平安京

桓武と天智の方位線
京都の磐座
平安京の四聖山
四岩倉
山城の三社と比叡山および将軍塚
大将軍社
籠神社と平安京
出雲大神宮と平安京
御霊神社
明治以降の方位線
京都の天満宮

 

桓武と天智の方位線

 桓武は自分が天智系の天皇であることを強く意識していたといわれるが、桓武の二つの都、長岡京と平安京の大極殿は、それぞれ天智の大津宮の北の聖山である八王子山の東北45度線、東北30度線上に位置している。このことは、逆に八王子山と大津宮との関係を考えさせるともいえるが、平安京大極殿については、単に八王子山からの方位線上にあるというだけのことではなく、もう少し重層した意味がある。八王子山からの東北30度線上には、平安京大極殿が造営される以前に桓武の母親である高野新笠の陵が造られているのである。そして、高野新笠の陵は音羽山の東西線上にも位置している。天智天皇陵が八王子山と音羽山の方位線上にあったように、高野新笠の陵も八王子山と音羽山の方位線上に造られたわけである。高野新笠の陵については、高橋徹『道教と日本の宮都』によると、近世までは亀岡への峠道の老ノ坂にある首塚という説、現在の乙牟漏の陵だという説などもあったという。現在地に決定されたのは明治13年であるが、高橋徹氏は現在地で間違いないのではないかとする。天智天皇陵と同じ方位線関係を持つ墓はやはり桓武の母である高野新笠の陵だったと考えるべきであろう。そして、高野新笠の陵は長岡京大極殿とも西北45度線をつくる。桓武の二つの大極殿は八王子山からの方位線上あるとともに、高野新笠の陵からの方位線上にもあるわけである。向井毬夫氏は長岡京の北の聖山を、大極殿の真北に位置する標高268mの白砂山ではないかとするが、白砂山と高野新笠の陵も東北60度線をつくる

  八王子山―長岡京大極殿(E0.241km、0.68度)の東北45度線
  八王子山―平安京大極殿(W0.032km、0.15度)―光仁天皇皇后陵(E0.051km、0.14度)の東北30度線
  音羽山―光仁天皇皇后陵(N0.251km、0.82度)の東西線
  長岡京大極殿―光仁天皇皇后陵(W0.013km、0.13度)の西北45度線
  白砂山―光仁天皇皇后陵(W0.022km、0.16度)の東北60度線

 早良親王は桓武天皇と同じく高野新笠を母とし、長岡京造営長官の藤原種継暗殺の容疑で、乙訓寺に幽閉され、抗議のため食事を断って無罪を主張したが、淡路島に流される途中の淀川山崎の津の高瀬橋というところで亡くなってしまう。梅原猛『京都発見 1』によると、乙訓寺の寺伝では、親王は身の潔白を示すため自ら食を断ち、寺で死んだという。早良親王の憤死から数年のうちに、桓武の夫人で藤原百川の娘の旅子、桓武・早良親王の生母高野新笠、皇后の藤原乙牟漏と続いて死に、皇太子の安殿親王の病気もますますひどくなることから、延暦十一年占うと早良親王の怨霊の祟りと出た。しかし、高野新笠が早良親王の怨霊によって殺されたとしても、死んでしまえば同格である。桓武は母親に護ってもらおうと思って、その力が最大に発揮できる場所に埋葬したのではないだろうか。八王子山と高野新笠の陵の方位線は高野新笠の力を強化する通路であり、高野新笠の陵と長岡京大極殿の方位線は、その強化された高野新笠の力を呼び込む通路という、呪術的意味があったのであろう。そうだとすれば、平安京大極殿もまた八王寺山と高野新笠の方位線上に造営されなければならなかったわけである。平安京大極殿の東北45度線上に早良親王を祭る崇道神社があるが、同じ意味があると考えられる。崇道天皇という諡を与えられ、神として祭られた早良親王は怨霊から桓武を護る力へと逆転したのである。早良親王の幽閉された乙訓寺であるが、やはり八王子山の東北45度線上に位置しているが、もしこれが方位線として意味があったとしても、早良親王の幽閉とは直接関係があったとは考えにくい。ただ、乙訓寺は高野新笠の陵の西北60度線上にも位置しているが、これは乙訓寺にも残っているであろう早良親王の怨念とも関連があると見るべきであろう。

  光仁天皇皇后陵―平安京大極殿(W0.082km、0.54度)の東北30度線
  平安京大極殿―崇道神社(E0.088km、0.66度)の東北45度線
  八王子山―乙訓寺(W0.133km、0.35度)の東北45度線
  光仁天皇皇后陵―乙訓寺(W0.062km、0.65度)の西北60度線

 桓武天皇も音羽山の方位線上に埋葬された可能性がある。すくなくとも現在桓武天皇陵とされている場所は音羽山の東北30度線上に位置しているのである。伏見区深草大亀谷古御香町古御香宮社の大亀谷陵墓参考地も音羽山の東北30度線上に位置している。現在の桓武天皇陵は幕末に考定されたのがそのまま明治政府に引き継がれただけのものであり、『別冊歴史読本 歴史検証天皇陵』の山田邦和氏の論文によれば、桓武天皇陵を考える上で基本的な史料として、文永十一年(1271)に柏原山陵が盗掘された際の報告に「件の山陵、十許丈を登り、壇の廻り八十余丈」とあり、これから桓武天皇陵の本体は周囲から30m以上高い丘陵の頂上にあり、直径が80mもある巨大なものだったことが分かり、山丘型陵墓であった可能性が高いが、現桓武天皇陵は暖斜面上にあり、伏見城下町の建設で地形に改変が加えられているとはいえ、山丘形の陵を想定することはほとんど不可能であり、大亀谷陵墓参考地はその根拠となった古図が江戸時代の偽作であることが判明し、また仏国寺石槨が出土したのは大亀谷陵墓参考地からではなく、仏国寺境内に続く藪からであったという。ただ、大亀谷陵墓参考地については、古図が作成された江戸時代にこの地が柏原陵であると認識されていた可能性までは否定できないとする。山田邦和氏は桓武天皇陵を現在の明治天皇陵の西北、伏見城二ノ丸跡にあたる標高100mの丘陵の頂部に比定するのであるが、そうすると桓武天皇陵は音羽山の東北30度線方向にはあるが、方位線をつくるとはいえないことになる。

  音羽山―大亀谷陵墓参考地±(W0.021km、0.17度)―桓武天皇陵(E0.007km、0.05度)の東北30度線

 桓武天皇柏原山陵については、『延喜式』にも、「兆域東八町。西三町。南五町。北六町。加丑寅角二峯一谷。」とある。山田氏はこの二つの峰を大亀谷陵墓参考地から仏国寺あたりに、また谷を桃山丘陵との間に比定しているが、大亀谷陵墓参考地から仏国寺あたりは高台ではあるが、果して峰と表現できるかどうかは疑問であろう。江戸時代の古図でも山の中腹に描かれている。一方、大亀谷陵墓参考地で考えると、兆域の東北角がほぼ大岩山の山頂近くにあたる。もし、桓武天皇陵が大亀谷陵墓参考地にあったとすれば、『延喜式』の記述は桓武天皇陵と大岩山との関係も窺わせる記述といえなくもない。方位線的にいうと、大岩山には無視できないものがり、平城京の朱雀大路を北に延長すると、大岩山の山頂に至るのである。天智天皇陵が藤原京中心軸の真北にあること、平城上皇が平城京への遷都を断行した薬子の変があるなど、当時平城京は過去の宮都ではなかったことなどを考えると、大岩山は桓武天皇陵と結びつく場所として無視できない場所ともいえるのではないだろうか。大岩山の東北45度線上、ということは大亀谷陵墓参考地とも東北45度線をつくるということでもあるが、交野天神社がある。桓武天皇は延暦四年と六年の冬至の日に交野ヶ原において天神を祭った。この時の郊祀壇の場所としては、古くから牧方市片鉾の杉ヶ本神社南方の一本杉といわれた場所で、四坪ばかりの墳墓のような形をした小丘が比定されているが、その他にも牧方市牧野阪の片埜神社とともに、交野天神社の社伝では桓武天皇がこの地で天神を祀ったとあり、桓武天皇の天神祭祀跡候補の一つとされている。郊祀壇の場所かどうかは別にしても、祭神を桓武の父の光仁天皇とするなど、桓武とは何らかの関係があった神社と考えられるのである。なお、交野山が三上山の東西線上にあったのに対して、交野天神社は三上山の西北30度線上に位置している。十丈ほどの高さも、大亀谷陵墓参考地近くまで谷状の地形が入り込んでおり、そこらいえば30mまではいかないかもしれないが、それに近い高さにはなる。

  大岩山三角点―平城京第一次大極殿(E0.037km、0.07度)の南北線
  交野天神社―大亀谷陵墓参考地±(W0.004km、0.02度)―大岩山三角点(E0.040km、0.17度)の東北45度線
  三上山―交野天神社(E0.021km、0.07度)の西北30度線

 桓武天皇陵は最初葛野郡宇太野に定められたが、周囲の山火事が発生し、平城天皇が占わせてみると、賀茂の地に近いことから賀茂の神の祟りと出たので、柏原に改葬されたという。宇太野は衣笠山の西南の京都市右京区宇多野の付近と考えられるが、向井毬夫『万葉方位線の発見』によると、松下見林の『前王廟陵記』には「今、鹿苑寺の西、衣笠山の北に宇多野あり、これなるか」とあり、そうすると下鴨神社社殿地や船岡山の真西に当たることになり、この方位が祟りの原因と考えられたのではないかとする。改葬については、平城天皇がいつ頃から平城京遷都を考えていたかであるが、それがかなり早い時期からであったとすると、平城京とも方位線をつくる大岩山に結びつく場所に改葬するための口実だったとも考えられる。金閣寺の西、衣笠山の北に最初の桓武天皇陵があったとすると、音羽山からの西北30度線が金閣寺と衣笠山の間を通るから、最初の桓武天皇陵も音羽山の方位線上にあり、その方位線上に天智天皇陵と桓武天皇陵が並んでいた可能性もあるわけである。音羽山の西北45度線上に下鴨神社・上賀茂神社があり、音羽山・下鴨神社・桓武天皇陵の方位線三角形を考えたいところでもある。

  音羽山―下鴨神社(W0.259km、1.48度)―上賀茂神社(E0.139km、0.60度)の西北45度線

 音羽山が下鴨神社・上賀茂神社と方位線をつくるのに対して、大津宮が上賀茂神社神体山の神山の西北30度線上に位置している。さらに、神山の西北60度線上に天智天皇陵がある。賀茂神社は長岡京遷都の際に奉幣があり、上下二社とも従二位に叙せられ、平安京遷都の時にも延暦十二年(793)遷都のことが賀茂両社に奉告され、翌延暦十三年には桓武天皇自身が行幸するなど、桓武天皇の遷都にあたって賀茂神社は重要視され、皇室の守護神とされていったが、桓武以前に天智天皇が下鴨神社・上賀茂神社と密接な関係をもっていた可能性があるわけである。神山と白砂山が東北45度線をつくり、さらに向井毬夫氏によると長岡京の北の聖山である白砂山と平安京の北の聖山である船岡山が東西線をつくり、その延長線上に下鴨神社があるということになる。向井毬夫氏によると白砂山の山麓は鳴滝での地で、藤原俊成の歌によると平安時代には鳴滝は禊の祭祀場であり、御室川の源流をなす白砂山は当然その神奈備山であろうという。南麓には金映山三宝寺があるが、住職の話では、直接長岡京とつながる伝承はないが、北方を大事にする信仰は開創以前からあったらしく、もっとも大切なお堂である満願妙見宮はもとは白砂山山頂に安置されていたという。

  神山―大津宮正殿(W0.182km、0.95度)の西北30度線
  神山―天智天皇陵(W0.190km、1.04度)の西北60度線
  神山―白砂山(W0.003km、0.03度)の東北45度線
  白砂山(N0.082km、1.31度)―船岡山―下鴨神社(S0.018km、0.36度)の東西線

 八王子山・高野新笠陵の方位線と平安京の関係は、八王子山と平安京羅城門が東北45度線、高野新笠陵と平安京羅城門が東西線をつくることからもいえるのではないだろうか。平安京が八王子山ばかりではなく高野新笠陵とも密接な関係があるということは、平安京遷都の理由の怨霊説にとって有利かもしれない。

  八王子山―平安京羅城門(W0.064km、0.25度)の東北45度線
  光仁天皇皇后陵―平安京羅城門(N0.032km、0.24度)の東西線

 八王子山と長岡京大極殿が東北45度線、音羽山と高野新笠陵が東西線をつくっていたのであるから、長岡京大極殿と平安京羅城門の東北45度線、音羽山と平安京羅城門の東西線も考えたくなる。大津宮正殿と長岡京羅城門が東北45度線をつくっていることから、長岡京大極殿と平安京羅城門も方位線をつくれば都合がいいが、長岡京大極殿から見て平安京羅城門は東北45度線方向にはあるが、方位線とはいえない。ただ、当時の人たちが鬼門や裏鬼門といった観念と結びつけて、長岡京大極殿と平安京羅城門にも方位線的な感覚を持っていたかもしれない。音羽山と平安京羅城門についてはは東西線をつくっているとみなせないこともない。音羽山の東北30度線上に長岡京羅城門があり、このことを考えると、この場合は一応当東西線をつくっているということであろう。さらにいえば、音羽山と平安京羅城門の方位線上に高野新笠の陵があったように、音羽山と長岡京羅城門の方位線上に桓武陵があった可能性もあるわけである。ちなみに、大亀谷陵墓参考地は平安京羅城門と西北45度線をつくり、長岡京大極殿とも東西線をつくる。

  長岡京大極殿―平安京羅城門(W0.305km、3.26度)の東北45度線
  音羽山―平安京羅城門(N0.283km、1.62度)の東西線
  大津宮正殿―長岡京羅城門(E0.076km、0.22度)の東北45度線
  音羽山―長岡京羅城門(E0.209km、0.76度)の東北30度線
  平安京羅城門―大亀谷陵墓参考地±(W0.014km、0.15度)の西北45度線
  長岡京大極殿―大亀谷陵墓参考地±(N0.166km、1.29度)の東西線

 平城京遷都の詔に「三山鎮を作し」とあり、平安京にもそれを継承する三山として、船岡山・神楽岡(吉田山)・双ヶ丘があったということは、長岡京にもやはり平城京の三山に対応する三山があったのではないだろうか。そのうちの、北の聖山を向井毬夫氏は白砂山とするわけである。東の聖山であるが、桃山丘陵か大岩山がその候補となるが、宮都と宮都が方位線で結ばれていなければならないとすれば、平城京中心軸上にある大岩山が東の聖山にふさわしいということになる。長岡京の北京極線を東に延長すると大岩山に突き当たる。西の聖山は、金子裕之氏によれば比較的小規模な独立丘ということが条件ということであるから、釈迦岳や小塩山では高すぎる。もっと手前の230mの三角点のある山がそうだったのではないだろうか。方位線的にみても、東北30度線上には天智天皇陵があり、東北45度線上には比叡山と延暦寺根本中堂、南北線上には神護寺がある。
 神護寺は和気清麻呂と関係する寺であるが、その結びつきがいつ頃のことなのか、いくつかの本をみても、もともと高雄山寺という寺があったが、荒廃していたので延暦年間に和気清麻呂が復興して和気氏の氏寺にした、高雄山寺を和気清麻呂が建てた、延暦年中に和気清麻呂の子供達が、和気清麻呂が河内国に創建した神願寺を当地に移して高雄山寺と合併した、等々さまざまな説があってよく分からない。もし長岡京時代のことだとすれば、標高230mの山の南北線上に位置するということが、和気清麻呂にとって意味があった可能性もあるわけである。南北線を南に延ばすと杉ヶ本神社があり、杉ヶ本神社の南方の一本杉というところが、桓武が天神を祀った場所の古くからの候補地であった。標高230mの山が天智天皇陵と方位線をつくるのに対して、杉ヶ本神社と音羽山が東北45度線をつくっている。ただ、江戸時代の『河内誌』に「壇上の古跡に老杉あり。今、交野の一本杉といふ」とあり、江戸時代に郊祀壇といわれる場所があったことは分かるが、『河内誌』が何をよりどころに杉ヶ本神社付近を桓武・文徳天皇の天神祭祀跡にしたのかよくわからないと高橋徹氏はいう。
 神護寺は大岩山とも西北45度線をつくっている。和気清麻呂との関係でいえば、この方位線のほうが物語性があるかもしれない。荒俣宏『陰陽師ロード』に、郊祀壇の跡に現在和気神社が建っているとある。この和気神社の場所については、おそらく枚方市あたりであろうと思われる略図が載っているだけであるが、交野天神社の社叢の中に継体天皇の楠葉宮の跡とされる貴船神社があり、貴船神社は別に穂掛神社とも和気神社とも呼ばれていたようである。貴船神社はもともと天神社の本殿の場所に鎮座していたが、天神社建立の際に、現社地に遷座したという(http://kamnavi.jp/en/kawati/katanote.htm)。荒俣氏のいう和気神社は貴船神社あるいは交野天神社のことを指しているのであろうか。交野天神社のすぐ近くの足立寺史跡公園の中にも和気清麻呂を祭神とする和気神社がある。その辺りに清麻呂は住んでいたというが(http://www.asahi-net.or.jp/~xk4n-ickw/GuideD2/kyotoG/a_yawata_002.htm)、この和気神社も大岩山の東北45度線上に位置している。

  230m山―比叡山三角点(E0.116km、0.32度)―延暦寺根本中堂(E0.184km、0.49度)の東北45度線
  230m山―天智天皇陵(E0.072km、0.29度)の東北30度線
  230m山―神護寺(W0.188km、0.80度)の南北線
  230m山―杉ヶ本神社(E0.034km、0.17度)の南北線
  杉ヶ本神社―音羽山(E0.140km、0.35度)の東北45度線
  大岩山―神護寺(E0.120km、0.43度)の西北45度線
  大岩山―和気神社(W0.203km、0.90度)の東北45度線

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京都の磐座

 八王子山には山頂に磐座があったが、八王子山からのいくつかの方位線上にも磐座がある。まず、東北60度線上に稲荷山の剱石・雷石がある。剱石は剣に似た形状で人の丈より高く、御劔社の社殿内に祀られ、雷石は御剱社のすぐ裏にある巨岩である。大社の宣揚部の見解として、元々雷石と剱石は両者一体の岩石信仰だったものが、後に剱石だけ鍛冶伝説関連の聖石として独立したのではないかとされているらしい(http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/husimi.html)。八王子山の東西線上にはやはり巨大な石を御神体とする山住神社があり、山住神社と剱石・雷石が南北線をつくる。八王子山と稲荷山御劔社の方位線上に天智天皇陵があることになるが、天智天皇陵と方位線をつくっていた音羽山と山住神社も西北60度線をつくる。西北45度線上にある金毘羅山も山頂に磐境・磐座だったとかんがえられる巨石があり、天智天皇陵と南北線をつくる。
 金毘羅山は古くは江文山といわれ、むかしから山頂には火壺・風壺・雨壺という自然の石窓があり、雨乞いの信仰があり、魔所として恐れられていたという。また、一説には造化三神である天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神を祀るともいう。山頂近くには琴平元宮という小社があるが、讃岐に流された崇徳上皇が白峰で死んだ後、仕えていた女房の一人が、崇徳院の遺品を埋めた場所の上に建てられたのが琴平元宮であるという。

  八王子山―稲荷山御劔社(E0.106km、0.45度)の東北60度線
  八王子山―山住神社(S0.013km、0.11度)の東西線
  山住神社―稲荷山御劔社(E0.205km、1.00度)の南北線
  音羽山―山住神社(W0.017km、0.08度)の西北60度線
  八王子山―金毘羅山(E0.046km、0.39度)の西北45度線
  金毘羅山―天智天皇陵(W0.001km、0.00度)の南北線

 八王子山・金毘羅山・天智天皇陵が方位線三角形をつくるわけであるが、八王子山と金毘羅山は延暦寺とも方位線をつくっている。八王子山は比叡山を大比叡というのに対して小比叡といわれ、また日吉大社は天台宗の護法神とされるなど、八王子山・日吉大社は比叡山延暦寺と密接な関係があるが、八王子山と延暦寺西塔の釈迦堂が東西線をつくっている。それに対して、金毘羅山の西北60度線上に延暦寺根本中堂があり、西北30度線上に横川の中心である横川中堂がある。一応、釈迦堂と横川中堂は東北60度線をつくっているようである。金毘羅山は延暦寺ばかりでなく、東西線上に鞍馬寺・東北30度線上に神護寺があるなど、平安京守護の寺と方位線的に深く関係している。本来なら金毘羅山も平安京守護のための重要な場所として、朝廷から重く扱われてよかったのではないだろうか。しかし、そのような痕跡は感じられないから、金毘羅山は平安京守護の弱点となっていたのかもしれない。そのような場所に崇徳院の遺品が埋められたということは、天皇と平安京への呪詛を行う地として最適の場所だったともいえるわけである。山頂近くには北朝鮮のハングル文字の塔があるというが(http://sherpaland.net/report/konpirasan.htm)、ハングル文字の意味は分からないが、もしかしたら北朝鮮は金毘羅山が京都と天皇の弱点であることを知っているということなのかもしれない。

  八王子山―釈迦堂(N0.033km、0.82度)の東西線
  金毘羅山三角点―延暦寺根本中堂(E0.068km、0.64度)の西北60度線
  金毘羅山三角点―横川中堂(W0.063km、0.79度)の西北30度線
  釈迦堂―横川中堂(E0.018km、0.36度)の東北60度線
  金毘羅山三角点―鞍馬寺(N0.071km、1.24度)の東西線
  金毘羅山三角点―神護寺(W0.185km、0.74度)の東北30度線

 八王子山の西北30度線上には貴船神社の鏡岩が位置しているかもしれない。すくなくとも、八王子山と貴船山は西北30度線をつくる。竹村俊則『京都ふしぎ民俗史』によれば、鏡石は貴船神社本殿の背後の山上約220mのところにあるという。これは斜面上の距離であろう。地図上では本殿からだいたい200mぐらいのところとなる。鏡石が本殿と貴船山山頂を結ぶ直線上にあると仮定すれば、八王子山と鏡岩も西北30度線をつくるといっていい。貴船山と比叡山四明岳、貴船神社と比叡山大比叡が西北45度線をつくることを考えると、鏡岩の西北45度線も比叡山山頂部分を通ると考えられ、鏡岩と四明岳山頂にある将門岩も西北45度線で結ばれていた可能性がある。ただ、将門岩が磐座だったと指摘している本は見たことがないので、将門岩は単に四明岳山頂にある巨石ということなのであろう。磐座どうしの方位線はともかく、聖域としての貴船と比叡山・八王子山は方位線関係にあるということはいえるのではないだろうか。

  八王子山―貴船神社(E0.270km、1.49度)―鏡岩仮定点(E0.221km、1.20度)―貴船山三角点(E0.065km、0.34度)の西北30度線
  貴船山―四明岳標高点(E0.202km、1.22度)の西北45度線
  貴船神社―大比叡三角点(E0.157km、0.99度)の西北45度線

 四明岳山頂の将門岩は純友岩ともいわれ、『将門純友東西軍記』に承平四年(934)八月、平将門は藤原純友と連れ立って比叡山に登り、将門は純友に自分は桓武天皇の王孫にあたるから帝王になり、純友は藤原氏の子孫であるから関白になり給えといって、京都を見下ろしながら互いに天下制覇を約した、とあるという。これは後代の創作話であろうとされている。将門岩のほかに、京都市中には将門を祀る神田神宮がある。『別冊宝島EX 京都魔界めぐり』の山折哲雄氏によれば、『京都坊目誌』という本に、神田神宮はもと膏薬道場のあとにできた古跡で、膏薬道場は空也上人が開き、のちら時宗に属した道場で、将門の首が膏薬道場のある辻でさらされたとあるという。この膏薬道場近くの人家の屋敷内に高さ三尺ほどの五輪の石塔が建てられ、その上部に将門の霊が祀られるようになった。この五輪の石塔は天明の大火(1788)では焼け残ったが、その後の元治元年(1864)の火事で消失し、台石だけがあとに残されたということらしい。一遍に師事し、その法灯を継ぎ全国を行脚していた真教上人が江戸柴崎村に来た時、荒れ果てていた将門首塚を丁重に修復供養し、近くの日輪寺を時宗の念仏道場としたというから、将門の首塚と神田神宮は時宗で結びつくわけである。両方の道場に関係した人物が何らかの形で参与していたのであろう。方位線がどのようにかかわっているのか分からないが、将門岩と神田神宮は東北45度線をつくる。将門の首塚や神田明神が方位線と密接な関係をもっていたことを考えると、この方位線にも無視できないものを感じてしまう。

  四明岳標高点―神田神宮±(E0.131km、0.78度)の東北45度線

 船岡山の山頂にも磐座があるが、山住神社と船岡山も東北45度線をつくる。この方位線をさらに延ばしていくと、三つ鳥居で有名な木島神社あるいは蚕の社とも呼ばれる木島坐天照御魂神社があるが、木島神社の社前の常行灯に「磐座宮」と刻まれているという(http://suzukishokai.cool.ne.jp/sub%2014%20kaikonoyashiro.html)。磐座宮という名称は、正三角形をした三つ鳥居の真中に、神座の石積があり、その石積から来たとも考えられるが、わざわざ磐座宮というほど巨大なものでもないし、それは後世作られたものと考えられ、木島神社のもともとが磐座信仰だったとも思えない。磐座宮という言い方がどこから来たか分からないが、山住神社と船岡山の方位線上に磐座宮があるということは興味深い事である。木島神社と磐座との関係では、その他にも木島神社は松尾山とも東北30度線をつくるが、松尾山頂上近くには松尾大社の胸形神が天降ったという御神蹟といわれる磐座がある。八王子山・稲荷山・金毘羅山・貴船山・山住神社・船岡山という磐座方位線網に木島神社を介して松尾山も組み込むことができるわけである。

  山住神社(W0.028km、0.29度)―船岡山―木島神社三つ鳥居(E0.084km、1.29度)の東北45度線
  松尾山±―木島神社三つ鳥居(W0.011km、0.18度)の東北30度線

 松尾山と木島神社の関係では、太陽祭祀と結びつける見解がある。大和岩雄氏の説では、中央の神坐の石積と正三角形をした三つ鳥居の各頂点を結ぶ線上には、それぞれ松尾山と四明岳、稲荷山と愛宕山、それに双ヶ丘があり、そのうち松尾山と四明岳は木島神社から見て冬至の日没と夏至の日の出、稲荷山と愛宕山は冬至の日の出と夏至の日没の方向にあたっているというのである。カシミール3Dでシュミレーションしてみると、夏至の日の入りは愛宕山山頂とはいえないが、夏至の日の出は比叡山山頂付近から太陽が上がるようである。松尾山と稲荷山については、よく分からなかった。二至線は東西線に対して約30度であるから、東北30度線、西北30度線が成り立つかどうかをみてみると、西北30度線については、木島神社と愛宕山は方位線をつくらないし、稲荷山も伏見稲荷本殿を含め方位線は成立しない。それに対して、東北30度線は木島神社と比叡山の方位線は微妙であるが、木島神社と松尾山が東北30度線をつくり、松尾山と四明岳も東北30度線をつくるとみなせることから、木島神社と四明岳も方位線関係を認めてもいいかもしれない。双ヶ丘については、三角点をとるなら南北線をつくっている。

  木島神社三つ鳥居―四明岳標高点(E0.455km、2.17度)の東北30度線
  松尾山±―四明岳標高点(E0.444km、1.64度)の東北30度線
  木島神社三つ鳥居―双ヶ丘三角点(W0.011km、0.59度)の南北線

 京都には、もう一つ神山を中心とした方位線網が存在する。上賀茂神社の神体山である神山は、別雷神の降臨地といわれ、山頂には降臨石をはじめ多くの磐座ともいうべき巨石が露出している。その西北60度線上に山科の岩屋神社の磐座がある。本殿背後の山中の奥の岩屋殿と称する奥之院に陰岩・陽岩と称する磐座があり、陰岩の上に小さな窪みがあって、その中の水を竜闕水といって、旱天の時にも涸れることがないという。

  神山―岩屋神社(W0.195km、0.80度)―岩屋神社奥之院(E0.125km、0.50度)の西北60度線

 岩屋神社・奥之院の磐座の西北60度線上に洛北雲ヶ畑の標高649mの岩屋山と志明院がある。岩屋山は山中いたる所に巨岩怪石があり、洞窟があるという。志明院は山腹にあり、空海作といわれる不動明王を祀るので岩屋不動ともいわれる。寺伝では孝徳天皇の白雉元年(650)役小角の草創と伝えられ、天長六年(829)淳和天皇が空海のために堂宇を建立したという。もともとは、神降窟と称する巨岩のあるところに、皇居の御用水たる加茂川の川上神として天津石門別稚姫神社が創祀されていたが、志明院が創建されるにあたって遷されたのが雲ヶ畑中畑町の厳島神社で、現在は市杵島姫を祭神にしているが、明治維新前は弁財天社と称していたという。洞窟内には冷泉が湧き出ており、香水と称して古来からもっとも神聖視されてきた。神降窟前には現在根本中院があり、菅原道真手彫と伝える眼力不動明王像が安置されている。司馬遼太郎の『街道をゆく』に志明院の住職の言葉が載っているが、行者でもよほど行力のある人でないとこわくて近づけないといい、王朝のころに京の辻々や公家の屋敷、宮中のなんとか殿の物陰などに棲みついていた物の怪などの魑魅魍魎は世が進むにつれ愛宕に逃げたり貴船にかくれたりして、ついには絶滅したものが、この山にはなお棲みふるしているいるらしい、というのだという。司馬遼太郎も真言密教のことが知りたくて足を運んでいた頃には、いろいろな怪奇があったという。

  岩屋神社奥之院―岩屋不動(W0.371km、0.98度)―岩屋山三角点(W0.691km、1.79度)の西北60度線

 神山と岩屋不動・岩屋山の関係であるが、岩屋神社の磐座からみれば、岩屋不動とも岩屋山山頂とも方位線をつくるといえるが、神山の場合は、神山が岩屋神社の磐座の西北60度線と、岩屋不動の西北60度線に挟まれる場所に位置している事なども勘案して、岩屋不動とは西北60度線をつくるといえるが、岩屋山山頂とは方位線をつくるとはいえない。ただ、岩屋不動が岩屋山という大きな霊的磁場の中に存在するということを考えると、神山と岩屋山全体がつながっているということになる。神降窟と神山の方位線であるが、神降窟の位置を景観図で見ると、本堂の裏手が二つの谷に分かれており、左の谷の方に行くと、弘法大師の伝承がある飛竜の滝や護摩洞窟があり、右の谷を登って行くと右手に神降窟がある。すなわち、神降窟は本堂の西北60度方向にあるということで、神山と神降窟も西北60度線をつくるといっていいのではないだろうか。
 岩屋山山頂は神山ではなくて下鴨神社と西北60度線をつくる。岩屋山と賀茂神社が方位線で密接に結びついているといえるのではないだろうか。さらに、岩屋山山頂の南北線上に白砂山があり、白砂山の東西線上に船岡山とともに下鴨神社があった。さらに、神山と白砂山も東北45度線をつくっていたが、これらの方位線網には有機的なつながりを感じてしまう。

  神山―岩屋不動(W0.246km、1.89度)の西北60度線
  岩屋山三角点―下鴨神社(E0.003km、0.01度)の西北60度線
  岩屋山三角点―白砂山(W0.027km、0.14度)の南北線

 岩屋山の南北線上に白砂山があるのに対して、岩屋不動の南北線上には磐座があった交野山がある。これは、交野山と神降窟が南北線をつくるといってもいいし、交野山からいえば岩屋山山頂とも南北線をつくるといってもいいかもしれない。さらに、岩屋山が役行者によって開かれた修験道の行場であるという伝承があり、上賀茂神社神体山である神山と方位線をつくっているということから、さらにその南に高鴨神社があることも無視できない。天津石門別稚姫神社が弁財天社とよばれるようになるなど、岩屋山はどこが出雲神族の霊的磁場の強さを感じさせる場所であるが、雲ヶ畑という地名ももともとは出雲ヶ畑という地名であったという伝承もあるらしい。梅原猛『京都発見3 洛北の夢』によると、平安遷都の折、出雲の国より多くの大工がやってきたが、仕事を終えても出雲に帰らず、この地に住み、それ故この辺り一帯を初め出雲ヶ畑とよんでいたが、いつの頃か出の字がとれて雲ヶ畑になったというのである。八瀬にも延暦寺建立に力を発揮した人々が、後に八瀬の里に住し、屋号を「出雲」とし、今にその血脈を伝えているという。出雲の大工がそのまま出雲神族になるわけではないが、この地にとどまったというのは、もともと出雲と何らかの結びつきがあったからかもしれないわけである。あるいは、出雲との結びつきがそのような伝承を生んだとも考えられる。交野山も巻向山と方位線をつくり、また出雲の熊野大社と方位線をつくっていた津軽の靄山の東北60度線上にあるなど、方位線的にいえば出雲神族とも関係する場所だった可能性も考えられのである。

  岩屋不動(W0.136km、0.20度)―交野山―高鴨神社(W0.157km、0.21度)の南北線

 岩屋神社の磐座の東北45度線が大岩山の山頂を通る。大岩山山頂の大岩神社は磐座信仰だったのではないかともいわれている。また、東北60度線上に交野市の小松神社がある。星田妙見宮ともいわれ、織女石、妙見石といわれる巨石を御神体とする。星田妙見宮は交野山の東北45度線方向にも位置している。星田妙見宮の磐座には一つの伝承がある。獅子窟寺の40mほど北の所に獅子窟岩があるが、弘仁年間、交野の天の川上流右岸山中の獅子窟寺の獅子窟にこもって空海が仏眼仏母尊の秘法をとなえると、北斗七星が三ヶ所にわかれて降ってきたという伝承があり、その三ヶ所は八町三所といわれ、それぞれの間隔が八町だというのである。その一つが星田妙見宮であり、もう一つは星田妙見宮の西北1.2kmほどの光林寺の森といわれ、残りの一箇所は星ノ森之宮である。このうち光林寺と交野山が東北30度線をつくり、このことから交野山と星田妙見宮の磐座も方位線をつくっているとみなしていいのではないだろうか。

  岩屋神社奥之院―大岩神社(E0.004km、0.06度)の東北45度線
  岩屋神社奥之院―小松神社(W0.278km、0.59度)の東北60度線
  交野山―小松神社(E0.173km、2.41度)の東北45度線
  交野山―光林寺(W0.009km、0.13度)の東北30度線

