれば東西線は日本古来の基軸であったということである。そうすると、陰陽五行思想では西北が重用であったから、その東西線には陰陽五行思想との結びつきではなく、古来からの日本の伝統的思想との結びつきを考えるべきかもしれない。吉野裕子氏は古来からの日本人の考えでは、東は海の彼方に神界・常世があり、西は人間界であって、常世は祖先神をはじめとする神々の居所であり、太陽の昇る所であり、一切の生命の種の根源となる所であり、東の常世からそれらのものが西の人間界にやってくるとされたという。太陽の道はその中でも、特に太陽祭祀が強調されているが、その東西線は吉野裕子氏の述べる太陽祭祀以外の東西軸の性格も有していたのかもしれない。吉野裕子氏によれば、東西の中間に穴(クラ)があり、また太陽・植物・人間の輪廻の中枢にも「穴」があり、東方から来たり、常在せず、穴にこもるもの、という三点が太陽・植物・人間の三者に共通す本質であるが、それは神の本質を表わすものとしても意識された。この吉野裕子氏の考えからいえば、斎宮とは西の人間界=大和と、東の神界=常世の中間にある穴(クラ)ということになる。そして、神も太陽も人もこの「穴」に一時こもることなしには西方へあるいは東方へ出ることはできないのであり、「穴」とは東と西の間に空間的に存在するものであると同時に、神・太陽・人間の時間的な動きの中間にあって、「静」の時を提供するものであるという。斎宮が穴(クラ)であるとすれば、陰陽五行思想から斎王が太一=北極星の象徴というだけでなく、日本古来の考えからいっても穴=斎宮に居る斎王は静的な存在であり、動かないことを本性とする存在だということになる。斎宮が日本古来の東西軸と陰陽五行思想の乾との習合として考えるなら、斎宮の場合はどこかからみた乾の方角であるから、太陽の道の東西線とその場所からの西北45度線の交わる場所に斎宮が置かれるということなり、その場所とは鼓ヶ岳か伊雑宮ということになるであろし、鼓ヶ岳あるいは伊雑宮は斎宮が出来る以前から何か重要な場所だったということになる。とくに、斎王が太陽神と太一を習合する存在でもなければならなかったとすれば、鼓ヶ岳あるいは伊雑宮は太陽祭祀と密接に関わりのある場所だったということになる。

  斎宮公園記号―檜原神社(S0.394km、0.33度)の東西線

 太陽の道の東西線と伊勢における太陽祭祀の聖所からの方位線との交点という視点からいえば、斎宮の西北30度線上、すなわち冬至の日の出方角に朝熊山があるということにも注目しなければならないかもしれない。その方角も東と同じく海から依り来る神の方角であり、海から依り来る神とは太陽であるとすれば、それもまた太陽祭祀と結びつくわけである。海から依り来る神のもう一つの方角は東南であり、その意味で伊雑宮の西北45線ばかりでなく、朝熊山の西北30度線も交差する場所でもあるということが選ばれた理由かもしれない。水谷慶一氏は『知られざる古代』で、太陽の道の東の端に神島があることを記しており、その島のゲーター祭は太陽祭祀であるという。朝熊山と神島も東北30度線をつくっている。太陽の道であるが、特に檜原神社に拘らず三輪山と斎宮の東西線も考える事ができるかもしれない。三輪山にも太陽祭祀がないわけではなから、檜原神社にくらべ正確さに劣るが、方位線的な感覚でいえば三輪山と斎宮の東西線も太陽の道と言えなくもないわけである。

  斎宮公園記号―朝熊山555m標高点(E0.147km、0.46度)―朝熊山金剛證寺(W0.026km、0.08度)の西北30度線
  神島170.7m三角点―朝熊山金剛證寺(W0.376km、1.04度)―朝熊山555m標高点 (W0.901km、2.47度)の東北30度線
  三輪山466.9m三角点―斎宮公園記号(N0.770km、0.65度)の東西線

 斎宮が天武天皇によって造られた、あるいは重視されたことを考えると、檜原神社あるいは三輪山と斎宮を結ぶ東西線は、天武朝における伊勢と大和を結ぶ東西線だったともいえる。向井毬夫『万葉方位線の発見』では、太陽の道以外に伊勢と大和を結ぶ東西線として当麻寺―耳成山―二見浦、葛城山山頂天神社―鴨都波神社―斉明陵―鼓ヶ岳―朝熊山、宮滝遺跡―滝原宮―伊雑宮をあげている。向井毬夫氏の挙げる東西線では、宮滝遺跡は天武天皇の吉野宮跡として最も有力視されている場所であり、宮滝遺跡―滝原宮―伊雑宮も天武朝における伊勢と大和を結ぶ東西線といえるかもしれない。ただ、滝原宮・伊雑宮が壬申の乱以前からあったとすれば、もし天武が北伊勢の朝明郡(三重郡)の迹太川辺で天照大神を望拝したというのが、天照大神を祭る宮を遥拝したということであって、その宮とは皇大神宮ではなくて滝原宮あるいは伊雑宮のことだったとしても、天武が天皇になる以前の吉野宮と滝原宮・伊雑宮では、その関係もそんなに注目すべきものともいえなくなる。しかし天武天皇との関係は別にして、滝原宮と伊雑宮の東西線は無視できないかもしれない。滝原宮の東西線、あるいは逆に伊雑宮の東西線上に来るように伊雑宮あるいは滝原宮が造られたということは考えられるかもしれないわけであるし、滝原宮より伊雑宮が前に在ったとすれば、伊雑宮の東西線上に滝原宮が造営され、西北45度線上に内宮と斎宮が造営されたとも考えられるわけである。もっとも、滝原宮と東西線をより正確につくるのは伊雑宮というより、伊雑宮と密接に関係する佐美長神社であり、伊雑宮と佐美長神社の関係も問題になる。

  宮滝遺跡―滝原宮正殿(S1.176km、1.39度)―伊雑宮新旧正殿中央付近(N0.406km、0.28度)の東西線
  滝原宮正殿―佐美長神社(N1.024km、1.70度)―伊雑宮本殿(N1.583km、2.60度)の東西線

 吉野離宮は壬申の乱以前から存在していたし、斉明天皇などとも結びつけられている。また、丹生川上中社あたりもその候補地の一つとなっている。吉野離宮が丹生川上中社あたりにあったとしても、滝原宮との東西線は問題かもしれないが、伊雑宮とは東西線つくる。また、丹生川上上社、中社、下社が重視されるのは、それぞれ丹生川上社の候補地だからともいえるのであるが、もし丹生川上中社が丹生川上社であったとすれば、伊雑宮と吉野離宮との東西線ではなく伊雑宮は丹生川上社と東西線をつくっていたということになるのかもしれない。ただ、その線上に滝原宮を置くことには無理があるとすれば、滝原宮はやはり伊雑宮の東西線上に建てられたということになる。

  丹生川上中社―滝原宮(S2.692km、3.85度)―伊雑宮新旧正殿中央付近(S1.109km、0.85度)の東西線

 向井毬夫氏のあげる葛城山山頂天神社―鴨都波神社―斉明陵―鼓ヶ岳―朝熊山の東西線も、実は天武朝における大和と伊勢を結ぶ東西線と重なっている。斉明天皇自体が天武天皇と関係するわけであり、斉明天皇の吉野離宮と滝原宮・伊雑宮の東西線、斉明陵と鼓ヶ岳・朝熊山の東西線という視点からみることもできるが、それ以上に注目すべきは文武天皇陵と内宮が東西線をつくっているのである。内宮は文武天皇が亡くなる前には造営されていたと考えるなら、文武天皇は内宮の東西線上に埋葬されたということになる。天智陵と天武・持統陵、文武陵が南北線をつくっており、その南北線上に藤原京大極殿があったことを考えると、文武天皇陵が内宮の東西線上に造られたということもありえるのではないだろうか。吉野裕子氏によれば、太陽・植物・人間の各輪廻の、東から西へ、西から東への神および人間の去来を中継するものが輪廻の中枢である中央の「穴」であり、それは死去の場合は疑似母体の「墓」である。この場合は、西は人間界というより幽世・他界・死後の世界といえる。亡くなった文武天皇がその西の死後の世界からやがて東の神界に輪廻していくとするなら、神界の象徴としての内宮の東西上に文武天皇陵が造営されても不思議ではないであろう。

  文武天皇陵―鼓ヶ岳(S0.231km、0.16度)―内宮新旧正殿中央付近(S0.622km、0.43度)の東西線

 吉野裕子氏は「宮都と方位線」のところでも記したが、『隠された神々』で天武天皇は最初文武天皇陵の場所に埋葬され、その後天武・持統陵に改装されたのではないかともいう。もしそうなら、内宮の東西線上に天武天皇陵が造られたということなるが、その意味するところは同じであろう。あるいは、内宮の造営時期によっては天武天皇陵の東西線上に内宮が造られたということになるのかもしれないが、どちらにしても人間が東西線上を輪廻するにあたって、東の常世・神界の地上の象徴としての内宮ということであろう。あるいは天武・持統陵も文武天皇陵ほど正確ではないが内宮と東西線をつくるので、天武・持統陵の東西線に内宮が造られたということなのかもしれない。この場合は、天武・持統陵の東西線は鼓ヶ岳と外宮の神体山である高倉山の中間を通るので、内宮だけでなくこの東西線を挟むように内宮と外宮が造営されたということも考えられる。天武存命中は天照を三輪山あるいは檜原神社の東西線上に祭ることが最重要なことであった。しかし、天武が死ぬと、天武陵の東西線上に天照を祭ることが最重要なことになったが、天照と太一の習合も重要であり、太一が乾の方角と結びつくということは西北45度線と結びつくということであり、斎宮・礒宮(伊勢神宮)の西北45度線上に新たな天照を祭る宮が造られたということなのではないだろうか。そして、次善の策的に、内宮の乾の方角になった斎宮に、天照大神の現身でもある斎王を置くことにしたのかもしれない。それなら、太陽の道の東西線上に天武陵を造ればいいだけではないかともいえるが、既に藤原京を造ることが決まっており、天武陵はその南でなければならない理由があったのであろう。その理由としては、千田稔『宮都の風光』によれば、道教では南は方位的に見てよみがえりの地とされ、死者はそこで蘇生すると信じらており、人は死んだら南の宮、南極宮へ行くと言われているといい、その道教の思想と関係するのかもしれない。同書によれば、道教の神仙思想では、死後雲に乗って天空にな上った人物は、神仙すなわち仙人になるとされ、宮都の南には神仙の住む山が配されたのであり、垂仁紀などに従えば、常世とは神仙の世界のことであるという。そうすると、神仙が住み死者が蘇る南の方向と、内宮を新たに造営すことにより、日本古来の常世を示す東西線の交わる所に、天武・持統陵は位置するということになり、天武・持統は古来からの常世にも、道教の神仙の地にも、どちらにも行ける場所に葬られたわけである。斎宮より南に内宮が造られたということは、要するに死んだ天武が一番重要な存在だったということである。
 千田稔氏によれば、飛鳥の南にある吉野は神仙の地であった。その神仙の地に吉野宮は造られたわけである。その吉野宮が伊雑宮あるいは滝原宮と東西線をつくるということは、日本古来の常世と新しい道教の神仙の地を結びつける意味があったということなのかもしれない。その場合、常世が海の彼方に在るのだとすれば、滝原宮ではなく海の傍の伊雑宮が常世と結びつく場所として相応しく、吉野宮と伊雑宮の東西線ということになるのであろう。

  天武・持統天皇陵―鼓ヶ岳355.1m三角点(S1.140km、0.80度)―高倉山117m標高点(N1.475km、1.04度)の東西線

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天照伝承の山

 筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、伊勢には天照が天から山頂に降りてきたという伝承を持つ山として、鼓ヶ岳、朝熊山、それに野登山という三つの山があるという。鼓ヶ岳であるが、皇大神宮を含め一般論として神は大空を舟に乗って目立った山の頂上に天降り、山頂から中腹をへて山麓に降りてきて、そこで御蔭木に依りつき、人々はその常緑樹を川のそばまで引っぱってくる(御蔭引き)。川のほとりに到着すると、神は木から離れて川の流れの中にもぐり、姿をあらわす(幽現)。これが神の誕生であり、神の御蔭(御生)であるが、神が河中に出現するそのとき、神をまつる巫女である棚機つ女は川の流れの中に身を潜らせ、御生する神を流れの中からすくいあげ、その神の一夜妻となる。そして筑紫申真氏によると、皇大神宮の二十年に一度の遷宮の行事は「心の御柱」の神事によって始められるが、「心の御柱」は鼓ヶ岳の山中から切り出されるのであり、「心の御柱」は御蔭木であるという。すなわち、天照大神は鼓ヶ岳の山頂に天降るわけである。
 朝熊山については、『毎事問』には、朝熊山には大神宮の乗り給うたとて、磐舟といい、注連を張った伝説の石がある、としているという。磐舟に乗って天照が朝熊山に天降つたということであろう。また、金剛証寺には雨宝童子といわれる平安時代の前期に作られた木像があるが、天照大神幼少のときの御像と言い伝えられており、本堂の前の鎮守の社にまつられていることからも神像であるが、寺では雨宝さんと呼んで仏とみなしており、天照大神の本地仏である大日如来が、天からこの山上に垂迹して雨宝童子になったとみなしているという。朝熊山は奈良時代までは朝熊神社の神体山であったとみられ、山上には竜池と呼ばれる池があり、五十鈴川沿いの村々では日照りのときには、岳御池替(たけおいけがえ)といって、この池をさらい、雨乞いすることになっていたといい、また南伊勢地方・志摩地方の村人にとっては、その祖先の霊魂の集まる霊山と信ぜられていたという。
 野登(ののぼり)山の頂にも鶏足山野登寺(やとうじ)があるが、本尊千手観音は世間一般では天照大神が制作したと伝えられており、寛永の頃に作られた縁起にそのことが見えているという。また、「堂の前に杉の老木二本あり。天照大神この霊像を彫刻し玉える時、御手づから植ゑさせ給ふ杉なり」といっているという。筑紫申真氏はこの伝説は天照が天から降りてきたとは明言していないが、心意はすこぶる朝熊山の場合に酷似しているといい、野登寺は昔から鈴鹿山脈のうちの主要な雨乞いの聖地となっているという。
 この三つの山であるが、鼓ヶ岳から見ると、彼岸の朝日は朝熊山から昇る。東西線でみると、鼓ヶ岳の東西線は浅間ヶ岳の555m標高点ではなく、山上にある朝熊山金剛證寺寄りを通るが、鼓ヶ岳と朝熊山は東西線で結ばれているといえるのではないだろうか。

  鼓ヶ岳355.1m三角点―朝熊山555m標高点(N0.287km、2.47度)―金剛證寺(S0.119km、0.97度)の東西線

 野登山と朝熊山も西北60度線をつくる。ただ、この方位線には問題がある。野登山は正確には伊雑宮と西北60度線をつくるのであり、朝熊山の西北60度線上に朝熊山と伊雑宮が並んでいると考えるには、朝熊山が離れすぎているともいえるからである。また野登山は滝原宮と南北線をつくっている。伊雑宮と滝原宮に東西線を認めるとすると、野登山と西北60度線を作っているのはやはり朝熊山ではなく伊雑宮と考えたくなるわけである。朝熊山より朝熊山を神体山とする朝熊神社の方が、より正確に西北60度線をつくっていることを考えると、野登山の西北60度線上に朝熊神社と伊雑宮が並び、朝熊山は朝熊神社の神体山として結びついていると考えるべきなのかもしれない。このように伊雑宮を考慮すると複雑になってしまうのであるが、単に天照が天降ってきた伊勢の山のみを考えるなら、鼓ヶ岳と朝熊山が東西線をつくり、朝熊山と野登山が西北60度線をつくるという形で、三つの山が方位線で結ばれるわけである。

  野登山最高点付近―朝熊山555m標高点(E2.062km、1.86度)の西北60度線
  野登山最高点付近―朝熊神社(E1.273km、1.22度)―伊雑宮新旧正殿中央付近(W0.257km、0.20度)の西北60度線
  野登山最高点付近―滝原宮正殿(E1.079km、0.96度)の南北線

 筑紫申真『アマテラスの誕生』では、天照が天降ったという伝承ではないが、伊雑宮の神体山ともいわれる青峰山にも天照伝承があるという。山頂は天跡山といわれ、倭姫が天照を祭ったところといい、同氏の『日本の神話』によれば、青峰山は三輪山と同じように山頂に倭姫が天照を鎮め祭ったという巨石、中腹に長者の岩、山麓の長者の屋敷といわれるところにも巨石があり、長者の岩とか長者の屋敷とかいう名は、信仰の霊地にしばしば付けられる地名であるということから、天跡山の巨石・長者の岩・長者の屋敷はそれぞれ天照がよりついて順次に天降ってくるための磐座であったのではないかとしている。青峰山は方位線ではないが、鼓ヶ岳とは方向線をつくるので、青峰山・鼓ヶ岳・朝熊山・野登山は方位・方向線で結ばれているといえる。青峰山は鼓ヶ岳とは方向線であるが、内宮正殿とは西北30度の方位線をつくる。鼓ヶ岳と伊雑宮、青峰山と内宮正殿が方位線で結ばれるという関係にもなっているわけである。

  青峰山336.2m三角点―内宮新旧正殿中央付近(W0.082km、0.45度)―鼓ヶ岳355.1m三角点(W0.521km、2.51度)の西北30度線

 伊勢ではないものの「神武東征と大和」でも記したが、太陽の道の東西線の檜原神社と斎宮の間に在る天神山にも、水谷慶一『 知られざる古代 』によれば、長谷寺で出しいてる説明書に天神山(与喜山)は天照大神の神体山とあるといい、天照伝承があった。長谷寺では毎朝僧侶が拍手を打って天神山(与喜山)を拝む「与喜山礼」が行われており、長谷寺のあるところを小泊瀬山、与喜山を大泊瀬山といって、この二つの山が一体のものとすることにより長谷寺の信仰ができているということであり、長谷寺の二つの円が重なって横にならんでいる紋章は、この二つの山が一体であることをあらわしているという。また、天神山山頂近くにも磐座があるということであったが、同書によると長谷寺の観音様も巨大な磐座の上に在るという。カシミールでのシュミレーションでは夏至の朝日は天神山山頂から昇らないようだとしたが、夏至の日の出方角に天神山があるということはいえるであろう。「神武東征と大和」では檜原神社―天神山山頂―福地岳山麓の天満社裏山遺跡、三輪山―長谷寺―福地岳がそれぞれ東西線をつくることも述べた。筑紫申真『アマテラスの誕生』によると、大和の初瀬=長谷観音は三輪山信仰を仏教化したものとみなせるといい、また同書では『更級日記』のことが出てくる。更級日記の著者の母は、一尺の鏡を調達して、娘である著者の身の行く末を夢によって占わせるために、ある僧侶を代参にたてて、初瀬の観音に参らせたが、著者はその結果「常に天照御神を念」ずる信仰心を芽生えさせ、このアマテル御神とは、伊勢神宮の神であり、また天皇家の内侍所(賢所)にまつられている神だと人に教えられたというものである。これを見ると、長谷寺も伊勢神宮や天照大神に結びついた寺であったから、『更級日記』の著者も天照御神への信仰が生まれたということであろう。同書によれば、永島福太郎博士の指摘しているように、長谷観音には伊勢の本地仏なのだという堅い信念があったという。野登山と天神山が東北45度線をつくる。

  野登山最高点附近―天神山455.1m三角点(W0.156km、0.14度)の東北45度線

 『日本三代実録』貞観七年(865)四月十五日の条に「伊勢国正五位上稲生神に従四位下を、従五位上勲七等椿神に正五位下を授く。」と伊勢総社の稲奈富神社と伊勢一の宮の椿大神社の神が並んで位階を授けられているが、野登山は稲奈富神社と西北45度線をつくり、猿田彦大神を祭神とする椿大神社と東北30度線をつくる。正確には野登山は最高峰になるものと三角点のある二つの峰からなるが、最高峰の峰と椿大神社本殿が方位線をつくり、稲奈富神社は三角点のある峰とより正確に方位線をつくる。また、三角点のある峰は椿大神社の本殿へ行く手前に位置する御船磐座と東北30度線をつくる。御船磐座は椿大神社宮司山本行隆『椿大神社二千年史』によれば、室町時代初期の神事能「鈿女」に「天孫瓊瓊杵尊ここに御船を繋がれ給う」とあり、垂仁天皇二十七年十月に倭姫が神託で椿大神社を建立した創建の旧跡で、倭姫命の御神託で造営された神社は全国でも伊勢神宮と椿大神社の二社のみであるという。稲奈富神社も天神山と東北30度線をつくる。東北45度線で結ばれた天神山・野登山に対し、天神山の東北30度線上に稲奈富神社、野登山の東北30度線上に椿大神社があるわけである。

  野登山851.4m三角点―稲奈富神社本殿(E0.125km、0.42度)の西北45度線
  野登山最高点付近―椿大神社本殿(E0.054km、0.79度)の東北30度線
  野登山851.4m三角点―椿大神社御船磐座(W0.063km、0.97度)の東北30度線
  天神山455.1m三角点―稲奈富神社本殿(E0.416km、0.36度)の東北30度線

 椿大神社は入道ヶ岳の山麓にあるが、『椿大神社二千年史』によれば、入道ヶ岳一帯の山は昔から高まる山・高山さんと呼ばれ、猿田彦大神やその一族の大居城で、山頂付近やその周辺には磐座群やストンサークルが在って太古の霊場聖地であり、伊勢高天原説の根拠ともされているが、昭和四十一年山頂に奥の宮が建てられたという。野登山と入道ヶ岳も東北60度線をつくる。また、椿大神社の別宮に川床よりの高さ184.5m、幅およそ100mの垂直に聳え立った大岩の石大神(しゃくだいじん)があり、岩全体が御神体で、雨乞いの場所であったという。式内社の石神社であり、倭姫の体を通して石大神に天照大神のミタマが影向されたと椿大神社の古文書に記録されているといい、また敏達天皇が行幸したとき、両皇大神が天降つたという。祭神を大山祇あるいは石裂紳とする書もあるが、『郷社椿大神社明細帳』では天照大御神となっている。石大神と入道ヶ岳が南北線をつくり、また野登山と御船磐座の東北30度上に位置している。石大神は朝熊山とも西北60度線をつくっている。石大神はそれ自身が一つの山になっているから、伊勢の天照が天降った山に石大神も加えると、天神山―野登山―石大神―朝熊山―鼓ヶ岳―青峰山という形で方位・方向線で結ばれるということになり、野登山と朝熊山の間に石大神が入ることによって、野登山と朝熊山の西北60度線の問題がすっきりするともいえるわけである。
 
  野登山最高点付近―入道ヶ岳905.6m三角点(E0.085km、1.41度)の東北60度線
  入道ヶ岳905.6m三角点―大石神(E0.008km、0.21度)の南北線
  野登山851.4m三角点(W0.014km、0.47度)―大石神―椿大神社御船磐座(W0.077km、2.20度)の東北30度線
  朝熊山555m標高点―大石神(W0.131km、0.12度)の西北60度線
  
 金岡秀友編『古寺名刹大辞典』で野登寺を調べると、本尊の十一面観音菩薩は桑樹の自然木で、「伝えによると、敏達天皇が伊勢石大神に御参の時に天照大神が出現して作られた本地仏であるともいわれている。世俗にこのことを大神宮の叔母さんと訛化して、また作り神様として信仰が深い。頂上には仙朝上人の霊石がある。」とあった。野登寺の観音菩薩が天照の本地仏とされるのは、長谷寺で長谷観音が天照の本地仏とされていることと関係するのかもしれない。また、野登寺の天照の天降り伝承は、石大神の天照の天降りと密接な関係があたわけである。古くから石大神には天照の伝承があり、その伝承を受けて野登寺の天照伝承が出来上がっていったとも考えられる。ただ、石大神の天照伝承において野登山がまったく関係していなかったとのかというと、表面には出てこないけれど、その背後に野登山があった可能性も考えられるのである。筑紫申真『アマテラスの誕生』に「四月十四日大神御衣(おおかんみぞ)。同日、御笠縫内人、御䒾(みみの)廿二領、御笠廿二蓋を造り奉り、即散奉る。」と「皇大神宮儀式帳」にあり、これは天照に新しい着物をさしあげるまつりであるが、同日御笠縫内人という神官が各神社の神に蓑と笠をさしあげるというものであり、この風雨を防ぐ道具を神にさしあげて風雨の平安を祈る行事が日祈(ひのみ)のまつりであるとあった。つまり、農業が順調に行われて穀物がよく実ように、太陽や風や雷の神に天気を祈るまつりであり、天つカミに対する天気まつりであったという。また皇大神宮の風日祈宮は、もともとは社殿のなかった風神社であったが、元寇の時神風を吹かせて蒙古の船を沈めた功績によって社殿を造営してもらって別宮となったのであるが、その場所は五十鈴川の御手洗場の反対側の古い滝祭りの場所である樹叢に隣り合った所であり、それは風の神がもともと川に臨んで日祭りを行なうという性格の神であった名残ではないかという。筑紫申真氏によれば、神は山の頂上から麓へ、そして川辺へと降りてくるのであり、天照もそのような神であったし、風や雷や雨に関わる神もそうであった。石大神は野登山の山裾に在り、御弊川の川辺近くに在る。そして、石大神は雨乞いの場所であり、野登山も雨乞いの場所であった。石大神で古くから雨乞いがされていたとすれば、それは野登山から石大神へ降りてくる神に祈ったことが考えられるわけである。そうすると、石大神に天照が天降るということは、野登山に天降りした天照が、山頂から麓の川の側の石大神にまで降りてきたということにもなるわけである。
 石大神における天照の天降りが何故敏達天皇と結びつくのかということであるが、敏達天皇は『日本書紀』に敏達天皇六年「詔して日祀部を置いた」とあり、日祀部とは日祀に必要な経費や人員を負担するための部ということであるから、敏達天皇は日祀を重視した天皇ということになり、日祀とは太陽神を祀るということであり、それはまた太陽に天候を祈るということだったとすれば、石大神でも雨乞いが行なわれていたのであるから、日祀と結びつく敏達天皇が出てきたのかもしれない。筑紫申真氏(『アマテラスの誕生』)によれば、三輪山も山頂から巨石を伝って麓の巨石に神が降りてくるのであり、天照大神を最初に祭った場所が 御笠縫内人に対して笠縫村であり、笠は丸い形をしていて太陽のシンボルであり、蓑笠は神の身につけるもので、神のシンボルであり、この両者が大和と伊勢で共通していることは重要であるという。吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』によれば、蒲葵の蓑笠が蛇を象徴したものであったから、蓑笠がたとえ蒲葵でなく菅や蒲、藁などの代用品でつくられるようになった後も、その蓑笠は蒲葵のそれと同様に蛇を象徴するものとして神聖視されたといい、文安御即位調度図(『群書類従』公事部 大嘗会御禊記)を見ると、「笠、藺笠、上葺檳榔」と見えて、践祚大嘗会の祭具としての蒲葵笠は天皇を隠す笠ではなく、神としての天皇を表わす笠のはずであり、伊勢神宮の御料も蒲葵笠であったという。そうすると、崇神天皇の時に豊鍬入姫命が天照大神を笠縫邑に祀ったというのは、天照大神は太陽神であったが、また蛇でもあったということになるのかもしれない。よく取り上げられる話として、鎌倉時代の高僧通海が伊勢神宮に参詣したときのことを書いた『通海参詣記』に、神宮の関係者から、皇大神宮の神様、天照は蛇で、斎宮はその皇后である。その証拠として、天照は毎晩斎宮のところに通い、斎宮の御衾の下には蛇の鱗が落ちている、というように言う人がいると聞いたというのがある。天照は男神で蛇ということになるが、男神はともかくとして、天照大神が蛇ということは伊勢だけの話ではなく、大和朝廷においてもかつてはそうだったのかもしれないわけである。筑紫申真氏は三輪山の麓に他田日祀部が置かれ、またその地は敏達天皇の訳語田幸玉宮が在った場所でもあるという事も強調しているが、三輪山は蛇とも結びつく山なわけである。

 野登山は入道ヶ岳と東北60度線をつくっていたが、御在所岳とも南北線をつくる。国土地理院発行の地図では御在所山となっているが、一般には御在所岳という呼称がひろく使われているといい、御在所とは「神仏のおわすところ」のいわれがあり、菰野に伝わる話しでは、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて桑名の野代から北伊勢を亀山へ向かわれるとき、この山の上に仮の屯宮を設けられたことから御在所とよばれるようになったといわれているという(https://www.yunoyama-onsen.com/about/kobanashi/御在所山か、ございしょが岳か/)。また、野登山と滝原宮が南北線をつくるとしたが、滝原宮からの南北線は正確には野登山と入道ヶ岳の真ん中を通り、滝原宮と南北線をつくるのは野登山なのか入道ヶ岳・石大神なのかという問題が生じる。ただ、石大神は野登山に含まれるわけであり、伝承上でも密接な関係があるとすれば、一体のものともいえるわけであり、それを区別するというより、野登山・石大神の南北線上に滝原宮があるというべきなのかもしれない。入道ヶ岳・石大神は多岐原神社とより正確な南北線をつくる。

  野登山851.4m三角点―御在所山1212m標高点(W0.038km、0.26度)の南北線
  入道ヶ岳―多岐原神社(W0.317km、0.28度)―滝原宮正殿(W0.725km、0.61度)の南北線

 伊勢国の一宮については、椿大神社に対し鈴鹿川を下った河口近くの都波岐神社もまた一宮説があり、都波岐神社は三輪山と東北30度線をつくる。より正確には檜原神社とつくるのであるが、都波岐神社は斎宮とも南北線をつくっている。また、方向線ではあるが、都波岐神社は稲奈富神社と東北60度線、入道ヶ岳と西北30度線をつくっている。椿大神社とも西北30度の方向線を認めてもいいのかもしれない。もっとも、 都波岐神社は古くは別の場所にあったようである。『椿大神社二千年史』では延喜式には川曲郡の中に奈加等神社と都波岐神社が見え、明らかに別者であるが、同社の伝えるところによれば都波岐神社は奈加等神社の相殿であり、正徳・享保の頃、山部広真神主が奈加等神社の本殿を二扉の様式に改造して、一扉には奈加等神、他の扉には都波岐神を祭祀する形式に整えたとあり、一国の一の宮が他社の相殿に鎮座せられるのは不審であるとする。ウィキペディア(都波岐神社・奈加等神社)によると、明治時代に都波岐神社と奈加等神社を合併したもので、社伝に雄略天皇二十三年、勅により伊勢国造の高雄束命が伊勢国河曲郡中跡村(現在地)に社殿を2つ造営し、それぞれ都波岐神社・奈加等神社と称したとあるといい、都波岐神の旧地は現在地からそう離れた場所ではなかったのかもしれないし、あるいは最初は別々の社殿が並んでいたということなのかもしれない。
 『私の一宮巡詣記』で大林太良氏は、鈴鹿の椿大神社の猿田彦命は山の神であり、河曲の都波岐神の猿田彦命は海の神であり、祭神の猿田彦命の性格は大変違うが、 椿大神社と都波岐神社は対として考えるべき神社ではないかとする。椿大神社の猿田彦命が山の神であることは、『椿大神社二千年史』に「その創建にいたる経緯は現在の椿大神社の背後に聳える高山入道ヶ岳山頂一帯の太古の磐座の本陣から、道祖・猿田彦大神のミタマを現在の参道中程にある御船磐座(この場は天孫・瓊瓊杵尊が御船をここに繋がれ給うと伝えられている)の地点に斎い祀る御社殿を造営、御創建された記録が残されている。」とあることからもいえるであろう。河曲の都波岐神社の猿田彦命が伊勢の海の神の性格をもっていることは、『勢陽五鈴遺響』河曲郡巻一と『伊勢国誌』に引用されている同社の社記によく出ているという。引用されている社記とは「其昔神功皇后三韓を征するの時、新羅に怪鬼鉄輪(てつわ)と云ふ者在り。能く幻術を為す。飾船に乗り、来たり気を吹きて霧を隆め雲を起こして雨を降す。皇軍東西に送し、為す方を失う。時に人神猿田彦命現れ、海上に飛び淹ひ、口を開き巨(おおい)に敖(いか)る。雄詰(おたけび)すれば忽爾(たちまち)にして荒風津波を起こし、鉄輪の舟まさに覆んとす。其相恰然(あたかも)口を開き(風へんに列)(はやて)を吐き、濡(なみ)を吐くににたり。茲に因り此の神を称して津波岐神と号す」というものであり、大林太良氏は中山太郎氏は唾液神の伝説化と解釈したが、海の神、ことに海上の暴風雨を支配する神であり、都波岐神社の猿田彦には太陽神の性格は窺えないが、伊勢の海の神の性格は明瞭であるという。高度差などを考えると都波岐神社からみた冬至の太陽は、入道ヶ岳山頂近くに沈むかもしれないし、その日没方向に椿大神社もあるということなのかもしれない。そうすると、太陽祭祀においても椿大神社と都波岐神社は結びついているということにもなる。都波岐神社は鈴鹿峠とも東西線をつくっている。これも、都波岐神社から見ると彼岸の太陽が鈴鹿峠近くの三子山に沈むということなのかもしれない。

  都波岐・奈加等神社―三輪山466.9m三角点(E1.700km、1.24度)―檜原神社(E0.825km、0.60度)の東北30度線
  都波岐・奈加等神社―斎宮公園記号(E0.650km、0.93度)の南北線
  都波岐・奈加等神社―稲奈富神社本殿(W0.318km、2.17度)の東北60度線
  都波岐・奈加等神社―椿大神社本殿(W0.738km、2.76度)―入道ヶ岳905.6m三角点(W0.646km、2.15度)の西北30度線
  都波岐・奈加等神社―鈴鹿峠(S0.812km、1.93度)の東西線

