常陸の方位線

海から依り来る神
宿魂石
常陸の星信仰と加波山
常陸と下野の香々背男
常陸の龍神

 

海から依り来る神

 東金砂山・西金砂山・真弓山・竪破山・花園山を常陸五山といい、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のとき参籠祈願した、慈覚大師が山王権現の分霊を勧請した、源頼義、義家が奥州下向のとき戦勝を祈願した、祭神が大己貴命(大物主神)である(竪破山の黒前神社の主神は黒坂命であるが、境内神に大己貴命を祀り、もとは大己貴命が主神であろうとも考えられる)、などが共通するという(http://homepage2.nifty.com/otagiri/dengakubunken/gozan/gozan.htm)。この常陸五山は方位線で結ばれている。東金砂神社と西金砂神社が東北30度線をつくり、真弓神社は東金砂神社と西北60度線、西金砂神社と西北45度線をつくる。東金砂神社は花園神社と東北60度線をつくり、西金砂神社と堅破山が東北30度線をつくる。なお西金砂神社と東金砂神社が東北30度線をつくり、西金砂神社と竪破山が東北30度線をつくるのであから、東金砂神社と竪破山の東北30度線も成立するとしたいが、微妙である。一応、竪破山からの東北30度線と西金砂神社からの東北30度線に挟まれて東金砂山山頂があるという位置関係から、竪破山と東金砂神社も東北30度線をつくり、竪破山・東金砂神社・西金砂神社が東北30度線上に並んでいると考えたい。

 なお、この五社が方位線で結ばれていることを、熊野や関東一宮の方法で、一番大きい竪破山と西金砂神社の偏角1.70をとって計算すると、危険率3.4%で、かろうじて危険率5%水準で有意ということになる。

  東金砂神社―西金砂神社(E0.025km、0.29度)の東北30度線
  東金砂神社―真弓神社(W0.107km、0.37度)の西北60度線
  西金砂神社―真弓神社(E0.407km、1.36度)の西北45度線
  東金砂神社―花園神社(W0.172km、0.41度)の東北60度線
  竪破山―東金砂山481m標高点(E0.265km、2.18度)―東金砂神社(E0.326km、2.69度)―西金砂神社(E0.351km、1.70度)の東北30度線

 西金砂神社は金砂本宮から遷座したとといわれるが、堅破山と西金砂神社が東北30度線に対して、堅破山と金砂本宮神社も東北45度線をつくるる。また、大同元年、高津山〔現在の東金砂山〕に東金砂神社神殿を創建するにあたり、その完成まで仮宮を立てて御神霊を祀ったことから本宮神社の名称がついたという常陸太田市天下野本丸の本宮神社の方位線をみると、西金砂神社の東北30度線上に東金砂神社があるのに対し、西金砂神社の東北45度線上に本宮神社がある。西金砂神社とその元宮の金砂本宮に対する竪破山の位置が、東金砂神社・本宮神社では西金砂神社ともいえるわけで、一種の入れ子状になっている。

  竪破山―金砂本宮神社(W0.006km、0.02度)の東北45度線
  西金砂神社―本宮神社(W0.016km、0.33度)の東北45度線
  
 堅破山と金砂神社の方位線では、金砂本宮神社との方位線が一番古いと考えられるわけであるが、金砂本宮神社は花園神社奥の院峰とも東北60度線をつくる。花園神社が先に在ったのか、奥の院が先なのかわからないが、花園神社の信仰はもともと奥の院峰あるいはその近くの七ツ滝への信仰だったのかもしれない。常陸五山の方位線の原型は金砂神社・竪破山・花園神社奥の院峰にあるとも考えられる。奥の院峰はインターネットでは標高700mと記すものや693mと記すものなどがあるが、詳しい案内図

http://www.city-kitaibaraki.jp/modules/sight/index.php?content_id=12)をみると七ツ滝の近くに標高700mの峰があり、奥の院峰はそこから50mほど北のところにある。

  金砂本宮神社―花園神社奥の院峰付近(W0.409km、0.72度)の東北60度線

 常陸五山に共通するものとして浜降り祭、磯出もある。常陸国風土記に「古の人、常世の国といへるは、蓋し、疑ふらくは此の地ならむ」とあり、『ミロク信仰の研究』で宮田登氏は、常陸は古代人の意識裡に常世国という理想郷化されたイメージがなされる所であったとする。また、常陸・房総の太平洋沿岸にかけて漂着神伝説が多いことは松本信広氏の『日本の神話』で立証されているとするが、海らか依り来る神とは、大和岩雄氏によれば、海の彼方にある常世からくる常世神であり、冬至に訪れる神でもあった。

 「華園山縁起」には、東金砂山、西金砂山、真弓山の三社は、四月八日水木浜に御行幸なるといい、花園山は花園川の下流の磯原の亀升磯に磯出をし、堅破山は高萩市の石瀧稲村浜へ御行幸があるという。東金砂神社・西金砂神社では七十二年ごとの未年に日立市水木浜への磯出大祭礼があった。金砂神社の浜降り祭の祭事は田楽鼻で行われ、この田楽鼻も西金砂神社の西北45度線、金砂本宮の西北30度線上にある。アワビ採り漁師の間に伝えられているところでは、田楽鼻の沖合い数百メートルの海中にあり、干潮にも姿を見せることはないゴンゲンイソに神が現われたという。神は三兄弟あるいは三姉妹ともいわれ、日立市の真弓山の神と東西の金砂の神はもともと兄弟(姉と弟)で、鮑(アワビ)の貝に乗って海上を旅し、最後に水木の浜(大島の磯)に上陸し、真弓山と東西の金砂の山を選んで鎮座されたという(http://www10.ocn.ne.jp/~yansaweb/kanasadengaku/document.1/kamigaarawareta.iso.htm)。金砂神社の磯出大祭礼の行列は、常陸太田市幡から岡田に向かう途中の十二丁田甫に差し掛かると、真弓山に向かって弓弦を鳴らす神事を行うが、『日本の神々 関東』によれば、これは真弓山の神を招く重要な神事で、真弓神社からの冬至日没方位に十二丁田甫があるという。

 ゴンゲンイソの正確な位置は分らないが、数百メートルといういいかたは2〜400mという感じであろうか。あるいは田楽鼻の周り沖合百メートル辺りのところに岩礁があるが、そのうちの一つか、あるいは干潮にも姿を見せないということは、それに続く場所にあるのかもしれない。とりあえず田楽鼻の東300m の地点をとると、金砂本宮神社と西北30度線、西金砂神社と西北45度線をつくる。谷川健一編『日本の神々 関東』の大和岩雄氏は、海からの漂着神と冬至の日の出方向との結びつきを強調しているが、さらにその方向は中国の思想が入ってくるにつれ巽の方向へと変わったといい、金砂神社の浜降り祭は水木浜で行われるが、水木浜は金砂本宮から冬至の日の出方向、西金砂神社からは巽の方向にあり、金砂本宮から西金砂神社への遷座はその変化の反映であるという。

  金砂本宮―田楽鼻22.3m三角点(W0.659km、1.81度)―田楽鼻東300m地点(W0.477km、1.29度)の西北30度線
  西金砂神社―田楽鼻22.3m三角点(E0.453km、1.13度)―田楽鼻東300m地点(E0.717km、1.77度)の西北45度線

 常陸五山の中で、東金砂神社・西金砂神社・真弓神社が水木浜への磯出に関係しているわけであるが、この三社は方位線で互いに結ばれていた。このうち偏角が一番大きいのは西金砂神社と真弓神社の西北45度線の1.36度であるが、この数字を使って前出の方法で計算すると、危険率4.03%でこれもかろうじて危険率5%水準で有意ということになる。この方法では、関係する神社が多ければ多いほど有意となる偏角が大きくなると思っていたのであるが、実際に計算すると必ずしもそうではないようである。3地点から6地点までを計算すると、危険率0.1%水準では確かに6地点の0.649度が最大になるのであるが、1%水準では1.194度の5地点の場合が最大になり、危険率5%水準では1.93度の4地点の場合が最大になるのである。本論では偏角2度以内を一応方位線、それ以上を方向線として区別していたわけであるが、甘く見ればほぼ妥当な線だったともいえるわけである(この結果からいえば、1.93度以内とするのが筋が通っているが、探知型の可能性なども考えると、もうすこし拡大して2度以内というのもありえるであろう)。


 インターネットの情報を綜合すると、花園神社もあわびを御神体としており、花園神社で7年に1回行われる「潮出祭」は天妃山までやって来て、その海水を汲んで帰ってゆくという。磯原の亀升磯とは、天妃山周辺の磯のことらしい。花園川は大北川に合流し、天妃山は大北川河口の北側にある。また、七つ滝は、花園神社奥の院の参道に沿って一ノ滝から七ノ滝まで7段あるのが滝名の由来であり、その4段目の滝壺は大変深く、磯原海岸の天妃山沖合にある亀磯までつながっているので、この滝つぼにはアワビが生息しているという伝説があり、また、四の瀧は滝壷の深さが知れず、その底は龍宮に通じているといわれているという(山と渓谷社『茨城県の山』では四段目とも五段目ともいう)。天妃山は花園神社の冬至の日の出方向にあるというが、方位線的にみると、花園神社ではなく奥の院峰と西北30度線をつくる。

  天妃山―花園神社(E0.576km、2.38度)―花園神社奥の院峰付近(E0.264km、1.01度)の西北30度線

 高萩市の石瀧稲村浜であるが、高萩市の石滝の海岸近くの標高42.5mの山の北東、橋のたもと近くに稲村神社が在り、そのあたりを石瀧稲村浜とすると、竪破山の東の方向にあたる。ただ、竪破山の東西線はその北約1.5qを通るので、方位線をつくるとはいえないし、東西線方向にあるともいえない。

 常陸五山の原形を堅破山・花園神社奥の院・金砂本宮神社とした場合も、海への磯出あるいは海からの漂着神という性格の共通性は成立するわけである。もっとも、堅破山の磯出は朝日とは関係あるかもしれないが、冬至の朝日と結びつかない。ただ、天妃山は西金砂神社・東金砂神社・堅破山の東北30度線上にも位置している。天妃山からみると、冬至の朝日は天妃山を通って花園神社奥の院に向かい、その夕日は堅破山の方に沈むわけであり、これが常陸五山の原形のさらなる原形だったのかもしれない。

  天妃山―堅破山(W0.529km、1.50度)―東金砂神社(W0.202km、0.43度)―西金砂神社(W0.177km、0.32度)の東北30度線


 花園神社奥の院の南北線上に日立市の神峰山があるが、神峰神社の祭礼では神峰山山頂の奥宮から神霊を笠鋒に移して里に降り、浜の宮の海岸で潮垢離神事を行う。『日本の神々 関東』によれば浜の宮は神峰山からみて冬至の日の出方向にあたるという。ただ、浜の宮と神峰山は西北30度線をつくらない。浜の宮は東金砂神社の西北30度線上に位置している。

  花園神社奥の院付近―神峰神社(W0.571km、1.29度)の南北線
  浜の宮鶴首岬26.5m標高点―神峰山(E0.848km、6.94度)―東金砂神社(E0.024km、0.08度)の西北30度線

 花園神社奥の院と神峰山の南北線を延ばすと大甕神社があり、大甕神社も海から依り来る神と関係があるようである。御根磯は宿魂石の上に本殿のある大甕神社の冬至の日の出方向にあるというが、『日本の神々 関東』によれば、『水府志料』に「神亀元年(724)春のころ、毎夜大磯(御根磯)あたりから一条の光が空高く上がり、海岸の山に照り輝いた。光は秋になっても続き、村人は恐れおののいた。九月十八日のこと、一人の童子が山に登り、『我はこの海上をつかさどる海神なり、我を祀れば、長く海上を守護し、海の幸を与えるであろう』と叫んで、息が絶えたので、村人は山上に綿津見神を祀った」とあるという。御根磯の伝承は水木浜近くの津神社ともかかわる。津神社の「おどう」といわれる祭礼は、童子の命日である九月十八日に行われるのであり、津神社の鳥居は御根磯に向いているという。その祭礼は大甕神社の神官が神事を行い、水木の海岸で浜降り神事があることから、津神社は大甕神社の浜宮の性格をもつとされる。また、『茨城県神社誌』には室町時代の元亀元年(1570)に港内の磯石が怪光を発し、春から秋になっても止まなかったとき、神が人に憑いて「磯石上に祠を建てて我を祀らば、漁獲利あらむ」と霊告が会ったので、そのお告げによって津神社は創建されたともあるという。

  宿魂石付近―神峰山(W0.339km、1.44度)―花園神社奥の院峰(E0.232km、0.34度)の南北線

 常陸港近くの御根磯について、藤田稔編著『日立の伝説』によれば宿魂石の根が御根磯まで伸びているという伝承がある。これには鹿島神宮にも同じような伝承がある。大林太良『私の一宮巡詣記』によれば、銚子河口明神下に鹿島根と称する方約五間、満潮時の深さ十尺の暗礁があり、土地の漁民はこれを鹿島神宮の要石の根と信じて尊敬しているという。

 西金砂神社は御根磯と西北45度線をつくる。それに対し、宿魂石は東金砂神社と西北60度線をつくる。すなわち、東金砂神社―宿魂石の方位線と西金砂神社―御根磯の方位線の交わるところに真弓神社があるという位置配置になっているわけである。ただ、宿魂石と真弓神社は西北60度方向線をつくるが、御根磯と真弓神社は方位・方向線をつくるとはいえない。西金砂神社からみて、その西北45度線上に真弓神社と御根磯があるという配置になるわけである。

  宿魂石付近―真弓神社(E0.178km、2.09度)―東金砂神社(E0.285km、0.77度)の西北60度線
  御根磯―真弓神社(E0.903km、6.87度)―西金砂神社(E0.496km、1.15度)の西北45度線