 獅子窟寺の北と南には、多数の巨石・奇岩があり、修行僧の行場となっていたという。光林寺は獅子窟寺の東西線上にも位置してる。交野山の東北60度線上に獅子窟寺があるとみなしてもいいかもしれない。高橋徹『道教と日本の宮都』によれば、交野山は一般には渡来氏族と結びつける考えが強いが、七夕の織女星を祭る織物神社は、織物神社の鳥居の方向に交野山が見え、もともとは交野山を御神体とする拝殿だけの神社だったのではないかとしているが、織物神社と獅子窟寺が南北線をつくり、交野山と獅子窟岩寺には方位線が深く関係しているとも考えられるのである。高橋徹氏は交野山と織物神社、それに百済寺の南の百済王神社が一直線上にあり、奥宮・中宮・本宮という関係にあったのではないかというが、獅子窟寺と百済寺跡が西北60度線をつくっている。

  獅子窟寺―光林寺(S0.070km、1.74度)の東西線
  交野山―獅子窟寺(W0.094km、2.31度)の東北60度線
  獅子窟寺―織物寺(W0.074km、1.48度)の南北線
  獅子窟寺―百済寺跡(W0.138km、1.31度)の西北60度線

 星田妙見宮の西北45度線方向には磐船神社があるが、磐船神社と光林寺が西北45度線をつくることから、交野山と同じく磐船神社・星田妙見宮・光林寺が一つの方位線上にあるとみなしていいであろう。磐船神社は饒速日命を祭神としているが、岩屋神社の磐座の前の小社にも饒速日命が祭られたといわれ、物部系の大宅氏が山科開拓にあたり祖先を祭ったとされる。物部氏系の磐船神社と岩屋神社が星田妙見宮で結ばれているわけである。八町三所の残りの星ノ森之宮であるが、その正確な位置は確認していないが、磐船神社の西北30度線方向にあり、実際に方位線をつくっている可能性もある。そうすると、北斗七星の降星伝説で結ばれた三ヶ所はもともとは磐船神社と結びついた場所だったかもしれないわけである。交野周辺は古代には肩野物部氏が勢力を張っていたといわれる。磐船神社と獅子窟寺の方位線であるが、磐船神社と獅子窟寺はほぼ南北線をつくる。磐船神社と織物神社は南北線をつくることから、織物神社・獅子窟山・磐船神社が探知型の南北線をつくっていると考えると、構図的にはすっきりする。

  磐船神社―小松神社(W0.092km、2.80度)―光林寺(E0.071km、1.30度)の西北45度線
  磐船神社―獅子窟寺(E0.146km、3.58度)―織物神社(E0.073km、0.80度)の南北線

 磐船神社と饒速日と関係のある伊弉諾神社のある長弓寺が西北45度線をつくっていたが、長弓寺裏山と獅子窟寺を南北に拡がる面と考えるなら、長弓寺と獅子窟寺も西北60度線をつくっているとみなせる。また、獅子窟寺・磐船神社の南北線上に饒速日命を祭神とする平群石床神社があるが、旧社地は消渇神社境内奥の現在地から南300mほどのところにあり、高さ9m、幅18mの巨石を磐座としていた。交野山の南北線上には高鴨神社があったが、この獅子窟寺・石床神社の南北線上には高天彦神社がある。なお、石床神社の磐座は三輪山の西北30度線上にある。 

  長弓寺裏山181.3m三角点―獅子窟寺(E0.211km、1.98度)の西北60度線
  磐船神社―石床神社(W0.035km、0.14度)の南北線
  獅子窟寺―高天彦神社(E0.022km、0.03度)の南北線
  三輪山―石床神社磐座±(E0.207km、0.65度)の西北30度線

 八王子山の方位線網と神山の方位線網をつなぐ山として、磐座信仰とは結びつかないかもしれないが、瓜生山を考えることができるかもしれない。船岡山の東西線上に瓜生山がある。瓜生山は南北朝時代の延文六年(1361)山頂に勝軍地蔵が安置されたことから勝軍山または勝軍地蔵山ともよばれるが、清沢口から頂上へ行く道は、奇岩・怪石がいたる所に露出して人目を驚かせるという。明確な磐座信仰の跡はないのかもしれないが、八坂神社の祭神牛頭天王は竹村俊則『昭和京都名所図会』によると、『雍州府志』に貞観十八年(876)に播磨の広峰より八坂郷の地に遷される前、しばらく瓜生山の山上に鎮座されていたとも伝えられているという。ただ、『二十二社註式』では広峰より北白川の東光寺に移ったとなっているらしい。瓜生山の東北60度線上に八坂神社がある。瓜生山と船岡山が東西線をつくるということは、白砂山と瓜生山も東西線をつくるということであるが、白砂山と神山が東北45度線をつくっていたのに対して、瓜生山と神山も西北45度線をつくるのである。瓜生山と比叡山三角点も東北45度線をつくっている。瓜生山と下鴨神社でいうと、下鴨神社も比叡山の四明岳と東北30度線をつくっており、比叡山根本中堂を基点にするなら、瓜生山と下鴨神社がそれぞれ東北45度線、東北30度線上に位置することになる。なお、八坂神社は白砂山とも西北30度線をつくっている。

  山住神社―船岡山(E0.028km、0.29度)の東北45度線
  瓜生山301m標高点―船岡山(S0.065km、0.67度)―白砂山(N0.015km、0.09度)の東西線
  瓜生山301m標高点―神山(W0.179km、1.59度)の西北45度線
  瓜生山301m標高点―比叡山三角点(W0.022km、0.31度)―根本中堂(E0.046km、0.54度)の東北45度線
  下鴨神社―四明岳標高点(E0.059km、0.57度)―根本中堂(E0.002km、0.10度)の東北30度線
  瓜生山301m標高点―八坂神社(E0.069km、0.87度)の東北60度線
  白砂山―八坂神社(E0.005km、0.04度)の西北30度線

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平安京の四聖山

 平安京の三山は船岡山・吉田山(神楽岡)・双ヶ丘であり、それに神奈備山を加えたものが平安京の東西南北の聖山ということができる。方位線的にみると、船岡山と神奈備山が南北線をつくり、双ヶ丘と吉田山もその三角点をとると東西線をつくっている。双ヶ丘三角点からの東北30度線が船岡山の建勲神社のあたりを通り、双ヶ丘と船岡山も方位線で結ばれていると考えていいであろう。平安京の四聖山は方位線で結ばれていることになるわけである。

  船岡山―神奈備山(E0.225km、0.50度)の南北線
  双ヶ丘三角点―吉田山三角点(N0.016km、0.14度)の東西線
  船岡山三角点―双ヶ丘三角点(E0.113km、2.11度)の東北30度線

 神山と双ヶ丘が東北60度線をつくる。それに対して、吉田山の一番高い所は、三角点より北側であるが、この吉田山の一番高い地点を考えると、神山と吉田山が西北60度線をつくる。吉田山は神山と岩屋神社奥之院の磐座方位線上に位置することになり、吉田山にも磐座の存在を期待したところであるが、竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、現在吉田山山中には古代祭祀の遺跡磐境を思わせるものはみあたらないようである。ただ、神楽岡とは神の憑ります神座の岡をい意味し、山に憑る神を斎き祀るにふさわしい神域を呈しているという。『延喜式』にみえる「霹靂神三座を神楽岡西北に祭る」とみえるのは、この地の先住民がこの神域(神座)に奉斎した雷神をいい、これを神格化したのが神楽岡社であって、神社は後に吉田神社境内に遷されたというが、もともと吉田山はこの神楽岡社と関係する山だったとすると、神山と吉田山の方位線は雷神の方位線といえるわけである。
 双ヶ丘については、多くの古墳があるが、そのうち三角点のある一ノ丘にある古墳が一番大きく、七世紀前半のものと推定されているが、あるいは磐座だったものがその石室に利用されてしまったというようなことがあったかもしれない。木島神社と双ヶ丘が南北線をつくっていたが、もし双ヶ丘が木島神社の神体山だったとするなら、木島神社が「磐座宮」とされるのも、もともとは双ヶ丘に磐座があったからだという可能性も出てくる。

  神山―双ヶ丘三角点(E0.067km、0.54度)の東北60度線
  神山―吉田山最高点付近(W0.076km、0.65度)の西北60度線

 吉田山と稲荷山の剱石・雷石も南北線をつくる。これも稲荷山と吉田山の雷神信仰を結びつける方位線かもしれない。また、稲荷山の西北に白砂山や双ヶ丘があり、磐座ということでは剱石・雷石と白砂山が西北45度線をつくるが、稲荷山として一番高い峰である一ノ峰を考えるとすれば、稲荷山と双ヶ丘が西北45度線をつくるという言い方もできるかもしれない。

  稲荷山御劔社―吉田山三角点(W0.028km、0.26度)の南北線
  白砂山―稲荷山御劔社(W0.199km、1.04度)の西北45度線
  双ヶ丘三角点―稲荷山二ノ峰(E0.066km、0.42度)―稲荷山一ノ峰(E0.154km、0.96度)の西北45度線

 吉田山の三角点と最も高い場所を一体のものと考えれば、神山・双ヶ丘・吉田山が方位線正三角形をつくっているとも考えることができる。さらに、双ヶ丘と吉田山の東西線に対して、白砂山・船岡山・瓜生山の東西線があり、神山・双ヶ丘・吉田山が底角60度の方位線正三角形をつくるのたいして、神山・白砂山・瓜生山が底角45度の方位線直角二等辺三角形をつくっているわけである。双ヶ丘・吉田山・白砂山・瓜生山の関係であるが、白砂山と双ヶ丘が西北60度線をつくり、瓜生山と吉田山が東北45度線をつくる。神山・船岡山・双ヶ丘・吉田山・白砂山・瓜生山が濃密な方位線網をつくっていることになるわけである。また、比叡山・瓜生山・吉田山が方位線上に並ぶ。

  白砂山―双ヶ丘三角点(W0.009km、0.26度)の西北60度線
  吉田山最高点付近―瓜生山301m標高点(E0.006km、0.17度)―大比叡三角点(W0.016km、0.15度)―根本中堂(E0.052km、0.43度)の東北45度線

 神山・双ヶ丘・吉田山の正三角形に対して、白砂山・船岡山・瓜生山の東西線上にももう一つの正三角形がある。向井毬夫『万葉方位線の発見』によれば、船岡山とその東西線上にある下鴨神社、それに上賀茂神社の東の片岡山が一辺1725mの正三角形をつくるいう。片岡山に磐座があるかどうかは分からないが、竹村俊則『昭和京都名所図会』によれば、『枕草子』に「岡は船岡、片岡」と記され、西麓にある上賀茂神社の摂社の片山御子神社(片岡神社)の神体山とされる。片山御子神社の祭神は現在は玉依比売命とされるが、地主の神といわれ、本社の恒例祭には先ず当社において祭祀を行うのを例とされた。大己貴命、事代主命とする説もある。片岡山は瓜生山とも西北30度線をつくっている。

  片岡山175m付近―船岡山(E0.032km、0.65度)の東北60度線
  片岡山175m付近―下鴨神社(E0.012km、0.24度)の西北60度線
  瓜生山301m標高点―片岡山175m付近(W0.013km、0.15度)の西北30度線

 片岡山は双ヶ丘とも東北45度線をつくり、片岡山・船岡山・双ヶ丘が方位線三角形をつくるわけである。また、その延長線上に松尾山があり、高野新笠の陵 はこの片岡山・双ヶ丘・松尾山の方位線上にあるともいえることになる。松尾山・双ヶ丘・木島神社も方位線三角形をつくっているということになる。松尾山には磐座があったが、やはり磐座を御神体とする山住神社も片岡山と東北30度線をつくる。船岡山・片岡山・山住神社もまた方位線三角形になっているわけである。

  片岡山175m付近(W0.081km、0.81度)―双ヶ丘―松尾山±(E0.130km、1.8度)の東北45度線
  片岡山175m付近―山住神社(E0.002km、0.04度)の東北30度線

 宮都どうしが方位線で結ばれていなければならないとすれば、長岡京の北の聖山である白砂山と平安京の聖山が方位線で結ばれているのはありえる話ということになるが、平安京の三山は神山を中心とした方位線網と密接に結びつき、その方位線網の中に長岡京の北の聖山である白砂山も属するという形になっているわけである。長岡京も単に白砂山だけでなく、神山を中心とした方位線網も結びつくものとしてあったということが考えられる。天智の大津宮が神山と方位線をつくっていたのであるから、長岡京を造るにあたって、桓武が神山をならんかの形で考慮したとことは十分ありえる話である。そうすると、下鴨神社と長岡京大極殿の東北60度線も無視できなくなる。大津宮と神山の方位線に対応するものが下鴨神社と長岡京大極殿の方位線なのかもしれない。そうすると、神山の方位線上に天智天皇陵があったように、下鴨神社の方位線上に桓武天皇陵がなければならないともいえるわけで、現桓武陵が下鴨神社の南北線上にあることも無視できなくなるし、最初の桓武陵が下鴨神社の東西線上にあった可能性も高くなるわけである。なお、最初の桓武陵については、音羽山からの方位線上にある可能性もあったが、さらに神山の東北60度線上にあった可能性もある。
 我々にとっては長岡京は影の薄い宮都であるが、桓武にとっては自身が造った初めての宮都であり、新しく都を造るということになっても、彼の心の中では長岡京は依然として重要な存在として在ったのではないだろうか。白砂山と桓武の母の高野新笠の陵が東北60度線をつくっていたが、高野新笠陵と双ヶ丘も東北45度線をつくる。平安京大極殿や羅城門も高野新笠陵の方位線上にあった。平安京造営は長岡京をまったく廃棄するという意識のもとでなされたというよりは、長岡京をより強化するものとしてその造営が計画されたとも考えられる。その強化の一環として神山・白砂山・船岡山・双ヶ丘・吉田山それに瓜生山や片岡山がもともと有機的な関係性をもっていたとするなら、新しい宮都はその方位線網をより有効利用するものとして計画されたともいえるわけである。また、白砂山も単に長岡京と平安京を結びつけるものとしてあるのではなく、平安京の王城鎮護にとっても重要な聖山としてあったと考えられる。

  下鴨神社―長岡京大極殿(W0.183km、0.85度)の東北60度線
  下鴨神社―現桓武天皇陵(E0.172km、0.90度)の南北線
  双ヶ丘三角点―光仁天皇皇后陵(E0.104km、0.85度)の東北45度線

 神山と岩屋神社奥之院の西北60度線上に吉田山があったが、奥之院と双ヶ丘が西北30度線をつくる。また、より正確には岩屋神社であるが、奥之院と船岡山も西北45度線をつくるといえる。双ヶ丘と吉田山には磐座は確認されていないが、これもまた、神山の磐座方位線網に付随的に双ヶ丘と吉田山も平安遷都以前から組み込まれていたということの証となるかもしれない。

  吉田山標高点付近―岩屋神社(W0.119km、0.94度)―岩屋神社奥之院(E0.202km、1.54度)の西北60度線
  双ヶ丘三角点―岩屋神社奥之院(E0.064km、0.30度)の西北30度線
  船岡山三角点―岩屋神社(E0.009km、0.05度)―岩屋神社奥之院(E0.256km、1.31度)の西北45度線

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四岩倉

 桓武天皇は平安京を護るため、都の東西南北の磐座の下に一切経を埋めたといわれる。そのうちの西岩倉は古塩山南中腹の西岩倉山金蔵寺でということで一致しているようである。本堂の下にお経が埋められているともいわれる。南岩倉は岩清水八幡宮がある男山、獅子窟寺、下京区石不動之町の明王院不動寺などがあげられている。このうち、獅子窟寺という伝承は、松尾芳樹氏(別冊宝島EX『京都魔界めぐり』)によれば、東岩倉近くに分骨所をもつ亀山天皇が獅子窟寺に帰依していたことから生じたのではないかとする。亀山天皇については、上皇になってから東岩倉とされる観勝寺を勅願寺としている。男山は、桓武天皇の時代にはまだ岩清水八幡宮はなかった。それで最も高い142.5m三角点をとるなら、金蔵寺と西北60度線をつくる。

 男山三角点―金蔵寺(W0.132km、0.79度)の西北60度線

 北岩倉についても、山住神社、実相院近くの石座神社東方の経塚、大雲寺・石座神社背後の紫雲山上などが挙げられているが、松尾芳樹氏は岩倉盆地の北部全体が北岩倉とするなら、近世地誌の混乱もまた説明しやすいのではないかとする。しかし、一切経が埋められたというのであるから、北岩倉は面というよりは点であろう。現在の石座神社は大雲寺の鎮守社であった八所大明神と十二所大明神の旧社地であり、明治になって旧鎮座地の山住神社から遷座したものである。『三代実録』の元慶四年(880)十月十三日条に「石座神社に従五位下を授く」とあるというが、明治以前まで石座神社という名が山住神社をさしていたとするなら、『三代実録』のいう石座神社は山住神社のこととなる。ただ、江戸時代の地誌『山城名所巡行志』に八所大明神と十二所大明神について「長徳三年(997)四月十八日、依石座神神託為勧請」とあるといい、谷川健一編『日本の神々 5』によれば、これは天禄二年(971)に大雲寺が建立されたという『大雲寺縁起』の記述とかかわるものであろうとする。『山城名所巡行志』によれば現石座神社の地も平安時代から岩座神社とかかわる場所ということになるが、時代的には桓武天皇とは結びつかず、北岩倉の場所としては現石座神社の地より山住神社の方がふさわしいことになる。また、紫雲山説も大雲寺・石座神社が紫雲山の山麓にあることから生じたと考えるべきであろう。その説が石座神社説に依存しているものであるとすれば、北岩倉は山住神社とするのが一番有力ということになる。金蔵寺と山住神社も東北45度線をつくっている。

 金蔵寺―山住神社(E0.182km、0.56度)の東北45度線

 東岩倉は下粟田の大日山あるいは東岩倉山といわれた山の上にあったといわれ、山上には観勝寺という寺があったという。ただ、この大日山というのを調べてみると混乱しているのである。火坂雅志『京都 秘密の魔界図』によれば、大日山は288mの山で、日向大神宮の裏手から30分ほど汗を流しながら登ると、観勝寺の跡にたっするが、かっては磐座が鎮座していたのかもしれないが、今では生い茂る草の中に墓石がいつくか埋もれているだけだと記す。竹村俊則『昭和京都名所圖會』でも、大日山(東岩倉山)は日向大神宮の背後の山をいい、海抜288mとある。古くは行基が開創したという東岩倉寺があり、中世三井寺の僧行円が建立した観勝寺が寺名を継いだが、久しからずして衰微荒廃したのを、三井寺の僧大円上人が再興、またその傍らに真性院を再興したが、応仁の乱の時に南禅寺などとともに焼失、再び衰微するに至り、元禄年間観勝・真性両寺とも東山安井の蓮華光院に移され、旧地は歴代住職の墓地となったが、明治維新まではなお山中に観音堂や大日堂があったという。
 地図を見ても、288mと表記された山はない。326mの山から西南に少し下りたところに290メートルほどの小さく盛り上がった峰があるが、火坂氏のいう288mの山とはこの峰のことらしい。インターネットで調べると、ちょうどそのあたりを大日山とする地図や東岩倉山大日堂の水盤の写真などが載ったホームページが見つかった(http://www.geocities.jp/hieisankei/stage03_05_02.html)。その峰を東岩倉の大日山(東岩倉山)とすると、東岩倉は神山と岩屋神社奥之院の西北60度線上に位置することになる。吉田山とは方位線をつくるとはいえないが、神山を通る一つの方位線上に吉田山と東岩倉が並んでいると考えたい。

  岩屋神社奥之院(W0.005km、0.06度)―大日山288m付近―吉田山最高点付近(W0.206km、4.97度)―神山(W0.130km、0.82度)の西北60度線

 大日山は船岡山と西北30度線をつくる。船岡山は山住神社とも東北45度線をつくっていた。すなわち、金蔵寺とも東北45度線をつくっているということである。少なくとも船岡山の方位線上に東西および北の岩倉があったということになる。金蔵寺と男山の西北60度線であるが、北の聖山の船岡山に対して、南の聖山である神奈備山がその方位線上にある。また、獅子窟寺も神奈備山と東北45度線をつくっている。

  大日山288m付近―吉田山最高点付近(km、度)―神山(km、度)の西北60度線
  大日山288m付近―船岡山(E0.075km、0.67度)の西北30度線
  船岡山―金蔵寺(E0.154km、0.60度)の東北45度線
  神奈備山―男山三角点(E0.157km、0.98度)―金蔵寺(E0.025km、0.08度)の西北60度線
  神奈備山―獅子窟岩(W0.028km、0.26度)の東北45度線

 南岩倉とされる明王院不動寺であるが、持統天皇の御代、道観大徳が開創したと伝えられるが、火坂雅志『京都 秘密の魔界図』によると、秀吉が聚楽第の石垣を造るにあたって庭石や石仏などありとあらゆる石を狩集めた時、松原通りの道端に転がっていた高さ一尺ほどの不動尊も持ち帰ったが、その石のお不動さんが夜な夜な光を放ち、怪異なことが度重なったので、弱り果てた秀吉がお不動さんを元の場所に戻し、そこに御堂を建てたのが明王院不動寺ともいう。平安遷都のころはうっそうとした松林で、その松林の中にこんもりとした丘があったという。明王院不動寺を南岩倉とすると、四岩倉と方位線について二つの物語が考えられる。一つは、明王院不動寺が双ヶ丘と西北30度線をつくり、また吉田山が東北60度線方向にあり、これは方位線をつくるとみなせないこともないから、四岩倉は平安京の四聖山と結びつくという物語であり、もう一つは、明王院不動寺が大極殿と西北45度線をつくり、羅城門と東北45度線をつくることから、四岩倉は船岡山・大極殿・羅城門・神奈備山という平安京の南北中心軸と結びつくという物語である。南北中心軸との関係でいえば、山住神社はやはりその中心軸上にある朱雀門と東北60度線をつくる。もっとも、この二つの物語の方向性は互いに相手を排除するものではないから、四岩倉においてはこの二つの物語が重なっていると考えるべきであろう。

  明王院不動寺―双ヶ丘(E0.073km、0.75度)の西北30度線
  明王院不動寺―吉田山最高点付近(E0.145km、2.24度)の東北60度線
  明王院不動寺―平安京大極殿(E0.061km、1.14度)の西北45度線
  明王院不動寺―平安京羅城門(E0.050km、0.95度)の東北45度線
  山住神社―朱雀門(E0.102km、0.76度)の東北60度線

 四岩倉の原型は金蔵寺と長岡京の関係にあるのかもしれない。寺伝に聖武天皇は金蔵寺に額を賜い、天平元年(729)には華厳・普門品等の諸経を写してこの山中に埋納されたとあるという。その直前の神亀六年(729)の二月には長屋王の変が起こっているから、あるいはそのことと関係があったのかもしれない。金蔵寺は東大寺とも西北60度線をつくる。もっとも天平元年にはまだ東大寺は建立されていない。ただ、桓武天皇においては聖武天皇ゆかりの東大寺と金蔵寺を結ぶ方位線として意識されていたかもしれない。東大寺からの方位線が桓武にとって重要なものだったことは、東大寺と比叡山が南北線をつくることからもいえる。東大寺と比叡山の南北線については、桓武は奈良の仏教勢力の影響力を排除するために長岡遷都を行ったといわれるから、東大寺の方位線上で修行をしていた最澄を東大寺に対抗させる為に取り立てたのか、王城鎮護という観点からは東大寺を無視することはできなかったということなのか、よく分からない。ただ、王城鎮護という観点からいえば、対立しているよりも協力関係にある方が、相乗効果でその力も倍化すると考えるのが常識であろう。
 桓武以後も、東大寺の西北60度線上にある男山に岩清水八幡宮が勧請されたことからもその方位線が重要視されたことが分かる。それは、東大寺に手向山八幡が勧請されたていることを踏まえたものと考えられ、最初は大仏殿付近に手向山八幡はあったというが、手向山八幡と岩清水八幡宮の方位線であると同時に東大寺と岩清水八幡宮の方位線といえるであろう。
 
  金蔵寺―東大寺大仏殿(E0.897km、1.48度)の西北60度線
  東大寺大仏殿―比叡山根本中堂(E0.091km、0.12度)の南北線
  岩清水八幡宮―東大寺大仏殿(E0.451km、1.05度)の西北60度線

 金蔵寺と長岡京との方位線についていえば、東北60度線上に長岡京北の聖山の白砂山があり、西北45度線上に長岡京羅城門がある。金蔵寺は長岡京南北中心軸と方位線で結ばれているといえるわけである。白砂山の東北60度線上には高野新笠陵があったが、金蔵寺と高野新笠陵も東北60度線をつくり、また高野新笠と同じくその死が早良親王の祟りではないかとされた皇后の藤原乙牟漏の墓が東西線上にある。これらは、金蔵寺が怨霊封じと何らかの関係があったのではないかと考えさせる方位線である。高野新笠陵は乙訓寺とも方位線をつくっていたから、高野新笠陵は金蔵寺と乙訓寺と方位線上で関係しているということになるわけであるが、金蔵寺と山住神社が方位線をつくっていたように、乙訓寺もまた山住神社と東北60度線をつくる。八王子山・乙訓寺・高野新笠陵が方位線三角形をつくっていたが、八王子山・山住神社・乙訓寺も方位線三角形をつくっているわけである。四岩倉の原型が金蔵寺と長岡京にあったとすれば、伝承通り桓武が東西南北の四岩倉に一切経を埋めたということもありえない話ではないことになる。

  金蔵寺―光仁天皇皇后陵(E0.082km、1.49度)―白砂山(E0.105km、0.55度)の東北60度線
  金蔵寺―長岡京羅城門(W0.014km、0.10度)の西北45度線
  金蔵寺―桓武天皇皇后陵(S0.100km、1.20度)の東西線
  山住神社―乙訓寺(E0.159km、0.52度)の東北60度線

 長岡京と金蔵寺の関係をさらに大規模にしたのが平安京の四岩倉ということになると、四岩倉は平安京の南北中心軸と方位線的に結びつく場所が選ばれたということになる。ただ、明王院不動寺が南岩倉とすれば、さらに四聖山との方位線が重ねられたということになる。あるいは、四岩倉として選ばれた場所が磐座として京都の磐座方位線網に含まれる場所でもともとあったことから、四聖山と磐座の関係から四聖山とも方位線で結びつくということになったのかもしれない。どちらにしても、四岩倉と平安京の三山とは方位線的に結びついていたということにはかわりないわけである。金蔵寺と船岡山・山住神社の方位線も、もともと磐座方位線網の一部としてあったのかもしれない。現在金蔵寺には磐座は見つかっていないが、金蔵寺と貴船神社磐座の鏡岩が金蔵寺と白砂山の方位線の延長線上にあることなどから、金蔵寺と磐座との方位線関係が考えられるのである。なお、鏡岩が竹村俊則『昭和京都名所圖會』の貴船神社鳥瞰図に描かれており、それによれば貴船神社社殿に向って右側の尾根上にあるので、右側の尾根地図で200mのところ付近を鏡岩の場所と想定することにした。四岩倉と磐座方位線網との関係でいうと、この他にも大日山と瓜生山が南北線をつくり、双ヶ丘と明王院不動寺が西北30度線をつくるということは、大日山とともに明王院不動寺も岩屋神社の磐座と方位線をつくるということでもある。また、明王院不動寺は八王子山の東北45度線、稲荷山劔石・雷石の東北60度線上にも位置している。

  貴船神社鏡岩右側尾根想定地―白砂山(E0.052km、0.27度)―金蔵寺(W0.053km、0.14度)の東北60度線
  大日山288m付近―瓜生山(E0.045km、0.77度)の南北線
  岩屋神社奥之院―明王院不動寺(W0.137km、1.16度)の西北30度線
  八王子山―明王院不動寺(W0.114km、0.55度)の東北45度線
  稲荷山劔石社―明王院不動寺(E0.055km、0.82度)の西北60度線

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山城の三社と比叡山および将軍塚

 賀茂社・松尾社・伏見稲荷社は山城の三社として、それぞれ「北方の厳神」「西方の猛霊」「巽の鎮神」と称されてきたが、賀茂社として下鴨神社を考えると、松尾大社と下鴨神社が東北30度線、伏見稲荷大社本殿と下鴨神社が南北線をそれぞれつくり、山城の三社は方位線で結ばれていたことになる。山城の三社に貴船社を加えると祈雨の四名神社となるが、貴船神社も下鴨神社の重要な摂社で、御蔭祭が行われる御蔭神社と西北60度線をつくり、御蔭神社はやはり下社の摂社である河合神社と東北45度線をつくり、河合神社は上賀茂神社と西北60度線をつくっている。ただ、この方位線にはいくつかの問題がある。貴船神社はもともとは奥宮が本社で現在地が遥拝所だったのが、洪水を避けるために現在地に本社が遷されたと伝えられていることである。ただ、貴船神社については、その右側の尾根上に鏡岩を想定するなら、鏡岩と御陰神社が西北60度線をつくっている。一方、御蔭神社の場所であるが、御蔭神社のある場所は御蔭山と呼ばれ、下社の御阿礼神事である御蔭祭の聖地とされるが、もともとの御蔭山は比叡山西麓の西神聖影山、後に大崩と称する場所であった。御蔭祭自体がそんなに古いものではなく、鎌倉時代の終わりごろに始まったともされており、さらに御蔭山からの還幸に阿礼木が登場して御蔭山からの神幸を意味するようになるのは元禄以降のことであるという。方位線的に残るのは河合神社と上賀茂神社ということになるが、片岡山と下鴨神社、上賀茂神社と河合神社が西北60度線をつくるという関係になっているわけである。

  鏡岩想定地点(W0.074km、0.53度)―貴船神社(W0.086km、0.63度)―御蔭神社の西北60度線
  御蔭神社―河合神社(W0.025km、0.33度)の東北45度線
  河合神社―上賀茂神社(W0.084km、1.44度)の西北60度線

 貴船山と貴船神社・奥宮・鏡岩は比叡山の四明岳あるいは三角点と西北45度線をつくり、貴船山と貴船神社は八王子山と西北30度線をつくっていた。また、松尾大社と下鴨神社は比叡山四明岳と東北30度線をつくり、稲荷山は八王子山からの東北60線上にあった。祈雨の四名神社ということは山城の三社も含まれるということであるが、比叡山と八王子山(小比叡)の方位線上に展開しているということがいえるわけである。この他にも、神社では比叡山四明岳と岩清水八幡宮が東北60度線をつくリ、有名な寺では鞍馬寺が比叡山三角点と西北45度線、清水寺が同じく三角点と東北60度線をつくる。

  四明岳838m標高点―岩清水八幡宮(E0.077km、0.19度)―男山三角点(W0.368km、0.88度)の東北60度線
  比叡山三角点―鞍馬寺(E0.124km、0.86度)の西北45度線
  比叡山三角点―清水寺(E0.027km、0.17度)の東北60度線

 比叡山・八王子山からの方位線上には、その他に西山克氏(洋泉社MOOK『京都・魔界マップ』の座談会)が将軍塚モデルと呼ぶ、国家や天皇家に大事件が起こったときに鳴動したという伝承を持つ場所が点在する。西山克氏によれば、そのような場所として京都周辺では将軍塚・賀茂社・天智陵・稲荷山・後白河天皇御廟・岩清水八幡宮と男山などがあり、さらに東寺境内に担ぎこまれた東大寺の八幡神の御輿も鳴動したりしているという。それらの方位線をみると、比叡山四明岳の東北30度線上に下鴨神社があり、東北60度線上には岩清水八幡宮の他に将軍塚と後白河天皇御廟がある。また、東大寺と比叡山が南北線をつくっていたが、八王子山の東北45度線上に東寺があり、八王子山の東北60度線上には稲荷山の他に天智陵があった。京都から離れるが鳴動伝承は八王子山の南北線上にある御破裂山頂の鎌足の墓にもある。
 八王子山と東寺の方位線であるが、八王子山と平安京羅城門の東北45度線はともかく、八王子山と東寺には果たして方位線関係が成り立つかどうか問題であろう。ただ、八王子山と稲荷山が方位線をつくり、空海が東寺の五重塔を建てる際に稲荷山の木材にこだわったことを考えると、平安京の設計においては東寺は別に八王子山と結びついていなかったとしても、空海は東寺を八王子山と方位線的に結びつけようとしたのかもしれない。

  四明岳838m標高点―後白河天皇陵(W0.149km、0.85度)―将軍塚(E0.113km、0.80度)の東北60度線
  八王子山―東寺金堂(E0.150km、0.59度)の東北45度線

 鳴動伝承を持つすべての場所が比叡山や八王子山の方位線上にあるわけではない。火坂雅志『京都 秘密の魔界図』によれば、『田村麻呂伝記』に田村麻呂の墓も国家に凶事があれば、鳴動してそれを知らせるとあるというが、田村麻呂の墓は比叡山とも八王子山艫方位線をつくらない。ただ、田村麻呂の墓は金毘羅山の南北線上にあり、金毘羅山が八王子山と西北45度線をつくり、延暦寺とも方位線で密接に関係していたことを考えると、田村麻呂の墓も比叡山・八王子山の方位線とまったく無関係ともいえなくなる。

  金毘羅山―田村麻呂の墓(E0.143km、0.50度)の南北線

 さらに、より基本的な問題として、将軍塚モデルの場所が比叡山や八王子山の方位線上にあるのは、その方位線が重要だったからというよりは、将軍塚モデルの持つ性格そのものから生じた二次的現象とも考えられる。鳴動伝承の性格を考えると、それは国家や天皇家に何かあると鳴動するのであるから、朝廷によって重要な意味を持つ場所、重要視された場所が鳴動する可能性が強いはずである。それらの場所が比叡山や八王子山の方位線上にあれば、鳴動伝承を持つ場所も比叡山や八王子山の方位線上にあるということになるわけである。
 一方、鳴動伝承の場所はそれら自身も方位線で結ばれている。まず、将軍塚・田村麻呂の墓・岩清水八幡宮がそれぞれ方位線で結ばれている。また、将軍塚は稲荷山の剱石・雷石と南北線をつくり、剱石・雷石の東北60度線上に天智陵があり、また、西北60度線上には後白河天皇陵がある。剱石・雷石ではないが、伏見稲荷大社本殿と下鴨神社が南北線をつくっていた。また、岩清水八幡宮と東大寺も西北60度線をつくっていた。東寺であるが、将軍塚の東北30度線が東寺の西北隅を通るが、それをもって東寺と将軍塚が方位線関係にあるといえるかどうかはっきりとはいえない。このように、東寺の場合は不明瞭であるが、それ以外の場所は方位線で結ばれているわけである。
 また、それらの場所のうち後白河天皇陵はあまり方位線とは関係あるようには思えない。他の天皇陵と比べて特別なようにもみえなしい、単に自分が建立した三十三間堂の側に埋葬されたという感じである。後白河天皇陵にも鳴動伝承があるのは、源平合戦の当事者の一人であり、治承の乱の時に三度鳴動したという将軍塚伝承からの連想から生じたのではないだろうか。