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外宮と滝原宮の方位線

 吉野裕子氏は斎宮から伊勢神宮は現在の内宮の地に遷座したと考えているわけであるが、『続日本紀』の文武二年(698)十二月に「遷多気大神宮于渡會郡」と、多気大神宮が度会郡に文武二年に遷座したことが記されており、『日本書紀』の天武朝における書き方は、伊勢神宮については単に神宮で大神宮とは記されていないのに、多気大神宮には大神宮と記されていて、これは多気大神宮が伊勢神宮より重要な神社だったとも受け取ることもできる。この多気大神宮の旧地に在るのが現在の滝原宮と考えられているが、ではこの度会郡に遷った多気大神宮は現在のどの神社なのであろうか。鳥越憲三郎氏の言うように、持統六年には内宮・外宮とも出来ていたとするなら、文武二年の度会郡に遷った多気大神宮は、内宮でも外宮でもないということになる。といって、現在の度会郡に多気大神宮にあたる神社が見当たらないのも事実であろう。筑紫申真氏(『アマテラスの誕生』)は『続日本紀』の文武二年の記事を、滝原宮の地から内宮へ遷ったものと考えている。しかし、多気大神宮が内宮に遷ったのだとすると、その前の九月に「遣當耆皇女侍于伊勢齋宮」という記述が問題になる。当耆(多紀)皇女の前の大来皇女の場合は「欲遣侍大来皇女于天照大神宮。而令居泊P齋宮」「大來皇女自泊P齋宮向伊勢神宮」とあり、それからみると、大来皇女が初瀬の斎宮から伊勢神宮へ向かったということは、伊勢の斎宮と伊勢神宮は同じところに在ったと考えられる。それに対し当耆(多紀)皇女が伊勢斎宮に行ったということは、斎宮と伊勢神宮が別の所にあるからそういう書き方になったとも解釈できる。そうすると、多気大神宮が度会郡に遷った時には既に現在地に内宮が出来ていたということになるわけである。『日本書紀』を見ても、文武二年以前に伊勢神宮という言葉は何度も出てくるが、多気大神宮という言葉は文武二年の移転の記事に一度出てくるのであって、もし同じものなら、それまでは伊勢神宮という言葉が使われているのであるから、そこでも伊勢神宮という言葉が使われるのではなかろうか。もっとも、それは渡会郡に移ったという記事であるから、何処から移ったかということが問題になるので、伊勢神宮ではなくより場所が特定できる多気大神宮という言葉が使われたというように考えることもできるかもしれないが、それまで伊勢神宮と神宮だったのであるから、この場合も多気大神宮ではなく多気神宮と書かれてもいいような気もする。当耆皇女の記述も、伊勢神宮造営に合わせて当耆皇女を伊勢に向かわせたが、内宮は完成まじかではあったがまだ出来ていなかったので、取り敢えず斎宮に侍らせたとも受け取る事ができるかもしれない。しかしもしそうなら、大来皇女以初めて斎王を伊勢に派遣するのであるから、伊勢神宮が内宮の地に遷るためには斎王の存在が絶対に必要だったということであり、それまで伊勢神宮と斎宮が同じ所に在ったのなら、その形を崩す必要もないであろうから、斎宮もまた内宮の地に遷っていてもいいような気がするし、その後斎王が恰も「よそ者」扱いされることも理解できないことになる。内宮ではなく外宮に遷ったとすれば、今度は外宮は内宮より重要な神社だった、外宮の神は内宮の神より重要な神だったということになるかもしれないわけである。

 筑紫申真『日本の神話』によれば、滝原宮は外宮の御杣(みそま)山だという言い伝えがあり、御杣山という言葉には「みあれ」木の生い育つ神体山という意味があるようで、外宮禰宜の渡会氏と滝原宮との緊密な関係を裏書きしているという。もっともそれは、滝原宮が豊受大神的な性格をもつということではない。筑紫申真氏(『日本の神話』)は、滝原宮自体が外宮近くの月夜見宮の境内にある高河原神社から遷ったと重層的に考えており、この高河原神社からの移転は、皇祖紳の天照を祭る伊勢神宮が外宮近くから滝原宮の地に遷ったということではなく、何故滝原の地に皇祖神の天照が祭られたのかを考えると、それ以前に高河原神社から滝原宮近くに重要な聖地が移っていたので、その地に滝原宮が建てられたというのである。筑紫申真氏(『日本の神話』)は、滝原神宮の出来た年次は正確には分からないが、大神宮の地位を得たのは、文武二年(698)よりせいぜい数年前のことにすぎないとする。滝原宮については、伊勢神宮以前の伊勢における祭祀が重要な意味を持っているというわけであり、筑紫申真氏(『日本の神話』)は滝原宮近くのマナゴ岩に注目している。『皇大神宮儀式帳』に多伎原神社の名がみえ、「形石坐」とあり、この神社は宮川上流の川の中にある真奈胡岩(石)であったといい、真奈胡とは民族学の教えるところによれば、太陽神・雷神を意味する言葉であるという。氏によれば、伊勢神宮祭祀集団の村むらで古くまつられていた神は、川水のカミ、その棚機つ女であるカミ、それから穀物(稲)の霊魂のカミの三種類のカミであった。この三種類のカミのなかでは川水のカミがもっとも有力であり数多くまつられていたが、そのなかでもこの川水のカミが村国の人に特別に偉大なカミと意識れさる大神である場合は、稲霊のカミはその従者にされてしまい、大神の朝夕散飯(さば)のカミであると意識されていたという。そして、いままであまり気がつかれていなかったことなのだが、七世紀から八世紀にかけてのころ、大きな川の川上がひどく神聖視されていた事実があり、そのような川上の聖地の信仰は、そのそばの目立った山を神聖視する信仰とつながっていたという。そして、大河の水源の山岳に天つカミが天降(あも)りしてきて、川の流れのなかで「みあれ」し、川の中流・下流域でも、同様にその近くの山にカミは天降して、川のなかに「みあれ」していた。七世紀には天皇が、その政治的・宗教的権威を発揮するために、しきりに川上の雨乞いをやった時期であり、水源地のカミは、農耕にいちばん必要な雨をふらせなかったり、ふらせすぎて川下の民衆をこまらせる、一層くらいの高い偉力のあるカミとしてあがめられ、それが七世紀に顕著にみられ、八世紀以後にも受け継がれた川上の聖地の信仰なのだという。七、八世紀のころには、常世のカミの信仰よりも天つカミの信仰のほうが重視されるようになっていたのであり、皇大神宮の贄の海の神事とは、海辺に誕生したアマテラスを、川上の聖地に誘引してゆく祭であったが、それはアマテラスの海から天への移住であり、このようにして川上の聖地は高天(海)原と考えられ、アマテラスの住み家となったが、川上に誘導されたカミはやがて天空に常住する者と考えられるようになり、地上の高天原や天の岩戸は天界に押し上げられたという。この海から天への信仰変遷はおよそ六世紀半ばごろから、全国的に各地の村国で行われた形跡があり、常世カミが天つカミに転化してゆくプロセスにおいて、常世のカミが川を伝わりさかのぼって最上流地まで訪れてきたという段階のあることは、今日各地に残る民間伝承の中に幾多の微証があるという。
 もっとも、山の頂上から神が麓へ降りてくるという信仰は、必ずしも常世の神から天つカミへの変化を必要とはしないかもしれない。谷川健一『常世論』によると、南島では神は海の彼方から岬または小島に上陸し、そこから集落の上に垂直に降りるものと信じられていたという。外間守善『海を渡る神々 死と再生の原郷信仰』によれば、奄美・沖縄諸島で集落の腰当ての社(鎮守の杜と同様のもの)として分布するオボツ山・オボツ嶽は、来訪神が足がかりにする場合もあるが、奄美のオボツ山のうち、山上にあるものは、海の彼方のニライ・カナイから神が飛来して村を訪れると考えられているという。同書によれば、沖縄の古文献『琉球神道記』(1608年)に、新神、荒神と呼ばれる神名が出てくるが、正史『中山世鑑』(1650年)の冒頭「琉球開闢之事」のところにも「荒神ト申スハ海神也。(中略)ワウニ出現シ給ケル間、俗ニワウノミヲヤダイリトハ申ス也」と記され、荒神とは開闢の歴史にかかわりがある、ただの神ではないらしいとする。ワウに出現のワウとは、海辺の聖域オーのことで、オーハ、オーブ、オールなどとも呼ばれ、南島では海辺の聖域としてはオー系統の語のほかに、アハ、アフ、アブ、アカ、アラ等のア系統、イハ、イブ、イビ等のい系統の聖域語も分布しているという。アラの付く地名としては、アラハ、アラハバル、アラバ、などもあり、『おもろそうし』にはあらさきという地名が久高島と久米島にみられるが、いずれも海や神とかかわりをもっているし、沖縄本島南端にある岬もアラサキ(新崎)といい、『琉球国由来記』(1713年)ではアラサキミサキノ御イベと記され、ニライ・カナイの神を祀った御嶽とされ、海に突き出た岬をアラサキと呼んでいたことが知られるという。そして、 外間守善氏は、伊勢神宮をとりまく周辺の地名、シマ(志摩)、イセ(伊勢)、テラ(寺)、アサクマ(朝熊山)、アワ(淡郡)、オー(大島)、アラ(安楽)の一つ一つが南島の地名に対応して意味をもつのだが、その中でアラを取り上げるなら、伊勢のアラは安楽島で、日本各地に見られるこのようなアラもまた、南島にみられたように多くが海岸に近く、海からあがってくる神とかかわるだけでなく、稲作の拓かれた地ともかかわっていることが注目されるという。内宮の別宮の荒祭宮についても、「荒祭神」が神名としての古名であったとするならば、まさにアラ神であり、南島におけるアラ神(荒神)や山陰のアラ神(荒神)などとの底深く遠いつながりも考えられ、「荒」は新しくお生まれになったり、あらわれたりすると同時に、祖神とかかわりのある聖域アラからの神のよみがえり、生まれ変り、という意味にまで広がるのではないかとする。そうすると、神前神社や荒前神社の祭神の荒前ヒメもアラ神ということになるのであろう。もし、このようにアラで南島と伊勢がつながっているとすれば、伊勢でも神は海の彼方から岬または小島に上陸し、そこから集落の上に垂直に降りるものと信じられていたということはありえるわけで、海の彼方から来る常世の神が村落には垂直に降りてくるとすれば、まず最初に降りてくる場所が山の頂きということも考えられるわけである。もっとも、同書によれば、アラ神(荒神・新神)と呼ばれる神の素性は、海人族もしくは海を渡って来た遠来の人たちであり、しかも彼らは南島から北上していったのではなく、九州の方から島伝いに渡って来た人たちであり、弥生土器および類似する土器の出土地域とアラ地名の分布がほとんど重なっているという。そうすると、沖縄から伊勢にアラの付く地名が伝わってきたわけではなく、九州あるいは他の場所から沖縄と伊勢に伝わっていったということになるが、そうすると九州から沖縄と伊勢に移動した集団が海から来訪する神が山の頂に天降ると言う信仰をもっていたとすれば、沖縄に言えることは伊勢にも言える可能性があるわけである。

 天上界と海上他界(常世)との関係であるが、外間守善『海を渡る神々 死と再生の原郷信仰』によれば、沖縄では二つの場合が考えられるようである。一つは王権と関係するもので、 『おもろそうし』や王府編纂の史書『中山世鑑』(1650年)では、太陽神を主神とする天上世界が観念化されており、天上世界はオボツ・カグラと考えられ、全体的には中央を離れた村々・島々においてはニライ・カナイの信仰が分布するが、首里を中心とした中央においてはオボツ・カグラの信仰が色濃くみられるという。オボツの語源は聖域を意味するオボ(ウブ)に関係するものと思われ、オボツは常に地上世界(この世)と対応して構造化され観念化された天上世界となっており、『おもろそうし』の「おほつ世」とは、天上の世界、神の世、満ち足りた世のことである。また、国王が国土を平安に支配するためのセヂ(霊力)も、天上のオボツから降ろされるものと考えられた。『おもろそうし』ではオボツ・カグラの天上の神と地上の権力者である国王の王権を結ぶという意図を読みとることができ、尚真王の頃の中央集権化・王権強化の時代を反映した神観念であると思われ、こういった天上世界(天界)の思想は、中国の道教や日本神道の影響を受けた知識人たちによって、琉球王国の王権を強化する思想として利用されたものらしいという。太陽との関係でいうと、『おもろそうし』には、自然神としての「てだ」(太陽)が謡われ、やがて農耕社会で豊かな知恵を持つ男の長老(根人)に対して太陽神信仰との重なりが生じ、長老、あるいは政治的な有力者、地方の按司に対して「テダ」という尊称が捧げられるようになっていき、さらに進んで、「按司の按司」(=国王)が「てだこ(日子)」と称されるようになる。英祖王(一二六〇年)が「ゑそのてだこ(英祖の日子)」とよばれた最初の王とされており、尚真王の時代に、太陽神のよりましである聞得大君が、世を支配するセヂを授ける儀式を行って国王を守護するという関係になり、やがて「てだ」は国王の異称、尊称となっていったとされる。
 『おもろそうし』では、太陽神(琉球国王の祖先神)のまします天上界を「オボツ・カグラ」とよび、海の彼方にあると信じている沖縄人の祖先神アマミキヨたちの源郷を「ニライ・カナイ」とよんでいるが、琉球王朝では天上界が重視されたものの、それは古くらかの海上他界としてのニライ・カナイと対立するものというより、両者の統合が考えられたようであり、それは斎場御嶽のあり方を見るとわかるという。外間守善氏は、斎場御嶽が特殊な形で聖域化されるようになったのは、アマミク時代よりもっと後世の琉球王朝時代のことであり、王国の理念の中にある信仰体系の正当化のために、ニライ信仰、太陽神信仰を重ね合わせることのできる格好の地として斎場御嶽が聖域化されたのではないだろうかとする。そこは、太陽神とかかわる東の方、久高島を遥拝する御嶽としても適地であり、琉球王朝の最高神女聞得大君(国家的儀礼で太陽神に成り変わることのできる神女)の即位儀礼といわれる「御新下(オアラオリ)」がそこで行なわれていることも、国王と聞得大君を対応せしめて首里王国に君臨した王権のあり方と深くかかわっているからではないかという。オアラオリの意味も、聞得大君のセヂ(霊力)を海の彼方に求める儀礼にからめて考えると、アラオリというのは聖域アラの浜におりる神降りであり、オアラオリにかかわる神歌の謡うところによれば、神女の乗った神船はアラの浜から東方のニライの海へ漕ぎ出していって豊かなセヂ(霊力)を招来してきたようであり、祖神、すなわち海神のアマミク神やアラ神たちがやってきた海の彼方にセヂの源泉を求めようとした古代信仰の凝縮されたのがオアラオリの儀礼であった。王権を強化し国家を支配することのために、豊かな霊力(セヂ)を必要としたわけで、「御新下」は、祖神信仰、太陽神信仰、ニライ信仰という神観念と他界観が重なり合って形成されてきた古代心性を背景にして、国家的に組み立てられた大きな宗教儀礼であり、底深い古代信仰に支えられていたのであろうことが、アラの意味解きをすることで鮮やかに蘇ってくるという。
 琉球王朝では国王の権威を天上界の太陽神に求めたといえるが、海上他界のニライ・カナイ思想が排除されたということではなく、オボツ・カグラとニライ・カナイの統合が図られたが、それはまた伊勢神宮にもいえる。筑紫申真氏(『日本の神話』)によれば、常世のカミの訪れの思想をバックにもっていればこそ、贄の海の神事が行われ、内宮の禰宜らは毎年定期に、その水流が海と結合する地点すなわち五十鈴川の河口まで浜下りして、二見海岸で垢離をとるのを恒例としてきたのであり、皇大神宮の殿舎の一隅に、千数百年にわたって確乎たる地歩を占めつづけてきた地主神としての興玉神は、「沖の霊魂」すなわち常世のカミであるという。皇大神宮のカミは、もともと常世カミの名残をとどめたものであり、且つまた空から定期的に天降ってくる天つカミであった過去をもっていたが、常世のカミといい天つカミといっても、同じカミであり、水神とは常世のカミ=天つカミであり、さらにいえば基本的に訪れてくるカミ、つまり常世のカミ=天つカミ=田のカミ=大歳(穀霊)のカミであるという。

 沖縄における天上界と海上他界のもう一つの場合は、伊江島にみられる。外間守善氏の本によると、伊江島では、天上世界のオポツ・カグラは「フサト」(現在の方言でクサトゥ)とよばれ、海の彼方にあるニライ・カナイ信仰も伝えてはいるのだが、古老たちにはオポツ・カグラ信仰が根強く意識されており、その地上に投影したのが島のフサト拝所であり、そのフサトを古代集落の発祥の地とも伝えているという。また、伊江島には「昔、冨里村にネグニアガリとユリノシタハナダイモ等の悪い大将がいて、ニレの神リュウグチュング軍に屢屢軍をしかけた。島の神女はニレの神の憑依をうけ、霊妙な謀略を以てこれを退治し勝利を得たので、ニレの神は大いに歓び、恩賞として海上安全、五穀豊穣、魚族自由採食の権を島に授けられた。」という神話があり、その神話について『伊江村史』は、「オポツ・カグラの裔であると信ずる地上のフサトの住人と、地上神であるニレの神ニライカナイの勢力争いとみられる」と解説しているという。ただ、外間守善氏はその『伊江村史』の解説は不十分で、伊江島の聖域、神々、神祭りの体系と構造を分析し、『おもろそうし』と比較しながらその相関を考察すると、ニライ・カナイ系の人々が先住民であり、オボツ・カグラ系は新渡来人の人たちと考えられるが、海からあがって来たニャーティヤーガマ(洞窟)の神アマミヤガナシと、天から降りて来たセイ杜御嶽の神アマミヤガナシが、「冨里(フサト)」を媒介にしながら島最高の聖域グスク山の中腹の神庭で習合し、神名を同じアマミヤガナシと呼んでいることから、冨里村辺でオボツ・カグラ系とニライ・カナイ系の勢力争いと和合があり、その後五穀豊穣、村が栄えたことを伝える神話と考えるべきで、先住民と新渡来人との勢力争いと和合という歴史的事実があったという。琉球王朝では中国の道教や日本神道の影響を受けた内部的変化であったのに対して、伊江島ではニライ・カナイ信仰と天上界であるオボツ・カグラ信仰を持つ二つの対立しあっていた集団の間の和合であり、その二つの集団とはどのような集団だったかも問題になる。また、天上界の投影が平地であるフサト拝所であるのに対して、海上他界のニライ・カナイの神と天上界の神との習合がグスク山の中腹の神庭でおこなわれるということは、ニライ・カナイから来る神もまたグスク山に天降ると考えられていたから、両方の神が天降るグスク山の中腹で習合が行なわれるということではないだろうか。
 外間守善『海を渡る神々 死と再生の原郷信仰』によれば、伊江島の具志原貝塚は、縄文土器は出ていたものの弥生土器が見つかっていなかった沖縄で、初めて弥生土器(九州山ノ口式)が発見された約二千年前の遺跡で、九州各地をはじめ出雲あたりにかけて出土する夜光貝、ゴホーラ貝などの貝輪の素材が異常なほど出土し、具志原貝塚の発掘にたずさわった沖縄県教育委員会の岸本義彦考古学専門員は、沖縄周辺各地のゴーホラ貝を伊江島に集めて九州との交易に使ったのではないか、貝との交換品は稲であったであろう、という仮説を立てているという。また、伊江島の東南海岸の港に近い所に阿良という地名があり、阿良御嶽の前浜はアラノ浜とよばれているが、九州から奄美諸島伝いに島渡りしてきた渡来人たちのある集団は伊江島に上陸し、定住地を求めて漂白した所がまずはアラノ浜周辺で、彼らゆかりの地をアラノ浜、アラ御嶽とよび、神名をアラ神とよんだのではないかという。アラ神はそれからニャーティヤーガマ近くの積ツケ杜に入っているが、積ツケ杜はニライ・カナイからやってくる海神を迎える所といわれており、積ツケ杜の神は『琉球国由来記』ではアフヤハナガナシと記されているが、この海神は『伊江村史』によると荒神(コウジン)ともいわれてるいという。海神のアラ神はアマミヤガシナともいわれているが、ニューティヤーガマについて『琉球国由来記』は、嶽名が「宮寺ノ御嶽」、神名が「アマミヤガシナ」であるということをつたえてくれるだけであり、アマミヤガシナはアマミ(奄美)の方からやってきたお方という意味であるという。ニャーティヤーガマのアマミヤガナシは、さらに島の最高の聖域、セイ杜の神であるアマミヤガナシと合体して伊江島を守る最高神になっているわけである。アマミヤガシナは、アマミキヨ、アマミクともいわれ、沖縄の祖先神として信仰されているが、沖縄の神話において創世神(祖先神)とされるアマミキヨ(アマミク)の居所がアマミヤ・シネリヤで、アマミヤは「アマミキヨのいる方」を原義とし、アマミキヨ神は海から来る神と理解され、アマミヤ・シネリヤという祖先神アマミキヨの居所を志向するその信仰は、根所であるニライ・カナイへの信仰と重なりあう部分が多いという。そして、アマミヤ・シネリヤはどこかというと、伊波晋猷は、九州の東南岸に住む海人部とのつながりを考え、九州から南へ渡り移った民族移動を示唆している語であろうとしたが、神話やオタカベ・クェーナなどの古謡には、アマミキヨ神が稲作と結びつけられて伝えられているのも、そういった渡来の道に関係しているのではないかといする。そして、外間守善氏は伊江島には日本文化の深層を伝えてくれるものが表層にあらわにみられると言い、その中には先史時代を映す縄文文化、弥生文化の片々がみられること、島渡りをして漂泊した渡来者たちが、稲作、鉄文化を伴って先住民と交わりながら歴史を拓いていくようすがあるという。その言葉からいえば、海上他界のニライ・カナイ信仰集団と天上界のオボツ・カグラ信仰の集団とは、縄文人と弥生人という受けとることができる。しかし、他方では弥生人であるアラ神集団はニライ・カナイ信仰を持っていたともされるのであるから、オボツ・カグラ信仰を持って伊江島にやって来た集団はそのアラ神集団とはまた違った人たちということにもなるわけである。そうすると、オボツ・カグラ信仰を持って伊江島にやって来た集団はどこからやって来た、どのような集団だったのかということになるが、おそらく彼等も九州・奄美の方からやって来た集団と考えられるであろう。
 日本古来の東に在る海の彼方の神界・常世と沖縄のニライ・カナイの関係であるが、ニライ・カナイの意義の変遷について外間守善氏は、@祖神のまします聖域で、そのためにすべての根になり基になる所、根所、A死者の魂の行く所、底の国、B地上に豊穣、幸福、平安をもたらすセヂ(霊力)の源泉地、C海の彼方の楽土、常世の国、という順序や段階が考えられ、現在通念化されている「海の彼方の楽土」観は、後になって理想化されていったもので、新しいニライ観であることが見えてくるという。ただ、「楽土」という性格を除けば、宮古や八重山では、海の彼方の世界をニーラ(根になる所)と言っており、ニライ神は海の彼方から豊穣を持ってやってくると、現在でも信じられているというから、神が海の彼方から豊穣を持ってやってくるという考えは相当古くからのものと考えられ、@の段階で少なくとも祖神のいる場所から神がやってくると同時に、豊穣とまでは行かなくとも穀物のようなものもやってくると考えられていた可能性はあるのではないだろうか。祖神が文化英雄的性格をもっていたとするなら、特にそのことはいえるであろう。ニライ・カナイと海との結びつきは、Aの死者の魂の行く所、底の国ということでは特に海との結びつきはいえないかもしれないが、既に@の段階で海との結びつきもあったかもしれないわけである。ニライ・カナイについては、水平的なイメージだけではなく、海の底にニライを求める解釈もあるという。また、各地の祭祀儀礼におけるニライの方角は、村の立地条件に左右されることもあるうるが、東方を意識している地域が多いのも事実であるといい、東方が重視されるのは当然太陽との関係から来るものと理解できるであろう。沖縄の古辞書『混効験集』は、おもろ語の「あかるいの大主(東方の大主)」を「にるやかなやの大神也」と記しており、「東方の大主」の対語が「てたかあなの大主(太陽穴の大主」)とされていることからも、『おもろそうし』にみえるニライ・カナイは方向として東方に限定されているようだというが、同時に琉球王が天上界の太陽神と結びつけられる以前から、ニライ・カナイ=東は太陽とも結びついて考えられていたことを示しているのではないだろうか。国家的儀礼で太陽神に成り変わる聞得大君が成り変わる太陽神とは、東の海上のニライ・カナイと結びついた太陽神的性格も強いといえるであろうし、それもまた古来からの海上のニライ・カナイと太陽が結びついていたからではないだろうか。

 筑紫申真氏は海から天への信仰変遷は、およそ六世紀半ばごろから全国的に各地の村国で行われたと見ているわけであるが、同時に天皇家の信仰が「海から天へ」と移っていった時期も、六世紀半ばの継体天皇の治世の直後と思っているといい、その理由として継体の子の安閑天皇の名に「日」、同じく欽明天皇の名に「天」の字がつき、それ以後普通「日」または「天」の字が天皇の名にはかならずつけられるようになっていることをあげている。全国各地の村国と天皇家でほぼ同時に海から天への信仰変更が起こったということになが、その契機は沖縄のように天皇家と全国各地の村国で違うものだったのか、それとも同じものだったのであろうか。全国各地の海から天への転換は、伊江島と同じ過程を経たとするのは無理があるように思える。沖縄でも、全体的には中央を離れた村々・島々においてはニライ・カナイの信仰が分布するが、首里を中心とした中央においてはオボツ・カグラの信仰が色濃くみられるということは、伊江島で起こったようなことが沖縄全体に起こったのではないということを示しているのだとすれば、沖縄よりはるかに広い全国各地に短期間のうちに天上信仰を持った民族なり集団なりが入り込み、全国各地において海から天への転換を引き起こした、ということは考えられないのではないだろうか。そのような民族・集団の存在ということは考えられないのではないだろうか。そのような民族・集団としてどのような存在が想定できるかも問題になるが、それが渡来人といわれる人達であるとすれば、彼等にそのような力があったとも思えない。もしそのようなことが可能だとすれば、それは彼等が大和朝廷と強い結びつきがあり、朝廷からの強い後押しがあった場合であろう。その場合、朝廷自身が海から天へとその信仰・思想を変換していなければならない。実際、筑紫申真氏はそのような変化が天皇に起こっていたとするわけであるが、それは琉球王朝とは違った経緯があったかもしれない。筑紫申真氏によれば、それは継体天皇の時であったが、それは出雲神族系の継体朝から欽明天皇への王朝交代の時期でもある。琉球王朝では海から天への転換は内発的なものであったが、天皇の場合は王朝交代という外部的な要因が契機となっていた可能性もあるわけである。そうすると、欽明天皇は天上を神界とする思想・信仰を持った集団から出たのかもしれない。もしそうなら、彼等の権威・権力基盤を強化するために、欽明朝は天上を神界とする信仰を全国各地で強力に進めたことも考えられるわけである。安閑天皇の名に「日」がついているのは、欽明朝の建前では一応欽明天皇は継体天皇の子供ということになっているわけであるから、継体天皇の子供の安閑天皇の名に後から「日」を使うことによって、継体から欽明への連続性を偽装したのだとも考えられる。ただ、欽明天皇が天上に神界とする信仰・思想を持っていたとしても、そこで生じたのは琉球王朝と同じように海が完全に捨てられたのではなく、海と天との統合だったであろう。

 筑紫申真氏の説に戻ると、伊勢でも各河川の流域ごとの村国において、川水のカミ、棚機つ女のカミ、稲霊のカミが祀られていた。そして、伊勢神宮成立期における内宮と外宮の関係は、川の信仰の変遷を追求してゆくと分かってくるのであり、皇大神宮のカミは、宮川の川下から川上へ、そして五十鈴川の川上へと、その祭りの場を三転しているのだという。宮川河口デルタの渡会氏は川のカミまつりを高河原神社でしていたが、そのとき稲魂のカミは今の外宮の地で祀っていた。しかし、川上を神聖視する信仰とともに宮川上流のマナゴ岩が奥宮として重視されるようになり、その川上の聖地の信仰をふまえて、天皇家はマナゴ岩の地に多気大神宮を建て、次いで文武二年(698)にそれを流域変更して五十鈴川の川まつりの聖地に遷座し、皇大神宮(内宮)を創設したが、高河原神社の外宮であったものが、すなわち稲霊のカミであり大神の朝夕散飯(さば)のカミが、そのまま皇大神宮(内宮)の外宮にあてられたというのである。
 方位線的にいうと、滝原神宮と高河原神社が東北30度線をつくり、方位線上を高河原神社から滝原宮へ移っていったといえるし、冬至の日没方向に移っていったともいえる。また、斎宮と真奈胡神を祭神とする現在の多伎原神社が東北45度線をつくるが、マナゴ岩が多伎原神社の近くにあるとすれば、斎宮とマナゴ岩が東北45度線をつくっていた可能性がある。真奈胡神は『倭姫命世紀』では宮川を遡ってきた倭姫がここの瀬の流れが速く難儀していた時にこれを助けた土地の神で、猿田彦神社発行『神宮摂末社巡拝』には、「鎮座の森の脚下は宮川の渓流で水早き瀬の辺りを真奈胡の御瀬と呼んでいる」とあるので、マナゴ岩は神社の近くにあるのかもしれない。ただ、斎宮と滝原宮については、奈良時代の斎宮とはかろうじて方位・方向線をつくるといえるかもしれないが、奈良時代以前に滝原宮が造られており、奈良時代には滝原宮から内宮に遷座していたとすればあまり関係はないといえる。伊雑宮の東西線は滝原宮と多伎原神社の真中を通る。どちらにしても方位線ではなく方向線なのであるが、天武朝が関わる以前の伊勢において、宮川の高河原神社より上流のなかで聖地としてマナゴ岩が選ばれたというのは、伊雑宮の東西線上に位置するということだったのかもしれない。ただ、高河原神社と多伎原神社とは方位・方向線をつくらない。 

  高河原神社―滝原神宮正殿(WE0.620km、1.22度)の東北30度線
  斎宮公園記号―多伎原神社(E0.013km、0.03度)の東北45度線
  滝原神宮正殿―斎宮公園記号(W1.988km、4.46度)―斎宮内院御殿付近(W0.893km、1.97度)の東北45度線
  伊雑宮新旧正殿中央付近―多伎原神社(N1.642km、2.73度)の東西線

 筑紫申真氏(『日本の神話』)は高河原神社を祀っていたのは渡会氏で、渡会氏にとって内宮にあたる神社としては他に、高河原神社より宮川の下流の御園にあり川神を祭る外宮摂社の河原神社、高河原神社より宮川の上流の佐八にあり月読神を祭る内宮摂社の川原神社をあげる。もっとも、川原神社は渡会氏よりは荒木田氏と関係するようである。川原神社の対岸の田丸一帯は荒木田氏の開拓した場所で、『神宮摂末社巡拝』によると川原神社のある佐八という地名は、元来澤地(或いは澤道)の意味で、内宮の荒木田神主の一族に佐八氏、澤田氏の名があるといい、それからいうと佐八にある川原神社は荒木田氏の祭る神社だったことになる。外宮ではなく荒木田氏が禰宜をしている内宮の摂社になっていることからもそれはいえるであろう。。渡会氏・荒木田氏との関係を脇に置いておいて、宮川流域の筑紫申真氏の挙げる神社の中で、外宮の近くに位置し、鎌倉時代にこの神社の信仰をもとにして、外宮の別宮の月夜見宮が同じ場所に造られたことから、筑紫申真氏は高河原神社を容易ならぬ重要な神社とするわけである。
 高河原神社・河原神社・川原神社の方位線関係をみると、高河原神社と河原神社が東北60度線をつくり、河原神社と川原神社が東北45度線をつくり、川原神社と外宮が東北30度線をつくる。また、外宮神体山の高倉山と高河原神社・河原神社が東北60度線をつくっている。外宮は高倉山・高河原神社神社と方位線をつくらないのであるが、河原神社とはやはり東北60度線をつくっている。河原神社まで考えると、一本の東北60度線上に高倉山・外宮・高河原神社・河原神社が並んでいるともいえる。もっとも、高河原神社は古来から現在地に鎮座していたと考えられるが、河原神社・川原神社共に寛文三年(1663)に再興されたものであり、古来からの鎮座地とは違っている可能性もある。現川原神社と斎宮内院とが西北60度線を作っているが、川原神社は平安初期の『皇大神宮儀式帳』にその聖域の東と西と北とを大きな川、すなわち西と北を宮川、東を佐八川が流れていると記されているといい(筑紫申真『日本の神話』)、川原の神ともされるから、現鎮座地の北から西にかけての宮川の川原近くに元々は鎮座していたと考えられる。元々の河原神社も、最初の斎宮か奈良時代後期の斎宮のどちらかと方位線をつくっていたと思われる。高倉山・外宮・高河原神社・河原神社・川原神社の方位線網は寛文三年以降、今現在まで作動している方位線網ということはできるであろう。

  高河原神社―河原神社(W0.016km、0.33度)の東北60度線
  河原神社―川原神社(E0.080km、0.64度)の東北45度線
  川原神社―外宮新旧正殿中間付近(W0.115km、1.67度)の東北30度線
  高倉山117m標高点―高河原神社(W0.017km、0.70度)―河原神社(W0.033km、0.45度)の東北60度線
  河原神社―外宮新旧正殿中間付近(E0.096km、1.59度)の東北60度線
  川原神社―斎宮公園記号(W0.518km、3.07度)―斎王御殿付近(E0.147km、0.97度)の西北60度線