 平磯と磯崎の間の海岸近くの海中にある護摩壇石も海から神が漂着した場所である。藤田稔編著『常陸の伝説』によれば、弘法大師がこの石の上で護摩をたいたといわれ、別名阿字石ともいわれるが、表面が阿の字に似ているからだという。また、清浄石(しょうじょういし)ともいわれるが、これは水戸光圀が仏教語を排して名づけたという。谷川健一編『日本の神々 関東』によれば、酒列磯前神社、東海村の村松皇大神宮、同白方豊受皇大神宮、那珂町後台(現那珂市)の鹿島三島神社、瓜連町静(現那珂市)の静神社、桂村岩船(現城里町)の岩船神社の神がこの護摩壇石に海から漂着したという。

 御根磯と宿魂石(大甕神社)や津神社は方位線をつくらないが、宿魂石(大甕神社)と津神社の中間にある泉ヶ森の泉神社が御根磯と西北60度線をつくり、護摩壇石とも南北線をつくる。その南北線上には花園神社がある。また、泉神社は津神社とも東西線をつくる。一方、大甕神社の拝殿とは東北30度線をつくるが、宿魂石とその上にある本殿とはつくらない。現在の大甕神社でいえば、泉神社―大甕神社拝殿―本殿=宿魂石ということで、泉神社と宿魂石を方位線的に結びつけることができるかもしれないが、大甕神社の遷座以前には、泉神社と宿根石は方位線的に結びつかないわけである。ただ、泉神社からみて、冬至の夕日は宿魂石の方角に沈むということはいえるかもしれない。それに対して、泉神社の西北30度線は田楽鼻の南付け根付近を通り、これも方位線をつくるとはいえないかもしれないが、冬至の朝日が田楽鼻の方角から昇るということになる。宿魂石と田楽鼻も方位線をつくるとはいえないが、東西に並んでいる。

 泉神社は式内社天速玉姫命神社の論社で祭神天速玉姫命は天棚機姫命の女で、天太玉命の后神、天比理刀当スともいわれる。崇神天皇の時代の創建とされ、日立地方では最も古い神社とされる。一説には天武天皇二年(673)に清水が湧き、水木の里民の夢枕に天速玉姫命があらわれ「吾を祀れば百病が癒える」とつげたので、里民らは翌日に清水の泉に臨て社殿を建立したともいう。社殿の北側の見下ろすところに泉が湧き、鎮座地である泉ヶ森は「夏は冷たく冬は温かく、湧き流れて川を成している。遠近の郷里の人々は、酒肴を持参して、男も女もつどい集まり、休んで遊び、飲み楽しむ。」と常陸国風土記に記載された、「密築里の大井」ともいわれている。

  御根磯―泉神社 (W0.095km、1.83度)の西北60度線
  護摩壇石(E0.038km、0.13度)―泉神社―花園神社(E0.278km、0.42度)の南北線
  泉神社―津神社(N0.006km、0.49度)の東西線
  泉神社―大甕神社拝殿(E0.036km、1.67度)―宿魂石付近(E0.077km、3.56度)の東北30度線

 護摩壇石に関係する祭としては昭和四年まで続いたヤンサマチがある。宮田登『ミロク信仰の研究』によれば、ヤンサマチは浜降り祭りの形式をもつもので、ヤンサマチで問題になるのは、神輿が浜降りする際に、一つの信仰圏=地域社会を形成していることだったという。ヤンサマチでは静神社の神輿渡御が一つの中心となり、この時静神社を鎮守と仰ぐ三十三ヶ村の各氏神もいっせいに浜降りを行い、神々が群をなして平磯の浜に終結する。はっきりしていることは静神社・酒列磯前神社・村松大神宮を頂点とした三角地帯を形成する地域の村落の氏神が浜降りを行うことであり、その中心は静神社で、他の村落の氏神に対しては、これは総社の地位にあるという。三十三ヶ村の各神輿は酒列磯前神社に集まるが、静神社の神輿のみは酒列磯前神社に寄らず、別の神道(かんみち)を通って直接海岸に降り、護摩壇石の方角に向かって神事を行う。また、その日には年の豊凶、魚漁の有無を卜う競馬が、村松大神宮と酒列磯前神社をつなぐ海辺にそって行われる。競馬にあたっては村松大神宮で二月初旬に村松会議とよばれる寄合いがもたれた。競馬当日、村松大神宮の神輿も酒列磯前神社に浜降りしており、やはりヤンサマチの祭祀圏の範囲内にある。

 ヤンサマチをみると、護摩壇石に対して静神社と酒列磯前神社が特別な地位にあることが分るが、酒列磯前神社と護摩壇石の方位線関係をみると、ネジレ現象がある。護摩壇石が方位線をつくるのは酒列磯前神社ではなく、大洗磯前神社と東北60度線をつくるのである。方位線に意味があるとすれば、これはもともと護摩壇石と大洗磯前神社・酒列磯前神社が結びついており、そこに静神社が割り込み、静神社が中心になるにつれ護摩壇石に漂着した神のなかから大洗磯前神社が外されていったということかもしれない。

  大洗磯前神社―護摩壇石(W0.039km、0.32度)の東北60度線

 護摩壇石に神が漂着した神社のうち、岩船神社は大洗磯前神社と西北45度線、酒列磯前神社とは西北30度線をつくる。大洗磯前神社も海から依り来る神の漂着場所と考えられるが、『日本の神々 関東』によれば、それは朝房山からみると大洗磯前神社が冬至の日の出方向にあるということであり、海から依り来る神は冬至の日の出の太陽ともいえ、大洗磯前神社から朝房山に上っていくということであった。大洗磯前神社は朝房山と西北30度線をつくっていたが、朝房山の南北線方向に岩船神社がある。その偏角はきわめて2度に近く、岩船神社は大洗磯前神社・朝房山とそれぞれ方位線をつくっているとみなしてもいいであろう。

  岩船神社―大洗磯前神社(W0.058km、0.10度)の西北45度線
  岩船神社―酒列磯前神社(W0.313km、0.59度)の西北30度線
  朝房山―岩船神社(W0.366km、2.03度)の南北線

 神が護摩壇石に漂着したという神社のうち、護摩壇石と方位線をつくるのは鹿島三島神社のみで、西北30度線をつくり、鹿島三島神社からみると、護摩壇石は冬至の日の出方向にあたることになる。また、鹿島三島神社は御根磯とも東北30度線をつくる。さらに、鹿島三島神社は朝房山と東西線をつくる。朝房山を中心に考えると、静神社も朝房山の東北45度線方向に位置する。朝房山の東北45度線上には御岩山があった。御岩山は静神社と東北45度線をつくる。また、後で出てくる吾国山も朝房山の東北45度線上にある。その他にもいくつかの気になる地点があり、一本の方位線を考えて、その方位線上にこれらの地点があるとも考えたい。また、朝房山からみても護摩壇石への漂着伝承と大洗磯前神社には深い関係があるといえるのではないだろうか。

  護摩壇石―鹿島三島神社(W0.166km、0.69度)の西北30度線
  鹿島三島神社―御根磯(W0.168km、0.62度)の東北30度線
  朝房山―鹿島三島神社(N0.286km、1.16度)の東西線
  朝房山―静神社(W0.538km、2.71度)の東北45度線
  御岩山―静神社(W0.548km、1.46度)の東北45度線
  吾国山―朝房山(E0.377km、1.25度)―静神社(E0.161km、0.32度)―御岩山(E0.386km、0.44度)の東北45度線

 護摩壇石と御根磯にもネジレ現象がみられる。静神社の神は護摩壇石に漂着したとされるのであるが、方位線的には御根磯と東西線をつくるのである。宿魂石には静神社の祭神の建葉槌命がそれを蹴破り、飛び散った破片の一つが御根磯になったという伝承がある。また、村松皇大神宮も御根磯の東北60度線方向にあるが、村松皇大神宮の鳥居と本殿を結ぶ直線は御根磯の方を向いており、すなわち本殿を通して御根磯を拝む形になっているということで、そのことを考えると、村松皇大神宮と御根磯も方位線を作っていると考えるべきであろう。御根磯ではないが、白方豊受大神宮は御根磯と関係深い津神社と東北60度線をつくり、岩船神社も津神社と東西線をつくる。こうみてくると、伝承的には護摩壇石と結びつくが、方位線的には御根磯やそれと関係の深い場所と結びつく神社が多い。

  静神社―御根磯(S0.247km、0.72度)の東西線
  村松皇大神宮―御根磯(E0.289km、2.52度)の東北60度線
  白方豊受大神宮―津神社(E0.168km、1.48度)の東北60度線
  岩船神社―津神社(S0.175km、0.37度)の東西線

鹿島根にもネジレ現象があるかもしれない。その正確な位置は分らないが、香取神宮と旧波崎町の手子后神社が西北30度線を作り、それを延長すると利根川河口付近を通るので、もしかしたら鹿島根は香取神宮と方位線をつくっている可能性がある。

  香取神宮―波崎町手子后神社(E0.263km、0.48度)の西北30度線

 護摩壇石と御根磯のネジレ現象は、護摩壇石と御根磯を別々のものとしてよりは、一体性の中で考えるべきということかもしれない。祭祀的にも大洗磯前神社と深く関係し、大洗磯前神社・酒列磯前神社と方位線をつくる宮ヶ崎の鹿島神社も御根磯と東北60度線をつくる。その一体性は常陸五山にも拡大できる。御根磯が西金砂神社と西北45度線をつくるのに対して、護摩壇石は金砂本宮神社と西北60度線をつくる。護摩壇石は花園神社とも南北線をつくり、常陸五山でいえばそれに対し真弓神社も大洗磯前神社と南北線をつくり、東金砂神社も鹿島三島神社と南北線をつくる。鹿島三島神社は真弓神社と東北60度線をつくっている。東金砂神社・真弓神社・鹿島三島神社が方位線三角形をつくっているわけである。また、西金砂神社と村松皇大神宮も西北60度線をつくり、西金砂神社・村松皇大神宮・御根磯もやはり方位線三角形をつくる。総てが渾然一体となって存在しているともいえ、そのあり方は、常世の国と結び付けられた常陸に相応しいともいえる。

  宮ヶ崎鹿島神社―御根磯(W0.559km、1.05度)の東北60度線
  金砂本宮神社―護摩壇石(E0.946km、1.68度)の西北60度線
  真弓神社―大洗磯前神社(W0.062km、0.14度)の南北線
  東金砂神社―鹿島三島神社(W0.505km、1.05度)の南北線
  真弓神社―鹿島三島神社(W0.580km、2.04度)の東北60度線
  西金砂神社―村松皇大神宮(E0.062km、0.13度)の西北60度線

 大和岩雄氏は『日本の神々 関東』の鹿島神宮の項で、「海という空間に入る(沈む)太陽は時間の象徴で、再び海から上がる。海から依りくる神は『海を照らし』てくる。私は「不開殿」の御戸開きとは、神が妣の国・根の国からよみがえって現れる海坂戸を開く神事であると推測する。冬至は太陽の死と復活と観念されているが、筑波山頂からみれば、冬至の朝日は鹿島の地から昇る。」と述べている。鹿島の神も海から依り来る神で、大洗磯先神社に海から依り来る神が朝房山に上っていくように、鹿島に海から依り来る神は筑波山に上っていくのだともいえる。宮田登『ミロク信仰の研究』によれば、筑波山の名称は『筑波山記』によれば後の名で、元は神島という山頂の名称があり、神がそこに降臨したことから由来すると記されおり、神島山が本義だとするという。ここで、神島山に「かしま」というルビが振られている。そうすると、筑波山はもともと「かしま山」だったことになる。もっとも、そのすぐ後にカミシマ、キシマ、カシマといった地名伝説には、突端とか先端といった局地と、それにともなう一種の聖地観がうかがえるのであるとあり、そこでは神島は「カミシマ」とされている。もし、筑波山が「カシマ山」だとすれば、常陸のなかでは鹿島は突端かもしれないが、筑波山は突端・先端に位置するとはいえないから、筑波山が「カシマ山」とされるのは、鹿島と結びつく山だったからともいえるのではないだろうか。

 御根磯が鹿島神宮要石と南北線をつくり、その南北線上にはりゴンゲンイソもある。『日本の神々 関東』では、御根磯が満潮になると見えなくなることから、干潮になるとあらわれ、満潮では見えなくなるという息栖神社の甕の形をした石と似ているとするが、息栖神社が南北線をつくるのは、御根磯ではなく護摩壇石である。もっとも、護摩壇石と息栖神社が南北線をつくるということは、その南北線上に鹿島神宮の跡宮があるということでもあるのであるから、一つの南北線上に筑波山への海からの神の漂着場所である鹿島さらには護摩壇石・御根磯・ゴンゲンイソという海から神が漂着する場所が並んでいるということになる。

  鹿島神宮要石―御根磯(E0.211km、0.20度)―田楽鼻東300m地点(E0.112km、0.11度)の南北線
  護摩壇石―跡宮±(W0.152km、0.19度)―息栖神社(W0.006km、0.01度)の南北線

 大和岩雄氏は海からの漂着神の方向が冬至の日の出方向から巽の方向へと変わったというが、これを筑波山を中心にみれば、冬至の日の出方向に鹿島神宮があり、巽方向に香取神宮があるということになる。金砂本宮から西金砂神社に遷座しても、金砂本宮も残っているのであるから、海から依り来る神は金砂本宮にも西金砂神社にも上っていくということになるが、そうすると逆に、海から依り来る神は鹿島神宮からも香取神宮からも筑波山に上っていくということにもなるのではないだろうか。一方、鹿島神宮を中心にみると、その巽方向、西北45度線上に愛宕山・難台山・吾国山があり、吾国山について、大和岩雄氏は『日本の神々 関東』の大甕神社の項で現鎮座地すなわち宿魂石からの冬至日没方向には建葉槌命に蹴破られた宿魂石の怪石が飛んでいったという石神の石神社があり、その延長線は吾国山山頂に至る、つまり、冬至の朝日は御根磯の海上から出て、吾国山に落ちるのであると記す。