  将軍塚―田村麻呂墓(W0.001km、0.01度)の西北60度線
  岩清水八幡宮―将軍塚(E0.036km、0.13度)の東北60度線
  岩清水八幡宮―田村麻呂の墓(W0.172km、0.70度)の東北45度線
  将軍塚―稲荷山劔石(E0.041km、0.64度)の南北線
  稲荷山御劔社―後白河天皇陵(E0.025km、0.60度)の西北60度線

 それに対して、将軍塚と田村麻呂の墓の方位線には無視できないものがある。将軍塚と田村麻呂の墓には単に鳴動伝承だけではない共通点があるのである。将軍塚については、平安京造営の際、桓武は華頂山(将軍塚山)に高さ八尺の甲冑と弓矢姿の土人形を王城鎮護のために西向きに埋めた塚を築いて、平安京の守り神としたという。山科にある田村麻呂の墓についても、田村麻呂の遺骸は甲冑に身を固め、太刀をはき、弓矢をもった姿で埋葬され、平安京の鬼門の方角をにらんで仁王立ちしているという同じような伝承がある。将軍塚に埋められた土偶について、一説には征夷大将軍坂上田村麻呂をかたどった武将像だともいわれる。竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、かつて武人をかたどった人物埴輪が出土したことから、かかる伝説が生まれたのではないかというが、将軍塚と田村麻呂の墓にまつわる伝承の共通性から、田村麻呂をかたどった土人形という伝承が生じてきたということもあるのではないだろうか。
 将軍塚と田村麻呂の墓は武装埋葬呪術と鳴動伝承で共通し、方位線で結ばれているわけであるが、似たような場所として桓武天皇が京の巽に宝剣を埋め、その上に神社を建てて呪術封じをしたという剣神社がある。剣神社は田村麻呂が建立した清水寺と東北60度線をつくる。比叡山三角点とも東北60度線をつくっているわけである。剣神社の方には鳴動伝承はないようであるが、剣神社の伝承とも関係するかもしれない伝承が田村麻呂にはある。火坂雅志『京都 秘密の魔界図』によれば、陸奥は京の鬼門であり、その中でも津軽は陸奥の東北に位置し、鬼門中の鬼門であり、田村麻呂はその津軽で平安京の「裏封じ」をほどこすために七つの神社を建てたが、その形は『新撰陸奥国誌』には北斗七星の形に配列したとあるという。また、田村麻呂はその七つの聖地に宝剣を埋めたといわれ、七つの神社の一つの弘前市熊野奥照神社からは昭和十七年に本殿を移築した際、本殿が建てられていた敷地から漆の箱が出土し、箱の中には幾重にも布で巻かれた一本の蕨手刀が入っていたというが、火坂雅志氏は剣神社の場合とよく似ているというのである。
 火坂雅志氏によれば、田村麻呂による津軽の壮大な北斗七星封じを裏づける証拠品が、戦争中にあった火災で焼失してしまったが、鞍馬寺にあったという。それは、「七社図」とよばれる北斗七星形に七つの神社を描いた絵図で、田村麻呂は陸奥遠征の前に鞍馬寺の兜跋毘沙門天に必勝祈願を行っており、陸奥からの凱旋後、田村麻呂が奉納したものであるという。田村麻呂は清水寺にも延暦十七年(798)征夷大将軍に任ぜられて東国平定に赴くにあたり、清水寺開基の延鎮に依頼して、本尊千手観音の脇侍に地蔵と毘沙門天をつくり戦勝を祈ったといわれる。比叡山三角点の方位線上に鞍馬寺と清水寺があり、また鞍馬寺と金毘羅山が東西線、金毘羅山と田村麻呂の墓が南北線で結ばれているということになるわわけである。比叡山は東北の早池峰山と方位線を作り、早池峰山はさらに津軽の靄山と西北60度線をつくっていた。

  剣神社―清水寺(W0.037km、1.47度)―比叡山三角点(W0.064km、0.35度)の東北60度線

 金毘羅山の南北線上には天智天皇陵があったが、田村麻呂の墓と天智陵が南北線をつくるかは微妙である。ただ清水寺と鞍馬寺という田村麻呂と関係する場所をみると、鞍馬寺の南北線は下鴨神社と現桓武陵の南北線に一致し、清水寺の南北線上には大亀谷陵墓参考地が位置しているという関係がある。剣神社も天智陵は東北30度線をつくっている。

  田村麻呂墓―天智天皇陵(W0.150km、2.90度)の南北線
  鞍馬寺―下鴨神社(E0.148km、0.95度)―伏見大社本殿(E0.172km、0.58度)―桓武天皇陵(E0.320km、0.92度)の南北線
  清水寺―大亀谷陵墓参考地±(W0.018km、0.19度)の南北線
  天智天皇陵―剣神社(W0.024km、0.44度)の東北30度線

 将軍塚について、村山修一氏(別冊宝島EX『京都魔界めぐり』)は坂上田村麻呂が清水寺の地蔵と毘沙門天の効あって勝利したことから、特に勝(将)軍地蔵が有名になり、その背後の山も将軍護持の山として神聖視された事情があったのかもしれないとする。ただ、将軍塚のある東山区の華頂山(将軍塚山)には平安京造営と直接かかわる伝承もある。
長岡京から平安京への遷都にあたって、和気清麻呂は狩にことよせて桓武天皇を誘い、華頂山(将軍塚山)に登ると、そこから見下ろす地こそ新しい都にふさわしい地であると進言し、桓武はその言葉を受け入れ平安京を造営したというのである。
 この伝承が無視できないのは、和気清麻呂が建てた神護寺と将軍塚が西北30度線をつくることである。その方位線上に白砂山があることになるが、将軍塚は平安京の北の聖山である船岡山とも西北45度線をつくっている。さらに比叡山とも方位線をつくっている華頂山(将軍塚山)に、桓武が王城鎮護のための呪術装置を施したことはありえる話であろう。また、羅城門が東北30度線方向にある。東北30度線ということでは、将軍塚は大日山(東岩倉山)と方位線をつくる。大日山と羅城門は偏角的にいえば、将軍塚と羅城門より小さいが、距離的には大きい。将軍塚・大日山とも羅城門との方位線としては微妙であるが、王城鎮護という観点からいえば、羅城門との方位線が成立しているほうがその機能もより働くことになるので、方位線をつくっていると考えたい。また、南北線上に稲荷山の剱石・雷石があったが、吉田山とも南北線をつくり、東西線上に松尾大社がある。松尾大社は鞍馬寺と東北60度線をつくる。松尾大社・鞍馬寺・比叡山が方位線三角形をつくり、さらに松尾大社と比叡山の方位線上にある下鴨神社と鞍馬寺が南北線をつくるということになるわけである。

  将軍塚―白砂山(W0.184km、1.21度)―神護寺(W0.217km、1.02度)の西北30度線
  将軍塚―船岡山(E0.031km、0.31度)の西北45度線
  大日山(W0.032km、1.10度)―将軍塚―羅城門(E0.158km、1.91度)の東北30度線
  将軍塚―吉田山標高点(E0.065km、1.32度)の南北線
  将軍塚―松尾大社(S0.251km、1.56度)―松尾山223m付近(S0.332km、1.96度)の東西線
  松尾大社―鞍馬寺(E0.142km、0.63度)の東北60度線

 和気清麻呂は宇佐神宮と斬っても切れない関係にあるわけであるが、将軍塚と清麻呂が関係する伝承があり、神護寺と将軍塚が方位線をつくっていることから、宇佐神宮から勧請された岩清水八幡宮と将軍塚の方位線も無視できなくなるわけである。また、空海は最初神護寺を拠点とし、東大寺の別当をも務めており、将軍塚と東寺が方位線をつくるかどうかは別にしても、東寺境内に担ぎこまれた東大寺の八幡神の御輿と将軍塚は和気清麻呂・空海・宇佐神宮と岩清水八幡宮を介して関係しあうわけである。

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大将軍社

 四岩倉と同じような伝承として、桓武天皇は都を守るために東西南北に四つの大将軍社を置いたというのがある。火坂雅志『京都 秘密の魔界図』では、東の大将軍社としては東山長光町の東三条大将軍神社、西は上京区一条通り御前西入ルの大将軍八神社、南は藤森神社摂社の大将軍社、北は上京区西賀茂角社町の西賀茂大将軍神社が挙げられている。この他、村山修一(別冊宝島EX『京都魔界めぐり』)によれば、北としてはもとは大徳寺門前にあったが現在は今宮神社境内に移された紫野大将軍社、東としては今は確かめることができないが一条通北万里小路東の大将軍社、それに岡崎天王社(岡崎神社)の境内に昔大将軍社があったといい、八坂神社も鎌倉時代の境内図に大将軍社が描かれているという。
 火坂雅志氏のあげる大将軍社で考えると、四岩倉と同じように東西と北の大将軍社が船岡山と方位線的に結びつくようである。西賀茂大将軍社は船岡山の北に位置するし、東三条大将軍神社と船岡山が西北45度線をつくる。大将軍八神社の場合はその東北60度線が船岡山の三角点と建勲神社の間を通る。また、平安京南北中心軸との関係を見た場合、西賀茂大将軍社はそのまま南北中心軸上に位置することになり、大将軍八神社は朱雀門とも西北60度線をつくる。

  船岡山―西賀茂大将軍神社(E0.050km、0.11度)の南北線
  船岡山―東三条大将軍神社(W0.098km、1.22度)の西北45度線
  船岡山―大将軍八神社(E0.084km、3.11度)の東北60度線
  朱雀門―大将軍八神社(E0.023km、0.80度)の西北60度線

 ただ、四岩倉と違って南の藤森神社摂社の大将軍社は平安京中心軸に方位線をつくるものが残念ながらない。紫野大将軍社や一条通北万里小路東の大将軍社も平安京中心軸との関係は明確ではない。現在紫野大将軍社のある今宮神社は平安京南北中心軸上に位置するが、もともとあったという大徳寺門前については、船岡山が近すぎて、大徳寺門前がどこでも何らかの方位線が船岡山の何処かを通るということになって、方位線そのものが意味をなさない。
 一条通北万里小路東の大将軍社であるが、一条通と万里小路の交差する付近にあったということであろう。平安時代の万里小路は現在の柳馬場通であるから、その交差する場所は現在の京都御所の東北隅、猿ヶ辻の少し南近辺ということになる。その所在が失われたのは、京都御所が移ってきたことと関係あるのかもしれない。そうすると、現在の京都御苑内の北を今出川通として南北300m、西を京都御所、東を柳馬場通と麩屋町通の約半分として東西80mの範囲の何処かにあったということになる。京都に対する土地鑑といったものがないので、一条通北万里小路東といった場合、京都の人はどのぐらいの範囲を想像するかまったくわからないが、東西の範囲を南北の範囲にも当てはめるなら、北側よりも南側から中ほどにかけてのほうが可能性は高くなるといえるのではないだろうか。とりあえず、一条通北万里小路東の大将軍社を御苑内大将軍社と呼ぶことにするなら、御苑内大将軍社が北側にあったなら船岡山と西北30度線、大極殿と東北30度線をつくり、中間部分にあった場合は船岡山とのみ方位線をつくる。このうち、北側部分にあった可能性は高くないとすれば、船岡山との方位線が問題になるが、東西が80mなら南北も80mぐらいの範囲を考えるべきではないとかとしたら、その範囲で船岡山と方位線をつくる範囲は小さく、御苑内大将軍社については、平安京中心軸との方位線はなかったと考えるのが妥当というべきであろう。

  一条通北万里小路東交差点付近―大極殿(W0.232km、6.1度)の東北30度線
  一条通北万里小路東交差点付近―船岡山(E0.166km、3.87度)の西北30度線

 一方、村山修一氏のいう岡崎神社や八坂神社の境内にあった大将軍社については、東大将軍社だったという伝承があったのかどうなのか明瞭な言い方ではなく、どちらかといえば単にその場所に大将軍社が在ったととれるのであるが、そのうちの岡崎神社境内の大将軍社は船岡山と西北30度線をつくり、羅城門と東北45度線をつくる。また、大極殿はその東西線方向にある。

  岡崎神社―船岡山(W0.058km、0.68度)の西北30度線
  岡崎神社―大極殿(N0.154km、2.08度)の東西線
  岡崎神社―羅城門(E0.009km、0.09度)の東北45度線

 四岩倉の場合は、金蔵寺と長岡京の関係を原型とするなら、平安京遷都の際それを強化する形で四方に一切経を埋めたということはありえるが、大将軍社の場合は後の時代に生じたものであろう。ただ、朝廷あるいは庶民どちらにせよ自分達の存在・生活を護るための場所として大将軍社があったということはいえ、そのことが桓武が東西南北に大将軍社を置いたという伝承の発生にもつながっていったのであろう。さらに、大将軍社が天皇家を守る役目を与えられたにせよ、庶民の生活を守るものとしてあったにせよ、そのような能力をもつために、かって王城鎮護の力をもつとされた装置と何らかの関係を持ち、その力を授けられるという形で大将軍社の信仰が発展していったということも考えられる。
 大将軍社がどのような呪術装置と結びついているのか、方位線的にははだいたい三つぐらいのグループに分けることができる。それらははっきりと分かれているわけではなく、重なっており、その分焦点がボケて、大将軍社の物語性もとりとめのないものになっていってしまう観がないではないが、それは大将軍社にそれだけ多様な力をもたらしているともいえる。三つのグループの一つは、平安京中心軸と関係するものであり、その他賀茂神社、将軍塚・八坂神社に関係するものが考えられる。
 南北中心軸でいうと、羅城門からの東北45度線上には岡崎神社の大将軍社の他に、東三条大将軍神社も位置し、さらにその中間にもう一つ大将軍社があった可能性もある。竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、市立美術館の東南隅にある広道橋西方岡崎円勝寺町と推定される東三条の森、あるいは源頼政の鵺退治から鵺の森とも大将軍の森ともいわれる森の中にも大将軍社があったらしい。法勝寺の鎮守社と伝えられ、法勝寺は承暦元年(1077)白川天皇の御願によって造立され、その寺域は西は岡崎広道に至る現在の市立動物園から北の岡崎法勝寺町(仁王門通岡崎広道西入ル)にあたるというから、広道橋はその寺域の西南隅にあたり、大将軍社も広道橋近くにあったことが考えられる。この社をとりあえず法勝寺の大将軍社と呼ぶなら、岡崎神社の大将軍社・法勝寺の大将軍社・東三条大将軍神社どうしは方位線をつくらないが、羅城門の東北45度線上に並んでいたということができる。

  羅城門―東三条大将軍神社(W0.171km、1.65度)―広道橋(E0.142km、1.54度)―岡崎神社(W0.009km、0.09度)の東北45度線

 一方、南北中心軸上では西賀茂大将軍神社が今宮神社と関係し、今宮神社は船岡山と深く関係する。正暦五年(994)疫病が流行したので木工寮修理職をして神輿二基をつくり、船岡山に安置して御霊会を行ったが、長保三年(1001)に再び疫神の示現によって、現在地に神殿三宇を造営して御霊会がいとなまれたというのである。船岡山がもともとの今宮神社の場所ともいえるわけである。今宮神社と西賀茂大将軍神社の関係は、今宮神社の祭礼にやすらい祭(やすらい花)があるが、江戸時代にはやすらい花の祭りはまず西賀茂大将軍神社で行ったのち、今宮神社に移したという。今宮神社の祭礼には今宮祭とやすらい祭(やすらい花)があるが、今宮祭が本社の祭礼であるのに対してやすらい祭は末社の疫神社の祭礼である。今宮神社の氏子圏は西陣など南に広がるが、やすらい祭は北部の旧農村部によって担われてきた。疫神社は本社遷座以前から鎮座していたというが、やすらい花(祭)は今宮神社特有のものではなく、かつては広く行われていたといわれる。今宮神社のやすらい花は、久寿元年(1154)の行装があまりに華美ということで勅命で禁止され、正治二年(1200)を最後に記録が姿を消し、再び現われるのは天正四年(1575)で、徳川綱吉の母桂昌院によって再興されたともいわれる。やすらい花(祭)も御霊会といわれ、船岡山と今宮神社、疫神社と西賀茂大将軍神社の南北線が御霊会で一つになるともいえるわけである。

  船岡山(W0.025km、1.84度)―今宮神社―西賀茂大将軍神社(E0.025km、1.04度)の南北線

 羅城門の東北45度線上にある東三条大将軍神社・法勝寺の大将軍社・岡崎神社の大将軍社と羅城門の南北線上にある船岡山・今宮神社・西賀茂大将軍神社との方位線をみると、船岡山と東三条大将軍神社が西北45度線、岡崎神社の大将軍社が西北30度線をつくっていたが、その他、今宮神社と法勝寺の大将軍社が西北45度線をつくっていたと考えられ、西賀茂大将軍神社と東三条大将軍神社が西北60度線をつくる。

  今宮神社―広道橋(E0.079km、0.83度)の西北45度線
  西賀茂大将軍神社―東三条大将軍神社(W0.021km、0.19度)の西北60度線

 このうち、船岡山と岡崎神社の大将軍社の西北30度線、今宮神社と法勝寺の大将軍社の西北45度線、西賀茂大将軍神社と東三条大将軍神社の西北60度線を考えると、この三つの方位線の三つの交点は平べったい三角形をつくるが、その重心は猿ヶ辻のすぐ東北寄りあたりになり、三つの方位線はこの重心で交わるといってもいいのではないだろうか。その重心は御苑内大将軍神社の近くでもあリ、あるいは御苑内大将軍社はその交点上にあったということなのかもしれない。そうすると、御苑内大将軍社は一条通と万里小路の交差点からだいぶ北側という可能性もあり、それに対して交差点近くだとすると、大将軍八神社と御苑内大将軍社が東西線をつくっていることになる。

  今宮神社(E0.092km、1.79度)―一条通北万里小路東交差点付近―広道橋(E0.170km、3.93度)の西北45度線
  西賀茂大将軍神社(E0.036km、0.51度)―一条通北万里小路東交差点付近―東三条大将軍神社(E0.015km、0.38度)の西北60度線
  一条通北万里小路東交差点付近―岡崎神社(E0.224km、5.19度)の西北30度線
  大将軍八神社―一条通北万里小路東交差点付近(N0.007km、0.15度)の東西線

 羅城門の東北45度線上にある三つの大将軍社は羅城門を護るためにあるのか、それとも逆に羅城門より呪術的力の一部を得ているのかという問題が残る。南北線上にある船岡山・今宮神社・西賀茂大将軍神社は船岡山と今宮神社の創祀における船岡山との関係からも平安京を護るための場所だったことが分かる。とすれば、大極殿や羅城門は護られる側の場所であり、羅城門と八王子山が東北45度線をつくっていたが、三つの大将軍社は八王子山の東北45度線上にもあるということであり、八王子山によってその力が強化されていると考えられることになる。
 八王子山の東北60度線上には藤森神社の大将軍社がある。また、八王子山と羅城門の東北45度線上には南岩倉の明王院不動があったが、愛宕山と明王院不動が西北30度線をつくり、愛宕山と藤森神社・境内の大将軍社が西北45度線をつくる。愛宕山の西北30度線上に双ヶ丘があるということにもなるわけである。愛宕山の東西線上には西賀茂大将軍神社がある。

  八王子山―藤森神社(W0.075km、0.27度)の東北60度線
  愛宕山―双ヶ丘(E0.187km、1.32度)―明王院不動(E0.114km、0.48度)の西北30度線
  愛宕山―藤森神社(E0.307km、1.01度)の西北45度線
  愛宕山―西賀茂大将軍神社(S0.125km、0.73度)の東西線

 船岡山は平安京の中心軸上にあるとともに、片岡山・下鴨神社と正三角形をつくっていた。この三角形を考えると、船岡山は賀茂神社と関係しているということになるが、片岡山に注目すると、片岡山・船岡山の東北60度線上に大将軍八神社があり、片岡山・下鴨神社の西北60度線上に岡崎神社の大将軍社がある。また下鴨神社に注目すると、岡崎神社の西北60度線の他に南北線上に藤森神社の大将軍社があり、東北60度線上に御苑内大将軍社があった可能性がある。

  片岡山175m付近―大将軍八神社(E0.116km、1.52度)の東北60度線  
  岡崎神社―下鴨神社(W0.060km、1.23度)―片岡山175m付近(W0.071km、0.72度)の西北60度線
  下鴨神社―藤森神社(W0.117km、0.69度)の南北線
  下鴨神社―一条通北万里小路東交差点付近(W0.020km、0.73度)の東北60度線

 大将軍八神社と御苑内大将軍社が東西線をつくっていたかもしれないとしたが、その東西線上に吉田山があり、大日山(東岩倉山)の東西線上に東三条大将軍神社がある。これは神山の西北60度線上にある吉田山と大日山からの方位線というようにも解釈できる。この場合も、広義に賀茂神社と結びつく方位線といえるかもしれない。

  吉田山最高点付近―一条通北万里小路東交差点付近(S0.047km、1.27度)―大将軍八神社(S0.054km、0.64度)の東西線
  東岩倉山288m付近―東三条大将軍社(S0.060km、1.48度)の東西線

 西賀茂大将軍神社と賀茂神社も関係がある。西賀茂大将軍神社はもとは角社、須美社といわれていたが、官衙の瓦を焼いた瓦屋の鎮守社だったといわれ、須美社の「すみ」は桓武が王城鎮護のため都の四隅に置いた大将軍社のうち、西北隅にあたるので、隅が須美になったとも、賀茂建津身命の「たけずみ」に因むともいわれる。社殿は上賀茂神社摂社の片岡社の社殿を移したものであるというから、賀茂神社との関係も無視できないものがある。また、今宮神社は上賀茂神社と東北60度線をつくっている。

 上賀茂神社―今宮神社(W0.041km、1.21度)の東北60度線

 村山修一氏によると、鎌倉時代の末に祇園社の社僧が安倍晴明に仮託して『ホキ内伝』という牛頭天王を星宿化した宿曜書を作り、また方角禁忌の書を作ったりして、大将軍の方忌を強調するようになると、盛んに大将軍社がまつられ、平安遷都のさい、都の四方にその社が建てられたと信じられるようになったが、ひとつには将軍塚の伝承が平安時代に広がっていたからであろうとする。将軍塚と八坂神社は方位線をつくらないが、将軍塚が神護寺と白砂山と西北30度線をつくり、八坂神社も白砂山と西北30度線をつくっていた。この西北30度線上に八坂神社と将軍塚があるとすると、大将軍八神社もまたその方位線上に位置する。大将軍八神社は八坂神社の末社だったことがあった。大将軍堂の記録上の初見は治承二年(1178)といわれ、大将軍八神社はその大将軍堂である可能性はきわめて高いとされる。

  大将軍八神社―八坂神社(W0.171km、2.05度)―将軍塚(E0.008km、0.08度)の西北30度線

 八坂神社と大将軍八神社だけを取り出せば、大将軍八神社は八坂神社の西北30度線方向ということになるが、八坂神社の東北60度線方向には法勝寺の大将軍社と岡崎神社がある。八坂神社と瓜生山が東北60度線をつくるとしたが、その方位線上に岡崎神社と法勝寺の大将軍社があるといえるわけである。このうち、岡崎神社は古くは左京区聖護院円頓美町の須賀神社(西天王社)に対して東天王社といわれ、元慶年間(877-85)清和天皇皇后藤原高子の御願によって建立された東光寺の鎮守社として創祀されたという。八坂神社は『雍州府志』では広峰より瓜生山に遷り、そこから現在地に遷ったというのに対して、『二十二社註式』では広峰より北白川の東光寺に移ったとなっている。岡崎神社は吉田山の南で北白川とはいえないが、同じ東光寺というのが気になる。なお、須賀神社(西天王社)は永治二年(1142)に建立された歓喜光院の鎮守社として創祀され、もともとの場所は平安神宮蒼龍楼の東北にある西天王塚がそれと伝えられているという。

  八坂神社―広道橋(E0.039km、2.08度)―岡崎神社(E0.070km、2.26度)の東北60度線
  瓜生山―岡崎神社(E0.139km、2.85度)―広道橋(E0.108km、1.77度)の東北60度線

 東三条大将軍神社も八坂神社の末社であるが、八坂神社とは方位線をつくらない。そのかわり、将軍塚と西北45度線をつくる。将軍塚と船岡山の方位線上に位置しているといえるわけである。東三条大将軍神社と大日山(東岩倉山)が東西線をつくっていたが、大日山と将軍塚も東北30度線をつくる。御苑内大将軍社は東三条大将軍神社と西賀茂大将軍神社の西北60度線上にあった可能性とともに、大日山の西北30度線上にあった可能性が高い。また、白砂山と西賀茂大将軍神社も東北30度線をつくっている。

  将軍塚―東三条大将軍神社(W0.068km、3.24度)の西北45度線
  東岩倉山288m付近―将軍塚(E0.032km、1.10度)の東北30度線
  東岩倉山288m付近―一条通北万里小路東交差点付近(W0.091km、1.32度)の西北30度線
  白砂山―西賀茂大将軍神社(E0.007km、0.10度)の東北30度線

 大将軍社の祭神を見ると素盞鳴命とするものと磐(石)長姫とするものとがある。素盞鳴命を祭神とするのは大将軍八神社や東三条大将軍神社など八坂神社の末社であり、素盞鳴命と牛頭天王は習合されたから当然ともいえる。磐(石)長姫を祭神とするものは、西賀茂大将軍社や藤森神社の大将軍社の他岡崎神社の大将軍社もそうだったといわれる。こちらの方は、藤森神社が南北線をつくり、西賀茂大将軍神社は伝承として結びつくなど、下鴨神社の影が濃い。岡崎神社の場合は八坂神社との関係も深いかも知れないが、岡崎神社と境内の大将軍社は分けて考えることができるかもしれない。八坂神社と関係するのは東天王社といわれた岡崎神社の方で、大将軍社の方は下鴨神社と関係していたかもしれないのである。西天王社の須賀神社の祭神をみると、須佐之男命・櫛稲田比売命・久那斗神・八衢比古神・八衢比売神の五座で、昭和三十九年(1964)に久那斗神・八衢比古神・八衢比売神の三座を分祀して、新しく交通神社が創祀されたが、西天王社に久那斗神が祀られているということは、東天王社のほうにも何らかの形で久那斗神系の神が祀られていた可能性があるのではないだろうか。谷川健一編『日本の神々 5』によれば、大将軍八神社は旧大内裏の西北角に位置していることから、疫神の侵入を防ぐために塞神を祀る道饗祭の祭場が固定化し、王城守護の神祠になったものと考えられるとする。大将軍社はもともとは塞神すなわち久那斗神と関係が深かったかもしれないわけである。

 平安末期の大将軍堂の次に大将軍社が出てくるのは、室町時代の『拾芥抄』らしいが、東西南北の大将軍社としてではなく、上中下の大将軍堂としてであるという。上は一条北西大宮西、中は高辻北万里小路東、下は七条北東洞院西で、そのうち上大将軍堂が大将軍八神社とされる。中や下はその位置が必ずしも明確ではなく、中には高辻松原西、下は大宮西七条北あるいは八条坊門油小路北などの異説があるという。このうち、高辻松原西は松原が松原通とすると、高辻通と松原通は東西に並行にはしっているから、その位置を想定することができない。また、油小路北も油小路は南北にはしっているから、これも記述が混乱しているが、これは八条坊門小路と油小路の交差点付近と考えることはできる。高辻松原西以外の大将軍社の正確な位置はわからないにしても、それぞれの交差点付近と考え、目印として各交差点隅を採るといくつかの方位線の可能性が浮かんでくる。
 先ず、『拾芥抄』に出てくる上の大将軍八神社と中下の大将軍社が方位線で結ばれていた可能性がかなり高い。高辻北万里小路東の交差点は大将軍八神社の西北45度線方向に位置するが、中の大将軍社が交差点の東北部で大将軍八神社の西北45度線がその東北部を通ることから、大将軍八神社と中の大将軍社が方位線をつくっていた可能性がきわめて高くなるのである。大将軍八神社と下の七条北東洞院西交差点隅も西北60度線をつくる。これは大将軍八神社からの方位線の範囲として南北は七条通から下数珠屋町通、東西として東洞院通から不明門通までの範囲を含むということであり、七条北東洞院西といった言い方でどのぐらいの範囲を想定すればいいのか分からないが、大将軍八神社と下大将軍堂も西北60度線をつくっていた可能性はかなり高いのではないだろうか。

  大将軍八神社―高辻北万里小路東交差点隅(W0.150km、2.14度)の西北45度線
  大将軍八神社―七条北東洞院西交差点隅(E0.053km、0.63度)の西北60度線

 下大将軍堂とされた三社であるが、少なくともこのうち七条北東洞院西と大宮西七条北の交差点隅は八坂神社とそれぞれ東北45度線、東北30度線をつくる。両方とも交差点の西北部に在り、八坂神社の方位線がその西北部を通ることから、それら二社と八坂神社も方位線をつくっていた可能性はかなり高い。七条北東洞院西については、下数珠屋町通や不明門通との間の範囲のほとんどが方位線の範囲に入り、八坂神社と下大将軍社との方位線もかなり確実なのではないだろうか。大宮西七条北も大将軍社があった西北部の100m四方ぐらいの範囲はほとんど方位線の範囲に含まれるので、これも八坂神社と大将軍社が方位線をつくっていたのはかなりの確率といえるのではないだろうか。
 八条坊門油小路北の大将軍社であるが、八条坊門小路は七条通と八条通の真中を通っていた道である。その八条坊門小路と油小路の交差点のどちら側か分からないが、交差点付近ということは言えるだであろう。そうすると、七条北東洞院西と八条坊門油小路北の二つの交差点は、将軍塚の東北30度線上に位置することになる。七条北東洞院西の場合は将軍塚からの方位線が西北部を通ることから、やはりその確率は高い。一方、八条坊門油小路の場合は、将軍塚からの方位線は東南部を通るから、もし大将軍社が西北部にあったとすると、方位線をつくっていた確率は五分五分というところではないだろうか。全体の四分の一の部分でほぼ五分五分で、残りの四分の三の部分ではかなり高いのであるから、八条坊門油小路北の大将軍社も全体的に見れば、方位線をつくっていた可能性は高いということはいえる。少なくとも、方位線よりは緩い方向線まで広げれば、八条坊門油小路北の大将軍社も含め方位方向線で結ばれているといっていいのではないだろうか。

  八坂神社―七条北東洞院西交差点隅(E0.024km、0.61度)の東北45度線
  八坂神社―大宮西七条北交差点隅(E0.050km、0.91度)の東北30度線
  将軍塚―七条北東洞院西交差点隅(E0.040km、0.84度)―八条坊門油小路交差点(W0.053km、0.89度)の東北30度線
 
 村山修一氏は上中下の配置は大将軍の信仰とは関係ないという。おそらく、それは大将軍が陰陽道の星神で太白星・金精とも呼ばれ、三年ごとに四方を巡り、その方位は三年塞りといって何事も慎まなければならないということから、四方すなわち東西南北とは結びつくが、そこから上中下といった配置は出てこないということなのであろう。ただ、上中下という言い方とは別に、将軍塚や八坂神社・大将軍八神社との方位線関係が成立しているとすると、それら大将軍社は将軍塚・八坂神社・大将軍八神社というひとつの呪術空間と密接に関係する機能を果していると考えられるのである。中下の大将軍社には異説があるとするが、それは桓武が配置した東西南北の大将軍社はどの神社かといった意味合いとは少し違って、それらは上中下の大将軍社の機能を補強・拡大するものとして、新たに付け加えられていった中下大将軍社なのではないだろうか。以後、交差点との方位線が成立していたら、大将軍社との方位線も成立するという前提のもとで、話を少し進めてみたい。
 最初の中下大将軍社は大将軍八神社と方位線をつくることから、『拾芥抄』のあげる大将軍社が最初の中下社とみていいのではないだろうか。そのうち、下の七条北東洞院西の大将軍社をみると、将軍塚・八坂神社・大将軍八神社・白砂山がひとつの方位線上に並ぶとしたが、そのうちの将軍塚・八坂神社・大将軍八神社と方位線をつくっていた。さらにいえば、残る白砂山とも西北45度線をつくっているのである。さらに残りの二つの下大将軍社であるが、将軍塚・白砂山の方位線はさらに神護寺まで延長できたが、その二つの大将軍社は神護寺からの西北45度線上に位置していると考えられるのである。これら、下大将軍社は将軍塚・八坂神社・大将軍八神社・白砂山・神護寺というひとつの方位線上に成り立った呪術空間を拡大するものであると考えられ、それはまたその呪術空間を何らかの機能で補強するものであったといえるのではないだろうか。
  
  白砂山―七条北東洞院西交差点隅(W0.196km、1.45度)の西北45度線
  神護寺―大宮西七条北交差点隅(W0.052km、0.29度)―八条坊門油小路交差点(E0.060km、0.32度)の西北45度線

 中大将軍社は方位線的にみると、将軍塚・八坂神社・大将軍八神社の呪術空間というよりは、その中の大将軍八神社を補強しているように思える。おそらくそれは、中大将軍社が双ヶ丘と西北30度線をつくっていることと関係するのかもしれない。というのも、大将軍八神社は船岡山と方位線をつくったが、その他にも吉田山と東西線をつくっていた。吉田山と双ヶ丘は東西線をつくるとしたのであるから、大将軍八神社も双ヶ丘と東西線をつくるともいえるが、大将軍八神社が東西線をつくるのは吉田山の最高点であり、それに対して双ヶ丘が正確に東西線をつくるのは三角点であり、このことから大将軍八神社と双ヶ丘をのみ取り出すなら、東西線をつくるとはいえず、その点で大将軍八神社と双ヶ丘の方位線は弱いのであり、中大将軍社と双ヶ丘の方位線は、その弱さを補強していると考えられるのである。七条北東洞院西の下大将軍社も吉田山と東北60度線をつくり、上中下の大将軍社は平安京の三山と結びつく形でも呪術空間を作り出しているといえる。なお、御苑内大将軍社は大将軍八神社の東西線の他に、中大将軍社も同じく万里小路東ということで南北線をつくっていた可能性もある。

