太田道灌以前の江戸の霊的磁場の中心は浅草寺と将門の首塚であろう。浅草寺と将門首塚が東北45度線をつくる。
浅草寺―将門首塚(W0.011km、0.14度)の東北45度線
将門首塚であるが、天慶三年(940)に敵の矢に当たって亡くなった将門の首は、京で検分されたあと五条河原でさらされていたが、切り離された胴を求めて東の空に飛び去り、この地で力尽きて落ちたのを埋めたもので、その後一族により胴も一緒に合祀されたという。史蹟将門塚保存会『史蹟将門塚の記』によれば、当時そこには聖武天皇の天平二年(730)年に創建されたとされる神田神社(神田明神)の前身の神社があり、将門の首塚はその境内に築かれたという。同書では将門の一族がこの地に逃れてきたのではないかとする。首塚の地にもともとあった神社についても、安房から移住してきた漁民が、安房神社の分霊を勧請して安房神社として祀ったものであるという説があるするが、加門七海『平将門は神になれたか』によると、神田神社の由来では、出雲氏族真神田臣によって創建されたとなっており、将門が祀られる以前は、大己貴命のみが祀られていたという。安房神社の祭神は上の宮が天太玉命(あめのふとたまのみこと)、下の宮が天富命(あめのとみのみこと)で、「安房忌部家系之図」に養老元年(717年)に天太玉命を現在の地に御遷座し、また天富命を摂社下の宮に祀ったことが記されているという。現在の神田神社の祭神には安房神社の祭神はみられないから、安房神社系の祭神は何時の時代にか消されてしまったということになるが、安房神社の祭神は天孫族系で、消される必然性もないから、首塚の場所にはやはり出雲氏族の神社があったのかもしれない。どちらにしても、その神社と生前の将門とが関係をもっていた可能性があり、『史蹟将門塚の記』によると安房国安房郡の洲宮神社の社家小野氏に伝わる文書に、延長元年(923)将門公がこの社に太刀や神馬を奉納し、また承平三年(932)に社殿を再建し、祭田を寄附したことが記録されていると書かれている。
神田明神という名になったのは、鎌倉時代末期の嘉元(1303)年に遊行二世真教上人が柴崎村に立ち寄って以降のことであり、そのときには首塚も神社も荒廃していたらしい。疫病が蔓延し、住民が将門公の祟りであると恐れおののいていたので、上人は将門公に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈して、丁重に塚を修復して供養したところ、疫病も収まったので、喜んだ住民は上人に付近の日輪寺という寺に留まってもらい、上人はそれまで天台宗であったのを念仏道場(時宗)としたので、柴崎(芝崎)道場といわれるようになったという。また、上人は延慶二年(1309)に社殿を修復し、将門の霊を相殿に祀って神田明神と改称したと日輪寺の記録にあるという。首塚の場所については、将門塚保存会『史蹟将門塚の記』に千古不変といわれているとある。
首塚の首以外にも、宮元健次『江戸の都市計画』によれば、神田神社に胴、鳥越神社に手、築土八幡神社に足が祀られているという。体の一部ではないが、兜神社に将門の兜、鎧神社に鎧が埋められたという伝承があり、築土神社には将門の首を入れて運んだ首桶が戦災で焼失するまであった。その他、新宿歌舞伎町の稲荷鬼王神社は稲荷神社と鬼王神社が合祀されたもので、鬼王神社の鬼王は将門の幼名「外部鬼王」からきているという伝承もある。港区芝三田に三田弾正が創建したという将門霊神祠があったらしい。
築土神社は最初は津久戸明神と呼ばれていたが、田安に移ると田安明神などといわれ、筑土山すなわち筑(築)土八幡の地に遷座してから筑(築)土神社といわれるようになったらしい。将門が死んでから十年後の天暦四年(950)九月、将門塚が鳴動し暗夜に光を放って、異形の武将が顕われ、人びとは恐怖したという。この時荒魂を神として祀ったところ、祟りが鎮まったというが、これが津久戸明神の始まりで、最初は首塚の前あるいは近くにあったらしい。築土神社HPの「将門伝説」(http://www.tsukudo.jp/densetu.html)によれば、上平川村津久戸(現・千代田区大手町将門塚付近)に創建された後、1478年太田道灌江戸築城の時に江戸城の北西(現・千代田区北の丸〜皇居乾門内)に遷され、1552年おそらく頻繁な洪水を理由に上平川村田安(現・千代田区田安門外九段上付近)、1589年家康江戸入城及び拡張のため下田安牛込見附(現・千代田区飯田橋駅西口周辺)を経て、 1616年江戸城外堀の拡張にともなって新宿区筑土八幡町(現・東京修道院敷地内)すなわち筑土八幡神社の地に移転させられたという。さらに戦後、太平洋戦争で社殿焼失したため千代田区富士見町(現・九段中学校敷地内)に遷座し、 1954年九段中学校の建設で世継稲荷境内の現在地に鎮座することになったという。築土神社では首塚近くから北の丸あたりに遷したのは太田道灌とされるが、『史蹟将門塚の記』では真教上人が柴崎村に来たときには、すでに九段上の現在の武道館のあたりに移転していて、洪水や津波の害を避けたものと考えられているとする。北の丸台地から上平川村田安への移転理由の頻繁な洪水について、同ホームページに、「『将門地誌』(朝日新聞社)によると、1201年(建仁元年)8月31日東京湾北部に大津波が押し寄せ、平川村や柴崎村一帯が流されたとある。また『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)にも、当時江戸周辺に起きた津波や洪水についての記述がある。」とあるが、そうなら太田道灌以前に津波や洪水を避けて北の丸台地に遷座した考えるのが自然であろう。『東京都の歴史散歩』では1478(文明10)年太田道灌が平河天神とともに筑土神社の前身の田安台荒神社を創祀したとある。田安台荒神社が筑土神社の前身ということであるが、もしそうなら太田道灌がまず荒神社を創建し、そこに首塚から津久戸明神を合祀したか、すでに北の丸台地には津久戸明神があったが、同じ場所に荒神社を創建し、後に両社を合祀したかのどちらかとなる。前者であれば荒神社の名が後代に残ってもよさそうなので、可能性としてあるのは後者ということになる。田安台荒神社について気になるのは、近藤雅和『記紀解体』に「江戸城に荒脛巾祠堂があり、太田道灌が城神として信仰、のち大元明神に改称している。」とあることである。島根の尓佐神社の境外摂社である荒神社は昔はアラハバキサンと呼ばれていというから、太田道灌が創祀したという荒神社が荒脛巾祠堂だった可能性があるわけである。その荒脛巾祠堂ががどこにあり、その後どうなったのか、さらには最近創作説が有力になっている『東日流外三郡誌』の姉妹編の『東日流六郡誌大要』にも同様の記述があることから(ただし、のちに大元明神に改称とまでは詳しくない)、その情報源も気になっていたのであるが、荒神社が荒脛巾祠堂だったら情報源は他にあったということになる。荒神社のその後を考えると、津久戸明神と合祀される形で津久戸明神の移転に従って荒神社も一緒に移転していったのかもしれず、それが荒脛巾祠堂であるなら、築土神社では今でも密かに荒脛巾神を祀っている可能性もあるわけである。なお、上平川にあった観音堂が築土神社別当寺である楞厳寺の前身で、築土神社の社伝では、楞厳寺の本尊である太刀佩観音(たちはきかんのん)は観音堂に置かれていたもので、将門がこれを深く信仰していたという由縁で、将門の首は観音堂で供養されたあと柴崎村の首塚に埋葬されたといい、「太刀佩観音」は実は将門をかたどったものではないかとも云われているという。
将門の足が祀られているという築(筑)土八幡であるが、その創祀は将門首塚が築かれる以前の嵯峨天皇の御代(809〜23)といわれる。武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいたが、ある時、翁の夢の中に神霊が現れて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」といわれたので、翁は目を覚ますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばに行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に瑞雲が旗のようにたなびき、雲の中から一羽の白鳩が現れて松の梢にとまった。翁からこのことを聞いた里人はすぐに松の樹の下に瑞籬をめぐらし、松を八幡宮とあがめたという。その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけたともいわれる。将門の足を祀るという伝承がいつ頃からのものか分からないが、津久戸明神が移転するに当り築土八幡の所が選ばれたのは、すでに別当寺の楞厳寺が天正年間(1573〜1591)頃、新宿区筑土八幡町に移転していたからかもしれないが、将門に関する伝承があったからとも考えられる。
将門の手を祀るといわれる鳥越神社であるが、その創祀は、日本武尊がこの地に所へ暫く留まったことがあり、その徳を慕った土地の人々が白雉二年(651)現在地の白鳥山山頂に白鳥神社(明神)を祀ったのが始まりであるという。その後、徳川幕府が江戸に開かれるにあたり、埋め立てのため鳥越の山は取り崩され、この時、本社も他に遷されそうになったが、第二代神主鏑木胤正が幕府に様々に請願し元地に残ることになったという。鳥越の地名は、将門の首がこの地にあった小山を飛び越えたことからきているとも、陸奥へ赴任する源頼義が白鳥に教えられて無事に大川河口を渡ることができたことから、白鳥明神の神助として鳥越大明神の社号を奉ったことによるともいわれるいわれる。社家は鏑木家であり、その先祖は千葉氏とされていることから、将門とも縁の深い神社ということができる。ただ、現在神社側では将門との関係は一切否定しているという。