 御船神社は『倭姫命世紀』では坂手の国から外城田川を遡ってきた時、この辺りで川の水が尽きたので、その水寒かりしかばこのあたりの川を寒川と名づけられ、そこに御船を留めさせたので、御船神社を祝い定められたという。御船神社も中世に衰退したものを寛文三年(1663)に再興したといい、現在の御船神社はやはり古来からの鎮座地なのではないのかもしれないが、御船神社と高河原神社が東西線をつくり、御船神社と滝原宮が東北45度線をつくる。

  高河原神社―御船神社(N0.263km、1.41度)の東西線
  滝原神宮正殿―御船神社(E0.406km、1.13度)の東北45度線

 筑紫申真氏は鎌倉時代に月夜見宮が高河原神社と同じ場所に造られたとするのであるが、『皇大神宮儀式』には既に月読宮、『延喜式』では月夜見神社として見えているといい(『日本の神々 6』)、鎌倉時代というのは宮号が与えられた時期なのか、他所から高河原神社の地に遷座してきたのか、その意味することはよく分からない。ただ、高河原神社と月読神との密接な関係はいえるであろう。『日本の神々 6』によれば、月を雨や霧、湿気など一切の水の源泉とする信仰は世界のあらゆる民族に分布し、さらに発展して月は海や洪水、あるいは農耕や林業とも結びついたという。また、『日本の神々 6』ではツキヨミを祭神にしている神社は月讀宮・月夜見宮・川原神社の他にも『皇大神宮儀式』には多気郡の魚見神社があげられているといい、これらの伊勢のツキヨミ神の社は海人との関係を示すもので、皇祖神アマテラスの兄弟神だから配祀されたのだと単純に割り切るべきものではないとされる。筑紫申真氏は内宮以前の伊勢の祭祀において、川水のカミ、棚機つ女のカミ、稲霊のカミが祀られていたとするわけであるが、川原神社の祭神としての月読尊御魂は川の神とされているといい(ウィキペディア 川原神社)、月神が水と関係するとすると、川水のカミとは海の彼方の常世からやってくる神で太陽神なのか、その神が御生する川の川水のカミ、即ち月神なのかも問題になるであろう。また、稲作・太陽と結びつく海人と農耕・月神と結びつく海人という、海人でも二つの集団があり、伊勢ではその二つの海人集団が存在していたということなのであろうか。式内社研究会 編『式内社調査報告 第六巻 東海道1』によると、祭神が川原神社と内宮別宮の月讀宮で共通するだけでなく、両社の鎮座する佐八町と中村町はどちらも荒木田氏を通じて深いつながりがあったという説があるという(ウィキペディア 川原神社)。そうすると、荒木田氏は川水そのもの、月神とも深く関係する氏族だったのかもしれない。もっとも、海から来る神は川の中で御生するのであるから、御生する常世神を祀ると同時に、その神が生まれる川水そのものを祀るということもあり得るであろうから、その場合、川から生まれる神と川水の神とは密接不可分な関係ともいえるし、それが太陽神と月神とされるなら、太陽神と月神は密接不可分なものとなり、一つの海人集団が稲作・太陽と農耕・月という二つの信仰を持っていたともいえる。どちにらしても、川筋の神社の中には海の彼方の常世から来る太陽神を祀る神社と、月神を祀る神社、川にミアレする神と川・川水そのものを祀る神社の両方の神社があり、そのうち川原神社は川あるいは川の水そのものを祀る神社だったのかもしれない。
 魚見神社であるが、松坂市魚見町に在る魚見神社が式内社・魚海神社とされる。他に、魚見町の北にある川島町鎮座の魚海神社も論社とされるが、魚海神社については、魚海神社は「魚見潮積社」と記されている書物があることから、魚見神社が式内社であると考えられているという(https://siomihyo.exblog.jp/18744585/)。魚見神社の祭神は、『式内社調査報告』によると、天照皇大神と月讀荒魂命とされているが(https://genbu.net/data/ise/uomi2_title.htm)、豐玉彦命 配祀 豐玉姫命、月讀荒魂命、天之忍穗耳命、須佐之男命ともあり、式内社では二座とあって、月讀荒魂命、豐玉姫命、豐玉彦命の三座のうちの二座と見られ、 海を支配する神々を祀る神社であったことは確かだと言えるという(http://kamnavi.jp/en/mie/uomi.htm)。現在地は、明治四十二年に大国玉神社に合祀されたが、その後、氏子の総意によって昭和十年三月六日に古社地に分祀再興されたものであるという(https://genbu.net/data/ise/uomi2_title.htm)。昭和六十二年に再び大国魂神社に合祀されているという記述もあるが( http://kamnavi.jp/en/mie/uomi.htm)、松阪市六根町の大國玉神社を見ると、 「昭和十年、上記八社を氏子崇敬者の熱意により旧社地に分祀復興し、昭和六十二年、境内社(八社)を創立した。」(https://genbu.net/data/ise/ookunitama_title.htm)とあるので、魚見神社はそのままに、大國玉神社でも境内社が造られたということらしい。ただ現在地も、『日本の神々 6』によれば、
伴信友の『神名帳考証』に海辺から現在地に遷されたと伝えられているとあるといい、それがいつの時代で海辺の何処から遷ってきたのは分からないが、現在地で見ると、魚見神社の西北60度線上に同じく月読神を祀る川原神社、西北30度線上に河原神社があり、また月夜見神社ではないものの、その西北45度線が外宮と高倉山の中間を通る。

  魚見神社―川原神社(W0.102km、0.45度)の西北60度線
  魚見神社―河原神社(E0.323km、1.42度)の西北30度線
  魚見神社―外宮(E0.361km、1.54度)―高倉山(W0.331km、1.40度)の西北45度線

 上流が重視されたという筑紫申真氏の説にも少し疑問がある。筑紫申真氏(『日本の神話』)によれば、五十鈴川でも内宮よりさらに上流の川淵に鏡石と呼ばれる神聖な岩があり、その付近一帯は神話の中の「天の安の河原」だと思われていたというのであるが、より川上の聖地であるマナゴ岩の地に滝原神宮が建てられたのであるなら、その鏡岩の場所に内宮が建てられるということになるのではないだろうか。また、筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』によれば、皇大神宮の前身で、それに近い性格をもっていた多気大神宮(滝原神宮)の存在は、文武天皇二年の内宮成立以前の数年間というのであるが、そのような短期間で滝原宮から内宮に遷る理由も問題であろう。滝原宮とマナゴ岩の関係を考えると、滝原宮と多伎原神社の距離が山を隔てて少し離れすぎていることも気になる。また、滝原宮は宮川の支流の大内山川のさらに支流の頓登川の傍らに鎮座しているのであって、宮川の上流といえば上流であるが、それほど宮川を意識しているとも思えない。また、高河原神社から滝原への移転を、筑紫申真氏は天照祭祀の移動と考えているが、滝原神宮と高河原神社が方位線をつくり、高河原神社の場所に月夜見宮が造営されたことを考えると、滝原神宮と高河原神社の方位線関係からいっても、滝原宮と月神との関係も無視できないのではないだろうか。あるいは、滝原宮の位置は筑紫申真氏説とは別の理由から選ばれたのかもしれない。

 延暦二十三年(804)の『止由気太神宮儀式帳』では雄略天皇の時天照大神の託宣により、丹波国比治乃真名井原にいる豊受の神を御饌都神として迎えたのが外宮とあり、丹後の久次の比沼麻奈為神社は、外宮の旧地ともされている。『日本の神々 山陰』によると久次岳は真名井山・真名井ヶ岳とも呼ばれ、「出雲神族・海部氏と丹後」で記したが、久次岳と久次の比沼麻奈為神社は東西線をつくっている。また、丹後国風土記逸文の奈具社の由来では、比治の里の比治の山の頂に真名井があり八人の天女が水浴びをするという比治山の羽衣伝承が語られているが、その比治山については久次岳と伊去奈子嶽(磯砂山)の説があり、久次岳と磯砂山(伊去奈子嶽)も西北60度線上をつくっていた。やはり「出雲神族・海部氏と丹後」で記しことであるが、籠神社の海部氏の伝承では、父の彦火明命に従い、子の天村雲命と凡海嶋に天降った天香語山命は、そこから伊去奈子嶽(いさなごだけ)に至り、そこで母の天道日女命に逢うが、天道日女命にここは豊受大神のまします国であると言われる。天道日女命の名前から天道日女命は日神であり、磯砂山(伊去奈子嶽)は日神と結びつく山と言えるかもしれない。一方、「豊受大神當國の伊去奈子嶽に降り坐しし時天道日女命等大神に五穀及桑蚕等の種を請ふ」と當國風土記に在りともいわれ、丹後の豊受大神には月讀神との関係も窺われる。久次岳や伊去奈子嶽において日神天道日女命と豊受大神の関係は複雑ともいえるが、基本的には久次岳は豊受大神と結び付き、伊去奈子嶽は日神と結び付くといえるかもしれない。式内社比沼麻奈為神社は一般には峰山町久次の比沼麻奈為神社とされるが、『日本の神々 山陰』によると比沼を比治と記すものもあり、さらにヒジをフジの同意と考えて磯砂山山麓の峰山町鱒留の藤(藤社)神社にあてる説もあるというが、磯砂山山麓にはその他にも上常吉の富持(ふじ)神社や鱒留の比沼麻奈為神社があり、藤神社ではないが富持神社が磯砂山と東西線をつくり、久次の比沼麻奈為神社と富持神社が西北45度線を作ることも記したことであるが、それ以外にも久次と鱒留の比沼麻奈為神社が東北60度線をつくっている。外宮の豊受の神がいた丹波国比治乃真名井原と関係すると思われる場所一帯を丹後の比治乃真名井原圏とするなら、そこには濃密な方位線関係がみられるわけである。

  久次の比沼麻奈為神社―鱒留の比沼麻奈為神社(W0.033km、1.20度)の東北60度線

 「出雲神族・海部氏と丹後」では、滝原宮・出雲大神宮・兜山の熊野神社が西北45度線上に並び、兜山の熊野神社と大江山も西北45度線をつくるとしたが、滝原宮と大江山も西北45度線をつくっている。また、数字データまで記してしなかったが、その方位線に沿って元伊勢伝承のある皇大神社・豊受神社、さらには皇大神社と川を挟んで対しているピラミッドとも皇大神社の神体山ともいわれる城山(日室山)があった。正確に言うと、それら元伊勢関係の三ヶ所と出雲大神宮や滝原宮は西北45度線をつくっているが、大江山とはつくっていない。ただ、やはり数字データは記していないが、大江山と皇大神社が西北30度線をつくることは述べていた。滝原宮と西北45度線をつくる大江山や元伊勢関係と丹後の豊受大神圏の方位線であるが、久次岳・磯砂山・大江山が西北60度線上に並んでおり、数字データは記さなかったものの、城山(日室山)と久次の比沼麻奈為神社が西北60度線をつくることも指摘していた。それ以外でも、豊受大神社と鱒留の比沼麻奈為神社が西北60度線をつくっている。丹後の比治乃真名井原圏と大江山・元伊勢圏も方位線で結ばれているといえるわけである。特に久次岳・磯砂山・大江山の西北60度線と豊受大神社・鱒留の比沼麻奈為神社の西北60度線は一つの方位線帯をつくっているといえる。鱒留の比沼麻奈為神社からみると大江山と西北60度線が成立しており、豊受大神社と久次岳にも西北60度線が成立している。滝原宮と丹後の比治乃真名井原圏とは大江山・元伊勢を介して方位線で結ばれているわけであり、その中でも滝原宮と外宮の関係では、滝原宮・大江山・磯砂山・久次岳と滝原宮・城山(日室山)・久次の比沼麻奈為神社の方位線が重要であろう。特に「出雲神族・海部氏と丹後」では、大江山は月読命を祖神とする宇佐氏と結びつき、丹後旧事記に「久次嶽は宇気持神天降る地なり」とあることから久次岳は保食神、磯砂山(伊去奈子嶽)は天道日女命から日神=天照と結びつくのではないかとしたが、保食神的神話は世界的には月と結びついており、天道日女命=日神=天照大神に対し、保食神=豊受大神で、保食神=月読命=豊受大神ともいえる。滝原宮と外宮の間には方位線関係はないが、丹後と滝原宮との方位線からいっても、滝原宮は内宮の天照大神というより外宮の豊受大神と結びつく神社ということも考えられるのではないだろうか。
 
  大江山―皇大神社(WO.113km、1.28度)の西北30度線
  滝原宮―豊受大神社(W0.741km、0.26度)―皇大神社(E1.650km、0.57度)―城山(E1.03km、0.35度)―大江山(E0.453km、0.15度)の西北45度線
  出雲大神宮―豊受大神社(W0.562km、0.59度)―皇大神社(E1.828km、1.85度)―城山(E1.208km、1.20度)の西北45度線
  城山(日室山)―久次の比沼麻奈為神社(E0.094km、0.26度)の西北60度線
  鱒留の比沼麻奈為神社―大江山(W0.286km、1.01度)―豊受大神社(E0.336km、0.83度)の西北60度線
  豊受大神社―久次岳(W0.700km、1.61度)の西北60度線 

 「神武東征と大和」のところで、大江山と畝傍山が西北60度線をつくることを書いたが、この方位線に物語性があるとすれば、 畝傍山の近くで神武天皇が即位し、宇佐氏の伝承では大江山は莵狹族が最初に拠点を置いたところで、神武と宇佐氏は神武東征に莵狹津彦・莵狹津媛が出てきて関係性があるということであろう。もっとも、それだけでは大江山と方位線をつくる畝傍山で即位する理由としては弱いし、そもそも宇佐公康氏の『正続・古伝が語る古代史』では、神武は大和には入っておらず、安芸で死んでいる。その兄の景行も神武を継承して九州を親征する途中に亡くなっているといい、景行天皇の後は第四子の稚足彦尊が成務天皇といわれて長門国の豊浦宮や筑前の香椎宮で政治を行い、その後は仲哀天皇・神功皇后となるが、神功皇后の生んだ子は誉田天皇で応神天皇ではなく、応神天皇は神武の孫の宇佐押人で、この応神天皇が始めて大和に入って、大和国高市郡白橿村大字大軽の軽島豊明宮で即位したとなっている。応神天皇の宮は『古事記』では「軽島の明宮」と書かれ、『日本書紀』では明宮一説では大隅宮で亡くなったと記されている。丸山古墳・孝元陵近くの春日神社が軽島豊明宮跡とされているが、畝傍山の近くともいえ、畝傍山の東南に位置していて、神武天皇が即位した畝傍山の東南の橿原の地とも共通しているともいえる。大江山と軽島豊明宮跡の春日神社も西北60度線をつくり、この場合は宇佐氏の伝承に基づく物語性はいえる。宇佐氏の伝承からいえば、神武の畝傍山の東南の橿原で即位したという伝承は、応神以後に作られたということになるが、応神天皇の事績が何らかの形で反映されていると考えるべきかもしれない。そう考えると、元々は応神天皇の宮が畝傍山と結びつく場所として選ばれたものが、神武の大和での即位という話が作られる過程で、神武の即位の場所が畝傍山と結びつけられていったということなのかもしれない。神武と応神の関係は宇佐氏の伝承通りではないかもしれないが、宇佐氏の伝承には天皇の秘密が何がしか反映されているのかもしれない。

  大江山―春日神社・軽島豊明宮跡(E0.406km、0.19度)の西北60度線

 畝傍山と文武天皇陵も西北60度線をつくり、文武天皇陵は大江山の西北60度線上に位置するわけである。もし、吉野裕子氏のいうように天武天皇が最初は文武天皇陵の所に葬られたのだとすると、大江山の西北45度線上に滝原宮があり、西北60度線上に天武天皇は葬られ、その最初の天武陵の東西線上に内宮が造られたということになるわけである。では何故、天武朝は畝傍山を意識したかというと、神武天皇は畝傍の橿原宮で即位しており、畝傍山が神武天皇と結びつく山だったからであろう。そして、『日本書紀』の壬申の乱の中に神武天皇が出てくる。天武軍が大和で近江軍と戦った時、高市軍の大領の高市県主許梅が神懸りのようになって、高市社の事代主神と身狭社(牟佐)社の生霊神を名乗り、神武天の山陵に馬や武器を奉るように言ったので、神武天皇陵に馬と武器を奉り、御幣を捧げて高市・身狭の神をお祀りしたといい、天武にとって神武天皇は自分に勝利をもたらした存在ともいえるわけである。

  文武天皇陵―畝傍山199m三角点(E0.010km、0.14度)―大江山(W0.121km、0.05度)の西北60度線

 別冊歴史読本『歴史検証 天皇陵』の神武天皇陵についての文で、山田邦和氏は『日本書紀』の記述から天武天皇の頃には神武天皇陵が在ったのであり、天武天皇はその勝利が神武天皇の霊験によるものであったことを意識し、当然のことながら、神武天皇陵の整備につとめたと推定されるという。神武天皇陵は『日本書紀』では畝傍山東北陵と記しており、『古事記』では畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあると記している。山田邦和氏によれば、『延喜式』にも神武天皇陵を「畝傍山東北陵畝傍橿原宮御宇神武天皇。在大和国高市郡。兆域東西一町。南北一町。守戸五烟」と記しており、『書紀』編纂当時の神武天皇陵を受け継いだものであったと考えてよく、七世紀から十世紀にかけて神武天皇陵は畝傍山東北に固定して存在していたと考えてよいことになるという。そして、神武天皇陵という伝承が畝傍山周辺に成立したのは古墳時代後期の新王朝の創始者と考えられる継体天皇の頃ではないかというが、出雲神族の伝承のように継体天皇が出雲神族出身であるとすれば、神武天皇との結びつきは消極的なものであったであろうし、継体天皇よりもやはり新しい王朝の始祖である欽明天皇の頃とすべきであろう。現在の神武天皇陵は江戸時代末期の文久の修陵の時定められたものであり、山田邦和氏によれば江戸時代には神武天皇陵としては、現在の神武天皇陵である橿原市大久保町にある山本村のミサンザイ(神武田)、同じく大久保町にある畝傍山の東北裾部にある洞村の丸山、同市四条町にある現綏天皇陵とされている四条村の塚山の三ヶ所が有力視されており、元禄の修陵の時には四条村の塚山が神武天皇陵とされた。このうち、洞丸山は春成秀爾氏が指摘するとおり、祠を建てるために丘陵裾を一部削平した小規模な平坦面であり、とうてい古墳やその他の遺跡ではありえず、それに対し四条塚山は直径約20m、高さ約3.5mの円墳であり、古墳時代の古墳であると考えて間違いないという。現神武天皇陵である山本ミサンザイについては、江戸時代にはこの地の中央には径約7m、高さ約1mの小丘と、径約6m、高さ約0.6mの芝地が存在していた。春成秀爾氏はこの小墳丘を中世寺院の堂の基壇としているが、その説には確証が欠けているといい、注目すべきは文久の修陵の際に水鳥形埴輪、須恵器杯・高杯などが出土しており、最近の宮内庁の調査によっても須恵器杯・高杯や円筒埴輪片が出土しており、小さいとはいえ墳丘が残っていて、その周辺から埴輪が出土したとするなら、そこに古墳の存在が推定されるという。七世紀の神武天皇陵を具体的な場所に積極的に比定しようとしてきたのは、和田萃氏、今尾文昭氏、それに筆者であるが、四条塚山の東北500mの所にある四条古墳群のいずれかの古墳を候補地とする和田説については、それらは藤原京の造営の時に破壊・削平されており、それらの中に神武天皇陵があることは、天武・持統天皇は神武陵を拡張・整備する政策をとったとみるのが自然で、彼等が造営した都城でそれを破壊するとは考えられず、神武天皇陵に比定することは無理があるという。今尾氏は四条塚山古墳を、筆者は山本ミサンザイ古墳を候補地としてあげているが、四条塚山古墳と山本ミサンザイ古墳では、鎌倉から室町時代にはすでに神武天皇と関連した創建説話を持っていた国源寺、神武天皇陵付属寺院の候補としてあげられる白鳳時代にまで遡る可能性のある大久保塔垣内廃寺(仮称)などが山本ミサンザイ古墳の近くにあり、四条塚山古墳とはやや距離を置いていること、また山本ミサンザイの土地は江戸時代には東西一町、南北二町のわずかに高い方形区画をなしていたが、それは『延喜式』に言う神武天皇陵の兆域の大きさと一致しており、山本ミサンザイ古墳の方により可能性を認めることが出来るのではないかとする。ただ、この山田邦和氏の説も、天武・持統天皇が神武陵の拡張・整備をしたとするなら、その墳丘が高さ1mというのは小さすぎるのではないだろうか。その点では、直径約20m、高さ約3.5mの現綏天皇陵の方が拡張・整備された神武陵に相応しいともいえるが、山本ミサンザイ古墳として古墳が想定されるなら、元はもっと大きな丘があり、それが後代に削られた残りが二つの小丘とも考えられる。天武・持統陵と山本ミサンザイ古墳の現神武天皇陵も西北60度線をつくる。内宮正殿と外宮正殿が正確な西北60度線をつくっていたことを考えるなら、現神武天皇陵がやはり天武天皇時代に在った神武天皇陵で、その神武天皇陵の西北60度線上に天武・持統陵が造られたということなのかもしれない。
 あるいは現綏天皇陵が神武天皇陵だったにせよ、どちらにしても大江山からの西北60度線上に畝傍山と神武天皇陵が在ったことには変わりはなさそうである。畝傍山と大江山が方位線をつくっていたが、畝傍山の東西線上に月夜見宮がある。そして、大江山と方位線をつくる滝原宮が高河原神社とも東北30度線をつくるということは、滝原宮は月夜見宮とも東北30度線で結ばれているということにもなるわけである。方位線から見ると、滝原宮は月讀と関係が深いともいえ、それは豊受大神との関係であり、外宮との関係であるともいえるわけである。

  神武天皇陵―天武・持統陵(W0.014km、0.22度)の西北60度線
  大江山―綏天皇陵(E0.941km、0.44度)―神武天皇陵(E0.627km、0.29度)西北60度線
  畝傍山199m三角点―高倉山117m標高点(S1.182km、0.81度)―外宮新旧正殿中間付近(S0.603km、0.41度)―月夜見宮(N0.024km、0.02度)の東西線

 あるいは、畝傍山と月夜見宮ではなく、畝傍山と高河原神社の東西線なのかもしれない。その場合は、天と海との統合ではなく、大和朝廷における東西の統合が関係しているとも考えられる。太陽が東の常世からやってくるということは、天照を祖神とする天皇にとって祖地とは東の常世でなければならないということでもある。一方、神武伝承からいえば神武は西からやって来たのであり、天皇にとっての祖地は西になってしまう。この天照=太陽の祖地の東と神武の祖地の西との統合を天皇は図らなければならなかったともいえるわけであり、その場合東に天皇の祖地があることを示すために、東の伊勢にも天皇と結びつき、太陽=常世とも結びつく場所が必要とされたであろし、その場所が高河原神社だったのかもしれないわけである。もっとも、畝傍山からの東西線ということでは高河原神社ではなくて外宮でもいいし、高倉山でもいいともいえる。単に地元の人々が土地の大神を祭る場所というのではなく、どの時代からかは分からないが、朝廷が太陽神=天照を祭る初期の場所が、外宮附近に在ったかもしれないわけである。

追記1 記憶違いで神武天皇が宇佐氏出身と書いたが、宇佐氏出身は応神天皇で、書き直した。

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内宮の方位線

 筑紫申真氏の説では内宮と外宮は直接的には何ら関係がなかったということになるが、鼓ヶ岳と高倉山は内宮が造営するはるか以前から一対の山として考えられていた可能性がある。現在宇治山田(うじようだ)神社が建っている丘は興玉の森と呼ばれ、社殿の奥十数メートルほどのところに石畳がある(https://www2.jingu125.info/2015/06/22/20150621_15200729752/)。大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』によれば、この石畳から内宮の神体山の鼓ヶ岳は冬至の夕日が沈む方向にあり、外宮の高倉山は夏至の夕日の沈む方向にあるという。内宮が造営される以前から、鼓ヶ岳と高倉山を結びつけた太陽祭祀があったといえる。また、興玉の森と鼓ヶ岳・高倉山が方位線をつくっているともいえる。

  宇治山田神社―鼓ヶ岳355.1m三角点(E0.078km、2.08度)の東北30度線
  宇治山田神社―高倉山(W0.089km、1.66度)の西北30度線

 この拝所は鎌倉初期の皇大神宮年中行事にも見えていて、猿田彦神の子孫である宇治土公氏が四月の初の申日に氏神祭をした所で、新年には新しい注連縄が懸け替えられるという。また、猿田彦神社発行『神宮摂末社巡拝』では、興玉の森は猿田彦あるいはその子孫の太田命とされる興玉の神が居住した旧跡で、石畳は興玉の神の拝所で、注連縄を張って、東の方を向いて、この森の中央を拝むようになっており、元はこの石畳の前に鳥居が建てらていたとある。そこでは日の沈む方向ではなく、日の出の方向が意識されている。興玉神とは海の向こうの常世から来る神であり、太陽神であった。日本古来の東西軸でいえば、東が常世の方角であり太陽が昇る方角であり、それ故、興玉の森の石畳では東を向いて拝んだのだといえよう。しかし今度は、昇ってくる太陽を拝する場所として、どうして興玉の森が選ばれたのだろうかという問題が生じる。単に東を拝するだけなら、どこでもいいはずなのである。やはり、興玉の森が選ばれたのは、冬至の太陽が鼓ヶ岳に沈み、夏至の太陽が高倉山に沈む場所だったからなのではないだろうか。『椿大神社二千年史』に興玉の森について、「社の背後の林を歩くと、西北(乾)の方角、西向きに村人が年初めに注連縄を張るという石壇があり、今も東方を拝する里人の気配が感じられる。」とある。少し分かりにくい記述であるが、森の中央の西北(乾)に石壇があり、その石壇では西側がら東方を拝するように注連縄が張られているということであろう。ここでも西から東を拝むといっているわけであるが、しかし『神宮摂末社巡拝』のいうように、石畳から森の中央、現在の宇治山田神社の方を拝んでいたとすると、巽の方角を拝んでいたということになり、西北(乾)といっても大雑把な話だとすれば、石畳から森の中央は冬至の太陽が昇る方角ということも可能性としてあるし、これまた大雑把にいえば冬至の太陽の昇る方角も東の方角といえばいえないこともないであろう。冬至の太陽の昇る方角を拝んでいたのが、時代とともに東を拝むようになったということも考えられる。また、『椿大神社二千年史』には、その佇まいは内宮板垣内の西北隅、西面に石畳形式をもって鎮斎される興玉の神座を彷彿とさせるという中西教授の言葉も記されている。この内宮の場合は、筑紫申真『日本の神話』によればサルダヒコはアマテラスと同一の太陽神ということであるから、太陽=天照は興玉の神座の巽の方角にあるわけである。入道ヶ岳、正確には椿大神社と神島は西北45度線をつくっている。興玉の神=猿田彦が乾の方角と結びつくということは、神島の乾の方角の入道ヶ岳の山麓に興玉の神=猿田彦が祀られたということなのかもしれない。神島の西北45度線上に入道ケ岳・椿大神社が在るのに対して、東北45度線上には青峰山がある。

  神島―椿大神社本殿(W1.715km、1.47度)― 入道ヶ岳(W2.124km、1.77度)の西北45度線
  神島170.7m三角点―青峰山336.2m三角点(E0.557km、1.50度)の東北45度線

 宮川流域では外宮を含めた方位線網が見られたが、五十鈴川流域でも方位線網が見られ、それらの中には寛文三年(1663)以前の方位線を考えることができるものもある。五十鈴川流域をみると、まず河口近くに大江寺がある。筑紫申真『日本の神話』によれば大江寺は猿田彦にゆかりのある寺であり、その鎮守の祠は猿田彦を祀っており、夫婦岩のすぐ側の二見興玉神社は元々大江寺に在った興玉社が、明治時代に現在地に遷されたものである。地図を見ると、近くに猿田彦岩という大きな岩もある。夫婦岩と大江寺が西北60度線をつくる。大江寺は近くの『倭姫命世紀』にも出てくる江神社とも東北45度線をつくっている。江神社は猿田彦石とも東北30度線をつくる。ただ、江神社も寛文三年(1663)に再興されたものであり、本来の鎮座地については、本来の社地は江寺(現・太江寺)で、退廃の際に江村の産土神(現・栄野神社)へ移転したのではないかという御巫清直説もあるという(ウィキペディア 江神社)。『神宮摂末社巡拝』によれば棒原神社の祭神は天須波留女(アメノスバロメ)命御玉と儀式帳と見えており、多気郡の式内社の須麻漏賣(すまろめ)神社の社名と考え合わせるべきもので、昴は古くから農耕上親しく信仰されていたとするが、筑紫申真『日本の神話』によれば、江神社の祭神の長口女は、儀式帳に棒原神社の天須波留女(アメノスバルメ)の娘とされ、天須波留女とは昴星と結びつく神で、古典では昴は棚機つ女がその首にかけてい首飾りの玉だと考えられていたという。『神宮摂末社巡拝』によれば棒原神社は奈良時代に鎮座したといい、儀式帳の中の摂末社の中では最も新しい時代のものであるというが、現在の江神社と棒原神社をみると、棒原神社と江神社が東西線をつくり、棒原神社は川原神社とも西北30度線をつくっいる。

  夫婦岩―大江寺(E0.002km、0.19度)の西北60度線
  江神社―棒原神社(S0.466km、1.51度)の東西線
  川原神社―棒原神社(E0.025km、0.22度)の西北30度線
  大江寺―江神社(E0.011km、2.13度)の東北45度線
  江神社―猿田彦石(W0.012km、1.72度)の東北30度線
  
 夫婦岩と内宮が東北45度線をつくる。また、大江寺から五十鈴川を遡ると内宮摂社首座の朝熊神社があり、さら遡ると内宮があるわけであるが、大江寺と朝熊神社が東北30度線をつくる。『日本の神々 6』によると、朝熊神社も寛文三年(1663)に時の大宮司中臣精長が再興にあたり現在地に定めたものであるが、古記録と照らし合わせても現在地に鎮座していたと思われるという。『倭姫命世紀』の伊雑宮のところでは、伊雑宮の祭神を大歳神とし、朝熊河の後(しりえ)の葦原の中に石として坐しました大歳神のために小朝熊山の嶺に社を造ったとあり、元々は朝熊川の岩が祭祀場所だったといえる。『日本の神々 6』によれば、朝熊神社は古くから白銅鏡二面が奉安されていたようで、鏡宮とも称されたといい、この神鏡は往昔の当初より、当社の御前に流れ徹る江沢の中に在る所の岩上に在ったといわれているという。朝熊神社と朝熊川を挟んだ対岸に鏡宮があるが、『アマテラスの誕生』によれば、鎌倉時代に川洲を埋めて鏡宮を建てて岩上の鏡を格納し川中に在った神聖な岩は木柵をめぐらして今も保存されているという。大江寺と鏡宮も東北30度線をつくっており、『神宮摂末社巡拝』では、この岩について鏡宮の東北に面する水涯に一つの大きな岩があると記述されていることから、大江寺とその岩も東北30度線をつくつているとみていいであろう。

  夫婦岩―滝祭神(W0.064km、0.43度)―内宮新旧正殿中間付近(E0.211km、1.46度)の東北45度線
  大江寺―朝熊神社(W0.088km、1.27度)―鏡宮(W0.109km、1.54度)の東北30度線

 朝熊神社の上流に国生の神の児である大国玉命と水佐々良比古命・水佐々良比賣命を祭神とする大土御祖神社と、やはり国生の神の児である宇治比賣命・田村比賣命を祭神とする国津御祖神社が接して鎮座しており、そのすぐそばに内宮神田がある。さらに遡ると興玉の森になるが、大土御祖神社と興玉の森が東北45度線をつくる。また、興玉の森と鏡宮神社も東北45度線をつくる。二面の鏡が置かれていたという岩は鏡宮の東北にあというのであるから、興玉の森とその岩も東北45度線をつくっているといえるであろう。興玉の森と朝熊神社では方向線となってしまうが、元々の祭祀からいえば方位線をつくっていたといえ、また朝熊神社と川中の聖石を一体のものとみなすこともできるであろう。大土御祖神社と鏡宮神社では方向線はいえるかもしれないが、朝熊神社とでは方向線もいえない。ただ、興玉の森と鏡宮・朝熊神社が東北45度線の方位・方向線をつくり、興玉の森と大土御祖神社がやはり東北45度線の方位線をつくることから、それらの東北45度線が合成されて、 一本の東北45度線上に、朝熊神社・大土御祖神社・興玉の森が並んでいるともいえる。

  大土御祖神社―宇治山田神社(W0.008km、0.41度)の東北45度線
  宇治山田神社―鏡宮神社(E0.091km、1.75度)―朝熊神社(E0.133km、2.50度)の東北45度線
  大土御祖神社―鏡宮神社(E0.084km、2.59度)―朝熊神社(E0.125km、3.70度)の東北45度線
 