  双ヶ丘―高辻北万里小路東交差点隅(W0.020km、0.21度)の西北30度線

 谷川健一編『日本の神々 5』によれば、大将軍八神社の社伝では、桓武天皇の勅願によって大和国春日山麓より勧請されたという。春日山麓は神奈備山の西北60度線圏になる。もし、その社伝が事実なら、もともとの鎮座地と神奈備山が方位線で結ばれていた可能性があり、そのことを踏まえて、平安京四聖山のうちの残る三山との方位線上に勧請されたとも考えられるし、また単なる伝承だとすると、四聖山の残る神奈備山と伝承上で方位線関係をつくったとも考えられるわけである。また、もともと道饗祭の祭場だったものが固定化したとすると、最初は大将軍社ではなかった可能性もある。素直に考えれば最初は塞の神を祀る神社で、八坂神社とも関係なかったと考えられる。それがいつ頃どのような経緯で大将軍社になったのかは分からないが、八坂神社と結びついてひとつの呪術空間が成立していったのは、方位線的に考えるなら大将軍八神社と八坂神社が白砂山と将軍塚の方位線上にあったこと、そして大将軍八神社が船岡山と、八坂神社が瓜生山と方位線をつくることから、白砂山・将軍塚の西北30度線と白砂山・船岡山・下鴨神社・瓜生山の東西線という、二つの信仰・呪術空間が複合していったといえるのではないだろうか。
 八条坊門油小路の大将軍社は羅城門とはともかく八王子山の東北45度線上にある。また、八王子山の東北60度線上には藤森神社がある。八王子山の東北60度線上には稲荷山の劔石・雷岩があったが、劔石・雷岩は高辻北万里小路東の中大将軍社と西北60度線をつくり、七条北東洞院西の下大将軍社と西北45度線をつくる。ただ、劔石・雷岩と藤森神社の東北60度線は成立しない。

  八王子山―八条坊門油小路交差点(E0.069km、0.29度)の東北45度線
  八王子山―藤森神社(W0.075km、0.27度)の東北60度線
  稲荷山御劔社―高辻北万里小路東交差点隅(E0.004km、0.06度)の西北60度線
  稲荷山御劔社―七条北東洞院西交差点隅(E0.003km、0.05度)の西北45度線

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籠神社と平安京

 西宮の甲山神呪寺の開基は、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとあり、『元亨釈書』では淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとしているという。如意尼については、皇太子時代の淳和天皇は夢告に従い、京都頂法寺にて、丹後国余佐郡の娘と出会い、これを第四妃に迎えた。淳和天皇第四妃は、如意輪観音への信仰が厚く、念願であった出家するために天長5年(828年)にひそかに宮中を抜け、今の西宮浜から甲山へと入り、この時、妃は空海の協力を仰ぎ、これより満3年間、神呪寺にて修行を行ったという。天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったといい、この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶したが、同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称していたといい、この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であったという。(ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%91%AA%E5%AF%BA  2008/1/1)
 籠神社の伝承では真井御前は海部直の三十一代雄豊の娘厳(いつ)子で、「もの心ついた厳子姫は十才にしてふと誘われる如く都に上り、頂法寺の六角堂に入り、ここで手芸礼儀作法等の教養を積む傍ら、如意輪の教えに帰依し、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んだ」といい、まだ皇太子だった淳和天皇に見そめられて第四の妃として迎えられたのは、弘仁十三年(822)姫が二十才の時であったという。ここで、疑問に思うのは、わずか十歳の子供が自分の意志で都にまでいくだろうかということである。子供がそんなことを言い出しても、親は反対するであろうし、家出同然で都に上ったとすれば、それを連れ戻さない親はいないだろう。わずか十歳の厳子姫が自分の意志で親元を離れて平安京で生活を始めたというよりは、そう仕向ける何らかの力が働いたということであろう。それは籠神社側の事情かもしれないし、あるいは朝廷からの強要だったのかもしれないが、どちらにしてもそれは平安京の霊性とも関わることだったのではないだろうか。宮中における坐摩巫は『延喜式』では都下国造氏の童女七歳以上の者をこれに充て、嫁す時には他の者に替えられたというが、恒常的なものではないが、厳子も同じような立場で平安京に上ったのではないだろうか。
 その住んだ場所も、頂法寺六角堂ではなかったかもしれない。頂法寺六角堂は聖徳太子建立という伝承をもつ寺で、平安京を造営するにあたり、小路がちょうど六角堂にあたってしまい、聖徳太子ゆかりの寺ということで他に移すこともはばかられ、困っていると、にわかにかき曇り、黒雲が下りてきてお堂が自ら五丈ほど北に移ったという伝承がある。しかし、中村修也『秦氏とカモ氏』によれば、奈良時代の遺物と思しきものは出土しているが、遺構のようなものは発見されておらず、平安京成立以前には六角堂は存在していなかったというのが現在における通説となってるいという。また、桓武は東寺・西寺以外は平安京にお寺を建てさせなかったともいわれるから、厳子姫が平安京に来た当時、六角堂はなかったという可能性もあるのである。もっとも、頂法寺は弘仁十三年すなわち厳子姫が淳和天皇の妃になった年に、嵯峨天皇の勅願所になったともいわれる。そうすると、厳子姫が京都に出てきた当時にはすでにあったという可能性もまたあることになる。
 真井御前が平安京に来たのは弘仁十年(812)頃ということになるが、この数年前に賀茂神社では大きな変化があった。弘仁元年(810)に嵯峨天皇は有智子内親王を賀茂神社の最初の斎王としている。薬子の変が起こったとき、嵯峨天皇は賀茂神社に勝利を祈願して、斎王を置くことを誓ったともいわれる。斎王は阿礼乎止女とも言われたが、斎王が置かれる以前は賀茂氏の子女が阿礼乎止女になっていたといい、阿礼乎止女は上代の斎子(イツキコ)で、賀茂の社役人の中に忌子(イムコ)があるのは、斎王が置かれたときに斎という言葉を避けて忌子と称えるようになったともいわれる。斎王以前の阿礼乎止女が賀茂氏の子女だったとすれば、斎王が置かれた時に斎王を阿礼乎止女にする媒介のような役目として賀茂氏の子女が斎王に仕えたのではないだろうか。その際、籠神社の子女も同じような役目として呼び出された可能性もある。籠神社の極秘伝では籠神社の祭神と賀茂神社の別雷命は異名同神であった。また、籠神社にも葵祭があり、賀茂祭とも関係があるともいわれている。賀茂神社と籠神社が深い関係にあると考えられていたとするなら、斎王に籠神社の斎子的意味も持たそうとしたとも考えられのである。厳(いつ)子とは籠神社の斎子(イツキコ)を意味しているともとれる。
 籠神社の葵祭はもともとは藤祭といい、真名井神社の祭りであったという。賀茂神社も藤と関係が深かった可能性がある。ここで可能性とあるとしたのは、平成18年の夏下鴨神社に行ったとき、参道の途中で藤が下鴨神社にとって重要なかかわりをもっているという内容の説明板を確かにみたはずなのである。その時、写真をとらなかったので、写真を撮っておこうとその年の暮に京都で途中下車し、下鴨神社にいったのだが、その説明板を見つけることが出来なかったという経緯があり、幻覚を見たとも思えないのであるが、証拠を出せといわれたときに出せないという意味で可能性があるとしかいえないわけである。記憶では古い説明板で、瀬見の小川が参道を横切るのを渡った左側あたりだったはずなのだが、暮にいった時には全体的に説明板は白く塗られたものばかりで、もしかしたらその説明板は立て替えられずにそのまま破棄されてしまったのかもしれない。
 籠神社と平安京の方位線をみると、籠神社の西北45度線上に比叡山がある。その方位線上には、貴船山や貴船神社、鞍馬寺などがある。それに対して、八王子山が冠島と西北60度線をつくっていた。海部氏の始祖彦火明命が天降った場所は凡海の息津嶋すなわち籠神社の海の奥宮といわれる冠島・沓島と伊去奈子嶽であるが、伊去奈子嶽も愛宕山と西北45度線をつくる。籠神社からのもう一つの方位線は、西北60度線で、その方位線上に甘南備山がある。籠神社は出雲大神宮とも西北60度線をつくっていたので、少し離れるが籠神社・出雲大神宮・甘南備山が一つの方位線上にあると考えたい。 

  籠神社―貴船山(W0.275km、0.22度)―貴船神社(E0.131km、0.10度)の西北45度線
  真名井神社―貴船神社奥社(E0.182km、0.14度)―鞍馬寺(E0.002km、0.00度)―比叡山三角点(W0.122km、0.09度)の西北45度線
  磯砂山―愛宕山(W0.137km、0.10度)の西北45度線
  甘南山―出雲大神宮(E0.853km、1.54度)―籠神社(W0.06km、0.03度)―真名井神社(E0.285km、0.16度)の西北60度線

 出雲大神宮の西北60度線上に東大寺がある。出雲大神宮と籠神社が西北60度線をつくっているとしたのであるから、これは籠神社・真名井神社と東大寺も西北60度線をつくるといってもいいであろう。空海は大同元年(806)に帰朝するが、すぐには都に入ることを許されず、大同四年(809)高雄山寺後の神護寺に入る。都入りした空海は、二年後の弘仁元年(810)には東大寺の別当に任じられている。籠神社の西北45度線上にある比叡山に最澄がいて、西北60度線上の東大寺に空海がおり、最澄の比叡山と空海の東大寺が南北線で結ばれているということになるわけである。

  東大寺大仏殿―出雲大神宮(E0.069km、0.08度)―真名井神社(W0.637km、0.32度)の西北60度線

 真井御前開基ともされる神呪寺であるが、籠神社とは方位線をつくらないが、海部氏にとって籠神社に次ぐ重要な神社である笑原神社と南北線をつくっている。もっとも、真井御前と籠神社の関係からいえば、どうせ笑原神社と方位線をつくるなら、何故、籠神社と方位線をつくらないのかという疑問は残るが、これは空海と真井御前との関係で捉えるべきなのかしれない。空海は、弘仁二年(811)に乙訓寺の別当にも任じられているが、早良親王の祟りを封じ込めることを空海に期待したものだともいわれている。乙訓寺は山住神社と東北60度線をつくっていたが、ここで注目すべきことは、山住神社の西北30度線上には早良親王を祭る崇道神社があることである。北岩倉の山住神社は早良親王の怨霊封じ込めと深く関係する場所ということになるが、笑原神社をみると、笑原神社は乙訓寺と西北60度線、山住神社と西北45度線上をつくるのである。

  神呪寺―笑原神社(W0.560km、0.43度)の南北線
  山住神社神社―崇道神社(w0.020km、0.65度)の西北30度線
  乙訓寺―笑原神社(W0.301km、0.26度)の西北60度線
  笑原神社―山住神社(E0.156km、0.15度)の西北45度線

 空海と神呪寺の関係でいうと、神護寺と神呪寺が東北45度線をつくる。真井御前が神呪寺で出家したとき、一緒に出家した如一と如円は和気清麻呂の孫娘であったということを考えると、神護寺と神呪寺の東北45度線は無視できないであろう。一方、神呪寺と神護寺の東北45度線を延長すると貴船山がある。貴船山と籠神社が西北45度線をつくっていたのであるから、この方位線も無視できない。神護寺自体が貴船山の方位線上に位置しているということに意味があったのかもしれない。

  神呪寺―神護寺(W0.254km、0.33度)―貴船山三角点(E0.013km、0.07度)の東北45度線
  貴船山三角点―神護寺(W0.013km、0.07度)の東北45度線

 神呪寺・貴船山の東北45度線上に月山がある。月山は出雲の熊野大社神体山である天狗山と東北30度線をつくっていた。東北時代の出雲神族にとって月山は重要な山だったとも考えられるが、真名井神社と月山とそれぞれ方位線をつくる貴船山は、丹後から大和・伊勢・志摩へと南下する出雲神族にとって重要な山とされたのかもしれない。神呪寺のある甲山はピラミッド説がある。あるいは、この甲山と月山を結ぶ方位線というものが考えられるのかもしれない。それに対して、比叡山がピラミッドといわれる早池峰山と東北45度線をつくっていた。貴船山は比叡山と西北45度線をつくるともに、八王子山と西北30度線をつくるというように、比叡山と方位線的に深く関係するが、ピラミッドと繋がりをもつ山なのかもしれない。比叡山と八王子山は八王子山が冠島と西北60度線をつくるというように、やはり籠神社と方位線的に深く関係するわけである。八王子山の方位線上に長岡京や平安京の大極殿があったが、冠島と将門首塚が東西線をつくるということは、冠島と皇居が東西線をつくるということであり、このことも平安京にとって籠神社が特別な意味を持っていたということを示しているのかもしれない。

  月山―貴船山三角点(E0.535km、0.06度)の東北45度線
  冠島168.8m三角点―皇居三殿(N0.075km、0.01度)の東西線

 宇佐氏の伝承では、菟狹族は大江山から貴船山に移ったとされる。大江山と籠神社も東北60度線をつくっていたのであるから、菟狹族の大江山から貴船山への移動に、真名井神社が何らかの関係をもっていたとも考えられる。また、宇佐氏の伝承では、菟狹族を追うように出雲神族を思わせる猿田族が貴船山や鞍馬山に来て、菟狹族は稲荷山の方へ追われ、そこもまた猿田族に追われて、結局菟狹族は各地に離散していくたということになっている。山城からやがて各地に散らばっていったという宇佐氏の伝承であるが、中村修也『秦氏とカモ氏』によれば、縄文時代の代表的遺跡である北白川遺跡は縄文早期から晩期まで全期にわたって遺跡がみられるが、集落の存続状態から類推して単一の集団による集落の形成と考えられるらしい。時期によって遺跡の数に増減があり、これは京都盆地全体にみられる傾向であり、土器の分布を調べると、京都盆地で遺跡が減少する時期には、近接する近畿地方の日本海側や瀬戸内海東部の共通土器地域では遺跡が増加するという傾向が確認でき、このことの意味するところは、北白川遺跡が自然環境などの理由で減少したのではなく、広範囲に及ぶ集団の移動が行われたということであり、北白川においては弥生時代においても集落の立地条件は縄文時代と変化はなく、弥生時代までの山背盆地の集落を形成した集団は、ある一定の時期になると移動を行い、京都に限定されず、広い行動範囲をもっていた可能性があるという。稲荷山からの菟狹族の各地への分散も、このような京都盆地の集団の移動と関係があったのかもしれない。

 空海が籠神社の系統を重視したのは、海部氏の祖神の彦火明命と賀茂神社の別雷神が異名同神ということを知っていたからかもしれない。藤森神社西殿には早良親王が祭られているが、下鴨神社と藤森神社は南北線をつくっていた。早良親王は延暦十九年(800)に本町十七丁目の塚本の地に塚本社として最初に祀られた。現在陵墓参考地になっているが、山本眞嗣『京・伏見歴史の旅』によれば早良親王の旧宅址ともいわれていたという。現在の陵墓参考地の正確な場所は確認していないが、本町十七丁目の町内ははそんなに広くはなく、下鴨神社の南北線上に位置しているともいえる。延応元年(1239)そこから深草極楽寺南「小天皇」(現在の西出町)に移され、文明二年(1470)さらに藤森神社に移ったわけである。ところで、深草極楽寺南「小天皇」にあった頃、山本眞嗣氏の本によれば古天王真幡寸神社ともいわれたという。式内社に真幡寸神社があり、現在の城南宮が明治十年(1877)に式内社の真幡寸(まはたき)神社に認定された。真幡寸神社は現在境内末社としてあるが、竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、西竹田の真幡木町から移した旧竹田村の産土神で、祭神は鴨別雷神であるという。『日本の神々 5』によれば、藤森神社の社伝に、藤森神社の現社殿の隣に原真幡寸神社ともいえる古社があったが、ここに藤尾社が移されたとき、西方へ転出したという。早良親王を祀る社が古天王真幡寸神社ともいわれ、真幡寸神社の祭神が鴨別雷神であるということは、早良親王を祀るにあたって、賀茂神社と別雷神が何らかの意味をもっていたということであろう。この早良親王と別雷神の関係から、空海は籠神社関係をも重視したとも考えられる。
 それに対し話は逆で、藤森神社や真幡寸神社ともともと結びつくのは籠神社の彦火明命のほうだった可能性もある。藤森神社は西殿の早良親王に対して、本殿には明治時代にスサノオに替えられ以前は、矛神・盾神(古伝では鉾神・剣神ともされる)を祭り、東殿には舎人親王を祭神としている。古来は本殿と東西に大将軍社・八幡宮が並び、さらに本殿は東・中・西の三座に分かれ、その中の座にそれらの祭神が祭られていたらしい。舎人親王も今の伏見稲荷大社のある藤尾の地に天平宝字三年(759)に祀られ、それが永享十年(1438)藤森神社に移ってきたわけである。伏見稲荷大社の楼門の手前、参集殿へ右に曲がるあたりに現在も藤尾社がある。舎人親王も藤尾に葬られたともいわれ、稲荷本社の後林中の椎の古木のある場所が親王の墓所という伝承もあるという。山本眞嗣氏の本によれば、伏見稲荷の藤尾社の所に舎人親王の墓があったという説もあり、また天武天皇は藤森神社の祭神になっているが、一説に神護景雲年間藤尾社の地に天武天皇と舎人親王が垂迹したという。地名に藤がつくのに対して、籠神社の祭りは藤祭であり、藤が重要な意味をもっていた。
 藤森神社や真幡寸神社と籠神社が結びつくかもしれないと考えるもう一つの可能性は、藤森神社境内には神功皇后が三韓征伐から凱旋して軍旗を埋めたという「ハタ塚」があり、城南宮も神功皇后が三韓征伐した時の兵船の御旗が祭神の一つとされていることからくる。これは真幡寸神社が神功皇后とも何らかの関係があるということではないだろうか。ところで、中村修也『秦氏とカモ氏』によれば、稲荷山の西麓に広がる扇状地とそれに続く沖積地にまたがる深草遺跡は弥生時代中期初頭の農耕村落遺跡であるが、特徴は木器や、琵琶湖沿岸地域と強い繋がりを示す土器であるという。深草遺跡の村落は弥生中期中葉には一旦姿を消し、およそ二百年後の弥生後期に再び農耕を営む村落が形成されたと思われる遺跡が出土し、弥生後期の遺跡は伏見の秦氏と関係あるのではないかいう。神功皇后には山城と琵琶湖が出てくる話がある。忍熊王の話で、神功皇后軍と忍熊王は山代で戦い、敗れた忍熊王は逢坂まで逃げ、そこで態勢を立て直して再び戦ったが敗れ、結局琵琶湖の西南岸あたりに逃げ、最期は琵琶湖に身を投じたというのである。忍熊王は山城から近江にかけて勢力基盤をもっていた存在だったとも考えられ、そうすると深草あたりを本拠地にしていた可能性もあるわけである。もしそうであると、神功皇后軍の将軍が籠神社の海部氏の祖先でもある建振熊命であり、深草に神功皇后と籠神社が結びつくわけである。梅原猛『京都発見 一』によれば、桓武の平安遷都以前、藤森神社付近は早良親王の所有地であったともいう。深草が忍熊王の本拠地であり、早良親王の領地でもあったとすれば、忍熊王と早良親王が二重写しになり、忍熊王を破った神功皇后と建振熊命、すなわち籠神社の力で早良親王の怨霊を封じ込めようとしたとも考えられるのである。藤森神社が下鴨神社と南北線をつくるということは、鞍馬寺とも南北線をつくるということである。山住神社が八王子山と東西線をつくっていたのに対して、崇道神社は比叡山と東西線をつくる。すなわち、籠神社の西北45度線上に鞍馬寺・比叡山があり、その鞍馬寺・比叡山からの方位線上に早良親王が祀られているわけである。
 
  崇道神社―四明岳833m標高点(S0.098km、2.11度)―比叡山三角点(S0.015km、0.28度)の東西線

 六角堂と真井御前の伝承も、早良親王・崇道神社と籠神社との関係から出てきたのかもしれない。崇道神社と比叡山が東西線をつくるのに対して、六角堂も比叡山の東北45度線上に位置しているが、崇道神社と六角堂も東北60度線をつくっているのである。

  六角堂―四明岳833m標高点(W0.040km、0.25度)―比叡山三角点(E0.196km、1.20度)の東北45度線
  六角堂―崇道神社(W0.050km、0.38度)の東北60度線

 真名井神社・出雲大神宮・東大寺の西北60度線上には甘南備山や男山があることになる。菟狹族のもともとの根拠地が大江山であり、大江山が真名井神社や出雲大神宮と方位線をつくっていたことを考えると、男山に八幡宮が宇佐から勧請されるにあたって、籠神社や出雲大神宮との方位線で結ばれる地が選ばれたということではないだろうか。一方、甘南備山であるが、甘南備山は近江富士の三上山と東北45度線をつくる。三上山は青葉山と西北45度線をつくっていた。そして、青葉山東側の峰と貴船山が西北60度線で結ばれているのである。それに対して、青葉山西側の峰と山住神社が西北60度線をつくる。ただ、残念ながら貴船山と山住神社は西北60度線をつくるとはいえない。また、貴船山からの西北60度線方向には崇道神社もあるが、これも方位線をつくるとはいえない。貴船神社磐座の鏡岩と山住神社はもしかしたら西北60度線をつくっているかもしれない。貴船山と山住神社の関係はともかく、甘南備山も丹波や丹後と方位線で結びつく古くからの神体山だったのではないだろうか。

  甘南備山―三上山(W0.076km、0.11度)の東北45度線
  青葉山東峰―貴船山三角点(E0.061km、0.07度)の西北60度線
  青葉山西峰―山住神社(E0.065km、0.07度)の西北60度線
  貴船山三角点―山住神社(W0.470km、4.36度)の西北60度線
  崇道神社―貴船山三角点(W0.398km、2.96度)―鏡岩想定点(E0.167km、1.29度)の西北60度線

 甘南備山の山頂には式内社の甘南備神社があり、祭神不詳ともされるが、中腹の甘南備寺文書によれば、月読神を祀っていたという。大和岩雄氏によれば、『日本書紀』の一書に「月読尊を以って、滄海原の潮の八百重を治すべし」とある記事が、本来の月神神話を伝えるものであり、それは海人たちの月神信仰から生まれてものであろうという。甘南備山の北の田辺町大住にも月読神社があるが、南九州より移住してきた隼人が居住していた大住郷にあることから、彼らによって祭祀されていたといわれる。大和岩雄氏は隼人と月神信仰が深い関係にあることを指摘し、大住郷の隼人も神南備山を月読神の鎮座地とみていたようであるとする。そして、天孫ヒコホホデミは日の御子であると同時に「月人壮子(つきひとをとこ)であり、このことは甘南備山が月読神の鎮座地とされることと関連があり、日の御子であり月人壮子である天神は秀麗な甘南備山に天降りして山幸彦となり、里または海(この場合は木津川)に降りていく。本来の海幸彦・山幸彦神話は南九州の人々が伝えていた、海と山との豊饒を約束する神々の物語であったと思われ、大住郷の甘南備山を月読神の鎮座地とみる信仰があり、その山麓に月読神社、木津川のほとりに樺井月神社が鎮座するのは、その名残であろうとする。また、月神には潮満珠・潮干珠を使う伝承があるが、海幸彦・山幸彦にも同様の珠が登場するという。ただ、甘南備山が丹波・丹後の信仰とも結びつく神体山だったとすれば、もともとは丹波・丹後の月神信仰と結びつく山だった可能性がある。周辺に移住してきた隼人は、もともと月神信仰があることから、自分たちの月神信仰をも重ね合わせたということではないだろうか。奈良の御蓋山周辺がもともとから月神信仰の地だったとすれば、丹後・丹波と御蓋山の間に挟まれた山城に月神信仰があっても不自然ではない。
 丹波・丹後の月神信仰に関していえば、やはり複雑なものだったといえよう。菟狹族は大江山を中心に月神信仰をもっていたわけであるが、真井御前は一つの篋を秘蔵していたが、天長元年(824)空海が守敏僧都と降雨の法力を競うことになったとき、空海は真井御前からその篋を与えられ、是によって秘法を修し、雨を降らしたという。そして、その篋の中には娘の修行完成を祈って、父雄豊によって持たされた、海神の霊能の象徴である潮満珠・潮干珠が入っていたのではないかという。潮満珠・潮干珠が月神信仰と結びつくなら、海部氏にも月神信仰があり、海部氏については、海人であると同時に、日向から来たという伝承もあるから、南九州の月神信仰と無関係とはいえないかもしれないわけである。

 磯砂山と愛宕山が西北45度線をつくっていたが、大江山・磯砂山・久次岳が西北60度線に並び、真名井神社を加えて方位線正三角形をつくっていた。このうち、大江山と出雲大神宮が西北45度線をつくり、出雲大神宮と愛宕山が東西線をつくっていたわけである。大江山自身と方位線をつくる山がないか探してみると、金毘羅山と西北30度線をつくる。ただ、金毘羅山は日室山とより正確に西北30度線をつくるという問題がある。一方、久次岳の西北45度線上には、神護寺・木島神社・伏見稲荷大社本殿などがある。これらのうち、神護寺は金毘羅山とも東北30度線をつくることなど興味深いが、真井御前を介して籠神社と接点があり、、伏見稲荷大社本殿はそのあたりが藤尾といい、藤を通じて籠神社と接点がある。木島神社も祭神を尾張連の祖すなわち海部氏の祖である火明命とする説があり、その点で接点がある。ただ、真名井神社・大江山・磯砂山の方位線上にあるのが比叡山や金毘羅山、愛宕山という山であることを考えると、久次岳の方位線上にも山を想定したい。稲荷山と方位線をつくるともいえるが、ここでもより正確に西北45度線をつくるのは大岩山である。もっとも、稲荷山と大岩山では、現在ではその重要度において比較にはならないが、大岩山もかっては重要な山だったのかもしれない。薬子の乱以後、平城京や平城天皇と結びつく山として、その重要性を抹殺されていったということも考えられなくはないのである。

  金毘羅山―大江山(E0.548km、0.42度)―日室山(E0.088km、0.07度)の西北30度線
  久次岳―神護寺(E0.279km、0.19度)―木島神社三ツ鳥居(W0.073km、0.05度)―伏見稲荷大社本殿(E0.041km、0.02度)―稲荷山一ノ峰(E0.833km、0.48度)―大岩神社(E0.011km、0.01度)の西北45度線

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出雲大神宮と平安京

 出雲大神宮のホームページをみていたら、摂社で黒太夫社というのがあった(http://www.izumo-d.org/map/kurodayuusya.htm)。「黒太夫社は当地の氏子祖先神を祀ると伝えられ、その為本殿に参拝するに先立って、この黒太夫社にお参りするのが正しい参拝の順番であります。」とあり、祭神を猿田毘古神としている。この猿田毘古神も本来はクナトノ大神だったものが猿田毘古神にかえられてしまっていると考えるべきであろう。吉田大洋氏は出雲大神宮の中央が空座になっていることに関して、クナトの大神が鎮座していたに違いなく、何代目かの宮司が危険を感じ、どこかへ遷座するなどして、心の中では礼拝を続けていたのが、数代、数十年たつうち、祭神が不明になったものと思われるとするが、あるいは黒太夫社に遷し、摂社として祀ったのかもしれない。
 籠神社が彦火明命と上賀茂神社の別雷神とを異名同神とするのに対して、出雲大神宮と上賀茂神社は方位線で結ばれ、東西線をつくる。彦火明命にはクナトの大神が習合されている可能性があったが、別雷神と異名同神とされる彦火明命がクナトの大神のことであるとすれば、籠神社奥宮の真名井神社と出雲大神宮の西北60度線と同じように、出雲大神宮と上賀茂神社の東西線も出雲神族と結びつく方位線ということになるわけである。出雲大神宮の神体山である御影山(千年山)は、神職の人によれば神社のすぐ背後の山ということであるから、標高335mの山が神体山ということになるが、そうすると御影山もこの東西線上にあることになる。また、片岡山もこの東西線上にあるといえる。

  上賀茂神社―出雲大神宮背後335m三角点(N0.009km、0.03度)―出雲大神宮(S0.112km、0.40度)の東西線
  片岡山標高175m付近―出雲大神宮背後335m三角点(S0.080km、0.29度)―出雲大神宮(S0.201km、0.71度)の東西線

 出雲大神宮の東西線上には愛宕山の愛宕神社があった。愛宕山山頂の愛宕神社は愛宕郡鷹ヶ峰の釈迦谷山にあったのを慶俊が天応元年(781)愛宕山山頂に遷したとされるが、その釈迦谷山と愛宕山も東西線をつくる。出雲大神宮と上賀茂神社の東西線と愛宕神社の東西線が重なるわけである。愛宕神社はもともと境の神(塞の神)を祀ったものであるともいわれる。愛宕の神の本地仏は勝軍地蔵とされ、愛宕の縁日は地蔵と同じ毎月24日であるが、出雲神族の伝承ではクナトノ大神信仰は地蔵信仰へと姿を変えていったというのであるから、愛宕神社が塞ノ神=クナトノ大神を祀ったものであるということは、ありえない話ではない。『日本書紀』の一書(第九)ではカグツチを産んだ際に死んでしまった伊弉冉を伊弉諾が追っていくと、伊弉冉の死体の上に八種類の雷があり、雷に伊弉諾が追われた時に杖を投げて、ここから雷は追ってこれないといったときの杖が岐神で、本の名は来名戸の祖神というとあるが、現在、京都の愛宕神社の若宮にはカグツチが祭られているのは、愛宕神がもともと雷神やクナトノ大神と関係する神だったということを示唆しているのかもしれない。籠神社奥宮の真名井神社の一番奥の磐座の背後には、熊野大神・道祖神・愛宕大神と書かれた三本の柱が立っているが、それらはすべてクナトノ大神を示しているということにもなる。
 愛宕神社は亀岡市千歳町国分南山ノ口にもあり、丹波国桑田郡の式内社阿多古神社については、愛宕山山頂の愛宕神社とする説の他に、この社を式内社阿多古神社とする説もある。一般の通説では亀岡市千歳町国分の愛宕神社から鷹ヶ峰の釈迦谷山に遷り、そこからさらに愛宕山に遷されたといわれている。

  釈迦谷山―愛宕山(S0.206km、1.40度)―出雲大神宮(S0.231km、0.98度)の東西線

 千歳町国分の愛宕神社であるが、下鴨神社と東西線をつくる。下鴨神社と国分の愛宕神社、上賀茂神社と出雲大神宮が東西線をつくるわけであるが、国分の愛宕神社・出雲大神宮と亀岡市旭町の松尾神社が一直線上に並び、松尾神社が上賀茂神社神体山の神山と東西線をつくる。愛宕神社・出雲大神宮・松尾神社の直線であるが、それら三社は一直線上に並ぶだけでなく、愛宕神社と出雲大神宮間が約2200m、出雲大神宮と松尾神社間が約2250mで、その間隔も等間隔なのである。

  国分の愛宕神社―下鴨神社(S0.213km、0.72度)の東西線
  松尾神社―神山(N0.119km、0.41度)の東西線
  国分の愛宕神社(0.55度)―出雲大神宮(0.022km)―松尾神社(0.55度)の直線

 松尾大社の神体山ともいえる松尾山と愛宕山が西北60度線をつくる。松尾山は釈迦谷山とも東北60度線をつくり(釈迦谷山は松尾山より松尾大社とより正確に方位線をつくっている)、上賀茂神社ではないが、同じく愛宕山の東西線上にある片岡山とも東北45度線をつくる。出雲大神宮・愛宕神社・賀茂神社・松尾山(大社)が方位線で密接に関係しあっているわけである。

  愛宕山―松尾山▲223m±(E0.198km、1.43度)の西北60度線
  釈迦谷山―松尾大社(E0.149km、1.09度)―松尾山▲223m±(W0.224km、1.57度)の東北60度線
  片岡山標高175m付近―松尾大社(E0.231km、1.40度)―松尾山▲223m±(W0.049km、0.28度)の東北45度線

 この方位線網の古層は、出雲大神宮神体山の御影山も愛宕山の東西線上にあるので、愛宕山を中心とした、御影山・釈迦谷山・片岡山・松尾山といった山々がつくる方位線網と考えられる。片岡山・松尾山も後で述べるように出雲神族との関係が考えられるので、愛宕山は愛宕神社が遷ってくる以前からクナトノ大神と関係があったのではないだろうか。出雲大神宮や愛宕神社は逆に愛宕山のクナトノ大神祭祀から発生してきた神社という可能性も考えなければならない。能登の石動山の東北45度線上に沓島および冠島があるのに対して、石動山と国分の愛宕神社が東北60度線をつくる。ただ、探知型で考えれば、石動山と方位線をつくるのは出雲大神宮あるいは愛宕山とも考えられ、古層からいえば愛宕山と石動山の方位線を考えたい。どちらにしても、沓島・冠島がクナトノ大神とも結びつき、愛宕山・出雲大神宮・国分の愛宕神社がクナトノ大神と結びつくということは、石動山からのそれらの方位線が出雲神族と関係するものだということがいえる。

  愛宕山―出雲大神宮背後335m三角点(N0.110km、1.31度)の東西線
  石動山―出雲大神宮(W2.446km、0.56度)―国分の愛宕神社(W0.806km、0.18度)―愛宕山(E1.912km、0.44度)の東北60度線

 出雲大神宮からの方位線上で、賀茂神社とも関連するのではないかとも考えられている神社として、西北45度線上に乙訓郡久我村(伏見区久我)の久我神社がある。久我神社は出雲大神宮神体山とより正確に方位線をつくっているが、出雲大神宮神体山と稲荷山が西北30度線をつくり、久我神社も稲荷山と東北30度線をつくる。

  久我神社―出雲大神宮背後335m三角点(W0.037km、0.11度)―出雲大神宮(W0.302km、0.91度)の西北45度線
  出雲大神宮背後335m三角点―稲荷山一ノ峰(E0.275km、0.74度)の西北30度線
  久我神社―稲荷山一ノ峰(W0.071km、0.69度)の東北30度線