兜神社は藤原秀郷が将門の首を京に運ぶ途中、将門の兜を埋めた跡といわれるが、その境内にある兜石は源義家が前九年の役のさい、兜を掛けて戦勝祈願をしたともいわれている。その場所は兜神社世話人会発行の由来書によれば、弘化二年(1845)版の「楓川鎧の渡古跡考」の地図に、牧野邸の東北隅鎧の渡付近に鎧稲荷と兜塚が描かれており、この頃既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた、とある。その後、明治四年(1871)東京商社(三井物産の前身)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は鎧の渡と兜橋の中間に遷され、この時兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、兜神社として社を創建して祭り、更にこの神社は鎧稲荷と合併して、新たに兜町の鎮守・兜神社として定められたという。さらに、昭和二年兜石とともに現在地に再度移転したという。鎧の渡しは現在の鎧橋の所にあった。案内板もあるといい、鎧の渡付近には、源頼義が奥州征伐の途中にここで暴風に遭い、そこで頼義が鎧を海の中に投げ込んで龍神に祈ったところ、無事に渡ることができたので、それ以来ここを『鎧が淵』と呼ぶようになったという伝承もあるという(http://www.xiangs.com/Masakado/shiseki/tokyo/watashi1.shtml)。『江戸切絵図』でみると、山王権現御旅所の前の通りが突き当たったところに鎧の渡しがあり、鎧の渡しに向かって左側、現在の東京証券取引所から川にかけて、日本橋南絵図では松平和泉守の屋敷となっているが、日本橋北図ではその場所に牧野と書かれているので、その東北隅ということは、兜橋近くに鎧稲荷と兜塚があったということであろう。江戸時代にここら辺りは埋め立てられた場所であるが、徳治・延慶年間の江戸荘図には柴崎の前にいくつかの茅洲があるから、その一つに埋められたということなのであろう。
鎧神社は日本武尊の甲冑六具を蔵めたとも、将門を追慕して土地の人々が天暦の始めその鎧を埋めたとも、残党を追ってこの地にきた藤原秀郷が重病になったので将門の霊の怒りと怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺境内に将門の鎧を埋め、一祠を建ててその霊を弔ったともいわれている。
稲荷鬼王神社は古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応二年(1653)、当所の氏神として稲荷神社が建てられ、また宝歴二年(1752)に田中清右衝門なる当地の百姓が旅先での病気平癒への感謝から紀州熊野より鬼王権現勧請し、天保二年(1831)両社が合祀されたものであるという。神社の由来書には将門はまったく出ていないが、明治四十年に出版された織田完之の『平将門故蹟考』に鬼王神社と将門の関係が出ているというのであるから、明治時代にわざわざそのような伝承が作られると思われないので、すくなくとも江戸時代から伝承はあったと考えられる。
将門首塚・津久戸明神・築土八幡神社・鳥越神社・鎧神社・旧兜塚・稲荷鬼王神社の関係であるが、鎧神社・首塚・旧兜塚が一直線に並ぶ。もっとも鎧神社・首塚・現兜神社の方が正確に直線上に並んでいるので、それに比べると直線とはいえないともいえるが、鎧神社、首塚、旧兜塚が相互に呼応・感応して幅約100mの霊的エネルギーラインを江戸に作り出しているという言い方はできるであろう。鎧神社・首塚・旧兜塚のラインに対して、最初に将門の胴体を埋めたとされ、今も境内に胴塚がある岩井市神田山の延命院と鎧神社が東北60度線をつくっている。さらに、鎧神社の西北30度線上に稲荷鬼王神社、東西線上に築土八幡神社があり、築土八幡神社は首塚とも西北45度線をつくる。
鎧神社―将門首塚(0.089km)―旧兜塚±の直線
鎧神社―将門首塚(0.000km)―兜神社の直線
鎧神社―延命院(W0.540km、0.73度)の東北60度線
鎧神社―稲荷鬼王神社(W0.028km、1.09度)の西北30度線
鎧神社―築土八幡神社(S0.040km、0.51度)の東西線
将門首塚―築土八幡神社(W0.092km、1.90度)の西北45度線
江戸には、将門と敵対する側に関係する神社もある。日本橋堀留町の椙森神社の社伝によれば、平将門の乱を鎮定するにあたり、藤原秀郷が戦勝祈願をするために創建したという。その後、太田道灌が雨乞い祈願のために京都伏見稲荷の伍社の神を勧請し、江戸時代には、江戸城下の三森(烏森、柳森、椙森)の一つに数えられた。
梶原正昭・矢代和夫『将門傅説』には「豊多摩郡誌」からとして新宿区戸塚町穴八幡の毘沙門山は田原蔵(藤の誤植か)太秀郷が将門の追討を祈った処とある。穴八幡というから、毘沙門山は穴八幡神社の山のことなのであろう。穴八幡は幕府の御持弓組頭松平直次がこの地に的場を築き八幡宮の小祠を営んだのが始めともいわれるが、康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家が凱旋のおり、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請したのが始まりで、慶長、元和(1569〜1623)の頃までは、このあたりは八幡山と呼ばれ、神木の下に小祠が祀られていたともいう。また、阿弥陀山ともよばれその地名の由来を誰も知らなかったが、寛永十八年(1641)に社僧良昌が草庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、石上に安置された金銅の阿弥陀仏が出てきたので、この時から穴八幡宮と唱えられるようになったともいう。
同じく梶原正昭・矢代和夫『将門傅説』に新宿区下落合丸山の富士稲荷は源経基(みなもとのつねもと)がこの社の神託により将門を滅ぼすと「豊多摩郡誌」にあるとある。
また同書によれば、「豊多摩郡誌」「新編武蔵風土記稿」からとして幡ヶ谷不動に藤原秀郷が将門の祈誓をなすとある。幡ヶ谷不動尊は荘厳寺といい、永禄四年(1561)に宥悦法印を開山として創建されたというから時代が合わない。ただ、本尊不動明王像の作者は、延暦寺第五世座主、三井寺再興の智証大師円珍とされ、この不動尊は天慶年間に平将門を討滅した平貞盛・藤原秀郷、さらに、永禄年間には武田信玄、北条氏政等の手を経、延享四年、霊夢のお告げに従って荘厳寺に安置されたものだという。この本尊の不動明王像の関係から、後代に藤原秀郷が幡ヶ谷不動に将門の祈誓をしたという伝承が生じたのであろう。
港区の愛宕神社にも平将門が乱を起こした時に、源経基が愛宕神社の児盤水で水垢離をとり、神の加護によって乱を鎮めたという伝説があるというが、愛宕神社は慶長八年(1603)に徳川家康が京都愛宕山別当の白雲寺から勝軍地蔵を勧請したと諸書一致して伝えているというから、これも時代が合わない。
その他、新橋の烏森神社は、天慶三年(940年)に藤原秀郷が、武州のある稲荷に将門に対する戦勝祈願したところ、白狐がやってきて白矢の矢を与え、その矢をもって将門を破ることができた。秀郷がお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現われて、神烏の群がる所が霊地だと告げられ、桜田村の森まできたところ、夢想の如く烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営したのが烏森稲荷の起こりであるという。また、早稲田の水稲荷は天慶4年(941)藤原秀郷が穴八幡近くの富塚の上に稲荷大神を勧請したのが始まりといわれる。早稲田大学との土地交換で水稲荷は現在地に移転してしまったが、早稲田大学の法商研究棟の西側10mほどのところ、斜面を削ったのであろうすこし小高くなった崖の上に、整地されてしまったが富塚の案内板が立っている。
新宿区下落合丸山の富士稲荷のみが、その場所がわからなかったが、地図に下落合の稲荷神社はおとめ山公園脇の東山稲荷しかなかったので行ってみると、東山藤稲荷とかかれた石柱が立っていた。藤と富士は同じ読みであるから、境内にある家が社務所かともおい聞いてみると、近くの氷川神社が管理しているので、詳しい話はそちらでないと分からないということで、わざわざ電話をしてくれた。氷川神社の若い社家の人にいろいろ話をうかがったが、丸山という地名には首をひねっていた。ただ、そこでいただいた東山稲荷の由緒には、源経基が醍醐天皇の延長五年京都の稲荷山より勧請したもので、「藤稲荷神社」とも「富士稲荷神社」とも呼ばれていたとあるから、『将門傅説』にある下落合丸山の富士稲荷はここのことであろう。由来書には「平将門が謀逆を企てた折、当東山稲荷の大神様よりその旨御神託あり、経基は早速忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったため、帝の許しを頂き、これを平定致しました。」とあるから、どちらにしても東山稲荷は将門と関係する神社であることは確かである。神職さんの話では、此処から将門追討の軍勢が出発したという伝承もあるが、伝承が伝承を呼ぶ形で、だんだん話が大きくなったのではないかということであった。経基が忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったというのは、経基は、権守の興世王とともに国内から収奪を行い、足立郡司の武蔵武芝と対立するという事件を起こし、それを将門の介入で興世王は武芝・将門と講和するが、経基は将門と興世王の関係を疑い、都に逃げ帰ると朝廷に将門の謀反を奏上したという事実が、話の下敷きになっているのであろう。また、源経基は征東大将軍藤原忠文に従い将門追討のために東下したが,将門の死により中途帰京しており、直接将門とは戦っていない。東山稲荷は源氏の城館の跡といもいわれているらしい。かっては氷川神社より大きく、茶屋もあったといい、江戸時代には四谷・麹町辺りからの参詣も多く、日本橋あたりの大店の主人の参詣あり、玉串の奉納や石柱の寄進などがあるので、単なる物見遊山的な参詣ではなく、かなり熱心な信仰があったのではないかという。
愛宕神社は麹町の近くであり、四谷・麹町辺りからの参詣が多かったということは、東山稲荷の源経基伝説と何らかの関係があったとも考えられる。麹町周辺の麻布にも源経基と将門に関する伝承が多い。麻布氷川神社も天慶五年(942)に源経基東征の時に勧請したとも、文明年間太田道灌によるともいわれている。毘沙門天を祀り、境内に稲荷社もある。旧鎮座地は麻布一本松付近であるが、一本松の伝承の一つに、天慶2年(939)源経基が民家に宿泊して(将門の屋敷内を内偵しての帰り道ともいわれる)柏の葉に盛った栗飯を供せられ、翌朝装束を松にかけて朝の狩衣に着替えて行ったから、冠の松といい、民家は親王院という寺(のちの渋谷八幡東福寺という)になったとも伝える。西麻布4丁目の笄橋の名の由来にも諸説あるが、その中に平将門が反乱を起こした時、この辺りにいた源経基が、そのことを京へ注進に及ぼうとこの橋までやってきたが、既に将門の手が廻っていて検問の最中であった。経基は種々言い訳したが聞き入れられず、やむを得ず帯刀の笄を抜いて証しとした。それで将門が滅ぼされた後に「経基橋(きょうぎばし)」と呼んだ。後に奥州征伐に下ってきた子孫の源頼義が、謂れを聞いて「笄橋」と改めたというのがある。また、経基の脱出劇の経緯を聞いた頼義が、橋の傍らに「鉤匙殿」なる一宇を建て「鉤匙橋」と改めたという説もあり、その笄は親王院(東福寺)にあるという(http://www.geocities.jp/pccwm336/sub7.html)。これをみると麻布の源経基と将門の伝承は新王院と結びついており、一本松を介して氷川神社とも関係しているともいえるが、源経基と将門の伝承としては逸話的な伝承ということができるであろう。神の加護による源経基の将門鎮圧という伝承の核心にかかわるのは東山稲荷と愛宕神社ということになるが、東山稲荷の方が古そうである。