 興玉の森を遡ると内宮御手洗場の滝祭りの場所があり、興玉の森と鼓ヶ岳が東北30度線をつくることは述べたが、大土御祖神社と内宮の滝祭神が東北60度線をつくる。もっとも延暦儀式帳には滝祭神社が現在とは反対の西側の川辺に在ったとあるといい、筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば滝祭神のある御手洗場の対岸の樹叢の辺りとされているが、そうすると大土御祖神社と方位・方向線をつくるとするのはきついかもしれない。ただ、同書によれば五十鈴川の流れそのものが元々はアマテラスの神体であるといい、重要なのは五十鈴川の流れとするなら、大土御祖神社と五十鈴川の滝祭神側ギリギリで方位線をつくるといえるかもしれないし、神が御生する五十鈴川の川中と大土御祖神社は方向線をつくるといえるであろう。御手洗場のさらに上流に鏡岩があるが、鏡岩と朝熊神社が東北60度線をつくる。東北45度線上に並ぶ朝熊神社・大土御祖神社・興玉の森に対して、朝熊神社と鏡岩、大土御祖神社と滝祭神、興玉の森と鼓ヶ岳が方位・方向線をつくっているといえるわけである。

  大土御祖神社―滝祭神(W0.077km、1.67度)―滝祭神対岸の樹叢付近(W0.139km、3.02度)の東北60度線
  朝熊神社―鏡岩(E0.110km、0.97度)の東北60度線

 宮川流域と五十鈴川流域を結ぶ方位線であるが、内宮と外宮が西北60度線をつくっていたが、外宮は内宮摂社首座の朝熊神社とも東西線をつくる。注目すべきは河原神社かもしれない。その西北45度線上には朝熊神社があり、川原神社・外宮・朝熊神社が方位線三角形をつくっている。そればかりでなく、河原神社が内宮滝祭神とその対岸の樹叢と南北線をつくり、内宮正殿とは方位・方向線とはいえないが、広い意味で内宮と方位線で結ばれているといえる。河原神社はまた、野登山と伊雑宮の西北60度線上にも位置しており、内宮・外宮・伊雑宮と方位線で結ばれているわけである。内宮と外宮は直接方位線で結ばれていたが、その方位線を含むより大きな方位線網の中で内宮と外宮は一体化しているともいえるわけである。御船神社も内宮上流の鏡岩と西北30度線をつくっている。

  外宮新旧正殿中間付近―朝熊神社(N0.027km、0.34度)の東西線
  河原神社―朝熊神社(W0.086km、1.18度)の西北45度線
  河原神社―滝祭神対岸の樹叢付近(E0.005km、0.04度)― 滝祭神(E0.056km、0.49度)―内宮新旧正殿中間付近(E0.379km、3.26度)の南北線
  伊雑宮新旧正殿中央付近(W0.532km、1.81度)―河原神社―野登山851.4m三角点(W0.050km、0.05度)の西北60度線
  御船神社―内宮上流鏡岩(E0.187km、0.79度)の西北30度線
  
 内宮と夫婦岩は東北45度線で結ばれていたが、筑紫申真『日本の神話』によれば、江戸時代には伊勢詣でに来た人は、二見ヶ浦の夫婦岩の所で垢離かきをした後、内宮に向かったという。大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』に夫婦岩の先の海中に興玉石が祀られ、さらにその向こうに富士山と富士山から昇る太陽が描かれた江戸時代の絵が載っているが、元々は今は海に沈んでしまった700メートルほど沖合にあった興玉石が信仰の対象であったという。興玉石の正確な場所は残念ながら確認していないが、その絵からみると、夫婦岩の夏至の日の出の方角から東北よりの方向にあったとみられ、もしそうだとすると夫婦岩と内宮正殿それぞれを通る東北45度線の幅が230メートルほどあるので、興玉石も滝祭神か内宮正殿、あるいはその両方と東北45度線をつくっていたことになる。富士山からみると、朝熊山が東北30度線をつくっている。

  夫婦岩―宮滝祭神(W0.064km、0.43度)―内宮正殿(E0.232km、1.61度)の東北45度線
  富士山剣ヶ峯3775.6三角点―朝熊山555m標高点(E2.089km、0.59度)の東北30度線

 筑紫申真『日本の神話』によれば、夫婦岩は庶民の私的な祭場であって、内宮の公式の祭場はその東の神崎で、明治維新の時まで毎年六月十五日に「贄の海の神事」が行なわれていた。神官は海の潮の中に入って塩浴みし、それからその海岸で三種類の御饌の贄を採り、海岸の「御座の岩」に安置する。筑紫申真氏によると御座の岩とはカミが訪れてきてよりつく岩(厳座)という意味で、三種類の贄は一年に一度、日を決めて海の彼方から訪れてきた常世のカミそのものの姿と看做されるという。神官たちはこの三種類の贄を皇大神宮に持ち帰り、由貴殿の巽の軒先に翌十六日の夜まで懸けておく。これは、海の彼方の常世から来る神は、巽の方角から来るということを意味しているのかもしれない。筑紫申真氏(『日本の神話』)はこの贄の海の神事は、もともとは五十鈴川すじ部落国家の首長の宇治土公が、常世のカミを一年に一度海岸に出迎え、そのカミを五十鈴川の上流の聖地に誘引する、海のカミを天のカミにと迎え入れて転化させる儀式であったらしいという。そして、このような海のカミ=常世のカミは「沖の魂」であり、五十鈴川の上流の宇治で祀られて「興玉のカミ」となったが、興玉は猿田彦だとも信ぜられており、サルダヒコはアマテラスと同一の太陽神であるといい、宇治土公の先祖神であった。
 神崎には皇大神宮摂社の神前神社があり、荒前比賣を祀っている。筑紫申真『日本の神話』によれば、宇治土公の女性たちが巫女として訪れてくる海神に仕え、海中に身を潜らせて海の彼方からやって来たカミを海中からすくいあげ、その御生に奉仕した。彼女たちは湯河板挙げ(ゆかわだな)のなかでそのカミの一夜妻となる、棚機つ女であったという。『神宮摂末社巡拝』によると、神前神社はもとは松下の東北の海岸に在ったが、浸水によって社地を失い、享和年中に現在地に移ったという。そして、神前神社の現在地から見下ろす松下の海岸近くには、祓島の岩礁がその姿を見せており、御饌島とも呼ばれて明治四年の神宮御改正以前は、ここで皇大神宮の贄海の神事が行われていたとあり、地図には神前神社の北の真下の海岸に岩礁が一つ記されていので、その岩礁が御座の岩(祓島)なのかもしれない。その岩礁と鼓ヶ岳・興玉の森がぎりぎり東北30度の方位線をつくっている。正確には大土御祖神社と東北30度線をつくっている。筑紫申真『日本の神話』によれば、今でも飛島には大蛇がいて、一年に一度神崎に渡って来ると信じられており、その蛇を見てはならないと村人はタブー視しており、蛇は常世の神そのものとして恐れ敬われていたという。御座の岩に依り来る神はまた飛島の常世の神である大蛇ということにもなるのであろう。鼓ヶ岳の東北30度線が神前岬の灯台から飛島列島の真ん中あたりを通る。鼓ヶ岳の東北30度線、あるいは夏至の日の出の方角に、興玉の森・大土御祖神社・飛島が並んでおり、その中に御座の岩(祓島)も入るのかもしれない。神前神社の真下の岩礁は鏡岩と東北45度線をつくっている。
 
  神前神社下岩礁―大土御祖神社(W0.004km、0.03度)―興玉の森(E0.277km、1.98度)― 鼓ヶ岳355.1m三角点(E0.355km、2.00度)の東北30度線
  鼓ヶ岳355.1m三角点―飛島30m標高点(W0.212km、1.04度)―飛島24m標高点(E0.066km、0.31度)の東北30度線
  神前神社下岩礁―鏡岩(E0.125km、0.65度)の東北45度線 

 『日本の神々 6』によると、松下神社の所が神前神社の旧鎮座地という説もあるらしい。ただ、浸水によって遷座したというなら、そのような地に松下神社が在るというのも不自然であり、松下神社の近くのより五十鈴川あるいは海に近い場所だったということなのかもしれない。もともと松下神社の所にあったとすると、松下神社は現在の神前神社と東北45度線をつくっている。また、松下神社・夫婦岩・猿田彦石が直線関係にある。
 
  松下神社―神前神社(E0.023km、1.66度)の東北45度線
  夫婦岩(0.22度)―猿田彦石(0.002km)―松下神社(0.17度)の直線

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伊勢の出雲神族

 富氏の伝承では、イセツヒコ・イサワトミノ命は出雲神族であった。もしそうなら、伊勢・志摩に出雲神族の痕跡が残っていてもいいということになる。『日本の神々 6』の二見興玉神社の項で、「贄海神事の行なわれる場所は時代によって変遷があって、鳥羽沖→池の浦→五十鈴川川口(江)付近と、伊勢のほうへ移動している。そしてこの移動が両国境の移動と関係のあることは、すでに指摘されているところである。」といい、二見興玉神社から鳥羽方面まで荒磯が連なっており、この荒磯地域は伊勢・志摩両国の堺であり、村落の祭礼に先立って「浜行き」が行なわれ、祭りの前夜や早朝になると再び村の近くの川などで潔斎が行なわれるが、祭日直前の潔斎が村の近き堺でなされることからすれば、それに先立つ潔斎も何らかの意味で境界領域で行なわれたと考えられ、「神宮の祭祀に奉仕する斎王が、たとえば『延喜式』によれば、都から斎宮へおもむく途中、国堺・神堺に至るごとに禊をし、また祭典奉仕の前には近くの川や尾野湊で、斎宮より神宮へ向かうときには郡堺などで禊を行なうきまりとなっていたとは、境界がきわめて重要な儀礼の場であったことを物語っている。」とある。それをみると、贄海神事の場所は元々は御座の岩の所ではなかったということになる。
 御座の岩(祓島)以前に贄海神事が行なわれていたという池の浦であるが、筑紫申真『日本の神話』によると、神崎の東側の海面が『倭姫命世記』に載る淡海浦で、神崎の浜辺の南の入り江は伊気浦(池の浦)と記されおり、池の浦の入り江の真中に中の島と呼ばれる岩礁があるが、この中の島のすぐ北側の海岸の突端にある皇大神宮摂社の粟皇子神社は、もとは中の島に祀られていたと村人に伝えられているという。『倭姫命世記』でも伊気の浦の神は淡海子の神と呼んでおり、淡島とは常世の神の寄り来る神聖な島の意味であり、中の島こそ淡島であり、日本神話のなかで伊弉諾・伊弉冉が生み落とした淡島の、ある意味では原型となった島であるという。内宮と中の島が限りなく方位線に近い東北30度の方向線をつくっており、また、青峰山とも南北線をつくっている。朝熊山とも方向線ではあるが東北45度線をつくっている。

  内宮新旧正殿中間付近―池の浦中ノ島(E0.351km、2.03度)の東北30度線
  青峰山336.2m三角点―池の浦中ノ島(E0.254km、1.48度)の南北線
  朝熊山555m標高点―池の浦中ノ島(W0.240km、2.56度)の東北45度線

 農時の妨げになるという大三輪高市麻呂の意見を押し切って、持統天皇は伊勢に行幸したが、筑紫申真『日本の神話』によると、北岡四良氏が「阿胡行宮とあみの浦」三重史学五号で持統天皇が訪れた地を明らかにしており、柿本人麻呂が持統天皇の伊勢行幸の模様を都で想像して作った歌「嗚呼見(ああみ)の浦に船乗りすらむ少女らが 玉裳の裾に潮満らむか」のああみの浦は淡海(あみ)の浦で、この「あみ」は安胡と記される場合もあるが、この淡海の浦は今でもアゴ瀬と呼ばれ、持統天皇の行幸の目的地は神崎・池の浦の海岸であったという。さらに北岡氏は『倭姫命世記』に載せる淡海浦は伊勢神宮の祭祀と重要な関係を持つばかりでなく、原始信仰から考えて、神宮が五十鈴の川上に鎮座になったこと、即ち神宮の成立とも関連しているとしているという。筑紫申真氏は、皇大神宮の神のそもそもの始まりは常世の神であると『古代研究』で折口信夫博士は言っているが、持統天皇が伊勢に行幸した持統天皇六年(692)にはまだ今日見るような伊勢神宮はできておらず、持統はそれに先立って伊勢の海部の信仰の聖地にみずから出向いて海神の霊気にふれ、アマテラスを体得したのであって、そのような信仰体験をもとにして皇祖神天照は誕生し、皇大神宮が五十鈴の川上に設立されたのであるとする。柿本人麻呂は持統天皇の伊勢行幸について何首かの歌を詠んでおり、ウィキペディア(阿胡行宮)によればそのなかに出てくる「答志の崎」とは場所は、同定されていないが鳥羽市答志島にある岬であるとされ、「伊良虞の島辺」とあるのは、伊良湖岬あるいは鳥羽市神島のことであるとされているという。
 
 ウィキペディアで阿胡行宮を見ると、「嗚呼見の浦」とは、鳥羽市小浜海岸にある浜がアミの浜と呼ばれていることから同地とする説が有力であり、また「見」は「兒」の誤りが伝えられたとして「嗚呼兒の浦」と解釈し、志摩市阿児町国府の海岸などを同地とする説もあるという。アミの浜は確認できなかったが、小浜海岸とは鳥羽市小浜町の海岸であろう。すぐそばに日向島(イルカ島)があり、筑紫申真『日本の神話』に、伊勢・志摩の日向(ひなた)という地名には注意する必要があり、これは川上の聖地か、海岸のカミ迎えの場所に付けられた名であり、磯部郷の神路川をさかのぼったところに日向郷があり、宮川の川上にも日向があり、また五十鈴川の河口に近い鳥羽湾口にも今はイルカ島遊園地と呼ばれているが日向島があるとあった。日向島も内宮と東北30度線、朝熊山と東北45度線をつくっており、中の島よりは正確な方位線になっている。志摩市阿児町国府の海岸であるが、志摩国分寺から阿児町甲賀の甲賀城跡あたりまでの間のことであるとすると、国分寺や國府神社あたりでは外宮と、甲賀城跡寄りだと内宮と西北45度線をつくる。ただどちらにしても、鳥羽沖よりも南で志摩と伊勢の国境とは関係ないので、贄海神事の場所ではありえないことになる。

  内宮新旧正殿中間付近―日向島(イルカ島)56m標高点(E0.215km、1.06度)の東北30度線
  朝熊山555m標高点 ―日向島(イルカ島)56m標高点(E0.083km、0.67度)の東北45度線
  外宮新旧正殿中間付近―国分寺(E0.551km、1.42度)―國府神社(W0.176km、0.45度)の西北45度線
  内宮新旧正殿中間付近―甲賀城跡(W0.302km、0.84度)の西北45度線

 鳥羽沖であるが、ウィキペディアで赤崎神社を調べていたら、「伊勢国度会郡にある伊勢神宮の所管する神社がこの地にある謂れはなく、伊勢・志摩両国の境であった妙慶川より北側(伊勢国側)にある賀多神社が赤崎神社の旧社地だったとする説がある」という記述があった。妙慶川であるが、地図にはその川の名がなく、鳥羽城の堀として利用されていたという記述もあるから、鳥羽城の北の堀がそうなのであろう。その堀へと注ぐ川の流れは地図にもなかったが、この妙慶川周辺の何処かで初期の贄海神事が行われていたということになる。筑紫申真『日本の神話』によると、国鉄の鳥羽駅近くの佐田浜には仏岩と呼ばれる石が海のなかに立っていて、そのすぐそばに一本の松が生えている岩ばかりの小島があり、その松はエゴの松といわれるが、それはたぶんカミの影向(憑ついて再生)する松という意味であろうという人もあって、海の彼方から訪れてきた海神は、始め仏岩に、次いでそのそばの松の木によりついて、里人に祭られたのであろうという。また、佐田浜近くの鳥羽市鳥羽町の氏神である賀多神社は、元禄六年(1693)の『鳥羽八王子之帳』に「鷲の羽の御船に乗りて児の谷に、天降ります八つ島の神」とあり、八島の神が賀多神社に祀られ始めた聖武天皇の神亀元年(724)に、その神が巫女に託して詠んだ和歌であるという。筑紫申真氏はそれを海の神が遂に空から降ってくるように変質したとするのであるが、海から来る神は最初から村落の上空から垂直に降下してきていたかもしれないわけである。それはともかく、筑紫申真氏は空から神が降臨するためには、神聖な山を伝わって降りてこなければならないが、太陽のスピリットが降臨する山として賀多神社には樋之山があり、『伊勢二社三宮図』をみると日之山と記されており、もともとの山の意味がそれではっきりわかるという。地図で見ると賀多神社は日和山の南麓であり、その南にあって日和山と向かいあって樋ノ山がある。もし神体山という言い方が出来れば、樋ノ山より日和山の方が賀多神社の神体山に相応しいともいえる。樋ノ山のさらに南の安楽島大橋のすぐ傍に、豊受大神宮の末社の赤崎神社が位置する。赤崎神社の祭神は荒崎姫命で鳥羽湾内の海岸から外宮に奉納する御贄(みにえ)採取の守り神とされているという(ウィキペディア)。荒前神社の荒前比賣命と同じで、海の彼方の常世から来る神と結びつく名前であり、それは対岸の安楽島町(あらしまちょう)の「あら」にもいえるのかもしれない。佐田浜から赤崎神社の海岸の何処かで贄海神事が行われていたと考えられるわけである。 
 仏岩・日和山・樋ノ山・赤崎神社は鼓ヶ岳とも内宮とも東北30度線をつくっているとはいえない。東北30度線ということでは、神島と賀多神社・日和山・樋ノ山が東北30度線をつくり、朝熊山の金剛証寺と賀多神社・日和山が東北30度線をつくる。また、日和山と樋ノ山が東北30度線をつくり、賀多神社・日和山は夫婦岩と西北30度線をつくっている。

  神島170.7m三角点―日和山69m標高点(W0.529km、2.03度)―賀多神社(W0.390km、1.49度)―樋ノ山197.2m三角点(E0.073km、0.26度)の東北30度線
  朝熊山金剛証寺―日和山69m標高点(W0.154km、1.51度)―賀多神社(W0.014km、0.14度)の東北30度線
  日和山69m標高点―樋ノ山197.2m三角点(E0.007km、0.34度)の東北60度線 
夫婦岩―日和山69m標高点(E0.039km、0.41度)―賀多神社(W0.129km、1.34度)の西北30度線
  
 赤崎神社は外宮の末社で、外宮に奉納する御贄採取の守り神であった。元々、その周辺で内宮の贄海神事が行われていたのが、外宮と結びつくようになった理由はよく分からないが、『日本の神々 6』の賀多神社の項によると、賀多神社の社殿も二十一年ごとに造替する慣わしとなっているが、外宮の多賀宮と月夜見宮の古材を下付されて宮建するのが享保十八年(1733)以降恒例となっているという。外宮の多賀宮と賀多神社・日和山が東西線をつくっている。賀多神社は高倉山とより正確な東西線をつくっていおり、日和山は外宮正殿とより正確な東西線をつくっている。
  
  多賀宮―日和山69m標高点(S0.330km、0.15度)―賀多神社(S0.212km、0.98度)の東西線
  賀多神社―高倉山117m標高点(S0.163km、0.73度)の東西線
  日和山69m標高点―外宮正殿(N0.237km、1.09度)の東西線
  
 御座の岩が鼓ヶ岳=内宮の夏至の日の出の方角に位置していたのに対し、初期の贄海神事の場所は鼓ヶ岳あるいは内宮の夏至の日の出の方角に位置していなかったし、池の浦でも湾内の奥となると内宮の夏至の日の出の方角とはいえない。初期の贄海神事が内宮の夏至の日の出の方角とは関係なく、伊勢と志摩の国境で行われていたとすると、贄海神事では夏至の日の出の方角よりもっと重要なことがあったということであろう。贄海神事では神は海の彼方から海岸にやってくることは確かであり、そのことこそ贄海神事で核心的なことであったが、伊勢と志摩の国境が変更になる度に贄海神事の場所が変わったということは、海からやってくる神は、境界とも関係する性格も持っていたということであり、そのことも重要なことだったということなのかもしれない。猿田彦は興玉の神として海の彼方らかやって来る太陽神とさそれたが、猿田彦神社で発行している『猿田彦神社誌』の中で、岡田米夫氏は大津市の平野神社に平安時代末期の猿田彦大神の御神像があるが、これは古く山城国と近江国との国境なる逢坂山の道祖神たる信仰から、この神社に大神の古神像を残すに至ったのであると書いており、猿田彦は興玉神として海の彼方から来る神であると同時に境界の神でもあったわけである。ただ、逢坂峠の登り口にある関蝉丸神社の祭神は現在は上社が猿田彦命、下社は豊玉姫命となっているが、『日本の神々 5』のよると室町時代の『寺門伝記補録』には二所は同じ道祖神を祭るとあるといい、また逢坂は四角四堺祭の場所の一つであり、四角四堺祭は疫病祭・道饗祭とも呼ばれていたという。京の都で行われていた道饗祭では八衢比古・八衢比賣・久那戸の三神が祭られていたから、関蝉丸神社の道祖神が必ずしも猿田彦とは限らないともいえる。同様に、伊勢における境界の神を猿田彦神とのみ考えていいのか疑問がある。奈良県の御杖村は三重県と接する村であるが、そこに御杖神社があり、倭姫命がこの地に行宮を造り御休座になったことが創祀とされ、御杖村を訪れた際、その印として自らの「杖」を残したとされる伝承の地で、現在もその「杖」をお祀りしているといわれるが、祭神は久那斗神を主神に、八衢比古神・八衢比女神である。その大和と伊勢の堺という場所からいって、御杖神社は境界の神として久那斗神を祀っていると考えられるが、伊勢における境界の神が猿田彦神であるとするなら、そのすぐ側の御杖神社の祭神も猿田彦神ということになるのではないだろうか。御杖神社の祭神が久那斗神であるということは、逆に伊勢でも境界の神は猿田彦神とは限らないということを示しているともいえる。杖と久那斗神の結びつきは『日本書紀』に出てくる。黄泉の国で伊弉冉に追いかけられて黄泉の国の境の黄津平坂でこれより入ってはならないといって投げた杖が岐神とも、殯斂(もがり)のところで伊弉冉の死体の上の雷に追いかけられた伊弉諾が桃の木の下に隠れ、桃の実を投げて雷を追い払い、「ここからこちらへ雷は来ることができない」といって投げた杖が岐神で、本の名は来名戸の祖神というともある(『古事記』でも伊弉諾が追いかけてきた雷に桃子を投げているが、岐神の名は出てこない)。まず、境の神として久那斗神が祀られ、『日本書紀』に久那斗神=杖とあり、一方、杖=旅=倭姫という連想から、久那斗神が祀られていた神社が倭姫命と結びけられ(というか結びつけたくなって)、社名も御杖神社とされていったのではないだろうか。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、出雲神族の祝詞でクナトノ大神について「大出雲という美(うま)し御国を創り給い(中略)、天津神、国津神、外蕃津(そとつ)国の神々を統べ率い給いて、四つの海を治め、(中略)天と地と、生と死と、その岐(わか)れの中心(なか)を司り給いて――」とあるといい、天と地、生と死の境の神とされている。『日本書紀』には黄津平坂とはただ死に臨んで息が絶えそうなときをこういうのだともいわれているともあり、生と死とのわかれのなかを司る神としてのクナトノ大神こそ黄津平坂と結びつく神といえる。

 岡田米夫氏は『猿田彦神社誌』の稿で猿田彦神について「書紀は更に猿田彦神のまたの御名をいって『岐神』と申している。」とも書いていて、猿田彦と岐神を同一視しており『猿田彦神社誌』の編者は、大神は佐田大神、千勝大神、白髭大神、椿大神、道祖神、さいの神,庚申さま等々として津々浦々にお祀りされていると記し、また同じく窪徳忠氏の稿には猿田彦神社が享保十二年(1727)正月に作った『庚申御本縁』なる一書が載っており、そこでは猿田彦太神を土君・土公・国底立神・気神・先の神といい、「又人々をさし引して、師徳を備え給ふゆへ、塩土老翁共申奉る。潮はさし引きある物ゆへの神号也。又ハ衢の神共申。或ハ道祖神、道陸神共申。皆みち引給ふゆえの御神号也。又諸国所々のわかれ道に、庚申塚をつきおくも此ゆへ也。船にハ船魂の神とまつるも導の神ゆへ也。」ともあり、また鬼神・太田神・興玉神ともされている。窪徳忠氏は江戸時代からの伝統をうけて、いまなお日本の大半の地方では猿田彦大神が庚申さま、猿田彦神社が庚申信仰の本家本元と考えられているが、平安時代の貴族は庚申の日に徹夜する守庚申は道教の教えだという旨をよく承知していたといい、室町時代に仏教化したが、神道独自の庚申祭を提唱されだしたのは江戸時代初期の垂加神道をはじめた山崎闇斎からで、猿田彦大神が庚申さまという説が成立していったが、猿田彦神社の宇治土公氏が庚申信仰で積極的に動き出したのが『庚申御本縁』であるという。猿田彦神を岐神・道祖神・道陸神等とするのは、椿大神社でも同じで、『椿大神社二千年史』では「あるいは道祖の神、道別きの神、興玉神、船玉(ふなだま)神、精(せい)大明紳、白髭大明神、塞神(さへのかみ)、岐神(ふなどのかみ)、供品神(ぐひんのかみ)、田中神、土公神(どこうじん)、山の神、庚申神に千変万化し」と記されている。また、椿大神社の本殿に至る参道の脇の手水舎の奥に祀られている椿延命地蔵尊について、約千年前につくられた地蔵で猿田彦大神と同じであると考えて神社では信仰の対象にしているとも記されている。地蔵は出雲神族においてもクナトノ大神の裏信仰であった。なお、 岡田米夫氏は書紀では猿田彦神のまたの名を岐神としていると書いているが、『日本書紀』では衢の神と書かれているだけで衢の神のまたの名を岐神というとは書いておらず、岐神については「本の名を来名戸の祖神と曰す」と書かれているだけである。ただ、岐と書いてチマタとも読むし、岩波文庫版『日本書紀』の注でも、「猿田彦神は衢神・岐神とされているので、道祖神に擬せられており、道案内をすることになっている。衢神は岐神。」とあり、それが一般的見解なのかもしれない。
 出雲神族ではクナトノ大神について、吉田大洋『謎の出雲帝国』では「富氏から聞き出した出雲神族の系譜は、次のようになる。クナトノ大神(熊野大野=ヤチマタノ神=道祖(さえの)神=幸神)」とあり、また「ここで、富氏が語ってくれた範囲の出雲神族の伝承をまとめておこう。」という中に、「クナトノ大神は、幸(さい)の神、塞(さえ)の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)とも呼ばれ、熊野大社、出雲井神社、道祖神社、幸神社などで祀られている。…聖武〜桓武までの各天皇は、クナトノ大神の力を恐れ、平安京、長岡京、信楽京などではサイの大通りを作り、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養をした。『道饗祭』の祝詞がそれを伝えている。」とあり、『延喜式』における道饗祭祝詞では、「八衢比古・八衢比売・久那斗止御名者申氐、」となっている。また吉田大洋『龍神よ、我に来たれ! 』では「クナトの大神は、岐(ふなと)神、来名戸之祖(さえ)神、衝立(つきたつ)船戸神、八衢(やちまた)神、久那斗神などと表記します。天孫族もこの神は畏敬しており、都を移すごとに、サエの大通りをつくって四隅に祭り、六月、十二月には道饗祭を催し、祝詞(天孫族用に書きかえられています)を捧げました。」とあって、「出雲神族に伝えられる祝詞は、クナトの大神を、『大出雲という美(うま)し御国を創り給い(中略)、天津神、国津神、外蕃津(そとつ)国の神々を統べ率い給いて、四つの海を治め、(中略)天と地と、生と死と、その岐(わか)れの中心(なか)を司り給いて――』と、偉大なる神として讃えています。」 とあり、「完全に抹殺されたかにみえたクナトの大神ですが、別の形で復活してきます。塞(さえの)神、幸神、道祖神、道陸神(どうろくじん)、金精明神などと呼ばれるのがそれです。」と書かれている。
 すなわち、猿田彦側は猿田彦神を岐神とするのに対して、出雲神族側では岐神・久那斗神が猿田彦神とはされていないわけである。これは猿田彦側が一方的に猿田彦と岐神を同一視しているということであり、伊勢において猿田彦神と岐神が同一神であるということが強調されているということは、伊勢志摩で考えられる出雲神族をめぐる経緯からは、それだけ伊勢では出雲神族のクナトノ大神を無視できないからだともいえよう。猿田彦側では猿田彦を岐神としているのに対して出雲神族では岐神を猿田彦としていないわけであるが、もう一つの違いとして出雲神族ではクナトノ大神をヤチマタヒコとしているのに対して、『猿田彦神社誌』でも『椿大神社二千年史』でも、『古事記』では猿田彦がいた場所を天之八衢、『日本書紀』では天八達之衢としているのに、猿田彦大神を八衢神ではなく衢神としていることがある。もつともこれは、『日本書紀』が猿田彦を衢神としているから、八衢神とすることは出来なかったということなのであろう。

 初期の贄海神事が内宮の夏至の日の出の方角をまったく考慮していなかったかというと、そうともいえないかもしれない。『日本の神々 6』の賀多神社の項によれば、『志陽略志』には「八皇子社」と見え、元禄六年の『八王子御鎮座記』には聖武天皇の神亀元年正月朔日に児谷(ちごたに)に五穀神を勧請して五穀豊熟を祈禱し、その時巫女に「鷲の羽の御船に乗りて児の谷に天降ります八つ島の神」と和歌に詠じた託宣があり、この八つ島とは八王子のことで、これより児の谷を改め宮の谷と名づけ、翌神亀二年叢祠をこの地に造営したとあるが、それに対し筑紫申真氏(『日本の神話』)は、賀多神社の八島の神の八島とは飛島のことであるという。飛島は古書によれば淡良伎島ととなえられていた神聖な島々で、賀多神社にある江戸時代の稿本『鳥羽神社誌』に、淡良伎島は二尊即ちイザナギ・イザナミが生んだ大八洲だと世間ではいうのだが、どうしてそんな馬鹿なことがあろう、とんだ間違いをいうものだ、とあるが、筑紫申真氏はその世間の説を真面目に考え直する必要があるとする。どちらにしても筑紫申真氏の言うように八つ島が飛島のことなら、賀多神社の神は飛島の神ということになるわけであり、初期の贄海神事が佐田浜や賀多神社周辺の海岸で行われていたとしても、海からやってくる神は飛島の神と意識されていたのかもしれないわけである。もしそうなら、飛島は鼓ヶ岳の東北30度線上に在ったのであるから、鼓ヶ岳=内宮の夏至の日の出の方角から来る神ともいえるわけである。あるいは、贄海神事が最初に行なわれていたのが日和山・樋ノ山周辺の海岸であるとすると、神島が夏至の日の出の方角にあたるので、海の彼方から来る神は神島から来る神とも考えられていたのかもしれないし、そうするとそれは夏至日の出の方角から来る神ということになる。さらに持統天皇の伊勢行幸の主目的地が池の浦であったとすれば、内宮でも贄海神事とは関係なしに、神崎から池の浦あたりの信仰は無視できないものがあったであろうし、内宮が飛島の神とも結びついていたとすれば、飛島から来る神も神島から来る神も同じ神で、夏至の日の出の方角からやってくる神として考えらていたかもしれない。
 内宮の重要な祭りである三節祭は旧暦の六月・九月・十二月に行なわれ、その前の八月の晦日に斎王は尾野湊、五月・十一月の晦日は近くの祓川で禊をする。三節祭でも特に重要なのは旧暦九月に行われる神嘗祭で、その時に斎王が尾野湊で禊をするわけである。尾野湊は現在の明和町大淀付近と考えられているというから(シリーズ「遺跡に学ぶ」『伊勢神宮に仕える皇女 斎宮跡』駒田利治)、斎宮からみれば夏至の日の出の方角ともみなせる。これは、内宮でも夏至の日の出の方角が重視されていたことの一例なのかもしれない。もっとも、夏至の日の出の方角ということでは、夏至に近い旧暦五月の晦日の禊こそ尾野湊で行われてもよさそうであるが、最も重要な九月の神嘗祭に夏至の日の出の方角の尾野湊で禊するということが、やはり内宮にとって夏至の日の出の方角というものが重要な意味を持っていることを示していると考えていいのではないだろうか。
 内宮が鎮座地に選ばれたのは、神崎・池の浦を夏至の日の出の方角に見る地だったということが理由だったとも考えられる。更いえば、彼岸の太陽が昇る場所が朝熊山、冬至の太陽の昇る方角に青峰山が在る場所ということで内宮の地が選ばれたということができるのかもしれない。このうち、朝熊山と青峰山は神島と方位線をつくり、神島の東西線上に斎宮があり、斎宮の西北45度線上に鼓ヶ岳と伊雑宮があるわけである。青峰山と中の島が南北線をつくり、伊雑宮と御座の岩が南北線をつくり、その先に飛島がある。伊雑宮と青峰山の南北線上には持統天皇が訪れた淡海浦・伊気浦があるということになり、内宮からみて夏至の日の出の方角から寄り来る神あるいは飛島の神は、伊雑宮や青峰山からみれば北極星ということにもなるわけである。太陽神=天照大神=北極星という天武朝の思想からいえば、飛島・淡海浦・伊気浦が伊雑宮・青峰山の南北線上にあるということも重要だったのかもしれない。

  青峰山―中ノ島(W0.279km、1.48度)―飛島24m標高点(E0.113km、0.56度)の南北線
  伊雑宮―神前神社下岩礁(W0.504km、2.04度)の南北線