 吾国山は宿魂石と東北30度線をつくるわけであるが、さらに大洗磯前神社と東西線をつくる。また、朝房山とも東北45度線をつくるのであるから、大洗磯前神社とも方位線的には強く結びついているといえる。鹿島神宮と岩瀬町の鴨大神御子神主玉神社もやはり西北45度線をつくっていたが、鴨大神御子神主玉神社は笠間市稲田の稲田神社とともに朝房山の東北30度線上に位置していた。ただ、吾国山と鴨大神御子神主玉神社は直接西北45度線をつくるとはいえない。

  吾国山―鹿島神宮要石(W0.105km、0.11度)の西北45度線
  吾国山―宿魂石(km、度)の東北30度線
  吾国山―大洗磯前神社(S0.677km、1.10度)の東西線
  吾国山―鴨大神御子神主玉神社(W0.387km、4.51度)の西北45度線

 御根磯は鹿島神宮の西北45度線上にある難台山と東北30度線をつくる。その方位線上に鹿島三島神社があるわけである。鹿島三島神社からいうと、冬至の太陽は護摩壇石の方向から昇り、難台山の方向に沈むことになる。難台山は吾国山と直接西北45度線をつくる。また、香取神宮とも西北60度線をつくるが、吾国山も香取神宮と西北60度線をつくるといえる。難台山は金砂本宮とも東北60度線で結ばれている。

  難台山―鹿島三島神社(E0.020km、0.04度)―御根磯(W0.148km、0.19度)の東北30度線
  難台山―吾国山(E0.006km、0.12度)の西北45度線
  香取神宮―難台山(W0.354km、0.37度)―吾国山(W1.065km、1.06度)の西北60度線
  難台山―金砂本宮(W0.325km、0.46度)の東北60度線

 筑波山との関係でいえば、愛宕山のほうに注目すべきかもしれない。筑波山と愛宕山が東北30度線を作っているのである。その延長線上に村松皇大神宮が位置している。愛宕山の西北45度線は正確には鹿島神宮要石と高天原の中間を通るのであるが、朝房山と高天原も西北60度線をつくっていた。なお、筑波山は神峰山とも東北45度線をつくる。

  愛宕山愛宕神社―鹿島神宮要石(W1.122km、1.28度)―高天原鬼塚±(E0.819km、0.92度)の西北45度線
  筑波山女体峰―愛宕山愛宕神社(E0.295km、1.10度)―松村皇大神宮(E0.448km、0.50度)の東北30度線
  筑波山男体峰―神峰山(E0.143km、0.12度)の東北45度線

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宿魂石

 『大甕倭文神宮縁起』によれば、甕星香々背男がこの地の巨巖に拠っていたのを、静神社の祭神である倭文神建葉槌命が討ち、そのあと大甕山に留まったのを祭ったのが大甕神社であるといい、元禄八年十一月、徳川光圀が甕星の荒魂を封じ込めた宿魂石に遷したという。『日本の神々 関東』で大和岩雄氏は、『大甕倭文神宮縁起』は、『日本書紀』の文章をヒントに得て書いたもので、「志田諄一は『東海村の今昔』で江戸時代に作られたと書く」という。『大日本史』を編纂した水戸藩の史官らは、卜部兼方や一条兼良が倭文神を常陸国の神とする説を知り、そこで倭文神が討った香々背男の場所を探すと、大甕山があったので、この大甕と甕星を重ねたのであろうとする。また、『日本書紀』に「軻遇突智を斬る時に、其の血激越ぎて、天八十河中に所在る五百箇磐石を染む。因りて化成る神を、号けて磐裂神と曰す。次に根裂神、児磐筒男神、次に磐筒女神、児経津主神。」とあるうちの五百箇磐石について、一条兼良の『日本書紀纂疏』に「諸説を案ずるに星の石たること明らけし」とあり、『釈日本紀』で卜部兼方は、いまはない『天書』が磐裂神を歳星、根裂神を蛍惑星、磐筒男を太白星、磐筒女を辰星、経津主神を鎮星と書くのを引用して、軻遇突智から生まれた五神を[星精の化生」とみていることから、『日本書紀纂疏』や『釈日本紀』を読んだ『大日本史』編纂の史官たちは、天津甕星の甕と大甕の神を重ねただけではなく、この神が石神であることからも、星神とみたのであろうとする。そうすると、大甕の神が石神でもあるということは、水戸黄門以前からあった可能性もでてくるわけであり、大甕神社と宿魂石との結びつきはそれ以前からあったかもしれないわけである。

 大和岩雄氏は卜部兼方や一条兼良が倭文神建葉槌命を常陸国に坐すとみたのは、@倭文神建葉槌命は経津主神・武甕槌神によって香々背男征伐に遣わされている。A経津主神・武甕槌神は香取・鹿島の神で、常陸に倭文郷・倭文(静)神社がある。Bよって、倭文神建葉槌命は常陸国の神である、という三段論法による推論をした結果ではないかとする。また、倭文神建葉槌命を祭神とする神社は常陸以外にも伊勢国鈴鹿郡、駿河国富士郡、伊豆国田方郡、甲斐国巨摩郡、近江国滋賀郡、上野国那波郡、丹後国加佐郡・与謝郡、但馬国朝来郡、因幡国高草郡、伯耆国国川村郡・久米郡など各地にあり、『和名抄』の郷名「倭文」も、淡路国三原郡、美作国久米郡、因幡国高草郡にあるという。

 大和岩雄氏によれば、甕星香々背男が変じた大甕山の巨巖を建葉槌命が蹴って、それが飛び散ったという伝承は江戸時代以後のものということになる。ただ、『新編常陸国誌』の石塚村(東茨城郡常北町石塚)に、「古老伝エテ云、太古ノ時、久慈郡石名坂の石長ジテヤマズ、マサニ天ニイタラントス、静明神コレヲ悪ミテ、金履ヲ似テ蹴折ル、其ノ石三段トナル、一ハ石名坂ニアリ、一ハ石神村ニアリ〔前ニ所謂久慈郡ノ石神ナリ〕、一ハ即コレナリ。」とあり、この伝承は天にとどくまで石が大きくなる怪石を静明神(倭文神)が金の履物で蹴折ったとし、甕星とはなっていないが、倭文神の登場からみて、これが『大甕倭文神宮縁起』の甕星香々背男が巨巖に拠っていたという伝承になったのであろうともいう。

 甕星香々背男は出てこないかもしれないが、倭文神建葉槌命が宿根石を蹴り、それが各地に飛び散ったという伝承はあったらしい。では、宿根石の破片が飛んでいった場所とはどこなのであろうか。『大甕倭文神宮縁起』では、甕星香々背男が変じた大甕山の巨巖を建葉槌命が蹴ると、一つは御根磯になったというが、その他に、石神、石塚、石井に飛んだとされているといい、『新編常陸国誌』の石塚村の話では、石神と石塚となっていた。また、『日本の神々 関東』では、東茨城郡内原町田島の手子后神社では石名坂の怪石が五つに砕け、その一つを神体石にしたという伝承があるという。手子后神社では他の場所がどうなっているのか判らないが、榎本出雲・近江雅和『消された星信仰』では、茨城新聞社編『茨城の史跡と伝説』からとして、石神・石塚・石井・内原町田島の手子后神社をあげている。『常陸の伝説』では、石神、石塚、石井をあげている。一番多いのは石神と石塚であり、それは総ての伝承に共通している。次に、石井であり、これは『新編常陸国誌』の石塚村の話以外に共通している。その他に、御根磯、手子后神社を加えるものがそれぞれあり、全部あげると、石神・石塚・石井・御根磯・手子后神社ということになる。石神と石塚が共通しているからといって、それが最も古い伝承とはいえないであろう。それはもともとの伝承からある場所が抜け落ちたのかもしれないし、そういう意味では、もともとの伝承では石神・石塚・石井・御根磯・手子后神社の総てが含まれていたという可能性もあるわけである。

 石神とは、東海村石神外宿中堂の石神社、石塚とは常北町石塚の風隼神社、石井とは笠間市石井の石井神社とされているようである。祭神は石神社は天手力雄命であるが、『消された星信仰』によれば、風隼神社は武甕槌命、石井神社は建葉槌命、内原町田島の手古后神社は手名槌・足名槌とされている。

 宿魂石からの冬至日没方向に石神社があるとされたが、吾国山と同じように石神社も宿根石と東北30度線をつくっている。また、内原町田島の手古后神社は宿魂石・石神社と東北30度線をつくっており、宿魂石・石神社・手古后神社はひとつの東北30度線に並んでいる。石神社の東西線方向に石塚の風隼神社があり、風隼神社は内原町田島の手古后神社と南北線をつくる。石神社と風隼神社も方位線をつくるとみなしていいであろう。宿魂石・石神社・手古后神社・風隼神社が方位線網をつくっているわけである。それに対し、静神社と御根磯が東西線をつくっていた。石井神社であるが、風隼神社が内原町田島の手古后神社と南北線をつくるのに対し、石井神社は桂村(現城里町)下圷の手子后神社と東北北45度線をつくり、旧桂村下圷手子后神社は御根磯と東西線をつくる。静神社とは東西線をつくらないが、旧桂村下圷手子后神社を介し、石井神社は御根磯・静神社の東西線につながっているともいえる。

  宿根石―石神社(E0.120km、1.42度)―内原町田島手子后神社(E0.825km、1.83度)の東北30度線
  石神社―内原町田島手子后神社(kE0.705m、1.92度)の東北30度線
  石神社―風隼神社(S0.742km、2.34度)の東西線
  風隼神社―内原田島手古后神社(E0.285km、1.60度)の南北線
  石井神社―旧桂村下圷手子后神社(E0.297km、0.96度)の東北45度線
  御根磯(N0.239km、0.58度)―旧桂村下圷手子后神社の東西線

 旧桂村下圷の手子后神社は埴安姫命(別名埴山姫命)を祭神とし、神護景雲二年始めて祭る処にして、元禄九年正月水戸藩主源義公により、従来「手子木崎神社」と称していた社名を現在の「手子后神社」と改称されたという。「木崎(きさき)」→「后(きさき)」というわけである。旧桂村下圷の手子后神社には宿魂石と結びつく伝承はないようである。ただ、内原町田島の手子后神社とは祭神も違うが、何らかの関係性を認めて手子木崎神社を手子后神社と改めたのかもしれない。内原町田島の手子后神社が波崎町(現神栖市)の手子后神社と西北60度線をつくるのに対し、旧桂村下圷手子后神社は波崎町の手子后神社の分霊と伝えられる水戸市元石川町の手子后神社と西北60度線をつくるのであり、内原町田島の手子后神と旧桂村下圷の手子后神社には、方位線的には関係性が認められる。『消された星信仰』によれば、万葉集には東(あづま)の俗語として弖胡(てこ)があるという。后(さき)が前(さき)のことだとすれば、手子后とは東(あづま)の前(さき)ということになり、銚子河口の波崎町の神社に相応しい名前ともいえる。

  内原町田島手子后神社―波崎町手子后神社(W0.491km、0.34度)の西北60度線
  旧桂村下圷手子后神社―水戸市元石川町手子后神社(W0.401km、1.02度)の西北60度線

 宿魂石は東金砂神社と西北60度線をつくっていたが、石神社も西金砂神社と西北60度線をつくり、堅破山とも南北線をつくる。また、石神社の東北60度線上に堅破山の磯出が行われる石瀧稲村海岸がある。静神社も堅破山と東北60度線をつくる。宿魂石と根っこでつながっているという御根磯も西金砂神社と西北45度線をつくっていたから、宿魂石は方位線的に東西金砂神社と結びつき、静神社は堅破山と結びつくということになるわけである。石神社はその両方と結びつき、堅破山と東西金砂神社は東北30度線上に並んでいるということになるわけである。

  石神社―西金砂神社(E0.191km、0.51度)の西北60度線
  石神社―堅破山(W0.452km、1.06度)の南北線
  石神社―石滝・稲村神社(W0.138km、0.29度)の東北60度線
  静神社―堅破山(W0.798km、1.70度)の東北60度線

 宿魂石と東西金砂神社の関係は、建葉槌命に蹴られて飛び散った宿魂石の破片が落下した地点が、東西金砂神社やその浜降り祭と方位線的に密接に関係していることからもいえる。石神社・御根磯の他にも、風隼神社は東金砂神社と東北60度線をつくり、石井神社は真弓神社と東北30度線をつくる。そして、内原町の手古后神社の東北30度線上に水木浜の田楽鼻があり、またゴンゲンイソもあると思われるのである。

  風隼神社―東金砂神社(W0.691km、1.59度)の東北60度線
  石井神社―真弓神社(W0.234km、0.37度)の東北30度線
  内原の手古后神社―田楽鼻22.3m三角点(W0.042km、0.09度)―田楽鼻東300m地点(E0.159km、0.32度)の東北30度線

 石神社は護摩壇石に海から神が漂着したという神社とも方位線で結ばれている。白方豊受皇大神宮と西北45度線をつくり、その西北60度線上方向に村松皇大神宮がある。西金砂神社・石神社・村松皇大神宮が方位線上に並んでいるともいえるわけである。その他にも、鹿島三島神社と東北45度線をつくる。鹿島三島神社は風隼神社とも西北30度線をつくり、風隼神社・鹿島三島神社・護摩壇石が方位線上に並んでいるわけである。風隼神社は大洗磯前神社とも西北45度線をつくる。それに対し、石井神社は酒列磯前神社と東西線をつくる。岩船神社と酒列磯前神社の西北30度線上に桂村(現城里町)下圷の手子后神社がある。方位線上に並ぶ岩船神社・旧桂村下圷手子后神社・酒列磯前神社石井神社のうち、石井神社は酒列磯前神社と方位線で結ばれていたわけであるが、旧桂村下圷手子后神社とも東北45度線をつくっていた。残る岩船神社であるが、やはり東北60度線をつくる。