下落合の氷川神社で話を聞いた後、おとめ山公園まで回ると、おとめ山は幕府の禁足地の御留山で、明治になってから東を近衛家、西を相馬家に与えられたとあり、相馬氏は将門の後裔といわれるから不思議な縁である。さらに不思議な縁であるが、氷川神社の社家の名も守谷氏というのだという。茨城県守谷の守谷城址は相馬師常の城址とも将門の古城址ともいわれているのである。ただ、徳川の初めに白川家の認可をえて現在で18代であるが、戦災で系図が焼けてしまい、三峰あるいは出羽修験関係の家だったということはいわれているが、古いことは分からなくなっており、茨城の守谷には守谷という家も多いが、当家と守谷との関係はあるとも無いとも何ともいえないということであった。方位線的には、東山稲荷と守谷城址が東北45度線をつくっている。
東山稲荷―守谷城址(E0.133km、0.20度)の東北45度線
新皇将門の王城の地について、梶原正昭・矢代和夫『将門傅説』によれば、『将門記』には「下総国ノの亭南」と書いてあるだけで、その場所については猿島郡石井郷と相馬郡に説が分かれているという。そのうち、猿島郡石井郷には将門が京都の内裏から移したと伝えられる延命寺の九重桜ぐらいしか遺跡らしいものはないのに対して、俚伝で相馬内裏と称されている相馬郡の守谷城近くには、岩井から相馬内裏に通じる大道を「内裡道」といい、守谷城の南域には「右近道」とよばれるものがあったともいわれ、近くの愛宕神社は王城建設に当って将門が京都の愛宕社を模して造営せしめたものといわれるなど、それらしい伝承が多くあるという。はたして、将門の王城が造営されたのか計画だけだったのかは分からないが、もし守谷城址が将門の内裏跡だったとすれば、東山稲荷こそ将門調伏・出陣にふさわしい場所だったともいえるわけである。一方、成田山新勝寺は将門調伏で有名であるが、もう一つ将門調伏の寺として栃木県足利市小俣町の鶏足寺がある。鶏足寺と将門の結びつきは、その周辺にも将門の支体埋葬の伝承があることからも窺われる。群馬県太田市只上は将門の寵妃桔梗の前の出生地といわれるが、そこの只上神社はかって胴筒の宮と呼ばれ、将門の胴体を埋めたところといわれる。同じく、足利市五十部町の大手神社は将門滅亡のときにその手が飛んできたところといい、同市大前町の大原神社はその腹が落ちたところという。鶏足寺は世尊寺といっていたのを、秀郷に切られた将門の首が、空を飛んでこの寺の屋根にさしかかったところを、三本足の鶏が地に蹴落としたことから、寺号を鶏足寺に改めたのだという。これらは、将門を討滅したがわの将門慰霊鎮魂ともいわれるが、その伝承が鶏足寺周辺に集中しているということは、鶏足寺が将門調伏において重要な役割を果たしたということであろう。新勝寺と鶏足寺を結ぶ直線上に将門が政治・経済・軍事の本拠地とした石井の営所跡といわれる島広山(しまひろやま)がある。新勝寺と鶏足寺から挟み撃ちにするように霊的攻撃を加えたということになるが、この場合は将門は岩井(石井)にいたことになる。鶏足寺からの西北30度線上に将門が生まれたという豊田館比定地の一つである結城郡石下町向石下の将門公苑がある。
成田山新勝寺―延命寺(0.157km)―鶏足寺の直線
鶏足寺―将門公苑近く法輪寺(W0.058km、0.05度)の西北30度線
将門に敵対した方の神社の方位線であるが、東山稲荷が鎧神社と東北60度線、旧兜塚と西北30度線をつくる。東山稲荷と鎧神社の方位線は偏角的には大きいが、その幅からいって方位線をつくっているといえる。東山稲荷の方位線上に守谷城址と将門終焉の地ともいわれる神田山延命院があるともいえるわけである。首塚と水稲荷旧鎮座地が西北30度線をつくるが、その方位線上に津久戸明神が首塚近くから遷った北の丸がある。椙森神社が旧兜塚と南北線をつくり、稲荷鬼王神社の東北45度線上に穴八幡と富塚がある。
鎧神社―東山稲荷(E0.078km、2.53度)の東北60度線
将門首塚―富塚跡(W0.014km、0.17度)の西北30度線
旧兜塚±―東山稲荷(W0.093km、0.66度)の西北30度線
旧兜塚±―椙森神社(0.000km、0.00度)の南北線
稲荷鬼王神社―穴八幡(E0.002km、0.08度)―富塚跡(E0.032km、1.11度)の東北45度線
鎧神社・将門首塚・旧兜塚のレイラインを中軸線として、敵味方を含めた将門関係の神社や塚が方位線網をつくっているわけであるが、その中には鳥越神社・烏森神社が入っていない。そこで首塚と東北45度線をつくっていた浅草寺を加えると、浅草寺・鳥越神社・烏森神社が一直線状に並び、さらに浅草寺・穴八幡・鎧神社も一直線状に並んでいる。また、浅草寺からの東北30度線が北の丸台地を通り、津久戸明神は首塚と浅草寺からの方位線が交わる北の丸台地に首塚付近から移って行ったという言い方はできるであろう。
浅草寺―鳥越神社(0.066km)―烏森神社の直線
浅草寺―穴八幡(0.040km)―鎧神社の直線
浅草寺―武道館(W0.065km、0.76度)の東北30度線
将門首塚―武道館(W0.015km、0.63度)の西北30度線
鬼王神社と将門との関係を物語る伝承は江戸時代にはあった可能性が高いが、江戸時代さらには太田道灌の江戸城築城の前にまで遡る可能性はないのだろうか。境内の由緒書きには古来より大久保村の聖地とあり、それが文字通りだとしたら江戸時代以前から将門が祭られていた可能もある。HP「闇の日本史」(http://www004.upp.so-net.ne.jp/dhistory/tko_1_02.htm)によれば、稲荷鬼王神社の由緒に追記という形で、「江戸時代に既に特異な『鬼王』という名の神社を勧清するのに地元に抵抗感が無かったのは、この土地が文章では残っていませんが、平将門公(幼名・鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。」とある。ただ、稲荷鬼王神社の由緒について以前に行ったときには、将門について境内の由緒書には何も記されていなかったはずだと思い、確認にいってみたがやはりこの件は記されていなかった。しかし、まったくの創作とも思えず、社家の大久保氏についての記述もあるなど、境内の由緒書には出ていない内容が他にもあるので、より詳しい由緒書が印刷物で出されていたのかもしれない。鬼王神社創祀の由来にも不自然さがあることを同ホームページでも指摘しているが、旅先での病気平癒への感謝として紀州熊野から勧請するとすれば、常識的には熊野神社であろうし、しかも紀州熊野の鬼王権現は現存しないというのであるから、まるで発見された古文書で展開する小説が、小説というフィクションの世界の存在でしかないその古文書を、最後に燃やしてしまうことにより跡形もなく消してしまうのを作法としているのと同じである。
社家については、「当神社社家大久保家は新宿の有数の古い社家であり、昔大久保村といわれた地域の神社やお寺の多くは、大久保家が代々神職や別当職として奉仕していました。この大久保村の『大久保』という字は、本来大きい窪地という意だったのが、当社家大久保家の名をとったという伝承があります。江戸時代、内藤家(内藤新宿の領主)の信任も厚く、病気平癒等、祈祷を行ったと伝えられています。」という内容であり、同ホームページでは中世には武蔵七党の1つ丹党から大窪氏、秩父平氏から大久保氏が発祥したと考えられており、前者は武蔵国足立郡大久保、後者は武蔵国入間郡大久保を発祥としているが、社家の大久保氏は将門の後裔を名乗る秩父平氏の流れをくんでいるのではないかとする。丹党と秩父平氏は同族ではないかという説もある。HP「古樹紀之房間」(http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/titibu1.htm)によれば、秩父平氏の祖とされる将恒(将常、政恒などとも書く)は平忠頼の子とされるが、忠頼には恒明(経明)という別名をあげているものがあり、一方丹党のなかに多治経明なる者がおり、『将門記』は、将門が関東諸国の国司について除目を行った際に、下総国豊田郡栗栖院(現茨城県結城郡八千代町栗山)にあった官廐常羽御廐の別当多治経明を上野守に任じたこと、天慶三年(940)二月、将門の軍が下野に出兵し藤原秀郷の軍勢を攻た時、副将藤原玄茂の陣頭多治経明・坂上遂高の軍が秀郷を襲って、却って散々に敗北したことが見えるという。この多治経明が秩父平氏の祖とされる将恒の父だったのではないかというのである。
稲荷鬼王神社の場所について、HP「闇の日本史」では現在の稲荷鬼王神社の少し行ったところに内河新太郎と記された屋敷があり、その二軒となりに田中清右衝門と関係があるとも考えられる田中清太郎という家があって、そのはす向いに稲荷があるが、鬼王神社が見当たらないという。それで、当時ここには鬼王神社社家の大久保紀伊守の屋敷があり、鬼王神社はその屋敷内に祀られたのではないかとする。ただ、東京医科大学や西光庵あたりにあった表番衆町や裏番衆町が新大久保駅付近とされるなど、その記述には混乱が見られ、情報源となった地図で再確認する必要があるかもしれない。『江戸切絵図』では残念ながら西向天神のすこし先で切れており、稲荷鬼王神社あたりは載っていなかった。
