愛鷹山位牌岳と富士山

位牌岳
富士山本宮浅間神社
北口本宮冨士浅間神社周辺の方位線

富士山北東本宮小室浅間神社と『宮下文書』の空間

 

位牌岳

 加茂喜三氏(『日本のトーテム文化 愛鷹山に眠る常世の神』、以下同書)によると、愛鷹山は古来神秘に閉ざされた山とされており、愛鷹山及びその周辺に残る地名、遺跡、伝承、習俗、神社は総じて深遠で大変わかりにくく、郷土史家も敬遠して余り手をつけないという。また、愛鷹山・袴腰岳・位牌岳・飯盛山・大岳・呼子岳・越前岳を七嶽といい、他にも七木、七色、七石、七沢、七草など愛鷹山には何かと「七」の数がつきまとっており、愛鷹山麓の東坂古墳から出土した内行花文鏡は全国的には殆ど八弁のものが出土しているのに、七弁であるという。全国的に何でも七つ集めるのはよくあることであるが、鏡まで七弁というのは、確かに愛鷹山周辺では七という数字を特別に重要視してきたのかもしれない。七嶽を含めた全体が愛鷹山であるが、さらにその中の一峰にも愛鷹山があり、これはややこしいので、ここでは愛鷹山中の一峰としての愛鷹山について記すことがあるときには愛鷹峰と言うことにする。
 愛鷹山の諸峰の中で注目されるのは位牌岳である。加茂喜三氏の本によれば、江尾の飯綱神社の本宮が位牌岳山頂に在ったといい、飯綱神社と深い関係にある大森忠裕氏から聞いた話を載せている。大森忠裕氏の祖父は愛鷹山最後の修験者で、愛鷹山を斎祀した飯綱神社と大福院を主宰した神家であるが、大森忠裕氏は戦後感ずるところがあって、飯綱神社と大福院を区の管理に委譲し、神職、仏職ともに引退した。大森家は代々江尾の飯綱神社の神官を務めており、忠裕氏で二百十五代となるが、遠い先祖はここに神殿をおいて百八十国を大統していたといい、毎年神社では百八十国(ももやそのくに)の平安を祈念する「大統の祭」を執行したという。そして、飯綱神社の北の山足に八重山があり、里の祭祀所となっていたが、位牌ヶ岳に本宮があった。本宮は石組のトンネル(穴)になっていて、そこに巨石の玄室が設けられ、百八十国を支配した飯綱の神がいた。位牌ヶ岳というのは後世の当て字で、元来は岩居ヶ岳=斎祀ヶ岳、祝岳すなわち大統ノ山であった。斎主は男系の男子による世襲で、子供がない時は近親の男系の男子から選ばれ、一年がかりの「天つ火嗣ノ儀」を経て斎主になった。飯綱神社には「十種ノ神宝」があったといい、同社に伝来の「神典」にこれを図示したものがあるという。加茂喜三氏によれば、飯綱神社に伝えられた「神典」は、すべて超古代史のものと解される文字で綴られているが、その文字も同一系統のものでなく大別して十種近くあるという。その中にはダビデの星と称される六芒星もあり、加茂喜三氏は△は古代オリエントでは山であり蛇であり、六芒星は古代オリエントの龍神トーテムの紋で、今日のアラブでも用いられているという。「神典」が書かれている文字と同種の文字は、位牌ヶ岳の龍神トンネルの入り口及びその奥の玄室の入口にも刻まれているという。洞窟の入口から約十二メートルほどのところに、幅三十センチ、高さ八十センチばかりの玄室の入口があり、玄室は七彩に輝き、その正面中央には緑色に光る御神体の三角石があるといい、大森忠裕氏によれば、この洞窟で飯綱ノ神は百八十国を統ベていたのであり、玄室の霊石はコントロールするコンピューターの役割を果たしていたものに相違ないという。
 ただ、この洞窟が発見されたのは加茂喜三氏の本が出版される数年前のことのようであり、元々伝わっていたのは飯綱ノ神がこの地で百八十国を大統していたといったものなのであろう。洞窟が発見されたので、位牌ヶ岳山頂に飯綱神社の本宮が在ったというような話になったのかもしれない。洞窟の発見は新しいものであるが、その経緯は少し神懸かり的なものであった。ある日、大森忠裕氏のところに一人の神巫が飄然とやってきて、「かつて愛鷹山には百八十国を統治した竜神がいた。山中の何処かにその竜神が出入りしたトンネルがあり、その奥には竜神が指令を発した霊石の鎮まる玄室がある筈だ。神託があったので自分はそのトンネルを復元し玄室を現わすためにやって来た。是非山に入らせて欲しい。」と懇願したというのである。神巫が入山の許可をもらいに来たということは、洞窟云々は別にして、飯綱神社は愛鷹山と深い関係にあったということなのであろう。大森忠裕氏がそう言われてみると父祖からいろいろ聞いていたこともあって、「気の済むようにしなさるがよい。」と承諾すると、神巫はすでに夕景ではあったがその日のうちに山に登っていったという。大森氏は三、四日過ぎて、ふと山に入った神巫のことを思い出し、荷物も持ってなかったようだったので、食べ物に困っているだろうと思い、米や缶詰などを担いで山を登った。大森氏は何の戸惑いもなく一気に位牌ヶ岳の山頂近くまで登ると、ふと動く人影を発見し、それが訪ねてきた神巫であることがすぐわかったが、それは神巫によれば、「ここは私が六年かけて探し求めてきた聖地です。ここを起点として頂上に向かい地下にトンネルがあります。それは漸く身をかがめて通れる位の幅と高さのものですが、何千年前から、"東南"に向けて石で組み上げたトンネルです。その奥に霊石があります。霊石の置かれている処は玄室でその入口は三十センチメートルぐらいで修行を積んだ神巫でなくては通れません。いまから私はその玄室までのトンネルを復元しようと立ち上がったところにあなたがひょっこりやって来られたというわけですが、ここを発見するまで私は寝もせず食も摂らず丸三昼夜かかりました。(ここだ!!)と叫んだときあなたが立っていた」のだという。そし、神巫は「あなたの神力に敬意を表します。思えばこれも神示でしょう。一緒に掘ってみませんか。」といい、大森氏も素手で土をはねのけながら手伝うと、二、三時間後には石組らしいものに突き当たった。その後も、大森忠裕氏は何度か食糧などを運び、作業を手伝ったが、神巫は一週間にお結び三、四個と水だけで、掘り始めてから三十四、五日後にこれを完成させてしまったという。神巫に言われるままに、大森氏が腹這ってトンネルに入ってみると、入口をくぐると同時に眼前を飛び交う閃光に囲まれ、真っ暗であるべき筈の洞内は七彩に輝いていた。まばゆいばかりの明るさに驚きながらさらに進んで行くと玄室の入口に突き当り、その奥の玄室も妖しく七彩に輝いていて、その正面には緑色に輝く三角石が在り、大森氏はそれが本体だと思ったが、まさに神座の言う伝承そのもののたたずまいであったという。
 大森氏自身も、最初に手伝っていたとき、一心に作業を続けていたが、そのうちに突然五体がバラバラになってしまうかと思われるようなショックに襲われて転倒し、気絶してしまったが、気を失っている間大森氏の脳裏には実体のない異様な閃光が生きもののように突っ走っていたという。下山するとすぐ祭壇のある一室に籠り、一心に祈り続けていると、あの山中で気絶していたときに脳裏に出没した、実体のない異様な生きもののような閃光がまたもや脳裏をかすめ、さらには眼前にちらついて明滅したといい、実はそれが飯綱ノ神の神体であることを知ったという。大森忠裕氏によれば、同家の所伝として「飯綱ノ神は明るい処を忌む。祭壇は絶対屋外に設けず室内の奥に限られた。」といい、加茂喜三氏は光を神体とする飯綱ノ神は輝きを呈する日神に対して月神に通ずる陰神だったとする。大森忠裕氏は加茂喜三氏に、どうして迷わず行き着いたか自分でも分からないが、おそらく飯綱ノ神の導きで、先祖が代々飯綱ノ神に仕えていたから、私の脳波には私が意識していなくても、飯綱ノ神を斎った位牌ヶ岳の斎祀所は記憶されていたのでしょうと語ったという。
 トンネルから戻ると、神巫は山頂の方を指さし、玄室の上段に遺跡が残っているといい、先に立って登っていくので、大森氏が従っていくと、「この真下が先程の玄室です。御覧なさい。人首竜身の石壇です。天ノ磐座です。五、六千年前の神跡です。」というので、大森氏が見ると恰も髭を生やした老人の顔そっくりの巨大な映像が浮かび上って見え、神巫は「見えるでしょう。おそらくこれがこの山の主神の神像でしょう。」と言い、さらに「この顔の下段を私の指さす方へ眼を移してみて下さい。岩と岩の配列から何かものの形を見出すでしょう。」といい、それは土砂に埋もれた岩頭がくねくねと続いて山肌を下っていたが、大森氏は「竜身だ。脚下には蛙もいる。」と叫んだという。その話を聞いた時、加茂喜三氏も「宇賀神とて頭は老人の顔にし体を蛇身に作り蛙をおさえるたるさま云々。」とある『塩尻百巻』の記述を思い出し、どっきりしたという。加茂喜三氏の本には写真も載っているが、実際人の顔に見える。それは人間の顔に見えるという言葉に引きずられて見えるだけかもしれないが、ここで重要なことは百人に一人ぐらいは誰にも指摘されずに人間の顔に見えそうだということである。もしその人間が人間の顔に見えると言い出したとすれば、多くの人間がその岩を人間の顔に見えだすであろう。そうすると、その社会においてその岩は人間の顔ということになっていくわけである。なお、加茂喜三氏はそれを老人の顔とするわけであるが、元々は単に人間の顔であったものが、経年劣化によりボロボロになって老人の顔にみえるようになったといだけかもしれない。もしそうなら、それは必ずしも『塩尻百巻』の言う宇賀神とはいえず、単に人首竜身を表しているということになる。

 位牌岳の東西線上に富士宮市の森山(古くは盛山)がある。加茂喜三氏は古来から特別に尊崇されてきた山として盛山があり、西山本門寺に詣でたことのある人は同寺のすく隣に椀を伏せたような形のいい山に一瞬驚くが、余りにも上手に均整がとれて丸々と盛り上がっていることから、誰が見ても自然に出来た山とは見えず、人工の山とするならば古代ピラミッドということになるという。地図で見ると、前方後円墳にも見える。古来、土地の伝承ではこの盛山を御陵としているともいい、山頂に天照皇太神宮が祀られており、山頂に棲む大蛇の話や、山頂にお宮を祀るようになったいわれなどの昔話が伝わっているという (www.city.fujinomiya.lg.jp/sp/citizen/llti2b000000152v-att/iiosmo000000628p.pdf)。盛山がピラミッドであったかどうかはさておくとしても、大蛇と龍神で龍蛇信仰で位牌岳と盛山は結びつくといえる。
 龍神信仰では、位牌岳の東西線を逆に東に延すと、芦ノ湖湖畔に九頭龍神社がある。箱根神社の由緒によると(http://hakonejinja.or.jp/)、箱根神社は人皇第五代孝昭天皇の御代(2400有余年前)聖占上人が箱根山の駒ケ岳より、同主峰の神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場となり、奈良朝の初期、天平宝字元年(757)万巻上人が、箱根大神様の御神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と称え奉り、仏教とりわけ修験道と習合したが、万巻上人はその後芦ノ湖に棲む九頭の毒龍が里人を悩ますので、法力でこれを調伏し、懺悔した九頭龍が上人に帰依したので、これを龍神として祀ったという。これは、元々は位牌岳と駒ヶ岳との東西線と考えるべきなのかもしれない。駒ヶ岳・神山ももともとは龍神信仰の山だったとも考えられるのである。九頭龍神社本宮の東西線が駒ヶ岳山頂の三角点と標高点のちょうど中間あたりを通る。また、九頭龍神社本宮は神山とも東北30度線をつくり、箱根神社も駒ヶ岳標高点と南北線をつくる。方位線的には、九頭龍神社は駒ヶ岳・神山と密接な関係があるわけである。

  森(盛)山天照皇大神宮(N0.467km、1.22度)―位牌岳三角点―九頭龍神社本宮(N0.007km、0.02度)の東西線
  位牌岳三角点―駒ヶ岳1356m標高点(N0.088km、O.26度)の東西線
  駒ヶ岳1356m標高点―九頭龍神社本宮(S0.080km、2.00度)の東西線
  神山1437.7m三角点―九頭龍神社本宮(W0.050km、1.30度)の東北30度線
  駒ヶ岳1356m標高点―箱根神社(E0.058km、1.51度)の南北線
 