 『山城国風土記』逸文では、賀茂健角身命は日向の曾の峯に天降り、大倭の葛城山の峰から山代の国の岡田の賀茂に至り、そこからさらに葛野河(桂川)と賀茂河の合流地点あたりに進み、賀茂河をみて「狭小くあれども、石川の清川なり」といって、「石川の瀬見の小川」と名づけ、その川を上り、久我の国の北の山基に定着し、その時賀茂と名付けたとある。北区柴竹にも久我神社があり、建角身命を祭る鴨氏の氏神社で、古くは単に「氏神社」あるいは「大宮」と称し、久我の国の北の山基に定着したというその定着地に因んで創祀されたともいわれ、鴨氏にとっては本社に次いで重要視されてる。それに対して、伏見区久我は葛野河(桂川)と賀茂河の合流地点付近であり、中村修也『秦氏とカモ氏』では、久我の国の北の山基は久我村の久我神社の可能性もあるとする。久我の久我神社は「森ノ明神」とも呼ばれ、社伝では長岡京遷都に際し、王城の艮角の守護神として祀ったのが起こりといわれるが、山城国久我国造久我氏の祖神を祀るともいわれ、現在の祭神は鴨健角身命・玉依姫・別雷神であ、式内社の久何神社に相当するとされている。
 中村修也氏が乙訓郡の久我荘の久我神社に風土記逸文の久我国である可能性をみるのは、風土記の続く記載にある。それによれば、賀茂建角身命は丹波の国の神野の神伊可古夜日女との間に、玉依日子と玉依日売をもうけ、玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしている時に、川上より丹塗矢が流れ下ってきて、その丹塗矢を父として生まれたのが可茂別雷命で、丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火雷神(ほのいかづちのかみ)だというのである。中村修也氏は建角身命と丹波の伊可古夜日女の遠距離結婚に、鴨氏と丹波の豪族の交流が認められるなら、交通路としての山陰道を抜きにしては考えられないし、大和国からの山陰道は乙訓郡を通って丹波に入ることを考えると、久我の地が愛宕郡柴竹であるよりは、乙訓郡久我村にある方が、整合性があるといえるとするのである。また、丹塗矢の火雷社が乙訓郡にあることも、久我国が今の上賀茂地域とするなら、丹塗矢がはるか南の乙訓郡の神社であるのもおかしいという。
 乙訓郡の火雷社であるが、長岡市井ノ内南内畑の角宮(すのみや)神社とされる。竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、井ノ内の西方600mの俗称宮山が旧鎮座地と伝えられ、建治元年(1275)に向日神社に合祀され、向日神を上社、当社を下社と称していたときには、旧地は向日神社の御旅所となっていたという。宮山地区を訪ねてみたが、一帯は一面の竹林で、人家もほとんどなく、御旅所跡らしきものも見つからなかった。『昭和京都名所圖會』の記述は今ひとつ曖昧であるが、宮山も井内村の小字であるから、これは角宮神社の西600m地点付近が旧鎮座地ということであろう。そうすると、旧鎮座地は松尾山と南北線をつくっていた可能性がある。

  松尾山▲223m±―角宮神社西600m地点(E0.233km、2.14度)の南北線

 松尾山と火雷社の南北線に対して、久我村の久我神社は松尾大社と西北60度線をつくるともいえる。北区柴竹の久我神社は松尾大社の東北45度線上に位置するから、松尾大社の方位線上に二つの久我神社があると考えるべきであろう。

  松尾大社―乙訓の久我神社(E0.190km、1.40度)の西北60度線
  松尾大社―北区柴竹の久我神社(W0.106km、0.74度)の東北45度線

 中村修也『秦氏とカモ氏』によれば、秦氏にも賀茂神社の丹塗矢伝承と同じような話がある。『本朝月令』巻第八十一、中酉賀茂祭事に所引の「秦氏本系帳」に、秦氏の女子が葛野(桂)川で洗濯をしているとき、一本の矢が上より流れ下ってきたので、それを持って還り、戸上に刺し置くと、女子は妊娠し、生まれてきた男の子は父として戸上の矢を指し、雷公となって天に昇っていった。「故に鴨上社は別雷神と号し、鴨下社は御祖神と号するなり。戸上の矢は松尾大明神是なり。是をもって秦氏、三所大明神を奉祭す。而して鴨の氏人は秦氏の聟なり。秦氏、愛聟の為めに鴨祭を以って之を譲与す。故に今鴨氏禰宜として奉祭するは、此れ其の縁なり。」とあるという。松尾大明神とは松尾大社の祭神の大山咋神で、『神道大辞典』には「賀茂縁起」に「丹塗矢と化り給ひ、玉依姫命に婚ひ給ふたのは、この神で、鳴鏑神とも称する」とあり、『古事記』にも「鳴鏑用つ神者也」と記されているという。
 丹波の神野の神伊可古夜日女であるが、丹波の式内社で神野社は氷上郡と桑田郡にある。桑田郡の神野社は亀岡市宮前町宮川の宮川神社であろうといわれているが、氷上郡の神野社は丹波市氷上町御油の神野神社と丹波市市島町梶原の鴨神社の二説があるようである。宮川神社は神尾山山上に伊賀古夜姫命を鎮めたのが起源とされ、欽明天皇32年(571)に宇佐八幡宮より山中八幡平に勧請された誉田別命を祭神とする社の二社を正保四年(1647)合祀して麓に遷したのが現在地であるという。神尾山は434mとされるが、山頂はかなり平坦であり、一応金輪寺から北に向う山道が西に大きく曲がるあたりを基準とすると、神尾山は下鴨神社と東西線をつくる。宮川神社の氏子二十余名が宮内庁のお召しにより葵祭に奉仕に出、また宮川神社の例祭には宮内庁より参拝があるという(http://tanbarakuichi.sakura.ne.jp/shrine/kameoka/05.html)。ただ、風土記成立当時、下鴨神社はまだ存在していなかったのではないかとされているから、下鴨神社との方位線が風土記の建角身命と伊可古夜日女の基になっているわけではない。もっとも、風土記逸文にある「可茂建角身命、丹波の伊可古夜日売、玉依日売、三柱の神は、蓼倉の里の三井の社に坐す。」という三井の社は下鴨神社摂社の三井神社のこととされるから、神尾山山上の宮川神社と三井社との東西線は存在していたことになる。現在の三井神社は本殿の左にあるが、谷川健一編『日本の神々 5』では、座田司『賀茂社祭神考』に下社は中賀茂三井社の境内地の南に続く場所が撰定されたとされているとするが、その場合三井社は下鴨神社の北にあったということになるが、境内続きということは、その場合も神尾山と三井社との東西線は成り立つと考えられるし、国分の愛宕神社は下鴨神社より三井社とより正確な東西線をつくっていた可能性が高くなるわけである。神尾山の宮川神社・国分の愛宕神社・三井社という東西線を考えるべきなのかもしれない。ただ、片岡山・船岡山・三井社が正三角形をつくっていたということはいえないかもしれない。

  神尾山―下鴨神社(S0.054km、0.11度)の東西線
  神尾山―国分の愛宕神社(N0.159km、0.85度)の東西線

 風土記逸文の建角身命と伊可古夜日売の話の基は、東西線で結ばれた宮川神社と三井社の関係にあるとも考えられるが、鴨氏が乙訓から賀茂神社周辺に移動していったとするなら、建角身命と伊可古夜日売の話は乙訓段階ですでにあった可能性もあるわけであり、中村修也はその点に関して古代の山陰道に注目したわけである。それに対して、道路ではなく方位線を考えると、久我神社ではないが、火雷社の西北30度線上に神尾山と市島町梶原の鴨神社がある。神尾山上の宮川神社と市島町梶原の鴨神社も方位線をつくっていたといえる。乙訓で考えるなら、方位線的には伊可古夜日女と結びつくのは建角身命ではなく、別雷上の父の火雷神ということになる。そのことから考えられことは、風土記では火雷神は伊可古夜日女の義理の息子ということになっているが、もともとあった伝承では火雷神は伊可古夜日女の実の息子、あるいは火雷神と伊可古夜日女との間に別雷神が生まれたというものだったのではないだろうかということである。その伝承に鴨氏が割り込むために、火雷神と伊可古夜日女の関係が分断され、風土記の伝承が作られたとも想定できるのである。秦氏の伝承が松尾大明神と秦氏の女の間に雷神が生まれたという簡単なものであることは、もともとの話も火雷神と伊可古夜日女との間に別雷神が生まれたという簡単なものだったからではないだろうか。

  神尾山―鴨神社(W0.044km、0.07度)の西北30度線
  角宮神社西600m地点―神尾山(W0.316km、0.82度)―鴨神社(W0.359km、0.35度)の西北30度線

 籠神社によれば、彦火明命について「亦名天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命・又極秘伝に依れば、同命は山城の別雷神(上鴨)と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。」とあり、さらに「又別の古伝に依れば、十種神宝を将来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主命とも云う。」とある。ここで、彦火明命について、極秘伝の別雷神と異名同神であり、また大汝命の御子ということに注目すると、別雷神は大汝命の御子ということになり、火雷神は大汝命ということになる。ここで、大国主は出雲神族にとって重要な神ではなかったというのであるから、大汝命=大国主ということから、大汝命はクナトノ大神がすり替えられたとするべきであろう。火雷神=クナトノ大神ということになるが、そうすると松尾大明神=火雷神とすれば、松尾大明神=クナトノ大神となる。一方、松尾山に祀られていた市杵島姫は弁財天であり、アラハバキ神であったから、松尾山はクナトノ大神とアラハバキ神を祀る山だったということにもなる。愛宕神もクナトノ大神と関係する可能性があったのであるから、出雲大神宮・愛宕山(神社)・松尾山(大社)をめぐる方位線網はクナトノ大神祭祀と結びついた方位線網ということも考えられるわけである。上賀茂神社も、その地主神とされる片山御子神社(片岡社)は片岡山を神体山とみてその西麓に祀られているが、祭神は現在は玉依比売命であるが、大己貴神命、事代主命とする説もあるといい、そうすると片岡山は出雲神族の聖山だった可能性もあるわけである。
 松尾大明神=大山咋神でもあるから、大山咋神=クナトノ大神ということにもなり、大山咋神もまたクナトノ大神をすり替えたということになる。『古事記』では、大山咋神は、近淡海国の日枝山と葛野の松尾に坐す神とされてるが、この日枝山について『日本の神々 5』で大和岩雄氏は日吉大社の神体山である牛尾山(小比叡)のことともいわれているが、牛尾山・比叡山は信仰上一体のものとみなしていいとする。そうすると、牛尾山すなわち八王子山や比叡山もクナトノ大神と結びつく山ということになるわけである。また、大和岩雄氏は下鴨神社の祭神について、大山咋とする諸説があることをあげ、それに同意している。すでに、建角身命を祭神とする三井社があったとすれば、そのすぐ側に同じ建角身命を祭神とする神社を建てることは、確かに少し変である。宮川神社の西北45度線上に乙訓の火雷社があったことから、宮川神社の東西線上にも火雷神を祀ることが考えられたのかもしれない。
 下鴨神社の祭神が大山咋=火雷神=クナトノ大神とすれば、籠神社に御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているというのも納得できる。海部穀定氏は古くは天照国照と彦火明は別神であったといい、その天照国照と彦火明が同一神とされていくわけであるが、天照国照は高光日女命=下照比売命を介して天ワカヒコと結びつき、天照国照と彦火明が同一神とされていったということから、彦火明命は天ワカヒコとそっくりだったというアジスキタカヒコネではないかと考えられるのである。すなわち、別雷神はアジスキタカヒコネということになる。一方、冠島・沓島と結びつく伝承では、彦火明はクナトノ大神と結びつく。すなわち、彦火明命はアジスキタカヒコネとその父のクナトノ大神の両方と習合しているのであり、下鴨神社の祭神がクナトノ大神であるとすれば、彦火明命を別雷神として、その御祖の大神(下鴨)も祭られることは当然ともいえるわけである。

 比叡山の東北45度線上に火雷社が位置する。松尾大社と下鴨神社が東北30度線をつくるとしたが、『日本の神々 5』で大和岩雄氏は四明岳山頂―下鴨・河合社(糺の森)―木島坐天照御魂社(元糺の森)―松尾山・松尾大社が一直線に並び、それが夏至日の出・冬至日の入遥拝線になっていることを指摘している。方位線的には松尾山と木島神社が東北30度線をつくっていたのに対して、松尾大社・下鴨神社・四明岳が東北30度線をつくることになる。ただ、松尾山と四明岳も東北30度線をつくるとみなせると考えられるので、大山咋神=火雷神と結びつく松尾山・下鴨神社・比叡山が方位線上に並び、さらに比叡山と乙訓の火雷社が東北45度線、松尾山と火雷社が南北線をつくるという関係になるわけである。また、松尾山は比叡山・愛宕山それぞと方位線をつくるということになる。

  角宮神社西600m地点―四明岳標高点(W0.129km、0.39度)―比叡山三角点(E0.106km、0.31度)の東北45度線
  四明岳標高点(E0.275km、1.05度)―下鴨神社(E0.216km、1.36度)―松尾大社の東北30度線

 中村修也氏は賀茂神社の下流に別雷神の父親の火雷社があることを問題にしているが、『日本の神々 5』の大和岩雄氏は賀茂の神官達がかつて貴布禰神社を川上社と称していたことからすれば、丹塗矢は貴布禰の奥社から流れてきたといえ、また座田司氏は貴布禰奥社と賀茂上社を奥宮と里宮の関係としてとらえ、いずれの祭神をも別雷神とみているが、貴布禰の神は丹塗矢であり、火雷神とするべきという。座田司氏の『賀茂神社神考』および「御阿礼神事」に、上社の本殿はかっては背後にも扉があり、祭事の場合、後方の扉を開いて祭祀をおこなっていたということから、大和岩雄氏は上社本殿は本来遥拝殿であり、神山を通して貴船山もしくは貴布禰奥社を拝するためのものであろうとする。ただ、上賀茂神社・神山・貴船の直線関係は正確なものではない。直線的にみると、貴船山・神山・久我神社が直線上に並んでいるのである。それに対して、方位線的にみると、上賀茂神社と片岡山の間を貴船山の南北線が通る。片岡山と愛宕山が東西線をつくっていたが、松尾山の方位線上に愛宕山と比叡山があり、片岡山の方位線上に愛宕山と貴船山があり、松尾山と片岡山が東北45度線で結ばれ、比叡山と貴船山が西北45度線で結ばれるということになるわけである。

  貴船山三角点(0.87度)―神山(0.107km)―久我神社(1.42度)の直線
  貴船山三角点―上賀茂神社(W0.175km、1.42度)の南北線
  貴船山三角点―片岡山標高175m付近(E0.216km、1.77度)の南北線

 釈迦谷山と上賀茂神社・片岡山も東西線をつくるということになるが、釈迦谷山は下鴨神社とも西北30度線をつくる。下鴨神社創建当時は釈迦谷山に愛宕神社が在ったわけであるが、下鴨神社は亀岡市国分の愛宕神社と東西線、釈迦谷山の愛宕神社と西北30度線をつくるわけである。また、釈迦谷山の愛宕神社と上賀茂神社、国分の愛宕神社と下鴨神社が東西線で結ばれているとということにもなる。賀茂社との関係でいえば、さらに釈迦谷山は神山と白砂山の東北45度線のすぐ側に位置している。また、片岡山・船岡山・下鴨神社は正三角形をつくっていたが、船岡山とも西北60度線をつくる。

  釈迦谷山―上賀茂神社(S0.106km、2.59度)の東西線
  釈迦谷山―下鴨神社(W0.082km、0.96度)の西北30度線
  神山(E0.135km、2.58度)―釈迦谷山―白砂山(E0.132km、2.30度)の東北45度線
  釈迦谷山―船岡山(W0.080km、1.62度)の西北60度線

 釈迦谷山は北区柴竹の久我神社とも西北30度線をつくる。これは、釈迦谷山・北区柴竹の久我神社・下鴨神社が一つの方位線上に並んでいると考えるべきであろう。その方位線に対して、松尾山・松尾大社と釈迦谷山が東北60度線をつくり、松尾大社と下鴨神社が東北30度線をつくっていたが、松尾大社と北区柴竹の久我神社も東北45度線をつくる。

  釈迦谷山(W0.074km、1.96度)―北区柴竹の久我神社―下鴨神社(W0.156km、3.28度)の西北30度線
  松尾大社―北区柴竹の久我神社(W0.106km、0.74度)の東北45度線

 鴨氏については、『山城国風土記』逸文では大和の葛城から山代の岡田の賀茂、さらに久我に定着したとなっているが、そのような移動を認めず、鴨氏はもともとからの土着の氏族であるとする説もある。火雷神がクナトノ大神であるかどうかは、上賀茂神社の別雷神が出雲神族系の神であるかどうかにかかっているわけであるが、鴨氏がもともとからの土着の氏族で、鴨氏以前から別雷神が祀られていたのではなく、鴨氏が別雷神を創祀したとすると、別雷神が出雲神族系の神であることに、不都合が生じてくる。鴨氏の祖の建角身命は神武を助けた八咫烏とされている。それに対して、神武と戦った長髄彦は出雲神族なのであるから、八咫烏である建角身命、あるいはその子孫が祭った神が出雲神族の神いうことは考えずらいであろう。
 鴨氏が大和の葛城からやってきたとすれば、すでに祀られていた別雷神の祭祀権を鴨氏が握ったと考えることによって、不都合は避けられる。一方、鴨氏が葛城からやってきたということばかりでなく、鴨氏を大和の葛城の鴨君と同族とみる立場もある。中村修也氏は「鴨脚家本姓氏逸文」に賀茂朝臣本系として大和葛城の朝臣家の姓氏録が書き抜かれていることに対して、両家に何らかの関連があったためと単純に考えることにはなにか問題があるのであろうかとして、賀茂朝臣・賀茂県主両方の姓氏由来を書き抜いているのは、両氏が密接な関係にあったためかもしれず、氏族の分化が行われた可能性があるのではないかとする。そうすると、葛城の賀茂朝臣は大神朝臣と同祖で、大国主神の子孫というのであるから、山城の鴨氏も出雲神族ということにな。ただ、そうすると鴨氏の祀る別雷神が出雲神族の神であることは理解できても、鴨氏が八咫烏を名乗ることは理解できないという、最初の問題に戻ってしまうわけである。
 健角身命が八咫烏であることは鴨氏自身が認めている。また、鴨県主家が武津身之命(健角身命)を神魂神の孫として、自らを天津神系とみなしている。鴨県主の八咫烏伝承については、鴨氏が日置・子部・車持・笠取氏などと同じく主殿寮殿部の負名氏族であることから、殿部の職掌の中に、天皇の車駕につき従い、明かりを点して先導するなどの役目があり、その職掌が八咫烏の役目と類似することから、職掌から発生してきたという佐伯有清氏の説が有力らしい。もしそうだとすると、少なくとも天武朝において、出雲神族の中にはもっと重要な地位についているものも多いのであるから、そのようなあまり地位も高いとは思えない職掌のために、出雲神族が自らを同族への裏切り者というような伝承を作りあげるとも思えないし、朝廷がそのようなことを強要するとも思えない。他の時代に何らかの圧力があったとしても、せいぜい天ノホヒの子孫を名乗るぐらいであろう。
 大和岩雄氏は鴨氏が山城に移住したのは、雄略王権強化という政治的使命を帯びたもので、大和葛城の賀茂神が国つ神なのに対して山城の賀茂神が天つ神なのは、大和では土着であったこの神が、山城では王権御用の神になったからであるとするが、山城の鴨氏が出雲神族だとすると、いくら大和朝廷との関係が密接なものになったとしても、自らを長髄彦と敵対する天孫族とすることは考えられないのではないだろうか。
 「秦氏本系帳」では、鴨氏は秦氏の愛聟とされていたが、『日本の神々 5』では、『鴨県主家伝』に大宝三年から養老元年まで鴨社の禰宜だった黒彦の弟の松尾祠官の都理、その弟の稲荷祠官の伊呂具は、本姓を「葛野県主」といい、その都理と伊呂具が秦姓を賜わったとあり、また伏見稲荷大社の祠官家「大西家系図」にも稲荷神社を創祀した秦伊呂具は鴨県主久治良の子で、松尾大社を創祀した秦都理は鴨禰宜板持と兄弟であるとしているという。大和岩雄氏は、これらの伝承から、「秦氏と鴨県主の間には深いつながりがあった」ことは否定できないとする上田正昭氏の説を紹介しながら、上田説は京都盆地への賀茂氏の居住は古く、秦氏は新来の氏族であるという前提に立っているが、秦氏は応神天皇十四年に渡来し、「大和朝津間腋上」に居住したと『新撰姓氏録』の秦忌寸条にあり、朝津間(朝妻)腋上は葛城の地であり、両氏は葛城を原点とする氏族であり、葛城からの縁で、岡田にも秦氏がいたことから、賀茂氏と秦氏はともに葛城から岡田に移住し、さらに岡田から北上し、そこで秦氏は桂川・賀茂川の合流点から深草と葛野に入ったのに対して、賀茂氏は乙訓に居住するとともに、さらに賀茂川を遡ったとする。大和岩雄氏は鴨氏の八咫烏伝承は鴨県主が山城において大和王権の尖兵的役割を果たしたために生まれたものであろうとし、その賀茂氏と組んだのが秦氏とする。吉田大洋『謎の出雲神族』によれば、出雲神族の富氏の伝承では、八咫烏は「カラの子」とよんだ朝鮮からの渡来人で、神武の味方をしたということになっているというが、秦氏と鴨氏の密接な関係から、出雲神族では八咫烏を渡来人とする伝承が生じたのかもしれない。

 鴨県主が山城において大和王権の尖兵的役割を果たした時代を、大和岩雄氏は雄略天皇の時代とする。応神紀によれば、秦の民は葛城臣の祖葛城襲津彦が連れてきた人々であるというが、葛城氏は雄略天皇によって滅亡した。雄略紀十五年の「ウズマサ」賜姓の記事は、秦氏が雄略朝に、調として絹を得ようとする王権の直接統率下に入ったことを示しており、そのことは、王権によって彼らを再び「散ち遷した」という雄略紀十六年の記事から裏づけられるとする。葛城の賀茂氏・秦氏は、葛城臣滅亡後の雄略王権強化のため、政治的使命をもって移住されたのであろうし、そうでなければ、山城における最初の移住地が、交通の要衝の岡田であった理由がうまく説明できず、たぶんそれは、南山城の葛城臣の権益を王権の支配下に置くための移住であったと考えられ、また、雄略天皇は秦酒公を「愛び寵みたもう」とあるが、このことからも、賀茂・秦両氏の山城移住の意味が推測できるとする。
 雄略天皇の時代に鴨氏・秦氏が移動したのは岡田で、さらなる北上は別の時代の別の事情によるものかもしれない。そこで注目されるのは欽明天皇即位前紀に出てくる秦大津父である。中村修也『秦氏とカモ氏』によれば、その話の要点は、@欽明天皇が即位前に、秦大津父を寵愛すれば天下が治まるという夢を見た、A秦大津父は山背国の紀郡の深草里の住人であった、B秦大津父は伊勢に交易に出掛けている、Cその帰りに、秦大津父は山で二匹の狼が争うのに出会い、闘争を止めさせ、命を救った、D秦大津父が欽明の寵愛を受け、富みをなし、即位後に大蔵省に任じられた、という五点になるという。二匹の狼の争いであるが、中村修也氏は安閑・宣化朝と欽明朝の二朝並立説に立てばこの暗示的なすぐ解け、「その対立抗争によって、皇室自身がその勢力を失い、やがては猟師となって現れる他の勢力にいわゆる漁夫の利を得さしめるという大和朝廷の危機を暗示したものではあるまいか」という林屋氏の説を引用している。
 継体・安閑・宣化朝は出雲神族の王朝で、欽明天皇によって滅ぼされたというのが出雲神族の伝承であった。それに対して、欽明は継体の子であり、その即位は皇位簒奪ではなく正統な継承だったというのが欽明の正統化理論であった。秦大津父の話は、その正統化理論を補完するものであるといえよう。そのような欽明天皇の正統化に秦氏がでてくるということは、継体朝と欽明の争いで秦氏は欽明の側についたということであろう。継体は即位してから20年間大和に入ることが出来ず、山城周辺を転々としていた。山城には継体を支援する強力な勢力があったということが考えられる。その山城で欽明側についた秦氏は、欽明の尖兵的役割を果たす存在だったともいえよう。秦氏が継体王朝と欽明との戦いに直接参加したかどうかは分からないが、少なくとも欽明勝利後、山城の親継体王朝派弱体化に秦氏が使われたということはいえるのではないだろうか。
 秦大津父の伝承からいえば、秦氏の岡田移住から継体朝と欽明の争いまでの間に、秦氏は岡田から深草に進出していたということになる。雄略天皇の秦氏移動の記事のそのすぐ後の記事に、土師連の祖の吾苟が「朝夕の膳部に用いる清い器を進上せよ」という詔に、各地の私有の部曲をたてまつったとあり、そのなかに山背国の伏見村が出てくる。伏見村はおそらくそれは伏見大社付近のことであろうから、その地が朝廷の直轄地的なものになったということであろう。王権の直接統率下に入った秦氏にとって、深草は移住しやすい場所だったともいえる。また、深草あたりには出雲神族がいたことになり、それが藤のつく地名や、別雷神を祭神とする真幡寸神社につながっているとも考えられる。賀茂神社についていえば、欽明天皇のとき葛野坐月読神社の壱伎卜部氏である、卜部伊吉若日子の卜によって賀茂祭を始めたと『秦氏本系帳』にあるという。欽明朝になって、賀茂神社にも大きな変化があったということなのであろう。この時、鴨氏が賀茂神社の祭祀権を握ったのかもしれない。

 雄略であれ欽明であれ、前面に出てくるのは鴨氏ではなく秦氏である。秦氏を通じて、鴨氏は王権ともつながっていたともいえる。鴨氏が直接王権とつながるようなことはなかったのであろうか。鴨氏と王権との直接的関係の可能性として考えられるのは、天智天皇の大津遷都である。方位線的に天智は神山と大津宮が西北45度線、天智陵が西北60度線をつくるというように、神山を重視したことが考えられ、当然神山の祭祀に関わる鴨氏も重視したということになる。そのことは、天智は大津宮遷都の翌年、三輪山の大己貴神を日吉大社の西本宮に勧請したが、天智がその三輪山の神を鴨賀島八世孫宇志麻呂に祭祀させたことからもいえる。八王子山は大津宮における三輪山ということになり、三輪山における大神氏の役割を八王子山において鴨氏が担うことになったわけであるが、その役割に相応しい氏族であることを示そうとして、鴨氏はあたかも葛城の賀茂氏と同族であるかのように振舞ったのかもしれない。それ以前から、鴨氏と葛城の賀茂氏を混同する誤解が広がっており、別雷神の祭祀権を握るにあたって鴨氏もそれを積極的に利用したということもあるかもしれない。
 『日吉社禰宜口伝抄』に天智七年三月三日、鴨賀島八世孫宇志麻呂が大和国三輪の大己貴神を比叡の山口において祭る、大比叡宮と曰ふ、とあるという。また、同年同日、『秦氏本系帳』によれば、宗像の神が松尾山に天降ったとされるという。本来の三輪山の神をクナトノ大神とすれば、三輪山の神が日吉大社に祀られた日に、松尾大社の松尾山に市杵嶋比売すなわちアラハバキ神が天降ったということになるわけである。これは、アラハバキ神として祀られていたのを、市杵嶋比売に換えたということなのではないだろうか。

 下社創建については、朝廷の尖兵という鴨氏の八咫烏伝承からくるイメージとは異なる説もある。『日本の神々 5』では、下社の分社について、上賀茂社の祭りの盛大に手を焼いた国家の、宗教政策の結果ではないかという井上光貞説があげられている。文武二年(698)賀茂の祭りの日に、衆を集め騎射するのを朝廷が禁止したとあり、それは大宝二年(702)の祭りの日、徒衆会衆し、仗を執り騎射するのを禁じるが、当国人はその限りではないとされる記事、和銅四年(711)以後、山城国司が親しく臨みて、検察せよという記事、天平十年(738)祭りの日、人馬を集め会することを悉く禁止され、祭りの開催は国司の認可を必要とするという記事まで続く。岡田精司『京の社』によれば、奈良時代の朝廷が、一地方の神社にすぎぬ賀茂神社の祭礼にこれほどこだわり続けるのは、この祭りに山城のみならず、周囲の広い地域の民衆が武器を執って集まることに、律令政府が脅威を感じていたからで、それは、この神社と川筋を一つ隔てて隣接する山城国愛宕郡出雲郷の戸籍(「正倉院文書」)に、労役などの対象となる壮年男子の大半が「逃亡」したと記録されているように、当時の厳しい社会情勢とのかかわりが考えられるという。岡田氏は鴨氏について、律令政府からの厳しい課税に苦しむ人々の心の支えであり、旧来の領主だった賀茂県主家は民衆の保護者と見られていたのではないかとし、賀茂神社と賀茂県主家の勢力分断を企てたのが、賀茂神社を二つに分けることだったとする。岡田氏の見解では、鴨氏は朝廷の尖兵というよりは、民衆の側に立ち、朝廷と戦った存在ということになる。
 中村修也『秦氏とカモ氏』では、基本的に井上説を認めながらも、カモ氏は中央の政策に便乗して、逆に勢力範囲の拡大を計っているとする。それが、蓼倉地区への進出であり、現在の下鴨神社の境内に摂社の出雲井於神社があるが、これは出雲郷雲下里に居住する出雲氏の奉祭する神社だったと考えられており、カモ氏の南下による下鴨神社の建立と出雲井於神社の摂社化による組み込みであり、雲下里にいた出雲氏は鴨氏の南下による圧迫を受けたことになるという。また、出雲郷の壮年男子の大半が逃亡したという記録があったが、出雲氏と鴨氏の関係にも興味深いデータが残っており、松田武「古代畿内村落の一考察」によって指摘されたことであるが、出雲氏と秦氏とのあいだには婚姻関係が確認できるのに対して、出雲・鴨氏の間の婚姻関係は絶無だというのである。中村氏は普通は隣同志の郷であるから通婚圏になりやすいのに、一例も婚姻関係が見出せないということは、両者の対立関係を暗に物語って余りあろうとする。賀茂県主家が民衆の保護者だったということには、疑問も生じてくるわけであるが、賀茂の祭りに対する禁止令が何度も出されている最中の慶雲二年(705)に大和国宇太郡に八咫烏社が創建されており、これには朝廷による鴨氏の後押しという意味も感じられ、鴨氏は民衆の側に立っていたというよりは、朝廷側に立ってその意向を体現していた存在だったのではないかとも考えられるのである。賀茂の祭りの禁止令は、単に荒っぽい祭りが盛大になりすぎたといった理由ではなく、もとからの土着民による賀茂の祭りを利用した一種の示威といった様相を呈していたのではないだろうか。分断政策ということでは、丹波では和銅四年(711)に海部千成が信濃国流刑にされ、二年後の和銅六年(713)には丹波国そのものが分割され、海部氏も分断されている。賀茂の祭りには周辺の国の住民も集まっていたのであるから、丹波国の住民も参加していたであろうし、丹波国の分割と海部氏の分断も、賀茂の祭りの禁止令と無関係ではなかったのではないだろうか。
 鴨氏は天智と深い関係にあった。賀茂の祭りの禁止令が出てくるのも、天武が死んで持統・藤原氏という天智系の力が強くなってきてからである。出雲神族の多くが、土師氏を始め、出雲国造と同族を名乗って弾圧をのがれようとしてきた。山城の出雲氏もそのような出雲神族の一つだった可能性もある。片岡山・松尾山さらには稲荷山がもともと出雲神族の祭祀する山だったとすれば、天武に出雲神族の多くが味方したのであるから、賀茂神社においても天武朝に相対的に出雲神族系の力が強くなった可能性もある。それを示すのが、もしかしたら『本朝月令』の、天武六年に令山背国営賀茂神宮とあり、現在の上社の地に社殿が造営されたということなのかもしれない。もしそうだとすると、出雲神族の祭祀が貴船山・片岡山という南北線を軸とするものだったの対して、当時の鴨氏の祭祀の中心は久我神社で、貴船山・神山・久我神社という直線を軸とするもので、天智が神山を重視することによって貴船山・神山・久我神社という鴨氏の軸が優勢となっていたが、天武の時代に上社の地に社殿を建てることによって、軸足を再び貴船山・片岡山という南北線に移したということなのであろう。持統以後、鴨氏は朝廷と一体になって上社の地の祭祀権も握り、さらに下鴨神社の地の祭祀権も握ったということなのであろう。下鴨神社についても、桑田郡の神野社である宮川神社と乙訓の火雷社が方位線をつくっていたのであるから、下鴨神社の祭神も火雷神で、宮川神社と東西線をつくっているとすれば、これは賀茂神社の分断というよりは、火雷神・別雷神という鴨氏の信仰体系の完成とも考えられるわけである。大宝元年(701)秦忌寸都理、松埼日尾より勧請、社殿を営むとされ、大宝二年(702)には乙訓郡火雷神が、大幣及び月次の幣の例に入り、海部千成が信濃に流刑になった和銅四年(711)に稲荷社成立とされ、この期間に松尾山・稲荷山にも大きな変化がみられるのであるから、鴨氏・秦氏を尖兵とした朝廷による本来出雲神族的信仰圏に対する介入があり、それが社会情勢とも結びつきつつ、大きな軋轢をもたらしたということなのではないだろうか。

 氷上町御油の神野神社であるが、もと円通寺の山にあり、御神体は座禅岩のところに祀ってあったと云われ、その外宮で南御油に在った貴船神社と共に、円通寺の創建時に土地を譲って現在地の北御油に遷されたとされる。元の場所が円通寺本堂からそんなに離れていないとすると、円通寺の西北45度線上に生駒山があるが、丹塗矢伝承がもともと三輪山と結びつくことを考えると、神野神社は三輪山と西北45度線をつくっていたとも考えられる。また、神野神社は笑原神社と東北45度線をつくっていたとも考えられる。この方位線が無視できないのは、真井御前の神呪寺も神野神社と西北60度線をつくっていたと考えられることである。神呪寺は火雷社とも東北30度線をつくる。さらに、笑原神社と乙訓寺が西北60度線をつくるとしたが、火雷社は乙訓寺の近くであり、笑原神社と火雷社も西北60度線をつくるといえる。貴船の神が火雷神とすると、籠神社の西北45度線上に貴船があり、笑原神社の西北60度線上に乙訓の火雷社があるということになるわけである。そして、神呪寺はその貴船山と乙訓の火雷社と方位線をつくるということになる。神野神社が貴船神社を外宮とするのも、貴船神が火雷神であることと関係するのであろう。また、笑原神社と火雷社の方位線を考えるなら、笑原神社の東北45線上に氷上町御油の神野神社があり、火雷社の西北30度線上に宮川神社と市島町の鴨神社があるということになるわけである。また、神野神社・火雷社と方位線をつくる笑原神社と神呪寺が南北線で結ばれているわけである。籠神社・火雷神・伊可古夜日売には深いつながりがあるのではないだろうか。
 籠神社と火雷社は直接方位線をつくらないが、籠神社・貴船・比叡山が西北45度線上に並び、比叡山と火雷社が東北45度線をつくるという関係なのであるから、このことから比叡山と火雷神との関係も考えなければならないかもしれない。籠神社・火雷神・伊可古夜日売の関係に比叡山も関わっていた可能性があるわけである。真井御前との関係でいうと、火雷社は比叡山と東北45度線をつくっていたということは、その方位線上に六角堂が位置することになる。