大久保の地名は大きい窪地という意味の大窪からきたというのが有力視されているようであるが、たまたま手元にあった雑誌『群居34号』の在日的雑居論という特集に大久保のことが記されていてのでそれを見ると、大久保の地名の由来については、『豊多摩郡誌』に、@小田原北条氏の家来太田新六朗寄子衆に大久保の姓を名乗るものがあり、当地を領したので大久保の村名になった、A東西大久保村の境が大きな窪地になっているので、大窪村であったのが大久保村に改まった、B永福寺(現新宿七丁目)の山号が大窪山なのでそれからとった、C江戸幕府は市谷や大久保の諸組の同心の総取締として大久保某を選任し、邸を大久保に給わったので大久保と称するようになった、という諸説があるという。さらに『新編武蔵風土記稿』にかっては東西の大久保村・諏訪村・戸塚村が一つの村で富塚と記されていたが、それが一旦大久保村に改められ、元禄の前頃に各村に分かれたのではないかとあるという。明治38年の大久保町誌稿にはもう少し詳しく、長禄年間(1457〜1459)の江戸古図には牛込村の西邊に富塚村及び山中分村とあって大久保の地名は見えず、永禄二年(1559)の北條家小田原役帳にも太田新六朗知行の内寄子衆配當十一貫五百文江戸戸塚内山中分とあって、大久保の名が見える地図は正保年間(1644〜1647)のが最古だという。これからいえることは、まず富塚(戸塚)村全体をあらわす村名が大窪村に変えられ、それがさらに大久保村になったとは考えづらいということである。東西大久保村周辺は、山中分村と書かれているように窪地どころか山として意識されていたのであり、それより狭い東西大久保村の一部の地形をあらわす大窪を、わざわざ富塚(戸塚)村全体の名前にする理由がないからである。同じようなことは永福寺の山号の大窪山についてもいえるであろう。最初から富塚(戸塚)村から大久保村に変えられたのであり、大久保の地名は太田新六朗寄子衆大久保氏か諸組同心総取締の大久保氏からきたかのどちらかとなる。そして、大久保という地名には「当社家大久保家の名をとったという伝承があります。」というのであるから、社家の大久保氏もまた、太田新六朗寄子衆大久保氏か諸組同心総取締の大久保氏のどちらかということになる。
総取締の大久保氏については、その役職が富塚(戸塚)村全体の名前にするほど大きなものだったのか、任命時期がいつだったのかが問題になる。内藤家でさえ後に宿場ができたときに内藤新宿と呼ばれるようになった程度であるから、総取締の総取締役ぐらいでは富塚(戸塚)村全体の名にするほどの役職とも思われないのであるが、どうなのであろうか。残る太田新六朗寄子衆の大久保氏であるが、寄子とは、譜代の家臣を寄親として、その下に配された古くからの土豪で遅く家臣化した国衆・外様衆のことである。太田新六朗は太田道灌の曾孫の太田新六朗康資のことと考えられるが、太田新六朗寄子衆の大久保氏ももともとからの大久保の有力な家柄で、太田道灌の頃から太田家の寄子になっていたのではないだろうか。
社家の大久保氏であるが、稲荷鬼王神社の境内摂社三島島神社の由緒によれば、社家大久保氏は嘉永六年(1853)当時で十二世の代だったという。そうすると、初代は江戸時代初期かそのすこし前ということになる。総取締役の大久保氏が任命されたのと同時期かその前である。大久保への着任そうそうその家中から武士ではない神職を出したとは考えられないから、社家の大久保氏は太田新六朗寄子衆の大久保氏の流れをくむのであろう。太田新六朗康資は遠山丹波守、富永三郎左衛門らとともに江戸城在番衆としてあったが、永禄六年(1563)に江戸城乗っ取りの策謀が露見して逃亡し、太田資正や里見義弘らと共に第二次国府台合戦で北条軍に大敗している。太田新六朗寄子衆の大久保氏がその後も大久保にいたとすれば、そのまま北条氏に属したていたのであろう。その後、北条氏が滅びるとともに、土地の有力者として大久保の祭祀にかかわる家柄になったのではないだろうか。社伝では稲荷社が創祀されたのが承応二年(1653)で、大久保の名が見える地図は正保年間(1644〜1647)であるから、地図の大久保村の方が古い。もし、正保年間すでに社家の大久保氏が神職にあったとするなら、稲荷社とは別の祭神を祭祀していたということになるし、鎧神社や穴八幡・富塚と方位線をつくる稲荷鬼王神社の地に、古くから将門を祀っていた可能性もあるわけである。太田新六朗寄子衆の大久保氏の名前が富塚(戸塚)村全体の村名にもなりえたのは、一帯が将門と関係する神社も多く、将門が大きな意味を持つ場所であり、大久保氏が江戸氏ともつながる秩父平氏の古い一族だったからというぐらいしか、理由が思いつかない。
家康入府の時、内藤清成は武田や北条の残党に備えて伊賀組鉄砲隊などを引き連れて甲州街道と旧鎌倉街道とが交わる、今の伊勢丹あたりに布陣し、その後に内藤新宿といわれることになった一帯に広大な敷地を与えられ、伊賀組鉄砲隊を家康の許しのもと現在の百人町に住まわせた。内藤清成がすぐ近くに布陣したのであるから、北条残党の大久保氏としては極度の緊張に包まれたであろう。その内藤清成は藤原秀郷の末流といわれるのであるから、大久保氏としては用心のために将門隠しを行ったということもありえる。江戸幕府としては将門を抑圧したわけではなく、利用さえしようとしていたともいえるが、その後も内藤家への遠慮から将門をあまり表面に出さなかったということなのかもしれない。稲荷神社について、特集に気になる記述があり、稲荷鬼王神社は大久保周辺で一番の古社である諏訪神社の境内の福嵯稲荷が前身とされているのである。そうすると、稲荷鬼王神社近くに稲荷神社が創祀されていたのではなく、福嵯稲荷を江戸時代初期に遷座させたということになる。江戸時代以前から将門は祀られていたが、表面的には稲荷神社を祀るという形式にするために、諏訪神社から摂社の稲荷社をもってきたのではないだろうか。後に鬼王神社という形で将門はある程度表に出されたが、明治になって再び表面から消されたということなのかもしれない。
大田道灌の方位線
太田道灌が、江戸城築城に際して、鎧神社・将門首塚・兜神社という将門レイラインを意識したことは、そのライン上に梅林や天神社を配置したことからも窺われるかもしれない。道灌は江戸城築城の際に菅原道真の「飛び梅」の故事をしのんで場内に梅林を造ったが、豊島泰経・泰明兄弟を滅ぼした後、剃髪して道灌を名乗り、あわせて天神・荒神を奉祀したといわれる。これは戦いで死んだ敵味方を供養するためともいわれるが、それなら神社よりお寺のほうがふさわしいのではないだろうか。滅ぼした敵の怨念から江戸城を守る為、荒神社の祭神は将門の怨霊神ともいわれるが、荒神社に将門を祀り、天神社を将門のレイライン上に置いたと考えるべきであろう。宮元健津次『江戸の都市計画』によれば菅原道真の飛梅伝説にちなんで、菅原道真の荒ぶる魂を祀り、難を逃れるために鬼門に梅の木を立てることが行われ、内裏においても鬼門に梨や梔とともに梅を植えることが多かったという。しかし、江戸城の梅林は鬼門に位置しているとはいえない。将門と道真を重ねることにより、将門ラインの防御力を倍化したとも考えられるのである。
大田道灌による江戸城築城にまつわる伝説が『関八州古戦録』という本に載っている。太田道灌が品川にあった館から江ノ島の弁才天に参詣した帰り、コノシロという魚が舟の中に飛び込んできた。太田道灌はこれは何かの吉兆であると喜び、コノシロは九つの城に通じるところから、河越、岩築、鉢形などの城を築き、さいごに九つ目の城を江戸に築いて自分の居城としたというのである。これらの諸城のうち、重要なのは太田道灌の居城の江戸城と主君扇谷上杉家の居城の河越城であろう。河越城は上杉持朝が太田道真・道灌父子に築城させたともいわれるが、江ノ島の東北60度線上に江戸城があり、南北線上に河越城が位置している。
江ノ島弁才天―江戸城天守閣跡(E0.010km、0.01度)の東北60度線
江ノ島弁才天―河越城21.4m標高点(E1.204km、0.99度)の南北線
江ノ島は弁才天信仰で有名であり、弁才天は出雲神族にとってアラハバキ神の変身したもの、裏信仰であったが、摂社にアラハバキ社のある小野神社と江ノ島が西北45度線をつくる。さらに、同じくアラハバキ神を祀っていたとされる大国魂神社が江ノ島と南北線をつくる。小野神社と大国魂神社は東北60度線をつくっていたから、江ノ島・小野神社・大国魂神社が方位線三角形を作るわけである。そのうち小野神社と大国魂神社がアラハバキ神と関係し、弁財天がアラハバキ神とも関係するとすると、江ノ島もかってはアラハバキ神祭祀の場所だった可能性もあるわけである。江島縁起では欽明天皇の時に江ノ島が出現し、弁財天女がこの島に降居したとする。その後、役行者が伊豆に配流されたとき、江ノ島の金窟の中で不動明王の咒を念じたところ天女が現れたという。『吾妻鏡』では、高雄の文学(文覚)上人が大弁才天を勧請し、頼朝は江ノ島で藤原秀衡を調伏したとあるというが、そうすると江ノ島と弁財天の結びつきは平安末期・鎌倉時代の始めということになる。それ以前には、江ノ島にアラハバキ祭祀があったと考えたくなるが、吉田大洋『謎の弁才天女』によると、文保二年(1318)光宗編『渓嵐拾葉集』に江島縁起の事として「ここに常に道祖神現前し給う。」とあり、江ノ島が道祖神とも強い関係にあるということは、江ノ島は相模の出雲神族の聖地だった可能性があるということであり、江ノ島とアラハバキ神が結びつく可能性もより高くなる。小野神社と江ノ島が西北45度線をつくるということは、江ノ島と寒川神社も西北45度線をつくるということであり、寒川神社と小野神社のもともとの鎮座地の秋葉神社(子安神社)の方位線については疑問視したが、江ノ島を媒介にすると、江ノ島・寒川神社・秋葉神社を結ぶ方位線も考えられる。寒川神社は諏訪の伝承では建御名方を祀るとされていたともあるから、その方位線は出雲神族の方位線ということになるわけである。頼朝による江ノ島での奥州藤原氏に対する調伏であるが、吉田大洋氏は寿永元年(1182)という時期は、頼朝にとっての敵は平氏や木曾義仲であって、時期的におかしいという。ただ、方位線的にいうと、直接ではないが、江ノ島と日光男体山が南北線をつくり、男体山と平泉の藤原氏の館である柳の御所が東北60度線をつくるのである。寒川神社と諏訪大社上社神体山の守屋山が方位線をつくっていたが、源頼朝が挙兵すると諏訪氏はいち早く源氏に味方して戦勝の祈祷を行ったといい、その後も北条氏は諏訪大社の祭祀支援に深くかかわり、諏訪氏も北条氏の有力御家人として重要視されていったというから、寿永元年ではないかもしれないが、守屋山・寒川神社・江ノ島・男体山・柳御所という方位線網の中で調伏が行われたのかもしれない。
江ノ島弁才天―寒川神社(E0.111km、0.51度)―小野神社(E0.092km、0.25度)―子安神社(W0.287km、0.79度)の西北45度線
江ノ島弁才天―大国魂神社(E0.009km、0.01度)―男体山奥宮(E1.007km、0.35度)の南北線
男体山奥宮―柳御所±(W0.119km、0.02度)の東北60度線