 加茂喜三氏は盛山を古代ピラミッドかもしれないとするが、富士宮市の大石寺の北側に在る縄文時代の千居ストンサークルと江尾の飯綱神社とが西北45度線をつくる。実際に飯綱神社が創建されたとき、すでに千居ストンサークルは土中に埋まっていたと思われるが、位牌岳信仰が古代の巨石祭祀と結びついていたのだとすると、大森忠裕氏の祖先の誰かが位牌岳の修験修行の中で、千居遺跡の環状列石に感応する能力を身につけ、それが方位線という形で顕れたのかもしれない。岩木山神社も岩木山山中に遷座したときには、大湯環状列石も亀ヶ岡遺跡も土で埋もれていたとおもわれるが、大湯環状列石の西北45度線と亀ヶ岡遺跡の南北線が交わる場所に遷座したことは記したが、両者には何か共通する力が働いたのではないだろうか。千居ストンサークルは富士山信仰との関係が有力視されているが、富士山とも東北30度線をつくっている。また、山梨県都留市の牛石ストンサークルとも東北45度線をつくる。牛石環状列石から見ると、春分・秋分の夕日は三ツ峠山の山頂に沈むという(www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/301-400/0372.html)。三ツ峠山は位牌岳と南北線をつくり、盛山と東北60度線をくつる。

  千居ストンサークル記号―江尾の飯綱神社(E0.260km、0.70度)の西北45度線
  千居ストンサークル記号―富士山火口3535m標高点(W0.340km、1.26度)の東北30度線
  千居ストンサークル記号―牛石ストンサークル±(W1.139km、1.58度)の東北45度線
  三ツ峠山―位牌岳三角点(E0.071km、0.11度)の南北線
  三ツ峠山―森(盛)山天照皇大神宮(W0.946km、1.29度)の東北60度線

 月刊『ムー』47号の「日本のピラミッド全調査」の中で、秋山真人氏が静岡県藤枝市一之瀬と岡部町の間に在るビク石山を紹介している。インターネットで調べると、ビク石山は正式には石谷山というらしい。標高526mの山である。秋山真人氏によれば、山頂には100個以上の巨石が点在し、この山のすぐ西側に見事なピラミッド形をした高根山がそびえており、この両山は酒井勝軍が発見した葦嶽山ピラミッドの本殿と拝殿の姿と瓜二つだという。ビク石山と高根山は西北30度線をつくっている。ビク石山には高さ十数メートルのきれいに平面加工した一面を持つ富士見石があり、鏡石ではないかという。全体的な形も富士山に酷似しており、この石の北東が富士山になるという。富士見石の場所は分からなかったが、びく石山頂と富士山が東北45度線をつくっている。ということは、盛山が加茂喜三氏の言うようにピラミッドだとすれば、ビク石ピラミッドと盛山ピラミッドが東北45度線で結ばれているということにもなるわけである。また、ビク石山と位牌岳も東北30度線をつくる。そして、高根山の東北45度線上に千居ストンサークル・牛山ストンサークルが在る。

  ビク石(石谷山)526m標高点―高根山871m標高点(W0.120km、1.56度)の西北30度線
  ビク石(石谷山)526m標高点―森(盛)山天照皇大神宮(E1.142km、1.52度)―富士山火口3535m標高点(E0.908km、0.81度)の東北45度線
  ビク石(石谷山)526m標高点―位牌岳三角点(E1.275km、1.20度)の東北30度線 
   高根山871m標高点―千居ストンサークル記号(E1.458km、1.65度)―牛石ストンサークル±(E0.319km、0.20度)の東北45度線

 愛鷹山麓の富士市冨士岡町の寒竹神社(加茂喜三氏はこれは異称で富士浅間神社とする)には「香久耶姫」伝承が残り、この富士山麓の「香久耶姫」伝承は富士山信仰と関係があるとも言われている。加茂喜三氏の本には、『駿国雑誌』の「富士郡乗馬郷」(現冨士市比奈)に「神社考」云として載る伝承、富士浅間神社に残る『冨士本宮雑誌』に載る伝承、それに白隠禅師が残した『竹取塚縁起書』の三つの伝承が紹介されている。よく知られたかぐや姫の物語は最後は月に帰っていくが、『駿国雑誌』と『竹取塚縁起書』では富士山の洞窟に入る。『冨士本宮雑誌』では天に昇っていくが、月とはなっていない。また、『駿国雑誌』ではかぐや姫は浅間大神、『竹取塚縁起書』では浅間大士となるが、『冨士本宮雑誌』ではかぐや姫と富士山の関係は記されてなく、富士山に上るのは天皇の勅使で、不死の薬を山頂で燒いたことから不死山と云われるようになったとされるだけである。
 富士山麓のかぐや姫伝承に月は出てこないようであるが、まったく月と無縁な話かというとそうでもなく、加茂喜三氏の本によれば、寒竹神社の裏側は高さ五メートル、幅三〇メートルぐらいの平滑な岩壁になっており、これを寒竹の「鏡石」といい、神霊が宿るところとされたと伝えられているという。この岩壁が夜になって月が上がると身自ら七彩の光を発し、あたり一面を極楽浄土の如く明るく照らし出し、遠く江尾のあたりからも望見できたといい、ことに満月の夜は格別で、そのきらめく七彩の光は生きものの如く踊って見え、人をして夢幻恍惚の世界に誘い込んだという。加茂喜三氏はかぐや姫伝承はなんの由緒もなく突然出現してきたものではなく、地自ら光を発したという伝承は軽視できないという。寒竹神社の裏側の岩壁は月の光と結びつく場所なのであるから、富士山麓の「香久耶姫」伝承は月とも結びついているといえるわけである。また、『竹取塚縁起書』には文中に「龍神をして錦衣を與えしむ」という言葉があり、加茂喜三氏は竜神信仰を語っているという。 
 お爺さんとお婆さんについては、『駿国雑誌』では翁は愛鷹明神、婆は犬飼明神として新山の宮に住したといい、『竹取塚縁起書』では「翁は蒼鷹を愛し、嬢は白狗を養う。故に今、愛鷹、狗飼の祠有り」と記すという。「香久耶姫」伝承と結びついている場所を見ると(www.city.fuji.shizuoka.jp/kyouiku/c0403/fmervo0000011mgn.html)、吉原三中の道路を挟んだ東側の、白隠禅師が開山したという比奈の無量寿禅寺跡には、卵形の石に「竹採姫」と刻まれた竹採塚があり、現在竹採公園として整備されている。白隠が記した『無量寿禅寺草創記』には、ここはかぐや姫誕育の地と記されているという。すぐ近くの吉原三中の西南に隣接する滝川神社は、現在でも「滝川の浅間さん」と呼ばれているが、江戸時代以前には「原田浅間社」や「新宮」、または「父宮」などと呼ばれており、かぐや姫の養父の竹取翁を祀っていたことからきている呼び名とみられている。それに対し、今宮の今宮浅間神社は江戸時代以前には「母宮」と呼ばれていて、かぐや姫の養母の竹取嫗を祀っていたことからきているとみられている。原田公園に隣接する飯森浅間神社は、かぐや姫の世話をした下婢が祀られていると伝えられており、かつては飯守明神とよばれていた。冨士市立高校に隣接する寒竹浅間神社は、かぐや姫を育てた老夫婦の屋敷があった場所と伝えられているという。
 このうち、富士山と寒竹神社神社が南北線をつくる。もともとは、富士山と寒竹神社背後の岩壁との南北線と考えるべきかもしれない。富士山麓の「香久耶姫」伝承が富士山信仰と結びつくとして、ではその伝承の地が何故冨士岡周辺なのかを考えると、その地が富士山からの南北線上に位置しているからではないだろうか。また、竹採塚と今宮浅間神社が南北線、竹採塚と滝川神社・飯森浅間神社が東西線で結ばれている。竹採塚の位置は竹採公園の案内板(http://4travel.jp/domestic/area/toukai/shizuoka/numazu/fuji/park/10017852-tips/)とグーグル地図を突き合わせてこの辺りとしたのであり、そこに誤差は在るが、南の方については10mぐらいの誤差はあるかも知れないが、北の方についてはせいぜい2m以内の誤差といえるので、竹採塚と滝川神社の東西線は少なくとも方向線として成り立つといえる。どちらにしても、香久耶姫が見つかった竹林と滝川神社・飯森浅間神社は東西線に並ぶということはいえるであろう。残念ながら、寒竹神社と他の場所とは方位線でむすばれていないのであるが、江尾の飯綱神社と寒竹神社・竹採塚が一直線上に並んでいる。江尾の飯綱神社を噛ませることによって、寒竹神社と竹採塚が結びつくといえるわけである。逆に寒竹神社あるいはその裏の岩壁と江尾の飯綱神社を結びつけるために、竹採塚と「香久耶姫」伝承があるともいえる。「香久耶姫」伝承は寒竹神社裏の岩壁と富士山を結びつける伝承であると同時に、その岩壁と江尾の飯綱神社を結びつけるための伝承であったのかもしれない。翁は愛鷹明神とされるのであるから、「香久耶姫」伝承は富士山信仰だけでなく愛鷹山(位牌岳)信仰とも結びついているといえる。位牌岳に龍神信仰があり、「香久耶姫」伝承にも龍神信仰があるとすると、愛鷹山(位牌岳)と「香久耶姫」伝承に繋がりがあっても不思議ではないであろう。加茂喜三氏は光を神体とする飯綱ノ神は輝きを呈する日神に対して月神に通ずる陰神だったとするが、あるいは「香久耶姫」伝承が月と結びつくのは、愛鷹山(位牌岳)とも関係するのかもしれない。もっとも、大森氏の家伝で祭壇は絶対屋外に設けず室内の奥に限られたのは、月神信仰との関係というより、例えば交霊会が普通暗がりの中で行われることと関係するのかもしれない。寒竹神社は位牌岳とは方位線をつくらないが、愛鷹山の中の大岳と東北45度線をつくる。
 この寒竹神社と大岳の方位線が、「香久耶姫」伝承の中での愛鷹山信仰と結びついた方位線なのか、あるいは意味のない方位線なのかは、愛鷹山の祭祀体系の中での大岳の位置にかかっているといえるであろう。大岳については、加茂喜三氏の本によれば往古は王岳と呼ばれていたといわれ、山頂には大柱石跡が確認されてるいという。大岳の位置は大斎祀場位牌ヶ岳の西で位牌ヶ岳、呼子岳を結ぶと正三角形ができ上がり、ここが祭祀の中心地であったようだとする。実際には、大岳・位牌岳・呼子岳は正三角形とは程遠い関係であるが、大岳が愛鷹山祭祀体系の中で重要な位置を占めているということはいえるようである。呼子岳については、大森忠裕氏によれば飯綱ノ神を招いたり、斎るのに「天の石笛(いわぶえ)」が神器として使われたといい、呼子岳は神霊(こだま)を呼ぶ即ち神の降臨を求めるために石笛を吹いた処だという。

  富士山剣ヶ峯3775.6m三角点―寒竹神社(W0.090km、0.24度)の南北線
  竹採塚±―今宮浅間神社(E0.035km、0.57度)の南北線
  竹採塚±―滝川神社本殿(W0.006km、2.12度)―飯森浅間神社(E0.016km、0.73度)の東西線
  滝川神社本殿―飯森浅間神社(E0.023km、1.20度)の東西線
  江尾の飯綱神社(0.16度)―寒竹神社(0.007km)―竹採塚±(0.44度)の直線
  大岳―寒竹神社(W0.069km、0.48度)の東北45度線


 加茂喜三氏の本によると、富士市鈴川の香久山妙法寺の『香久山妙法寺記』によれば、この地を「古く永聖跡」といってきたとあり、古くから伝えられた聖跡であることを残すために妙法寺を建立したと録しているという。また、隣接して毘沙門堂があるが、山主高橋堯昭氏は「何かよくわからないが境内の地下に粘土かシックイのようなもので固めた祭壇のような古い時代の遺跡がある」と語っているという。位牌岳の東北45度線上に妙法寺があり、また、妙法寺は江尾の飯綱神社とも東北30度線をつくっている。