  石神社―白方豊受皇大神宮(E0.052km、0.84度)の西北45度線
  村松皇大神宮―石神社(W0.253km、2.62度)―西金砂神社(W0.062km、0.13度)の西北60度線
  石神社―三島鹿島神社(E0.137km、0.81度)の東北45度線
  風隼神社―三島鹿島神社(E0.273km、1.21度)―護摩壇石(E0.438km、0.94度)の西北30度線
  風隼神社―大洗磯前神社(E0.547km、1.13度)の西北45度線
  石井神社―酒列磯前神社 (S0.670km、1.10度)の東西線
  岩船神社(E0.104km、1.19度)―旧桂村下圷手子后神社―酒列磯前神社(W0.209km、0.47度)の西北30度線
  石井神社―岩船神社(W0.114km、0.38度)の東北60度線

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常陸の星信仰と加波山

 宿魂石と甕星香々背男や建葉槌命の結びつきは水戸藩の史官たちが作り出したもので、それ以前には遡らないものなのであろうか。『日本書紀』によれば、武甕槌命・経津主命が「順ろわぬ鬼神等を誅ひて、果に復命す」とある本文の注で、二神は「皆已に平けむ。其の不服はぬ者は、唯星の神香香背男のみ。故、加倭文神建葉槌命を遣わせば服ひぬ。故、二の神天に登といふ。」とあり、また一書の二では、天神が経津主神・武甕槌神を葦原中国に遣わしした時、二神は「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。請ふ。先ず此の神を誅ひて、然して後に下りて葦原中国を撥はむ。」と言ったとある。本文注では香香背男は地上で最後に討たれ、一書の二では天上で最初に討たれている。また、本文注には建葉槌が出てくるが、一書の二では出てこない。大和岩雄氏は一書の二のほうが合理的であり、倭文氏が倭文神建葉槌命を入れるために一書の二に載る本来の伝承を改変したのであろうとする。布のもつ呪力を代表したものが「倭文」であり、経津主神・武甕槌神のような武神・剣神的要素がなくても、悪神征討に建葉槌神が登場したのであり、星神との関係を推察させる面がみられないのは、あとからわりこんだ伝承だからであろうという。

 『消された星信仰』によると、全国の星信仰に関係する神社は、栃木・千葉・茨城それに高知に偏っており、あとは4〜5社もあればいいほうであるという。それらの県の星信仰の神社数は同書中でも少し異同があるのであるが、星関係の神社のリストがあげられているので、その神社数とその中の星がつく神社の数を見ると、栃木195(171)、千葉66(17)、茨城19(10)、高知64(63)となる。その他の都道府県の星のつく神社のリストもあるが、その中で多いのは岐阜県・愛知県が6社、福島県4社、長野県4社、岡山県4社、埼玉県3社、秋田県3社などである。岐阜県の6社は美濃国東部にあり、愛知県の6社のうち5社は名古屋市内とその西側の海部郡で、これに三重県の桑名市の1社を加えることかできるかもしれない。

 千葉県と茨城県で星関係の神社と星のつく神社の数の差が大きいのは、千葉県では妙見堂・妙見社が多いからである。妙見信仰は北極星・北斗七星信仰であるが、千葉県に妙見堂・妙見社が多いのは妙見信仰をもっていた千葉氏の影響であるという。さらにいえば、もし妙見堂・妙見社を加えるなら、星関係の神社が多いのは栃木・千葉・茨城・高知だけではなくなるということもある。北九州ではやはり千葉氏の一族によって妙見信仰が拡がっており、山口県では大内氏がやはり妙見信仰をもっており、妙見神社も多いという。また、いつ誰がこの信仰を広めたか分からないが、山口以外の中国地方、和歌山県、熊本県にも多いという(http://www2.tba.t-com.ne.jp/tty-gt/hoshi-shinkou/nihon/nihon-hoshishinkou02.html)。もっとも、妙見堂・社を除いても、千葉県には星のつく神社が多いことは確かである。千葉県の星関係の神社はほとんど下総に集中しているが、星のつく神社は東葛西郡に3社、香取郡に15社とその分布地域がさらに限定されている。また、そのうち、東葛西郡の1社は北星神社であるから妙見系と考えられ、香取郡でも通称妙見とあったりあるいは妙剣大神とされる神社が5社あり、それらを除くと千葉県で残るのは12社となるが、そのうち香取郡は10社で、香取郡の特殊性も注目される。茨城県の場合は、宿魂石の破片落下伝承地が加えられていることが主な原因であり、その他に加波山関係なども加えられているからである。茨城県も星のつく神社のみをとってもその数は多いといえるであろう。

 栃木・千葉・茨城・高知県に星のつく神社が多いことを単純にみれば、それらの土地では星信仰が盛んだったということになる。その場合、栃木・千葉・茨城・高知のうち、大和岩雄氏があげる倭文神建葉槌命を祭神とする神社あるいは『和名抄』の郷名に「倭文」があるのは茨城県だけである。岐阜県・愛知県・長野県・福島県にもない。そうすると、『日本書紀』の本文注にでてくる建葉槌はもともと常陸と結びついた話とも考えられるということになる。

 しかし、逆にそれらの県に星と関係する神社が多いのは、全国の他の地域では星信仰が抹殺されたのに、それらの地域では比較的弾圧が弱く、星信仰が残った可能性も考えられる。『消された星信仰』では、群馬県には一社もないのは、栃木県と異なり群馬県が大和朝廷系の支配下にあったからであり、栃木県でも那須郡では矢板市周辺を除いては一社もないという特殊性があるが、それは蝦夷征伐の前進基地が置かれた所だったから、早くから大和朝廷の支配が及んでおり、先住民の信仰である星人神社がないのだという。この場合、『日本書紀』の話は星神を討伐する話であるから、逆に常陸とは結びつかないということになる。もっとも、建葉槌命はもともと星神とまったく関係なかったが、武甕槌は鹿島神宮の神、経津主は香取神宮の神であり、また岐神は息栖神社の祭神であるから、これら三社に近い静神社の祭神である建葉槌を後から挿入した可能性は残る。

 話しを関東に限って、栃木・千葉・茨城は星信仰が盛んだったのか、弾圧が弱かったのか、二つの可能性のうちすくなくとも茨城県については星信仰が盛んだった可能性の方が高いと思われる。『消された星信仰』によると、茨城県では字レベルの神社にカガセオを祭神とする神社が50社(100社と記す箇所もあり、同じ本のなかで一定していないのであるが)はあるということである。これは全国的にみても多いのではないだろうか。また、明治維新以後あるいは水戸藩の時代に、あえて悪神とされたカガセオを祭神としたとも考えられないから、それらの神社は江戸時代より以前の時代に遡る神社と考えるのべきであろうし、『日本書紀』では本文注でも一書の二でも香香背男は星と結びついているのであるから、茨城は古くからカガセオ・星信仰が盛んであった可能性が大きいといえるのではないだろうか。またカガセオを祭っている神社がほとんど字レベルの神社ということは、茨城のカガセオ信仰に弾圧が加えられ、かろうじて字レベルでの信仰が残ったということであろう。記紀のカガセオの記述は、常陸の事情が反映したものと考えるべきなのではないだろうか。

 栃木県については、『消された星信仰』によると、高藤晴俊『日光山鉢石星宮考』に江戸時代初期以前の史料には祭神を磐裂・根裂としたものは見当たらないとあることから、栃木県の星神社の磐裂・根裂は時代的には徳川時代以降のものであり、現在星神社・星の宮とされているものは、明治の神仏分離政策以前は虚空蔵さまと呼ばれていたという。栃木県に星神社が日本でいちばん多いからといって、栃木県も古代に星信仰が盛んだったとは必ずしもいえないわけである。また、那須郡では矢板市周辺を除いては一社もないという。ただ、千葉県では虚空蔵堂はあくまでも仏教の堂宇として続いているというから、なぜ栃木県では虚空蔵堂が神社に変えられてしまったのかという謎は残る。栃木県ではもともと星信仰の場所だった所が、虚空蔵堂にされてしまったという可能性も考えられるわけである。

 妙見は北極星・北斗七星を祈るが、虚空蔵は明星(金星)を祈り、虚空蔵さんの使いはウナギであり、妙見さんの使いは亀という。祭神からいうと、栃木県と千葉県では対照的である。栃木県では磐裂・根裂がほとんどでそれに経津主が加えられたものもあるが、それに対し天御中主を祭神とするのは1社にすぎないのに、千葉では逆にほとんどが天御中主を祭神としており、磐裂・根裂・経津主系を祭神とするのは2社にすぎない。高知県も天御中主を祭神とするのが37社あるのに対して、磐裂・根裂・経津主系を祭神とするのは6社にすぎない。香々背男を祭神とするのは茨城以外では、栃木で5社、千葉で2社、高知で2社である。

 『消された星信仰』で宿魂石の破片落下伝承から星信仰と結び付けられた神社を除く、星信仰に関係する神社と祭神は次の通りである。ただ市町村合併以前の場所で表記してある。

友部市仲市原 星宮神社 天之可可背男
下館市西大島 星宮神社 岩裂
下館市市林 星宮神社 天御中主
結城市上山川 星宮熊野神社(地図上では単に熊野神社とある) 天之加加背男・イザナギ尊
岩井市神田山 星神社 磐裂・根裂
岩井市猫実 香取星神社 経津主・磐裂・根裂
龍ヶ崎市若柴 星宮神社 天御中主
龍ヶ崎市星宮 星大神社 天御中主(地図で探したが星大神社さらには星宮という地名が見つからなかった。その代わり、川原代に星之宮神社がある)
桂村錫高野 三枝祇(さえなずみ)神社 武甕槌・武古呂・天津彦根
岩瀬町長方 星宮神社・通称虚空蔵様 石裂
真壁町長岡 加波山三枝祇神社・通称ぐさもと イザナキ尊・速玉男・事解男
協和町下星谷 星谷神社 根裂(地図では下星谷に星宮神社があるが、この神社のことであろう)
大和村 大国玉神社 大国主 二つの星マークが刻まれた石灯籠

 このうち、真壁町長岡の加波山三枝祇神社であるが、『消された星信仰』では「加波山神社には一名、三枝祇神社・星の宮と呼ばれる里宮がある。」と記されている。桂村錫高野の三枝祇神社があるのは、加波山三枝祇神社が星信仰と関係があることから、同じく星信仰に関係する神社とされたのであろう。加波山山頂付近には加波山神社、加波山神社本宮、加波山神社親宮と呼ばれる三つの加波山神社の本殿と拝殿がある。正式には、加波山神社は、加波山神社中宮あるいは加波山神社天中宮、加波山神社本宮は、加波山三枝祇神社本宮。加波山神社親宮は、加波山三枝祇神社親宮といわれる。その関係は複雑であり、加波山神社中宮側では日本武尊により最初に創建されたのが天中宮で三神(天御中主神・日の神・月の神)を祭り、その後、和歌山県の、熊野山の御祭神が、樺山山頂に祀られ、新宮・本宮の二社が新たに創建されたとするが、加波山神社本宮側では、日本武尊により最初に創建されたのは本宮で、本宮から中宮と親宮が分社したとする。貞観17年(876)常陸国三枝祇神に従五位下を授けられているが、三枝祇神社については「三枝神社」と識された棟札が残されている事から、加波山中宮であるとする説もあるという。また、天中宮も星の宮と称したらしいという記述もある(http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ibaragi.htm)。どちらにしても、加波山は星信仰の山であり、三枝祇神社とも結びつくということである。

 宿魂石の東北30度線上にある吾国山について、日本の神々 関東』によれば、吾国山の吾国山神社の境内社に香々背男を祭神とする星宮神社があるというが、加波山も宿魂石と東北30度線をつくる。ただ、加波山と吾国山は東北30度線をつくらない。ただ、吾国山は桂村錫高野三枝祇神社とは東北北60度をつくる。

  加波山―宿魂石付近(E0.272km、0.32度)の東北30度線
  吾国山―桂村錫高野三枝祇神社(W0.152km、0.37度)の東北60度線
  
 宿魂石の破片落下伝承を持つ場所と加波山の方位線をみると、宿魂石の他、石神社が東北30度線をつくる。加波山と内原町田島手子后神社は直接は方位線をつくらないのであるが、宿魂石・石神社・内原町田島手子后神社が互いに東北30度線をつくるということから、加波山と内原町田島手子后神社にも東北30度線を認めていいのではないだろうか。一つの東北30度線上に加波山・吾国山・内原町田島手子后神社・石神社・宿魂石が並んでいるとも考えられる。加波山は風隼神社とも東北45度線をつくる。

  加波山―吾国山(E0.349km、3.44度)―内原町田島手子后神社(E1.096km、2.69度)―石神社(E0.391km、0.51度)の東北30度線
  加波山―風隼神社(W0.441km、0.86度)の東北45度線

 また、三枝祇神社に注目するなら、桂村の三枝祇神社は静神社・御根磯の東西線上に位置しており、石井神社と東北60度線をつくる。吾国山も桂村錫高野の三枝祇神社と東北60度線をつくっていたが、吾国山と石井神社は東北60度線をつくらない。宿魂石や建葉槌命に蹴られて飛んでいった破片の落下地点は、加波山あるいは桂村の三枝祇神社と方位線で結びついているわけである。桂村の三枝祇神社と星信仰の関係はいまひとつ不明であるが、建葉槌と香々背男の話は加波山とも関係していたことも考えられる。

  桂村錫高野三枝祇神社―静神社(N0.139km、0.92度)―御根磯(S0.109km、0.22度)の東西線
  桂村錫高野三枝祇神社―石井神社(W0.474km、1.82度)の東北60度線