 谷川健一編『日本の神々 6』の朝熊神社の項によれば、本社の創建については『倭姫命世紀』に倭姫命が皇大神宮の御宮地を覔めて、二見の浦よりいでましたとき、出雲の神の子、吉雲建子命(一名伊勢都彦神、櫛玉命)およびその子の大歳神、桜大刀命、山の神大山罪命、朝熊水神等が、「五十鈴川之の後江にて」御饗を奉った、とあるという。「ツ」が「津」ではなく「都」になっているが、朝熊神社は伊勢津彦に関わる神社といえよう。ということは、朝熊山もそうなのかもしれない。出雲神族の伝承では、伊勢津彦は出雲神族であった。『伊勢国風土記』の逸文には「伊勢というのは、伊賀の安志の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。」とある。なお、『伊賀国風土記』逸文には、猿田彦の神が始めこの国を伊勢の加佐波夜の国につけて二十余万歳の間治めていたが、猿田彦の神の女吾娥津媛命が日神の御神が天上から投げ降した三種の宝器のうちの黄金の鈴を受領して、加志の和都賀野で守っていたが、この神が治め守った国であるので吾娥郡といったが、伊賀はその吾娥が転訛したものとあるが、その伝承からいえば、伊勢津彦より猿田彦の方が古い神ということになる。この場合、猿田彦と海人族との関係が問題になる。猿田彦が海人族の神だとすると、猿田彦より伊勢津彦の方が古い神と考えられる。
  「諏訪大社」のところで、高倉山に続いている高神山には客神社というのがあり、弘安八年(1285)の『神名秘書』にはタケミナカタ神を祀る神社とあるということを記した。高神山は渡会大国玉比賣神社一帯のことであり、『神宮摂末社巡拝』では渡会大国玉比賣について、現在は彌豆佐々良比賣命とともに祀られているが、かつてはこの神だけが祀られていたと思われ、古くから高神山を中心とする渡会地方の地主の神として仰がれて来た神で、又この土地の国魂神として仰がれているとある。『伊勢国風土記』逸文に、渡会の賀利佐の峰(高倉山とされる)に煙が立っており、天日別命が賀利佐に行くと大国玉の神が天日別命を迎え、そこに橋を造らせたが、造り終えないうちに天日別命が来てしまったので、梓弓をもって橋として渡らせた。そして大国玉が彌豆佐々良比賣命を連れてきたので、天日別命は「刀自にちょうど渡会った」と言ったので郡の名にしたとある。『神宮摂末社巡拝』ではこの風土記逸文の話と渡会大国玉比賣を結びつけている。この場合、大国玉神という男神ではなく女神であることが問題ともいえるが、渡会大国玉比賣は天日別命以前の神、あるいは渡会氏以前の神であるということはいえるのではないだろうか。そうすると、伊勢津彦ともつながる出雲神族の神ということも考えられるわけであり、その地に建御名方命が祀られるということもあり得るわけである。『倭姫命世紀』でも「大国玉比賣ノ二座 大巳貴命一座 佐佐良比賣命一座」となっており、それからいえば大国玉神は大巳貴命ということにもなる。大土御祖神社の祭神は国成神の児の大国玉命で、『神宮摂末社巡拝』によれば平田篤胤は大土の神とは猿田彦神のこととしているというが、出雲神族の神かもしれないし、さらにいえば興玉の森は出雲神族が彼等の神を祀る場所だったかもしれない。御祖神社の渡会大国玉比賣神社も外宮と西北30度線をつくり、また鼓ヶ岳と南北線、興玉の森と西北45度線をつくる。

  渡会大国玉比賣神社―外宮新旧正殿中間付近(W0.007km、0.80度)の西北30度線
  鼓ヶ岳―渡会大国玉比賣神社(W0.036km、0.70度)の南北線
  宇治山田神社―渡会大国玉比賣神社(W0.050km、1.11度)の西北45度線

 現在の伊勢に残る岐神としては、谷川健一編『日本の神々 6』の松下神社の項に、伊勢・志摩地方の注連飾には木札を苧で結びつけてあるが、この木札は「桃符」ともよばれ、その表に「七難即滅/蘇民将来子孫門/七福即生」、裏には「急々如律令」と「ドーマン」「セーマン」の記号が記されているが、表には「笑門」「八衢比古命/八衢比売命/久那戸神」と書かれる例もあり、桃符は中国文化の影響によるものと考えられるが、桃が避邪の力を象徴していることは、イザナキの黄泉国からの逃走譚から日本神話からも窺い知ることができるとある。この場合の久那戸神は、桃の呪力→桃符→桃の実を投げる伊弉諾→岐神・来名戸の祖神からの連想で出てきたのであって、古の出雲神族の残滓とみることはできないのかもしれない。ただそうであるとすると、桃の実を投げたのは伊弉諾なのであるから「八衢比古命/八衢比売命/久那戸神」ではなく「伊弉諾命」と書かれていてもいいような気もする。やはり猿田彦神社や椿大神社が猿田彦を岐神とするように、伊勢の底流には今もクナトノ大神が流れているということなのかもしれない。

 『伊勢国風土記』の逸文では、伊勢の国は天御中主尊の十二世の孫の天日別命が平定した所で、紀伊の国の熊野の村に着いた神武天皇が、莵田の下県まで進んだ時に、天日別命に天津の方に国があるのでその国を平らげるよう命じたので東に進んだが、そこに伊勢津彦という神がいたので、その神を殺そうとしたところ、伊勢津彦は自分の国を天孫にたてまつって自分はここから去りますといって、八風を起こし、大波をうちあげ、太陽のように光り輝いて、波に乗って東の方に去ったとあり、ある本では天日別命は熊野の村からまっすぐ伊勢の国に入ったとて言っているとある。この大風を起こし、大波をうちあげ、太陽にように光り輝いて東の方に去ったという伊勢津彦は、都波岐神社の社伝で荒風津波を起こしたという猿田彦とその性格がよく似ている。ただ、猿田彦の方は社伝では太陽との結びつきが語られていないが、猿田彦は太陽神ともされているわけである。都波岐神社についても、そこからみた夏至の太陽が入道ヶ岳に沈むと考えられることからも、都波岐神社と椿大神社社には密接な関係があり、椿大神社と都波岐神社が太陽祭祀で結びついているとすれば、都波岐神社の猿田彦にも太陽神的な性格があるといえる。何故、都波岐神社では波風を起こし、太陽的な性格を持つ伊勢津彦と同じような神として猿田彦が語られているのか、その理由を考えると、椿大神社では猿田彦は岐神ともされているのであるから、椿大神社・都波岐神社の地では元々伊勢津彦・クナトノ大神が祀られていたという可能性もあるのではないだろうか。神功皇后が出てくるのは、『日本書紀』の神功皇后の条に、伊勢の五十鈴宮の撞賢木厳之御魂天疎向津媛が出てくることと関係しているのかもしないし、もっと単純に奈加等神社の祭神が中跡直(なかとのあたい)の先祖の天椹野命(あまのくののみこと) の他に神功皇后と結びつく中筒之男命とされていることからきているのかもしれない。
 風土記逸文の天日別命と伊勢津彦の話は、伊勢と熊野の関係を語っているとも解釈できるかもしれない。実際に、伊勢・志摩の海人が九州の方からやって来て、熊野から海伝いに伊勢・志摩に入ったということは考えられる。ただ、熊野に天日別命にまつわる伝承はないようであるし、熊野と伊勢・志摩の特定の場所を結びつけるような伝承もないようである。それ故、単に熊野と伊勢・志摩の間の目につく方位線を挙げる事しかできないが、「方位線について」のところで、熊野本宮と滝原宮が東北45度線をつくることを記した。本宮は斎宮とも東北45度線をつくっている。滝原宮も奈良時代の斎宮とは東北45度線をつくっていたから、熊野本宮・滝原宮・斎宮特に奈良時代の斎宮が東北45度線上に並ぶわけである。この他、ゴトビキ岩と花の窟・滝原宮も東北60度線をつくるとしたが、花の窟と滝原宮の間にも方位線が成り立つ。ゴトキビキ岩は伊雑宮の神体山といわれる青峰山とも東北45度線をつくり、滝原宮はゴトビキ岩と熊野本宮と方位線をつくっていたが、青峰山はコドビキ岩の他に熊野神社の奥の院ともいわれ、本宮には当社の遥拝所が在るという玉置神社とも東北30度線をつくっている。青峰山の方位線は滝原宮より古くからの方位線とみなせるといえるが、ゴトビキ岩と玉置神社も西北60度線をつくっていた。花の窟は朝熊山とも東北45度線をつくっている。

  本宮旧跡・大斎原―斎宮公園記号(W1.368km、0.72度)―斎宮内院御殿付近(W0.273km、0.14度)の東北45度線
  滝原宮正殿―花の窟(E0.497km、0.46度)の東北60度線
  ゴトビキ岩―青峰山(E0.776km、0.41度)の東北45度線
  玉置神社―青峰山(W0.901km、0.49度)の東北30度線
  花の窟―朝熊山金剛證寺(W0.370km、0.24度)の東北45度線

 ゴトキビキ岩と花の窟については、む谷川健一編『日本の神々 6』の熊野三山の項によれば、地元の漁民たちの話として熊野灘の沖合からはゴトビキ岩と花の窟が恰も一対のように望まれるという。その他、ゴトビキ岩の神倉神社は神武が熊野の神邑手で登った天磐楯のこととも言われ、花の窟そのものではないが、熊野の神邑からさらに船で向い、上陸したといわれる熊野市二木島町の楯ヶ崎は、花の窟とそう離れていない。一方、大江山については宇佐氏と関係するが、宇佐氏は神武とも関係する。宇佐氏の伝承からいえば、少なくともその関係は記紀よりは濃密なものである。大江山=宇佐氏=神武ということで、神武と関わるかもしれない大江山と熊野の神武を結ぶ結節点として滝原宮はあるともいえる。
 兜山(熊野神社)・大江山・出雲大神宮・滝原宮の西北45度線のうち、兜山の熊野神社は祭神を伊弉冊尊としていた。一方、ゴトビキ岩・花の窟・滝原宮の方位線の花の窟については、『日本書紀』に「伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神の魂を祭るには、花の時には亦花を似て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌い舞ひて祭る。」とあり、熊野市有馬町の花の窟神社が伊弉冉の御陵と比定されている。滝原宮は兜山の熊野神社のイザナミと花の窟のイザナミを方位線的に結ぶ結節点にもなっているわけである。ただ、「出雲神族・海部氏と丹後」で記したが、兜山の熊野神社は中世に紀州熊野の熊野三社権現との関係を深めたというから、祭神を伊弉冊尊としたのはそんなに古い時代ではないのかもしれない。それに対して、「方位線について」で記したが、花の窟は淡路の伊弉諾神宮と西北30度線をつくっていた。『日本書紀』の一書に伊弉諾が「幽宮を淡路の州に構りて、寂然に長く隠れましき。」とあり、これはイザナミの陵墓とイザナギの陵墓を結ぶ方位線ともいえるわけである。伊弉諾神宮は鼓ヶ岳・内宮と東西線をつくる。そうすると、伊弉冉の陵墓と滝原宮、伊弉諾の陵墓と内宮がそれぞれ方位線で結ばれていることになるわけである。吉野裕子氏的解釈をすれば、伊弉諾神宮の東西線上に内宮が造られることにより、伊弉諾神宮の東に常世が明確に意識化されることになり、伊弉諾は西の冥界から東の常世に輪廻していくわけであり、また天武天皇は最初は文武天皇陵に葬られたとすれば、天武天皇も伊弉諾の輪廻の線上をやがては常世へと輪廻していくわけである。

  伊弉諾神宮―文武天皇陵(N0.071km、0.05度)―鼓ヶ岳355.1m三角点(S0.160km、0.05度)―内宮新旧正殿中間付近(S0.551km、0.19度)の東西線

 兜山の熊野神社は出雲の熊野大社を遷したものという指摘もある。出雲大神宮も出雲神族の神と関係する神社であり、大江山も伊去奈子嶽の天道日女命が出雲神族系の神とも考えられることなどから、方位線的に出雲神族にとっても重要な山だったのではないかと「出雲神族・海部氏と丹後」に書いた。熊野であるが、谷川健一編『日本の神々 6』の熊野三山の項によると、本宮と新宮は古く出雲国の人々が当地に移住し、故郷の熊野大神を勧請したとする説が半ば定説化しているが、ただそれと逆の立場をとる松前健氏の紀伊産人出雲移住説や両神を本来まったく別の神と説く石塚尊俊氏の説もあるという。熊野那智大社の第一殿(滝宮)の神は大巳貴命で地主神ということになっており(谷川健一編『日本の神々 6』)、玉置神社の奥の宮といわれる玉置山頂附近の玉石神社も玉置山の地主神とされ、大巳貴命を祀る(谷川健一編『日本の神々 4』)。出雲から熊野に移住した可能性がかなり高いわけであるが、さらにその場所は花の窟周辺だったかもしれない。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、有馬氏は出雲の炭焼きを業とする集団であり、縄文時代に大挙して木の国へ移住し、出雲の比婆山の祭祀や、熊野大神の信仰は、これら有馬氏が出雲からもたらした、という伝承が伝えられていると「神武東征と大和」で書いた。縄文時代ということは出雲にスサノオ族が来る以前の話ということであろうし、その伝承は出雲の熊野にある伝承で吉田氏が富氏から聞いた話ではないが、出雲の熊野の伝承で木の国へ移住した人々とは出雲神族と考えていいであろう。「神武東征と大和」で出雲の熊野大社の神体山の天狗山と花の窟が西北30度線をつくることも記した。もっとも、『謎の出雲帝国』の伝承では、縄文時代からいきなり有馬氏にいくわけであり、かなり後の時代に作られた伝承なのかもしれない。ただ、有馬氏を出雲神族に置き替えれば、それはきわめて古い時代にあったことを土台して作られた伝承とも考えられる。「出雲神族と方位線」で記したが、伊弉諾神宮の方は出雲大神宮と東北45度線で結ばれていたが、花の窟も出雲神族と結びつくとすれば、伊弉諾神宮と出雲神族の関係性も浮かんでくる。もっともそれは伊弉諾神宮が出雲神族の神社といったことではなく、イザナギは淡路島の海人の神だったのではないかともいわれるが、淡路島で出雲神族は海人とその神である伊弉諾と深い接触を持ったということかもしれない。その接触の中で花の窟はイザナミの陵墓であるというような話もできたのかもしれない。そうすると、出雲のイザナミの陵墓伝承が花の窟に持ち込まれたというより、熊野の出雲神族によって花の窟とイザナミの話が出雲に持ち込まれたという可能性も出てくる。

 伊弉諾、伊弉冊と出雲神族の関係であるが、『謎の出雲帝国』に、出雲大社の東、宇伽山のふもとにある出雲井神社について、「ここには富家の遠つ神祖(かみおや)、久那戸(くなとの)大神が祀られている。久那戸大神は、日本列島を産み出したもうた伊弉諾、伊弉冊の大神の長男、つまり出雲王朝の始祖なのである。」とある。このクナトノ大神が伊弉諾、伊弉冊の児ということが、どうも腑に落ちない。伊弉諾、伊弉冊は天孫族の神という思い込みがあるからなのであろうか。吉田大洋氏は出雲にはイザナミの神陵は七ヶ所あり、出雲が群を抜いているのは、それだけイザナミの伝承が多いからだという(『謎の出雲帝国』)。出雲にイザナミ伝承が多いのは、イザナミが出雲神族の祖神だからなのであろうか。しかしそうだとすると、出雲神族の祖神はイザナギ・イザナミであり、クナトノ大神を自分たちの祖神として強調するのが分からないのである。吉田大洋氏の本でイザナギ・イザナミが出てくるのはその個所だけで、あとは『謎の出雲帝国』やそれ以後の本でも、クナトノ大神が祖神とされているのであり、『謎の出雲帝国』の富氏が語ってくれた範囲の出雲神族の伝承をまとめた個所でも、大祖先であるクナトノ大神しか出てこないのである。諏訪を見ても、クナトノ大神が祀られていた形跡はあっても、イザナギ・イザナミの姿は出てこない。『日本書紀』や『古事記』にも出てくる神なのであるから、もしそれが出雲神族の祖神でもあるなら、もっと表面にで出来てもいいような気がするのである。出雲でイザナミ伝承が多いのは、出雲特有の何か事情があるのであって、イザナミが出雲神族の祖神だからではないのではないだろうか。イザナギ・イザナミが出雲神族固有の神であるとすると、どうして天皇家の神話である『日本書紀』や『古事記』に、天照の親として出雲神族固有の神であるイザナギ・イザナミが出てくるのかも疑問である。吉田大洋氏の本には天孫族が出雲神族からイザナギ・イザナミを取り入れたとは書いていない。とすれば、出雲神族と天孫族はイザナギ・イザナミを祖神とする民族から分かれていったということになり、さらにその元の民族は日本列島にいたとみるべきであろう。そうすると、今度は南から北、そして北から南に下りて来たという、出雲神族の伝承が問題になってくる。そのうちの北から南の経路は、富氏が出雲にいるのであるから、日本列島での出来事といえる。そして、南から北への経路も、日本列島内の出来事とすれば問題はない。しかし、それが大陸での出来事だとすると問題が生じるであろう。富當雄氏も吉田大洋氏も出雲神族に大陸・メソポタミア的なものを感じている。もし、南から北の移動が大陸での出来事だったとしたら、出雲神族の祖神のイザナギ・イザナミは日本列島だけでなく、大陸の神でもなければならないことになるが、そうするとイザナギ・イザナミは大陸から日本列島にまで拡がった神ということで、大陸でもかなり広い範囲に分布した神と考えることができ、現在でも大陸のあちらこちらでその神名が見られてもいいはずということにもなるのではないだろうか。そうすると、イザナギ・イザナミは出雲神族固有の神ではなく、日本列島に来た後のある時期から出雲神族でもクナトノ大神は伊弉諾・伊弉冊の長男であるというような言い方をするようになったということの方がありそうである。理由は分からないが、それは出雲神族の天皇という継体の時かもしれないし、天照や素戔嗚に対して自分達のクナトノ大神が上に立つ神だということを強調するために、伊弉諾・伊弉冊の長男というような言い方をしたのかもしれない。大国主は素戔嗚の子ともされているのであるから、出雲神族の神と天孫族の神との関係は曖昧といえば曖昧ともいえる。ただ、出雲神族の立場としては大国主が素戔嗚の子というのは認めないであろう。一方、クナトノ大神がイザナギ・イザナミのところに出てくることは確かであるが、イザナギ・イザナミの子というのは天孫族が認めていない。たた、少し気になる記述はある。「事勝国勝神は、是伊弉諾尊の子なり。亦の名は塩土老翁。」とあり、塩土老翁が伊弉諾の子とされているのである。『日本書紀』では岐神・猿田彦・塩土老翁は同じような性格が与えられている。猿田彦は瓊瓊杵尊の道案内をする役目を与えられており、塩土老翁も瓊瓊杵尊に国が在ることを教え、山幸彦に海宮の場所を教え、神武に東の方に美き国があることを教えている。そして、岐神も「経津主神、岐神を以て郷導として、周流きつつ削平ぐ。」とあって、やはり案内の役目を持たされているのである。そして、岐神と猿田彦を同一神とする立場があったが、塩土老翁には謎の部分が多く、岐神と塩土老翁の関係にも猿田彦以上に何か秘密がありそうなのである。岐神=塩土老翁とすれば、岐神は伊弉諾の子ということになるが、しかし岐神を直接伊弉諾の子とすることは、『日本書紀』の立場では認めることが出来なかったということになる。あるいは、そういうことでしかクナトノ大神が伊弉諾の子であるということを表に出せなかったということなのであろうか。

 滝原宮・出雲大神宮・伊弉諾神宮・花の窟が方位線の輪を作っているわけであるが、滝原宮と熊野本宮の方位線を考えると、熊野本宮は鞍馬寺と南北線をつくる。そして鞍馬寺・貴船山はやはり出雲神族と関係する籠神社の奥宮の真名井神社と西北45度線をつくっていた。そして、真名井神社は出雲大神宮と東北60度線で結ばれていたわけであり、そこでも出雲神族とも関係する滝原宮・出雲大神宮・真名井神社・鞍馬寺・熊野本宮という方位線の輪が出来ているわけである。

  鞍馬寺―大原斎本宮旧跡(E0.250km、0.10度)の南北線

 宇佐公康『続古伝が語る古代史』によれば、菟狭族の最初の拠点は大江山であったが、そこから貴船山や鞍馬山に移動し、さらに東山に移動して稲荷山を拠点としたが、貴船山を拠点地としていた頃、カムチャッカ半島からシベリア方面、さらには奥羽地方・裏日本方面から近畿地方に進出してきたシベリア系種族の猿田族が鞍馬山を根拠地とするようになり、さらに猿田族は繁栄して稲荷山を侵略して稲荷山の祭祀権を略奪し、菟狭族は追放されてしまったということであった。この猿田族は出雲神族を思わせると「出雲神族・海部氏と丹後」に書いたが、その猿田族は鞍馬山を根拠地としたわけである。そして、鞍馬寺と伏見稲荷本殿が南北線をつくっていることは「平安京」で記した。ただ、大江山はともかく鞍馬山や稲荷山に関する宇佐氏の伝承については、そんなに古いものではない可能性もあるのではないだろうか。石清水八幡宮が造営されて宇佐神宮が京都と結びつくようになってから出来た話かもしれない。猿田族という存在も、稲荷山で猿田彦が祀られていたことから出てきたとも考えられる。石清水八幡宮は創建されると急速にその社格を上げていき、創建から一、二年しか経たない貞観三年(861)には『三代実録』に近京名神七社の一つとして祈雨奉幣をうけたとあるといい、また貞観十一年(869)の十二月二十九日条には「石清水の皇大神」「皇大神は我朝の大祖」と記され、『日本紀略』によれば延喜十六年(916)に加茂社を抜いて伊勢につぐ社格を与えられることになったという(谷川健一編『日本の神々 5』)。京都において新参者の石清水八幡宮がその存在感を高め、ついには加茂社を抜いて伊勢神宮に次ぐ社格が与えられるまでになると、宇佐神宮が実は京都とは古くから深い結びつきがあり、特に自分たちは加茂社よりも古い京都の住民だったのだと強調する必要を感じてきたのではないだろうか。宇佐神宮の宇佐氏が加茂社の鴨氏や稲荷山の秦氏より古い京都の住民だったということになれば、加茂社より石清水八幡宮が高い社格を与えられても当然ということにもなるわけである。さらにいえば、伏見稲荷の上中下三社のうち、上社は素戔嗚尊とも猿田彦とも大田命ともされ、現在は佐田彦大神とされるが、『神祇拾遺』では大祖神(おおみおやのかみ)、近世の『神社啓蒙』では「上社土祖神(つちのみおやのかみ)とも記され、土地の古い地主神で、住民たちの祖霊神とされていた神であろうともいう(松前健編『稲荷明神』「稲荷明神の原像」松前健)。その猿田彦=猿田族より古い菟狭族という構造をとることにより、直接自分たちは鴨氏や秦氏より古い京都の氏族だったのだと主張するのではなく、間接的に主張しているわけである。さらに、稲荷山では上社の神が素戔嗚ともされていたこと、京都には鴨氏や秦氏より古い氏族として出雲氏がいたこと、猿田彦が岐神ともされていたことなどから、猿田族が出雲神族的性格が与えられたのかもしれない。稲荷山が出てくるのは、稲荷山の宇迦之御魂大神が豊受大神や保食神と同神ともされることや、 宇佐公康氏によれば、伏見稲荷の五社のうちの田中大神が石清水八幡宮の田中宮司家と深い関係にあるとしていることに関係するのであろう。また、方位線的には鞍馬山が真名井神社と方位線をつくっているのに対し、出雲大神宮と伏見大社本殿が西北30度線をつくっていた。出雲大神宮は上加茂神社とも東西線をつくっていたが、鞍馬寺と伏見稲荷本殿の南北線上に下鴨神社が在り、桓武が平安京を造る以前の京都において、鴨氏と秦氏は一緒に大和から移ってきたともいわれるが、鴨氏が加茂社を、秦氏が稲荷山を押さえたわけである。その以前から出雲氏の存在したことや加茂社の伝承などを考えると、宇佐氏の猿田族の伝承とは関係なく、貴船山や鞍馬山は出雲神族の聖なる山とみられていたとも考えられる。
 宇佐氏の伝承で鞍馬山や稲荷山を登場させたのは、それ等が京でも有名な場所だったことから分かるが、大江山を菟狭族の最初の拠点とした理由は何なのであろうか。実際そうだったのかもしれないし、あるいは、月神・月讀神と結びつく山として平安時代には名が知られていたのかもしれない。ただ方位線的にみると、まず出雲神族の神社があって、その神社に対して宇佐氏の菟狭族の最初の拠点としの大江山が出てくると解釈できる。というのも、宇佐神宮と関係する石清水八幡宮、さらにはその前の東大寺の手向山八幡宮を考えると、石清水八幡宮と東大寺大仏殿の西北60度線が真名井神社と出雲大神宮の西北60度線と重なると「出雲神族・海部氏と丹後」のところで書いた。石清水八幡宮は出雲大神宮・真名井神社と西北60度線をつくるが、東大寺境内の手向山八幡宮も石清水八幡宮・出雲大神宮・真名井神社と西北60度線をつくっている。すなわち、宇佐神宮と直接関係する手向山八幡宮・石清水八幡宮は出雲大神宮・真名井神社との方位線を意識して造られたとも考えられるわけであるが、ここでもし、大江山が宇佐氏の伝承のように菟狭族の最初の拠点であったとするなら、大江山との方位線をこそ意識されたのではないだろうか。そして、大江山自身も出雲大神宮と西北45度線、真名井神社とも東北60度線をつくっていた。手向山八幡宮・石清水八幡宮の例からいえば、大江山を菟狭族の最初の拠点としたのも出雲大神宮・真名井神社を意識してのものということになるのではないだろうか。それは菟狭族以前に丹後・丹波には出雲神族がいたということにもなるが、そのことは別にして、石清水八幡の皇大神が我朝の大祖とされたということには、宇佐神宮には天皇・皇室と関わる知られていない謎があるのかもしれないし、その中には大江山と畝傍山の関係も含まれているのかもしれない。

  石清水八幡宮―出雲大神宮(E0.456km、1.15度)―真名井神社(W0.186km、0.12度)の西北60度線
  手向山八幡宮―石清水八幡宮(W0.769km、1.76度)―出雲大神宮(W0.313km、度)―真名井神社(W0.956km、0.47度)の西北60度線

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伊雑宮と佐美長神社

 中世・近世に伊雑宮の祭神と信じられていた伊射波登美命は、出雲神族の伝承では出雲神族である伊勢津彦の子供であった。吉田大洋氏(『謎の出雲帝国』)はここらへんの古代信仰の地は志摩の磯部で、伊雑宮こそ内宮の本家であるとし、『伊雑宮旧記』によると、当社は竜宮で、的矢湾の入り口の海底深くには、神代の昔から石の鳥居があると信じられているといい、またヤマト姫がアマテラスの御魂を奉じて当地を訪れたとき、迎えたのは伊雑のトミノ命であったという。また、裏山に小さいながらも磐座があり、出雲との結びつきを感じさせ、上古には伊雑宮では出雲系の神が祀られていたとみるべきだろうという。当然、その出雲系の神の中にはイサワトミノ命も祀られていたであろう。伊射波登美命については伊雑宮神職の磯部氏の祖先ともされているが(ウィキペディア 伊雑宮)、その名前に「登美」がつくことは、磯部氏の祖先というよりは出雲神族の神であることを示していると思える。また、伊雑宮が内宮の本家ということについては、谷川健一編『日本の神々 6』の伊雑宮の項によると、九鬼氏に神領を奪われた伊雑宮に仕える神人は、寛永二年(1625)に神領再興を叫んで上訴を試み、九鬼守隆に弾圧されて神人五十余人が神島に流刑された。九鬼家転封後も神領返還を求めて運動を続け、明暦四年(1658)朝廷に上申した神訴上では、「伊雑皇大神宮は日本最初の宮で、のちに内宮ができ、次いで外宮が鎮座した」とし、さらには伊勢三宮説を創案して、伊雑宮の神を天照大神、内宮を瓊瓊杵尊、外宮を月読尊として、皇大神宮とはこの三宮のことであるとしているといい、寛文二年(1662)の『伊雑宮旧記』では内宮両宮は伊雑宮の分家であると主張したという。朝廷の裁決によって伊雑宮は内宮の別宮で祭神は伊射波富美命と定められたが、それに不満な神人たちは将軍家綱の駕へ直訴し、その結果は主だった神人が伊勢・志摩両国からの追放ということで終わった。その後、延宝七年(1679)に『旧事大成経』四十巻が版行されるが、それは『伊雑宮旧記』と同じで伊雑宮を本宮とする伊勢二社三宮説であるという。江戸時代の伊雑宮の人たちは伊雑宮を内宮の本家と主張したが、それは天照の本家として主張されていたことになる。この伊雑宮が内宮の本家という主張であるが、『椿大神社二千年史』にも気になる個所があった。「鈴鹿の椿の里にて猿田彦大神の子孫大田命に案内され亀山から瀧原へ、次いで志摩の伊雑の宮へ、更に五十鈴の川上である現在の伊勢に大宮処が第十一代垂仁天皇皇女倭姫命の御神託によって垂仁天皇二十六年に社殿を造営されたのが現在の伊勢の神宮である。」というのである。これは、天照大神が内宮に鎮座した次の年に伊雑宮が造られたという『倭姫命世紀』とは前後関係が逆で、伊雑宮が内宮の前にあったことになり、当然山本宮司は『倭姫命世紀』のことは知っているであろうから、敢えてそのような主張をするということについては、それなりの根拠、あるいはそのような主張をさせる理由が、椿大神社にはあるということであろう。
 伊雑宮にはもう一つの問題があり、鳥羽市安楽島町の加布良胡崎近くの伊射波神社こそが式内社の伊射波神社であり、一の宮とする説があることである。しかし、『日本の神々6』では、『志陽略誌』に「倭論語云う志摩大明神と号す是なり。或人志摩国一宮と云う也。」とあるというが、伊射波神社が一の宮とされるのは鳥羽藩が伊雑宮への対抗上、また神人の優越感を削ぐ意味で、もう一つの一の宮を作ったのかもしれないとする。ウィキペディア(伊射波神社)によれば、延長五年(927)の『延喜式神名帳』には「貞コ粟嶋坐伊射波神社二座 並 大」と記載があり、『諸国一の宮』では、粟嶋坐というのは志摩市磯部町から鳥羽市安楽島町にかけての粟嶋と呼ばれた地域で、伊射波神社二座のうち一つは当社、一つは伊雑宮としているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、

『和名類聚抄』の例から「伊射波」は「伊雑」の万葉仮名と考えられること。
『大神宮本記帰正鈔』の「廿七年伊雑宮造立」の項に「神宮ヨリ摂スル時ハ、伊雑宮ト宮号ヲ以テ称シ、志摩国司ノ管スル時ハ、伊射波神社ト社号ヲ以テセシト見エテ」とあり、神宮と国司で伊雑宮の呼び方が異なったこと。
加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたらしく、古代・中世の史料に伊射波神社の名がないこと。
明治7年(1874年)に薗田守宣が著した『伊射波神社考』に「文化四年六月、城主(鳥羽城主稲垣長以)ノ沙汰トシテ、社ノ覆屋、拝殿・鳥居ヲ寄附シ、神号ノ捜索アリテ、伊射波大明神ナル趣ヲ啓ス」とあり、文化4年(1807年)から当社を伊射波神社と称したこと。
一宮は、一般に国府に近い大社とされる慣例だったが、国府推定地である志摩郡阿児町国府から見て、伊雑宮の方が当社より近いこと。

等の理由から伊射波神社は式内社でも一宮でもないとするという(ウィキペディア 伊射波神社)。
 伊雑宮と伊射波神社が式内社と一の宮の坐を争っており、伊射波神社については否定的な見解が多いわけであるが、方位線的には伊雑宮・佐美長神社と伊射波神社が東北60度線をつくっている。

  伊射波神社―伊雑宮新旧正殿中央付近(W0.046km、0.22度)―佐美長神社(W0.180km、0.82度)の東北60度線





 