  位牌岳三角点―香久山妙法寺(E0.301km、1.34度)の東北45度線
  江尾の飯綱神社―香久山妙法寺(W0.080km、1.11度)の東北30度線

 現在の妙法寺の住所は富士市今市となっている。寺ごと「毘沙門さん」と呼ばれているという。毘沙門堂の東隣にネパール式目玉塔があり、地下は延長150mの洞窟となっており、七福神の像や中国陶器画、幸福の鍵、各種絵画などが飾られているというが(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-270.html#chika)、高橋氏の言う地下の祭壇のようなものと関係があるのかもしれない。もっとも、『香久山妙法寺記』の「古く永聖跡」とい永聖跡については、よく分からない点がある。妙法寺は江戸初期の寛永四年(1627)に身延山25世日深が田島村に建立し、「田島山妙法寺」と号したのが始まりであり、延宝八年(1680)の台風高潮で中吉原宿とともに流されたが、元禄十年(1697)年に今井村の渡部彦左衛門が、身延山31世日脱らの助力を得てに妙祥寺(現・富士市中央町)跡地に移転再建されたという。毘沙門堂については、平安末期に富士修験の道場として開かれた説があるものの、詳らかではないようである。(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-270.html#chika)。一方、妙祥寺については、高潮・津波で寺記を失い、詳しい沿革は詳らかでないが、創建は鎌倉末期の元亨三年(1323)で、創建の地は元吉原の今井、いま香久山妙法寺(毘沙門天)が建っている辺りだと伝えられているという。寛永十六年(1643)、吉原宿の所替えにともない中吉原へ移転し、延宝八年(1680)、吉原宿が大高潮で壊滅したとき、再び内陸へ所替えし、妙祥寺も天和二年(1682)に現在地へ移転した(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-11.html)。最初に、妙祥寺が在った場所に妙法寺が移転してきたということのようである。そうすると、『香久山妙法寺記』が記す永聖跡とは、そこが元々の妙祥寺の場所だったということをいっているようにも考えられる。しかし、妙祥寺以前にすでに毘沙門堂が在った可能性があるわけである。そして、現在毘沙門堂が妙法寺に隣接して在るということは、妙祥寺が移転した後も毘沙門堂はそこに止まったということであろう。そうすると、妙法寺は妙祥寺の跡地に移転したというより、毘沙門堂の隣に移転したともいえる。そう考えると、妙祥寺の跡地ということがそんなに強調されなければならないことなのだろうかという疑念も生じてくる。永聖跡というのは、妙祥寺の跡地ではなく、別の何かの聖所の跡地ということではないだろうか。その聖所とは毘沙門堂は存在していたのであるから、毘沙門堂のことではない。妙祥寺でも、元禄三年(1690)、18世融玄院日覚の代に、本堂・祖師堂・鎮守堂を再建し、身延山久遠寺31世日脱より永聖跡初祖の称を受けたという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-11.html)。他から移ってきたとしても、元々の地をそんなに重要視するものであろうか。この場合の永聖跡初祖の称とは、単に元々あった場所ではなく、その場所が何か重要な古来からの聖所だったから、そのような称号が与えられたということなのではないだろうか。
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富士山本宮浅間神社

 江尾の飯綱神社と方位線をつくる千居ストンサークル、大岳と方位線をつくる寒竹神社裏の岩壁が富士山と方位線をつくったが、位牌岳と東西線をつくる盛山と駒ヶ岳および駒ヶ岳と一体ともいえる神山も、それぞれ富士山と盛山が東北45度線、神山・駒ケ岳が西北30度線をつくる。さらに、駒ヶ岳・位牌岳・盛山の東西線上には富士宮市の富士山本宮浅間神社があり、富士山本宮浅間神社は江尾の飯綱神社とも西北30度線をつくっている。

  富士山火口3535m標高点―森(盛)山天照皇大神宮(E0.234km、0.64度)の東北45度線
  富士山火口3535m標高点―神山三角点(E0.657km、1.25度)―駒ヶ岳標高点(W0.016km、0.03度)の西北30度線
  森(盛)山天照皇大神宮(N0.051km、0.80度)―富士宮市富士山本宮浅間神社―位牌岳三角点(S0.416km、1.31度)―駒ヶ岳標高点(S0.328km、O.50度)の東西線
  江尾の飯綱神社― 富士山本宮浅間神社(E0.170km、0.65度)の西北30度線

 龍神信仰とも結びつく位牌岳の東西線上に富士山浅間神社があり、その東西線上にある盛山と駒ヶ岳と富士山が方位線で結ばれていることから、富士山と龍神信仰の結びつきも考えられる。このことは富士講と関係のある富士八海には龍神が住むとされることからもいえるのではないだろうか。冨士八海は角行系富士信仰の祖、長谷川角行が修行した地だとされ、この八海を巡拝するのが富士信仰の行の一つであった。富士山周辺の内八海と、全国に及ぶ外八海、また忍野八海も元八海と呼ばれ、これらの湖には龍神が住むとされるという。内八海は仙瑞、山中湖、明見湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、四尾連湖で、この順番に巡礼を行っていたというが、『甲斐国志』、『甲斐名勝志』、『駿河国新風土記』などでは仙瑞ではなく、須戸湖(浮島沼)あるいは長峰濁池(所在未確認)を入れているという。外八海は、琵琶湖、二見浦、箱根湖(芦ノ湖)、諏訪湖、中禅寺湖、榛名湖、桜池(静岡県御前崎市)、鹿島海(霞ヶ浦)で、この順番で巡礼するが順序に関しては別説もあるという(http://shinden.boo.jp/wiki/富士八海)。
 加茂喜三氏は身延山久遠寺の霊地である七面山も神体は蛇で、とぐろを巻いて頂に出ているのは人首で、人首竜身をあらわしているというが、七面山と富士山も東西線をつくる。

  富士山火口3535m標高点―七面山1989m標高点(N0.698km、1.15度)の東西線

 富士山本宮浅間神社は北口本宮冨士浅間神社と東北60度線をつくり、北口本宮冨士浅間神社は東口本宮冨士浅間神社と西北60度線をつくる。これで、富士山本宮浅間神社と東口本宮冨士浅間神社が方位線をつくれば、富士山を囲む方位線三角形の結界ということにもなるのであるが、残念ながら富士山本宮浅間神社と東口本宮冨士浅間神社は方位線をつくらない。その代わり、東口本宮冨士浅間神社は富士山と東西線をつくる。方位線三角形はつくらないが、三つの本宮浅間神社は方位線で結ばれてはいることになるし、その方位線網はさらに富士山を加えた方位線網になっているわけである。
 富士山本宮浅間社のホームページ(http://fuji-hongu.or.jp/sengen/history/index.html)によれば、孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をし、垂仁天皇の三年に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められとあり、これが当大社の起源とされる。また、最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられており、特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことで、山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来、日本武尊が山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられており、大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座された。富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えらているという。なお、『惣國風土記』には孝昭(深待彦)天皇二年の創祀とあるといい、富士山本宮浅間神社の社殿が建てられてる前は、福地明神が鎮座していた(http://www.genbu.net/data/suruga/fukuti_title.htm)。
 北口本宮冨士浅間神社のホームページ(http://sengenjinja.jp/yuisho/index.html)によれば、
景行天皇四十年、日本武尊が足柄の坂本より酒折宮へ向かう途中で当地「大塚丘」に立ち寄り、「北方に美しく広がる裾野をもつ富士は、この地より拝すべし」と言ったことから、大塚丘に浅間大神と日本武尊をお祀りしたのが当社の創建であるという。天応元年(781)、富士山の噴火があり、甲斐国主の紀豊庭朝臣が卜占し、延暦七年(788)、大塚丘の北方に社殿を建立したのが、現在社殿のある地で、ここに浅間大神を遷し、大塚丘には日本武尊を祀ったという。摂社に諏訪神社があり、勧請された年代が明らかになっていない大変古いお社で、この地域の元々の土地神とされており、「吉田の火祭り」は諏訪神社の例祭であるという。 境内図を見ると、諏訪神社の前に高天原があり、この場合出雲神族系の高天原であることが分かる。大塚丘からこちらに御社殿を作る前は「諏訪の森」と呼ばれており、現在の当社周辺地域の字名も「諏訪の森」であるという(http://divinus-jp.com/archives/23000)。
 東口本宮冨士浅間神社については同社のホームページ(http://www.higashiguchi-fujisengenjinja.or.jp/yuisho/index.html)を見ると、桓武天皇の延暦二十一年(802)、富士山東脚が噴火したので鎮火の祈願を行うべく、富士山東面・須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行し、平城天皇の大同二年(807)に鎮火祭跡地・現在の御社殿の地に神を祀ったのが当社の創建という。創建後まもない平安時代には、弘法大師が当社にて修行を行い、富士登山をしたという伝承も存在したことから、かつて中世期頃までは弘法寺浅間宮と称されていた。
 これらの由緒を見ると、北口本宮冨士浅間神社、富士山本宮浅間神社、東口本宮冨士浅間神社の順で現在地に社殿が建てられたということになる。すなわち、北口本宮冨士浅間神社の方位線上に富士山本宮浅間神社と東口本宮冨士浅間神社が建てられたとみることもできるわけである。ただ、三つの本宮浅間神社が社殿を持つ神社として建てられたのはほぼ同時期であり、その前後関係にあまりこだわらずにその構図を見れば、富士山―東口本宮冨士浅間神社―北口本宮冨士浅間神社―富士山本宮浅間神社という方位線による螺旋が描かれていると見ることが出来る。逆にみれば、それは蛇がトグロを巻いて鎌首をもたげているともいえるし、富士山本宮浅間神社から北口本宮冨士浅間神社―東口本宮冨士浅間神社―富士山という、方位線螺旋を描きながら富士山へと上って行くともみることができる。

  富士山本宮浅間神社―大塚山標高点(E0.687km、1.25度)―北口本宮冨士浅間神社(E0.800km、1.44度)の東北60度線
  東口本宮冨士浅間神社―大塚山標高点(E0.120km、0.50度)―北口本宮冨士浅間神社(E0.426km、1.78度)の西北60度線
  東口本宮冨士浅間神社―富士山火口3535m標高点(N0.032km、0.15度)の東西線

 では、この螺旋を描きながら富士山に上っていくものとは何なのであろうか。その方位線が作る螺旋は位牌岳まで延ばすことが出来る。位牌岳は龍神の山なのであり、富士山も龍神と関係するとすれば、螺旋を描きながら富士山に上っていくのは龍神なのではないだろうか。位牌岳の龍神であるが、加茂喜三氏は位牌岳頂上部の洞窟が東南を向いていることを、古代メソポタミアにおいて東南の海から龍がトンネルを通ってやって来るとされたことと結びつけている。位牌岳の龍神は海から依り来る神ともいえるわけである。加茂喜三氏によると位牌岳の洞窟ばかりでなく、愛鷹山の巨石遺構はほとんどが東南を向いているという。谷川健一編『日本の神々 関東』で大和岩雄氏は海からの漂着神と冬至の日の出方向との結びつきを強調し、さらにその方向は中国の思想が入ってくるにつれ巽の方向へと変わったとしていることを記した。大森忠裕氏によれば、家伝では伊豆の先に大きな島があり、そこまで出掛けて行って祭祀をしたといい、加茂喜三氏は伊豆の南方に伊豆七島とは別に銭州島という大島の在ったことが史書にもあるという。果たして大森忠裕氏の祖先が祭祀を行った島が、文献に在る銭州島だったのかどうかは分からないが、位牌岳には海から依り来る神の信仰があり、それで飯綱神社では海から来る神が最初に上陸する島で祭祀を行ったということではないだろうか。そして、海から依り来る神が、位牌岳から螺旋を描きながら富士山に上っていくのだとも考えられる。
 大森忠裕氏の先祖が祭祀を行ったという島は何処にあったのであろうか。島の名も伝わっていないとすると、相当前にその祭祀は絶えたということなのであろう。加茂喜三氏の頭をよぎった海に沈んだ銭州島だったのかもしれない。もしそうなら、海に沈んでしまったので祭祀も行われなくなったということなのであろう。あるいは、その大きな島とは文字通り伊豆大島のことだったかもしれない。位牌岳と伊豆大島の三原山が西北45度線をつくる。海から依り来る神が巽の方角からくるのだとすれば、伊豆大島を経て位牌岳にやって来るという経路も考えられるわけである。伊豆大島が昔は何と呼ばれていたのか分からないが、単に大島といわれていたのかもしれない。そうすると、その固有名の大島で祭祀を行なっていたというのが、行われなくなってから時間が経つとともに、漠然とした伊豆の先の大きな島ということになっていったことも考えられるわけである。伊豆大島に流された役ノ小角が富士山に飛んで修行をしたという伝承も、その背景には伊豆大島から位牌岳さらには富士山に海からより来る神の信仰があったのかもしれない。

  位牌岳三角点―三原山火口497m標高点(W1.407km、1.05度)の西北45度線
  
 もっとも、伊豆大島では祭祀のために出掛けるにしては遠すぎるともいえる。また、加茂喜三氏の言う海に沈んだ銭州島も、その残滓が現在の伊豆半島の南の海上にある銭洲磯だとするなら、やはり祭祀に出かけるには離れすぎているといえよう。位牌岳と銭洲磯は南北線を作っている。
 位牌岳と熱海市来宮神社が西北30度線をつくる。来宮神社は位牌岳から見た冬至の日の出方向ということができる。白井永二、土岐昌訓編「神社辞典」によれば、来宮は木宮、貴宮、黄宮、紀伊宮、木野宮などとも書き、西相模から伊豆にかけて多く分布していおり、祭神は必ずしも一定していないが、来宮信仰の淵源及びその社名は、一説には鎮座地が海岸に多いこと、あるいは海岸に鎮座したという伝承を有していことにより、漂着神(寄神)、寄り来る神、依り来の宮に由来するという「来の宮」説があるという。冬至の日の出方向が海から依り来る神の来る方角であったから、位牌岳に海から来る神は、まず熱海に上陸し、そこから位牌岳に向かったということも考えられる。熱海では最近海底遺跡が話題になっている。海浜公園周辺で崩落により広範囲の陸地を失ったと思われるといい、その時期としては慶長元年(1596)前後の伊豆国大地震、あるいは『百錬抄』に宝治元年(1247年)伊豆の国で土地が大陥没したという風説が流れるとあり、鎌倉時代(1247〜1253年)頃ではないかともされる(http://protecs.waterblue.ws/kaitei-iseki2.html)。あるいは、大森忠裕氏の家伝にある祭祀を行ったという伊豆の先の大きな島とは、熱海にあって海に沈んだのかもしれない。もしそうなら、その島は富士山とも西北45度線を作っていたともいえる。