 加波山山頂の三つの神社の里宮が神社となったのは明治になってからであって、本宮・親宮・中宮は加波山権現として一体化されていたが、遅くとも近世以降は本宮別当正幢院・親宮別当円鏡寺・中宮別当文殊院という宮寺一体の形態であり、三寺院とも真言宗で、修験道の霊場であった。そのうち正幢院は檀家を持たず、祈祷を専らとする寺院であったという。本宮の場合、正幢院という寺があり、その建物をそのまま里宮としたのである。中宮の場合は、明治時代になって神社と現文殊院を分離し、明治11年八郷町大塚の文殊院近くに拝殿が建立された。親宮は円鏡寺を里宮としたのかどうか分からないが、大正年間に騒動があり、親宮は本宮に合祀され、里宮も廃され本宮里宮が親宮里宮もかねるということになった。

 これらの諸寺がいつ頃からあったのか判らないが、方位線的には興味深いものがある。真壁市長岡にある加波山三枝祇神社本宮の里宮は石井神社と東北45度線を作る。また、加波山は大国玉神社と西北30度方向線をつくり、岩瀬町長方の星宮神社と西北45度線をつくっているが、本宮里宮も、大国玉神社と西北45度線、岩瀬町星宮神社と西北60度線をつくっているのである。そして、大国玉神社と岩瀬の星宮神社は南北線をつくっている。正幢院が祈祷をのみする寺であったということは、あるいは近世以前のかなり古い時代から加波山修験道と結びつく霊場だったのかもしれないし、その起源はさらに遡ることもありえるのではないだろうか。

  加波山三枝祇神社本宮里宮―石井神社(E0.094km、0.34度)の東北45度線
  加波山―大国玉神社(W0.311km、2.48度)の西北30度線
  加波山―岩瀬町星宮神社(W0.099km、0.63度)の西北45度線
  加波山三枝祇神社本宮里宮―大国玉神社(E0.159km、1.56度)の西北45度線
  加波山三枝祇神社本宮里宮―岩瀬町星宮神社(E0.076km、0.53度)の西北60度線
  大国玉神社―岩瀬町星宮神社(W0.064km、1.25度)の南北線

 本宮里宮は天之可可背男を祭神とする友部市仲市原と東北30度線、岩井市神田山の星神社と東北60度線をつくる。また、星信仰とは関係ないが、鴨神社とも東北60度線をつくる。

  加波山三枝祇神社本宮里宮―友部市仲市原星宮神社(W0.510km、1.55度)の東北30度線
  加波山三枝祇神社本宮里宮―岩井市神田山星神社(W0.607km、0.99度)の東北60度線
  加波山三枝祇神社本宮里宮―鴨大神御子神主玉神社(W0.058km、0.43度)の東北60度線

 岩瀬の星宮神社は天之加加背男を祭神とする結城市上山川の星宮熊野神社とも東北30度線をつくり、その東北60度線方向に協和町下星谷の星宮神社がある。協和町の星宮神社は吾国山の東西線上に位置している。岩瀬の星宮神社はもともとは虚空蔵堂であったが、さらに遡れば星信仰の聖所だったのかもしれない。

  岩瀬町星宮神社―結城市星宮熊野神社(E0.053km、0.15度)の東北30度線
  岩瀬町星宮神社―協和町星宮神社(W0.177km、2.11度)の東北60度線
  吾国山―協和町星宮神社(S0.382km、1.54度)の東西線

 文殊院も石井神社と東北60度線をつくる。石井神社は桂村錫高野の三枝祇神社とも東北60度線をつくるとしたが、正確には文殊院と石井神社、吾国山と桂村錫高野の三枝祇神社がそれぞれ東北60度線をつくっている。文殊院と石井神社の東北60度線を延ばすと岩船神社がある。文殊院は吾国山とは方位線をつくるとはいえないが、朝房山・御岩山と正確に東北45度線をつくり、静神社とも東北45度線をつくる。御岩山・静神社・朝房山・吾国山の東北45度線上に文殊院も位置しているとみなしてもいいのではないだろうか。愛宕山・文殊院・本宮里宮がほぼ東西線上に並んでいる。愛宕山とはそれぞれ方位線をつくるといえるのであるが、残念ながら文殊院と本宮里宮とは方位線とまではいかない。しかし、石井神社とそれぞれ方位線をつくることを考えると、その東西関係も無視できないものがある。

 文殊院(W0.076km、0.35度)―石井神社―岩船神社(E0.038km、0.07度)の東北60度線
 文殊院―吾国山(W0.401km、5.44度)―朝房山(W0.024km、0.06度)―静神社(W0.562km、0.98度)―御岩山(W0.014km、0.01度)の東北45度線
 愛宕山・愛宕神社―文殊院(N0.169km、1.28度)―加波山三枝祇神社本宮里宮(S0.084km、0.39度)の東西線
 文殊院―加波山三枝祇神社本宮里宮(S0.253km、2.98度)の東西線

 龍ヶ崎市の若柴星宮神社と川原代星之宮神社は南北線をつくるが、その南北線は加波山の南北線に重なる。龍ヶ崎市川原代の星之宮神社は石神社と東北60度線をつくっている。加波山・石神社・川原代星之宮神社が方位線三角形をつくっているわけである。南北線をつくる龍ヶ崎市の二社と岩井市の二社は、若柴の星宮神社が岩井市猫実の香取星神社、川原代の星之宮神社が岩井市神田山の星神社とそれぞれ西北30度線をつくる。このうちの神田山の星神社が本宮里宮と東北60度線をつくっているわけである。また、岩井市の二社は内原町田島の手子后神社の東北45度線上に位置している。

  龍ヶ崎市若柴星宮神社―川原代星之宮神社(W0.027km、0.61度)の南北線
  加波山―龍ヶ崎市若柴星宮神社(E0.204km、0.29度)―川原代星之宮神社(E0.178km、0.24度)の南北線
石神社―川原代星之宮神社(W0.790km、0.60度)の東北60度線
  龍ヶ崎市若柴星宮神社―岩井市猫実香取星神社(E0.095km、0.24度)の西北30度線
  龍ヶ崎市川原代星之宮神社―岩井市神田山星神社(E0.269km、0.65度)の西北30度線
  内原町田島手子后神社―岩井市猫実香取星神社(W0.352km、0.36度)―神田山星神社(E0.365km、0.36度)の東北45度線

 友部市仲市原の星宮神社は風隼神社と東北60度線をつくる。風隼神社は桂村下圷の手子后神社と東北60度線をつくっていた。友部の星宮神社と桂村の手子后神社も東北60度線をつくる。友部の星宮神社は天之可可背男を祭神としていたが、同じく天之加加背男を祭神とする結城市の星宮熊野神社と桂村の手子后神社も東北30度線をつくる。桂村手子后神社・岩瀬町星宮神社・結城市星宮熊野神社が東北30度線上に並んでいるわけである。桂村の手子后神社には直接建葉槌命と宿魂石・香々背男と結びつく伝承はないが、ここでも方位線的に香々背男と深い結びつきが認められわけである。

  友部市仲市原星宮神社―風隼神社(W0.245km、1.02度)―桂村下圷手子后神社(E0.040km、0.15度)の東北60度線
  桂村下圷手子后神社―岩瀬町星宮神社(W0.001km、0.00度)―結城市星宮熊野神社(E0.052km、0.06度)の東北30度線

 桂村の三枝祇神社と手子后神社はともに御根磯と静神社の東西線上にあるわけであるが、両社は直接には東西線をつくらない。桂村手子后神社は石井神社と東北45度線をつくり、石井神社は加波山三枝祇神社本宮里宮と東北45度線をつくっていたが、桂村手子后神社と三枝祇神社本宮里宮も東北45度線をつくる。それに対して、加波山と内原町田島手子后神社が東北30度線をつくっていたが、加波山と波崎町の手子后神社も西北45度線をつくる。そして、内原町田島手子后神社と波崎町手子后神社が西北60度で結ばれているわけである。

  三枝祇神社本宮里宮―桂村下圷手子后神社(E0.391km、0.67度)の東北45度線
  加波山―波崎町手子后神社(E0.077km、0.05度)の西北45度線

 千葉県香取郡の妙見信仰以外の星のつく神社10社のうち、2社は地図上で確認できなかった。残る8社どうしの方位線をみると、とくに取り上げるようなものもなかった。10社は総て天御中主を祭神としているのであるが、東庄町出石の星宮神社は他に八また彦・八まち姫、同じく東庄町栗野の星宮神社は太田姫が祭神として付け加えられている。吉田大洋『謎の出雲帝国』ではヤチマタノ神はクナトノ大神とされている。出石の星宮神社の八また彦・八まち姫はヤチマタノ神のことであろう。そうすると、クナトノ大神は星信仰とも結びつくということなのであろうか。栗野の星宮神社祭神の太田姫は、神道五部書太田命訓伝はでは猿田彦は太田神と名乗っており、猿田彦と関係するとも考えられる。

 出石の星宮神社は岐神を祭神とする息栖神社と西北45度線をつくる。その西北45度線を伸ばすと、三枝祇神社本宮里宮がある。その延長線上に大国玉神社があり、息栖神社と大国玉神社も西北45度線をつくる。三枝祇神社本宮里宮と天之可可背男を祭神とする友部の星宮神社が東北30度線をつくっていたが、友部の星宮神社と息栖神社が西北60度線をつくる。息栖神社・友部の星宮神社・三枝祇神社本宮が方位線三角形をつくるわけである。一方、加波山と波崎町手子后神社の西北45度線は息栖神社がもともと鎮座していたという日川を通る。日川全域が加波山と西北45度線をつくるので、息栖神社の旧鎮座地は加波山と西北45度線をつくっていたということになる。吉野裕子『蛇』によれば、「カカ」は蛇の古語であるという。そうすると、香香背男の香香は蛇を意味しているということも考えられ、龍蛇信仰をもつ出雲神族の祖神であるクナトノ大神と香香背男が結びつく可能性もあるわけである。

  出石の星宮神社(W0.164km、0.95度)―息栖神社―三枝祇神社本宮里宮(W0.381km、0.34度)―大国玉神社(W0.222km、0.18度)の西北45度線
  息栖神社―友部市仲市原星宮神社(E1.695km、1.54度)の西北60度線

 宿魂石の破片の落下した地点は、金砂神社や海からの漂着神信仰とも方位線で密接に結ばれていた。では、他の星信仰の場所はどうなのであろうか。協和町の星宮神社と岩瀬の星宮神社は東北60度の方向を作っていたが、岩瀬の星宮神社と西金砂神社、協和町の星宮神社と東金砂神社がそれぞれ東北45度線をつくる。岩瀬の星宮神社は加波山と西北45度線、協和町の星宮神社は吾国山と東西線をつくり、加波山・吾国山は宿魂石と東北30度線をつくり、宿魂石は東金砂神社と西北60度線をつくるわけである。

  西金砂神社―岩瀬町星宮神社(W0.196km、0.23度)の東北45度線
  東金砂神社―協和町星宮神社(W0.374km、0.37度)の東北45度線

 筑波山・神峯山の神も海からの漂着神と考えられるが、筑波山と神峯山がつくる東北45度線線上に友部の星宮神社が位置している。筑波山はその他下館市市林の星宮神社と西北45度線をつくり、また協和町の星宮神社は筑波山の西北60度線方向に位置している。また、筑波山の東北30度線上に村松皇大神宮があったが、そのすぐ側に日本三大虚空蔵の一つとされる村松虚空蔵堂があり、筑波山は村松虚空蔵堂とも東北30度線をつくるといえるが、村松虚空蔵堂は明治維新のとき一度星宮神社とされ、数年後に再び虚空蔵堂に戻されたという。石神社は村松皇大神宮とよりは村松虚空蔵堂とより正確に西北60度線をつくる。下館市市林の星宮神社は御岩山と東北30度をつくり、御岩山と吾国山の東北45度線方位線上に静神社があるということになる。桂村の三枝祇神社は神峯山とも東北30度線をつくる。御根磯・静神社・桂村下圷手子后神社・桂村三枝祇神社が東西線上に並び、桂村三枝祇神社と方位線をつくる神峯山と宿魂石が南北線で結ばれ、また神峯山と方位線をつくる友部市星宮神社と桂村下圷手子后神社が東北60度線で結ばれ、友部市星宮神社と桂村下圷手子后神社が加波山三枝祇神社本宮里宮とそれぞれ方位線をつくるというわけである。

  神峯山(W0.143km、0.12度)―友部市星宮神社―筑波山女体峰(E0.061km、0.14度)の東北45度線
  筑波山女体峰―下館市市林星宮神社(E0.116km、0.36度)の西北45度線
  筑波山女体峰―協和町星宮神社(E0.420km、2.07度)の西北60度線
  筑波山女体峰―村松虚空蔵堂(E0.484km、0.54度)の東北30度線
  石神社―村松虚空蔵堂(E0.130km、1.34度)の西北60度線
  下館市市林星宮神社―御岩山(E0.279km、0.24度)の東北30度線
  桂村三枝祇神社―神峯山(W0.392km、0.75度)の東北30度線

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常陸と下野の香々背男

 宿魂石と吾国山の東北30度線が香々背男の方位線であるとすると、それ方位線関係を下野まで拡げることができる。栃木県の香々背男を祭神とする神社をホームページ『神奈備にようこそ!』の「天香香背男命を祀る神社一覧」(http://kamnavi.jp/jm/kakaseo.htm)でみると次のようになる。なお、茨城県では『消された星信仰』に吾国山山頂の田上神と結城市の八幡神社が加えられているのでそれも載せておく。