  円通寺―三輪山(E1.085km、0.58度)の西北45度線
  円通寺―笑原神社(E0.493km、0.75度)の東北45度線
  円通寺―神呪寺(W0.388km、0.40度)の西北60度線
  笑原神社―角宮神社西600m地点(E0.171km、0.15度)の西北60度線
  神呪寺―角宮神社西600m地点(W0.200km、0.31度)の東北30度線
  角宮神社西600m地点―六角堂(W0.160km、0.90度)―比叡山三角点(E0.035km、0.10度)の東北45度線
  
 神尾山にあった宮川神社が国分の愛宕神社と東西線をつくっていたとするなら、笑原神社の背後に愛宕山があることも考えなければならない。愛宕山を基点に考えても、神野神社・火雷社との方位線は成立するとみなせる。

  笑原神社背後愛宕山―角宮神社西600m地点(E1.099km、0.97度)の西北60度線
  笑原神社背後愛宕山―円通寺(W0.290km、0.45度)の東北45度線

 はたしていつ頃から笑原神社背後の山が愛宕山といわれ、どのような由来があるのか分らないが、海部氏が笑原神社を創建したのには何らかの理由があったはずであり、背後の愛宕山が古来からの重要な聖山だったということだったのかもしれない。丹波・丹後の方位線網の中で背後の愛宕山を考えると、出雲大神宮と真名井神社が西北60度線をつくるとしたが、出雲大神宮と笑原神社背後の愛宕山も西北60度線をつくるといえる。出雲大神宮の神体山である御影山をとるなら、愛宕山との西北60度線のほうがより正確である。一方、真名井神社は出雲大神宮とよりは国分の愛宕神社とより正確に西北60度線をつくる。真名井神社と愛宕神社、笑原神社背後の愛宕山と御影山の方位線の間に出雲大神宮があるわけである。これは、真名井神社と笑原神社背後の愛宕山、出雲大神宮と国分の愛宕神社は方位線をつくるとはいえないかもしれないが、真名井神社・笑原神社背後の愛宕山・出雲大神宮・国分の愛宕神社が一つの方位線上に並んでいると考えてもいいのかもしれない。
 さらに、大江山・磯砂山・久次岳の方位線を絡めると、兜山・大江山・出雲大神宮が西北45度線、兜山・磯砂山・弥仙山が西北30度線、久次岳と真名井神社が東西線をつくるが、笑原神社背後の愛宕山は久次岳と西北30度線、弥仙山と西北45度線をつくる。愛宕山も方位線的にかなり重要な場所にあったともみなせるわけである。

  笑原神社背後愛宕山―出雲大神宮神体山(W0.295km、0.34度)―出雲大神宮(W0.645km、0.75度)の西北60度線
  真名井神社―国分の愛宕神社(E0.214km、0.17度)の西北60度線
  久次岳―笑原神社背後愛宕山(W0.375km、0.66度)の西北30度線

 真井御前の海部氏という立場からいえば、神呪寺によって籠神社・貴船山・神呪寺・笑原神社という、籠神社と笑原神社を結ぶ方位線網が完成するということになる。それは、そこに神護寺が関わらなければならない理由もないということである。しかし、神護寺と神呪寺の方位線には、和気清麻呂の二人の孫娘も真井御前と一緒に出家したということからも無視できないものがあり、この神護寺と神呪寺の方位線には、空海の何らかの意図が秘められていたと考えられる。その意図とは、神呪寺が籠神社ではなく笑原神社と南北線を作り、その笑原神社が乙訓寺及びそれと方位線をつくる北岩倉の山住神社と方位線をつくることから、乙訓寺の早良親王の怨霊封じ込めと関係するのではないかとしたが、神呪寺と火雷社が方位線をつくり、笑原神社と火雷社が方位線をつくっていたとすると、空海の意図は乙訓寺とは別のところにあったという可能性も出てくる。

 神護寺は愛宕山五山の一つとして愛宕山と信仰的に一体的なものだといえる。特に空海にとって、愛宕神社を愛宕郡鷹ヶ峰の釈迦谷山から愛宕山山頂に遷したとされる慶俊は、彼の師ともいわれる。また、直接的ではないが神護寺は方位線的に籠神社と深い関係にあるともいえる。神護寺―貴船山―籠神社(真名井神社)という回路で籠神社に結びつくとともに、久次岳と真名井神社が東西線をつくっていたのであるから、神護寺―久次岳―真名井神社(籠神社)という回路でも籠神社と結びつく。久次岳は笑原神社とも西北30度線をつくっている。磯砂山が伝承で籠神社・笑原神社と関係してるのに対して、久次岳は方位線で籠神社・笑原神社に関係するという形になっているわけである。一方、久次岳が神護寺と西北45度線をつくるのに対して、磯砂山が愛宕山と西北45度線をつくっているわけである。

  久次岳―笑原神社(E0.448km、0.78度)の西北30度線

 神護寺が愛宕山とも籠神社とも関係をもっているということは、神護寺が愛宕山と籠神社を結びつける役割を担っていたということなのかもしれない。ただ、出雲大神宮は愛宕山とも籠神社とも方位線をつくっていたのであるから、すでに愛宕山と籠神社は出雲神宮を通して結ばれていたともいえる。新たに愛宕山と籠神社を結びつける必要があるとすれば、出雲大神宮が神社なのに対して、神護寺が寺というところに理由を見つけ出すことができるかもしれない。神護寺は仏教の立場から愛宕山と籠神社を結びつける場所であり、寺という形をとった出雲大神宮ということなのかもしれない。それに対して、神呪寺は寺という形式をとった籠神社として建立されたのかもしれない。もしそうなら、神呪寺は籠神社及び神護寺と方位線で結びつかなければならないというということは、当然求められる条件だったといえる。ただ、その場合も笑原神社より籠神社と方位線的に結びついている方がいいわけであり、その点でやはり問題が残る。
 神護寺も直接的には籠神社ではなく、貴船山と愛宕山を結びつける役割を担っていたのかもしれない。もしそうなら、それは賀茂神社の重要性が増すと同時に、貴船神社や貴船山の重要性も増していったということから、愛宕山と貴船山を結びつける必要も生じてきたということであろう。ただ、賀茂神社にもこ籠神社の影がみられるのであるから、貴船神社の背後に籠神社があることには変わりないことになる。
 貴船山と愛宕山の直接の関係であるが、貴船山と亀岡市国分の愛宕神社が東北30度線をつくる。また、国分の愛宕神社は愛宕山の東北30度線方向に位置しているが、貴船山と愛宕山が直接東北30度線をつくるかどうかは、微妙である。

  貴船山―国分の愛宕神社(E0.395km、1.27度)の東北30度線
  愛宕山―国分の愛宕神社(W0.361km、4.29度)の東北30度線
  貴船山―愛宕山(E0.755km、3.31度)の東北30度線

 神護寺と直接関係するのは貴船山であるかもしれないが、その背景に賀茂神社があり、さらにその背後に籠神社があるとすれば、真井御前の神呪寺が籠神社・笑原神社と方位線網をつくると同時に賀茂神社と関係する火雷社とも方位線をつくっていることも理解できる。しかし、そのことは空海が乙訓寺の早良親王の怨霊封じのために神呪寺の創建にかかわったということを排除するものでもないだろう。早良親王は別雷神と何らかの深い関係があったことが真幡寸神社との関係から窺われ、賀茂神社との関係で籠神社と関係をもつということは、乙訓寺の早良親王の怨霊封じとも関連をもってこざるをえないということである。ただ、その場合空海が乙訓寺の別当になった時期と、真井御前が甲山に入り神呪寺で修行を始めた時期とでは、十七年の間があり、空海の中にはたして早良親王のことがどのぐらい意識としてあったが疑問も湧き、早良親王のこともまだ頭にあったとしても、大きな比重を占めていたとはいえないかもしれない。

 空海は、籠神社よりも出雲大神宮を強く意識していたのかもしれない。というのも、空海と関係する寺がほとんどが出雲大神宮とも方位線で結ばれているのである。神護寺の場合は、神護寺と一体的な愛宕山が出雲大神宮と東西線をつくるという形であるが、弘仁元年(810)別当に任ぜられた東大寺は出雲大神宮と西北60度線をつくっていた。もっともこれは、真名井神社と出雲大神宮の西北60度線上にあるということでもあった。弘仁七年(816)に空海は高野山の下賜を請う上表文を提出し、下賜されるが、高野山は出雲大神宮の南北線上に位置しているのである。その後、空海は弘仁十四年(823)東寺も下賜されるが、東寺は出雲大神宮の西北30度線上に位置している。

  出雲大神宮―高野山金堂(E0.100km、0.06度)の南北線
  出雲大神宮―東寺金堂(0.106km、0.34度)―伏見稲荷本殿(w0.014km、0.04度)の西北30度線 

 出雲大神宮神体山と稲荷山が西北30度線をつくっていたが、出雲大神宮・東寺の西北30度線上には伏見稲荷本殿が位置している。松前健編『稲荷明神』の伊藤唯真氏の論文によれば、空海が五重塔の用材を伐り出したは東寺杣山には林院が置かれ、林院を澄心庵と称した伝承があるといい、澄心庵の在った場所について、現在の伏見稲荷大社の鎮座地、つまり稲荷山三ノ峯の山麓の、いわゆる下社のあるところだという見方があるという。
 空海が東寺の五重塔を建てるあたって、稲荷山の木にこだわったのではないかと解釈できる出来事もある。空海が五重塔の用材を運び出しにかかったのは天長三年(826)の十一月のことといわれ、大変な労力を必要としたらしく、六衛・八省の合力を請う勧進表を提出している。時を同じくして淳和天皇が病気になるということがあり、稲荷神社の樹木を伐った祟りと占いに出て、稲荷神社に従五位下の神階が授けられるということがあった。しかし、天皇の病気にもかかわらず、稲荷神社の木を用材にすることが中止されることはなかったようである。大変な労力を使って切り出した用材を無駄にして、また新しく他に用材を求めることが躊躇されたのかもしれないが、空海が天皇の病気にもかかわらず、稲荷神社の樹木にこだわったとも考えられるのである。伊藤唯真氏は、神木を伐った祟りだとの託宣は、いわゆる「験(しるし)の杉」として信仰が寄せられている聖樹が群立っている神聖な稲荷山に踏み入って大樹を伐り倒したことを快く思わない稲荷社の祀官の仮託であろうとする。おそらく、東寺杣山と稲荷神社の神域の境界線からたまたま神域に入りこんで木を伐ってしまったというようなことではなかったのであろう。空海が稲荷山から用材を伐り出そうとし、その計画段階からすでに稲荷神社側と問題を引き起こしていたとも考えられるのである。稲荷神社側が淳和天皇の病気を神木を伐った祟りとする託宣を出してきたということは、すでに相当問題がこじれていたということではないだろうか。しかし、空海には稲荷神社側の反対を押し切ってでも東寺五重塔の用材は、同じ出雲大神宮の西北30度線にある稲荷山の木でなければならなかったのではないだろうか。空海にとって稲荷山が特別な山であることは、その後の東寺と稲荷大社との深い関係からもいえるのでないだろうか。たまたま五重塔の用材を求めたのが稲荷山で、そこの稲荷神社と悶着が生じたことぐらいのことでは、その後の深い関係など生じなかったとも考えられるのである。


 空海が愛宕山や出雲大神宮・籠神社を重視したということは、クナトノ大神を意識していたということになるのかもしれない。そのうちでも、出雲大神宮と関係が深いということは、あるいは出雲大神宮が阿波一宮の大麻比古神社と方位線をつくっているということも影響しているのかもしれない。大麻比古神社は阿波に属するといっても、讃岐にすぐ接する場所にあり、空海の出身地とされる讃岐一帯の信仰も集めていたと考えられるのである。空海は佐伯氏といわれるが、天狗山と東北60度線をつくる宮島の厳島神社は安芸の佐伯氏が勧請したといわれ、同じく天狗山の西北45度線上にある大麻比古神社も讃岐の佐伯氏と関わりが深かった可能性もあるわけである。高野山は大麻比古神社の神体山の大麻山の東西線方向に位置している。ただ、東西線をつくるかどうかは微妙である。空海の意識の中に大麻比古神社もあったとすれば、出雲大神宮の南北線と大麻山の東西線は、もう少し南の笠松峠辺りで交わるが、その近くの山頂に奥の院にあたるような重要な堂宇が建てられてもよさそうである。もっとも、探知型で考えれば、大麻山の東西線上に空海は高野山を開いたといってもいいのかもしれない。大麻山・大麻比古神社は出雲の熊野大社の神体山の天狗山とも西北45度線をつくっていたが、天狗山の西北30度線が高野山近くを通る。それは、大麻山と高野山との東西線よりもっと微妙であろう。5.5kmも離れているということは、さすがに数字的には方位線をつくっているというのは無理なのかもしれない。笠松峠よりさらに南を通るということになるが、笠松峠辺りに重要な堂宇があれば、その堂宇と方位線をつくるとみなせたかもしれない。笠松峠辺りを重視していないということは、空海がクナトノ大神を意識したとしても、それは出雲まで射程に入れていたということでもないようである。もっとも、日本一の霊能者といわれる空海のことであるから、探知型で考えれば5、6qの距離は問題ではなかったということもありえるかもしれないが、とりあえずは、空海がクナトノ大神を意識したとしても、それは平安京周辺のクナトノ大神であり、精々大麻比古神社辺りまでとするべきかもしれない。

  大麻山―高野山金堂(N2.973km、1.73度)の東西線
  天狗山―高野山金堂(E5.500km、1.21度)の西北30度線


 乙訓寺は空海の関係する寺では、出雲大神宮と方位線をつくらない。その方位線上には山住神社・笑原神社の他に八王子山があり、乙訓寺は長岡京大極殿より正確に八王子山の東北45度線上に位置する。

  八王子山―乙訓寺(W0.133km、0.35度)の東北45度線

 山住神社は八王子山と東西線をつくっていたが、山住神社の位置を考えると、神山と比叡山を結ぶ線上にも位置している。もともと、比叡山とも関係の深い磐座だったとも考えられるのである。八王子山が籠神社の海の奥宮の冠島と西北60度線、比叡山が籠神社・真名井神社と西北60度線、山住神社が笑原神社と西北45度線で結ばれるという関係になるわけである。

 比叡山四明岳838m標高点(0.59度)―山住神社(0.083km)―神山(0.84度)の直線

 乙訓寺の場所はもともと継体天皇の弟国宮があった場所ではないかといわれているが、別雷神がアジスキタカヒコネ、火雷神がクナトノ大神とすると、火雷社は出雲神族の天皇である継体天皇の弟国宮を護る役割をになっていたというような、何らかの弟国宮と関係性をもった神社だった可能性もあるわけである。この場合、笑原神社はまだなかったが、八王子山・山住神社とともに背後の愛宕山との方位線が意味をもっていたのかもしれない。

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御霊神社

 京都の怨霊を祀る神社としては、藤森神社・崇道神社・北野天満宮・上御霊神社・下御霊神社などがある。藤森神社に遷る前の早良親王が最初に祭られたのは塚本社で延暦十九年(800)といわており、同じく早良親王を祭神とする奈良市の崇道天皇社は大同元年(806)創建とされる。それに対し、崇道神社の創祀は、社伝では貞観年間のことであるらしい。貞観五年(863)に神泉苑で最初の御霊会があった。白井永二・土岐昌訓編『神社辞典』に上御霊神社・下御霊神社について、この時の御霊会が両社の創祀であるという、とある。ただ、下御霊社にはそれ以前の承和六年(839)建立という伝承もあり、上御霊社についても、平安遷都の折、井上内親王の霊を鎮めるため、配流・毒殺された大和国受智郡に建てられた霊安寺を出雲氏の氏寺であった上出雲寺へ遷し鎮守とし、その鎮守社に早良親王を加えて御霊を祀る社となったともいわれる。崇道神社も貞観年間以前からあった可能性もあるわけである。
 崇道神社は比叡山の東西線上にあった。一方、塚本社に早良親王が祭られた延暦十九年は早良親王に崇道天皇という諡号が与えられた年でもあり、その時陵墓も奈良市八島町の崇道天皇八嶋陵に移されたが、この崇道天皇陵は比叡山延暦寺・東大寺の南北線上に位置している。早良親王は還俗する以前は東大寺の僧だったといい、早良親王の周りには東大寺とも関係する者が多く、そのために早良親王が南都勢力と結びついて長岡京遷都を阻止するために、種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする説もあるが、東大寺の南北線上に陵墓か置かれることは、藤原京の南北軸上に天武・持統陵があることからも、早良親王にとって悪い話ではなかったであろう。ただ、延暦寺・東大寺の南北線上に置くことで、早良親王の怨霊を封じ込めるということも意識されていたのではないだろうか。塚本社は下鴨神社の南北線上に位置しているのではないかとしたが、下鴨神社の東北30度線上には四明岳・比叡山三角点・根本中堂があった。そして、塚本社は比叡山・将軍塚の東北60度線上位置すると考えられるのである。塚本社は現在の塚本陵の場所であるが、塚本陵は本町通の東、略図をみると、現在の法性寺の南少し東寄り、月輪小学校の西北で、本町十六丁目と記すものと十七丁目と記すものがあり、とりあえず川道製薬工業というのが地図にあるので、その西北角を基点にその近くと考える。そうすると、桓武・早良親王の母の高野新笠陵の東西線上にも位置することになる。

  崇道天皇陵―東大寺大仏殿(W0.165km、2.07度)―延暦寺根本中堂(W0.074km、0.09度)―比叡山三角点(W0.672km、0.83度)―四明岳838m標高点(W1.094km、1.35度)の南北線
  塚本陵付近―将軍塚(E0.061km、1.19度)―四明岳838m標高点(W0.174km、0.91度)―比叡山三角点(E0.147km、0.75度)―延暦寺根本中堂(E0.414km、1.97度)の東北60度線
  高野新笠陵―塚本陵付近(S0.051km、0.29度)の東西線
  下鴨神社(E0.173km、1.48度)―塚本陵付近―藤森神社(E0.056km、1.06度)の南北線

 崇道神社は比叡山の東西線上に位置しているばかりでなく、平安京大極殿の東北45度線上にも位置している。崇道神社は怨霊である早良親王を神として祭ることにより、危害を与えるものから自分達を護る側えと転換させる装置であったが、東北45度線は艮の方角であり、鬼門の方角である。ただ、鬼門封じという考えは院政期の陰陽師が唱え出したもので、平安時代初期にはまだなかったというから、崇道神社は鬼門を護るために建立されたわけではないことになる。若狭街道の京都への入り口にあたるところから、悪疫の侵入を防ぐために祭られたともいうが、これは、長岡京大極殿の西北45度線上に桓武・早良親王の母親の高野新笠陵があることに対応するものではないだろうか。

  平安京大極殿―崇道神社(E0.042km、0.32度)の東北45度線

 長岡京の北の聖山を白砂山とするのは向井毬夫氏の説であったが、高野新笠の陵は白砂山とも東北60度線を作り、長岡京大極殿・高野新笠陵・白砂山が方位線三角形を作っていた。それに対して、崇道神社も平安京の北の聖山である船岡山と東北30度線を作り、平安京大極殿・崇道神社・船岡山が方位線三角形をつくる。また、高野新笠陵は八王子山と東北30度線をつくっていたが、崇道神社と比叡山の東西線はそれに対応するの意味もあったのかもしれない。梅原猛『京都発見 一』によれば、地元の上高野の民間伝承では高野新笠の出身地であるという。

  崇道神社―船岡山(W0.086km、0.80度)の東北30度線

 地図上で平安京大極殿から崇道神社への東北45度線を引くと、そのすぐ近くに上御霊神社がある。数字的には少し厳しいが、上御霊神社も大極殿と崇道神社の方位線上にあると見なしてもいいのではないだろうか。というのも、上御霊神社が在った上出雲寺の正確な位置は今となっては分らないのであるが、上御霊神社のある森を御霊の森あるいは御霊林ともいい、かっては南の相国寺にかけて古木が鬱蒼と茂っていたといい、その森全体が上出雲寺の聖域になっていたとすれば、大極殿の東北45度線上に上出雲寺の聖域があり、その上出雲寺の聖域の中に上御霊神社があるとも考えられるのである。

  平安京大極殿(E0.146km、3.16度)―上御霊神社―崇道神社(E0.188km、2.23度)の東北45度線

 また、大極殿と崇道神社の東北45度線上には八瀬天満宮がある。梅原猛『京都発見 三』によれば、地元では北野天満宮より古い天満宮という伝承があるという。それで、八瀬の人達は、大宰府天満宮には参るけれど北野天満宮にはあまり参らないという。ただ、「高殿」と呼ばれる一年神主だけは北野天満宮と近江の白鬚神社、愛宕山、貴船神社等、八瀬八幡宮に坐す神々と関わり深い社に詣でるという。梅原猛氏は江戸時代の地誌『拾遺都名所図会』に矢背天神宮(八瀬八幡宮)の神輿二基のうち一基は八王子の神輿で、菅原道真が若かった時に北野天満宮の創祀にも関係した叡山法性坊尊意に文書を学び、筑紫で死んだ後、尊意の室に現れ何事かを命じたが、尊意の答が気に入らず、柘榴を口に含んで吹き付けると猛火になった。尊意はその由縁をもってここに勧請したとあり、同じような尊意の答が気に入らず、柘榴を口に含んで吹き付けたところ猛火になって燃えたという話は『北野天神絵巻』にもあり、『北野天神絵巻』には矢背天神宮のことは何も触れられていないが、菅公の怨霊の鎮魂に力を尽くしたのが尊意であるから、叡山の西の登り口になるこの八瀬の地に、先ず尊意によって菅公の鎮魂の社が造られたとしても決して不自然なことではなく、むしろその可能性は高いという。大極殿の東北45度線の磁場に引きつけられるように崇道神社と八瀬天満宮という怨霊を祀る神社があるということは、上御霊神社もまたその磁場の中にあるのではないだろうか。

  八瀬天満宮―崇道神社(E0.122km、2.61度)―上御霊神社(W0.066km、0.50度)―平安京大極殿(E0.080km、0.45度)の東北45度線

 上出雲寺に井上内親王・他戸親王が祀られたのは、方位線的には二つのことが考えられる。一つは、塚本社が将軍塚の方位線上にあったように上御霊神社も将軍塚の西北60度線上にあることである。この場合、将軍塚の方位線上でも何故上出雲寺なのかということになれば、すでに大極殿の東北45度線上に崇道神社があり、その東北45度線と将軍塚からの方位線が交わる場所に、上出雲寺があったということなのではないだろうか。将軍塚は船岡山と西北45度線をつくっていた。その西北45度線を軸に、船岡山と将軍塚の方位線上に、崇道神社と上御霊神社があるともいいえる。もう一つの方位線は、上御霊神社が乙訓寺の東北60度線上にあることである。この場合は、崇道神社で早良親王が祀られていることはさらに前提となるであろう。乙訓寺と北岩倉の山住神社も東北60度線をつくり、山住神社は崇道神社とも西北30度線をつくっていた。ただ、上御霊神社と山住神社を考えるなら、山住神社と上御霊神社摂社の猿田彦神社は東北60度線をつくるともいえるが、上御霊神社は少し外れるようである。なお、上御霊神社と今宮神社も西北30度線をつくるが、今宮神社は高野新笠陵と東北45度線をつくる。

  将軍塚―上御霊神社(W0.047km、0.60度)の西北60度線
  乙訓寺―上御霊神社(E0.167km、0.74度)の東北60度線
  山住神社―猿田彦神社(E0.183km、2.21度)―上御霊神社(E0.326km、4.03度)の東北60度線
  上御霊神社ホ―今宮神社(E0.025km、0.69度)の西北30度線
  今宮神社―高野新笠陵(W0.048km、0.26度)の東北45度線

 北野天満宮であるが、その建立にいたる流れは、延喜三年(903)に菅原道真が死んだ後、延喜九年(909)に道真を失脚に追いやった時平が三十九歳の若さで死に、道真の怨霊の祟りとされ、さらに延喜二十三(923)に醍醐天皇の皇太子保明親王が二十一歳で早逝すると、道真の怨霊が現実的脅威として強く意識されだし、翌年道真はもとの右大臣に復するとともに正二位が追贈された。しかし、延長三年(925)には五歳にしかならない保明親王の子の慶頼王も死んでしまう。延長八年(930)清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫・右中弁平希世らが焼死する事件が続き、これらは道真の怨霊のせいとされ、醍醐天皇は病で寝込むことになり、同年九月に朱雀天皇に譲位するが、まもなく亡くなってしまう。
 天慶五年(942)右京七条二坊十三町に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に右近馬場に自分を祀るよう道真の託宣があり、文子は自分の家の近くに道真の霊を祀った。天暦元年(947)には近江国比良宮の禰宜良種の子の太郎丸にも同じような託宣があり、良種は文子・朝日寺の最鎮(珍)と相談して北野の朝日寺に社殿を造営し、多治比文子の祀る小祠社も天暦五年(951)にはこれを北野に移したという。その後北野天満宮は藤原時平の弟の忠平・師輔親子によって整備されていったといわれ、天徳三年(959)に右大臣藤原師輔が社殿を増築し、神宝を献じた。
 北野天満宮と塚本社が東北60度線をつくる。さらに、塚本社は良種の比良宮ともおそらく東北60度線をつくる。比良宮は『近江輿地誌略』では滋賀郡滋賀町北比良の比良天満宮とするというが、比良天満神社は、国道沿いにあって大きな古木があり、樹下神社に隣接するという(http://www.ne.jp/asahi/q/tarou/b9114-walking-Biwako14.htm)。地図でみると北比良の比良変電所のすぐ側に樹下神社があり、国道の側でもある。おそらく、この樹下神社に隣接して比良天満宮があると思えるのだが、この樹下神社が塚本社と東北60度線をつくるのである。

  北野天満宮―塚本陵付近(W0.109km、0.93度)の西北60度線
  比良変電所近くの樹下神社―四明岳838m標高点(E0.208km、0.59度)―比叡山三角点(E0.529km、1.51度)―塚本社付近(E0.382km、0.70度)の東北60度線

 かっての法性寺は本町十丁目から伏見大社近くにおよぶ大寺だったという。塚本社はその南よりで、法性寺境内に包まれるようにしてあったことになる。法性寺は藤原忠平が延長二年(924)に建立した寺で、この地に寺を建てることは忠平の子供の頃からの希望であったと『大鏡』にあるという。梅原猛『京都発見 三』では、「法性寺を造ったのは明らかに法性房尊意であり、その房名をとって法性寺と名付けたのである。」とするが、竹村俊則『昭和京都名所圖會』では、忠平の師である天台座主法性坊尊意の名をとって寺名にしたともいわれるが、本当は天台の狭義によって名づけられたものであろうとする。寺名の由来はともかく、法性坊尊意は法性寺に深く関与していたことは事実なのではないだろうか。法性寺が早良親王の塚本社を取り込むような形になり、そのことによって尊意は怨霊対策の専門家とみられるようになったとも考えられ、『拾遺都名所図会』に記すように、八瀬天満宮の創祀にかかわることになったのではないだろうか。忠平は北野天満宮にも力を入れていたのであるから、尊意は北野天満宮の創祀にもかかわっていた可能性がある。法性坊尊意は十三代天台座主で貞観十八年(877)に十一才で栂尾山高山寺に入山し、数年間修行して法力を得たといわれるが、十四、五才で法力を得た尊意は、もともと霊媒体質の持主だったのかもしれない。法性寺と北野天満宮はそれぞれ高山寺の西北45度線・西北30度線方向に位置している。

  高山寺金堂―塚本陵付近(W0.480km、2.19度)の西北45度線
  高山寺金堂―北野天満宮(W0.276km、2.52度)の西北30度線

 北野天満宮の方位線で、もう一つ重要なのは西北45度線上に醍醐寺があることであろう。藤原時平と組んで道真を大宰府に左遷した醍醐天皇により、道真を失脚させた七年後、醍醐寺は勅願寺とされ、醍醐天皇は五大堂・薬師堂・釈迦堂などを建て、またその死後一周忌には本堂・礼堂・教蔵・回廊や東西そして南の中門が造られた。高野澄『京都の謎 伝説編』によれば、道真の怨霊と対決する天皇をかろうじて支えたのが、醍醐寺に対する篤い信仰だったと見ていいのではないかという。八瀬天満宮の南北線上には醍醐天皇陵が位置している。

  北野天満宮―醍醐寺准胝堂(W0.052km、0.22度)の西北45度線
  八瀬天満宮―醍醐天皇陵(W0.039km、0.16度)の南北線

 醍醐寺境内の長尾天満宮は菅原道真・大己貴命・須佐男命を祭神とする旧醍醐村の産土神で、社伝によれば天慶三年(940)に道真の怨霊をなだめるために勧請創祀されたというが、竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、一説には道真は在世中、この地を墓所とすることを望んでいたが、没後、北野に祀られるに至ったため、改めて社壇を営んだとともいわれるという。社前東側には菅公の遺衣を埋めたところと伝える菅公衣裳塚がある。伝承通りだと、醍醐寺周辺は道真と関係の深い場所だったということになるが、醍醐天皇が醍醐寺を道真の怨霊に対抗するための寺として選んだのは、醍醐寺が延暦寺・東大寺・崇道天皇陵の南北線上に位置しているからではないだろうか。また、下鴨神社と醍醐寺も西北60度線をつくる。

  延暦寺根本中堂(E0.251km、1.04度)―醍醐寺准胝堂―東大寺大仏殿(E0.160km、0.32度)―崇道天皇陵(E0.325km、0.56度)の南北線
  下鴨神社―醍醐寺准胝堂(E0.003km、0.01度)の西北60度線

 醍醐寺は貞観十六年(874)、理源大師聖宝が笠取山(醍醐山)で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建てて准胝・如意輪の二観音をまつったのが始まりといわれる。空海の実弟真雅の弟子で十六歳で東大寺に入り、俗名は恒蔭王、天智天皇の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。翌貞観17年(875)聖宝は東大寺に東南院を創建、真言宗が南都に一大勢力を誇るようになったというが、醍醐寺と東南院の創建は連動した計画で、聖宝は意識的に東大寺と延暦寺の南北線上に醍醐寺を建てたのではないだろうか。聖宝は役行者に私淑して、吉野の金峰山で山岳修行を行い、途絶えていた大峯山での修験道修行中興の祖とされるが、東大寺と延暦寺の南北線上に三論教学と修験道の拠点を置こうとしたのかもしれない。
 岩清水八幡宮は東大寺と西北60度線、醍醐寺とも東北30度線をつくる。東大寺と宇佐神宮との関係を考えると、聖宝が笠取山の地を選んだのは、東大寺と延暦寺の南北線上で、岩清水八幡宮とも方位線をつくるということだったからかもしれない。また、岩清水八幡宮は比叡山・延暦寺根本中堂と東北60度線をつくっていたが、塚本社とも東北60度線をつくるということになる。

  岩清水八幡宮―醍醐寺准胝堂(W0.117km、0.46度)の東北30度線
  岩清水八幡宮―塚本陵付近(E0.097km、度0.44)の東北60度線

 清涼殿への落雷いらい、道真は雷神と結びつけられるようになったといわれるが、北野の地は元慶年中(877-885)より毎年行われていた豊饒のための雷公祭祀の場所であり、北野天満宮の場所にも、それ以前から雷神を祀る小さな祠があったという。北野天満宮の創祀に朝日寺の最鎮が出てくるのは、雷神と関係の北野の地の象徴的な場所が朝日寺で、さらに雷神の祠があったということかもしれない。そうすると、北野天満宮はあまり方位線とは関係なかったということになる。
 上賀茂神社の祭神の別雷神も雷神である。道真が雷神とされていったとき、雷神の道真と別雷神との関係を当時の人はどのように捉えていたのであろうか。北野天満宮は上賀茂神社の片岡山とも東北60度線をつくる。片岡山と船岡山は東北60度線をつくったから、船岡山と北野天満宮は近すぎて直接方位線云々についてはいえないが、片岡山・船岡山の東北60度線上に北野天満宮はあるとはいえるわけである。

  北野天満宮―片岡山175m付近(E0.027km、0.40度)の東北60度線

 同じような疑問は、八所御霊の一つにあげられる火雷神と別雷神の父親の火雷神と道真との関係についても生じる。神泉苑の六所御霊のなかには火雷神は入っていない。御霊の中に火雷神が加えられたのはそれ以後のことと推定され、道真の怨霊が雷と結びついたことと関連しているのであろう。ただ、八所御霊として道真ではなく火雷神が祀られているということは、道真=火雷神ではなく、一応両者は区別されていたということではないだろうか。道真と火雷神とは異なる存在ではあったが、強い類似性もあったということであり、その類似性が火雷神を御霊としたとして、その類似性とは両方とも雷神ということだけだったのであろうか。
 『本朝世紀』天慶元年(938)九月二日条に、「東西両京の大小の衢に、木を刻みて神の形を作り、相対して安置」し、「臍の下、腰の底に陰陽を刻み絵く。几案を其の前に構えて坏器を其の上に置き、児童ら猥雑く礼拝すること慇懃なり。或は幣帛を捧げ、或は香花を供ふ。号けて岐の神と曰す。又は御霊とも称す。」とあるという。別雷の父親の火雷神はクナトノ大神ではないかとしたが、天慶元年の御霊とされる岐の神には、雷神的な性格はみられない。六月十二月の道饗祭は、都の四隅に八衢比古、八衢比売、久那斗の三神を祀って、外より入ってこようとする鬼魅を京の外に追い返そうとする祭であるが、岐の神にはもともと御霊的性格があったということになる。ただ、道饗祭で祀られる久那斗神は怨霊ではない。
 道真についていえば、土師氏で出雲神族であるから、クナトノ大神とも結びつくということになる。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、後醍醐天皇が隠岐から飛ばした檄を出雲の富氏も受取り、富家ではそれを大和の同族である菅原氏・三輪氏、さらには信濃の諏訪神家にもこれを伝えたというから、桓武時代以前には高野新笠との関係で貴族化していく部分を含め、大和・山城の土師氏には出雲神族としての同族意識はあったと考えられる。道真自身には出雲神族という意識がどの程度残っていたかは分らないが、当時の平安京の民衆には道真が出雲神族という意識があったのではないだろうか。そのような意識が、道真の怨霊化にともなって、火雷神や岐の神を御霊とする考えを広めていったのではないだろうか。天孫族に征服された出雲神族の怨念を考えれば、祖神であるクナトノ大神は怨霊化しても不思議ではないのであり、道真の怨霊化がそのような意識に火をつけたともいえる。
 北野天満宮の道真創祀にも、出雲神族が深くかかわっていたともみられるのである。良種については、単に良種としか記さない本が多いが、梅原猛『京都発見 三』では神良種(みわのよしたね)とする。大神氏の一族で、出雲神族と考えられるのである。なお、良種の比良天満宮周辺は真名井神社の西北30度線と出雲大神宮の東北30度線の交わる地ともいえる。多治比文子であるが、多治比には彦火明命系の多治比連と、宣化天皇から出た多治比真人がある。多治比文子が多治比真人の一族であるなら、やはり出雲神族系ということになるわけである。