  位牌岳三角点―銭洲磯(E1.722km、0.70度)の南北線
  位牌岳三角点―熱海市西山町来宮神社(W0.151km、0.32度)―熱海魚見崎先の烏帽子岩(W0.889km、1.74度)の西北30度線
  富士山白山岳三角点―熱海市西山町来宮神社(E0.800km、1.07度)―熱海魚見崎先の烏帽子岩(E0.603km、0.77度)の西北30度線

 鈴川の産土神である木之元神社は江戸時代には「木本白龍大権現」とよばれていたという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-85.html)。加茂喜三氏によると位牌ヶ岳にも白竜があり、位牌ヶ岳を水源地とする須津川の大棚ノ滝近くの大棚キャンプ場の裏手に、長さ約二百メートルに及ぶ高いところで七メートルの絶壁があり、竜を象形しているという。この竜身は全面一つ一つ区画された鏡石になっており、総体として白く輝いており、まさに白竜であるという。木之元神社も位牌岳からの東北45度の方位線上にある。鈴川では、妙法寺の西の富士と港の見える公園内に里宮と奥宮が鎮座している阿字神社も、大蛇への生贄伝説と結びついている。田子の浦港(静岡県富士市)の奥、沼川と和田川(生贄川)が合流する場所を三股淵といい、生贄淵とも呼ばれたが、大蛇・毒蛇が住まい、少女を生贄としてささげていたという。ただ、その伝説には結末や登場人物に違いがある。十八世紀前半の地誌で、東海道吉原宿の変遷などについて詳しく著している『田子の古道』では、関東から京に向かう七人の神子のうち年若い娘「おあぢ」が人身御供を選ぶくじに当たってしまい、残りの六人は関東へ戻ろうと柏原村まで引き返したが、「おあぢ」一人を残して関東に帰ることもできないと思い、みなで浮島の湖へ身を投げた。土地の者が急いで引き揚げたが、息を吹き返すこともなく、一か所に埋葬して碑を建てた。ところが翌日、富士浅間の御神力で「おあぢ」は助かり、毒蛇は鎮まった。しかし、六人の死を知った「おあぢ」も死んでしまった(https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/e7a048fd6c24179694a06bf3cf6d7e71)。それで見附宿の人達が悪霊が治まったの神子たちのお蔭と言って、あぢ(阿字)神とあがめ宮居を建てたのが、今のあぢ神であり、残り六人も柏原にて六の神子と名付け、祭ったのが、今有る六の神子であるという(https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/224e8f322719ffd68342554c15a7a2d3)。今のあぢ神とは阿字神社のことであり、六の神子とは六王子神社のことである。他方、江戸後期の地誌『駿河記』『駿河国新風土記』『駿河志料』などが載せている話は中ほどまで『田子の古道』と同じだが、こちらは犠牲者がでないハッピーエンドとなっているという。そこでは、阿字は官職のため京に向かう六人の巫女の侍女で、生贄に選ばれたのは六人の巫女となっている。阿字は六人を救うべく、里人に生贄にするのをしばらく待ってもらい、上京して子細を奏聞すると、官はこれを哀れみ、雛形を身代わりに用いて祭祀するよう示した。阿字は急ぎ三股淵へもどり、教えられたように祭祀し、巫女たちは神楽を奏上した。以後、この形式が慣例となり、生贄の儀は止み、里人は、彼女らの徳を貴び、巫女六人を六王子神社、阿字を阿字神社に祀ったという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html)。天正十五年(1587)六月二十八日、保壽寺二世芝源が徳川家康の命により三股淵の毒蛇を修伏したという話もある。このとき毒蛇が残していった鱗が、保壽寺の什物であるという。同寺では毎年六月二十八日に三股で川施餓鬼を行ない、三股淵で修経し、そのあと松岡水神社で誦経して寺に帰る(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html)。実際に生贄があったかどうかについては、『駿河国新風土記』は保壽寺の「竜蛇降伏の遺法なり」は付会の説であるとし、『駿河志料』は生贄は、稚贄屯倉の遺称に、謡曲「池贄」をこじつけたものであると、共に懐疑的である(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html)。生贄云々は別にして、『田子の古道』では三股淵を大日本国駿州富士郡下方の郷鱗蛇里の池とし(https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/e/e7a048fd6c24179694a06bf3cf6d7e71)、また生贄の蛇免などの地名が出てくるが(https://blog.goo.ne.jp/kinosan1/m/201308)、加茂喜三氏によると、『田子の古道』の著者姉川一夢が手習いを始めたころ、師の御坊は、著者に地元の名を「駿河国富士郡市下方ノ庄大蛇の里芦原本町」と教えたという。また、芦原は悪原に通じて縁起が悪いので芦を吉に変えて吉原に改めたというから、単に三股淵周辺だけではなく、吉原を含めた広い地域が大蛇の里と呼ばれていたということになる。大蛇の里と呼ばれたのは、龍蛇神信仰が盛んな土地だったということなのかもしれない。
 三股淵の正確な場所や広さはよく分からないが、位牌岳と加茂喜三氏が龍神信仰とも関係するとするかぐや姫伝承の寒竹神社を結んでその直線を延ばすと三股淵が在ると言っていいであろう。寒竹神社と阿字神社里宮が東北45度の方向線をつくるが、あるいは寒竹神社の裏の岩壁とは方位線を作っているかもしれない。

  位牌岳三角点―木之元神社(W0.295km、1.29度)の東北45度線
  寒竹神社―阿字神社里宮(E0.186km、2.62度)の東北45度線

 鈴川が龍あるいは大蛇と結びつくのはどういう理由からなのであろう。大和岩雄氏は海からの漂着神と浜降り祭の結びつきも述べているが、富士山本宮浅間神社にも浜下り神事があった。『浅間神社の歴史』に「身禊の神事である。鈴川の海浜にて執行するため浜下りの名がある。神職一同身禊し畢って、大宮司・公文・案主は富士丘社に詣づ。正鎰取祓を修す。次にあぢ神に詣で式を終る。」とあるという (http://fujinoyama.blogspot.jp/2012/08/fujisan-yoshiwara.html)。加茂喜三氏の本によれば、年中行事として卯月初申より七日以前の寅日に行われた神事であり、浜に出て赤飯を食したのち、「浜垢離」の禊をなし、富士塚に於いて祓を修し、後阿字神社に参詣するのが慣例だったというが、このうち「浜垢離」の神事だけが民間に伝承され、吉原の「天王さん」では氏子が揃って田子ノ浦の浜に出て内陣をつくり酒をのみ赤飯をたべるという。富士丘社とは富士塚のことということになる。
 富士山本宮浅間神社の西北45度線上に妙法寺と木之元神社が位置する。妙法寺の方がより正確であり、木之元神社の方は微妙である。というのも、木之元神社の創建は未詳とされるものの、奈良時代ではないかという説もあるからである。奈良時代といえば、富士山本宮浅間神社はまだ建てられておらず、福地明神は在ったかどうか分からないにしても、湧玉池は在った。ただ、湧玉池と木之元神社の方位線を考えると、富士山本宮浅間神社の社殿とでは方位線に近い方向線ということはできるが、湧玉池では偏角が大きくなっていしまうし、そもそも湧玉池が当時そんなに重要視されていたのかという疑問もある。それはともかく、鈴川が富士山本宮浅間神社の巽の方角に位置するわけであり、海から依り来る神が巽の方角から来ることを考えると、海から依り来る神=龍神が来る方角にある鈴川が龍神と結びつけられるようになったということも考えられるわけである。

  富士山本宮浅間神社―木之元神社(W0.474km、2.11度)―妙法寺(W0.242km、1.03度)の西北45度線

 富士塚は、富士山登山にあたり、登山者が安全祈願のため海水で水垢離をした後、海岸の石を1つずつ積み上げていったものという。現在の富士塚は再現されたものであるが、富士塚の発掘調査ではかつての富士塚の一部が見つかっているといい(http://faq.city.fuji.shizuoka.jp/webccgjpub/dtil/000104/DTL000104224.htm)、元々の富士塚も現在の富士塚付近にあったということなのであろう。妙法寺・富士塚・阿字神社がほぼ東西上に並んでおり、妙法寺からの東西線が里宮と奥宮の間を通り、妙法寺と阿字神社は東西方位線を作っているといえる。富士塚はその東西線より80mほど南で、妙法寺・阿字神社と方位・方向線をつくるとはいえないが、大まかにいって妙法寺・富士塚・阿字神社は東西線上に並んでいるといっていいであろう。

  妙法寺―富士塚(S0.080km、4.77度)―阿字神社里宮(S0.033km、1.26度)の東西線

 もっとも、富士山本宮浅間神社の浜下り神事は、必ずしも海からの漂着神信仰と結びつくとはいえないようである。現在浜下りは、富士川に面した松岡の水神社で「河原祓」として行われているという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-293.html)。もしそうであるとすれば、浜下り神事は海からの漂着神とは関係ない、川あるいは水と関係する神事ということになる。浜下り神事の地が鈴川であることについては、民俗学者の野本寛一氏(「富士の信仰と文学−その1−」『地方史静岡第6号』,静岡県立中央図書館)が「富士山本宮浅間大社の神池である湧玉池の水が神田川を流れ、潤井川を経由し海に注ぐ。その地点が海岸であり砂山であって、浅間大社と関係が深いことが挙げられる。」と説明しており、この場合、富士山の湧水の流れが行き着く神聖な場所と見られていたという解釈となるという(http://fujinoyama.blogspot.jp/2012/08/fujisan-yoshiwara.html)。潤井川は田子の浦港の奥に注ぎ込んでおり、その河口と阿字神社では少し離れているといえるが、田子の浦港は砂浜海岸を堀込式港湾にしたものであり、かつては潤井川は阿字神社付近で海に注いでいたのであろう。
 三股淵の大蛇伝説も水祭祀と関係するのかもしれない。保壽寺の川施餓鬼についても、『駿河国新風土記』は保壽寺の「竜蛇降伏の遺法なり」は付会の説で、その実は水祭であり、阿字神社の祭神は詳らかでないが、水徳の神であり、真言は「阿字」を万物の根源と考えて重視していることから、おそらく保寿寺の僧が真言密教の法を修した神祠ゆえ、阿字と号するのだろうとしているという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html)。川施餓鬼に阿字神社は登場しないようであるが、三股淵の大蛇は松岡水神社と関係があるということであろうし、そうすると松岡水神社のすぐ近くの富士川の河原で行われる「河原祓」とも関係があるともいえる。保壽寺は元々は富士市前田に在り、伝法に移ったという。田子の浦港の西側が前田であり、かつては阿字神社とは潤井川を挟んで向かい合っていたともいえ、浜下り神事とも関係があったということも考えられる。
 木之元神社が龍神と結びつくのも水と関係するのかもしれない。木之元神社は奈良時代創建といわれ、『駿河志料』は、水神・泣沢女神のことと記し、大和国香具山麓の畝尾都多本神社(祭神泣沢女神)を勧請したとするという(http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-85.html)。畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)は哭澤の神社(なきさわのもり)、哭沢女神社ともいい、本殿がなく、中門をはさんで板塀瓦葺の神垣(神籬)の中に人頭大の自然石で積まれた内径136cmの古井泉が御神体になっているといい、式内社の研究の志賀剛氏は、上代には、この辺はじめじめしており、水荵[なぎ]が生えていたので、ナギ沢と言ったと推測しているという(www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/031410-01.html)。畝尾都多本神社を勧請したのは、鈴川の地が浮嶋沼の湿地帯だったからなのであろう。畝尾都多本神社について本居宣長は「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞の神」としているといい(www.genbu.net/data/yamato/tutamoto_title.htm)、延命の神ともされたようで、天武天皇第一皇子である高市皇子が亡くなった時,柿本人麻呂が詠んだ挽歌への檜隈女王の返歌に「哭澤(なきさわ)の神社(もり)に御酒(みわ)据ゑ祈祷(いの)れども わご王(おほきみ)は高日知らしぬ」(哭澤の社に神酒を供え,回復を祈ったけれども、その甲斐なく高市皇子はお亡くなりになった)という哭沢神社を恨んだ歌があり、畝尾都多本神社が延命の神とされたのは相当古いものだと考えられている。畝尾都多本神社が延命の神とされたのは水神を祀る神社だったこととも関係しているのかもしれない。祭神の哭澤女神(なきさわめのかみ)は、『古事記』では伊邪那美神が火之迦具土神を生んで亡くなったのを、伊邪那岐神が悲しんで泣いた涙から生まれた神である。水は火に克。そのことから、火之迦具土が伊邪那美を死に至らしめたことに克、即ち伊邪那美は死ななくてもすむということから、延命の神とされていったのであろう。水と龍神が関係することから木之元神社にも龍神信仰があるのかもしれないし、畝尾都多本神社の神紋は巴紋であり、巴紋は龍神系の神紋であるから、もともと畝尾都多本神社が龍神と結びついていたのかもしれない。