  栃木市平井町659 大平山神社摂社星ノ宮「天加加背男命」
  栃木県小山市押切87 星宮神社「香香脊男命」
  栃木県小山市下石塚716 星宮神社「香香背男命」
  栃木県小山市上国府塚738 星宮神社「香香背男命」
  栃木県下都賀郡藤岡町大和田1,358 三毳神社「日本武命 配 香香背男命ほか」
  栃木県下都賀郡岩舟町静4,165 星宮神社「香香背男命」
  栃木県下都賀郡郡岩舟町下津原1,145 三鴨神社「主 事代主命 配 建御名方命、香香背男命 ほか」
  栃木県下都賀郡都賀町大柿455 星宮神社「香香背男命」
  茨城県笠間市福原田上6132 田上神社「主 豐宇氣姫命 合 軻賀背男命 ほか」
  茨城県結城市結城7086 八幡神社「譽田別命 合 火火背男命、豐受皇大神」

 このうち、三鴨神社・上国府塚・下石塚の星宮神社が吾国山の東西線上に位置しているのである。それに対し、宿魂石と加波山も東北30度線をつくるとしたが、加波山の東西線上に三毳神社・静・押切の星宮神社が位置している。これは加波山もかつては香々背男と関係していたということを示しているのかもしれない。東西線ということでは、その他に結城市の八幡神社が、加波山神社本宮里宮三枝祇神社と東西線をつくり、桂村三枝祇神社とも東北30度線をつくる。また、太平山神社は旧友部市仲市原の星宮神社と東西線をつくる。

  吾国山―小山市下石塚の星宮神社(N0.011km、0.02度)―小山市上国府塚の星宮神社(N0.540km、0.78度)―岩舟町下津原の三鴨神社(S0.047km、0.05度)の東西線
  加波山―小山市押切の星宮神社(S0.245km、0.37度)―藤岡町大和田三毳山上の三毳神社(S0.413km、0.50度)―岩舟町静の星宮神(N0.324km、0.42度)の東西線
  結城市結城八幡神社―加波山三枝祇神社本宮里宮 (N0.203km、0.53度)の東西線
  結城市結城八幡神社―旧桂村三枝祇神社(W0.271km、0.33度)の東北30度線
  旧友部市仲市原の星宮神社―大平山341m標高点(S1.459km、1.52度)の東西線

 栃木県の香々背男を祭神とする神社は小山市・岩舟町とその周辺にのみみられ、小山市に隣接する結城市の神社もその中に含まれるとすべきであろう。これらの神社はさらにいくつかのまとまりに分けることができる。一つは岩舟町の三毳山周辺の神社で、三毳山山上の三毳神社、三鴨神社、岩舟町静の星宮神社であり、次に小山市思川西岸一帯にある下石塚、上国府塚、押切の星宮神社、そして結城市の八幡神社、星宮熊野神社である。これらのグループをみると、三毳山周辺では三毳神社と三鴨神社が東北60度線をつくる。また、加波山の東西線上にあった三毳神社と静の星宮神社も東西線をつくる。三鴨神社と星宮神社は方位線ではないが、方向線をつくるともみなせ、三毳神社・三鴨神社・静の星宮神社は方位線正三角形を作るとも考えたい。思川西岸一帯の神社では押切と上国府塚の星宮神社が東北45度線をつくる。結城市の二つの神社も南北線をつくる。ただ、八幡神社の火火背男命は他で祀られていたのが八幡神社に合祀されたということなのであろうか。

  三毳山上の三毳神社―三鴨神社(E0.081km、1.85度)の東北60度線
  三毳山上の三毳神社―岩舟町静の星宮神社(S0.090km、1.85度)の東西線
  三鴨神社―岩舟町静の星宮神社(E0.155km、3.34度)の西北60度線
  小山市押切の星宮神社―小山市上国府塚の星宮神社(W0.052km、0.63度)の東北45度線
  結城市の八幡神社―星宮熊野神社(W0.050km、0.99度)の南北線

 グループ内で方位線関係が見られたが、グループ間においても方位線関係がある。吾国山の東西線上にあった小山市下石塚の星宮神社と三鴨神社であるが、この二社も直接東西線をつくる。それに対し、三毳神社の登り口の麓にも三毳神社が在り、これは山上の三毳神社の里宮のような密接な関係があると思われるのであるが、この麓の三毳神社と押切の星宮神社も東西線をつくる。思川西岸から三毳山にかけての香々背男を祭神とする神社は吾国山・加波山に対応した二つの東西線を軸としたグループに分けることもできるわけであが、山上の三毳神社と麓の三毳神社が一体のものとすれば、三毳山周辺の神社と小山市の思川西岸の神社は一つの方位線網方位線で結ばれていることになるわけである。

  三鴨神社―小山市下石塚の星宮神社(N0.058km、0.27度)の東西線
  三毳山南麓の三毳神社―小山市押切の星宮神社(S0.181km、1.12度)の東西線

 残る大平山神社と都賀町大柿の星宮神社であるが、大平山神社は三鴨神社と東北45度線をつくり、その西北30度線上に小山市上国府塚と下石塚の星宮神社がある。また、大平山と大柿の星宮神社が南北線で結ばれている。大柿の星宮神社は下石塚の星宮神社と西北60度線をつくり、結城市の八幡神社と西北45度線をつくる。大平神社・大柿の星宮神社を含めた下野の香々背男を祭神とする神社は、結城市の二社を加えて大きな方位線網をつくっているわけである。またその方位線網は加波山・吾国山さらには宿魂石、友部仲市原の星宮神社とも方位線で結ばれているのであるから、常陸と下野の香々背男を祭神とする神社は一つの大きな方位線網をつくっているといえるわけであり、それは常陸・下野に広がる一つの香々背男信仰圏があったことを示しているのかもしれない。

  大平山神社―三鴨神社(Kw0.091m、0.78度)の東北45度線
  大平山神社―小山市上国府塚の星宮神社(W0.217km、1.61度)―小山市下石塚の星宮神社(0.289km、1.91度)の西北30度線
  大平山341m標高点―都賀町大柿の星宮神社(W0.331km、1.93度)の南北線
  都賀町大柿の星宮神社―小山市下石塚の星宮神社(W0.568km、1.93度)の西北60度線
  都賀町大柿の星宮神社―結城市八幡神社(W0.826km、1.86度)の西北45度線

 三鴨神社の祭神は香香背男命の他に事代主命・建御名方命であり、出雲神族系の神社といえよう。太平山神社もその歴史は、垂仁天皇の御字に大物主神・天目一大神が三輪山(現太平山)の剣宮に鎮座した時に始まるという。かつては山自体が神体山であり、境内のもっとも奥に太平山三輪神社があって現在も禁足地になっており、『消された星信仰』によれば三輪神社の裏に洞窟があり、向かって右側の神体山に通じているといわれ、神体山の上には磐座があるという。現在、太平山神社では、本殿の背後に奥宮(剣之宮・武治之宮)があり、天目一大神を祭神としている。それに対し、境内摂社として三輪神社があり、大物主大神・大己貴大神・少彦名神を祭神としている。『消された星信仰』でいう太平山三輪神社は奥宮のことと思われるが、それとは別に摂社として三輪神社があるわけである。太平山神社の旧号は「大神社(おおみわのやしろ)」で、式内・大神社の論社とされているともいうから、もともとは大物主神を主神にしていたと考えられ、太平山神社ではあきらかに出雲神族系外しが図られているいえよう。現在三輪神社では四十二座の神を祀っているが、戦国時代の天正年間には六十座あり、その中には香香背男も祀られていたという。また、明治の神仏分離によって大平権現は大平山神社となるにあたり、本尊の虚空蔵菩薩を納めていた本地堂が大平山星宮神社になり、境内摂社の星宮神社では、磐裂根裂神・天海水木土火金地などの森羅万象の神々の一柱として現在天之加々背男命が祭られているが、天之加々背男命はもともと三輪神社と結びついた神だったということであろうか。三鴨神社・大平山神社とも出雲神族系の神社で、香々背男を祀り、東北45度線で結ばれているわけである。また、三毳神社の祭神は日本武命であるが、三毳は「みかも」で三毳神社と三鴨神社は結局同じ名前の神社ということができ、三毳神社は「三鴨神社」ということであり、鴨神社ということから三毳神社ももともとは出雲神族系の神を祀っていたのではないだろうか。そうすると、大平山神社・三鴨神社・三毳神社が出雲神族系の神社として方位線で結ばれていることになるわけである。大平山神社は氷川女体神社と南北線をつくっている。それに対して三毳神社は氷川神社と南北線をつくる。また、三毳神社と東西線をつくる加波山の西北45度線上に息栖神社の旧鎮座地の日川があったのであるから、加波山と三毳神社の東西線は出雲神族とも結びつくのかもしれない。加波山と三毳神社の東西線を西に延長すると、出雲神族とされる伊勢津彦伝承のある八風山がある。

  太平山341m標高点―氷川女体神社(E0.256km、0.28度)の南北線
  三毳山上の三毳神―氷川神社(W0.319km、0.43度)の南北線
  八風山―三毳山上の三毳神(N2.559km、1.56度)―加波山(N2.146km、0.87度)の東西線

 なお、天香香背男命を祀る神社一覧を見ると、星の付く神社と違って天香香背男命を祀る神社の数は、栃木・千葉・茨城・高知が突出しているわけではない。栃木8社、千葉5社、茨城5社、高知7社に対し岡山7社、島根5社、徳島4社、天津甕星神を加え岐阜4社など、同じぐらいの神社がある県も多いのである。特に岡山県は久米郡に4社あるが、『和名抄』の郷名「倭文」は美作国久米郡にもあることから、『日本書紀』の建葉槌命と天津甕星香々香背男伝承の舞台として注目される。


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常陸の龍神

 『常陸国風土記』のクレフシ山と逸文に出てくる伊福部山の話しは、兄妹のうちの一人が雷によって殺されるという同じような話しである。クレフシ山の神は雷神であり龍蛇神でもあるが、逸文に出ている伊福部神も雷神であり龍蛇神であると考えるべきであろう。伊福部神の話とは、妹が雷となった伊福部の神に殺されたので、兄は仇を討とうとするが、その神の居場所がわからない。そこに、一羽の雌雉が飛んできて、肩にとまったので、兄は麻糸を巻いた積麻(へそ)をとって雉の尾につけたところ、雉は飛んで伊福部の岳にあがった。兄が積麻をたどっていくと、雷が寝ている石屋についた。太刀を抜いて雷を斬ろうとすると、雷が助けてくれれば百年の後までも子孫に落雷のおそれがないようにいたしますというので、雷を許してやり、また、雉には生々世々この恩は忘れない、もしそれに反したら病気になって一生不幸になるだろうと誓った。それでそのところの百姓は今の世になったも雉を食べない、というものである。谷川健一編『日本の神々 関東』で北畠克美氏は八瓶を伊福部岳とする。『新編常陸国誌』に「号テ伊布貴山八甕峠と云ウ」とあるという。クレフシ山は朝房山といわれ、朝房山と八瓶山はともに大洗磯前神社の西北30度線上にあった。大洗磯前神社の神は出雲神族の神であるから、龍蛇神であり、吉野裕子『隠された神々』によれば、海と空とが一つになった常世の神は祖神としての蛇であったとされ、そうすると常世から来る神は龍蛇神ということになる。出雲でも神在月に稲佐の浜に八百万の神の最初に来るのが、「竜蛇さん」と呼ばれ、オオクニヌシの命のお使いとされる龍神である。また、海を照らして移動するのは蛇でもあった。『古事記』では正体を蛇と知って逃げる垂仁天皇の皇子ホムツワケを肥長姫は海原を光して追いかけているし、大物主は海を光してより来る神であった。龍蛇神信仰を持つ出雲神族である伊勢津彦は太陽のように光輝いて波に乗って去っている。海から光る石として顕れた大洗磯前神社の神も龍蛇神ということになる。朝房山と八瓶山がつくるのは方向線であるが、大洗磯前神社・朝房山・八瓶山が龍蛇神と結びつくとすれば、朝房山と八瓶山にも密接な関係を認めてもいいのではないだろうか。

   朝房山―八瓶山(E0.425km、2.39度)の西北30度線

 谷川健一『青銅の神の足跡』によれば、伊福部神の物語を『地名辞書』は八郷町(現石岡市)の上曾をその物語の場所としており、それは柿岡の西北一里に葺山があり、それはイフキとやや音が近いからであると述べているという。柿岡の西北約6qのところにきのこ山があり、その中間に上曾がある。「きのこ」を漢字でかくと「茸」で「葺」に似ている。鈴木建『常陸国風土記と古代地名』によれば、きのこ山の茸は葺の誤りで、葺山はイフキ山にやや近いので、これを伊福部山とする説もあるという。きのこ山と朝房山もやはり東北45度線をつくる。

  きのこ山―朝房山(E0.282km、0.62度)の西北45度線

 伊福部岳については、根本亮『口訳 常陸国風土記』では、十王町伊師浜に天然記念物のいぶき山イブキ樹叢があるが、そのいぶき山を伊福部岳とする。いぶき山イブキ樹叢は海岸にあるので、いぶき山はその近くの山ということになるが、石滝の稲村神社のすぐ側の標高42.5mの山一帯がいぶき山なのであろう。この場合は、朝房山と方位線をつくらない。ただ、八瓶山とイブキ樹叢のいぶき山は東北30度線をつくる。伊福部山とされる八瓶山・きのこ山・イブキ樹叢近くのいぶき山と朝房山が方位線で結ばれていたということにもなるわけである。『常陸国風土記』に載っていた伊福部岳以外にも、伊福部といわれていた山があり、八瓶山・このこ山・イブキ樹叢近くのいぶき山も伊福部山で、それらは龍蛇神と関係する山だったのかもしれない。なお、きのこ山・朝房山の東北45度線と八瓶山・イブキ樹叢近くのいぶき山の東北30度線の交わるところに御岩山があることになる。