 写真は三十年程前、伊雑宮に行ったとき撮ったものである。場所は、東の入口から正殿前に進み、さらにその先、本殿に向かって左側の西の方に進むと、道が曲がって正殿の裏側を通ってまた入口付近に戻ってくるようになっていたのであるが、そのちょうど正殿の真後ろの正殿側の道端にあった石組構造物である。正殿の真後ろであり、どう見ても人工物であるが、注連縄の類は一切なかった。数年前、その石組構造物が気になって伊雑宮に行ってみたのだが、残念ながら正殿の裏側に行く道は閉鎖されて行けないようになっていた。神職の人と作業服を着た人が数人、親しそうに談笑しているので、その構造物のことを聞いてみようかどうしようか迷っていると、作業服の人がこちらの方に来てくれたので、写真を見せて何なのか聞いてみた。ああそれ、という感じで、よく分からないが、土地の人が作った佐美長神社の遥拝所ではないかとも言われているが、文献なども残っていないということだった。神職の人なら、もっと詳しく知っていたのかもしれないが、それ以上しつこく聞くことも憚れ、そのまま帰って来たのであるが、佐美長神社の遥拝所というのはその場所からいって少し考えられないのではないだろうか。というのも、佐美長神社は伊雑宮の西南800mのところにあって、その石組構造物から見ると、感覚的には正殿の向う側に位置しているともいえるのであり、伊雑宮の正殿を挟んで佐美長神社を遥拝するだろうかと思うのである。その後、伊雑宮のすぐそばに御師の家森新というのがあっので、そこなら分かるかと思い聞いてみたのだが、その石組構造物自体を知らないようだった。その道については、地元の人の生活道路だということであったが、確かに御師の宿のすぐ脇からその道に入っていけるのであるが、道自体は本殿前に出ていくだけであるから、生活道路というのも考えづらく、あるいはこちらの説明が上手く伝わらず勘違いしているのではないかとも思ったが、三十年近く前の記憶であるから、あるいは道分かれしていて本殿前に行く道とは違う道があつたのかもしれない。出雲神族の残影を求めて伊雑宮にいったのであるが、御師の家森新で出雲神族ではイサワトミノミコトなのであるから、「イサワグウ」と言ったら、あっさりと「イゾウグウ」と訂正されてしまった。磯部というぐらいであるから、もうとっくに住民は海人族の子孫ということなのかもしれない。ただ、そこでは色々なものを貰ったのだが、その中のレジメのなかに、「6.伊雑宮(イゾウグウ)」とあって、「始めの大きな神の意、宇宙神、アマテラス大神を祭る」などとあって、その中に「不思議=国旗、国歌を使わない」とあった。それをみると、伊雑宮では国旗や国歌を使わないようであり、伊雑宮や磯部には強烈な反体制的意識が今も流れているのを感じた。
 もし、その道が土地の人の生活道路で、その石組構造物は土地の人が築いたものであるとしても、正殿の真後ろという位置からしても、何からの意味で正殿を意識したものということであろう。もしそれが佐美長神社の遥拝所だとすれば、その石組構造物は佐美長神社の祭神を象徴しているともいえる。そして、佐美長神社の祭神を象徴する物が正殿の真後ろにあり、正殿を拝むことがその石組構造物を拝むことでもあるという配置になっているとすれば、実は佐美長神社の祭神こそ伊雑宮の本当の祭神であると言っていることになるとも解釈できるわけである。そうすると、佐美長神社の祭神が何なのかが問題になる。佐美長神社の祭神を調べると混乱・矛盾が見られ、それは伊雑宮の祭神についてもいえる。さらにそれは、伊雑宮と佐美長神社の祭神の間にもいえるのかもしれない。大林太良『私の一宮巡詣記』によると、元禄の神道家の橘三喜が全国の一宮を参詣して書いた『一宮巡詣記』には「磯辺村へ寄、一宮は伊雑宮と聞侍れば、此社へ参る。社司の申により、大歳神又は穂落社とも大田命を斎ふ。則伊射波神社といへば、此社へ参る。此社高の宮とも云、恵利原村也。」とあり、またそれに附された図には「志摩国一宮答志郡伊射波(雑宮)図(大歳神社も同じ宮作なり、大歳の神は南門へ)」とあって、混乱した記述になっているという。伊雑宮の社司の人に話を聞いても、橘三喜が混乱するぐらい伊雑宮と佐美長神社の関係は複雑で混乱したものだったのかもしれない。

 インターネットで伊雑宮について見ていたら、伊雑宮には他にも石組構造物があるらしい(http://blog.livedoor.jp/omtakebe/archives/39612637.html)。こちらの写真の石積構造物とほぼ同じ大きさといえるかもしれない。四角く石で囲われ小さな石が立っているその構造物は、東側の「古殿地」の正面の真ん前にあるという。以前、この石の前で蹲踞し八度拝をしていた神官がいたので、この石の意味を尋ねたことがあるが、答えは、南にある佐美長神社の遥拝所だと答えたという。あるいはこちらが聞いた神社関係者の人は、正殿真後ろの石組構造物とその石積構造物と混同してしまっていたのかもしれない。その遥拝所から佐美長神社を遥拝するということであるなら、伊雑宮の本当の祭神が佐美長神社の祭神であるということは成り立たない。ただ、何故伊雑宮から佐美長神社を遥拝するのかという疑問は残る。明治四年に佐美長神社に改められるまで、大歳宮(おおとしのみや)、穂落宮(ほおとしのみや)、飯井高宮(いいのたかみや)、神織田御子神社(かむおたのみこのやしろ)などさまざまな社名が用いられていたといい、ウィキペディアの佐美長神社の項によれば、『安貞二年(1228)内宮遷宮記』では「坤を向いて大歳神社を神拝する」旨が記されているという。中世の初め頃にはすでに伊雑宮からの佐美長神社神社への遥拝が行なわれていたわけである。
 荒俣宏監修『図解 聖地伊勢・熊野の謎』によると、現在はないが、寛政九年(1797)に刊行された『伊勢参宮名所図会』には荒祭宮の向かって右側に伊雑宮遥拝所があり、左側に外宮と他の別宮の遥拝所があるという。伊雑宮だけが別にあることから、伊雑宮が特別視されていたことが窺われるというのであるが、これは単に対象の宮のある方角からきた区別かもしれない。伊雑宮は内宮の東南にあり、遥拝所からだと内宮正殿の向うに伊雑宮を遥拝するというようにもみえるが、図会を見ると遥拝所の前に人がいるが、その人が伊雑宮を遥拝しているとすると、東の方を見て遥拝していることになる。伊雑宮が大雑把にみて東の方に在るから、その遥拝所は荒祭宮の東側にあるのであろう。一方、外宮などの遥拝所の前にも人が描かれているが、その人から遥拝所を見ると、北を見ることになる。荒祭宮から見て、当時倭姫宮は無かったから、外宮は西北、別宮の月讀宮などがある月讀の森は北、風日祈宮は西であり、滝原宮は西南といえるが、伊雑宮が東なら滝原宮は西ということで、伊雑宮が東もしくは南を意識させるのに対して、それらの社は北もしくは西を意識させる場所にあり、遥拝所は荒祭宮の西側にあるべきということになる。昭和十八年に発行された『神宮摂末社巡拝』下巻には荒祭宮への遥拝所が出ている。現在もあるかどうか確認していないが、忌火屋殿近くの荒祭宮に分かれる参道の所で、正殿に参拝して荒祭宮に参拝せず帰る人はそこらか荒祭宮を拝したという。いわば、参詣者の為の遥拝所であるが、荒祭宮の両脇の遥拝所も内宮の神職の人がそこから神拝する場所というよりは、荒祭宮には参拝したが、ほかの別宮には参拝に行けない人の為に設けられた遥拝所といえよう。図会には正殿殿地の東南脇に「末社遥地巡り」と記された一角があり、やはり末社にまで行けない人の為の遥拝所もある。しかし、伊雑宮正殿の裏側の石組構造物が佐美長神社への遥拝所であるとすると、正殿にお参りしてその裏側まで回る人はそんなに多くはないではずであるから、それは参詣者の便宜を図ってというものではないであう。『安貞二年(1228)内宮遷宮記』に記す、伊雑宮から「坤を向いて大歳神社を神拝する」にあたって遥拝所が設けられていたとすれば、やはりそれも参詣者に対する便宜を図ったものではないと考えられるのではないだろうか。地元の人は両方の社に参拝していたであろうし、遠くからの参拝者は多くはなかったであろうし、また、伊雑宮から遥拝するぐらいなら、せっかく遠くから来たのであるから大歳社にまで足を運んだのではないだろうか。少なくとも、正殿裏の石組構造物は参詣者の為の遥拝所ではないであろう。参詣者の為の遥拝所をわざわざ正殿の裏側に設けることはないであろうし、より便利で大歳社の杜がはっきりと見える正殿の前か、あるいは正殿の横、西側に設けられたはずである。また、現在の正殿前の遥拝所も、神官の人に聞いて始めて佐美長神社の遥拝所と分かったということは、遥拝所という案内板のようなものは何もなかったということであろうから、参詣者の為の施設ではないといえる。

 境内の摂社や末社に神職の人が神拝して回ることは普通のことであろう。同じような意味で、離れている佐美長神社に神拝したのかもしれない。ただ、離れているとはいっても、800mほどであり、昔の歩きなれた人ならそんなに遠い距離ともいえず、神官は佐美長神社まで行って直接神拝したのではないだろうか。それに佐美長神社は中世の初期は内宮庁宣が祝職を任命し、祭祀にあたらせていたというから(ウィキペディア 佐美長神社)、昔の佐美長神社には佐美長神社の神職の人がいたということになり、摂社・末社を神拝するという意味で、伊雑宮から佐美長神社を神拝したということでもないということになる。 
 現在、伊雑宮の祭神は、もらった由来書では天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)となっており、佐美長神社は伊雑宮の所管社で大歳神(五穀の神)となっている。そして、江戸時代の伊雑宮の神人達は、伊雑宮こそ天照の本家・本元と主張したわけであるが、『日本の神々 6』によると、中世・近世には一般に伊雑宮は『倭姫命世紀』の記述から、伊射波登美命と玉柱屋姫命を祀る宮だと信じられていたという。大林太良『私の一宮巡詣記』によれば、全国の一宮のリストで最古のものと考えられ、室町末ごろに吉田神道の系統の人が書いたと思われる『大日本国一宮記』では、「伊射波神社 志摩答志郡」とあるだけで、他の一宮と違って祭神を記していないという。中央の人が編纂したらものらしく、各地の事情を必ずしも正確に把握していなような箇所もあるといい、情報が錯綜していて何を祭神としていいのかわからなかったのかもしれない。あるいは、神社名、祭神、所在の国郡を書いただけの簡単なものなのであるが、末尾には「右諸国一宮神社此の如し。秘中之深秘也」とあって、当時では秘密扱いされるものだったといい、伊雑宮の祭神が書かれていないのは、書くことさえできない秘中の深秘のさらなる深秘だったということなのかもしれない。『大日本国一宮記』より前の、建治・弘安(1275〜1288)のころ、伊勢外宮の神官の渡会行忠の撰になったものといわれる『倭姫命世紀』では、伊雑宮について「伊雑宮一座 天牟羅雲命裔天日別命子玉柱屋姫命是成形鏡ノ坐」となっているが、それとは別に穂落伝承では伊射波登美命(『倭姫命世紀』では伊佐波登美であるが基本的に伊射波登美で統一する)の神宮を造って皇大神の摂社としたのが伊雑宮となっていて、伊射波登美命と玉柱屋姫命の二座というよりは伊射波登美命は別伝という形をとっている。『倭姫命世紀』以前では、『延喜式』神名帳に、志摩国答志郡に「粟島座伊射波神社二座 大並」とあったが、延暦二十三年(804)の『皇太神宮儀式帳』では天照大神御魂と玉柱屋姫命とされているという(筑紫申真『日本の神話』、ウィキペディ 伊雑宮)。また、延長五年(927)の『延喜太神宮式』および『皇太神宮儀式帳』には「天照大神の遙宮(とおのみや)」と記載があるという(ウィキペディ伊雑宮)。これをみると、平安時代初期には伊雑宮の祭神は天照と玉柱屋姫命であったのが、『倭姫命世紀』では天照を削って玉柱屋姫命のみを祭神とし、天照に替わって別伝として伊射波登美命も祭神とし、中・近世では伊射波登美命・玉柱屋姫命の二座となり、江戸時代になると再び天照が復活して伊雑宮が天照祭祀の本家とされていったという流れになるわけである。
 佐美長神社については、ウィキペディア(佐美長神社)によると、伊雑宮の外宮だと考える住民もおり、明治四年に現社名に改められるまでは、大歳宮(おおとしのみや)、穂落宮(ほおとしのみや)、飯井高宮(いいのたかみや)、神織田御子神社(かむおたのみこのやしろ)などさまざまな社名が用いられていたが、高宮、飯井宮、飯高宮の名は、偽書である『先代旧事本紀大成経』が提唱した社名であると考えられ、高宮などの名を用いて、佐美長神社・伊雑宮の地位を高め、佐美長神社が本来の「荒祭宮」であると偽装することが目的であったと考えられるという。佐美長神社の祭神は、現在大歳神とされているが、筑紫申真『日本の神話』によれば、土地の人達は猿田彦大神だと確信しているという。しかし江戸時代の社殿配置からは、大歳神と猿田彦は区別されていたようである。ウィキペディア(佐美長神社)によると、伊勢神宮が所管する神社の中では珍しく東向きに建ち、佐美長神社の殿地と古殿地の中間付近の東側の位置に「神楽殿」があり、猿田彦大神を祀っていた。それからいえば、猿田彦は神楽殿の祭神であって、大歳宮の祭神ではないということになる。『猿田彦神社誌』の岡田米夫氏によると、猿田彦大神の名には二つの解釈があり、その一つは「猿田」の「猿」は、「猿楽」の「猿」と同じで、神楽や狂言に見る舞踏や神楽舞をすることを意味するというから、神楽殿に猿田彦が祀られるということはあり得るわけである。また、大林太良『私の一宮巡詣記』によると、寛政九年(1797)に成った『伊勢参宮名所絵図』には伊雑宮の挿図は二枚あって、一枚目には伊雑宮の本宮があり、その裏手の方角に穂落池があり、次の挿図では、向かって右に猿田彦神社、左に大歳宮が描かれているという。本文では「大歳宮 或いは磯辺の高宮といふ。又穂落の宮とも云、祭神真那鶴なり。穂を咋へたるを落せし故穂落といふ(穂落大歳訓よく似たり、額に大歳宮、飯井高宮、穂落宮とあり)。」とあり、また「飯井高社 祭神猿田彦大神と云、此外数多末社あり。」とあるという。以上を整理すると、大歳宮=磯辺の高宮=穂落の宮、大歳宮≠神楽殿、大歳宮≠猿田彦神社、神楽殿=猿田彦神社、飯井高社=猿田彦大神となる。すなわち神楽殿=猿田彦神社=飯井高社となるが、さらに飯井高宮についてはよく分からないがその名前から飯井高宮=飯井高社とすると、神楽殿=猿田彦神社=飯井高社=飯井高宮と考えることができる。ここで、高宮の付く磯辺の高宮と飯井高宮の関係が問題になる。もし、磯辺の高宮=飯井高宮とすれば、大歳宮=神楽殿=猿田彦神社となるが、実際には大歳宮と神楽殿・猿田彦神社は別のものであった。江戸時代の佐美長神社の主祭神は、土地の人が考えているような猿田彦ではなく、大歳神だったといえよう。しかし、『倭姫命世紀』では「大歳神一座 国津神ノ子形石ハ坐与(クシ)玉ノ神無宮殿衢(チマタ)ノ神猿田彦大神是成」と書かれており、大歳神=猿田彦とされている。ただ、正確には佐美長神社の祭神はあくまでも大歳神であるが、その大歳神は猿田彦であるといっているようにもみえる。どちらにしても、その主張は大歳神=猿田彦とみなしていいであろう。延暦二十三年(804)の『皇太神宮儀式帳』が「佐美長神社」の名の初出であり、『延喜式』神名帳には「同島坐神乎多乃御子神社」(おなじきしまにますかみおたのみこじんじゃ)となっていて、同島とは『日本の神々 6』では伊雑宮と同じ粟島のこととされており、『宇治山田市史』では佐美長神社の祭神を「神乎多乃御子神」としているが、はたして神乎多乃御子神社が佐美長神社であるかどうかについては、中川経雅『大神宮儀式解』では証拠はなく、信じがたいと記しているという(ウィキペディ 佐美長神社)。以上が伊雑宮と佐美長神社の祭神の大雑把な流れということになる。

 伊雑宮・佐美長神社の祭神、および伊雑宮と佐美長神社神社の関係を考えるには、まず『倭姫命世紀』の穂落伝承を見ておかなけばならない。その概略を述べると、内宮が出来た翌年の垂仁二十七年のこととして、伊雑の方の葦原の中で鳥がしきりに鳴いているので、倭姫命が大幡主らに見に行かせると、一羽の真名鶴が一茎に千穂の茂る稲をくわえて鳴いていた。その稲を伊射波登美命に命じて抜穂に抜かせ、大幡主の女乙姫に清酒を作らせて皇大神の御前に懸け奉らせた。この稲の生えた所を千田と名付け、御饌の料にあてた。そしてその稲の生えた所を千田と称し、そこに伊佐波登美の神宮を造って皇大神の摂宮としたのが伊雑宮である。そして『日本の神々 6』では、かの真名鶴を大歳神と称して祭ったのが佐美長神社であるとなっている。
 この穂落伝承は伊雑宮固有の伝承ではなく、その原型は他にあるという。斎宮歴史博物館のホームページの「大淀と鶴の稲のお話」(https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal.asp?record=396)によれば、『倭姫命世紀』の落穂伝承には続きがあり、そこでは伊雑宮を設けた翌年の秋、やはりマナヅルが皇太神宮(内宮)に北の方から飛んできて日夜鳴いているので、倭姫命が調べさせると、「佐佐牟江宮の前の葦原」に、やはり根元が一本で八百の穂がある稲をくわえて鳴いていたので、吉祥として皇太神の御前に懸けさせ、鶴のいた所に八握穂社を造らせたとあるという。そして、『倭姫命世紀』より古い天暦三年(949)に神祇官が村上天皇に上奏した「新嘗祭と月次祭神今食の忌火御饌」に、古い記録によると「倭姫皇女」が伊勢大神の御杖代として壱志郡の斎片樋宮にいた時に、三隻の船に乗って佐志津に向かい、舟をとどめた時、葦原で日夜鳥が鳴いていたので、人をやって調べさせた所、一羽の鶴がおり、その所で「八根稲穂の長さ八握で、瑞稲と言えるもの」が見つかったので、その米を折木を刺し合わせた枝で炊いて神に捧げた、これより神嘗の祭が始まり、その時の火を特別に作り、忌火というとあるという。「大淀と鶴の稲のお話」では壱志郡の斎片樋(「いつきのかたひ」または「いみかたひ」と読めます)宮は、『皇太神宮儀式帳』にも見られる「藤方片樋宮」のことだとすると、今の津市の南側、藤方から高茶屋あたりと考えられ、佐志津(「さしづ」または「さしのつ」と読むのでしょうか)はどこなのか分からないという。また、この話は平安時代の貴族たちには割合に知られていたようであり、藤森馨氏の研究「真名鶴神話と伊勢神宮の祭祀構造」(『国立歴史民俗博物館研究報告』148所収 2008年)によると、鎌倉時代の『年中行事秘抄』や『師光年中行事』にも見られ、また同じ鎌倉時代の、中世日本紀と呼ばれる中世神話の一つ『天照太神御天降記』には「天照大神が伊勢神宮に降りると、巽方の空で鶴が二羽鳴いて寿ぎ、穂をくわえて志摩国の伊佐和の神戸に飛び降りた。そこに「伊佐和の野宮」を鎮座させ、その鶴(末那鶴)を於保止志神(大歳神)として祀り、天見通命という神が、そのくわえていた稲穂で御飯を造り始めた。そのため、その神(の子孫)を荒木田氏と言い、その田を抜穂の神田と言い、宇治郷にある。」とあって、『倭姫命世記』に出てくる、「伊佐和」、つまり伊雑の懸税稲起源神話の元であることことが分かるという。そしてこの神話は、内宮禰宜の荒木田氏の由来を語っているのに対して、『倭姫命世記』では、鳥の声を探しに行った「大幡主命」は、外宮禰宜度会氏の祖先とされている人物であり、藤森馨氏は『倭姫命世記』の真名鶴伝承について、「内宮神話である真名鶴神話は巧妙に外宮神話に書き換えられたのである」と指摘しているという。つまり「平安時代前期にはあった瑞稲の伝承は最初に内宮の伝承として伊雑に移され、その後に外宮の伝承として佐佐牟江にも移された」ということのようであり、天暦三年(九四九)の神祇官上奏にある本来の神話では、内宮が伊勢市内にできる以前に神宮の神嘗祭が既に成立していたとしているという。そして、残念ながら肝心の「佐志津」がどこかはわからないが、佐志津が志摩国にあったとは考えにくく、藤方より伊勢に近い地域、現在の津市南部から松阪市の間くらいが想定され、あるいはもっと単純に、「さし」が「ささ」になっただけで「さし」の津(佐志津)と「ささ」の江(佐佐牟江)は、同じ場所だったのかもしれず、佐佐牟江の地名は本来の大淀の津だったと推定されているラグーン(旧・笹笛川の堆積によって形成された入り江)の岸辺だったあたりに残っているという。『倭姫命世記』と同じ中世の文献でも『天照太神御天降記』では伊射波登美命ではなく天見通命となっており、また伊雑宮と関係するのは渡会氏ではなく荒木田氏となっているわけである。
 
 伊雑宮では平安初期には祭神が天照大神御魂・玉柱屋姫命とされているのに、『倭姫命世紀』では玉柱屋姫命あるいは伊射波登美命されていて、天照が消えている。天照が消えているのはあくまでも『倭姫命世紀』の中だけのことで、実際には伊雑宮の祭祀から天照が消えてはいないとしても、『倭姫命世紀』が天照を消すということは尋常ではないであろう。穂落伝承にしても天照に御饌を奉る由来を書いたものであるから、決して天照を軽視しているわけではない。それにもかかわらず、伊雑宮から天照が消されているのである。それからいえることの一つは、伊雑宮は天照祭祀のために創建された神社ではなく、それ以前から存在した神社だということであろう。もし、天照祭祀のために創建されたなら、そのような神社から天照祭祀が消されるというようなことはありえないのではないだろうか。伊射波登美命を持ち出すとしても、伊雑宮を玉柱屋姫命一座とするのではなく、天照大神・玉柱屋姫命二座とした上で、穂落伝承で伊射波登美命を持ち出せばいいだけの話である。『倭姫命世紀』が天暦三年(949)の「新嘗祭と月次祭神今食の忌火御饌」を踏まえながら書かれたとすると、あるいは上奏で神宮の神嘗祭が既に成立していたと主張されていたことが重要で、そのことを踏まえながら『倭姫命世紀』では、暗に伊雑宮は内宮より古いということを主張しようとしたのかもしれない。さらに、渡会氏は『続日本紀』に「伊勢の国の人磯部祖父・高志二人に、姓渡相神主を賜う」とあることから、磯部氏といわれている。磯部を管轄する立場にあっただけで磯部氏ではないという説もあるが、どちらにしても自分達こそ伊勢における先住民であり、渡会氏こそ伊勢における祭祀を司るべき氏族だという主張が、磯部にある伊雑宮を利用してなされているということなのかもしれない。佐美長神社の鎮座地が、「江戸時代に入るまでは海面下あるいは湿地帯であったと考えられ、後代に現社地に移った」とする説と、「小高い丘である故、古くから祀られてきた」とする説があるというが、境内地からは、縄文時代から古墳時代にかけての遺物が出土し、弥生時代後期から古墳時代初期のものが中心に、供献用と見られる土器類が発見されているという(ウィキペディア 佐美長神社)。それからいえば、伊雑宮はともかく佐美長神社は天照が伊雑宮に祭られる以前から在った可能性はいえるわけである。
 伊雑宮が天照が祭神とされる以前から存在していたとすると、天照以前の伊雑宮の祭神が問題になる。まず、考えられるのは玉柱屋姫命のみが祀られていたということであろう。しかし、『倭姫命世紀』的には、玉柱屋姫命と伊射波登美命が祭神だった、あるいは伊射波登美命のみが祭神だったということも考えられるのではないだろうか。玉柱屋姫命は天日別命の子とされ、天日別命は渡会氏の祖先であり、渡会氏は磯部氏とされる。伊射波登美命も伊雑宮神職の磯部氏の祖先ともいわれるから、それからいえば磯部氏の神であり、伊射波登美命が天照以前に祀られていても不思議ではないし、さらにいえば伊射波登美命が出雲神族の神であるとすれば、伊雑宮は最初伊射波登美命を祀っていたとも考えられるわけである。どちらにしても、玉柱屋姫命と伊射波登美命が天照以前に祭神とされていた時期があったことから、中世・近世に伊射波登美命・玉柱屋姫命が祭神として支持されたのではないだろうか。
 佐美長神社では大歳神と猿田彦の関係が問題になる。もし、『倭姫命世紀』のいうように大歳神が猿田彦のことであるとすると、何故後の世にはそれが別々の神になっていったのであろうか。また、神乎多乃御子神との関係を考えると、神乎多乃御子神=猿田彦大神とするには無理がある。御子神というからには誰かの子供ということであろう。しかし、猿田彦大神は誰かの子供とはされていないし、大神とは言われても御子神とは言われないであろう。それに対して大歳神の方は、『倭姫命世紀』の穂落伝承では朝熊河の葦原の中の石に坐す神で、小朝熊ノ山嶺ノ社を造って祀ったのが大歳神であるとしており、出雲の神の子、吉雲建子命(一名伊勢都彦神、櫛玉命)の子となっていて、御子神ということになる。そうすると、神乎多乃御子神=大歳神ということになる。それに『倭姫命世紀』は強引に猿田彦を割り込ませようとしたのかもしれない。神乎多乃御子神=大歳神とすると、大歳神は出雲神の子なのであるから、神乎多乃御子神も出雲神となり、佐美長神社は平安初期には出雲神を祀っていた神社ということになるし、伊勢都(津)彦を出雲神族とする出雲神族の立場からは、佐美長神社は出雲神族の神を祀る神社ということになる。猿田彦は宇治土公氏の祖神であり、宇治土公氏も磯部氏であったから、『倭姫命世紀』は出雲神を祀る佐美長神社にも磯部・海人族の神を押し込もうとしたともいえるわけである。佐美長神社神社も鼓ヶ岳・斎宮と西北45度線をつくっている。

  佐美長神社―鼓ヶ岳(E0.380km、1.72度)―斎宮公園記号(E0.457km、1.02度)の西北45度線

 伊雑宮・佐美長神社それぞれの祭神には問題があったが、これまでのところ伊雑宮と佐美長神社神社の関係を紛らわせるものがあるとすれば、伊射波登美命を出雲神族の神とする場合だけといえるであろう。出雲神族の伝承では伊射波登美命は伊勢津彦の子であったから、伊勢都彦の子の大歳神と伊射波登美命は同じ神ともみなせるからである。ただ、伊射波登美命を伊雑宮神職の磯部氏の祖先とする立場からはそのような紛らわしさは生じない。ところで、『倭姫命世紀』は出雲神族の立場を支持している可能性がある。『日本の神々 6』では『倭姫命世紀』の穂落伝承で大歳神は佐美長神社に祀ったと書いているように記述しているが、もしかしたらそれは間違っているかもしれないのである。『倭姫命世紀』では、真名鶴を大歳神と称したという記述のすぐ後には「同シ処ニ〇宛奉ル也」と書かれている。〇の部分の漢字についてはそのすぐ後に「祝宛」という言葉が出てくるので、同じ字なのかしれないが、少し違うようにも思え、自分の能力ではまったく判断できないのであるが、意味としては真名鶴を大歳神と称して同じ処に祀ったということなのではないだろうか。では何処と同じかといえば、その前には伊射波登美命の神宮を造って皇大神宮の摂宮としたのが伊雑宮であるといっているのであるから、伊雑宮ということになる。もし、大歳神が伊射波登美命と同じ伊雑宮に祀られたとするなら、それは暗に大歳神と伊射波登美命が同神と言ってるとも解釈できる。やはり、伊射波登美命は出雲神族の神で、伊雑宮は最初は伊射波登美命を祀っていたと考えるべきなのではないだろうか。
 では、大歳神と伊射波登美命が同神で出雲神族の神であり、伊射波登美命が伊雑宮では最初祀られていたとすれば、伊雑宮と佐美長神社の関係はどうなるのであろうか。まず、『倭姫命世紀』では大歳神と伊射波登美命は同神で、伊雑宮は元々伊射波登美命が祀られたということだけをいっているのだとするなら、近くにある伊雑宮と佐美長神社神社でどうして同じ神を祀るようになったのかという問題は生じるが、佐美長神社でも大歳神を祀っていたという可能性は排除できない。その場合、最初は大歳神あるいは伊射波登美命として同じ神名で祀られていたのか、また伊雑宮の方が先に祀っていたのか、逆に最初は佐美長神社で祀られていたのかという問題も生じる。この場合、伊雑宮で先に祀られたのか佐美長神社で先に祀られたのかという問題と、伊射波登美命という名が先か大歳神という名が先かという問題とは連動しているように思われる。大歳神というのは穀物神・正月にやってくる神・祖霊といわれ、それは一般名で伊射波登美命というのは固有名であろう。出雲神族の神を考える場合、大和朝廷からの弾圧という要素を考慮しなければならない。そうすると、伊射波登美命という固有名が先にあり、伊射波登美命のいう名を出せないということから、大歳神といった一般名が使われるようになったと考えるべきであろう。また、伊雑宮で伊射波登美命の祭祀が出来なくなったとすれば、それは出雲神族への弾圧と考えられるし、出雲神族への弾圧を考えた場合、その土地の出雲神族の神社で最も有力な神社こそ狙われるであろうから、佐美長神社神社より伊雑宮の方が出雲神族にとって重要な神社であり、それは伊雑宮の方が古くから伊射波登美命を祀る神社だったからと考えられるわけである。そのより古く重要だった伊雑宮から佐美長神社神社へ神拝が行なわれたとすれば、それは出雲神族の神の祭祀を弾圧により止めた伊雑宮としても、出雲神族の神を鎮めるために今や出雲神族の神を祀る神社として残った佐美長神社に神拝する必要を感じたということであろう。大歳神については『古事記』では須佐之男命の子とされている。そうすると伊勢都(津)彦は須佐之男ということになり、出雲神族では須佐之男を出雲神族とみなしていることになるが、それはあり得ない話であろう。出雲神族が自分たちの神を弾圧をさけるためにスサノオに結びつけることはあるかもしれないが、スサノオを出雲神族としたり、本当にスサノオの子である神を出雲神族の神とすることはあり得ないであろう。どういう理由で大歳神という神の名が出てきたのかわからないが、佐美長神社の大歳神は須佐之男命の子ではなく、伊射波登美命が大歳神の名で祀られたと考えるべきである。

 伊雑宮・佐美長神社が出雲神族の神社だったとすれば、佐美長神社の猿田彦についても考え直さなければならないかもしれない。猿田彦については二通りの考え方ができる。一つは、猿田彦神社でも椿大神社でも猿田彦は岐神ともされていた。そうすると、伊射波登美命が大歳神とされたように、本来は岐神であったものが、『倭姫命世紀』では猿田彦に置き換えられているとも考えられるわけである。そうすると、出雲神族的にいえば佐美長神社はクナトノ大神を祀る神社で、岐神=猿田彦から猿田彦が佐美長神社と結びつけられたとも考えられるわけである。出雲神族にとって佐美長神社は伊雑宮より重要な神社だったということになり、この場合も伊雑宮から佐美長神社への遥拝ということもあり得る話になるわけである。しかし、そうすると伊雑宮より佐美長神社が天照を祀る神社として選ばれるだろうということにもなる。また、佐美長神社では猿田彦ではなく大歳神こそが主祭神とされたのかも問題になってくるが、それは佐美長神社としてもクナトノ大神隠しをしなければならなかったということから、伊射波登美命を大歳神として前面に出したということであろう。佐美長神社にクナトノ大神が祀られているにもかかわらず、佐美長神社に天照が祭られなかったのは、さすがにそこまでは出来なかったということだったのかもしれない。しかしそれはまた、出雲神族への弾圧といっても、それはそれ程強いものでもなかったということだったのかもしれないわけであり、そうなら何も出雲神族の神を祀る神社に天照を祭るより、新たに天照を祭る神社を造営してもよかったのではないかともいえる。中途半端な軋轢を作り出すよりは、その方が政策上より上策なのではないだろうか。あるいは、伊雑宮こそが本来のクナトノ大神を祀る神社だったのかもしれない。しかし伊雑宮でのクナトノ大神祭祀が弾圧されたので、佐美長神社で隠れるように祀るようになったと考えることもできる。『倭姫命世紀』で伊雑宮に伊射波登美命が復活したのも、本来ならクナトノ大神が復活する話であるが、さすがにそこまでは出来ずに、伊射波登美命の復活となったのかもしれない。渡会行忠としても、別に出雲神族の神を復活させようとして『倭姫命世紀』を書いたわけではなく、外宮と渡会氏の内宮に対する優位性を主張するために出雲神族の神も利用しようとしただけであろうから、クナトノ大神を復活させることまでしなくてもよかったであろう。ただ、匂わすことぐらい必要と考えたのが、大歳神を猿田彦大神とすることだったのかもしれない。
 佐美長神社の猿田彦についてのもう一つの考え方は、猿田彦も磯部・海人族が伊勢で古くから祀っていた常世神で太陽神と考えることである。ウィキペディア(佐美長神社)によると、佐美長神社が東向きということについて、東にある伊雑ノ浦を意識したという説があるという。また、飯井高宮・飯井高社であるが、筑紫申真『日本の神話』によれば伊雑浦のほとりに飯浜(いいはま)という所があり、天照大神が笠縫から伊勢に遷幸の際、ここに着いて浜辺で御飯を炊いて食事した所と伝えられ、機織祠があり、そこは倭姫命が天照を奉戴して上陸した地点で、三年間、神衣を織って天照に奉った旧跡であるという。佐美長神社の鎮座地は標高10m程度の丘の上にあるというから、飯井高宮・飯井高社は飯浜に対する高台という意味かもしれない。また、神楽殿が殿地と古殿地の中間付近の東側の位置にあるということは、神楽殿=伊雑浦=飯浜とも解釈できる。飯浜に上陸したのは倭姫命に奉戴された天照であるが、それは海から上陸したということであるから、猿田彦が海から来る常世の神であり太陽神とするなら、天照と猿田彦はまったく同じ性格の神といえる。飯浜に天照が着いたということは、もともとはそこは常世の神が海の彼方らか寄り来る場所であったということであろうし、猿田彦が海から来る常世神であり太陽神であるとすれば、飯井高社の祭神が猿田彦大神であっても不思議ではないわけである。ウィキペディア(佐美長神社)によると、「佐美長神社の神体は岩石であり、岩石に付着した海の藻と思しき物が潮の干満に合わせて上下し、常世不変の神であることを示す」という口伝があるという。