寒川神社は鹿島神宮と東北30度線、酒列磯前神社と東北45度線をつくっていたが、寒川神社と酒列磯前神社の方位線上に浅草寺と将門首塚がある。神田明神はもともと将門首塚のところにあり、出雲氏族真神田臣によって創建され、大己貴命が祀られていたというのであるから、出雲神族の神社だった可能性もあるわけである。この地に移住してきた安房の漁師にしても、安房国造が本当は出雲神族だったとすれば、安房には出雲神族も大勢住んでいたことになり、移住してきた漁師も出雲神族だった可能性があるわけである。浅草寺であるが、宝蔵門の東南に弁天山と弁天堂があるが、弁才天は観世音菩薩や愛染明王の権化とされているのである。そもそも弁才天の原型は河の女神であるサラスヴァティーとされるが、サラスヴァティーは大地母神で戦いの女神アナーヒターと同一視する説があり、さらにアナーヒターを観音の起源に関係づける見解があり、そうすると観音と弁才天は同じということにもなるわけである。本堂の後方の左右には不動明王像と愛染明王像が安置されている。浅草寺の観音信仰は、推古天皇の時に隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった一寸八分の仏像を、戸長の土師真中知(土師直中知)に見せたところ、聖観音像であることが分かり、土師真中知は出家して自宅に安置したのが始まりといわれ、その後、大化元年(645)に勝海上人という僧が観音堂を創建し、この観音堂が浅草寺の起源ということになる。遺跡発掘からすくなくとも奈良時代には大寺ともいえる伽藍があったという。この伝承で気になるのは、出家し自宅に観音像を安置したという土師真中知(土師直中知)で、出雲神族の伝承では菅原道真もその一族である土師氏は出雲神族であった。寒川神社・神田神社・浅草寺の方位線もまた出雲神族の方位線ともいえるわけである。出雲神族がアラハバキ神と弁才天を結び付けたのにはそれなりの理由があったはずであるが、弁才天の信仰が盛んになるのは室町時代になってからで、それ以前はそれほど目立つ存在ではなかったようである。弁才天と観音が同じ起源をもっていたとすれば、古くにはアラハバキ神と観音を結びつける動きが出雲神族の一部にあった可能性も考えられるわけである。
寒川神社―将門首塚(E0.074km、0.09度)―浅草寺(E0.074km、0.08度)の東北45度線
浅草寺を出雲神族と結び付けたくなるもう一つの理由は、浅草寺が八風山の西北30度線上にあることである。栃木県の寒川は八風山の東西線上にあったが、浅草寺は寒川という地名とは結びつかないが、寒川神社と方位線をつくるわけであり、出雲神族と関係する寒川神社・八風山と方位線をつくる浅草寺も出雲神族と関係するのではないかと考えたくなるのである。八風山と浅草寺の方位線上に稲含山があるが、稲含山と寒川神社が西北60度線をつくる。
浅草寺―稲含山(E0.059km、0.03度)―八風山(E0.469km、0.21度)の西北30度線
寒川神社―稲含山(E0.298km、0.17度)の西北60度線
下落合の氷川神社の神職さんの話によると、当社は大宮氷川神社から勘定したものではなく、大宮氷川神社に調べてもらってもそのような記録がなく、独立した氷川神社としてあったものであり、大宮氷川神社より古いかもしれず、もともと氷川信仰というものがあり、そのなかで大宮氷川神社もできたのではないかという。また、当社を女宮、高田二丁目の氷川神社を男宮とかってはいわれており、戦前までお神輿を両神社から出して、途中でぶつかる祭りがあったが、戦前ですでに数百年は続いているといわれていたという。下落合と高田二丁目の氷川神社は密接な関係があったわけであるが、下落合の氷川神社は将門の首塚すなわち神田神社と西北30度線をつくり、高田二丁目の氷川神社は浅草寺と東西線をつくる。この方位線は、寒川神社・将門首塚・浅草寺と方位線をつくる酒列磯前神社と大宮氷川神社が東北30度線をつくっていたこととも、何らかの関係性があるのかもしれない。もしそうだとすると、牛山佳幸『【小さき社】の列島史』では下落合の氷川神社はもともとは単なる女体社で氷川神社とは何の関係もないとされているが、すくなくとも下落合の女体社についてはそうとは言い切れないということにもなるわけである。下落合の氷川神社の神職さんのいうように、もともと氷川信仰というものがあったとすると、それが男女神と結びつく信仰であったとすれば、大宮氷川神社のように一つの神社の中に男体社と女体社があるような形態をとる場合もあれば、下落合と高田二丁目の氷川神社のように女宮と男宮という二つの神社に分かれるという形態をとる場合もあるということではないだろうか。氷川信仰が出雲神族と結びつくなら、クナトノ大神とアラハバキ神という男女神の信仰があっても不思議ではないということになる。下落合の氷川神社では水が湧いて、そこに大黒様に似た砂が出るといわれていたというが、このような話が出てくるのも、下落合の氷川神社がもともと出雲神族と深く結びつく神社だったからではないだろうか。
下落合の氷川神社は将門の首塚と西北30度線をつくっていたが、高田二丁目の氷川神社は鎧神社と東北30度線をつくる。また、下落合の氷川神社と将門の首塚の西北30度線上には富塚があったが、高田二丁目の氷川神社と富塚も西北60度線をつくっている。下落合と高田二丁目の氷川神社が、東北45度線で結ばれた浅草寺と神田神社、鎧神社・将門首塚・兜神社という将門レイラインの両方に方位線的に結びついているということは、戸塚の地名の起源になっている富塚とも両社が方位線的に関係していることなども考えると、下落合の氷川神社は戦国後期に流行神として祀られたようなものではなく、やはり下落合と高田二丁目の氷川神社は密接な関係をもちながら、江戸の地霊の古層を形成している神社の一つだったと考えるべきでのであろう。
浅草寺―高田二丁目氷川神社(S0.022km、0.17度)の東西線
将門首塚―下落合氷川神社(W0.048km、0.41度)の西北30度線
鎧神社―高田二丁目氷川神社(E0.057km、1.40度)の東北30度線
富塚―高田二丁目氷川神社(E0.016km、1.10度)の西北60度線
方位線的に下落合の氷川神社が氷川女体神社とまったく関係がなかったというわけではない。南北線で結ばれているともいえるのである。浅草寺も中川氷川神社と西北60度線をつくる。このことは、寒川神社・神田神社・浅草寺・酒列磯前神社の方位線が大宮氷川神社と深い関係にある方位線であることの一つの証明になるかもしれない。そして、江戸で寺といえば浅草寺で、社といえば鳥越神社のことだったというが、大宮氷川神社と鳥越神社も西北60度線をつくる。浅草寺・鳥越神社・烏森神社という将門と結びつくラインは考えられるが、鳥越神社と出雲神族を結びつける方位線や直線はみられない。あるいは、下落合と高田二丁目の氷川神社を結んだ方向に鳥越神社があることはあるので、もしかしたら鳥越神社と両氷川神社の間にはレイライン的磁場が成立しているのかもしれないが、鳥越神社と出雲神族系の聖地が結びつくのは江戸時代になってからである。
氷川女体神社―下落合氷川神社(E0.516km、1.56度)の南北線
中川氷川神社―浅草寺(W0.005km、0.01度)の西北60度線
大宮氷川神社―鳥越神社(E0.226km、0.46度)の西北60度線
下落合氷川神社(1.06度)―高田二丁目氷川神社(178.71度)―鳥越神社(0.307km)の直線
鳥越神社と下総の二宮神社が東西線をつくる。そして、鳥越神社も寒川神社・酒列磯前神社と東北45度線をつくっているともいえるわけであるから、寒川神社・二宮神社・鳥越神社、大宮氷川神社・酒列磯前神社・鳥越神社が方位線三角形をつくり、さらに大宮氷川神社と二宮神社も西北30度線をつくるとすれば、大宮氷川神社・二宮神社・鳥越神社も方位線三角形をつくるということにもなるわけである。
二宮神社―鳥越神社(N0.028km、0.07度)の東西線
寒川神社(W0.363km、0.40度)―鳥越神社―酒列磯前神社(W0.212km、0.11度)の東北45度線
徳川の方位線
徳川幕府と江戸の霊的防御体制を考えたとき、家康の生前と死後に分けて考えなければならないであろう。生前は家康自身が護られる側であったが、死後は徳川を護る存在へと立場を変えているからである。天正十八年(1590)家康は江戸に入府すると、浅草寺を祈願寺、増上寺を菩提寺にした。また、江戸城造営のため、梅林にあった天神社を平川集落薬師堂(龍眼寺)に移し、またその近くにあったと思われる北の曲梅林の山王社を紅葉山に移し、江戸城の鎮守・徳川の産土神とした。天神社・山王社の移転は、家康が鎧神社・将門首塚・兜神社という将門ラインを無視したようにも見えるが、増上寺の場所をみると家康が将門ラインを無視していたわけではないことがわかる。慶長三年(1598)増上寺は現在地に移された。その前は日比谷にあったといい、さらにその前は貝塚村(国立劇場・隼町付近)にあったという。現在の増上寺は、鎧神社と西北45度線、旧兜塚と東北45度線をつくるのである。さらに、浅草寺・鳥越神社・増上寺が直線をつくる。
増上寺―鎧神社(E0.080km、0.62度)の西北45度線
増上寺―旧兜塚±(E0.033km、0.47度)の東北45度線
増上寺(0.34度)―鳥越神社(0.036km)―浅草寺(1.15度)の直線
もっとも、今増上寺がある場所が選ばれたのは、『徳川将軍家の謎』(別冊宝島)の内藤正敏氏によれば、『増上寺史』に、本堂の後ろに玄武としての円山、観音山、地蔵山があり、左に青龍の桜川、右に白虎の東海道、そして本堂正面に朱雀としての江戸湾というよう四神相応の地であったこと、増上寺以前からいくつかの寺が建っており、古くからの聖地であったという二点があげられているという。家康が江戸にくる以前から、増上寺の地や鳥越神社を含んだ方位線・レイラインによる江戸の結界が成立していたのかもしれない。そうすると、家康は将門やその方位線を意識したというよりは、単に古くからの江戸の聖地の一つに増上寺を持ってきただけという可能性も生じる。鳥越神社にしても、白鳥山を取り崩す際に、そこにあった鳥越神社を移転させようとしたということは、方位線やレイラインは場所の位置と不可分なのであるから、徳川幕府は方位線やレイラインに対する関心が薄かったということの証拠ということにもなりえるわけである。ただ、その後の配置をみると、江戸城普請や江戸の町づくりが優先されることもあったかもしれないが、やはり家康が将門や浅草寺との方位線を意識していたとしか思えないし、後の徳川の方位線にとって、鳥越神社は重要な位置を占めることにもなるのである。
関ヶ原に勝利し、天下を自分のものにした家康は、慶長八年(1603)に神田明神を駿河台へ移し、慶長十二年(1607)に天神社を現在地の千代田区平河町の平河天満宮に移している。その間に、江戸城では旧天守閣が造られている。慶長十八年(1613)には天海が住職をしていた無量寿寺を喜多院と改め、天台宗関東総本山とし、さらに天海を日光山住職とし、山王社を紅葉山から貝塚村に移して江戸総鎮守としている。そして、家康が死んだ元和二年(1616)には、神田明神を現在地に移し、津久戸明神を築土八幡に移している。