  八瓶山―いぶき山イブキ樹叢42.5m三角点(W0.331km、0.38度)の東北30度線

 柴田弘武『東国の古代』によると、栗田寛氏は「今、多賀郡川尻村に雉子明社の社あり。社の北三町許に夷吹山と云あり」としているそうであるが、志田諄一『常陸風土記とその社会』によると、川尻に雉子明神という神社はなく、そのあたりには夷吹なる地名も、そのような山もないが、雉を食べない習慣を残す「お雉さん」すなわち日立市川尻の白山神社を雉子明神社にあて、「いぶき山」をそこから三町ばかり北にある「かんぶり穴」に比定しているという。「キミガ子孫ノスエ雷震ノオソレナカラン」の「雷震」は秋本吉郎氏のように、これを「いかつち」と読むのではなく、「かんぶる」または「かんぶり」と読むべきで、「イカツチノフセル石屋」というのは、死者の霊魂である雷神又は蛇神の祀ってある「かんぶり山古墳」になり、伊福部岳と結びつくということらしい。「かんぶり山古墳」は装飾古墳で、その正確な位置は調べきれなかったが、十王川が日立電線の工場にそって東から南に流れを変えるあたりらしい。どちらにしても、今までの伊福部岳候補地とも朝房山とも方位線をつくらない。ただ、他の三ヶ所が伊福部岳と音が近いことから比定された山であるのに対し、「かんぶり穴」は雉あるいは「雷震」の読み方に注目した古墳であり、一応他の三ヶ所とは性格が違うともいえる。

 鹿島神宮の要石は、地中にいる大鯰が暴れると地震が起こるので、暴れないように大鯰の頭を要石で押えているとされる。宮田登『ミロク信仰の研究』によれば、鹿島の要石伝説は、「日本の地中に大鯰が横たわっており、首尾がこの地で一致する。その地点を鹿島神が釘で貫き止めた。その釘が要石」だというものであるが、近世初期ぐらいには要石と地震鯰との結びつきはそれほどはっきりしていなかったらしい。ただ、鯰は古来から変災を予知する存在として知られ、『今昔物語集』に見られ、『三代実録』には貞観八年(866)は飢饉の年であったが、京の東堀河に鯰が多く出たとあるという。岩瀬町(現桜川市)磯部の磯部稲村神社境内にも要石があり、鹿島神宮の要石は鯰の頭を押え、磯部稲村神社の要石は鯰の尾を押さえているといい、また、鹿島の要石は凹形、磯部の要石は凸形で陰陽を表現したもであるという。香取神宮の要石も凸形で、鹿島神宮の要石と香取神宮の要石は地中でつながっているといわれ、鹿島神宮と香取神宮は東北45度線をつくっていたが、鹿島神宮と磯部稲村神社も西北45度線をつくる。

  鹿島神宮要石―磯部稲村神社(W0.066km、0.06度)の西北45度線

 鹿島神宮と磯部稲村神社の西北45度線上には鯰が横たわっているということになるが、黒田日出男『龍の棲む日本』によれば、鹿島神宮の要石が押さえつけていたのは鯰ではなく、もともと龍だったという。以下『龍の棲む日本』によると、中世人の地震に関する知識は、陰陽道や天文暦学に基ずく宿曜道によることはいうまでもないが、中世人の地震観を表わして一番存在感のあるのが仏教の地震論であり、その知識のもとになっている『大智度論』には、地震は火動・龍動・金翅鳥動・天王動の四つに分けられており、仏教の地震論・地動論を受けて、陰陽道のそれも形成されたが、中世には水神動が加わって五種類の地震が考えられていた。龍は地震を引き起こす存在とされていたわけであり、その知識が『大智度論』からきているとすれば、中世以前から知られていたことが考えられるという。中世には地震を起こすのは龍と考えられていたわけであるが、龍から鯰への変化が十七世紀後半に進行し、十八世紀初頭には定着していったことが推定できるという。要石は地震や震動で揺れる大地を繋ぎとめる役割を果たすものであり、また本来「金輪際」、すなわち仏教の宇宙観による大地の最も深いところにまで達している長大な柱であるとされている。要石がいつ頃から在ったかであるが、貞治五年(1366)に成立した藤沢遊行寺の僧由阿(ゆうあ)による『万葉集』の注釈書である『詞林采葉抄(しりんさいようしょう)』に「およそ我が朝をば藤根の国と申すとか。これ即ち鹿嶋の明神が、金輪際から生え出した御座(みまし)の石を柱として、藤の根によって日本国に繋ぎとめられたと申すゆえなのである。」とあり、永和三年(1377)に成立した了誉聖冏(りょうよしょうげい)の『鹿島問答』にも「動杭(ユルグクイ)ヌケセヌト云ウ事モ、当社ニアリ。」とあり、この杭は御座の石のことであるという。『鹿島宮社例伝記』に「奥の院の奥に石の御座がある。これを俗に要石という。山の宮とも号している。鹿島大明神がお降りになったとき、この石にお座りになった。この石は金輪際に連なっているという。」とあり、御座の石が要石であり、すでに十四世紀中頃の南北朝時代には御座の石=要石が鹿島神宮にあったことが分かり、それは十三世紀にまで遡る可能性が大きいという。また、『日本書紀巻一聞書』によれば、国中柱即ち国軸は、鹿島動石、伊勢大神宮、大和の金剛山、日向の狗留孫仏の四ヶ所にあるとされ、国中柱即ち国軸とはふわふわと漂いがちな国土をしっかりと大地の奥底の金輪際に繋ぎとめる石・柱・杭であり、まだ要石とは呼ばれていないが、鹿島動石こそが揺らぐけれども決して抜けない石であり、ここに鹿島の要石の誕生を見ることが出来き、動石が要石とよぱれるプロセスは室町時代に進行したと思われるという。要石と龍の関係であるが、伊勢神宮の正殿床下にあって最も神聖視された「心の御柱」も国中の柱・国軸の一つであるわけであるが、その心の御柱について研究した山本ひろ子氏に、心の御柱には蛇がまとわりついているという記述が注目されるという。『鼻帰書』では「今の心の御柱もまた、閻浮提の衆生の心法を表わしているがゆえに、須弥山ともいわれるのである。その白蛇の棲む須弥山をば、難蛇龍王・抜難蛇龍王が取り巻いていると、倶舎論は解釈している。そこで我ら衆生も須弥山というのである。」とあり、中世のメタファー的思考が、大神宮の心の御柱をも、龍が取り巻いて守護しているとイメージしていたとすれば、鹿島の動石にも龍が関わっていたと推測しても無理はないであろうとする。山本ひろ子氏によると、『鼻帰書』には伊勢外宮の酒殿という殿舎には天逆鉾が収められているが、酒殿は弁財天の棲みかといわれており、天逆鉾は心の御柱のことであり、それゆえ、柱の下の白蛇を弁財天というのであろうか、という記述もあるという。
 吉野裕子『日本人の死生観』によれば世界の多くの原始信仰と同様、日本でも蛇信仰は太陽信仰と表裏をなしている。もっとも古く、広く各地に見られる蛇信仰のひとつに、原始の海か、中央の世界の樹の根元に住む巨大な世界蛇というものがあり、世界蛇とは宇宙意志をおこなう大元の存在であって、想像を絶する巨大さで国土を取り巻いている。なお、御座の石を柱として、藤の根によって日本国は繋ぎとめられているというが、藤とは蛇あるいは龍蛇神のことであった。
 龍と鯰の関係であるが、『龍の棲む日本』によれば、琵琶湖の竹生島について、中世において竹生島は金輪際から生え出た水晶輪ないし金剛宝石の島であり、文保二年(1318)六月の光宗の自序がある『渓嵐拾葉集』によれば、竹生明神は弁の岩屋と呼ばれる龍穴から出現し、その姿は龍であることになるが、同じく『渓嵐拾葉集』では「竹生島の明神は魚龍である。相伝によれば大鯰が七匝り島を繞っている。」とあり、康永四年(1345)に書写された『諸寺縁起集』(護国寺本)のうち「竹生島縁起」には「ここに海龍がやってきて、島を七回もめぐり、とぐろを巻いて島を鎮め、尾をくわえた。……ある人が伝えていうには、この海には大鯰がいる。長さは千丈もある。この島を取り巻くこと数めぐりしている。尾をくわえているとはこのことである。」とあり、これらの史料の記述から、中世の竹生島において海龍は大鯰でもあったという。宮田登『ミロク信仰の研究』には、琵琶湖には鯰が多く棲むといわれているが、その中の主と目される巨大な老鯰はめったに人の目に触れることはないが、村人はそれを黒竜と云い伝えていたという話が載っている。鯰は龍でもあったわけである。一方、鎌倉末期の成立かともされる『鹿島宮社例伝記』では、竹生島は要石と同じに、地震があっても動かないのだとされているという。

 鹿島神宮の要石の押えているのが龍から鯰に変わったとすれば、鹿島神宮と磯部稲村神社の要石が押えていたのももともとは龍だったのではないだろうか。もっとも、その話が出来たのが龍から鯰に変わった後だった場合はそうはいえなくなるわけであるが、どちらにしても、そのような話しが出てくるのも、もともと鹿島神宮の要石と磯部稲村神社の要石を関係付ける伝承があったからかもしれない。磯部稲村神社のホームページ(http://www18.ocn.ne.jp/~isobe/index.html) の要石のところをみると、「鎌倉時代後期、鹿島神宮の神領地とされた時代がある。この地、元鹿島の伝えあり。」ともある。要石の案内板のところには、「常陸一ノ宮鹿島神宮の戌亥の鎮守にあたり」とあった。鹿島神宮の要石と磯部稲村神社の要石は古くから結びついて考えられていた可能性はあり、また戌亥という方角も古くから意識されていたのかもしれない。ただ、磯部稲村神社と龍蛇神との関係は複雑なようである。磯部稲村神社のホームページの由緒には「景行天皇四十年(西暦111)十月、日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を此の地へ移祀したと伝えられる。」とあるが、宮司さんによると、伊勢の磯部の民が移り住んで来て、伊勢神宮を分祀したのが始まりで、現在40代目で、それ以前は判らないということらしい(http://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911co/27519265.html)。一方、本殿の脇に鬼瓦状のものがあり、三巴紋が彫られていた。ホームページにも巴紋が載っているので、磯部稲村神社の神紋は三巴紋なのであろう。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、亀甲紋と巴紋が竜蛇神の神紋であるというから、磯部稲村神社はもともとから龍蛇神を祀る神社だったことは考えられる。しかし、どうして伊勢神宮の荒祭宮を分祀した磯部稲村神社の神紋が三巴紋ということになるのであろう。志摩の伊雑神宮のある地は磯部町である。そこの民は志摩の磯部の民ということになるであろう。また、志摩の磯部の民の神は伊雑宮の神ということであろう。伊勢と志摩の磯部の民が一体のものであるとすれば、伊勢の磯部の民の神は伊雑宮の神と同じものということになる。イセツヒコ・イサワトミの命ともに出雲神族の伝承では出雲神族であった。伊雑神宮の神ももともとは出雲神族の神であったということが考えられる。そうすると、伊勢の磯部の民が移り住んで来て龍蛇神を祀ったとしても不思議ではないことになる。しかし、龍蛇神を祀るにしてもどうして伊勢神宮の荒祭宮なのであろうか。伊勢神宮の荒祭宮について、『隠された神々』で吉野裕子氏は荒祭宮を天照大神に習合された「太一」すなわち北極星を象徴する宮なのであり、天照大神を「表」とすれば、この大神に習合された「太一」はその「裏」に密着している隠された神であるとして、「太一」と結び付けている。香々背男のカカは蛇の古名から来ているのではないかとしたが、吉野裕子『日本人の死生観』によれば、蛇は神の光り輝く目と同一視され、目とコブラは同義である。蛇は太陽神・豊穣神・土地神であると同時に、星のシンボルでもあったという。星の神である香々背男が龍蛇神であっても不思議ではないわけである。磯部稲村神社も元々は蛇=星神を祀る場所だったのかもしれない。もしそうなら、三巴紋があり、そこに太一=北極星を象徴する荒祭宮が分祀されたとしても不思議ではないわけである。あるいは、磯部稲村神社は「太一」すなわち北極星とされいる以前の荒祭宮の姿を実は残しているのかもしれない。子持山のところで記したが、竹内健氏によれば『神道集』の「兒持山之事」は、「アラハバキ比売」の物語であり、近江雅和氏は磯部氏が奉祭する荒祭宮と内宮の別宮興玉神も、二見の興玉神もアラハバキ神で、伊勢から上野国に移住した磯部氏が、地主神のアラハバキ神を主張したのが「子持山伝承」だったとしている。

 鹿島神宮の要石と磯部稲村神社の要石の間に龍が横たわっているとすると、その方位線が通る愛宕山・難台山・吾国山は龍の胴体ということになるかもしれない。海からの漂着神の方位が冬至の日の出方向から巽の方向へと変わったとする大和岩雄氏の説からいえば、海から依り来る神は龍蛇神でもあるのであるから、その意味でも鹿島神宮の西北45度線上にある愛宕山・難台山・吾国山が龍蛇神と結びついているということはありえるわけである。もっとも、愛宕山・難台山・吾国山に明確に蛇や龍神がみられるわけではない。