 富士山登山者は湧玉池の霊水で禊ぎをして登山する古くからの習わしがあったという(http://fuji-hongu.or.jp/sengen/hongu/index.html)。それで、浜下り神事で浜垢離の禊をしていた鈴川の海で水垢離して富士山に登るという風習もできたのかもしれない。しかし、浜下り神事は元々湧玉池の水と結びつく水祭りだけでなく、海の要素もあったが、海の要素が切り捨てられたのが今の「河原祓」と考えられないだろうか。保壽寺の川施餓鬼では松岡水神社には行っても阿字神社には行かないようでり、「河原祓」でも浜下り神事で重要な場所だった阿字神社が排除されていることが窺えるが、浜下り神事から海の要素が排除された結果とも考えられる。浜下り神事が松岡の水神社での河原祓に変更された理由が、例えば阿字神社あたりが遠すぎるといった理由だとすれば、松岡の水神社は阿字神社より近いかもしれないが、しかし遠さでは阿字神社とそう違いがないともいえるのである。『日本書紀』の一書に瓊瓊杵尊が「あの波頭の立っている波の上に、大きな御殿をたて、手玉もころころと機織る少女は誰の娘か」と問い、「大山祇神の娘たちで、姉を磐長姫といい、妹とを木花開耶姫といいます。またの名は豊吾田津姫です」と答えるというのがある。木花開耶姫は海と深く関係する神なのだといえ、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする富士山本宮浅間神社の浜下り神事が、まったく海と関係ないというのはありえないのではないだろうか。筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、伊勢の五十鈴川河口の夫婦岩は海神である常世の神を迎える聖地で、伊勢参宮の人びとはその海辺で海の中に身をひたして、垢離かきの禊をしてして太陽のスピリットをわが身につけたという。夫婦岩は内宮を流れる五十鈴川が二つに分かれて、その一つが海に注ぐ河口の近くで、富士山本宮浅間神社の浜下り神事が行われる場所も湧玉池の水が海に注ぐ近くであり、その海辺で浜垢離の禊をするということは、浜下り神事も海と関係する神事、さらにいえば海から依り来る神と結びつく神事だったのではないだろうか。
 加茂喜三氏は江尾近くの沼津市一本松に男鹿塚・女鹿塚という同じぐらいの丸い浜石がそれぞれ一所にかたまって累積している場所があり、明らかに信仰によって一石ずつ運び上げて築かれた石塚であることがわかるという。そして、津波や洪水による地形の変化に加えて信仰の変遷もあって、男鹿塚・女鹿塚は衰微し、見付の関が置かれたり、宿場が成立したりなどの地の利を得て繁栄した鈴川に伝承を移し、富士塚に改められたのではないかとする。もし加茂喜三氏の言う通りだとすれば、浜下り神事には海の要素もあったとみるべきであろう。海の要素があったから、田子ノ浦の浜に出て内陣をつくり酒をのみ赤飯をたべるという風習が後々にまで残ったのではないだろうか。加茂喜三氏によると、沼津市原町の清梵寺は南海から漂着したという大地蔵尊を祀った古寺で、同寺には竜神に捧げされた乙女の入水と、これを救う仏者の極彩色の板絵が掲げられていて、三股淵の「生贄伝説」が残れさているという。そこには、海から漂着する仏(神)と三股淵の大蛇伝説が結びついていることにも注目すべきであろう。
 海からの漂着神はもともとは冬至の日の出方向からやってくるのであるから、富士山本宮浅間神社と江尾の飯綱神社が西北30度線をつくるということは、浜下り神事も古くは江尾あたりで行われていたのかもしれない。沼津市一本松は江尾の近くでもあり、江尾の前の浮嶋沼もかつては内海だったことも考えられる。海から依り来る神は一本松の男鹿塚・女鹿塚に上陸し、そこから内海を渡って江尾さらには富士山浅間神社に至ると考えられていたが、それが鈴川の海岸に上陸し、富士山浅間神社に至ると考えられるようになったのかもしれない。それは鈴川の地の利ということもあるかもしれないが、海から依り来る神の方角が冬至の日の出方向から巽の方角へと変わっていったということもあるのではないだろうか。清梵寺のある原町も一本松の隣である。
 阿字神社であるが、常陸の浜下り祭りであるヤンサマチで神が漂着した場所とされる清浄石は、弘法大師がこの石の上で護摩をたいたということから護摩壇石といわれ、表面が阿の字に似ているということで別名阿字石ともいわれた。さらに、ヤンサマチで重要や役割を果たす酒列磯崎神社のすぐ近くの海岸は阿字ヶ浦といわれる。その例からいえば、阿字神社も海からの漂着神と結びつく神社だったかもしれないわけである。

 三股淵の生贄伝説は、「一夜官女」「一夜(一時)女郎」の風習と関係があるのかもしれない。大和岩雄『天照大神と前方後円墳の謎』を読むと、摂津国野里村(現大阪市西淀川区野里)の住吉神社の例祭の時、民家の十二、三才の女子が衣装を改めて一夜官女として参籠し、神供を備ふといい、尾張津島天王社でも御贄(みにえ)祭の時、官人の少女が一時女郎として列座する。中山太郎氏は農家を訪れた田の神は、新嘗の夜に心に適した婦女があるとそれを近づけたが、それが各地に残っている祭りの際の「一夜官女」「一時女郎」の原義であるとしているという。大和岩雄氏は津島天王社の正月の御贄祭は新嘗も御贄であるから、本当は冬至に行われていたのであろうとする。また、野里村の「一夜官女」について柳田国男は「十二三の児が七人」で、「その中の一人だけはニエと称して別の座に坐らせて居る」と書いており、やはり一人だけ選ばれるのであり、その少女が「贄」と呼ばれていることは、津島天王社の一夜女郎が御贄祭の主役であることと共通するという。そして、新嘗の夜は食物と女性(童女・処女)を神に生贄として捧げる祭りなのであり、人身御供については、人柱伝説などとの関連で、神の怒りをしづめる要素もあるが、人柱とちがって、中山太郎の書くように、一夜妻(一時女郎)との関連が無視できないという。三股淵の生贄伝説で七人の神子からおあぢが選ばれるというのは、七人の少女の中から一人の少女が「贄」として新嘗の夜に神への生贄として選ばれていたのが、毒蛇への生贄として選ばれる話に転化したとも考えられるわけである。大和岩雄氏は『日本書紀』弁恭天皇七年十二月日の条に新室の宴で皇后が舞い、座長の天皇に妹の弟姫を奉る話があるが、これは新室の宴だからであり、新室とは新嘗の日、神(客人)を請ずる家のことであり、天皇は客人であり、その客人(座長)の前で、新室の家人(この場合は皇后)が舞い、その家(新室)の女(この場合は、弟姫)を、一夜妻として「娘子奉る」というのが当時の「礼事」だったのであるとする。大和岩雄氏は「一夜官女」「一夜女郎」は一夜妻が元であろうとする。そして、一夜妻が一夜で孕んだという話があり、その典型は雄略紀に載るが、新嘗の神事では一夜妻はただ共寝するだけでなく、神の子を産むという意味があったのであり、『古事記』の瓊瓊芸と木花之佐久夜毘売の話も 一夜妻と一夜孕みの話であるという。木花之佐久夜姫が冬至の日の新嘗祭の一夜妻であり、海から依り来る神は冬至の日の出の方角からやってくるとされ、木花之佐久夜姫が海と結びつく神でもあるとすれば、浜下り神事が海から依り来る神と結びつく神事であった可能性も十分あるのではないだろうか。
 木花之佐久夜姫と川の関係でいえば、木花之佐久夜姫は機を織る少女でもあった。筑紫申真『アマテラスの誕生』によれば、年に一度訪れる神は舟に乗って山の頂上に到着し、それから中腹をへて山麓に降りてくる。そこで、人びとが前もって用意しておいた樹木である御蔭木(みあれぎ)に神の霊魂がよりつき(憑依)、その常緑樹を川のそばまで引っぱっていく(御蔭引き)。川のほとりに到着すると、神は木から離れて川の流れの中にもぐり、姿を現わす(幽現)。神は地上に再生するのであり、この神の誕生を御蔭・御生(みあれ・みかげ)と呼んだ。神が川の中に出現すると、神をまつる巫女、すなわち棚機つ女(たなばたつめ)は川の流れの中に身を潜らせ(古典はこのような女性をククリヒメとよんんでいる)、御生れする神を流れの中からすくいあげ、神の一夜妻となる。これが日本の各地で、毎年一度づつ定期的に、もっとも普通に行われていた神の出現の手続きであった。内宮ではそれは滝祭りであり、滝祭りの神は竜、すなわち蛇の姿で現れると思われていたという。また、神は年に一度、海から、または海に通じる川を通って、遠いところから訪問してくるものと考えられてもいた。そこで、人びとは村ごとに、海岸や川端の人里離れたさびしいところに、湯河板挙(ゆかわだな)と呼ぶ小屋をつくって、神の妻となるべき処女を住まわせ、神の訪れを待ちうけさせた。そして、この棚機つ女はふだんは訪れてきた神に着せて自分は神の一夜妻になるため、神の着物を機にかけて織っていた。天から山の頂であれ、海から河口であれ、どちらにしても年に一度訪れる神は川とも深く関係するわけであり、そして、筑紫申真氏によれば、年に一度、海の彼方から、あるいは天の彼方から訪れる神は蛇の姿で訪れるわけである。
 鈴川ではかつては海岸に湯河板挙の小屋を建て、そこで棚機つ女が機を織っていたのかもしれない。それが阿字神社に変わっていったということではないだろうか。富士山本宮浅間神社の信仰体系は複雑で複合的なものであるとも考えられる。年に一度訪れる神は天から富士山の頂上に降りてくる神でもあり、海からやってくる神でもあるのかもしれない。この海からやってくる神が冬至の日の出方角だけでなく、巽の方角からもやって来ると考えられるようになると、鈴川の海岸にやって来る、さらには鈴川の河口から潤井川を遡ってやって来るということにもなり、木花之佐久夜姫が織姫であり、棚機つ女でもあることも考えると、富士山本宮浅間神社の祭祀に鈴川の海岸や阿字神社が組み込まれていったのではないだろうか。
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北口本宮冨士浅間神社周辺の方位線

 東口本宮冨士浅間神社で興味深いのは、富士山と方位線を作るとした盛山と東北30度、寒竹神社と東北60度、箱根の神山と西北45度の方位線を作ることである。このうち、神山との方位線が特に意味があるかもしれない。神山と一体ともいえる駒ヶ岳と東西線をつくっていた富士山本宮浅間神社が西表口参道宮と言われるのに対して、東表口参道宮とされた新橋浅間神社がやはり駒ヶ岳と西北45度線を作っているからである。関東よりの登山者は必ず新橋浅間神社に詣で、祓禊をうけた後、清冽な流れの水で禊をしたという。創建に関する記録はないが、古くからの伝承では応保元年(1161)に熊野衆徒の鈴木氏によって創建されたとされ、また建久四年(1193)源頼朝が富士の巻狩りをした時に創建されたともされる(http://gotemba.jp/archives/introduce/sengeng)。どちらにしても、東口本宮冨士浅間神社よりは後の時代の創建ではあるが、富士登山が盛んになる以前の古社ということはできる。

  東口本宮冨士浅間神社―森(盛)山天照皇大神宮(W0.359km、0.67度)の東北30度線
  東口本宮冨士浅間神社―寒竹神社(E0.099km、0.23度)―木之元神社(W0.128km、0.26度)の東北60度線
  東口本宮冨士浅間神社―神山1437.7m三角点(W0.061km、0.67度)の西北45度線
  新橋浅間神社―駒ヶ岳1356m標高点(E0.071km、0.34度)の西北45度線