平河天満宮と津久戸明神であるが、平河天満宮は鎧神社・鬼王神社の西北30度線上に位置しており、旧兜塚と東西線、鳥越神社と東北30度線をつくっている。そして、鎧神社と築土八幡が東西線をつくっていたが、平河天満宮と築土八幡も南北線をつくっている。神田明神であるが、もともとの鎮座地が浅草寺と東北45度線をつくっていたが、現在の鎮座地も浅草寺と東北30度線をつくり、さらに鳥越神社と東西線をつくる。貝塚の山王社であるが、あるいは平河天神と同じく兜塚と東西線、鳥越神社と東北30度線をつくっていたのかもしれないが、場所的には平河天神のすぐ近くであり、天神社と山王社は同じ場所に集められたと考えるべきであろう。そして、その場所が鎧神社・旧兜塚・鳥越神社と方位線で結ばれているということから選ばれたのかもしれない。
平河天満宮―鬼王神社(W0.121km、1.90度)―鎧神社(W0.093km、1.04度)の西北30度線
旧兜塚±―平河天満宮(0.000km、0.00度)の東西線
鳥越神社―平河天満宮(W0.128km、1.58度)の東北30度線
津久戸明神・築土八幡―平河天満宮(W0.030km、0.71度)の南北線
浅草寺―神田明神(W0.088km、1.69度)の東北30度線
鳥越神社―神田明神(S0.003km、0.11度)の東西線
元和二年(1616)四月十七日巳の刻、駿府城において家康は七五才の生涯を終える。雨の中、柩はその夜のうちに久能山に担ぎ上げられ、梵舜らによって、吉田社の唯一神道で神に祀り上げられ、一九日から二十日の朝にかけて埋葬された。その遺言は、「遺体は久能山に納め、葬儀は増上寺にて行ない、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌を過ぎた以後は、日光山に小さき堂を建て、勧請せよ。関東八州の鎮守になるであろう」というものだったという。その後、崇伝の唯一神道による「大明神」号で祀るか、天海の主張する比叡山に伝わる山王一実神道によって「大権現」で祀るかの争いがあったというが、最後の「豊臣秀吉が吉田神道によって豊国大明神として祀られながら、豊臣家が滅亡したのは不吉である。」という天海の一言で、「大権現」で祀られることになったという。翌元和三年二月、天皇より東照大権現の諡号が勅賜され、天海は自ら家康の遺骸を掘り起こすと、金箔を貼った輿に遺骸を乗せ、大行列で日光に向かい、元和三年三月十五日、奥の院の宝塔下に埋葬され、東照社にその神霊が東照大権現として祀られる。
東照宮については、久能山と日光、それに群馬県の世良田の東照宮が一直線上に並ぶことが指摘されているが、これは世良田の東照宮が造られることによって意味をもってくるのであって、久能山と日光の東照宮しかない時期には意味をもたない。久能山と日光の東照宮を結ぶ直線の近くに富士山があることも指摘されているが、久能山東照宮と富士山火口中心を結ぶ線から日光東照宮は6km以上も離れてしまい、久能山東照宮―富士山―日光東照宮が一直線上にあるとするには疑問も残る。ただ、久能山から富士山が見えるというから、久能山に立った人間が富士山の向こうに日光を意識することはありえることであろう。
久能山の東照宮について、『徳川実紀』に、家康は遺言で久能山において「神像を西に面して安置」するように命じたが、これは「西国鎮護のため」と書かれているという。久能山の奥社宝塔が西面して立てられたのは、そのためであると伝えられている。久能山東照宮の東西線上に家康が生まれた岡崎、さらにその先に京都があることが指摘されている。尾関彰『濃飛古代史の謎』では、久能山と鳳来寺山が東西線をつくり、太陽の道として太陽信仰に関係するのではないかと指摘されており、高藤晴俊『日光東照宮の謎』によれば、東に昇り西に没し、そして再び東に昇るというように、死と再生を繰り返す太陽が東から昇るように、家康が神として再生するためには、神の世界であり、太陽が昇る方角である東に葬られなければならなかったという。岡崎周辺で家康と関係のある場所としては、家康の生母於大の方が子授けの祈願をした鳳来寺、遺言で「位牌を立てよ」と命じた松平家の菩提寺の大樹寺、これらの場所には東照宮が建てられたが、さらに家光によって同時期に東照宮が建てられた岡崎城の鬼門の方角にあたる滝山寺などがある。このうち、久能山東照宮からの東西線に一番近いのは鳳来寺東照宮であり、また鳳来寺山の東西線上に大樹寺がある。さらに、東照宮と太陽信仰の結びつきから、尾関章『濃飛古代史の謎』では、男体山と女峯からなる「日光山」は伊吹山と木曾御嶽を結ぶ夏至の日の出線上に位置しており、江戸の北に位置し、関東修験道の一大拠点であり、かつ御嶽からみて「東照」の何ふさわしいこの地こそが「東照大権現」を祀る地として選ばれたのではないかとする。二至二分線と方位線は分けて考えなければならないが、東北30度線で考えて見ると、伊吹山と東北30度線をつくるのは浅間山・日光白根山であった。御嶽山の剣ヶ峰からの東北30度線でも、男体山の奥宮をとるなら、約6kmほど離れてしまう。
久能山東照宮―鳳来寺東照宮( N0.577km、0.41度)の東西線
鳳来寺山―大樹寺(N0.031km、0.05度)の東西線
京都では、秀吉が埋葬された阿弥陀ヶ峰、崇伝が勧請した金地院の東照宮などがあげられている。阿弥陀ヶ峰はいわば敵ともいえる豊臣の聖地であるの対して、金地院の東照宮は京都における徳川の霊的拠点といえる。ただ、金地院の東照宮は久能山東照宮の東西線から5kmほど北であり、方位線をつくっているとはみなせないかもしれない。阿弥陀ヶ峰であるが、小松和彦氏との対談『鬼がつくった国・日本』で内藤正敏氏は「秀吉マンダラ」と名づけて、秀吉が埋葬された阿弥陀ヶ峰の東西線上に豊国神社、秀吉の造った方広寺、秀吉が寺地を与えた西本願寺が並び、さらに方広寺と三十三間堂が南北線をつくり、阿弥陀ヶ峰・本願寺の阿弥陀如来は過去、三十三間堂の観音は現在を意味し、これらを統轄し、過去・現在・未来を統合したかたちで方広寺の毘盧遮那仏を配したという。こに対して、家康は豊国神社を破壊し、その東西線を分断するように新日吉神社、秀吉によって焼き討ちにされた根来大伝法院の一院だった智積院を建て、さらに生母の意向や秀吉の命によって隠居させられていた教如に東本願寺を建てさせたといわれる。阿弥陀ヶ峰から西に向かう秀吉が作った東西線を断ち、東から久能山の東照宮に祭られた家康が阿弥陀ヶ峰の秀吉を牽制しているわけである。新日吉神社であるが、日吉大社は日吉丸といわれた秀吉と関係の深い神社であり、秀吉をまったく抹殺しようとしたというよりは、秀吉の顔を立てながら、日吉大社という生前の秀吉まで後退させ、生前の範囲に封じ込めようとしたということであろう。西本願寺と阿弥陀ヶ峰の東西線であるが、確かに西本願寺の東の方向に阿弥陀ヶ峰はあり、おそらく西本願寺を建てた准如もそのことを意識したと考えられるが、方位線的にはいえば、阿弥陀ヶ峰の東西線に対して、少し北に寄りすぎていて、方位線をつくるとはいえない。
久能山東照宮の東西線上にあるのは伏見稲荷大社であり、家康は江戸に入府すると、王子稲荷を祈願所に定めたというから、稲荷は家康とも深く結びついているので、あるいは徳川にとって京都の霊的拠点として伏見稲荷が重要な意味をもっていたのかもしれない。伏見稲荷大社は日光東照宮とも東北30度線をつくる。加門七海『東京魔方陣』によれば、伏見稲荷は明治政権にかなり邪険に扱われ、後にある程度返還されたというが、維新直後三十六万坪の神域を二万坪にまで減らされたという。これは徳川と伏見稲荷の間に何らかの関係があったということではないだろうか。火坂雅志『日本魔界探検』では、家康は天下をとるために茶吉尼を使った外法を行っていたのではないかとする。関ヶ原の戦いの前に、茶吉尼を祀る豊川稲荷に祈願し、戦勝後、四十九石を寄進しており、京都真如堂の塔頭で茶吉尼を祀る法伝寺の由緒書きには、「徳川家康公は、此の天尊(茶吉尼)を深く信仰され、天下を治めるにいたり報恩のために祭祀料百石を供えられました」と書かれているという。伏見稲荷は、秦氏系はもともとは茶吉尼天とは関係ないが、荷田氏を通じて東寺系の稲荷信仰も入っており、伊藤唯真「稲荷信仰と仏教」(松前健編香『稲荷明神』)によれば、主として東寺さらには天台宗諸寺の密教徒によってダ吉尼天を介して密教的稲荷信仰が成立せしめられたという。旧暦四月の卯の日の稲荷の大祭には、伏見稲荷の五座の神輿は、お旅所を発して東寺に向かい、南門より入り、金堂前に安置されるが、このとき稲荷神の饗応が中門においてなされ、そのとき供された餅菓子を油で揚げた太摩我里(ふとまがり)が、稲荷の供物は油揚げとされる原形ともいわれる。
久能山東照宮―稲荷山二ノ峯(N0.272km、0.06度)―伏見稲荷本殿(N0.272km、0.06度)の東西線
日光東照宮―稲荷山二ノ峯(E0.555km、0.08度)―伏見稲荷本殿(E0.055km、0.01度)の東北30度線
『東京魔方陣』によれば、和歌山東照宮・岩清水八幡宮・伏見稲荷大社・日吉大社が一直線上に並ぶという。和歌山東照宮は元和七年(1621)年創建され、その御鎮座の式典は天海が大導師となって斎行されたといい、吉大社の東照宮は元和九年(1623)に西本宮の南に天海によって造営されている。和歌山と日吉大社の東照宮を結ぶ線に対して、岩清水八幡は約900m離れているが、稲荷山はその直線上にピタリときており、二ノ峯で約100mほど離れている。もっとも、和歌山東照宮で造営された時にはまだ日吉東照宮はできてなかったから、日吉大社神体山の八王子山と和歌山東照宮を結ぶ線上に、伏見稲荷本殿がくるということになる。伏見稲荷は徳川の京都における霊的拠点であった可能性があったが、岩清水八幡について加門七海氏は八幡宮と源氏は密接な関係があり、家康も清和源氏の流れと称していたことを指摘している。ただ、岩清水八幡とより強く結びついているのは秀吉かもしれない。宮元健次『江戸の都市計画』によれば、秀吉は本当は八幡大菩薩として祀られたかったのであり、遺言により八幡大菩薩として祀られたが、一年後朝廷から下賜されたのは豊国大明神の神号だったという。八王子山・阿弥陀ヶ峰・岩清水八幡が一直線上にあるともみなせないことはない。一方、日吉大社西本宮・伏見稲荷本殿・岩清水八幡も一直線をつくる。方位線的にいうと、八王子山と稲荷山が東北60度線をつくっている。