 佐美長神社あるいは伊雑宮の海から寄り来る神を考える場合、それは出雲神族とは関係ない話で、磯部・海人族とのみ結びつく話なのかどうかも考えなければならない。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、陰暦の十月に出雲大社では、富村雄が西郷軍に身を投じて出雲神族の直系が大社から退いて以来、今日まで断絶しているが、神職が前もって神議(かむばか)りの行なわれる仮宮(現在の上宮)で潔斎し、稲佐の浜に出て世間では「竜蛇さん」と呼ばれるウミヘビが寄ってくるのを待つ仮宮神事が行われていたという。竜蛇さんが到着すると、六角の曲げもの(三方)に海藻をしいて乗せ、注連縄をはって、大社の神殿に納めた。またこれも断絶してしまったが、竜蛇さんが到達すると、富家から御幣をかかげて馬に乗った使者が、出雲一円の末社を巡って「竜蛇さまのご到着」を告げ、その最後の打ち止めとして、使者は馬を海中に乗り入れて、大ワタツミの宮(竜宮)へ通じる裏門があると伝えられている稲佐の浜の弁天島(浜の弁天)まで行き、御弊をたてて竜神様の無事ご到着を報告したという。江戸時代までは仮宮神事に引き続いて神迎の神事が行われた。なお、出雲大社で出している竜蛇神軸には竜蛇神について何も説明していないが、以前は竜神様のお使いだとか、ワタツミの神のお使いだとか書かれていたという。
 出雲神族の間では出雲大社などのように竜蛇神とはいわず、竜神さまと呼んでいるというが、出雲神族にとって竜神とは海の彼方から寄り来る神だったことが分かる。そして、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、富氏の話として出雲神族では祖国を高天原と呼び、遠い海の彼方だと伝えているという。そうすると、海の彼方からやってくる竜神とは、遠い海の彼方の祖国である高天原からやってくるということなのであろう。そして、磯部・海人族以前の伊雑宮・佐美長神社でも出雲大社の仮宮神事と同じような、海の彼方のからやってくる竜神を迎える神事が行われていたことが考えられる。それはまた、飛島には大蛇がいて一年に一度神崎に渡って来る、という話しにつながっていくのかもしれない。竜神と太陽との結びつきであるが、世界的にはエジプトの太陽神ホルスが蛇と結びついているように、竜神と太陽との結びつきが見られる。出雲神族とされる伊勢に津彦にも太陽的性格があった。伊雑宮・佐美長神社で出雲神族が海の彼方から寄り来る竜神を迎えていたとすると、その竜神が太陽とも結びつく神であった可能性もあるわけである。

 『日本書紀』の神功皇后の条に、伊勢の五十鈴宮に居る撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)、幡荻穂出吾也尾田吾田節之淡郡(はたすすきほにいでしあれやおたのあたふしのあわのこおり)に居る稚日女(わかひるめ)という二神が出てくる。『日本の神話』で筑紫申真氏は、これは伊雑宮の神の七世紀後半ごろの名前が稚日女であると『日本書紀』が記しているのであり、稚日女の神は伊雑宮の神であり、それが九世紀はじめの『皇大神宮儀式帳』によれば、天照と玉柱屋姫に変っているという。稚日女は素戔嗚が天照に会いに高天原に行き、斎服殿に斑駒を逆剝ぎにして投げ込んだ時、神之御服を織っていて驚いて機から落ちて持っていた梭で体を傷つけて死んでしまったとされる神である。ウィキペディ(稚日女尊)によれば、神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも(生田神社では幼名と説明している)、妹神であるとも(和歌山県伊都郡かつらぎ町の丹生都比賣神社では、丹生都比賣大神の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神としている)、御子神とも言われているという。筑紫氏(『日本の神話』)は折口信夫の説に依拠しながら、伊雑宮の祭神の変化について説明している。常世の神や天つ神に仕える巫女(神妻)は、一口に八乙女と呼ばれるほど多数であったが、その筆頭の巫女が大孁女(おおひるめ)と呼ばれてもっとも権威があり、その他の巫女はみな稚日女と呼ばれていたという。そして、天照の前身は太陽神の第一の巫女の大孁女で、だから天照大神の名が確立する直前の七世紀末には、アマテラスは天照大孁女尊と尊称されたのであり、その名称は神妻がアマテラスに昇格してゆく過渡期の名称であった。筑紫氏は『日本書紀』においてプレ・皇大神宮の神はツキサカキの神、プレ・伊雑宮の神にワカヒルメという名称が与えられていたのはそういう事情からだったのであるという。そして、やがてアマテラスの神格が確立すると、大孁女と同じ性格のワカヒルメは、なりゆき上昇格してアマテラスになることができ、だから八世紀以後は、伊雑宮の神は天照を祭ることになった。しかし、アマテラスはもともと訪れてくる天つ神(男性神)の性格が濃厚だから、そのアマテラスのカミ妻として、稚日女の名称を転化させて玉柱屋姫という神格をたて、天照と並べて伊雑宮に祀ることになったであり、玉柱屋姫とはとりもなおさず稚日女そのものであり、神妻たる棚機つ女なのであるという。
 筑紫氏がいうように、玉柱屋姫が棚機つ女で神妻ということは、飯浜の伝承からもその可能性は高いのかもしれない。ただ、天つ神というより海から来る常世神の神妻であろう。プレ・プレ・皇大神宮は常世のミカであり淡島のカミで、プレ・皇大神宮は天つ神であったという筑紫氏(『日本の神話』)の区別からいえば、プレ・プレ・皇大神宮の神に対応する神ということになる。常世神であれ天つ神であれ玉柱屋姫が太陽神の神妻ということになると、伊雑宮にも八乙女ともいわれる複数の巫女がいたということになる。そうすると、その筆頭の大孁女とその他の稚日女がいたことになり、伊雑宮でも巫女の筆頭の大孁女がアマテラスになっていったと考えられることになる。すなわち、伊雑宮では稚日女が昇格して天照になったのではなく、最初からアマテラスが祭られたということであり、稚日女→天照→天照と玉柱屋姫という流れではなく、天照→天照と稚日女→天照と玉柱屋姫といういうことになる。しかしそうすると、今度は『日本書紀』が撞賢木厳之御魂天疎向津媛を内宮の神とし、稚日女を伊雑宮の神としているとすることの説明がつかなくなるのではないだろうか。伊雑宮でも、撞賢木厳之御魂天疎向津媛を祀っていたか、稚日女をそれと同格のプレ・アマテラス神としなければならないであろう。内宮でも伊雑宮でもプレ・アマテラスが祀られていたはずが、『日本書紀』では内宮だけがプレ・アマテラスの神とされ、伊雑宮では一段下の神格の稚日女とされている。そうすると、今度はもともと格下げするために稚日女としたのであるから、成行上稚日女が昇格して天照になるということもないのではないだろうか。伊雑宮の天照は伊雑宮の神が昇格したのではなく、内宮の天照を分祀したものということになり、伊雑宮の元々の神と似たような神かもしれないが、外から来た神ということになる。
 また、稚日女は伊雑宮の神ではなく、佐美長神社の神なのではないだろうか。筑紫氏が『日本書紀』で幡荻穂出吾也尾田吾田節之淡郡に居るとのみ記されている稚日女を伊雑宮の神とするのは、「吾」は正確にわからないがたぶん英虞の意味だろうといわれており、「田節」はあきらかに答志のことで、「尾田」らは伊雑宮のすぐ南がわの小地名で、伊雑宮の外宮にあたる佐美長神社の所在地の名であって、だから『延喜式』は佐美長神社の名を神呼多乃御子神社と書き記しているのだ(『日本の神話』)、ということがその根拠のようである。しかし、「尾田」が佐美長神社の所在地の地名なのだとすると、稚日女は佐美長神社に祭られているとしなければならないのではないだろうか。稚日女が天照の子とすると、神乎多乃御子とは稚日女と考えることもできる。しかしそうすると、佐美長神社では女性神は祀られていないことが問題になる。猿田彦を常世の神で太陽神とするなら、稚日女は猿田彦に変えられてしまったということであろう。それは伊雑宮の祭神が天照から伊射波登美命と玉柱屋姫に変えられた(考えられるようになった)事によって、男性神が加えられたことに関係しているのかもしれない。そうすると、稚日女=常世神であり、常世神は男性神なのであるから、どちらも元々の祭神に先祖返りしたということが考えられ、伊射波登美命は伊雑宮の元々の神ということになる。
 現在、稚日女は伊雑宮ではなく伊射波神社の祭神とされている。伊射波神社は伊射波登美命・玉柱屋姫命・稚日女尊・狭依姫命を祭神とするが、このうち狭依姫命は『公式ガイドブック 全国一の宮めぐり』によれば、宗像三女神のうちの市杵島姫命の別名で、近くの長藻地と言う島に祀られていたが、島が水没したので当社に合祀されたと言う(ウィキペディア 伊射波神社)。また、筑紫氏の言うように稚日女が玉柱屋姫命に変わったのではなく、別神として祀られている。ウィキペディア(稚日女尊)によると、「尾田」は三重県鳥羽市の加布良古の古名で、「吾田節」は後の答志郡、「淡郡」は(粟嶋= 安楽島)で、幡荻穂出吾也尾田吾田節之淡郡に居る稚日女の鎮座地は三重県鳥羽市安楽島の伊射波神社に比定されているという。『日本書紀』の稚日女は伊雑宮・佐美長神社の神ではなく、伊射波神社の神だったかもしれないわけである。ただ、この稚日女を伊射波神社の祭神とすることにも問題がある。伊射波神社は元々現在地には無かったという説もあるからである。 『諸国一の宮』によれば、当社は稚日女尊を海の道から加布良古崎へ祭祀したのが起源で、志摩国の海上守護神として古代から崇敬されたと言うが(ウィキペディア 伊射波神社)、現在の伊射波神社の縁起では「伊佐波登美尊を祀った本宮は、安楽島町字二地の贄にありました。昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、その全貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査報告』に報告されています。遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した復々合遺跡で、おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用同鏃(矢じり)、神水を得るため欅の巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたことから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な『賛持つ神』であったことの証と云えましょう。」(http://engishiki.org/shima/bun/sm090101-02.html)となっており、伊射波神社本宮の衰退と共に、安楽島町字二地の贄から加布良古崎の伊射波神社に遷座したという立場をとっているようである。昔から二地の贄から遷座したという伝承があったのか、贄遺跡が発掘されてそのような説をとるようになったのか分からないが、贄遺跡の場所を示す地図がのっているホームページが在った(http://www.kirari1000.com/www.kirari1000.com.base_data.base_data.phpQkirari_cd=03975.html)。それを見ると、ニ地浦のエクシブ鳥羽本館の敷地の弁天崎の付け根附近一帯のようである。元々の伊射波神社の鎮座地を二地の贄とすると、伊射波神社は加布良古に在ったわけではなく、したがって「尾田」とも結びつかず、『日本書紀』の稚日女は伊射波神社の神ではないということになるわけである。
 字二地の贄の旧鎮座地とされる場所は、伊雑宮とはかろうじて東北60度の方向線をつくるといえるが、佐美長神社はいえないようである。それよりも、鼓ヶ岳と東西線をつくることが注目されるかもしれない。神島とも東北45度線をつくっている。

  二地の贄遺跡附近―伊雑宮東西正殿の中央付近(W0.461km、2.61度)―佐美長神社(W0.595km、3.15度)の東北60度線
  二地の贄遺跡附近―朝熊山金剛證寺(N0.011km、0.08度)―鼓ヶ岳355.1m三角点(N0.131km、0.51度)の東西線
  神島170.7m三角点―二地の贄遺跡附近(W0.364km、1.43度)の東北45度線

 伊射波神社は元々加布良古神社と称し、『日本の神々 6』の伊射波神社の項によれば、建久三年(1192)の『皇大神宮年中行事』に「悪志。赤崎。加布良古明神」と記されているといい、『外宮旧神楽歌』にも「志摩国知久利が浜におわします悪止(あくし)・赤崎(あかさき)・悪止九所のみまえには、あまたの船こそ浮んだれ、艫には赤崎のり玉う。舳には大明神(加布良古神)のり玉う。」とみえ、古くから阿久志神社、赤崎神社(外宮末社)とともに有名な神社であったことがわかるという。外間守善氏は安楽島のアラは沖縄の海辺の聖域としてのアラに通じているというが、赤崎のアカもまた沖縄の海辺の聖域としてのアカなのかもしれない。また、赤崎神社の祭神が荒崎姫命で加布良古崎にある加布良古明神は古くは荒前神社と呼ばれたとすれば、それらのアラサキは、沖縄では海や神とかかわりをもっている地名や海に突き出た岬をアラサキと呼んでいたということと結びつくわけである。悪止は赤崎神社の対岸に安久志があるが、沖縄の海辺の聖域にアハ(ha)、アフ(hu)があることを考えると、アカ(ka)に対するアク(ku)なのではないだろうか。「悪志。赤崎。加布良古明神」とは、海の彼方から来る神を迎える聖地ということになる。伊射波神社は御座の岩とは西北30度線をつくっていたと考えられ、その先に興玉石があった可能性もある。また、興玉の森の東西線上に赤崎神社・伊射波神社があり、興玉の森で東に礼拝していたとすれば、赤崎神社・伊射波神社あるいはそこに海の彼方から来る神に礼拝していたということにもなるわけである。

  伊射波神社―神前神社真北岩礁(W0.037km、0.28度)の西北30度線
  宇治山田神社―赤崎神社(N0.297km、1.59度)―伊射波神社(N0.451km、1.94度)の東西線
  
 吉田大洋氏の『出雲帝国の謎』に、伊雑宮の裏山にあるという謎の磐座の写真があり、気になっていたのであるが、伊雑宮の入口の前の道路を少し北に行った所にある倭姫命の旧跡地に行って、その形からそこの天井石ということが分かった。天井石の前に賽銭箱があり、天井石のすぐ後ろには鏡楠の残根がある。御師の家で貰った「伊雑宮周辺散策マップ」によると大正十二年に枯死した鏡楠の根元から室町時代の白銅鏡二面などが出土しており、志摩市歴史民俗資料館に保管されているという。大楠は切り倒されたという話もあるらしい。その時天井石が出現し、その下に銅鏡や勾玉なども出てきたという(https://hikari-message.com/5956.html)。案内板は読んでいるのであるが、そこに何と書かれていたかは忘れてしまった。ただ、御師の家で貰ったレジメに気になる箇所があった。「5.ヤマトヒメ伝説とナゾ」のなかに、「真鶴と稲穂、大楠と石棺」とあって、続いて「大正12年の出来事ときびしい口封じ、豊川稲荷表門扉、神田記念碑、鏡、鉾、勾玉はどこえ」とあったのであるが、枯死なのか切り倒されたのかでは、その意味するところはだいぶ違いがあるであろう。あるいは、枯死したので切り倒したということなのかもしれないが、ともかくその際にその出土品も加えて厳しい口封じがなされるような出来事があったらしい。また、鏡は志摩市歴史民俗資料館に在るといことであるが、勾玉については地元の人にもその所在が分からないということなのかもしれない。天井石については石棺の天井石ということなのであろうか。「4.ヤマトヒメ巡行80年(倭姫世紀)」の中に「ヤマトヒメ93才 どこでお亡くなりになったの」とあるが、御師の家森新の森和夫氏は倭姫命は磯部で亡くなった可能性を言いたいのかもしれない。ここが倭姫命の旧跡地とされるのは、直ぐ北の秋葉社と庚申碑が祀られているお堂の西側に千田の御池といわれる場所があるからであろう。「伊雑宮周辺散策マップ」には千田の地名は『倭姫命世紀』の稲穂落としから稲作発祥の地として伝承されてきたというが、ただ近年では千田の池の名前は明治十年(1877)に焼失した無量山千田寺の寺号から来ているという説もあるという。大林太良『私の一宮巡詣記』によると、曽我部一紅編『鳥羽誌』に「御供田は恵利原字宮地(神宮司庁付属地)に在り。もと上之郷の千田の池附近に在り。」とあるというが、あるいは御供田が在ったことから千田という地名が生じたということなのかもしれない。グーグルマップでは天井石のある場所が倭姫命の遺跡、千田の御池のある場所が倭姫命の旧跡地となっていて紛らわしいが、それぞれを倭姫命の旧跡地(天井石)、倭姫命の旧跡地(千田の御池)と記すと、倭姫命の旧跡地(天井石)からの東北45度線が、伊雑宮の御正殿の社殿地を通る。

  倭姫命の旧跡地(天井石)―伊雑宮東西正殿の中間付近(W0.009km、2.76度)の東北45度線

 倭姫命の旧跡地へ行く手前で左折し、とば道といせ道の分岐点で右折してとば道を進むと、上之郷の石神というのがある。そのすぐ南側に旧村社の谷社跡があり、「伊雑宮周辺散策マップ」によれば、白木・横山とともに志摩の三大石神と呼ばれていたという。かなり広い範囲に岩が散らばっており、その幾つかには注連縄が張られている。また、その側の木にも注連縄が張られており、木と岩の組み合わせとなっている。木の前に岩が在るようにも見え、あるいは上之郷の石神といいながら神木の方が重要だった可能性もある。鏡楠と天井石も木と岩の組み合わせだったのかもしれない。伊雑宮の佐美長神社礼拝場の石組もその中央軸上に小さいが立石があり、その真後ろにこれもまたまだ幹が細いものの木が立っているが、それも木と石の組み合わせのようにも見える。グーグルマップの上之郷の石神の印が実際には上之郷の石神のどの辺りかわからないが、その印と伊雑宮の正殿が南北線をつくり、倭姫命の旧跡地遺跡(天井石)と西北45度線、佐美長神社と東北60度線をつくる。少なくとも、伊雑宮正殿からの南北線、鏡楠・天井石からの西北45度線、佐美長神社からの東北60度線上に上之郷の石神が在るという言い方はできるであろう。

  上之郷の石神の印―伊雑宮東西正殿の中央付近(W0.006km、1.28度)の南北線
  上之郷の石神の印―倭姫命の旧跡地遺跡(天井石)(E0.003km、0.93度)の西北45度線
  上之郷の石神の印―佐美長神社(E0.004km、0.24度)の東北60度線

 佐美長神社であるが、天の岩戸と西北45度線をつくっている。天の岩戸は神路川の源の洞窟の所であり、その洞窟は筑紫申真『日本の神話』によれば、皇大神宮の裏まで通じているといわれているという。また、天の岩戸は古くからの滝祭窟(たきまつりのいわや)とも呼ばれ、水神の誕生するところで雨乞いの聖地であり、付近には高天原という地名もあり、天狗が住むといって恐れられているという。天狗が住む恐ろしい所ということからすると、天照の住む高天原というよりは、出雲神族系の高天原ということなのかもしれない。天の岩戸と青峰山が東西線をつくる。方位線ではないが、伊雑宮の西北方向に鸚鵡岩というのがある。鸚鵡岩からの西北45度線が御料田やそ元々の御料田があったというその横の広場を通るということはいえるであろう。御師で貰ったレジメには、「馬がもの云うた内宮の馬が、もとの磯部に帰りたい」とともに「岩がもの云うた オオムの岩がだれが云わせたヤマトヒメ」という同じおみた踊り込み唄が載っていたが、鸚鵡岩は地元では倭姫命と関係づけられているのかもしれない。天の岩戸・鸚鵡岩は伊雑宮・佐美長神社と鼓ヶ岳・斎宮跡との西北45度線上に在るわけである。方向線ではあるが、鸚鵡岩と青峰山も東北45度線をつくる。鸚鵡岩は神島とも東北45度線をつくるということであり、鸚鵡岩の東北45度線は青峰山・神島それぞれをからの東北45度線の間を通っている。

  佐美長神社―天の岩戸(W0.016km、0.18度)西北45度線
  青峰山336.2m三角点―天の岩戸(S0.087km、0.90度)の東西線
  伊雑宮西正殿―鸚鵡岩最上段真ん中附近(W0.060km、2.49度)の西北45度線
  鸚鵡岩最上段真ん中附近―青峰山336.2m三角点(E0.152km、2.63度)―神島170.7m三角点(W0.460km、0.95度)の東北45度線

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六芒星と五十鈴フトマニ・クシロ

 内宮の参道に皇室の菊花紋や六芒星が刻まれた石灯籠がある。ただ、平成19年度伊勢市第1回経営戦略会議で、東海地震等の発生が危惧されており、安全性の確保の観点等から現在のものを撤去し、新たな灯ろうを設置することが適当であると決定され、最近それは撤去されつつあるようである(https://ameblo.jp/hex-6/entry-10726769320.html)。篠原央憲『天皇家とユダヤ人』によると、一番上の菊花紋と一番下の六芒星の真ん中の、あかり窓の部分に彫られている紋様がヘロデ王の紋であることを指摘したのは川瀬勇氏で、川瀬氏はその他に高松塚古墳の木棺の飾り金具中央がヘロデ王の紋であることも指摘しているという。ヘロデ王の紋というと少し誤解が生じやすいが、正確にはエルサレムの市壁に在るヘロデ門に掲げられている紋、ヘロデ門の紋というべきであろう。ヘロデ門というのは、その近くにヘロデ王の息子ヘロデ=アンティパスの家があったことに由来するらしい(https://kotobank.jp/word/ヘロデ門-676033)。市壁は何度も破壊され、現存する旧市街の市壁は、オスマン・トルコのスレイマン一世によって1538年に建造されたものである。ただ、黄金の門が六世紀、他の門が十六世紀の再建時かその後に造られたものであるのに対して、ヘロデ門はウィキペディア(エルサレム旧市街)では建設時期が不明となっている。あるいは実際にヘロデ王の頃まで遡る可能性も否定できないが、後世のものかもしれないわけである。黄金の門の隣にあるライオン門は、ウィキペディア(エルサレム旧市街)によればスレイマン一世の時に造られたとなっているが、ムー別冊『秘密組織だけが知っている超古代史の真実』に乗っている写真を見ると、その門にも菊花紋があり、十八弁にもみえる。ライオン門の紋はその建造年代からいって、オスマン・トコがわざわざユダヤに配慮したというなら別であるが、ユダヤとは結びつかないと考えるべきであろう。ヘロデ門の紋もユダヤとは結びつかないかもしれないわけである。ヘロデ門の紋は菊花紋と同じ十六弁であるが、真ん中の円形が大きい。同じような紋は古代中近東一帯にみられ、紀元前30世紀前後の、ロータスの皿とも呼ばれるエジプトの王族の墓に納められていた金の皿には、菊花紋に酷似したデザインが用いられていて、太陽の象徴とも考えられているという(http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=77)。エルサレムの門に在る紋章がユダヤと結びつくかどうか分からないが、菊花紋が古代イスラエルにもあったということは、紀元前8〜6世紀頃のものと見られる、王の娘マアダナとあるハープが刻まれたタブレットでは、ハープの中に十花弁菊花弁が描かれているし、紀元前後とみられる石製の骨箱にはギンバイカの葉やブドウなどと一緒に十二弁菊花弁が刻まれたものがあり、紀元1〜2世紀の頃制作されたと思われる七枝の燭台であるメノーラ台にも十六花弁菊花紋が刻まれていることからいえるであろう(ムー別冊『秘密組織だけが知っている超古代史の真実』)。
 ウィキペディア(菊花紋章)によると、観賞用のキクは奈良時代に中国大陸より伝えられ、高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子とされたたが、『万葉集』には詠まれておらず、『古今和歌集』、『源氏物語』などから登場するという。鎌倉時代には、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用し、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに32弁の八重菊紋である十六葉八重表菊が皇室の紋として定着したという。高松塚古墳の飾り金具のヘロデ門の紋が菊の花と結びつけられていたとは考えられないということになるが、皇族につながるような人にも重視された紋であり、デザイン的にはそのヘロデ門の紋が現在の十六弁の菊花紋へと変化していったということなのであろう。高松塚古墳の飾り金具のヘロデ門の紋は菊とは結びつけられていなかったかもしれないが、花とは結びつけられていた可能性はある。ヘロデ門はアラビア語名バーブアルザーヒレで「花の門」という意味であるという(https://kotobank.jp/word/ヘロデ門-676033)が、それはその紋章からきているとも考えられるわけである。もしそうなら、その紋を花の紋としていた民族がいたということであり、それはトルコ民族なのかもしれない。その場合は、彼等が花の紋としていたので、そのままアラビア語で「花の門」といわれたのであろう。花の紋として日本に来たのであるが、その後菊が中国から伝えられ、君子と結びつく花とされたことから、その花の紋は菊の紋とされていったのかもしれない。そうすると、日本にヘロデ門の紋があることから、日本とユダヤが結びつけられるのではなく、日本とその紋を花と結びつけていた民族との関係を考えるべきかもしれないわけである。
 吉田大洋『謎の出雲帝国』に載っている、岡山県邑久郡須恵で発掘された陶棺に浮き彫りされた「十六弁菊花紋」は、真ん中の円が大きく、明らかにヘロデ門の紋とそっくりである。吉田大洋氏は、岡山県で発掘された陶棺の紋について、多くの紋章研究者はこれを「蓮華紋」であると言うが、当時はまだ仏教が伝来していないのでそれはおかしいという。そして、「菊花紋」の流れを追跡すると、朝鮮、中国、マレーシア、インドネシア、インド、そしてメソポタミアへと到達し、現在でも、マレーシアの王家や、インド、インドネシアの貴族は菊花紋を用いているという。「菊花紋」は、バビロニアにおいて、天の神または太陽神のシンボルであり、ペルシャやインドなどにおいても同じであるという。また、吉田氏は「菊花紋」は牛をトーテムとする牛族と結びつくといい、牛族は太陽神を奉じ、その象徴として旭日紋(菊花紋)・木瓜紋・十字紋などを用いたのに対し、竜蛇族は亀甲紋・巴紋・三引竜紋を用いた。そのうちの亀甲紋はエジプトやシュメールに見られるので、その他風葬や拝火の風習が残ることなどから、吉田大洋氏は出雲神族をシュメールに結びつけるわけである。また、岡山県邑久郡須恵の「十六弁菊花紋」は吉備が牛族の国であったことを示しており、須恵村から出てきた陶棺をヒボコ族の吉備氏のものとする。そうすると、高松塚古墳に葬られている者はヒボコ系あるいは吉備氏系の人物だった可能性もある。吉田氏は舒明天皇は息長足曰広額天皇といわれるように完全にヒボコ系の天皇であり、その兄弟の茅渟王と吉備姫の間に生まれたのが皇極天皇と孝徳天皇であり、舒明天皇が百済川の百済の地の百済宮で百済式の葬儀を行ったのは、蘇我氏の意向に従うしかなかったからだという。皇族の中にヒボコ系がいてもおかしくないということになるわけである。

 篠原央憲氏はその石灯籠が気になって、内宮の社務所で聞いてみると、灯籠のことは神宮奉讃会の方で聞いて下さいということだったという。篠原氏が奉讃会に電話してみると、灯籠のことはそれを作った西宮市の石材工業会社の方なら知っているということだった。それで篠原氏はその会社の社長に話を伺うと、質問に知っている限りのことは答えてくれたといい、その話によると、灯籠を作るにあたっては当時の神宮庁長官二荒(ふたら)伯爵と、やはり当時の奉讃会会長の森岡善照氏という実業家の指示に従ったということで、灯籠に菊の紋章を入れることは当然のことと思ったが、二荒長官と森岡会長はあかり窓のひまわりの紋(ヘロデ王の紋)を必ず入れるように強く主張したといい、さらに台座にカゴメ紋を彫り入れることになったという。神宮奉賛会は正式には伊勢三宮奉賛献灯会というらしいが(https://ameblo.jp/hex-6/entry-10726769320.html)、それに神宮庁の長官が関わっていたとすると、内宮とまったく無関係というわけでもなかったということになる。石材工業の社長は灯籠に三つの紋を入れることはくどすぎる気がしたので、菊のご紋一つにだけにすることを提案したが、二人はどうしてもその二つの紋を入れなければならないと言い張ったといい、社長がその理由を聞くと、カゴメ紋については、それが伊勢神宮の奥宮の伊雑の宮のご紋であるとの説明は受けたが、ヘロデ王の紋については何の説明もされず、とにかくこの紋を入れなければならない、の一点ばりであったという。二荒長官と森岡会長が正直に答えていたとするなら、伊雑宮と六芒星が結びつくことになる。おそらく、二荒長官と森岡会長はこのぐらいは教えなければ収まらないし、教えてもいいだろうと思ったと考えていいのではないだろうか。伊勢三宮奉賛献灯会というなら、伊雑宮の神紋があってもおかしくないであろう。伊雑宮が六芒星と結びつくということは、籠神社の奥宮の真名井神社の前にかつて六芒星が彫られた石碑が立っていたように、伊雑宮も出雲神族と結びついているとも考えられるわけである。
 内宮の参道の灯籠の場合、インターネットで探してもハッキリ写っているものがなく、篠原央憲氏の本の写真も不明瞭で、その真ん中の円の大きさについてはよく分からない。ただ、同じものと思われる石灯籠が伊雑宮近くにも在り、石柱の下部には「伊勢参宮奉賛献燈会」とあるという。その写真(https://mintun.exblog.jp/20264491/)を見ると中央の円が大きいようにみも見えるが、微妙である。一応、普通の十六弁菊花紋とは別ということなのであろうから、ヘロデ門の紋といっていのかもしれない。写真の載っているホームページによれば、鳥居の斜向いの神武参剣道場にその石灯籠はあり、霊能者でもあった道場主の小泉太子(志?)命(こいずみたいしめい)氏がそもそも神宮の内宮と外宮をつなぐ御幸道路に灯籠を設置するため、寄付者探しに尽力したらしい。「伊雑宮の神紋は花菱と六芒 星である」が持論で、六芒星は、伊勢三宮奉賛献燈会のシンボルでもあり、伊雑宮、内宮、外宮を「太陽、星、月」と崇めるのが、「三宮」と付けた団体名の由来であるという。江戸時代の伊勢三宮説では伊雑宮こそが日神(天照大神)を祀る真の大神宮であり、外宮は月神(月読命)、内宮は星神(瓊々杵尊)を祀っているとされていたようであるから(https://bangaifudasho.exblog.jp/28838272/)、小泉太志命氏は江戸時代の伊勢三宮説に立脚していたわけであり、伊雑宮の立場に立っての石灯籠だったということになる。ホームページ「玄松子の記憶」を見ると、花菱を神紋とする神社としては内宮・外宮とともに伊雑宮の神紋も花菱となっている。小泉太志命氏は花菱だけではなく、六芒星も伊雑宮の神紋だとしているわけである。六芒星ではないが、亀甲紋と花菱紋の組み合わせは、「三つ盛亀甲に剣花角」の厳島神社神紋にみられる(ウィキペディア 花菱)。吉田大洋氏(『謎の出雲帝国』)によれば、インドにおける紋章の変化の過程をみると、円型の八弁菊花から菱形の八弁菊花、さらに割り菱への移行も少なくなく、花菱=割り菱としてもいいという。菱紋自体もあり、それは古代オリエントの楔形文字・日神ウトゥからうまれたものであるという。そして菊花の原型である絵文字の十六光は、星や星の神を象徴するものであったが、それが楔形文字で八光さらには十字と簡略化される間に太陽神を意味するものとなっていったという。花菱紋はこの十字と日神ウトゥを表す菱形楔文字を合成したものが原型となったもので、太陽神を象徴するといえる。吉田大洋氏は神武天皇を牛族ではなく鳥をトーテを表すムとする一族とみているようであるが、太陽神を祖神とするということでは内宮の神紋に花菱は相応しいわけである。一方、もともとの十六光が星神を象徴していたとするなら、天照を祖神とする皇室の紋が十六弁菊花紋ということは、内宮を星に当て嵌めることにも根拠がないわけではないということになる。もっとも伊雑宮にそのようなメソポタミアでも古い思想が江戸時代にまで伝わっていたとすれば興味深い話になるし、伊雑宮は太一信仰との結びつきも深いが、外宮は月と結びつけるしかなかったであろうし、伊雑宮を日神と結びつけることが主眼なのであるから、内宮には残る星を結び付けるしかなかったともいえる。小泉太志命氏が伊雑宮の神紋を花菱と六芒星とするとき、言いたかったことは伊雑宮と六芒星の結びつきだったということであろう。単なる内宮とユダヤを結び付ける発想から出たものではないということにもなる。ただ、そうすると明かり窓のヘロデ門の紋が何を意味するのかが謎となる。また、伊雑宮の六芒星を出雲神族と結びつけていたのかどうかもわからない。三宮奉賛献燈会には六芒星をめぐっても様々な思惑を持った人間が参加していたかもしれないし、その中には日ユ同祖論者もいたかもしれないし、小泉太志命氏もその一人だった可能性もあるのであろう。神武参剣道場の敷地内に天之八衢神社が祀られており、小泉太志命の奥津城だったところも天之八衢神社となっている。その神紋は六角形なのであるが、磐座は五角形となっているので(http://www.tttm-ameno-yachimata33.org/yuisyo/index.html#main-top)、六芒星にそんなにこだわってもいなかったようにもみえるが、天之八衢神社という神社名も気になる。最初その神社を地図で発見した時には、伊雑宮のすぐ近くにクナトノ大神を祀る神社があったと思ったのだが、一応祭神は天之八衢神らいしが、出雲神族の八衢比古すなわちクナトノ大神とは違うらしい。もっとも、間接的に天之八衢神という神名でクナトノ大神を伊雑宮の傍らに出したということも考えられる。
 内宮参道の石灯籠の六芒星が伊雑宮の神紋であるという話はだいぶいかがわしい話だったわけであるが、籠神社奥宮の真名井神社と六芒星が結びついているなら、共に出雲神族と関係する神社ということから、伊雑宮と六芒星が結びついていても不思議ではないともいえる。実は、『倭姫命世紀』の豊耜入姫命・倭姫命の巡幸地に伊雑宮を加えて、その一番外側の点を結ぶと六角形になる。そして吉佐宮の籠神社も伊雑宮ものその点の一つで、六角形の対極点の組の一つとなっている。すなわち、その六角形から六芒星をつくると、上向きの三角形の頂点が籠神社で、下向きの三角形の頂点が伊雑宮ともいえるわけである。もちろん、そのような対は紀伊国の奈久佐浜宮と尾張国の中嶋宮、吉備国の名方浜宮と美濃国の伊久良河宮についてもいえるが、この六芒星の中で籠神社と伊雑宮は対となっているともいえるわけである。