  磯部稲村神社―吾国山(E0.171km、1.29度)―難台山(E0.165km、0.91度)―愛宕山(E1.188km、5.05度)の西北45度線

吾国山は藤田稔『常陸の伝説』によれば、日本武尊がこの山に登り、霊地であると感嘆し、「これ他国に非ず、実に吾が国なり」といったのが山名のおこりであるという。山頂には吾国神社があり、別名田上神社ともいい、三十三町目石があるが、福原村(現笠間市)田上からの参道の距離を現しているのかもしれないという(http://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/ibaragi.htm)。祭神は豊宇気姫命である。豊宇気姫命は伊勢神宮外宮の祭神であるから、磯部稲村神社に内宮荒祭宮が分祀され、吾国山に豊宇気姫命が祀られているのは、吾国山と磯部稲村神社との間になんらかの結びつきがあったということなのかもしれない。外宮の神官である渡会氏は磯部氏を名乗っていたときがあるともいわれる。吾国山と龍神であるが、吾国山から難台山に向かって降りていくと、道祖神(どうろくしん)峠がある。しかし、これをもって吾国山がクナトノ大神と関係のある山といえるかといえば、必ずしもそうではないだろう。江戸時代にある個人がその場所に道祖神を置いたということもありえるし、おそらくその可能性の方が強いのではないだろうか。峠には小さな道祖神があり、像は写真で見る限り特に古いものでもなさそうである(http://yamanoboridaisuki.blog.so-net.ne.jp/2009-04-19)。ただ、吾国山が龍蛇神と関係があるのは香々背男が祀られていることからいえるかもしれない。
 愛宕山であるが、平田篤胤『仙境異聞』には「岩間山といふは、常陸国の何郡に在る山ぞ。」という質問に「寅吉云はく、筑波山より北方へ四里ばかり傍らにて、峰に愛宕宮あり。足尾山、加波山、吾国山など並びて、笠間の近所成り。竜神山といふもあり。此の山は師の雨を祈らるゝ所なり。」とある。寅吉の話では、師の杉山僧正が愛宕山の南にある龍神山で雨乞いをしたというから、逆に愛宕山が龍神と関係するならわざわざ龍陣山で雨乞いする必要もないともいえるわけであるが、愛宕山がまったく龍神と関係がないのかというとそうでもなく、愛宕神社の奥にある飯綱神社の摂社に出雲社と龍神社がある。龍神山からも実は愛宕山も龍神の山であることがいえるかもしれないのである。龍神山について藤田稔『常陸の伝説』によれば、村上・染谷の二大字にまたがり、村上と染谷にはそれぞれ佐志能神社があり、村上を男竜さま、染谷を女竜さまと呼び、竜夫婦がすんでいたといい、山名もここからきたといわれているという。また龍神山には大江山酒呑童子の一族にあたる茨城童子という恐ろしい鬼が住んでいたが、ある日のこと源頼光のような強い人が征伐に来るという噂を聞いて、怖くてたまらなくなり、とうとう龍神山の西方にある三角形の山を飛び越えて、一目散に逃げ去ってしまったので、その山を鬼越山と呼ぶようになったという。そして、『茨城の伝説』では染谷の佐志能神社境内にある屏風岩には「雷神の穴」といわれる小さな穴があり、この穴の中に指を入れたが最後、雷鳴があるまでは決して抜けないといわれているというが、インターネットをみるとその穴を「風神の穴」と記すものが多く、染谷の佐志能神社の案内板にもそう書いてあるようである。この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説は同じであり、また夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ、雨を降らせるという(http://www.rekishinosato.com/sashinou2.htm)。雷神と関係のある穴が「雷神の穴」なら分かりやすいが、何故か「風神の穴」とも呼ばれており、「風神の穴」は雷神と関係することになるが、風神・雷神は対になった神でもあり、雷神は風雨も支配するというから、「風神の穴」も雷神に関係するということなのであろうか。黒田日出男『龍の棲む日本』によれば、龍は大蛇でもあり、雷神でもあり、鶏などでもありえたが、日本の龍は中国の龍、仏教の龍王・龍神、日本の蛇が結びついたものであるが、それら三者に共通する一番重要な特徴は、いずれも風雨を呼び起こす力を持つ存在だということであるという。染谷の佐志能神社の「雷神の穴」あるいは「風神の穴」は「龍神の穴」と理解できる。谷川健一編『日本の神々 関東』によれば、八瓶山について『新編常陸国誌』に「頂ニ八瓶神社アリ(風穴ナリ)祠後一大石アリ、其蔭ニ八瓶ヲ置ク、常ニ水ヲ蓄フ」とあるという。八瓶山も龍神と深く関係する山であり、そこに「風穴」があるということは、「風神の穴」あるいは「風穴」がある場所は龍神と関係があるといえるのではないだろうか。江原忠昭『増補・茨城の地名』によると愛宕山は別名風穴山ともよばれるという。愛宕山も龍神と関係する可能性があるわけである。なお、龍神山は八瓶山と南北線を、きのこ山と西北30度線をつくる。

  八瓶山―龍神山196m標高点(W0.697km、1.40度)―村上佐志能神社(W0.276km、0.55度)―染谷佐志能神社(W0.505km、1.00度)の南北線
  きのこ山―龍神山196m標高点(E0.023km、0.12度)―染谷佐志能神社(W0.350km、1.80度)の西北30度線

 難台山は一番標高も高いし、愛宕山・難台山・吾国山の中では中心となる山かもしれない。山頂には小さな石の祠があるというが、『新篇常陸國誌』では男體山と記し、昔より羽梨(はなし)山とも云い、頂に御嶽祠ありとあるという。平田篤胤の『仙堺異聞』では、仙童寅吉は五條天神から最初に連れていかれたのは難台山で、そこから愛宕山に移ったとあるので、難台山と愛宕山は何か密接な関係にあるようにも考えられる。難台山と龍神であるが、山麓に羽梨山神社があり、拝殿に三巴紋を染めた幕がかかり、『全国神社名鑑』にも神紋は巴とあることから、三巴紋が羽梨山神社の神紋ではないかという。三巴紋から羽梨神社も龍神と関係する可能性がいえるわけであり、羽梨(はなし)山とも云われた難台山も龍神と関係した山だったかもしれないわけである。羽梨山神社はもとは難台山の中腹に在ったとも、東の山中、現在地から八丁の位置に在ったともいう。式内社・羽梨山神社に比定されている。式内社・羽梨山神社には異説もあり、そのうちの一つ『神祇志料』によると、『大同類聚方』に「茨城郡拜師里 羽梨山之神社」と記されており、村上・染谷の龍神社が、羽梨神なのかもしれないともあるという(http://www.genbu.net/data/hitati/hanasiyama_title.htm)。龍神山の佐志能神社も羽梨山神社であり、龍神を祀る神社であったとするなら、難台山の羽梨山神社も龍神を祀る神社ということにもなるであろう。難台山は現在地の西にあり、現在地の東は山中とはいえないから、東の山中とは難台山の東側の山中、すなわち現在地からいえば西に八丁のところに在ったということであろう。そうすると、羽梨山神社旧鎮座地と染谷の佐志能神社が南北線をつくる。また、愛宕神社と旧鎮座地は西北45度線をつくっていたかもしれない。

  羽梨山神社旧地付近―龍神山196m標高点(W0.089km、0.52度)―染谷佐志能神社(E0.103km、0.57度)の南北線
  愛宕神社―羽梨山神社旧地付近(E0.104km、2.50度)の西北45度線

 龍神山の近くに柏原池があるが、藤田稔『常陸の伝説』によると、龍神山の龍が月の明るい夜になると、美しい少女に姿を変えてこの池にあらわれた。府中石岡城の若侍がこの少女に懸想し、よなよなこの池に通い、相愛の仲になったが、幾日かたったのち、若侍はどうしたことか池の中で相果てていたという。この池には弁才天の祠がまつってあり、その祠のまわりを、片足あげて息を止め、三回まわると池の主の大蛇が出てくるという。愛宕山と柏原池が方向線ではあるが南北線をつくる。

  愛宕神社―柏原池(E0.329km、2.08度)の南北線

 吾国山と静神社が東北45度線をつくり、吾国山と磯部稲村神社が西北45度線をつくるわけであるが、磯部稲村神社と静神社も東北30度線をつくる。このこともまた、磯部稲村神社が蛇=星=香々背男を祀る神社だったことを示しているのかもしれない。さらに、磯部稲村神社は加波山の北、南北方向線上にあり、それらの方位・方向線からも磯部稲村神社と星信仰・香々背男の結びつきが疑われるのである。香々背男が祀られている大平山神社とも東西線をつくり、友部中市原の星宮神社より正確な東西線になっている。

  磯部稲村神社―静神社(W0.288km、0.55度)の東北30度線
  磯部稲村神社―加波山(E0.281km、2.09度)の南北線
  磯部稲村神社―大平山341m標高点(S0.354km、0.49度)の東西線

 龍神山もあるいは香々背男と結びついていたかもしれない。というのも、宿魂石と東北45度線をつくり、加波山と西北45度線をつくるのである。加波山と磯部稲村神社が南北線をつくっていたが、磯部稲村神社と龍神山も西北60度線をつくる。一本の東北30度線を引き、その方位線上に宿魂石・吾国山・加波山が並んでいると考えると、加波山・吾国山・磯部稲村神社が方位線三角形を作り、加波山・宿魂石・龍神山がやはり方位線三角形を作るということで、磯部稲村神社が星信仰・香々背男ともし結びつくなら、龍神山も結びつくと考えられるのである。笠間市城山にも佐志能神社があり、龍神山の佐志能神社とともに豐城入彦命を祭神としているが、染谷佐志能神社と宿魂石が東北45度線をつくるのに対し、笠間の佐志能神社は静神社と東北45度線をつくる。

  宿魂石付近―柏原池(E1.464km、1.78度)―染谷佐志能神社(W0.201km、0.24度)―龍神山163m三角点(W0.354km、0.42度)―龍神山196m標高点(W0.720km、0.86度)の東北45度線
  加波山―龍神山196m標高点(W0.423km、1.98度)―村上佐志能神社(W0.277km、1.25度)―柏原池(E0.261km、1.04度)の西北45度線
  磯部稲村神社―龍神山196m標高点(W0.911km、2.76度)―村上佐志能神社(W0.653km、1.94度)―染谷佐志能神社(W1.015km、2.99度)―柏原池(E0.316km、0.87度)の西北60度線
  静神社―笠間佐志能神社(W0.429km、1.26度)の東北45度線

 方位線三角形をつくる磯部稲村神社・静神社・吾国山であるが、静神社が御根磯、吾国山と大洗磯前神社が東西線を作っていたのに対し、磯部稲村神社は護摩壇石と東西線をつくる。御根磯と鹿島神宮要石が南北線を作り、護摩壇石と鹿島神宮跡宮が南北線を作っていたが、護摩壇石は鹿島神宮要石とも南北線を作るといっていい。鹿島神宮と護摩壇石が南北線で結ばれ、護摩壇石と磯部稲村神社が東西線を作り、磯部稲村神社と鹿島神宮が西北45度線を作るということになるわけである。

  磯部稲村神社―護摩壇石(N0.203km、0.26度)の東西線
  護摩壇石―鹿島神宮要石(E1.014km、1.30度)―鹿島神宮本殿(E0.509km、0.65度)の南北線

 護摩壇石に祭神が漂着したという伝承をもつ神社のうち、静神社の他に岩船神社が磯部稲村神社と東北45度線をつくる。その方位線を延長すると金砂本宮神社・堅破山がある。堅破山からの磯出の浜に稲村神社があるわけであるが、磯部稲村神社と石滝の稲村神社にはやはり何らかの関連性があるのかもしれない。逆にもし何らかの関係性が見つかるとすれば、磯部稲村神社と堅破山の方位線にも物語性が出てくるということでもある。堅破山は静神社と東北60度線をつくっていた。また、金砂本宮神社は護摩壇石と西北60度線をつくり、岩船神社は酒列磯前神社と西北30度線、大洗磯前神社と西北45度線をつくっていた。

  磯部稲村神社―岩船神社(E0.266km、0.62度)―金砂本宮神社(W0.336km、0.50度)―堅破山(W0.330km、0.35度)の東北45度線

 龍神山・染谷の佐志能神社は酒列磯前神社と東北30度線をつくるといえる。大宮氷川神社と酒列磯前神社の東北30度線上に位置しているわけである。笠間市の佐志能神社も酒列磯前神社の東西線上に位置している。また、きのこ山と龍神山の佐志能神社が西北30度線をつくっていたが、きのこ山と笠間の佐志能神社も方向線ではあるが東北45度線をつくる。笠間の佐志能神社は吾国山・朝房山・静神社の東北45度線上にあるともいえるわけである。

酒列磯前神社―染谷・佐志能神社(W1.146km、1.65度)―龍神山163m三角点(W1.229km、1.75度)―龍神山196m標高点(W1.711km、2.46度)の東北30度線
  酒列磯前神社―笠間の佐志能神社(N0.029km、0.05度)の東西線
  きのこ山(E0.685km、2.20度)―吾国山(E0.589km、3.70度)―朝房山(E0.967km、6.79度)―笠間の佐志能神社―静神社(E0.429km、1.26度)の東北45度線

 大宮氷川神社と酒列磯前神社が東北30度線をつくっていたが、酒列磯前神社と龍神山が東北30度線をつくるということは、大宮氷川神社と龍神山も東北30度線をつくるということでもある。龍神山と加波山が西北45度線をつくり、加波山と大宮氷川神社は栃木県の三毳神社と南北線をつくり、栃木県の三毳神社が東西線をつくり、三毳神社と大宮氷川神社が南北線をつくるということになるわけである。一方、大宮氷川神社・龍神山と東北30度線をつくる酒列磯前神社は大平山と東西線をつくる。出雲神族の方位線ともいえる大平山と酒列磯前神社の東西線上、大平山を南限、笠間の佐志能神社を北限にした幅約2kmに護摩壇石・友部中市原の星宮神社・笠間の佐志能神社・磯部稲村神社があるともいえるわけである。大平山と氷川女体神社が南北線をつくり、大宮氷川神社と氷川女体神社が西北30度線をつくり、氷川女体神社と香取神宮が東西線をつくっていたが、香取神宮と三毳神社が西北30度線をつくる。

  大宮氷川神社―龍神山163m三角点(W1.448km、1.29度)―染谷・佐志能神社(W1.365km、1.21度)―柏原池(E0.002km、0.00度)の東北30度線
  大平山―笠間の佐志能神社(N1.965km、2.14度)―酒列磯前神社(N1.936km、1.30度)―護摩壇石(N0.557km、0.37度)の東西線
  香取神宮要石―三毳山上の三毳神社(W0.225km、0.14度)の西北30度線

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