  真名井神社―比良変電所近くの樹下神社(W1.293km、0.94度)の西北30度線
  出雲大神宮―比良変電所近くの樹下神社(E0.553km、0.84度)の東北30度線

 天智陵の西北45度線上に上御霊神社がある。ただ、火雷神と御霊の関係を問題にするなら、その摂社の猿田彦神社に注目すべきかもしれない。出雲氏が出雲と関係する氏族だとするなら、出雲国造家と同族とするなら天穂日命を祭神にするであろうから、この猿田彦神ももともとクナトノ大神だったと考えるべきであろ。なお、猿田彦神社はアラハバキ神の松尾山とも東北30度線をつくり、猿田彦神社と下鴨神社は直接は方位線をつくらないが、猿田彦神社と松尾山の東北30度線上には元糺の木島神社がある。

  天智陵―猿田彦神社(E0.017km、度0.16)―上御霊神社(E0.162km、1.55度)の西北45度線
  猿田彦神社―木島神社三つ鳥居(W0.037km、0.44度)―松尾山▲223付近(W0.026km、0.18度)の東北30度線

 天智陵と北野天満宮も西北30度線をつくる。天智陵の西北60度線上には上賀茂神社の神体山の神山があり、神山も火雷神と結びつく山であった。天智陵の西北60度・45度線上にクナトノ大神と結びつく場所があるということから、天智陵の西北30度線上に火雷神=クナトノ大神と結びつく菅原道真が祀られたという可能性もある。
 村山修一氏(洋泉社MOOK『京都・魔界マップ』インタビュー)は朝日寺は愛宕山の最高峰である朝日峰を拝むための寺だったのではないかとする。菅原道真を祀る神社になってから、前の記憶がだんだん薄くなってしまって、今日ではなかなかわかりにくいけれど、朝日寺・観音寺の両寺はいずれも愛宕山と結びついた密教寺院だったといい、北野天満宮の前身の北野社は愛宕山の神霊を迎える、そういうところだったのではないかというのである。愛宕山の神霊を愛宕神とするなら、朝日寺の地はクナトノ大神と関係する場所だったということになる。ただ、朝日寺と愛宕山の結びつきも、北野天満宮ができてからということも考えられるのではないだろうか。それには尊意も関係していたかもしれない。その可能性は、尊意が北野天満宮の創祀に関係し、さらに彼が修行した高山寺が愛宕山信仰にも関係しているという前提が必要であるが、高山寺は出雲大神宮・愛宕山・片岡山の東西線上に位置し、さらに貴船神社とも神護寺と同じように東北45度線をつくるのである。

  出雲大神宮(W0.221km、1.40度)―愛宕山(W0.209km、3.08度)―高山寺金堂―片岡山175m付近(W0.020km、0.16度)の東西線
  貴船山(E0.047km、0.27度)―高山寺金堂―神護寺(E0.035km、1.99度)の東北45度線

 朝日寺は桓武天皇の勅願寺として建立されたというが、天智天皇の大津宮と東西線をつくり、天智陵と西北30度線をつくる。天智の大津宮を東に眺む場所だから朝日寺と名付けられたのかもしれない。境内にある東向観音寺は最鎮がを創建したと伝えられているが、もともと東西両向の二堂があったが、西向の堂のほうは早くに廃絶してしまったといい、東西線が意識されていた寺ともいえる。大津宮・天智陵と方位線をつくる場所としては、上賀茂神社の神体山の神山があった。あるいは、このことから神山と同じような霊性を感じる場所として、朝日寺周辺が雷公祭祀の行われる場所となっていったのかもしれないし、火雷神=クナトノ大神ということから、朝日寺が愛宕山を礼拝する場所とされていったのかもしれない。
 愛宕山の愛宕神社は慶俊によって鷹峯の釈迦谷山から遷されたとされるが、六道珍皇寺は慶俊によって建てられたといい、その六道珍皇寺と北野天満宮・朝日寺が西北45度線をつくる。また、六道珍皇寺は釈迦谷山の西北60度線上にあり、天智陵とも東西線をつくるといえる。

  北野天満宮―大津宮(S0.251km、1.32度)の東西線
  北野天満宮―天智陵(0.000km、0.00度)の西北30度線
  北野天満宮―六道珍皇寺(W0.012km、0.13度)の西北45度線
  釈迦谷山三角点―六道珍皇寺(E0.300km、2.08度)の西北60度線
  天智陵―六道珍皇寺(N0.125km、2.47度)の東西線

追記1
 早良親王の塚本塚は東山区本町16丁目と記すものや17丁目と帰すものが記すものがあるとしたが、本町16丁目305番地と記すものがあった。番地まで記されていること、航空写真でみるとその番地に塚らしい人家ではない空き地があることから、その空き地が塚本塚と考えられる。新しい塚本塚の位置で方位線をみると次のようになる。

  塚本陵―将軍塚(W0.060km、1.66度)―四明岳838m標高点(W0.1734km、0.90度)―比叡山三角点(E0.147km、0.74度)―延暦寺根本中堂(E0.414km、1.97度)の東北60度線
  岩清水八幡宮―塚本陵(E0.097km、0.44度)の東北60度線
  高野新笠陵―塚本陵(S0.075km、0.42度)の東西線
  下鴨神社(E0.188km、1.60度)―塚本陵―藤森神社(E0.070km、1.33度)の南北線
  北野天満宮―塚本陵(W0.134km、1.15度)の西北60度線
  
 樹下神社と比良天満宮は写真を見ると文字通り二つの社殿が庇を並べるように左右に並んで建っているという感じで、樹下神社の位置を比良天満宮の位置とみなしてもほとんど問題がないといえる。
 また、高山寺金堂のデータがいつの間にか無くなっていた。以前はカシミール3Dの五万分の一地図で緯度経度を取得していたのであるが、国土地理院の二万五千分の一地図で改めて緯度経度を取得しようと思ったところ、それによって得られる方位線の数字が以前とだいぶ違うことに気がついた。どちらが正しいのだろうと重い、グーグル地図で取得したところこれもまた数字が違う。五万分の一地図での緯度経度が両者の中間で、どちらかというとグーグル地図に近いという関係である。高山寺で金堂以外の建物の緯度経度はそんなに違わないので金堂だけが大きくずれて記入されているということである。グーグル地図には写真もあり、それを見るとグーグル地図が一番正確なようである。それで新たに高山寺金堂の方位線を見ると、次のようになる。
 
  高山寺金堂―塚本陵(W0.457km、2.08度)の西北45度線
  高山寺金堂―北野天満宮(km、度)の西北30度線
  出雲大神宮(S0.203km、1.31度)―愛宕山(S0.178km、2.65度)―高山寺金堂―片岡山175m付近(S0.027km、0.21度)の東西線
  貴船山(E0.053km、0.31度)―高山寺金堂―神護寺(E0.041km、2.46度)の東北45度線
  
 なお、高山寺と関係するのは本性坊尊意なので、現在の法性寺と高山寺および現法性寺からの数字も記しておく。

  高山寺金堂―現法性寺(W0.405km、1.86度)
  延暦寺根本中堂―現法性寺(W0.469km、2.24度)
  比叡山三角点―現法性寺(W0.202km、1.03度)
  四明岳838m標高点―現法性寺(E0.119km、0.62度)
  将軍塚―現法性寺(E0.006km、0.12度)
  岩清水八幡宮―現法性寺(E0.042km、0.19度)
  高野新笠陵―現法性寺(N0.011km、0.06度)
  北野天満宮―現法性寺(W0.102km、0.88度)
  比良天満宮―現法性寺(E0.312km、0.57度

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明治以降の方位線

 鈴木博之『東京の地霊』によれば、明治神宮の候補地としては代々木の御料地すなわち南豊島郡御料地以外にも、青山練兵場、陸軍戸山学校敷地、小石川植物園、白金台火薬庫跡、豊多摩郡和田堀村、さらには御岳山、富士山、筑波山、箱根離宮付近、千葉の国府台などなど、ずいぶん多くの場所が考えられたが、それら候補地のなかから代々木の御料地が選ばれた理由は、この土地を生前の明治天皇が好んでいたこと、東京の近郊で交通の便がよく、しかも自然に富んだ敷地であること、敷地内には松の大木が多く、これは神宮の境内として整備するときには上手く使えるとも判断されたこと、そして最大の理由は、ここが御料地であって、改めて買収する必要がなかったことであった、という。表面的に見ればそこに特に秘密めいたものはないが、三橋一夫『神社配置から天皇を読む』によれば、明治神宮には多摩陵→明治神宮本殿→皇居・賢所、明治神宮本殿→絵画館→迎賓館、富士山頂→明治神宮本殿→鹿島神宮という三つの直線関係があるという。明治神宮本殿→絵画館→迎賓館の直線であるが、絵画館はもとの青山離宮であり、迎賓館は赤坂離宮ということで、両方とも皇室と関係した場所なのである。
 方位線的にいえば、明治神宮の方位線上にはこれといった物語性で結びつく場所はない。しいてあげれば、武蔵二の宮金鑽神社との西北45度線、相模二の宮川勾神社との東北45度線、加波山との東北60度線であるが、これらの場所には当然、何故大宮氷川神社・寒川神社・筑波山ではないのかという疑問がわくであろう。
 
  明治神宮本殿―金鑽神社(W0.233km、0.17度)の西北45度線
  明治神宮本殿―川勾神社(E0.101km、0.10度)の東北45度線
  明治神宮本殿―加波山(E0.030km、0.02度)の東北60度線

 東京と違って京都ではある程度関連性がある場所を結ぶ方位線がある。明治以後、京都では崇徳上皇を祭神とする白峯神宮、桓武天皇を祭神とする平安神宮、天智天皇を祭神とする近江神宮が造営された。また、京都ではないがすぐ近くの大阪府島本町には承久の乱の後鳥羽上皇・後土御門上皇・順徳上皇を祭神とする水無瀬神宮も造営されている。
 白峯神社は孝明天皇が慶応二年(1866)に現在地に造営を始めたといわれるが、その年の十二月に孝明天皇は亡くなり、完成したのは慶応四年(1868)の八月で、その月の内に讃岐の崇徳上皇陵に皇霊奉迎の勅使が派遣され、翌九月に上皇の霊は京都に到着し白峯神宮に鎮座した。白峯神宮に淳仁天皇が合祀された明治六年(1873)十二月に、後鳥羽上皇・後土御門上皇・順徳上皇も水無瀬神宮に鎮座している。平安神宮は桓武天皇による平安京遷都千百年を記念して造営、明治二十七年(1894)三月に鎮座祭が行われ、近江神宮は明治中頃から動きはあったが、実際に造営されたのは昭和になってからで、昭和十五年に鎮座祭が行われた。この天皇を祭神とする四つの神社をみると、白峯神宮の西北30度線に平安神宮、東西線上に近江神宮が位置し、水無瀬神宮と近江神宮が東北45度線をつくるのである。
 なお、天皇を祭神とするものではないが、平安神宮の少し前には京都御所近くに和気清麻呂を祭神とする護王神社と三条実萬を祭神とする梨木神社が建てられるが、このうち護王神社が白峯神社と西北60度線をつくる。

  白峰神宮―平安神宮(E0.033km、0.62度)の西北30度線
  白峰神宮―近江神宮(N0.226km、1.45度)の東西線
  水無瀬神宮―近江神宮(W0.065km、0.16度)の東北45度線
  白峯神宮―護王神社(E0.019km、1.06度)の西北60度線

 神社ではないが、明治天皇陵をこれに加えると、平安神宮と明治天皇陵が南北線をつくり、水無瀬神宮と明治天皇陵が東北30度線、明治天皇陵と近江神宮が東北60度線をつくる。造られた年代順でみると、白峯神宮→平安神宮→明治天皇陵→近江神宮そして近江神宮→白峯神宮というように、方位線で作られた閉じた環になっており、また水無瀬神宮・明治天皇陵・近江神宮が方位線三角形をつくっている。

  平安神宮―明治天皇陵(W0.103km、0.67度)の南北線
  水無瀬神宮―明治天皇陵(W0.042km、0.21度)の東北30度線
  明治天皇陵―近江神宮(E0.227km、1.05度)の東北60度線

 白峯神宮と水無瀬神宮は方位線をつくらないが、水無瀬神宮は孝明天皇陵と東北45線をつくり、孝明天皇陵の方位線上に置かれたということなのかもしれない。水無瀬神宮・孝明天皇陵・近江神宮が方位線上に並ぶわけであるが、孝明天皇陵は平安神宮・明治天皇陵の南北線上にも位置している。水無瀬神宮がある水無瀬の地は後鳥羽上皇の離宮があったところで、鎌倉時代から後鳥羽上皇の肖像画を供養する御影堂があり、その本堂が本殿とされた。もともと後鳥羽上皇と関係のある場所ということで、方位線とは関係ないともいえるが、孝明天皇陵が平安神宮・明治天皇陵とも方位線をつくるということは、水無瀬神宮と孝明天皇陵の方位線も無視できないのではないだろうか。
 孝明天皇陵からの南北線は正確には明治天皇陵ではなく、隣の昭憲皇太后陵を通る。これについては、方位線については精度の高さをそれほど問題にしてこなかったが、昭憲皇太后陵を通るならどうして明治天皇陵を通るように配置しなかったのかという疑念も残る。これは、明治天皇陵と孝明天皇陵との南北線を考慮していなかったということなのかもしれなが、考えられることの一つは、地形状の制約からきたものかもしれないということである。明治天皇陵は南側に少し張り出したような所に造られており、東西及び南側からみると盛り上がったような場所にあることになり、明治天皇陵として相応しい場所にあるともいえる。それに対して、昭憲皇太后陵は明治天皇陵より一段低いところにあり、現在の配置を見る限り妥当な位置関係にあるともいえる。

  水無瀬神宮(E0.136km、0.55度)―孝明天皇陵―近江神宮(E0.071km、0.47度)の東北45度線
  平安神宮(W0.049km、0.64度)―孝明天皇陵―明治天皇陵(E0.152km、1.95度)の南北線

 水無瀬神宮・孝明天皇陵・近江神宮の東北45度線上には天智天皇陵があり、天智天皇陵は平安神宮とも西北45度線をつくるといえる。孝明天皇陵は泉涌寺の背後の月輪山の中腹にあり、泉涌寺本坊の背後の月輪御陵には四条天皇や後水尾天皇以降孝明天皇の父の仁孝天皇までの天皇・皇妃・親王の陵墓があり、その関係で孝明天皇もその近くに埋葬されたとも考えられるが、天智天皇陵・孝明天皇陵・平安神宮が方位線三角形をつくることを考えると、孝明天皇陵、さらには平安神宮が天智天皇陵の方位線上を意識して造られたとも考えられる。明治十年(1877)に治定された弘文天皇陵も天智天皇陵と東北30度線をつくっているのである。それに対して、明治天皇陵は桓武天皇陵と西北30度線をつくるといえるかもしれない。両陵は近すぎて、厳密に両陵の中心となる部分を結ぶとどういう数字が出てくるか分らないのであるが、とりあえずその中心部と中心部を結ぶ西北30度線を引くことができるので、明治天皇陵と桓武天皇陵は方位線をつくっていると考えたい。

  孝明天皇陵(E0.043km、0.78度)―天智天皇陵―近江神宮(E0.114km、1.17度)の東北45度線
  天智天皇陵―平安神宮(W0.080km、1.48度)の西北45度線
  天智天皇陵―弘文天皇陵(W0.054km、0.64度)の東北30度線
  桓武天皇陵―明治天皇陵(E0.017km、1.45度)の西北30度線

 白峯神宮と水無瀬神宮は崇道神社の方位線上に造られたといえるかもしれない。水無瀬神宮と崇道神社は東北60度線をつくり、白峯神宮と崇道神社も東北45度線をつくるともいえるのである。怨霊になった天皇を祭神とする白峯神宮と水無瀬神が、早良親王の怨霊を祭る崇道神社の方位線上に造られることもありえる話といえる。白峯神宮・上御霊神社・崇道神社の方位線関係も微妙であるが、上御霊神社と今宮神社が西北30度線をつくっていたのに対して、白峯神宮も今宮神社と西北60度線をつくり、白峯神宮と上御霊神社も方位線関係にあると考えられるのである。天智天皇と桓武天皇は怨霊とは関係ないが、平安神宮は現在の下御霊神社と東西線をつくり、近江神宮は北野天満宮と東西線をつくる。北野天満宮本殿と白峯神宮は東西線をつくるとはいえないが、白峯神宮の東西線も北野天満宮の境内を通ることから、北野天満宮・白峯神宮・近江神宮が東西線上に並ぶといってもいいかもしれない。明治天皇陵も早良親王を祭神とする藤森神社と西北60度線をつくる。

  水無瀬神宮―崇道神社(E0.023km、0.06度)の東北60度線
  白峯神宮―上御霊神社(E0.052km、2.79度)―崇道神社(E0.240km、2.33度)の東北45度線
  白峯神宮―今宮神社(E0.026km、0.73度)の西北60度線
  平安神宮―下御霊神社(N0.025km、1.08度)の東西線
  北野天満宮―白峯神宮(S0.125km、4.47度)―近江神宮(N0.100km、0.54度)の東西線
  明治天皇陵―藤森神社(E0.051km、1.61度)の西北60度線

 白峯神宮についてもう一ついえることは、下鴨神社と東北30度線、上賀茂神社とその神体山の神山と南北線をつくり、賀茂神社と結びついていることである。上賀茂神社については、平安神宮と西北60度線をつくり、神山は近江神宮と西北30度線をつくる。

  白峯神宮―下鴨神社(E0.064km、1.77度)の東北30度線
  白峯神宮―上賀茂神社(W0.025km、0.42度)―神山(W0.149km、1.55度)の南北線
  平安神宮―上賀茂神社(E0.110km、1.13度)の西北60度線
  近江神宮―神山(E0.040km、0.42度)の西北30度線

 井沢元彦『逆説の日本史 2』によれば、崇徳上皇を祭神とする白峯神宮と明治天皇の即位式・明治改元とは密接に関係しているという。慶応四年(1868)八月二十六日に明治天皇の勅使が讃岐の崇徳上皇陵に派遣され、新宮を建立したので長年の怒りを鎮めて京にお帰り下さい、という宣命を読み上げられた翌日の二十七日に明治天皇即位の礼が行われ、さらに崇徳院の霊が京都に到着し、天皇がこれを拝した九月六日の二日後の八日に明治への改元が行われたというのである。井沢元彦氏によれば、即位も改元も崇徳院のスケジュールにすべて沿っていたというのであるが、それらのことは七月十七日の江戸を東京とする詔書と九月二十日の東京行幸のための京都出発の間に起こったことであり、あるいは東京行幸も京都への崇徳上皇霊の到着を待って行われたということなのかもしれない。
 井沢元彦氏によれば、会津はまだ開城しておらず、榎本武揚率いる幕府海軍も健在である多忙で重大な時期に、明治天皇や側近の公家たちががわざわざ崇徳天皇陵まで勅使を派遣したのは、怨霊鎮魂の為であるという。白峯神宮や水無瀬神宮など明治初期の神社が崇道神社の方位線上に造られたことなど、あるいはこのことと関係してるいのかもしれない。また、その宣命には、明治天皇の周囲が、孝明天皇の死を、崇徳天皇の祟りと関連させて考えていたことがあらわれているというが、孝明天皇の死の直後から暗殺説が流れていたというから、その噂を打ち消す意味もあって、孝明天皇の死と崇徳上皇の祟りとをことさら強調しようとしたのかもしれない。
 ただ、明治天皇やその側近の公家たちが怨霊、とくに崇徳上皇の怨霊を恐れていたとしても、白峯神宮の創祀と明治天皇を巡る井沢元彦氏氏の指摘する意図的なスケジュールの調整をみると、明治天皇あるいは明治政府には、孝明天皇の遺志を継いで崇徳上皇を祭祀したという以上の、白峯神宮へ崇徳上皇が鎮座することへの何か強いこだわりがあったように思える。いくら孝明天皇の遺志に従って崇徳上皇の霊を京都に迎えるとはいえ、即位式の日程を合せることまでやるだろうかという疑問も生じる。孝明天皇にとっても崇徳上皇の怨霊を京都で祭祀することはそれほど重要な意味を持っていたとも思えないし、公家の中でも、岩倉具視のような人間が怨霊に怯えていたとは考えずらい。
 崇徳上皇は「皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪詛の言葉を残して死んでいったという。明治天皇すり替え説があるが、もしそれが本当だとすれば、南朝の後裔とは称しているが、実際には民としかいいようのない人物が、睦仁親王とすり代わって明治天皇となったということになる。それは、「民を皇となさん」という崇徳上皇の呪詛の成就であり、崇徳上皇の呪詛のおかげで天皇になれたということでもある。もしそうなら、白峯神宮の創祀は崇徳上皇の怨霊への恐れよりは、崇徳上皇の怨霊へのお礼という意味合いだったことになる。さらにいえば、勅使大納言源通富に読み上げさせた宣命では、先帝である孝明天皇の遺志を継いで、崇徳院の霊を慰めようと清らかな新宮を建立したということの他に、この頃官軍に刃向かう陸奥出羽の賊徒をすみやかに鎮定し、天下が安穏になるよう助けてもらいたい、といったことが書かれており、さらなるおねだりも忘れなかったということになる。
 もし本当の明治天皇が殺されていたとしたら、その遺体はどう処理されたのであろうか。そこらへんの路上に投げ捨てられたという可能性もあるが、おそらくそれなりに埋葬されたであろう。その場合、孝明天皇陵に密かに埋葬されたということはないだろうか。もしそうなら、孝明天皇陵の南北線上に正確にあるのが明治天皇陵ではなく昭憲皇太后陵であることも、意味をもっていることになる。

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京都の天満宮

 京都市内には菅原道真が誕生した地といわれる場所に建つ神社が、菅原道真の邸宅があった所といわれる下京区の菅大臣神社・北菅大臣神社、菅原氏の氏寺吉祥院に朱雀天皇の承平四年(934)大宰府から道真の神霊を遷して霊廟を建てたのが始まりという南区吉祥院政所町の吉祥院天満宮、京都御苑の下立売御門近くの菅原院天満宮神社がある。他にもあるかもれないが、有名なところとしてはこの三ヶ所ということができるであろう。これら三ヶ所の神社はそれぞれ北野天満宮と菅大臣神社・北菅大臣神社が西北60度線、吉祥院天満宮が南北線、菅原院天満宮神社が西北30度線をつくる。またその三ヶ所のうち、吉祥院天満宮と北菅大臣神社は東北60度線をつくっている。

  北野天満宮―北菅大臣神社(E0.035km、0.54度)―菅大臣神社(W0.064km、0.95度)の西北60度線
  北野天満宮―吉祥院天満宮(W0.101km、0.90度)の南北線 
  北野天満宮―菅原院天満宮神社(W0.032km、0.73度)の西北30度線
  吉祥院天満宮―菅大臣神社(E0.202km、3.20度)―北菅大臣神社(E0.112km、1.70度)の東北60度線

 長岡天満宮には道真誕生の地という伝承はないが、道真の領有するところだったといわれ、道真が在原業平らと共に、しばしば遊んで詩歌管弦を楽しんだという。菅原院天満宮神社と長岡天満宮が東北60度線をつくる。

  菅原院天満宮神社―長岡天満宮(W0.344km、1.56度)の東北60度線

 菅原道真は北野天神縁起では火雷神とされており、角宮乙訓神社は上賀茂神社の別雷神の父親とされる火雷神を祭神とするが、角宮乙訓神社旧鎮座地と菅大臣神社・北菅大臣神社が東北45度線をつくる。角宮乙訓神社旧鎮座地は延暦寺根本中堂・比叡山と東北45度線をつくっていたが、菅大臣神社と北菅大臣神社の東北45度線の間に比叡山三角点と延暦寺根本中堂があり、菅大臣神は延暦寺根本中堂と、北菅大臣神社は比叡山三角点とより正確に方位線をつくる。

  旧角宮乙訓神社付近―菅大臣神社(E0.188km、1.16度)―北菅大臣神社(E0.059km、0.36度)の東北45度線
  延暦寺根本中堂―菅大臣神社(E0.014km、0.07度)の東北45度線
  比叡山三角点―北菅大臣神社(W0.048km、0.27度)の東北45度線

 上賀茂神社・下鴨神社と天満宮の関係をみると、上賀茂神社ではなく、上賀茂神社の摂社で地主神とされる片山御子神社(片岡神社)の神体山の片岡山が浮かびあがり、片岡山の東北60度線上に北野天満宮があり、菅大臣神社・北菅大臣神社は上賀茂神社ではなく、片岡山とより正確な南北線を作っている。片岡山と下鴨神社も上賀茂神社ではなく片岡山と西北60度線を作っていたが、長岡天満宮・菅原院天満宮神社が下鴨神社と東北60度線をつくる。また、菅原氏は大和国菅原邑、現在の奈良市菅原町あたりがもともとの出身地とされ、現在菅原町には「菅家発祥之地・菅公御誕生所」の石碑が建つ菅原天満宮があるが、この菅原天満宮と下鴨神社も南北線をつくる。御陰神社は下鴨神社のみあれ祭りである御蔭祭が行われる場所であるが、北野天満宮は御陰神社とも東北30度線をつくり、御陰神社と片岡山が東西に並び、方向線をつくっている。

  片岡山―北野天満宮(W0.01km、0.15度)の東北60度線
  片岡山―北菅大臣神社(W0.035km、0.31度)―菅大臣神社(W0.040km、0.34度)の南北線
  上賀茂神社―北菅大臣神社(E0.315km、2.79度)―菅大臣神社(E0.310km、2.67度)の南北線
  下鴨神社―菅原院天満宮神社(W0.030km、0.69度)―長岡天満宮(W0.374km、1.42度)の東北60度線
  下鴨神社―菅原天満宮(E0.497km、0.73度)の南北線
  御陰神社―北野天満宮(W0.201km、1.57度)の東北30度線
  片岡山―御陰神社(N0.175km、2.22度)の東西線

 片岡山・御陰神社は出雲大神宮とその神体山の御影山・愛宕神社・愛宕神社が愛宕山に遷る以前にあったという釈迦谷山・上賀茂神社がつくる東西線上に位置しているわけであるが、菅大臣神社・北菅大臣神社は愛宕神社の西北30度線上に位置しており、吉祥院天満宮も愛宕神社と西北45度線をつくり、また釈迦谷山の西北60度線方向に菅原院天満宮神社がある。これを見ると、愛宕神社との結びつきも深く、また下鴨神社も釈迦谷山と西北30度線を作っていたから、釈迦谷山・下鴨神社・菅原院天満宮神社が方位線三角形を作っているわけである。長岡天満宮は出雲大神宮神体山の御影山と西北60度線を作っている。

  愛宕神社―菅大臣神社(W0.145km、0.65度)―北菅大臣神社(E0.021km、0.09度)の西北30度線
  愛宕神社―吉祥院天満宮(W0.362km、1.57度)の西北45度線
  釈迦谷山三角点―菅原院天満宮神社(E0.208km、2.17度)の西北60度線
  御影山335m標高点―長岡天満宮(E0.597km、1.90度)の西北60度線

  北野天満宮と早良親王を祭った塚本社が東北60度線で結ばれているとしたが、道真と法性寺がともに法性坊尊意と関係する事を考えると、塚本社ではなく法性寺と北野天満宮の方位線として考えるべきかもしれない。塚本社は法性寺の境内内にあったわけであり、当時の法性寺の伽藍配置は確認していないが、すくなくとも現在の法性寺と北野天満宮は東北60度線をつくっている。そして、醍醐寺と現法性寺が西北30度線をつくる。当時の法性寺も醍醐寺・北野天満宮と方位線と作っていたと考えていいのではないだろうか。そうすると、下鴨神社・醍醐寺・法性寺が方位線三角形をつくり、それぞれが比叡山・延暦寺と方位線で結ばれているわけである。尊意は十一才で栂尾山高山寺に入山し、数年間修行して法力を得たというが、高山寺も出雲大神宮と愛宕神社・上賀茂神社の東西線上に位置していた。高山寺と北野天満宮も金堂と本殿では方向線であるが、高山寺・北野天満宮を面と捉えるなら方位線をつくるといっていいであろう。高山寺と法性寺も西北45度線をつくっていた。

  醍醐寺准胝堂―現法性寺(E0.096km、0.77度) ―塚本陵(E0.028km、0.23、度)の西北30度線
  高山寺金堂―北野天満宮(W0.228km、2.08度)の西北30度線

 北野天満宮と西北60度線をつくる菅大臣神社・北菅大臣神社は忠平の建てた法性寺と北野天満宮の西北60度線上に在ることになるが、より正確にみると現法性寺と菅大臣神社が方位線をつくっている。比叡山・延暦寺根本中堂でみると、法性寺は東北60度線をつくり、菅大臣神社・北菅大臣神社は東北45度線をつくるということになる。また、奈良市菅原の菅原天満宮は法性寺と南北線をつくっているともいえるわけである。

  現法性寺―菅大臣神社(E0.038km、0.80度)―北菅大臣神社(E0.137km、2.71度)の西北60度線
  現法性寺―菅原天満宮(E0.698km、1.23度)の南北線

 北菅大臣神社のまたすぐ北に将門の首を晒した所という神田神宮がある。そうすると、将門の首は道真の邸宅のすぐ傍に晒されたということになり、これは意図的なものであったということもいえるのではないだろうか。また、竹村俊則『昭和京都名所圖會』によれば、道真の邸宅は道真没後も菅原家の領有するところであり、道真の苗裔の高辻家・五条家はいずれもその付近に住したので地名を負うて姓としたというから、将門の首を東京の将門塚まで運んだのは、道真の関係者というともありえるわけである。神田神宮の場所が将門の首の晒された所というのは、後代に生じた伝承かもしれないが、そのような伝承が生じる素地として、近くに道真の邸宅があったということがあったのかもしれない。比叡山の四明岳頂上には将門と純友がその岩の上で反乱を語らったという将門岩があるが、将門岩と神田神宮も東北45度線をつくる。

  将門岩付近―神田神宮(E0.119km、0.71度)の東北45度線

 法性坊尊意は八瀬天満宮を創建したと伝えられているが、尊意と結びつく天満宮として他に水火天満宮がある。由緒では古くは水火天神社とも呼ばれ、「当社由緒書・家系図には、『洛陽一条上る下り松の霊地に、雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に、延暦寺の尊意僧正に勅命ありし、日の本最初の天満宮の勧請の最初なり』とあります。都の水害・火災を鎮める為に、第六十代 醍醐天皇の勅願で、道真公の師でもあった延暦寺の尊意僧正(第十三代天台座主 法性坊尊意僧正)に命じられ、延長元年(923年)六月二十五日、『水火の社天満自在天神宮』という神号の勅許を醍醐天皇より賜り、水火社天神天満宮として、菅原道真公の神霊を勧請し建立されました。現在は、下記の通り移転しておりますが、この西陣下り松の地は、尊意僧正の別邸であり、僧正下山の際の滞在し、菅公と会見した縁故深き土地である為、ここに奉祀することになった」 (http://www6.ocn.ne.jp/~su-i-ka/)という。尊意と醍醐天皇に関係する天満宮ということになる。  水火天満宮が創建され、醍醐天皇より神号を与えられたという延長元年(923) 六月二十五日は、皇太子の保明親王が死んだ数ヶ月後であり、翌延長二年(924)に法性寺が忠平によって建立されている。水火天満宮の場所が尊意の別邸があったところかどうかは別にして、皇太子保明親王の死を契機にして、尊意も深く関わる形で水火天満宮と法性寺が建てられたということであろう。尊意が創祀したとされる八瀬天満宮が北野天満宮より古いという伝承があったが、水火天満宮も延長元年(923)ということで、承平四年(934)の吉祥院天満宮・天暦元年(947)の北野天満宮より古い神社ということになる。  片岡山・下鴨神社の南北線上に天満宮があったが、水火天満宮旧鎮座地は上賀茂神社神体山の神山と南北線をつくる。水火天満宮の現在地は、戦後堀川通が重要幹線道路となる拡張工事の際、堀川通りを挟んだ西側の上天神町より現在の扇町に移転したものだというが、上天神町内での堀川通は現鎮座地のすぐ西側一帯の限られた範囲であり、神山の南北線上の範囲内にあるといえるのである。一応、現水火天満宮の西側で堀川通の真中あたりを水火天満宮旧地付近としても、そんなに離れてはいないであろう。

  神山―水火天満宮旧地付近(E0.005km、0.06度)の南北線

 旧水火天満宮は御陰神社と東北30度線をつくるが、御陰神社と八瀬八幡宮も東北60度線をつくる。八瀬八幡宮はもともとは山王社があったところに道真も祀られるようになったのであるが、山王社ということは日枝大社と同じように賀茂神社の神を祭神としていたということである。水火天満宮と北野天満宮は直接方位線をつくらないが、北野天満宮も御陰神社の東北30度線上に位置していた。御陰神社の東北30度線上に水火天満宮と北野天満宮があるわけである。また、旧水火天満宮は角宮乙訓神社旧鎮座地とも東北60度線をつくる。

  御陰神社―水火天満宮旧地付近(E0.033km、0.33度)の東北30度線
  御陰神社―八瀬八幡宮(W0.056km、1.19度)の東北60度線
  旧角宮乙訓神社付近― 水火天満宮旧地付近(E0.232km、1.10度)の東北60度線

 上御霊神社には火雷神も祭神として祀られており、上御霊神社と八瀬八幡宮が東北45度線をつくっていたが、旧水火天満宮も上御霊神社と東西の方位・方向線をつくっていたかもしれない。おそらく境内を含めて考えれば方位・方向線が成立していたと考えられるのである。少なくとも、両社は東西に並ぶ神社として意識されていたかもしれない。