 千居ストンサークルと富士山も方位線を作っていたが、北口本宮冨士浅間神社と千居ストンサークルも東北45度線をつくる。すなわち、北口本宮冨士浅間神社は高根山・千居ストンサークル・牛石ストンサークルの東北45度線上に位置するわけである。より正確には千居・牛石の両ストンサークルの東北45度線に挟まれた、牛石ストンサークル寄りに位置している。北口本宮冨士浅間神社は、すぐ近くの大塚丘から元々から諏訪神社があった地に遷座してきたわけであるが、その社殿配置は参道から本殿までの軸が大塚丘に向くようになっている。大塚丘と本殿は方位線を作るとはいえないが、大塚山からの東北45度線が本殿と諏訪神社の間、本殿寄りを通るので、大塚丘の東北45度線上に遷座してきたといってもいいであろうし、大塚丘から本殿・参道の軸が高根山・千居と牛石の両ストンサークルの東北45度線に重なっているわけである。
 大塚丘と北口本宮冨士浅間神社、正確には諏訪神社を結ぶもう一つの方位線がある。北口本宮冨士浅間神社には御鞍(おみくら)石というのがある。元々は摂社諏訪神社の祭りだったという「吉田の火祭り」(鎮火祭)の二日目、お浅間様三柱とお諏訪様二柱がお遷しされた明神型神輿の「お明神さん」と、浅間大神の荒霊が乗ると言われている噴火する荒ぶる富士を表した「御影」(お山さん)の二つの神輿は、御旅所から上吉田一帯の町を巡る(渡御)。そして、渡御から帰ってきた明神神輿を、まず御鞍石の上に安置するのである。やがて「渡御」から戻って来た「お山さん」神輿が見えだすと、御鞍石の北200mほどのところにある上げ松の根元から「すわのみや、すわのみやかげやイようがみ、さいそうがみ、げにもそろそろそろ」という神官の謡が二度繰り返され、む太鼓が二度打ち鳴らされる。それを合図に明神神輿は担ぎ上げられ、矢のような速さで、一直線に高天原に突進し、それにお山さん神輿も加わり、神官と大勢の氏子を引き連れ高天原を七回廻る。その時、さまざまな服装や年齢層の人が、いっせいにただならぬ狂気に近い勢いで疾走するのだという。二台の神輿は最後に諏訪神社の前で地べたへ打ち落とされる。一瞬境内の燈という燈が消され、同時にあたりが静寂になり、諏訪神社の正面に神官姿の人影が立ち、白い晒し布(絹垣)の向うで神事が始まると、やがて「オオオオオ...」というおらび声が低く響き渡る。そして白い晒し布の幕に内側に何かを囲った白い一団が、「オオオオオ...」しおびら声をあげながら拝殿に向かい、白い一団が拝殿の中に消える()と,燈がともり、張りつめた空気が消え、人びとは三々五々町へ下りていく(彩流社オフサイド・ブックス『祭の古代史を歩く』佐伯修「『吉田の火祭り』本当のクライマックス」)。御鞍石は北口本宮冨士浅間神社近くの、吉祥女子中学・高等学校富士寮の北側の道路の寮側の脇にあり、御鞍石祭の神事において読まれる祝詞には「ここに神輿のまたがりいます御鞍石はしもあが大神のしずまりまししいとも古くみゆかりあるあとにして御社のおこりはじまるみなもとなれば」との一節があり、諏訪神社は元はここに在ったという伝承があるが、調査では建物の礎石や版築などは確認されず、常設の建物はなかったものと考えられている。銭貨など遺物の出土が見られたのは石の周りに限られており、この石こそが信仰の対象となっていたと考えられるという。御鞍石は人為的に設置されたものではないことも分かり、鎌倉時代の吉田大沢の山体崩壊で流れてきたのではないかという(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/6743)。鎌倉時代に流れてきたと思われる石が、祝詞でどうして「御社のおこりはじまるみなもと」などと言われるのかわからないが、大塚丘と御鞍石がむ南北線をつくり、御鞍石と諏訪神社が東北30度線をつくっている。

  高根山(W0.537km、0.39度)―千居ストンサークル(E0.921km、1.92度)―北口本宮冨士浅間神社―牛石ストンサークル(W0.218km、0.89度)の東北45度線
  大塚山標高点―北口本宮冨士浅間神社(E0.035km、6.50度)―諏訪神社(W0.065km、10.73度)の東北45度線
  大塚山標高点―御鞍石±(W0.006km、2.11度)の南北線
  北口本宮摂社諏訪神社―御鞍石±(E0.006km、1.45度)の東北30度線

 吉田口二合目にある小室浅間神社は、文武天皇三年(699)に藤原義忠によって奉斉されたと伝えられ、その後和銅元年(708)に祭場の形を造り、養老四年(720)雨屋建立、大同二年(807)に社殿が創建されたという。大同二年の社殿の造営は、大同元年に北口本宮冨士浅間神社が現在地に社殿が造られたことと連動するものであろう。小室浅間神社は里宮として冨士山下宮小室浅間神社と冨士御室浅間神社があり、二合目の小室浅間神社は、1973〜74年に河口湖湖畔の冨士御室浅間神社の社地に遷してそのまま本宮として祀られ、元の二合目は奥宮とされた。ここでは河口湖畔の本宮を冨士御室浅間神社本宮と記し、二合目の奥宮は地図で記されているように小室浅間神社奥宮と記す。小室浅間神社は富士山剣ヶ峰と東北60度線をつくっている。また、須走口五合目の古御嶽神社と西北60度線をつくり、古御嶽神社は富士山白山岳と東西線をつくるので、富士山・小室浅間神社・古御嶽神社が方位線正三角形を作っているといえなくもない。吉田口五合目の小御嶽神社も火口中心部からいえば方位線をつくるとはいえないが、その南北線が火口内部を通るので、富士山頂と南北線を作るといえるかもしれない。もっとも、富士山の火口の大きさを考えると、これら山頂近くの神社と富士山の方位線はかなりぼやけたものともいえる。

  小室浅間神社奥宮―白山岳(W0.177km、2.28度)―剣ヶ峰(W0.104km、0.46度)(km、度)の東北60度線
  小室浅間神社奥宮―古御嶽神社(W0.078km、1.09度)の西北60度線
  富士山頂白山岳―古御嶽神社(N0.154km、2.02度)の東西線
  富士山火口標高点―小御嶽神社(E0.200km、3.21度)の南北線

 下吉田駅近くの冨士山下宮小室浅間神社は、二合目の小室浅間神社奥宮と同じ大同二年(807)に、坂上田村麿によって社殿が草創されたとされ、富士山二合目の小室浅間神社の里宮であることから下宮浅間神社、富士下宮浅間宮、下浅間と呼称されていた。同じ年に社殿が造営されたということは、二合目の小室浅間神社と外宮の小室浅間神社の造営も連動したものであろう。二合目の小室浅間神社・北口本宮冨士浅間神社・小室浅間神社(下浅間)が一直線上に並ぶ。正確には、二合目の奥宮と外宮を結ぶ線が、大塚丘と北口本宮冨士浅間神社境内の諏訪神社の間を通る。河口湖南岸の里宮冨士御室浅間神社は、天徳二年(958)村上天皇が、崇敬者の礼拝儀祭の便を図るため、現在の場所へ建立したといわれるが、こちらの方は北口本宮冨士浅間神社と西北45度線をつくる。

  小室浅間神社奥宮―大塚山標高点(0.050km)―北口本宮冨士浅間神社(0.159km)―北口本宮摂社諏訪神社(0.047km)―小室浅間神社(下浅間)の直線
  北口本宮冨士浅間神社―冨士御室浅間神(里宮)(E0.189km、1.76度)の西北45度線

 加茂喜三氏の本によれば、「あし」のつく静岡県の愛鷹山、神奈川県の足柄山、山梨県の足和田山は古来「富士山の三脚」といわれ、特別に尊崇されてきたが、それは富士山を斎祀する山だったからであるという。そして、いま一つ富士山麓には古来特別に尊崇されてきた山として盛山があると続くわけであるが、富士山本宮浅間神社が位牌岳・盛山と東西線をつくるのに対して、足柄山の金時山と北口本宮冨士浅間神社、足和田山と東口本宮冨士浅間神社がそれぞれ西北45度線をつくっている。加茂喜三氏は愛鷹山・足柄山・足和田山の作る三角形の中心に富士山が坐るとするが、実際には富士山頂は三角形の外側に位置する(見方によっては、位牌岳・富士山・足和田山が一直線に並ぶともいえが)。それに対して、さらに盛山を加えた四角形を考えると、その四角形の中に富士山がある。また、三つの本宮浅間神社が残念ながら方位線三角形の結界をつくらないと記したが、古御嶽神社が富士山本宮浅間神社と東北45度線、古御嶽神社と河口浅間神社が南北線、河口浅間神社が盛山と東北60度線をつくるので、富士山本宮浅間神社・古御嶽神社・河口浅間神社・盛山が富士山を囲む方位線四角形をつくっている。

  金時山1212.4m三角点―大塚山891m標高点(E0.296km、0.61度)―北口本宮冨士浅間神社(E0.603km、1.23度)の西北45度線
  足和田山1354.9m三角点―東口本宮冨士浅間神社(W0.359km、1.01度)の西北45度線
  富士山本宮浅間神社―古御嶽神社(W0.309km、0.81度)の東北45度線 
  古御嶽神社―河口浅間神社(W0.213km、0.67度)の南北線
  河口浅間神社―森(盛)山天照皇大神宮(E0.732km、1.08度)の東北60度線
 
 足和田山の東北30度線上に冨士御室浅間神社(里宮)があり、東西線上に小室浅間神社(下浅間)がある。この場合、冨士御室浅間神(里宮)の位置は、足和田山と北口本宮冨士浅間神社からの方位線の交わるところとして決定できるが、下宮の方は、足和田山と北口本宮冨士浅間神社を通る直線との交わるところということで、その位置が決定されるわけではない。方位線的には、下宮は富士山本宮浅間神社と東北60度線をつくる。あるいは、近場では吉田口五合目の冨士山小御嶽神社とも東北60度線をつくる。冨士山小御嶽神社自体は、承平七年(937)山岳信仰の聖地である小御岳山の山頂に創建されたといわれるが、小御岳山はそれ以前からの聖地であったということで、正確には小御岳山と東北60度線を作るというべきであろう。小御岳は富士山が作られる前からあった山で、小御岳と古富士が土台となって、何度も噴火を繰り返すことによって、いまの富士山の姿ができたという。 下宮は、足和田山の東西線と富士山本宮浅間神社あるいは小御岳山からの東北60度線が交わる場所と、小室浅間神社奥宮と北口本宮冨士浅間神社を結ぶ直線上に、並ぶように配置されたといえよう。
 北口本宮冨士浅間神社は小室浅間神社(下浅間)とは方位・方向線をつくらないが、 小御嶽神社とはかなり方位線に近い方向線をつくる。小御嶽神社は富士山本宮浅間神社とも東北60度の方位線をつくっている。両社とも富士山・北口両本宮の東北60度線に挟まれており、富士山本宮浅間神社・小御嶽神社・北口本宮冨士浅間神社・小室神社(下浅間)が一本の方位線上に並んでいるといえるであろう。富士山本宮浅間神社は下宮の造営される前年の大同元年(806)に造営されたということであるから、富士山本宮浅間神社・小室浅間神社奥宮・小室浅間神社(下浅間)は一つの基本計画のもとに造営されたのかもしれないし、その基本計画は北口本宮冨士浅間神社や東口本宮冨士浅間神社造営をも含むもっと大規模なものだったのかもしれない。

  足和田山三角点―冨士御室浅間神(里宮)(E0.144km、2.08度)の東北30度線
  足和田山三角点―小室浅間神社(下浅間)(N0.090km、0.59度)の東西線
小室浅間神社(下浅間)―北口本宮冨士浅間神社(E0.502km、10.00度)―小御嶽神社(E0.104km、0.46度)―富士山本宮浅間神社(W0.298km、0.49度)の東北60度線
  富士山本宮浅間神社(W0.402km、1.08度)―小御嶽神社―北口本宮冨士浅間神社(E0.399km、2.29度)の東北60度線