八王子山―伏見稲荷本殿(0.065km)―和歌山東照宮の直線
八王子山(1.31度)―阿弥陀ヶ峰(0.267km)―岩清水八幡(1.07度)の直線
日吉大社西本宮(0.2度)―伏見稲荷本殿(0.052km)―岩清水八幡(0.24度)の直線
八王子山―稲荷山二ノ峯(E0.029km、0.12度)の東北60度線
家康が日光に祀られたことについてはこれまでも諸説あったが、どれもそれ一つではわざわざ改葬した理由として説得力に欠けるという。それで、最近多くの人に注目されているのが、日光が江戸のほぼ真北に位置しているということである。それらの考えによれば、真北は北極星のある方角であり、北極星すなわち北辰は宇宙の中心として、天皇大帝(天帝)の居るところである。その北辰の方向である日光に家康を祀るということは、東照大権現を天帝と一体視するということであり、日光と南北軸をつくる江戸は地上の中心であり、そこに居る将軍は天子ということになる。すなわち、家康が日光に祀られることにより、将軍は天皇と同格の存在になったわけであり、日光改葬の目的はそこにあったというわけである。天皇に対応するのが将軍であり、天照大神に対応するのが北辰と一体になった家康・東照大権現ということになるが、天海は東照大権現に対し鏡と剱と宝からなる「三種の神器」を造っており、御璽には金剛宝菩薩、宝剱には不動明王、神鏡には金剛光菩薩の印明を与えている。御璽の入った璽筥の内箱の側面に「今此三界皆是我有。其中衆生悉是吾子」という法華経の文句が書かれていたといい、それも明らかに全国支配を意味しているという。
天照大神を祭る伊勢神宮と東照大権現が祀られている日光であるが、伊勢神宮外宮と日光男体山が東北45度線をつくり、内宮の東北45度線上に東照宮のある日光がくる。一番正確なのは滝尾神社であるが、東照宮も内宮と東北45度線をつくるといってもいいであろう。日光が選ばれたのには、このような伊勢神宮と日光が方位線で結ばれていることも理由の一つだったのではないだろうか。男体山の東北45度線上には貫前神社があったが、貫前神社と密接な関係があった稲含山と内宮も東北45度線をつくっている。また、外宮の東北30度線上には大洗磯前神社とともに氷川女体神社がある。
外宮―貫前神社(W0.899km、0.18度)―男体山奥宮(W1.027km、0.16度)の東北45度線
内宮―稲含山(W0.114km、0.02度)―日光東照宮(E2.611km、0.41度)―滝尾神社(E1.529km、0.24度)の東北45度線
外宮―氷川女体神社(E1.047km、0.19度)―大洗磯前神社(W0.113km、0.02度)の東北30度線
伊勢神宮において内宮と外宮が一体のものであるとすると、内宮・外宮と方位線で結ばれた男体山と東照宮も一体のものでなければならないであろう。しかし、男体山と一体なのは東照宮ではなく二荒山神社である。それゆえ、二荒山神社本宮の地に東照宮は建てられなけばならなかったのであろう。ただ、二荒山神社本宮の地に建てるだけで二荒山神社と東照宮、すなわち東照宮と男体山が一体化されるほど簡単なものではなく、二荒山神社と東照宮を一体化する何らかの儀式が必要ともいえる。高藤晴俊『日光東照宮の謎』によれば、日光東照宮の「千人武者行列」といわれる神輿渡御(しんよとぎょ)祭は、元和三年の東照宮鎮座にさいし、将軍秀忠参列のもとに行われたのが始まりで、行列の規模や形式などは、久能山から日光へ遷座する時の行列に、日光山古来の儀式、とくに滝尾神社の神事を加味して成立したものであるという。夕刻神輿が二荒山神社に渡御し、翌日神橋近くの御旅所に向かうが、その時の行列が千人武者行列で、御旅所での神事が終わると、再び行列を整えて、東照宮に還御する。高藤晴俊氏は二荒山神社への渡御について、通常他の神社に渡御する例はあまり見られず、さらに一泊することは、たんに地主の神に敬意を表する、などの理由であるとは考えられないという。ただ、それは渡御する先が二荒山神社であることよりも、二荒山神社が東照宮の西の方位に位置しているという、方角にこそ重要な意味があり、太陽が西に没するように、西方に移ることによって、家康が一度この世を去ったことを意味するのではないかという。江戸時代にはこの渡御を「通夜」と称していたという。翌日二荒山神社から御旅所に向かうが、御旅所は久能山に見立てられており、神としての再生であるという。神として再生した家康は、御旅所=久能山から東照宮へ遷座するわけである。このように、神輿渡御祭は「死と再生」の儀式というのであるが、しかしすでに東照大権現として神となった家康が、なぜ再び死ななければならないのだろうかという疑問が湧く。男体山の神と東照大権現とは、その成り立ちからいっても別の神である。その東照大権現が男体山の神と一体になるためには、変容のために一度死ななければならないということではないだろうか。東照大権現は死んで家康に戻るのではなく、一種の蛹化のようなものとして、二荒山神社に渡御して一泊することにより、男体山の神と一体化した東照大権現として再生して御旅所=久能山に祀られ、さらに東照宮へ還御するということであり、単なる東照大権現ではなく、男体山の神と一体となった東照大権現になったとき、はじめて天照大神と対等の神になれるということではないだろうか。
男体山にはもう一つ重要な方位線がある。男体山の東北30度線上に日吉大社、それに京都御所が位置しているのである。現実に天皇が住んでいる御所と、天皇の祖神である天照大神を祭る伊勢神宮、その両方と方位線で結ばれている日光は、家康を東照大権現として祀る場所としては、方位線的にこれ以上の場所はなかったともいえるわけである。日吉大社は江戸にとっても無視できない場所である。日吉大社神体山の八王子山と丹後籠神社の海の奥宮である冠島が西北60度線をつくり、冠島・沓島の東西線上に江戸が位置しているのである。そして、男体山と方位線をつくる外宮の豊受大神は丹後の籠神社から来たともいわれているのであるから、男体山から浮かび上がるのは、籠神社あるいは出雲神族の真名井神社の影である。
東照宮の相殿の神は、明治の神仏分離までは山王神と摩多羅神で、天海の山王一実神道の教理に基づくものといわれているが、高藤晴俊『日光東照宮の謎』によると、山王神と摩多羅神でなければならない積極的な理由は説明されていないという。中世期の日光ではすでに日吉大社にならって山王七社が祀られ、そのうちの東照宮の創建にあたってお旅所になったのが、山王神を祀る二宮で、摩多羅神も陽明門近くにあった常行堂のに祀られていたという。しかし、重要なことは高藤晴俊氏によると、日吉大社の中心をなす山王七社が北斗七星になぞられ、正体不明といわれる摩多羅神も、その画像に北斗七星の描かれているものがあることから、どちらも北斗七星と関わりをもつ神であり、古代中国では北極星に住む天帝は北斗七星の車に乗って宇宙を巡ると考えられていたから、主祭神が北極星なら、相殿は北斗七星でなければならず、北斗七星と関係する神が選ばれたのではないかという。東照宮に伝えられる三幅対の画像でも、中央の一幅は家康で、左右の二幅は山王神と摩多羅神の画像であるが、それぞれ最上部に北斗七星と東洋では早くから知られている北斗七星の輔星の表象が描かれているという。「妙見と北斗、並びに輔星は一体分身」とも「輔星は妙見の輔相」ともいわれ、高藤晴俊氏は山王神が北斗七星を表わし、摩多羅神は輔星に当てられているのではないかとする。また、空海が滝尾で修行中に大小二つの玉が現われ、大のほうは妙見尊星(北極星)、小のほうは天補星と名乗ったというが、天補星は他の史料には見えない名称であるが、北斗七星の輔星である可能性が高いという。
摩多羅神は空海とも関係が深い。東寺の南大門に現れた、空海が紀州田辺で遭った異相の老翁、すなわち稲荷神と再会し語らったのが東寺の中門の下といわれるが、中門には夜叉神が祀られいた。「この寺奇神あり、夜叉神と名づく、摩多羅神これなり」といわれたもので、その形三面六臂で、三面は三天で中央が聖天、左がダ吉尼、右か弁財であるという。聖天・ダ吉尼・弁財の三面は『大日経疏』によるものという。もともと狐と結びついていたのは稲荷ではなく茶吉尼天であり、さらに松前健「稲荷明神とキツネ」(松前健編『稲荷明神』)に、インドでは茶吉尼天と狐の結びつきはみられず、笹間良彦氏によれば中国から伝来する頃から狐妖譚と結びつき、日本においては完全にダキニ神はキツネに乗る姿となったのだという。そして、中国には狐について「必ず髑髏を戴きて北斗を拝す」とか「百歳に至りて、北斗に礼して変化し」という記述があるという。そうすると、もともと北斗と結びつくのは狐で、それが茶吉尼天と結びつき、さらに茶吉尼天と摩多羅神が結びつくことによって、摩多羅神と北斗七星の関係も生じてきたのかもしれないわけである。どちらにしても、東照宮を日光に鎮座させるにあたって、摩多羅神・茶吉尼天・稲荷神が同一視されていた可能性がある。そうすると、方位線的にいうと、山王神が男体山と日吉大社の方位線に対応し、摩多羅神が茶吉尼天・稲荷神としては東照宮と伏見稲荷の方位線、弁財天としては男体山と江ノ島の方位線に対応していたともいえるわけである。
男体山奥宮―八王子山(W0.667km、0.10度)―日吉東照宮(E0.107km、0.02度)―京都御所(W0.371km、0.05度)の東北30度線
八王子山―冠島(W0.411km、0.30度)の西北60度線
冠島―将門首塚(N0.677km、0.10度)の東西線
沓島―浅草寺(N0.363km、0.05度)の東西線
徳川幕府は天皇との二重王権どころか、初期の幕府には天皇に代わって日本の王になろうとした形跡がある、ということを何かで読んだ記憶がある。しかし、家康の遺言では、日光に祀られるのは関東八州の鎮守となるためであった。日光東照宮に比べ、男体山は関東の方位線網を通じて関東の地霊とも深く結びついていた。その意味でも、家康は男体山の神と一体化しなければならなかったともいえる。関東の地霊を日光に結集することによって、神となった家康は天照大神とも対抗できるのだともいえる。関東での方位線をみると、男体山と江ノ島が南北線をつくっていたが、その南北線上に川越の喜多院がある。喜多院は大宮氷川神社とも東西線をつくる。日光山を開いた慈覚大師がこの地にも寺を建てたのは、おそらく男体山の東西線と大宮氷川神社の東西線が交わる場所だったからであろう。喜多院の西北45度線上には将門の首塚や旧兜塚があり、喜多院と江戸にはもともと縁があったともいえる。正確には旧兜塚であるが、大宮氷川神社との東西線、江ノ島や大国魂神社との南北線を考えると、出雲神族と方位線的に結びつくともいえ、そうするともともとの神田神社と方位線をつくっていたということなのかもしれない。