  上御霊神社―水火天満宮旧地付近(S0.034km、2.12度)の東西線

 米原町上丹生から下丹生に少し下がった、山が丹生川に迫ったあたりにいぼとり公園があり、その中に法性坊尊意が産湯を浸かった泉であるとされる「法性坊初(うぶ)洗(あら)いの水」というのがあり、また、法性坊の父母が子宝を願って祈ったということから、このあたり一帯を「子祈(こね)り山」といっているという。尊意に関しては高山寺と法性寺の西北30度線、法性寺と比叡山・延暦寺の東北60度線という方位線網が考えられるわけであるが、いぼとり公園と法性坊初洗いの水は延暦寺根本中堂からの東北30度線上にあり、尊意はその出生から比叡山と方位線的に結びついていたといえる。尊意は一種の超能力があったようであるが、その超能力は方位線的とも結びついていたのかもしれない。尊意出生伝承地と延暦寺の東北30度線の延長線上に下鴨神社があるといえ、その下鴨神社と法性寺が南北線、また下鴨神社と片岡山が西北60度線をつくり、片岡山と高山寺が東西線をつくるわけである。

  いぼとり公園付近―延暦寺根本中堂(W0.251km、0.27度)―下鴨神社(W0.309km、0.29度)の東北30度線
  出雲大神宮(S0.175km、0.62度)―愛宕神社(S0.150km、0.77度)―高山寺金堂―釈迦谷山三角点(N0.028km、0.35度)―上賀茂神社(S0.078km、0.65度)―片岡山(S0.027km、0.21度) ―御陰神社(N0.148km、0.72度)の東西線

 京都の道真誕生の伝承のある天満宮の地は、道真あるいはその父親などがもともと所領していた場所とされ、奈良の菅原天満宮は菅原氏の祖地であったのに対し、高槻市の上宮天満宮のある天神山あるいは日神山(ひるがみやま)と呼ばれる丘陵は、菅原氏などの土師氏の祖である野見宿禰の墳墓と伝わる宿禰塚古墳があり、その上には野身神社がある。野身神社は高槻市野見町の野見神社とともに『延喜式神名帳』に記載される摂津国島上郡野身神社の論社とされている。日神山では銅鐸も発見されており、社伝では太古に日の神である武日照命が天降って鎮座されたという。上宮天満宮は正暦四年(993)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として太宰府へと赴いた菅原為理が、菅公の御霊代と菅公自筆の自画像を奉じての帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動かず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。社伝では実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされているが(http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/oosaka/takatsukisi/jyogutenmangu/jyogutenmangu.html)、それでは943年頃となり、二番目に古い古社とはならないが、延長五年の927年創建ともいわれ(http://fishaqua.gozaru.jp/osaka/takatsuki/jyougu/text.htm)、それなら水火天満宮より新しいが二番目に古い古社というのもあながち間違いな表現とはいえないかもしれない。上宮天満宮は菅大臣神社・北菅大臣神社と東北45度線をつくる。すなわち、比叡山・延暦寺根本中堂の東北45度線上に位置するわけである。ノミノスクネはトミノスクネであり出雲神族であったとするなら、やはりその方位線上にある角宮乙訓神社が重要かもしれない。また、上宮天満宮は出雲大神宮とその神体山の御影山と南北線をつくり、また釈迦谷山とも東北60度線をつくる。

  高槻市上宮天満宮―菅大臣神社(W0.134km、0.34度)―北菅大臣神社(W0.264km、0.68度)―旧角宮乙訓神社(W0.323km、1.43度)―比叡山三角点(W0.261km、0.38度)―延暦寺根本中堂(W0.148km、0.26度)の東北45度線
  高槻市上宮天満宮―御影山335m標高点(W0.241km、0.54度)―出雲大神宮(W0.455km、1.17度)の南北線
  高槻市上宮天満宮― 釈迦谷山三角点(W0.043km、0.09度)の東北60度線

 上宮天満宮をさらに西に下ると大阪天満宮がある。太宰府の太宰権帥に左遷された菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後太宰府に向ったが、天暦三年(949)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢が金色の霊光を放つので、この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として同年村上天皇の勅願によって大将軍社の森に創祀されたと伝える(http://www.tenjinsan.com/tenmangu.html)。大阪天満宮と水火天満宮が東北60度線をつくる。また醍醐寺とも東北45度線をつくる。現在境内摂社となっている大将軍社は ウィキペディアによれば八衢比古神、八衢比売神、久那斗神を祀るという。岡崎神社の大将軍社には久那斗神が祀られていたのではないかとしたが、大将軍社と出雲神族の関係をうかがわせて興味深い。大阪天満宮と水火天満宮が東北60度線上に火雷神を祀る角宮乙訓神社旧鎮座地がある。三輪山と生駒山北嶺巨石遺構が西北45度線をつくっていたが、生駒山北嶺巨石遺構と大阪天満宮とが東西線をつくる。その東西線を延長すると秋篠寺がある。秋篠寺は上宮天満宮とも西北45度線をつくっている。また、丹後の籠神社・出雲大神宮・東大寺の西北60度線上に在った京都の神奈備山は船岡山とともに平安京の南北中心軸を作っていたが、大阪天満宮は神奈備山と東北30度線をつくる。神奈備山は醍醐寺とも東北60度線をつくり、神奈備山・醍醐寺・大阪天満宮が方位線三角形を作っているわけである。

  大阪天満宮―旧角宮乙訓神社(W0.273km、0.50度)―水火天満宮旧地付近(W0.041km、0.05度)の東北60度線
  大阪天満宮―醍醐寺准胝堂 (E1.350km、1.90度)の東北45度線
  大阪天満宮―生駒山北嶺巨石遺構(S0.120km、0.47度)―秋篠寺(N0.789km、1.89度)の東西線
  秋篠寺―高槻市上宮天満宮(W0.169km、0.40度)の西北45度線
  大阪天満宮―京都神奈備山(W0.428km、0.58度)の東北30度線
  京都神奈備山―醍醐寺准胝堂(W0.227km、0.74度)の東北60度線

  下京区間之町通花屋町下ル西側天神町の文子天満宮の社伝では、この地は道真の乳母多治比文子の宅址とつたえ、道真の没後邸内に小祠を建てて祀ったのが起こりとしている。文子天満宮もまた現法性寺と北野天満宮の西北60度線に位置している。

  現法性寺(W0.027km、0.91度)―文子天満宮―菅大臣神社(E0.011km、0.61度)―北菅大臣神社(E0.110km、5.27度)―北野天満宮(E0.075km、0.88度)の西北60度線

 文子天満宮を文子の家の在った所とすることには問題があるようである。竹村俊則『昭和京都名所圖會』では、社伝に「慶長七年(1602)東本願寺創建の際、その寺領地となり、宣如上人により自筆の神号と名号を奉納された」とあり、今も什宝として所蔵されているが、「多治比文子の家は右京七条二坊と伝え、西靱負小路七条(七条通西大路東入ル、西七条西野町北部)にあたる。そこにも旧宅地に因んで行衛天満宮が創祀された。今は西七条御領町の綱敷天満宮に合併されている。従って文子天満宮とは、東本願寺によっ勧請されたものであろう。しるして後勘を俟つ。」とある。
  行衛天満宮元々は「靱負天満宮」が正しいとされ、平安京の右京を南北に通る「西靱負小路」に面していたことから名付けられたとされる(http://kaiyu.omiki.com/tuna/tuna.html)。行衛天満宮付近にも道真の別荘があったという伝承があるようである。境内由緒書に「網敷天満宮・行衛天満宮、弐社に別れ共に西七条村に奉斎せられしを、 昭和九年合弁をなし現在地に鎮座したるものにして網敷天満宮に関する古記録によれば付近に高さ数十丈枝葉四方に繁茂し、 山の如く見ゆる榎あり世人榎の森と称したり、 この森の傍らに広大な菖蒲池あり四季を通し花絶えざる景勝の地たり、 乳母文子七条村より出て仕うを以て道真公には白太夫なる者を随えしばしばこの地に遊び、 この森を閑静の勝地と称し別荘を建て菖蒲池にて御舟遊あり里人の調進せし網を舟網として、 慰みあるいはこの寄船の網を円座としその上に座し詩歌を詠み給いしが里の童これを真似せしかば扨も優しき童なり、 それほど我を尊む事なれば我姿を残し置かむと網敷の御像を自ら描きその父子に与えたり、 後冤罪のため筑前に下らせ給いても帰洛の勅命なき身の京洛を思いて、 先に里人に与えし画像を形見となし榎の森に祀るべしと白太夫に命じて文子に告げらる文子小祠を建てんとせしも公を憚り為し得ず討ち過ぎたりしに或夜夢に 『この所に来も身を入るべき宿なし疑わすして我が住居を作るべし』と託宣ありついに一字を建立し榎寺と名づけ広大なる地域を有し霊験顕著なり。」(http://www.kamimoude.org/jinjya/kyoto-city/shimogyou/si-amishi/)とあるという。 
 西靱負小路は現在の天神通で西野町の東側を区切る通りであり、行衛天満宮の旧地は正確にはわからないので、その通りに面していたということであろうから、安阿弥寺東北隅から行衛天満宮はそんなに離れてはいなかったであろう。とりあえずその地点を基にして考えるとことにするが、天神通を北に行くと北野天満宮があり、吉祥天満宮と北野天満宮の南北線上に在ったことになる。北野天満宮の南門を経て吉祥院天満宮に通じる西靱負小路を通って道真は吉祥院に通ったという伝承があるようである。また、その東北30度線上に菅大臣神社があることになる。長岡天満宮とも東北60度線を作る。ただ、下鴨神社とは方向線を作るといえるかもしれないが、菅原院天満宮神社とは方位線を作らない。長岡天満宮が御影山と西北60度線を作るのに対して、行衛天満宮は出雲大神宮とその神体山である御影山、正確には出雲大神宮と西北30度線を作る。

  北野天満宮(E0.058km、0.72度)―行衛天満宮付近―吉祥院天満宮(W0.043km、1.34度)の南北線
  行衛天満宮付近―菅大臣神社(W0.064km、1.61度)―北菅大臣神社(W0.225km、5.41度)の東北30度線
  長岡天満宮(W0.081km、0.54度)―行衛天満宮付近―菅原院天満宮神社(E0.263km、3.79度)―下鴨神社(E0.293km、2.6度)の東北60度線
  行衛天満宮付近―御影山335m標高点(W0.158km、0.57度)―出雲大神宮(W0.395km、1.40度)の西北30度線

 行衛天満宮についても文子の家のあったところとするには問題がある。文子は右京七条二坊十三町の人といわれており、当時の表記の仕方は朱雀通側の北側隅から南へ数えていき、次は南から北、さらにまた北から南と数えていくというのであるから(http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi03.html)、右京七条二坊十三町は西南隅の町で、南を七条大路、北を北小路、東を野寺小路、西を道祖大路で囲まれていたということになる。行衛天満宮よりさらに西に在ったわけである。野寺通は現在の西大路通、道祖大路は佐井(春日)通とされているが、まったく元のままというわけではない。平安京は一町の幅が約120mに固定され、それに道幅が加えられていくという設計だったので、右京七条二坊十三町の東西の中心は朱雀通の中心から1080m離れていたということになる。それで、とりあえず大極殿の南北軸から1080mで安阿弥寺東北隅の真西の地点を右京七条二坊十三町の基点として見てみることにすると、文子の家は行衛天満宮より正確に出雲大神宮とその神体山である御影山335mと西北30度線を作っていたと考えられる。長岡天満宮とも東北60度線を作っていたと考えられるが、菅原院天満宮神社・下鴨神社とはまったく方位線的に関係しない。なお、上御霊社とも東北60度線をつくっていたとも考えられる。また、菅大臣神社ではなく北菅大臣神社と東北30度線、神田神宮と同方位・方向線を作っていたとみなせる。文子の邸宅跡の場所ははっきりしないわけであるが、すくなくとも菅大臣神社か北菅大臣神社のどちらかとは方位線をつくっていたとみなしていいのではないだろうか。菅大臣神社が白梅殿の跡といわれ、北菅大臣神社は紅梅殿の跡で道真が「東風吹かばにおいおこせよ梅の花」という有名な和歌を詠んだところといわれ、大宰府の道真と京を結ぶ場所であり、京への道真の思い・念が籠もった場所と将門が晒し首にされたとされる場所からの方位線と出雲神族にとっても最も重要な聖地の一つといえる出雲大神宮からの方位線が交わる所で、そのような将門・道真・出雲神族が一つになった場所に住む文子に、道真からの託宣が降ったわけであり、道真を祀るにふさわしい場所だったといえる。

  右京七条二坊十三町中心付近―御影山335m標高点(E0.049km、0.18度)―出雲大神宮(W0.188km、0.68度)の西北30度線
  長岡天満宮(E0.276km、1.87度)―右京七条二坊十三町中心付近―上御霊社 (W0.132km、1.28度)の東北60度線
  右京七条二坊十三町中心付近―菅大臣神社(E0.142km、3.08度)―北菅大臣神社(W0.019km、0.40度)―神田神宮(W0.083km、1.73度)の東北30度線

 文子の家は高山寺金堂の西北60度線上にあったかもしれない。少なくとも方向線は作っていた可能性が高い。高山寺の境内を考えるなら、文子の家と高山寺は西北60度線の方位線を作っていたといえるであろう。高山寺高山寺を中心に考えると、まず高山寺の西北45度線上に法性寺があり、次に高山寺の東北60度線上の文子の家に道真が祀られ、それから高山寺からの西北30度線と法性寺からの西北60度線が交わる場所に北野天満宮が建てられたわけである。北野天満宮の場所に祀るというのは忠平あるいは生前の尊意の意向で、その意向に沿うように右近の馬場に祀れというのは後から付け加えられたのかもしれない。

  右京七条二坊十三町中心付近―高山寺金堂(W0.243km、1.50度)の西北60度線

 行衛天満宮が文子の家の在った所とされていったのは、文子の家の近くであったということもその理由の一つであろう。文子が右京七条二坊十三の人だったということが多くの人には忘れ去られ、文子の家の場所も曖昧なものになり、また文子の小祠が北野に遷った後にも文子の家には祠だけが残ったと人々が思い込んでも、それは十分ありうることであるから、その祠が行衛天満宮だとされていくこともまた考えられる。さらにいえば、天暦元年(947)北野天満宮が創建され、天暦五年(951)文子の小祠が北野に遷されたというが、北野に遷った場所と考えられる天満宮元社が天神通に面していることから、道真が北野から西靱負小路を通って吉祥院に通ったという伝承が出来たことなどを考えると、文子の家も西靱負小路に面していたと人々が思い込むようになり、同じ西靱負小路に面し、またもともとの文子の家近くということから、行衛天満宮に文子の家の跡という伝承が生じたのではないだろうか。  行衛天満宮にはもう一つ不可解なことがある。インターネットで行衛天満宮を調べると、西靱負小路は猪隈通とも呼ばれているという記述が多い。おそらく出所は同じで、網敷天満宮・行衛天満宮の説明板か由来書にそう書かれているのかもしれないが、西靱負小路と猪隈小路はまったく違う道であり、朱雀大路を挟んで東西にある道で、混同されるような関係ではない。そのような西靱負小路と猪隈小路の混同がどうして生じたのであろうか。西靱負小路と猪隈小路は朱雀大路を挟んで東西にあるとしたが、単に東西に分かれているのではなく、朱雀大路を中心に対称的な位置にあるのであり、それぞれ東西の市の真中を通る道である。西の市の真中を通る道が七条大路とぶつかる当たりに行衛天満宮が建てられたとすれば、かつては東の市の真中を通る猪隈小路と七条大路がぶつかる辺りにも天満宮があったのではないだろうか。もしそうだとすると、それは行衛天満宮と対になる天満宮で、西靱負小路と猪隈小路の混同はその二つの天満宮の混同ということになり、猪隈小路の天満宮が失われるとともにそのような混同が生じてきたのではないだろうか。  猪隈小路に面して天満宮があったとしたら、その喪失には本願寺が関係しているかもしれない。猪隈通は現在の猪熊通で西本願寺で遮られているが、本来は西本願寺の真ん中を南北に通っていたということになる。現在の龍谷大学の東側の道であり、秀吉により本願寺が大阪より移された際その境内に含まれることになった天満宮も移され、遷座した地が、現在の下京区間之町通花屋町下ル西側天神町の文子天満宮とも考えられる。やがて家康により本願寺が西と東に分けられ、宣如上人が家光により渉成園一帯が与えられた時、東西に分かれる以前の本願寺と縁がある神社ということで、宣如上人により自筆の神号と名号を奉納されたということなのではないだろうか。それには、東本願寺こそ本当の本願寺という自己主張が込められていたのかもしれない。もし文子天満宮が西本願寺の場所所から遷座したものだとすると、行衛天満宮が同じ七条二坊で文子の家の近くということから文子の家が在った場所という伝承が生じ、また行衛天満宮と猪隈小路に面した天満宮が対の天満宮と意識されていたことから、現在の下京区間之町通花屋町下ル西側天神町の文子天満宮にも文子の邸宅跡という伝承が生じたということではないだろうか。  猪隈小路に天満宮が在ったのではないかと考えるもう一つの理由は、西靱負小路の北に北野天満宮が在るのに対して、猪隈小路の南北線上に水火天満宮があることである。もっとも道路という点から見ると、現在の水火天満宮は堀川通に面している。堀川通は江戸時代にはこの神社で道路が終わっていたという(http://blog.z-plus.net/?eid=362)。しかし、堀川通は水火天満宮のあたりで西すなわち猪隈小路側に曲がっており、平安時代に水火天満宮まで堀川通が延びていたかも疑問であり、西靱負小路と猪隈小路の対称性からいって、水火天満宮と猪隈小路の南北軸が意識されていたということも十分可能性があるのではないだろうか。水火天満宮は文子天満宮元社と東北45度線で結ばれている。北野天満宮自体は醍醐寺と法性寺との方位線が優先されたので、もともとの文子が祀った小祠を移転させ、水火天満宮と方位線で結び付けたのではないだろうか。水火天満宮と文子天満宮元社が結びつくことから、水火天満宮の南北線上にある猪隈小路も文子と結びついたのかもしれない。文子天満宮元社は下鴨神社・延暦寺根本中堂の東北30度線の延長線じょうにあり、すなわち尊意の誕生伝承地とも東北30度線をつくるわけである。

  文子天満宮元社―水火天満宮旧地付近(E0.072km、1.82度)の東北45度線
  文子天満宮元社―下鴨神社(E0.081km、1.16度)―延暦寺根本中堂(E0.138km、0.71度)―いぼとり公園付近(E0.390km、0.35度)の東北30度線

 文子天満宮には錦天満宮の旧社地と重なる可能性も指摘されている。中京区錦小路通新京極にある錦天満宮は、長保五年(1003)菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まり、天正十五年(1587)秀吉により寺とともに現在地に移転したという。この場合、六条河原院の場所についての混乱した情報が問題であろう。ウィキペディアでは六条河原院は六条大路と六条坊門小路、東京極大路と萬里小路に囲まれた4町、一説では8町の広大な敷地で、融の死後、子の昇が宇多上皇に献上して仙洞御所となり、跡地の一部には江戸時代に渉成園が作られたという。もし渉成園が六条河原院の跡地であるとするなら、文子天満宮は渉成園の西北すぐの所であるから、歓喜寺鎮守の天満天神に関係するかもしれないわけである。ただ、六条河原院は六条大路と六条坊門小路、東京極大路と萬里小路に囲まれていたとすると、渉成園は六条大路より南にあるのであるから、渉成園を六条河原の跡地とすることには無理がある。源融は東京極大路を挟んで隣り合う鴨河原の邸の2つを所有していたという説もある。そうすると合わせて8町ということもありえることになるが、京内の邸が東六条院(略して六条院とも)、鴨河原の邸が河原院と呼ばれ、東六条院は、宇多上皇の仙洞御所である中六条院(六条三坊十三町)との区別から付いた呼称であるという(http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/142168/113097/63556880?page=2)。なお、竹村俊則『昭和京都名所圖會』では菅原院天満宮について菅原院の邸址に公の没後一宇を建立し、歓喜光寺と号したが、寺は後世六条河原院に移転したが神社のみが残ったとある。歓喜寺は歓喜光寺のこととして、移転後改めて移転先にも神社が建てられたのが現錦天満宮の前身ということなのであろうか。

 比良宮については、江戸時代の「近江国興地志略」では、北比良村の天満神社は北野天満宮が創建される以前からあつたと記されていたが、一般には白鬚神社いわれているらしい。ただ、神良種その人は比良(北比良村・南比良村)の人であるという。また樹下神社の由緒には 「創祀年代不詳であるが、社伝に開化天皇歳次四十二年比良大峰に降臨霊跡を垂れ山上に社を建てこれを祀った、とあり。 又一説に文徳天皇仁寿二年(852)創立とも、比良大明神の招請により山王十禅師を勧請したとも伝えられる。これを按ずるに住古は比良神を産土神と祀っていたが、平安前期に延暦寺の勢力により日吉山王の神を祀ったものと考えられる。」とあるといい (http://japan-geographic.tv/shiga/otsu-hira-tenmangu.html) 、これによば尊意と良種のあいだに関係性があった可能性もあるわけである。白鬚神社より樹下神社のほうが比良山の麓に在り、もともと比良山の祭祀に関係していたとすれば、比良宮を樹下神社の前身とする方が自然なのではないだろうか。神良種が比良の人であったとすれば、どちらにしても神良種と比良は結びつくわけである。また、神良種が白鬚神社の神主であったとすると、出雲神族の神良種がどうして白鬚神社にかかわっていたのかが問題になるし、それは白鬚神社がもともとは出雲神族と結びつく神社だった可能性を示しているかもしれないわけである。方位線的にみても、白鬚神社は出雲大神宮と東北30度線を作り、上賀茂神社と東北45度線をつくる。ただ、出雲大神宮とは比良天満宮の方が正確な東北30度線を作っている。それに対して比良天満宮からの東北45度線は上賀茂神社と神体山の神山の中間あたりを通り、神山とは方位線、上賀茂神社とは方向線をつくるともいえるが、上賀茂神社に対しては白鬚神社のほうが正確な方位線をつくっているともいえる。

  白鬚神社―御影山335m標高点(E1.175km、1.47度)―出雲大神宮(E1.171km、1.46度)の東北30度線
  比良天満宮―御影山335m標高点(W0.480km、0.74度)―出雲大神宮(W0.483km、0.74度)の東北30度線
  白鬚神社―上賀茂神社(E0.297km、度)の東北45度線
  比良天満宮―神山(W0.716km、1.74度)―上賀茂神社(E0.880km、2.02度)の東北45度線

  上御霊神社は井上内親王・他戸親王さらには早良親王を祭るところから始まったといわれるが、法性房尊意の名前からとられたともいう法性寺境内には早良親王の塚本陵があった。そして、その南北線上には光仁天皇が井上内親王・他戸親王の怨霊を恐れて勅願寺にしたという秋篠寺がある。秋篠町は菅原氏と同族の秋篠氏の本拠地で菅原氏の本拠地菅原とは隣接している。法性寺が建立されたのはだいぶ後であるから、光仁・桓武の頃でいえば、下鴨神社・塚本陵・秋篠寺の南北線になるわけである。

  秋篠寺―藤森神社(W0.364km、0.76度)―塚本陵(W0.434km、0.81度)―下鴨神社(W0.246km、0.38度)の南北線

 秋篠寺は光仁天皇が創建したとも、もともとは秋篠氏の氏寺であったともいわれる。どちらにしても、光仁天皇が勅願寺にした時には早良親王はまだ怨霊ではないし、塚本陵もその傍の塚本社も存在しなかった。そうすると、下鴨神社と秋篠寺の南北線ということになる。光仁天皇は天智系で、大津京での天智天皇は上賀茂神社・下鴨神社を重要視したのであるから、光仁が下鴨神社の南北線上に勅願寺を置いたのも何となく理解できる。しかし、その南北線上でも何故秋篠の地だったのであろうか。考えられことは秋篠寺が平城京大極殿の西北30度の方向線上にあることである。それに対して桓武の時には平安京大極殿の西北60度線上に塚本陵と早良親王を祭った塚本社があったわけであり、さらにその後光平安京大極殿の東北45度線条に上御霊神社・崇道神社が建てられわけである。

  平城京第二次大極殿―秋篠寺(E0.103km、2.57度)の西北30度線
  平安京大極殿―塚本陵(E0.013km、0.14度)の西北30度線

 秋篠寺が平城京大極殿の方位線上にあるといっても、下鴨神社の南北線と平城京大極殿からの方位線が交わる地点はそこばかりではない。七つの候補地の中から秋篠寺が選ばれたのは、単に平城京大極殿からの方位線上にあるということばかりではなく、他にも理由があったことも考えられるのである。秋篠氏は桓武の母の高野新笠の母方の大枝氏と同族であったことも関係しているのかもしれない。ただそればかりでなく、土師氏の大枝氏・秋篠氏・菅原氏が出雲神族であることも関係しているのではないだろうか。『本朝皇胤紹運録』では、井上内親王・他戸親王が獄中で亡くなった後、龍になって祟って出たと記しているといい(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1149221753029/)、『愚管抄』にも井上内親王は怨霊となって祟り、竜に変身して藤原百川を蹴殺したと書かれてるという(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1149221753029/)。秋篠・菅原が出雲神族の秋篠氏・菅原氏の本拠地であったということは、当時その地が龍神と結びつく場所とみなされていたのではないだろうか。もともと出雲親族と関係し龍神と結びつく下鴨神社の南北線上にあり、その地もまた龍神と結びつく場所として捉えられていたから、秋篠の地に勅願寺を置くことによって龍となった井上内親王・他戸親王の怨霊に龍で対抗しようとしたことが考えられるのである。  井上内親王・他戸親王は何故龍となって祟ったのであろうか。『霊安寺御霊大明神略縁起』には「大和ノ国宇智郡霊安寺御霊大明神者。 人皇第四十五代ノ帝聖武天皇ノ御女孝謙天皇ノ御妹ニテマシマス。 御母ハ淡海公不比等ノ右大臣ノ女光明皇后ナリ。 御霊ヲバ始メハ井上ノ内親王ト申キ。 人皇第四十九代ノ帝光仁天皇ノ即位ノ始メ。 井上ノ内親王ヲ以テ皇后トシ給ヒキ。 此御腹ニ皇子三人マシマシキ。 第一ノ皇子ヲバ早良ノ親王ト申。 第二ノ皇子ヲバ他戸ノ親王ト申。 第三ノ皇子ヲバ雷神ト申キ。」( http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/RYOUANJI_GORYO.html)とあるという。雷神が井上内親王の子とされているわけであり、雷神は龍と結びつく。梅原猛氏の『京都発見 一 地霊鎮魂』によると『霊安寺御霊大明神略縁起』は中世に出来たものらしいが、五條市御山町の井上内親王陵の同じ町内には火雷神を祭神とする火雷神社(からいじんじゃ・若宮火雷神社)がある。あるいは井上内親王が龍となって祟ったから火雷と結び付けられ火雷神社が造られたのではなく、元々井上内親王が葬られた場所が火雷神と結びつく場所だったので、龍となって祟ったという風評が立ったのかもしれない。  やはり火雷神を祭神とする角宮乙訓神社旧鎮座地と五條市御山町の火雷神社が南北線をつくる。鴨氏は葛城の出身であったから、五條市の火雷神社は鴨氏とは関係ないかもしれないが、鴨氏との関係も考えられる。その場合、鴨氏が五條市御山町の火雷神を角宮乙訓神社に祀ったとも、鴨氏が山城に行ったあとに大和に八咫烏神社が造られたように、山城で火雷神や別雷神と結びついた後、葛城に火雷神を祀る神社を建てたとも考えられる。どちらにしても、出雲神族や鴨氏と火雷神は関係が深く、井上内親王陵近くの火雷神=龍神も出雲神族・鴨氏と結びつく神であり、それ故下鴨神社の南北線上にあり、出雲神族である秋篠氏の地は、勅願寺を置くのに相応しい地ともいえるわけである。

  五條市火雷神社―旧角宮乙訓神社(W1.123km、0.95度)の南北線

 五條市須恵井上町の道路の中央寄りに聖神(ひじりがみ)という幅3m、長さ5m、高さ0.5mほどの小塚の上にささやかな祠があり、この塚をさわるものは必ず腹痛になるとおそれてだれも近寄らないが、井上内親王が流されて幽居された跡とも、また、皇子雷神親王の胞衣を埋めたところだともいうという。また、五條市釜窪町の御霊神社の森の東側に小さな祠がありこれは雷神親王の産湯を湧かした釜を埋めたところだといい、釜窪の名はこれから起こったといい伝えられるという(http://www.7kamado.net/den_yamato/gojyou_den.html)。このように雷神の伝承があるということは、その地に火雷神信仰があったからではないだろうか。 井上内親王陵は宝亀十年(779)墳墓を改葬して御墓と称し、延暦十九年(800)桓武天皇は早良親王を崇道天皇と追号して墓を改葬し、井上内親王も皇后の位が復され、吉野皇太后の称号を贈られて、墓を山陵と称した。井上内親王陵と火雷神社が東北60度線をつくる。また、井上内親王陵と井上内親王・他戸親王・早良親王・雷神を祭神とする県五條市霊安寺町の御霊神社(御霊本宮)が東北45度線をつくり、御霊神社と火雷神社が西北30度線をつくる。

  井上内親王陵―火雷神社(W0.026km、1.48度)の東北60度線
  井上内親王陵―御霊神社(E0.024km、1.31度)の東北45度線
  御霊神社―火雷神社(E0.002km、0.36度)の西北30度線

 塚本陵と秋篠寺が南北線をつくるのに対して、井上内親王陵の南北線上に早良親王が幽閉された乙訓寺がある。旧角宮乙訓神社とは火雷神社より井上内親王陵のほうが正確な南北線をつくり、長岡天満宮もこの南北線上に位置している。それに対し御霊神社は長岡京大極殿と南北線をつくる。霊安寺は明治初年の神仏分離で満願寺に合併され、今満願寺の小路を距てた畑地約三畝歩の方形台地が霊安寺の本堂後と伝えられ、この南方の小字「大御堂前」は金堂後といわれているという(http://www.7kamado.net/goryo-index.html)から、霊安寺は御霊神社の東側、満願寺との間に在ったということになるから、長岡京大極殿とはより正確に南北線をつくっていたことになる。ただ、御霊神社あるいは霊安寺と長岡京大極殿の南北線が問題になるのは、桓武が長岡京にいた時にそれらが建てられていなければならないであろう。霊安寺については、『大和志料』には「草創ノ由緒ハ稍ヽ々詳ナルモ爾後 ノ沿革得テ知ルベカラズ」(http://www.7kamado.net/goryo-index.html) とあるというが、井上内親王に皇后の位が復された延暦十九年(800)に、勅使従五位下葛井王が宇智郡まで下向して霊安寺を建立したという説もある(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1149221753029/)。延暦十九年(800)に建立されたとすると、占いに早良親王の怨霊の祟りと出たのが延暦十一年(792)で、翌延暦十二年(793)には平安京遷都のことが賀茂両社に奉告されるという流れであるから、平安遷都後ということになってしまう。ただ御霊神社については、霊安寺が建立されその隣に内親王を祀る御霊神社も創祀されたともいわれるが、御霊神社神主藤井家伝来書では延暦九年(790) 桓武天皇勅願で御霊神社が創建されたという(http://www.city.gojo.lg.jp/www/contents/1149221753029/)。延暦九年(790)とすれば、桓武天皇がまだ長岡京にいた頃であり、早良親王の塚本陵の傍に早良親王を祭る塚本社が建てられたが、井上内親王の墓の近くに井上内親王・他戸親王を祭る御霊神社が霊安寺以前の御霊神社神主藤井家伝来書のいうように延暦九年(790)に建てられたのかもしれない。その場合、長岡京大極殿の南北線上で井上内親王の墓とも方位線をつくる場所が選ばれたということであろう。乙訓寺は上御霊神社とも東北60度線をつくっている。下鴨神社と長岡京大極殿も東北60度線をつくっていた。また、比叡山・延暦寺根本中堂からみると、その東北30度線上に下鴨神社、東北45度線条に旧角宮乙訓神社鎮座地、東北60度線上に塚本陵・塚本社があったわけである。

  井上内親王陵―長岡天満宮(W0.282km、0.24度)―乙訓寺(W0.068km、0.06度)―旧角宮乙訓神社(W0.641km、0.54度)の南北線
  長岡京大極殿―五條市御霊神社(W0.491km、0.42度)の南北線
  乙訓寺―上御霊神社(E0.147km、0.65度)の東北60度線

 秋篠寺は大元帥法とも深く関わっている。承和六年(839)大元帥法を唐から法琳寺に伝えた常暁は、翌年大元帥法の実施を朝廷に奏上し、仁寿元年(851)には大元帥法を毎年実施することを命じる太政官符が出され、以来、毎年正月8日から17日間宮中の治部省の施設内で行われるようになったが、天皇がいる宮中のみで行われ、必要な備品などは常暁ゆかりの大和国秋篠寺が調達するものとされていたという。後には醍醐寺理性院の僧侶が大元帥法を行う慣例も成立したという。方位線的には秋篠寺は早良親王の塚本陵・下鴨神社と南北線に位置し、醍醐寺も塚本陵・下鴨神社と方位線をつくっていた。また、醍醐寺は貞観十六年(874)に理源大師聖宝が小堂宇を建てて准胝・如意輪の二観音をまつったことに始まるが、『霊安寺御霊大明神略縁起』に「御霊大明神四所ノ社頭ノ次第。 并ニ御本地ノ事。 一本社ハ井上皇后ニテ御坐ス。 社頭ハ東向。 本地ハ准胝。 二北ノ脇ハ早良ノ親王ニ御坐ス。 社頭ハ南向。 本地ハ聖観音。 三南ノ脇ハ他戸ノ親王ニ御坐ス。 社頭ハ北向。 本地ハ千手。 四雷神若宮ハ御山ノ村ノ内ニ御坐ス。 社頭ハ西向。 本地ハ如意輪。」とあり、井上内親王の本地が准胝観音、雷神の本地が如意輪観音なわけである。九世紀頃に神の権現号がみられるようになり、十二世紀頃神の本地仏が定められていったというから、もし、醍醐寺で大元帥法が行われるようになったのがそれより後であったとすれば、醍醐寺の准胝・如意輪観音は井上内親王と火雷神ということにもなり、大元帥法において火雷神も強く意識されていたということになるのかもしれない。

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