 河口湖湖畔の御室浅間神社の地に遷座した本宮が富士山を背にしているのに対して、里宮は河口湖を背にしている。里宮の社前に立つと、河口湖を拝む形になるわけである。富士山信仰にとって河口湖が特別な意味を持っていたということなのかもしれない。河口湖が特別な理由の一つとして考えられることは、河口湖にあるうの島に弁天堂があり、琵琶湖に見立てられたのではないかということである。富士山と近江、琵琶湖には特別な関係があったようであり、加茂喜三氏の本によれば、富士登山の同行のなかに不浄の者がいると、何処からともなく小石が飛んできたが、先達の御師が「近江、近江」と二度叫ぶと小石は飛んでこなくなるといい、近江の人は富士山に登るのに不浄を気にしなくてもよいとも言い伝えられていたという。また富士山は琵琶湖の土を天狗がモッコを担いで運んでつくった山ともいわれたという。天狗ではなくダイダラボッチとする伝承もあるようである。それからいうと、琵琶湖と富士山は一体ともいえるわけである。そのような説は江戸時代の本にも載っている。また、富士山と琵琶湖が孝霊天皇の時代に時を同じくして出現したという説もあるらしい。それが載った最古の文献は,北畠親房が著した『職原抄』(1340)であるとされるが、いくつかの引用した本にあるだけで、『職原抄』にはないようだともいう(http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2014/pdf/no09_02.pdf)。富士山と近江の特殊かな関係は、あるいは、富士山本宮浅間神社の大宮司家の富士氏からきているのかもしれない。冨士氏は近江にいた和邇部氏で、801年に駿河国富士郡に進出してきたとされるが、その進出の理由は明らかでないが、坂上田村麻呂の東征に従って進出したともいわれる(ウィキペディア)。琵琶湖の竹生島の弁財天は聖武天皇の時代、僧行基によって開基されたといわれるが、もし河口湖が琵琶湖に見立てられたのだとすれば、冨士御室浅間神里宮が建てられた時代、すでにうの島には弁財天が祀られていたのであろう。
 神体山とそれを祀る神社が、神社の背後に神体山があるのか、その正面と神体山が向かいあっているのかは両方ありえる話なのかもしれない。前者の場合、神社を拝むことは神体山を拝むことになるが、後者の場合、神体山の神を神社に迎い入れるために神体山の方を向いているのかもしれない。参道の真ん中を通って神さまが来るので、参拝者は門や鳥居の真ん中を通るべきではないという考えもあるようである。その場合は、神体山を拝むというより、神体山から神社にやって来た神を拝むということになる。
 どちらにしても、河口湖は北口本宮冨士浅間神社の諏訪神社にとって特別な存在であり、それで冨士御室浅間神里宮も河口湖畔に建てられたということなのかもしれない。諏訪神社は諏訪の御射山社と西北45度線をつくり、その方位線が河口湖を通る。御射山社はそこから建御名方命が諏訪に入ったという伝承のある神社と方位線をつくっていたのであるから、出雲神族の移動と結びつく神社ともいえる。その御射山社と方位線をつくる諏訪神社は、富士山の北側に移動してきたかなり広範囲の出雲神族の祭祀の中心だった可能性がある。諏訪大社の御射山祭や、諏訪神社の別当寺であった時宗西念寺のこと、方言が似ている(甲府盆地の向う側にも関わらず)などから、諏訪と吉田は深い関りをもってきたと推測されているという(http://sengenjinja.jp/himatsuri/index.html)。そして、河口湖はその出雲神族にとって諏訪湖の代りであり、さらには宍道湖の代りだったのではないだろうか。御射山社・河口湖・諏訪神社の西北45度線上に 冨士御室浅間神(里宮)が位置しているということは、諏訪神社と河口湖に結びつきがあり、それ故河口湖を強く意識した立地だったということだったかもしれないわけである。もしそうなら、縄文時代の富士山信仰はともかく、出雲神族が富士山周辺に移動してきて、北口本宮冨士浅間神社の諏訪神社で富士山を神体山とする祭祀が行われており、それ以後の富士山祭祀もこの出雲神族による富士山祭祀を無視できなかったということである。方位線的にいえば、大本教のところで富士山と出雲の熊野大社の東西線について記したが、この場合まだ現在の熊野大社は建てられていなかったと言われているので、その神体山である天狗山と富士山の関係が問題になるが、天狗山と富士山も東西線をつくっている。冨士御室浅間神が諏訪神社や出雲神族と深く関係していることは、その神紋が「亀甲に六つ唐花」で(http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1553.html)、亀甲が入っていることからもいえるのではないだろうか。里宮・本宮とも同じ神紋であるが、もしかしたら本宮の方は、里宮の地に遷座した後に里宮に合わせてその神紋になった可能性もあるかもしれない。
 
  御射山社―北口本宮摂社諏訪神社(W0.237km、0.18度)の西北45度線
  天狗山三角点―富士山火口標高点(N2.597km、0.29度)の東西線
 
 北口本宮冨士浅間神社の境内案内図(http://sengenjinja.jp/pdf/keidaiannai.pdf)を見ていて、本殿の裏に密着するように恵比寿社があるのに気がついた。グーグル地図でみると、一つの社殿の中に本殿と恵比寿社が在るようにも見える。不思議な配置だなと思って、他の所はと思い、東口本宮冨士浅間神社のホームページを見ると、境内末社に恵比須大国社があり、「かつて、当社社殿裏には裏神様が祀られており、その御分霊が小山町・富士紡の工場敷地内に祀られていた。工場内の事情により当社へと戻られ、当社の裏神様と合祀して、境内末社にて祀られることとなった。」とあり、祭神は大国主命・事代主命となっていた。東口本宮冨士浅間神社の恵比須大国社は本殿の真裏にあるわけではないが、かつては本殿に接するようにその真裏にあったのかもしれない。一方、北口本宮冨士浅間神社の恵比寿社も裏神様なのであろう。インターネットで「裏神様」を検索してみると、高崎市の山名八幡宮が出て来た。案内板には「正面をお参りされた方 本殿により近いこちら中門より裏神様をお参りください。陰陽合わせの考えによりさらにご利益があると伝わります。」(http://beccan.blog56.fc2.com/blog-entry-1046.html)とあるという。写真を見ると、本殿と背中合わせのようにして獅子頭が祀られている。北口本宮冨士浅間神社の恵比寿社を配置図で見た時、本殿を通してその後ろの恵比寿社を拝む構図を想像していたので、少し以外であった。北口本宮冨士浅間神社の恵比寿社はどうなのであろうと、そこではじめて検索してみると、やはり北口本宮冨士浅間神社でも恵比須・大国天が本殿と背中合わせで祀られている。社殿というより大きな祠といった感じで、左甚五郎の作という富士えびすの恵比須・大国の彫刻が置かれている。また、それは古くからの配置なのかと思ったが、小室浅間神社(下浅間)の室宮恵比寿神社は、神社の説明によると、「ある日、篤信人の霊夢に富士山北口の下官産土神社恵比寿大黒像が現れ、『吾は隆昌の運を支えるのばり恵比寿なるぞ。富士に向かって祀れ。吾前に額き縁の霊カを背負い、富士に向かう者の運を開く時は瞳目に値するぞ』とお告げ在りし故、摂津國西宮より勧請し、社宝尾形光琳色彩の恵比寿大黒像を室宮恵比寿と称え申し上げ御奉斎してある。」(http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1555.html)とあり、北口本宮冨士浅間神社の恵比寿社もそんなに古いものではなく、御利益を求める参詣者集めのために造営されたのかもしれない。
 もっとも、木花開耶姫と大国主・事代主が背中合わせに祀られているのは、富士山頂では火口を挟んで、表口(富士宮口)の方に浅間大神(木花之佐久夜毘売命)を主祭神とし、相殿神として大山祇神・瓊々杵尊を祭る富士山頂上浅間大社奥宮と、須走口、吉田口、河口湖口側に奥宮の末社で、大名牟遅命・少彦名命を祀る富士山頂上久須志神社が在ることに対応しているともいえる。高崎市の山名八幡宮の案内板でいえば、北口本宮冨士浅間神社の祭神の木花開耶姫と恵比寿社の恵比須・大国は陰陽一対の関係にあるのかもしれない。富士山頂に大名牟遅命・少彦名命が祀られているということは、富士山信仰の土台に出雲神族の富士山信仰があったことを窺わせているともいえる。諏訪大社上社の御射山社と諏訪神社が西北45度線をつくっていることは述べたが、その方位線上には北口本宮冨士浅間神社・大塚丘もある。それに対して、富士山本宮浅間神社と東口本宮冨士浅間神社も諏訪大社上社神体山の守屋山と西北60度線、西北45度線をつくっているのである。富士山本宮浅間神社の元々の地である山宮も諏訪大社上社本宮あるいは前宮の西北60度線上にあり、方位線から見ると、本宮浅間神社の富士山信仰と諏訪大社上社との間には深い繋がりが感じられるのである。東口本宮冨士浅間神社と箱根駒ヶ岳が西北45度線をつくっていたが、守屋山と神山・駒ヶ岳も西北45度線をつくる。なお、江尾の飯綱神社も前宮と西北60度線をつくる。

  御射山社―大塚山(W0.579km、0.45度)―北口本宮冨士浅間神社(W0.272km、0.21度)の西北45度線
  守屋山西峰三角点―富士山本宮浅間神社(W0.693km、0.42度)の西北60度線
  守屋山西峰三角点―東口本宮冨士浅間神社(E1.641km、0.96度)―神山神山1437.7m三角(E1.581km、0.77度)―駒ヶ岳1356m標高点(E1.127km、0.55度)の西北45度線
  山宮浅間神社―諏訪大社上社前宮本殿(E0.597km、0.37度)―諏訪上社本宮硯石±(W0.135km、0.08度)の西北60度線
  諏訪大社上社前宮本殿―江尾の飯綱神社(E2.220km、1.17度)の西北60度線

 久須志神社は普通出雲系を祭神とする神社の神紋は亀甲か巴紋であるのに十六弁菊花紋であり、何か違和感を感じた。そこまでするかと思ったのである。しかし、よく考えるとやむを得ない面もあるのかもしれない。日本を象徴する富士山の山頂で祭られている天孫族系の神は、富士山頂上浅間大社奥宮で相殿神として祭られる瓊々杵尊だけなのである。せめて、菊花紋ぐらい使わせろと言うことなのかもしれない。それにしても、日本の象徴である富士山山頂で天孫族系の神がもってきちんと祭られていてもいいような気もする。富士山火口は円形であり、富士山頂上浅間大社奥宮と富士山頂上久須志神社、それに天孫族系の神を祭る神社が輪を作ることになり、日本の象徴である富士山の頂上で、天孫族系の天津神と出雲系の国津神が対等に和合しているという形は、これからの日本の象徴としての富士山には相応しいのではないだろうか。その場合、久須志神社の主祭神はクナトノ大神とすべきであろう。神紋も十六弁菊花紋ではなく亀甲紋に変えるべきである。天孫族系の神としては、かつては国常立尊も祭られていたらしい。江戸時代後期の寛政年間(1789〜1801)に書かれた『富士本宮浅間社記』は富士山本宮浅間神社の縁起として最も尊重されているものであり、その末尾の祭神名に「左太元尊命 中者木華開耶姫命 右大山祇命」とあり、室町時代末期に吉田神道を興した吉田兼倶は、吉田神道で宇宙の根源神とされた太元尊命と国常立尊を異名同神としているという(古銀剛「失われた超古代『冨士王朝』と艮の金神大予言」月刊『ムー』412号)。もつとも、太元尊命が吉田神道によって創り出された神であるとすれば、当然太元尊命が祭神とされたのはそれ以後のことで、瓊々杵命を太元尊命に変えたということになる。古銀剛氏の文によれば、河口浅間神社の本殿正面の軒下にも「大元霊」と刻まれた額が掲げられていて、神社では醍醐天皇の御宸筆をもとにしたものだという。この場合は、平安時代の話であるから、吉田神道の太元尊命と結びつけることはできない。諏訪大社の所で記したが、大元神はアラハバキ神とも結びついている。河口浅間神社の大元霊はアラハバキ神のことなのかもしれない。富士山信仰の土台に出雲神族の富士山信仰があるとすれば、それも考えられることであろう。富士山頂に鎮まる天孫族系の神社の祭神は誰であれ、神社の神紋は久須志神社亀甲紋、天孫族系の神社は菊花紋、浅間大社奥宮は亀甲の中に菊花紋ということにでもすればいいのではないだろうか。
 加茂喜三氏によると、最近、菊花十六弁紋章を富士山麓の各地で見かけるようになったという。明治になってみだりに使用することが禁止されたので隠されていたのが、表に出るようになったということらしい。富士宮市から御殿場市にかけての各市の古寺の墓地に行くと、地元の名族の墓石の何処かに菊花十六弁が刻まれているという。また、富士山麓一帯の富士浅間神社はすべてこの紋章を用いているといい、江尾の飯綱神社の社頭にも刻まれているという。位牌ヶ岳と袴腰岳の中間の東側の山頂に少しばかりの平地があり、そこにも中央に丸石が置かれ、それを取り巻くようにして根を中央の丸石に向け、楕円形の石が並ぶ、菊花十六弁を形どった配石遺跡があるという。加茂喜三氏によれば、富士山周辺の菊花十六弁紋は『神皇紀』に天地開闢八百二十二年後に成立した「天之御中主ノ世」二代神皇高皇産穂男神のとき、日輪に十六筋の光明を配した天つ日嗣(神皇)の紋章を定めたとあり、富士山麓の菊花十六弁紋は天ノ王朝の紋章であり、富士山麓一帯の菊花十六弁紋が明治になって隠されたのは、天ノ王朝即ち冨士王朝が大和朝廷に永く敵対したための配慮にほかならないという。何らかの理由で、富士山麓には十六弁菊花紋が多いということはいえるのであろう。あるいは、南朝と関係するのかもしれない。