男体山奥宮―喜多院(W0.122km、0.07度)の南北線
大宮氷川神社―喜多院(N0.073km、0.33度)の東西線
大宮氷川神社―久能山東照宮(E0.400km、0.15度)の東北45度線
喜多院―将門首塚(W0.623km、0.99度)―旧兜塚(E0.071km、0.11度)の西北45度線
江戸に東照宮を建てることも、家康の予定の中に入っていたのであろう。天海が日光山の住職になったのは、家康を神として祀る神社を日光に建てることがすでに予定されていたからと思われるが、同じ慶長十八年(1613)に山王社が紅葉山から貝塚村に移されているが、これもやがて家康を祀る神社を紅葉山にもってくるために、山王社をどけたということではないだろうか。江戸城梅林にあった天神社は城外に移しているのに、山王社を城内の紅葉山に移したのは、秀吉の目を気にしたのかもしれない。秀吉と日吉大社との結びつきを考えると、山王社を粗末に扱って、それを秀吉を軽視しているからだととられたり、謀反の心ありと言いがかりをつけられることに、注意しすぎることはなかったはずである。おそらく、そういうことも考えて家康は山王社を江戸城の鎮守としたのであろう。しかし、家康が神になったなら、神となった家康こそが江戸城の守護神とならなければならない。
家康が東照大権現として日光に祀られた翌年の元和四年(1618)に、江戸城紅葉山と浅草寺に東照宮が建てられている。方位線的にいうと、紅葉山の東照宮は江戸城と江ノ島が東北60度線をつくっていたから、さらに江ノ島と男体山の南北線によって日光の東照宮とつながり、久能山の東照宮は、紅葉山の東照宮と鳥越神社が東北30度をつくると考えられるから、鳥越神社と大宮氷川神社の西北60度線、大宮氷川神社と久能山東照宮の東北45度線という方位線網によってつながることとなる。さらに、大宮氷川神社と喜多院が東西線をつくっていたから、鳥越神社との方位線を通じても紅葉山の東照宮は日光の東照宮と方位線的につながっていることになる。鳥越神社と平河天満宮、鳥越神社と紅葉山東照宮は東北30度線をつくるが、平河天満宮と紅葉山の東照宮は東北30度線をつくるとはいえない。ただ、紅葉山にあったとき、山王社は紅葉山のどこらあたりあったかわからないが、やはり鳥越神社と東北30度線をつくり、そして紅葉山から貝塚村のやはり鳥越神社と東北30度線をつくる場所に遷座したのではないだろうか。
鳥越神社―紅葉山東照宮±(E0.088km、1.38度)の東北30度線
寛永二年(1625)には、上野に寛永寺が建立される。寛永寺が建てられたのは、江戸城の鬼門を鎮護する祈祷所として、天台宗関東総本山としては喜多院では役不足だと感じられた、などの理由があげられているが、日光東照宮のある日光山の住職が天海であり、家康が東照大権現として祀られとき、中心として動いたのが天海だったことを考えると、江戸の東照宮もまた天海と関係を持たせるということは、まったく自然な考えであろう。老齢の天海を江戸に住まわせるということもまた理由の一つだったかもしれないが、江戸城の東照宮の霊的力をさらに増強させるという目的もあったと考えられる。ただ、寛永寺の建立まで家康の計画に入っていたのかどうかであるが、もし最初から計画に入っていたなら、浅草寺が江戸城東照宮の別当にされることもなかったであろうし、別当寺とされたとしてもそれは臨時的なものであり、寛永寺ができたらすぐに寛永寺に代えられていたであろうから、寛永寺の創建は当初から計画されていたわけではないということであろう。
方位線的には、寛永寺を通じて、紅葉山の東照宮と日光・久能山の東照宮の方位線網をより簡潔なものに整備し、その機能を高めたことがみてとれる。寛永寺は鳥越神社と同じように大宮氷川神社と西北60度線をつくり、寛永寺の東北60度線上に紅葉山東照宮がある。ということは、寛永寺と江ノ島も東北60度線をつくるということであり、寛永寺・紅葉山東照宮・江ノ島が一つの方位線上に並ぶことになるわけである。上野公園の大噴水のあるところが寛永寺の根本中堂跡、国立博物館のある所が本房跡といわれているが、根本中堂が建てられたのは元禄十一年(1698)でだいぶあとのことである。
大宮氷川神社―寛永寺本房±(E0.486km、1.07度)の西北60度線
寛永寺本房±―紅葉山東照宮±(W0.083km、1.07度)―江ノ島弁財天(W0.021km、0.02度)の東北60度線
江戸幕府や天海の理想からいえば、浅草寺が祈願寺、増上寺が菩提寺、そして寛永寺が江戸城東照宮の別当寺という形になることだったのではないだろうか。方位線的にみると、創建当時の寛永寺は東照宮に意識を集中していたのではないかとも思えるのである。創建当時の寛永寺の中心は本房ということになるが、鳥越神社と本房は西北60度線をつくっているとはいえない。また、下落合の氷川神社の東西線方向にあり、高田二丁目の氷川神社が浅草寺と東西線をつくり、下落合の氷川神社と寛永寺が東西線をつくると考えたいのであるが、地図に下落合の氷川神社から東西線を引いて、国立博物館の場所をみると、東西線をつくっているとするには何かしっくりこない。それに対して、寛永寺の境内に建てられた東照宮は、浅草寺と東西線をつくり、鳥越神社と西北45度線をつくっているのである。ただ、王子稲荷と本房とは西北45度線をつくっているとみなせるかもしれない。また、増上寺と本房を結んだ直線上に神田明神と将門の首塚がくるようにも見えるが、これには根本中堂も絡んでくる。
鳥越神社―上野東照宮(E0.060km、1.71度)の西北45度線
浅草寺―上野東照宮(N0.059km、1.42度)の東西線
王子稲荷―本房跡±(W0.174km、1.74度)の西北45度線
寛永寺ができることにより、浅草寺と増上寺の立場が微妙になる。その原因の一つは、家光以後の将軍が家康や天海に傾倒するあまり、バランス感覚を喪失した結果と考えられる。増上寺はそれでも、四代将軍家綱、五代綱吉と寛永寺に埋葬されたが、六代家宣になって寛永寺と双方に埋葬されることで折り合いがつけられたが、浅草寺の方は、寛永十九年(1642)火災で本堂や東照宮を焼失すると、浅草寺の懇願にもかかわらず家光は東照宮の再建を許さず、一方ではそれまで小さな社であった寛永寺の東照宮を壮麗なものに建てかえている。天海の死んだのは翌年寛永二十年であるから、それは天海も了承していたことかもしれない。天海には浅草寺や増上寺から祈願寺や菩提寺の地位を奪う気はなかったであろう。ただ、江戸城の東照宮の別当の地位は自分にならなければ、家康死後の霊的防御体制は完成しないと考えたかもしれない。家康が日光に祀られた翌年に、江戸城とともに浅草寺にも東照社が建てられたということは、浅草寺に東照社を建てることも、家康存命中から決まっていたのであろう。しかし、家康とそれ以後の将軍では心理状態が違う。家康を尊敬すればするほど、神としての家康に頼ろうとするであろうし、家康を東照大権現として祀った中心の天海にも頼ろうとするであろう。天海に傾倒していたとすれば、なおさらである。その際、別に浅草寺に東照宮があっても問題ではないはずである。浅草寺に東照宮の再建を許さなかったのは、それまでに江戸城別当寺の地位を巡って、幕府や天海と浅草寺の間で軋轢があり、家光は相当頭にきていたということであろう。浅草寺側も、そのような将軍の心理状態に敏感なら、自ら江戸城別当の地位を寛永寺に譲るぐらいの機微が必要だったのである。幕府や将軍と浅草寺に認識の差が生じたのは、浅草寺は増上寺や寛永寺のように、徳川に取り立てられた寺でもなければ、建てられた寺でもなく、奈良時代から大寺として、心の片隅には徳川に力を貸してやるという気持も多少はあったからではないだろうか。徳川が天下を取るに際して、祈願時としてその一翼を担ったという誇りも邪魔をしたのかもしれない。それが、既得権を守るというほうに意識が行くことにもなったのではないだろうか。もっとも、浅草寺と徳川が一体ではなかったということが、江戸時代には浅草寺の地位の低下をまねいてしまったかもしれないが、徳川幕府が滅んでも浅草寺は庶民の寺として、現在も東京の霊的中心の一つとしてありつづけていることにもなっているわけである。
綱吉の時代の貞享二年(1685)に、浅草寺別当の智楽院が日光門主に訴論をなし、門番の犬を殺したという言いがかりをつけられて、紅葉山東照宮と浅草寺の別当から追放され、浅草寺は寛永寺の支配下に入ってしまう。これで一応江戸城東照宮と寛永寺の結びつきは完成したわけであるが、浅草寺の軽視は、家康が作り上げた江戸の霊的防御にほころびを生じさせることにも繋がっていくことになる。寛永寺が創建されてから半世紀以上もたってから根本中堂が建てられたのは、このほころびをみせた家康生前の霊的防御体制を再構築するためだったのではないだろうか。方位線的にみると、根本中堂も本房と紅葉山東照宮の東北60度線上にあって、紅葉山の東照宮と方位線をつくっているが、同じ大宮氷川神社の西北60度線上にありながら、本房と鳥越神社は方位線をつくっていなかったのに、根本中堂と鳥越神社も西北60度線をつくっている。また、下落合の氷川神社と根本中堂も東西線をつくる。この東西線によって、寛永寺は、将門首塚・浅草寺と方位線的に結ばれることにもなるし、高田二丁目の氷川神社と浅草寺、下落合の氷川神社と寛永寺という二重の東西線で江戸を守るということにもなるわけである。増上寺と根本中堂の直線に対し、神田明神はより近くなる。その分、将門の首塚は離れてしまうのであるが、あるいは本房と神田明神・将門首塚・増上寺のレイラインは成立しておらず、根本中堂・神田明神・増上寺というレイラインで初めて寛永寺と増上寺も結ばれたのかもしれない。しかし、根本中堂の建立も、浅草寺の地盤沈下にともなう江戸古来の霊的結界と徳川の関係の希薄化の穴を埋めきれなかったのは、上野寛永寺に立てこもった彰義隊がどこか孤立してみえることからもいえるかもしれない。
根本中堂±―紅葉山東照宮±(W0.082km、1.20度)の東北60度線
大宮氷川神社(W0.212km、0.47度)―根本中堂±―鳥越神社(E0.043km、1.30度km、度)の西北60度線
下落合氷川神社―根本中堂±(S0.034km、0.28度)の東西線
増上寺(0.79度)―神田明神(0.071km)―本房±(2.03度)の直線
増上寺(1.16度)―将門首塚(0.083km)―本房±(1.11度)の直線
増上寺(0.38度)―神田明神(0.034km)―根本中堂±(1.16度)の直線
増上寺(1.57度)―将門首塚(0.122km)―根本中堂±(1.63度)の直線