 豊耜入姫命・倭姫命の巡幸地が作る六角形は伊雑宮・籠神社と結びつくわけであるが、内宮とも結びつく可能性がある。『神々の黙示録』で金井南龍氏は、皇家神道でいうと、神懸りの最高峰は豊耜入姫と倭姫で、天照の御杖代となって伊勢の五十鈴フトマニ・クシロを築いたという。豊耜入姫と倭姫は天照大神を奉じて二九ヶ所の霊的拠点を結び、五〇の三角形をつくったが、伊勢の五十鈴とはそれに由来し、不思議なことに二九の点を線で結ぶと必ず五〇の三角形ができ、それは一つの結界で、その中にいる限り天皇家は安泰であった。しかし、明治維新のときせっかく倭姫が築いたフトマニ・クシロの磐境外である、いわば神のエネルギーの及ばぬ東京へ天皇は出てしまった。その遷都の日に、そよ風ひとつないのに伊勢神宮の大杉が数本、根本からバリバリと倒れてしまったという。もっとも、『古事記』に日本の国号といて「豊葦原之千秋長五百秋之瑞穂国」とあるが「千秋長五百秋」とは一五〇〇年という意味で、崇神垂仁朝はおおよそ四世紀頃ではないかということになっているが、そうするとちょうど明治維新の頃には、もう皇家の五十鈴フトマニ・クシロのエネルギーというのは、ほとんど喪失していた、だから外へ出てしまったんだとも言えるという。
 金井南龍氏は不思議なことに二九の点を線で結ぶと必ず五〇の三角形が出来るというが、そうなるためには一つの条件が必要であり、その条件とは外形が六角形でなければならないということである。これは、オイラーの多面体定理から簡単に導き出すことができる。オイラーの多面体定理とは、頂点の数(V)−辺の数(E)+面の数(F)=2というものである。この場合の三角形の数50というのは、一番外側の面を数えていないので、面の数を51とするか、右辺の数字を1とする必要がある。すなわち、29−E+50=1ということになり、E=78となる。三角形は3つの辺をもつので、三角形がバラバラに在るなら、辺の数は150となる。しかし、ここでは三角形はバラバラではなく、接している。その場合、二つの辺が重なって一つの辺になっているということになる。そして、外側の面と接していない辺は総て重なっており、外側の面と接している辺のみが重なっていない。外側の形をN角形とすると、2(E−N)+N=150となって、156−N=150からN=6となり、外側の形が六角形でなければならないということになるわけである。そうすると、伊勢の五十鈴フトマニ・クシロとは六角形フトマニ・クシロということにもなり、内宮が五十鈴川の川上の地とされることは、五十鈴に結びつけられているということにもなり、その五十鈴には六角形が秘められているともいえるわけである。豊耜入姫と倭姫が作り出した六角形はいびつなものであるが、その六角形は理念的には正六角形ということになるであろうし、すなわち亀甲紋ということで、内宮も亀甲紋と結びついているということにもなり、しいては六芒星と結びついているということにもなる。そして、その六角形が出雲神族と結びつくことを、籠神社の奥宮である眞名井神社と伊雑宮が象徴的に示しているのかもしれない。
 金井南龍氏は点の結び方で天津金木のヒナ型と天津菅麻のヒナ型があるといい、皇家神道にのみ特有のものではなく、役の小角の築いた修験道五十鈴のフトマニ・クシロ等も存在するという。フトマニ・クシロとは簡単にいうと、フトマニとは神さまの公理・神理で、クシロというのはフトマニの展開、神さまの定理、神理の媒体、フトマニを宇宙、大地、大自然の法則と捉えれば、クシロは天地宇宙の運行エネルギーであるという。それはまた道ということで、神様にとってそれは決まりきった公理の道であり、神様は光の道以外にはお通りにならないという。「厳密にいえば、五十鈴フトマニ・クシロによる磐境と言ってもいいが、生徒が生徒の道、人間の道から外れたことをした場合は、先生の守備範囲外、クシロの外のことになるから、先生には関係ない。反対に、教えを守りその守備範囲内での出来事なら、先生は生徒に代って全責任をとる。この守備範囲のクシロを、神道では磐境と言うんです。」ということらしい。
 ただ、この金井南龍氏の五十鈴フトマニ・クシロには問題がある。豊耜入姫と倭姫の巡幸であげられるのは笠縫村から内宮までで26ヶ所しかないのである。といって、そのことをもって金井南龍氏の説を否定することもできない。豊耜入姫と倭姫の回った場所は『倭姫命世紀』が一番多いが、『倭姫命世紀』でも総てを挙げているとはかぎらないわけで、金井南龍氏は修行で身につけた霊能力で残りの場所も知ったということもありえるわけである。金井南龍氏の本では二十九ヶ所が具体的に挙げられているわけではない。では残りの三ヶ所はどこなのであろうか。本には天津金木のヒナ型と天津菅麻のヒナ型の図が載っており、そこには二十九ヶ所の点があるが、正確な場所を示しているとはいえないであろう。ただ、その図でも確実に言えると思えるのは、残りの三ヶ所は尾張から伊勢に入ってからの話だということと、志摩に一ヶ所あるがそれは伊雑宮だろうということである。残りは二ヵ所ということになるが、図では桑名野代宮から津市以北までの間に五ヶ所、松阪市以南に九ヶ所印されている。そのうち、まず問題なのは佐佐牟江宮は明和町山大淀あたりとされるが、その場所には何もなく、櫛田川河口付近に一ヶ所、宮川河口附近すなわち伊蘓宮想定地とされる伊勢市磯町付近に一ヶ所印しがあり、さらに五十鈴川河口付近にも一ヶ所印しがあることである。そして、櫛田川河口付近の地点は、佐佐牟江宮に比定されている明和町山大淀の竹佐々夫江神社といっても、あるいは飯野高宮に比定されている松阪市山添町の神山神社と言っても、誤差のうちといえるのである。もしそれが、飯野高宮のこととすると、それ以降の滝原宮、伊雑宮を入れて『倭姫命世紀』に記載されているのは九ヶ所であるから、未定の二ヵ所は津市以北にあるということになる。また、それが佐佐牟江宮だとすると、一ヶ所は五十鈴川河口付近、もう一ヶ所は津市以北ということになる。
 五十鈴川河口付近とすると、その場所で倭姫命が五十鈴フトマニ・クシロを形成するための呪術あるいは儀礼行為を行った可能性はあるであろう。筑紫申真『日本の神話』によれば、二見の浦一帯の五十鈴川口は清渚と呼ばれて、常世の神=興玉の寄りくる聖地であったし、江戸時代のはじめにつくられたとみられる『伊勢二社三宮図』では、五十鈴川の河口の海面(神崎や夫婦岩の沖合)が太陽神の最初の誕生地(日輪最初降臨之地)であることを標記しているという。また、五十鈴川河口付近には江神社があり、大江寺があったが、『皇大神宮年中行事』の御占のときに神の来臨を求める呪文の歌は、「あはりや、弓筈と申さぬ朝座に、天つ神国つ神降りましませ。あはりや、弓筈と申さぬ朝座に、鳴る雷も降りましませ。あはりや、弓筈と申さぬ朝座に、上つ大江下つ大江も参りたまへ。」というもので、ここでの大江の神とは二見の海岸から誘導してきた興玉の神に他ならなかったという。興玉の神とは猿田彦のこととされ、猿田彦は太陽神とされた。また、江神社の祭神は天須波留女(あめのすばるめ)の娘の長口女であり、天須波留女とは昴星のことであり、すばる星とは棚機つ女がその首にかけている首飾り玉なのだと古来から考えられており、長口女とは棚機つ女であり、神崎・二見の浦・夫婦岩の海岸は神まつりの女性によって常世の神を迎え、これをまつる聖地であったことが分かるという。江神社・神前神社付近は太陽神と結びつく場所であり、また五十鈴川を遡って行くにあたって最初の上陸地点であり、いよいよそこから五十鈴川を遡って行くのであるから、倭姫命の巡幸においても重要な意味を持つ場所であることは確かであろう。
 五十鈴川河口付近として、その場所は具体的に何処なのかということが問題になるが、それとは別にもう一つの問題がある。尾張国の中嶋宮と五十鈴川河口と伊雑宮の位置関係が微妙で、その場所によっては外形の六角形が崩れてしまう可能性があるのである。伊雑宮の南北線は神前岬の灯台あたりを通り、五十鈴川河口付近はその西側に在る。それに対して、中嶋宮の比定地には一宮市今伊勢町の酒見神社 、一宮市佐千原の坂手神社、一宮市萩原町中島の中嶋宮、一宮市大宮の斎神社、一宮市桜の浜神明社、清須市一場の御園神明社(https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=3180326&id=50765004)、一宮市佐千原の式内社坂手神社脇の「七坪の塚」(http://akon.sakura.ne.jp/owari/nakagu.html)などがあるようであるが、その中で一番西側にあるのは一宮市萩原町中島の中嶋宮で、中嶋宮もまた伊雑宮の南北線の西側に位置している。中嶋宮と伊雑宮を結ぶ線から五十鈴川河口付近が内側にあるかどうか検討しなければならないわけである。中嶋宮と伊雑宮を結ぶ直線は神前神社真北岩礁近くではあるが一応100メートルほど東側を通る。もともとの比定地は一宮市萩原町字丸宮にあった丸宮神明社というところで、天照大神を祭神とし、倭姫が伊勢国に出立のとき大きな白張り提灯をつけて送ったとの口伝があったといい(http://akon.sakura.ne.jp/owari/nakagu.html)、大正時代に丸宮神明社はじめ五社が八剱社に合祀され、戦後丸宮神明社の故事が失われることを恐れて八剱社を中嶋宮に改名したという(http://akon.sakura.ne.jp/owari/nakagu.html)。地図をみると、中嶋宮が字丸宮の東北隅にあるので、丸宮神明社は中嶋宮からみれば西側になるかもしれないが、字丸宮の広さからいって離れても200メートルぐらいではないかと思われるので、伊雑宮と結ぶ直線が神前神社真北岩礁の東側を通ることにはかわりがないといえる。そうすると、神前神社真北岩礁より西側に五十鈴川河口付近の一ヶ所があるとすれば、辛うじて外形の六角形は成立するといえそうである。

 では五十鈴川河口付近の何処かということになるが、実は天津金木のヒナ型と天津菅麻のヒナ型の図をさらに検討すると、五十鈴川河口付近という線は消えそうなのである。もし、五十鈴川河口付近に一ヶ所あったとすると、その場合、津市以北の五ヶ所のうち一番南が山添町の神山神社に比定されている飯野高宮ということになるが、山添町は伊勢市磯町のほぼ西にあり、津市以北とする図はいくら大雑把とはいえ北すぎることになってしまう。そうすると、未定の二ヵ所は津市以北の五ヶ所の中にあると考えた方がいいということになる。そのうちの一ヶ所は、桑名野代宮と奈其波志忍山宮に比定されている亀山市上野の忍山神社の中間の海岸よりの所に記されている場所であろう。そうすると、阿佐加乃藤方片樋宮は津市藤方森目の加良比乃神社に比定されているから海に近い場所であり、もう一つの場所は五ヶ所のうちの一番南の、内陸部に位置する場所ということになる。『倭姫命世紀』でその場所に近いところを探すと、松阪市北部になってしまうが、阿坂山がある。他にそれらしい場所も出てこないので、阿坂山・阿射加神社を有力候補地としていいであろう。
 『倭姫命世紀』における阿坂山・阿射加神社の話とは、「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に伊豆速布留神がいて通行の邪魔をするので、その心を和ませるために山上に神社を造営し、大若子命に祈らせたというものであり、同書の一書では、美濃国から安濃の藤方片樋宮まで来たとき、安佐賀の山に、百人往けば五十人殺し、四十人往けば二十人殺すという荒ぶる神がいて、倭姫命は五十鈴川上の宮に進むことができなかった。それで、倭姫命は中臣大鹿嶋命・伊勢大若子命・忌部玉櫛命を天皇のところに遣わすと、天皇は、その国は大若子命の祖先の天日別命の平げし所の山であり、大若子命はその神を祭り平らげ、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよといって、種々の弊を賜った。それで大若子命は社を安佐駕に定めてその神を祭り、倭姫命は五十鈴川上の宮に入ることが出来たというものである。ウィキペディア(阿射加神社)によれば、『皇太神宮儀式帳』では倭姫命が藤方片樋宮において天照大神を奉斎していた時に、垂仁天皇の使者である阿倍大稲彦命が阿佐鹿悪神を平定したとなっているという。現在阿射加神社は松阪市小阿坂町と大阿坂町にあり、両阿射加神社とも祭神を猿田彦神・伊豆速布留神としているが、当初は阿坂山上に鎮座していたとされる。延喜式では阿射加神社三座とあり、祭神が三座とされていることについては、出口延経が、当地は『古事記』に猿田彦神が溺れたと伝える伊勢国阿邪訶の地であり、その時に化生した猿田彦神の三つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が当社祭神の三座であると『神名帳考証』で唱え、本居宣長もこの説を『古事記伝』でとって以来、上述の「荒振る神」の様態と、「記紀」の天孫降臨段に記す猿田彦神のそれが重なり合うことから、当社祭神三座を猿田彦神の三つの御魂と見るのが有力な説となっているという。一方、現在の祭神は猿田毘古大神一柱で、伊豆速布留神が当社の祭神・猿田毘古大神のことであるともいわれているらしい(https://genbu.net/data/ise/azaka2_title.htm)。
 阿坂山の話は、『皇太神宮儀式帳』では何か武力制圧のような話になっているが、『倭姫命世紀』では伊豆速布留神を祀ることによって鎮まってもらうという霊的な話になっている。どちらにしても、阿坂山の悪神である伊豆速布留神は倭姫命が五十鈴川上の宮に入るための大きな障壁であり、五十鈴フトマニ・クシロを作り上げることが出来るかどうか鍵となる場所の斎祀権を握ったというということなのであるから、そういう意味では、五十鈴フトマニ・クシロを形成するための二十九ヶ所の一つとみなせるのではないだろうか。阿射加神社の祭神は猿田毘古大神であるが、椿大神社と阿坂山が南北線をつくり、阿坂山と興玉の森が西北30度線をつくっている。方位線的にみると、阿坂山は北伊勢の猿田彦と南伊勢の猿田彦を結ぶ方位線の結節点になっているわけである。

  桝形山(阿坂山)312.32m三角点―椿大神社御船磐座(W0.170km、0.24度)の南北線
  桝形山(阿坂山)312.32m三角点―宇治山田神社(E0.528km、1.06度)の西北30度線
  
 猿田彦が比良夫貝に手をはさまれて溺れ死にした阿邪訶の海と阿坂山が関係するとすると、阿坂山の猿田彦について少し考えなければならないかもしれない。猿田彦が海で溺れ死んだというのは唐突な話であろう。そこには何か、死ななければならない、あるいは死なせなければならない事情があったことを窺わせる話である。そして、阿射加神社の猿田彦は悪神とされる伊豆速布留神と同じともみなされており、また、阿坂山は天日別命の伊勢平定とも関連付けて語られている。天日別命に追討された伊勢津彦は出雲神族ともいわれていた。そうすると、阿坂山は元々は出雲神族と関係する場所だったのかもしれないし、伊豆速布留神は出雲神族の神だったのかしれないわけである。阿坂山の猿田彦は岐神とされる猿田彦で、実はクナトノ大神が猿田彦に変えられてしまっているのかもしれない。方位線としては少し幅が大きすぎるのであるが、阿坂山と籠神社の奥宮の真名井神社の関係が気になる。もし、西北45度線が成立するとすれば、丹後と伊勢の出雲神族を結ぶ方位線なのかもしれない。もしそうなら、阿坂山は伊雑宮の神体山といわれる青峰山とも西北30度線をつくっており、阿坂山は六角形の対極点になっている籠神社と伊雑宮を方位線で結ぶ結節点になっているともいえるわけである。

  真名井神社―桝形山(阿坂山)312.32m三角点(E2.764km、1.00度)の西北45度線
  桝形山(阿坂山)312.32m三角点―青峰山336.2m三角点(W0.850km、1.24度)の西北30度線
 
 桑名野代宮と奈其波志忍山宮の間の場所であるが、山本行隆『椿大神社二千年史』に載っている豊鋤入姫命・倭姫命御巡歴の経路一覧では、笠縫邑から伊雑宮までの二十八ヶ所になっていて、桑名野代宮と奈其波志忍山宮の間に石大神が入っている。倭姫命が桑名の多度野代の地に到着されたとき、猿田彦大神の神孫の一族である太田命が出迎え、現在の椿大神社の土地に到着され、その地の巨石石大神のところを流れる御幣川のほとりに小憩された。その場所で倭姫命によって御弊川の鮎を直ちに天照大神に奉献せよといわれたことが、神宮の御贄の神事の始まりとされており、さらに大倭姫命の体を通して石大神に天照大神のミタマが影向されたと、椿大神社の古文献に記録されているという。二十九ヶ所の残る一ヶ所の候補地として石大神が浮かんでくるが、金井南龍氏の本に載る図では、海岸に近い場所となっており、石大神では海からだいぶ離れているのが問題になる。椿大神社も皇大神宮が創建された一年後の垂仁天皇二十七年八月(十月と記している個所もある)に、倭姫命の御神託で奉斎されたというから、同年に創建されたという伊雑宮が入っているなら、椿大神社も入っていてもおかしくないともいえるが、椿大神社も海からは離れている。石大神は奈其波志忍山宮に比定されている、亀山市野村の忍山神社と南北線をつくる。忍山神社は入道ヶ岳とも南北線をつくり、猿田彦を祭神としている。石大神は椿大神社御船磐座と東北30度線をつくっていたが、御船磐座は桑名野代宮に比定されている桑名市多度町下野代の野志里(のじり)神社と東北45度線をつくっている。この東北45度線上を、太田命は倭姫を桑名野代宮から椿大神社まで案内したということになるわけである。

  忍山神社―石大神(W0.269km、1.40度)―入道ヶ岳905.6m三角点(W0.277km、1.20度)の南北線
  野志里神社―椿大神社御船磐座(E0.245km、0.57度)の東北45度線

 石大神以外にも、『椿大神社二千年史』では、石大神から「倭姫命はさらに御幣川を下り、鈴鹿川のほとり河曲鈴鹿高宮、小山宮へ立ち寄られた(現亀山市内)。次いで中勢嬉野、飯野高宮、さらに滝原宮へ、次いで志摩国の伊雑宮へ、そして伊勢国渡会の五十鈴川の川上を永遠の鎮座地に定められ」ともある。中勢嬉野とは、阿坂山の西側が嬉野町であるから、阿坂山を意味していると考えるべきであろう。椿大神社を中心とした方位線網の各所が椿大神社の倭姫の経路として出てくるのだといえる。河曲鈴鹿高宮と小山宮であるが、鈴鹿川のほとりというのであるから、忍山神社は鈴鹿川の近くにあり、どちらかが忍山神社で奈其波志忍山宮ということなのかもしれない。そしてもう一つの宮が、のこる一ヶ所ということも考えられる。ただ、残る一ヶ所がどちらにしても、両宮とも亀山市内に在ったとすると、やはり海からは遠いし、桑名野代宮と奈其波志忍山宮の中間という位置にも合わない。河曲鈴鹿高宮の河曲に注目するなら、亀山のある鈴鹿郡の海側が河曲郡であり、河曲鈴鹿高宮の河曲が河曲郡、鈴鹿が例えば鈴鹿川を意味するとすれば、河曲鈴鹿高宮は忍山神社より鈴鹿川の下流で海に近く、そして鈴鹿川は亀山から東北に流れているのであるから桑名野代宮と奈其波志忍山宮の中間にも位置する場所に在ったとも考えられる。この場合、山が付くことから小山宮が忍山宮とすることもできるであろう。では、河曲鈴鹿高宮は鈴鹿川下流の何処かといえば、あるいは延喜式に川曲郡とされる都波岐神社なのかもしれない。もしそうなら、入道ヶ岳の方位・方向線上に小山宮と河曲鈴鹿高宮があったということにもなる。椿大神社には『倭姫命世紀』には無い伝承があるということなのかもしれない。

 椿大神社の伝承では太田命が倭姫命を桑名野代宮まで迎えにいっているのであるが、『倭姫命世紀』では渡会氏の祖先の大若子命が出迎えたことになっている。方位線的にいうと、椿大神社の伝承には無視できないものがあったわけであるが、この方位線は大若子命とまったく無関係というわけでもない。椿大神社と阿坂山が南北線をつくり、阿坂山と興玉の森が西北30度線をつくるとしたが、興玉の森と外宮神体山の高倉山も西北30度線をつくっていたし、阿坂山と高倉山も西北30度線をつくっている。野志里神社は椿大神社を介して外宮の渡会氏に結びつくわけである。そして、忍山神社も高倉山と西北60度線をつくる。これらの方位線は、椿大神社を介して野志里神社と高倉山を結び付けているわけであるが、椿大神社を媒介としない方位線でも、野志里神社は外宮と結びついている。野志里神社は佐佐牟江宮に比定されている竹佐々夫江神社と南北線をつくっているのであるが、竹佐々夫江神社は外宮と西北60度線をつくっているのである。そして、今度は竹佐々夫江神社が猿田彦を祭神とする、飯野高宮に比定される神山神社と東北30度線をつくっている。神山神社は内宮神体山の鼓ヶ岳と西北30度線をつくっている。忍山神社も鼓ヶ岳と西北60度線をつくっているのであるが、高倉山との方が正確な方位線となっている。それは阿坂山にもいえ、阿坂山は内宮ともぎりぎり西北30度線をつくるのであるが、これも高倉山の方が正確な方位線となつている。ただ、倭姫の物語としては、正確さには劣るとしても、内宮との方位線をこそ重視すべきなのかもしれない。猿田彦を祭神とする阿射加神社(阿坂山)、忍山神社、神山神社が内宮と方位線で結ばれているということでもあるから、そこには内宮と猿田彦が絡みあっているということであろう。しかし阿坂山は外宮の渡会氏と同じ天日別命を祖先とする大若子命と関係することを考えると、その点からも阿坂山と高倉山との方位線も無視できないであろうし、内宮と猿田彦、さらに外宮が絡み合って倭姫命の巡幸の物語はできあがっているのかもしれない。それにさらに、出雲神族が絡んでいる可能性もあるわけである。

  桝形山(阿坂山)312.32m三角点―高倉山117m標高点(E0.439km、0.99度)の西北30度線
  忍山神社―高倉山117m標高点(E0.015km、0.02度)の西北60度線
  野志里神社―竹佐々夫江神社(E0.356km、0.33度)のと南北線
  竹佐々夫江神社―外宮新旧正殿中間付近(W0.074km、0.43度)の西北60度線
  神山神社―竹佐々夫江神社(W0.170km、1.14度)の東北30度線
  鼓ヶ岳355.1m三角点―神山神社(E0.062km、0.24度)の西北30度線
  忍山神社―鼓ヶ岳355.1m三角点(W0.522km、0.59度)の西北60度線
  桝形山(阿坂山)312.32m三角点―内宮新旧正殿中間付近(W0.932km、1.84度)の西北30度線
 
 阿佐加乃藤方樋宮に比定されている津市藤方森目の加良比乃神社、竹佐々夫江神社、伊蘓宮に比定されている伊勢市磯町の磯神社は相互に西北45度線をつくっている。もっとも、磯神社は宮川の氾濫で鎮座地を変えているということであるから、旧鎮座地は竹佐々夫江神社とは方位線をつくっていなかったことも考えられるが、加良比乃神社とはかなりの確率で方位線がいえると思う。一本の西北45度線上に、三社が鎮座していると考えていいであろう。この西北45度線上には佐々牟江宮とともに倭姫命が定めたという明和町大字大淀の竹大與杼神社も位置している。海岸線に沿って西北45度線にならぶ加良比乃神社・竹佐々夫江神社・磯神社であるが、加良比乃神社が初期の斎宮と西北60度線をつくっていたと考えられる。竹佐々夫江神社と神山神社の東北30度線も微妙ではあるが、初期の斎宮と関係しているかもしれない。神山神社と初期斎宮が方位線ではないが東北30度線の方向線をつくっている。竹佐々夫江神社と斎宮は方位・方向線をつくらないが、竹佐々夫江神社と神山神社の東北30度線上に初期の斎宮があるともいえるわけである。残る磯神社であるが、磯神社については、鳥越憲三郎氏がいう内宮に遷る以前には斎宮の磯宮が伊勢神宮だっという磯宮との関係が気になる。磯神社と斎宮は方位線をつくらないが、磯神社は三輪山の東西線上に位置している。大きな目で見れば、三輪山の東西線上に斎宮・磯神社が並んでいるともいえ、三輪山と神島の東西線上の海岸に磯神社があるともいえるわけである。もともとの三輪山を中心とする東の常世から太陽神がやってくるという東西軸では、三輪山―磯神社―神島であったものが、伊勢における天照斎祀が課題となり、斎宮が造られると、磯神社に対応する神社として、斎宮内に天照を祭る磯宮が造られたのかもしれない。三輪山―斎宮―磯神社という東西線も考えられるが、神山神社も三輪山の東西線上に位置しており、磯神社と神山神社は方向線としても微妙なのであるが、三輪山―斎宮―磯神社よりは、 三輪山―神山神社―磯神社のほうが、より正確な東西線とはなっている。あるいは、三輪山―神山神社―磯神社に対する檜原神社―斎宮という東西線ということなのかもしれないが、斎宮と三輪山の東西線も考えられるとすれば、やはり大きな目で見れば、三輪山―斎宮―磯神社という東西線を考えてもいいであろう。

  加良比乃神社(E0.141km、0.44度)―竹佐々夫江神社―磯神社(W0.232km、1.94度)の西北45度線
  加良比乃神社―磯神社(W0.373km、0.84度)の西北45度線
  竹佐々夫江神社(W0.017km、1.46度)―竹大與杼神社―磯神社(W0.249km、2.30度)の西北45度線
  神山神社(W0.165km、2.37度)―斎宮公園記号―竹佐々夫江神社(W0.335km、4.23度)の東北30度線
  斎宮公園記号―加良比乃神社(W0.109km、0.34度)の西北60度線
  磯神社―斎宮公園記号(S2.478km、16.35度)―三輪山466.9m三角点(S1.708km、1.29度)の東西線
  磯神社(S0.619km、2.96度)―神山神社―三輪山466.9m三角点(N1.089km、0.97度)の東西線

 金井南龍氏の五十鈴フトマニ・クシロは六角形と結びつき、さらには六芒星とも結びつくともいえるが、それにはもう一つ問題がある。スピリチュアリズム的にみとる、金井南龍氏には疑問符が付くところがあるのである。「ワケミタマに応じた自分の使命を自覚して、自己完成した者…高天原へ直行して永遠の存在になれるんです。といっても、まぁ、こんな直行組は、一世紀に、五、六人も出ればいいところですナ。たいがいの人間は死ねば霊界おくりです。」「これは、神と魔王の契約なんです。地球の主である魔王とその配下の者たちは、人間が死んで四九日たつと、魂の中枢であるワケミタマをくりぬいて、料理して食べる――神とのそういう約束になっているんです。」「もう魂をくりぬかれて霊界へ破棄されてしまえば、神といえども、もう一度菊座を与えることはできないんでね、この世に生まれかわるなんてことは金輪際ないわけだ。輪廻転生なんていうのは、真っ赤な嘘です。」というような言葉を読むと、スピリチュアリズムとはだいぶ違うなと思ってしまう。確かにシルバーバーチ霊の霊媒のモーリス・バーバネルも、最初の頃はシルバーバーチの言葉を語るときには再生を語るのであるが、自分に戻ると再生を否定していたという。しかし、それは死後の世界において多くの人間がゴミのように捨てられるということではないし、誰もが永遠の存在として霊界において霊性進化の道を歩むのであって、その際一度体験した地上の生活を何度もする必要はないということなのである。また、「それで、今度の主役はキリストとユダじゃないんですね。キリストと母のミタマになるわけです。今度の立替え立直しは。」「今度は裏切りはないんですか?」「協力です。男と女でケンカはできません。メシアと不即不離の一心同体で、男と女と発動の仕方がわかれているだけです。」「サロメは私みたいな、キリストの前衛のヨハネを殺す役目なんです。」「結局、キリスト教は父神教なんです。母神を出しておりません。」「まぁね、女性を象徴化して、純粋晶化の止揚究極である母のミタマを表現するとなると、これは今までの諸宗教や神話にも、まだ顕現されておりませんので、また、そのワケミタマもまだ現れてませんので、その表現方法に正直なところハタと困ってしまうんですが、私の竜宮五十鈴神業が終わってからですよ。この母のミタマのお出ましは、救世主の出現以上に難問中の難問なんです。」といっているが、「母のミタマ」の強調については『ベールの彼方の生活』でも、これからは女性原理の時代であると言っており、スピリチュアリズム的にも頷けるところがあるのだが、何かこれからの人類に救世主の出現が必要だという考えは、シルバーバーチはこれからの人類にはイエスのような存在は必要ないといっており、金井南龍氏がイエスは救世主といえるような存在ではないと看做しているなら別であるが、その救世主待望論的な考えには否定的にならざるをえないのである。また、これから現れる救世主はイエスよりはるかに霊格の高い存在だとするなら、スピリチュアリズム的にはイエスは数億年に一度入れ替えがあるという地球の最高審議会の一員であり、また今度の地球の霊的浄化の最高責任者はイエスであることを考えると、イエス以上に霊格の高い霊は当然宇宙には存在しているであろうけれど、そのような霊が出てくる必要はないであろう。もっとも、金井南龍氏の言うことには間違いがあったとしても、氏の言うことの全てが間違いということにはならないし、五十鈴フトマニ・クシロについては真理が含まれているということはありえるわけである。ただその場合、五十鈴フトマニ・クシロの意味を考えることは必要かもしれない。それは単に、天皇を護る結界で、その外の東京に天皇が出ていったというだけのものではなく、そこにはもっと深い意味が含まれている可能性もあるかもしれないわけである。自分としては、六角形の中に天皇がいる、あるいは伊勢神宮があるということは、亀甲紋の中に菊花紋があるようなもので、それが真に象徴していることは天孫族と国津神系の和合の象徴にもなりえるのではないかということである。もっとも、「世界の人類が、それぞれ個に徹し、自分の好きなことをやる、自分の本然の魂、つまり神からわけてもらったワケミタマの欲するところを行う、しかもそれが全体の調和に結びつく、そういう世界、これは神国共産主義と言えるじゃないでしょうかねえ。」という 金井南龍氏の言葉からいえば、小さいことを問題にしているということにもなる。ただ、問題は神のワケミタマ、スピリチュアリズム的にいえば神の分霊としての個我が欲するものは何かということであり、それは個々人によって違いがあるものではなく、根源的には霊性進化ということであり、意識的には他者への奉仕、人の役にたつということである。各人が自己の霊性を進化させる方法は、他者への奉仕、他者に役立つ行為をすることしかないというのが、シルバーバーチの教えであった。各人に違いがあるとすれば、それを実践する主体としての各人はそれぞれ別の主体だということであり、その人間に代わってその人間の霊格を上げることは誰もできないし、それができるのは本人だけであり、そして、神さえもそれを冒そうとはしない、各人に与えられた自由意志の中で、すなわち邪悪霊といわれるような存在になっていく可能性もある中で、いかに他者への奉仕、人の役にたつことを行っていくかということになるわけである。結局、各人が自己の霊性を進化させ、その積み重ねとして人類の霊性が底上げされていくことによって、これからの人類の未来は切り開かれていくのである。

 六芒星にまつわる話には、注意して接しなければならないのかもしれない。『光への道 ――ホワイト・イーグルの霊示――』の後書きで、翻訳者の桑原啓善氏は、シルバーバーチのシンボルマークはダビデの星であり、ホワイト・イーグルは鷹であると記している。ダビデの星とは六芒星のことである。しかし、その後書き全体を読むと、単純にその話に飛びつくことはできないと感じた。その後書きで、「一九九二年からは、オリオン座から地球に侵入したサタンとの闘いに入りました。」と書いている。おそらくそのような言葉に接すると、少なからずのスピリチュアリストが桑原氏に対し、腰が引けてしまうであろう。地球ではなく他の天体に再生していく人間も少数ではあるが存在しているといわれる。そのことを考えると、オリオン座のどこかの天体の低級霊・未熟霊(それは邪悪霊といってもいいような場合もあるかもしれない)が地球にその活動の場を移すということはあるかもしれない。しかし、たとえそれが邪悪霊であっても、スピリチュアリストならサタンというような言い方はしないと思うのである。せいぜい邪悪霊、もっと慎重な人なら低級霊・未熟霊というような言い方しかしないであろう。闘う相手をサタンと呼び、自分はあたかもそのサタンから地球を救うために選ばれた戦士であるかのように語る桑原氏には、逆に低級霊・未熟霊の影響を感じてしまうのである。「この闘いを通じて、バーチやイーグルの前世や使命についてのその一半を教えられました。」として、その続きの中でシルバーバーチとダビデの星の話が出てくる。では、誰に教えられたのかということが問題になるわけであり、その情報源について精査されなければ飛びつけない話ともいえるであろう。もしかしたら低級霊・未熟霊は何か混乱を生じさせるための道具として、六芒星を使うということがあるのかもしれないわけである。

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