 小室浅間神社(下浅間)と河口浅間神社が西北60度線をつくっている。方位線ではなく、方向線なのであるが、小室浅間神社(下浅間)本殿の向きを見ると、その背面が河口浅間神社の方を向居ていおり、この方向線も無視できないものがある。さらに、旧一宮町(現笛吹市)の浅間神社と河口浅間神社・小室浅間神社(下浅間)も西北60度線をつくっており、旧一宮町の浅間神社・河口浅間神社・小室浅間神社(下浅間)が一本の方位線上に並んでいるともいえ、その意味でも無視できない。

  小室浅間神社(下宮)―河口浅間神社(W0.188km、2.25度)の西北60度線
  旧一宮町の浅間神社― 河口浅間神社(W0.394km、1.52度)―小室浅間神社(外宮)(W0.206km、0.60度)の西北60度線

 『日本三代実録』によると、貞観六年(864)に富士山の貞観大噴火が始まって大被害が発生し、これが占で駿河国浅間名神(富士山本宮浅間大社)の祭祀怠慢とされ、甲斐国でも浅間神を祭祀するべきと下命があり、貞観七年(865)12月9日伴真貞を祝として甲斐国八代郡家の南に神宮を建て、その後立派な社が造営され、官社に列したとあり、貞観七年(865)12月20日には、甲斐国山梨郡にも同様に浅間明神を祭祀した。この甲斐国八代郡家の南の神社と山梨郡の神社が河口浅間神社と旧一宮町の浅間神社のこととされ、また延喜式に名神大社として甲斐国八代郡浅間神社とあり、笛吹市の浅間神社、河口浅間神社、西八代郡市川三郷町の一宮浅間神社がこの名神大社さらには一宮の論社とされている。このうち、市川三郷町の一宮浅間神社は郡の一宮ではないかとも言われ、笛吹市の浅間神社と河口浅間神社が有力視されているわけである(ウィキペディア)。方位線的にはどちらが名神大社・一宮かということは重要ではなく、この時を同じくし、連動して造営されたと考えられる河口浅間神社と笛吹市の浅間神社が方位線をつくっているということが重要であろう。
 笛吹市の浅間神社については、富士山が見えない場所に造営されたのは国庁に近いという理由からであろう。しかし、それなら新しい神社として造営されてもいいと思うのだが、それまで神山の麓の今の山宮で祀られていたのを遷座して、浅間の神を祀ったものという。その理由は、神山にあるのではないだろうか。神山については、インターネットで調べても、ただ神山の麓の山宮から遷座したと記すものばかりで、神社の案内板や発行する由来書などにどの山か載っていないのか、神山がどの山なのか記すものは無かった。山宮の位置からして、蜂城山か大久保山、その奥の標高866mの神領山のどれかということになるが、蜂城山や大久保山の山頂には江戸末期から明治の初めとはいえ、浅間神社とは関係ない神社が建てられており、参道から山神社への軸が神領山を向いていること、名前に神が付くことなどから、神領山が神山なのであろう。そうすると、神山すなわち神領山と富士山が南北線をつくっている。笛吹市の浅間神社と山宮が西北45度線をつくっており、河口浅間神社とも方位線をつくっていることなど考えると、笛吹市の浅間神社にとって方位線が重要な意味を持っていたとも考えられる。

  神領山866m標高点―富士山火口標高点(E0.758km、1.46度)―富士山剣ヶ峰三角点(E0.389km、0.74度)の南北線
  笛吹市の浅間神社―元宮山神社(W0.012km、0.32度)の西北45度線

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富士山北東本宮小室浅間神社と『宮下文書』の空間

  富士吉田市特に明見一帯は『宮下文書』の世界でもある。『宮下文書』は大正十年に三輪義熈氏が整理要約して『神皇紀』として世に出して知られるようになったが、神武よりはるか以前、富士山麓に都をおく王朝があったというものである。農作比古神(高皇産霊神・天之神農氏神)はその第五の御子農立比古尊(国常立尊)と第七の御子農佐比古尊(国狭槌尊)に、日の本なる海原に蓬莱山があるので、天降ってその蓬莱国(とこよのくに)を治めよと言って、まず農立比古尊(国常立尊)を送り出したが、復奏がないので、弟の農佐比古尊(国狭槌尊)と一緒に蓬莱山を目指し、農立比古尊(国常立尊)より先に蓬莱山に辿り着いたという。そして、高皇産霊神は大原野の小室の小高き丘に天の御舎、穴宮の大御宮を造り、蓬莱山を高砂(たかさ)の不二山・日向(ひむか)の高地火の峰と名付け、穴宮所在の丘を阿田都(あたつ)山、大原野を高天原・阿祖谷または阿祖原と名付けた。高皇産霊神の死後、阿和路島(淡路島)で蓬莱山を探していた国常立尊はようやく蓬莱山を見つけ、弟の国狭槌尊と再会し、国常立尊を高天原世天神七代の初代として富士王朝が成立し、国常立尊は西を、国狭槌尊は高天原に止まって東を治めることにしたというのである。その後、天日子火瓊瓊杵尊は、長日向の大御宮は家の基になるに因り家佐座の宮と改め、神都を家基都(かきつ)と称し、日子波瀲武鵜茅葺不合尊が都を附地見島(築市島)の切枝間山に移し、これを神都と称し、高天原を天都と称した。
 加茂喜三氏の本によると、「建国の神々が、地を卜して始めて『天の御舎』をつくった小高い丘は、天族がはじめて『尋ね得た山』だったので、これを『天ノ尋ね得た山』即ち語呂をつめて『天ノ田都山(たづやま)』と称し、さらにこの山は天族が最初に定着した山であったので天祖山(あそやま)と称し、その周辺の原野を天祖ヶ原とも称した。のち漢字が入ってこの天田都山は天=阿と同音の故から阿田都山となり、天祖山は阿祖山に、天祖ヶ原は阿祖ヶ原に改まった。ところが現在では阿田都山の名は残っていない。しかし『神皇紀』にはその場所が図示されている。そこは現在の富士吉田市内の、東部を連なる地岳地帯の一角で、明見湖・高座山・杓子山を結ぶ正三角形の中心をなす連峰のなかの一山である。現在丸山(麿山)と称している処もその一部。この丸山には現在も高天ヶ原宗廟天社大宮阿祖山太神宮の古跡と伝える古社が残っており、そこに『神皇紀』を著した徐福の墓が残っているが、最近行ってみて驚いたことには土地造成でこの遺跡もドンドン削られており、間もなく消滅しそうである。」とある。加茂喜三氏の本は、この富士王朝の存在を、富士山の溶岩によって埋もれていない愛鷹山周辺の遺跡で証明しようという意図のもと書かれたものである。
 『宮下文書』は神官の家系ともいわれる大明見の旧家である宮下家に秘蔵されていたものである。それは記紀の神武から始まる皇統譜を高皇産霊神・国常立尊・国狭槌尊にまで嵩上げし、その嵩上げされた皇統譜の中に出雲神族の神を散りばめて嵌め込んだ、いわば天津神・国津神を統合して一つの皇統譜に纏め上げたものといえる。それを出雲神族の視点から見ると、出雲神族の神のなかにクナトノ大神が出てこないことなども含め、『宮下文書』は記紀の情報をもとにして創作された文書ということにならざるを得ないであろう。ただ、異なる部族の祖先を一人の神の子供たちにすることによって、複数の部族を統合するという手法は、世界中で見られるものである。『宮下文書』を書いた人は、天津神・国津神に代表される日本人の分裂を統合して、一つの日本民族に纏め上げたいという願いがあったのかもしれない。ただ、征服により神武が天皇になったという記紀に立脚し、それを嵩上げするという方法は、神武と長脛彦の戦いに出雲神族の大巳貴命・建御名方命・味耟託彦根(味耜高彦根)命の子孫を神武側として同士討ちさせるという結果になっており、その意図が必ずしも成功しているとは言い難いであろう。
 『宮下文書』は記紀を土台にしているといっても、『宮下文書』を書いた人物は、必ずしも大和朝廷べったりということでもない。宮下家は応神天皇の皇子である大山守皇子の子孫となっているが、大山守皇子に西の朝廷に対して叛旗を翻させてもいるのである。応神天皇の皇子阿計日登王は福地山阿祖谷家基都に来て阿祖山太神宮の宮守司長福山佐太夫の娘を娶り、応神天皇が山守部の司としたので、大山守皇子と称するようになったという。また、太神宮の大宮司長となった皇子は、天照皇太神の麻呂山の古宮を改造して、これに御祖代山なる皇太神の奥宮を合祀し、徐福の墓の側に徐福神社を建てた。応神天皇が崩御すると、皇子は天皇の遺髪と神功皇后の弓矢を阿田都山の宮守大神の大柏木の下に祀り、高御久良神社と称し、その神社の下に住んだので、子孫代々宮下と称した。そして、『神皇紀』によれば、東北諸国の神祇の後胤は大山守皇子を担ぎあげて、神都復旧を企て、朝廷に反したという。東軍と皇軍は福地川で戦い、東軍は敗れたが、皇軍は大山守皇子に容姿がよく似ていた作田毘古命の後胤佐田彦を大山守皇子と思い、皇子が死んだということで和議がなり、佐賀見国に逃れていた大山守皇子は阿祖谷家基都に戻り、祖佐命六十八世の後胤宮下記太夫明仁と称して福地太夫の後を嗣いで大宮司長となり、子孫は大宮司長を継承したという。『宮下文書』を記した人物には、都の朝廷に対する東国の反発・自己主張の意識が流れていたといえる。しかし、その東国の自己主張も、『宮下文書』では結局西の天皇・朝廷の権威に依拠するものであった。
 『宮下文書』の目録を見ると、南朝関係の物が多いことから、その皇統譜の創作には南北朝の対立が背景としてあったことも考えられる。北朝の京都に対して、南朝の天皇を富士山麓に迎えようとした、あるいは実際に富士山麓に居住していたということがあって、京都より富士山麓の方が天皇の都としてより相応しいということを、最初の都が富士山周辺に在ったとすることによって主張しようとしたのかもしれない。その場合、出雲神族も南朝側に付いていたのであるから、政治的な配慮として出雲神族の神もその皇統譜の中に組み込まれたのかもしれない。小室浅間神社(下浅間)のホームページによると、大塔宮護良親王の御首級が密かに埋葬されてあるという古文書があり、御神木桂の木の根本とされているという。

 明見周辺には南朝の長慶天皇陵と言われるものが、三ヶ所ある。南都留郡山中湖村山中の藤塚陵(円墳)、富士吉田市大明見背戸山の貴髪塚(石塔)、富士吉田市軽島ノ森の軽島森小峯山にある天照大神ノ碑(石碑)である(http://www.geocities.jp/sachiko_gaman/ryobo_shizuoka.html)。このうちの藤塚は、山中湖村山中935、山中小学校から西500mほどのところにあり、富士山を遥拝する施設という説もあるが、『山中湖の史話・伝説』に、藤塚が長慶天皇陵であるという刻印が施された銅鏡・直刀が存在するとあるという。また、鷹丸尾熔岩は藤塚ののる熔岩丘で二つの筋に分かれているが、その熔岩丘は鷹丸尾熔岩より古く、その上には弥生時代のテフラがのっており、噴火口の可能性もあるという。鷹丸尾熔岩は延暦十九年(800)の延暦の大噴火で流出した熔岩流の一つで、宇津湖を分断して忍野湖と中山湖が出来たと言われてきたが、近年の調査でその下から十二世紀中頃〜後半に位置づけられる松鶴鏡とガラス玉が出土していることなどから、その噴出時期は十二世紀以降、戦国時代以前と考えられるようになってきているという(山梨県教育委員会『山梨県山岳信仰遺跡詳細分布調査報告書』https://www.google.co.jp/search?q=%E9%95%B7%E6%85%B6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5+%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%90%89%E7%94%B0&ei=zFHUW-L3OM7AoASD7JjoBg&start=10&sa=N&ved=0ahUKEwjijbXpx6beAhVOIIgKHQM2Bm0Q8tMDCH4&biw=1024&bih=546)。大明見背戸山の貴髪塚は背戸山山麓の神社の境内にあり、石塔は2基あって、1基には、確かに御陵と刻まれているという(http://www.jlogos.com/d013/14625006.html)。軽島森小峯山の天照大神ノ碑であるが、三輪義熈『長慶天皇紀略』(https://books.google.co.jp/books?id=gDvEVVMIdDwC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r#v=onepage&q&f=true)の地図では、阿祖湖すなわち明見湖の南に軽島森と記されている。また、『富士谷 長慶院仙洞御所略図』という本の地図では、阿祖湖の東に軽島森が在り、阿祖湖の南に小室浅間大神宮旧社地、その西に長慶天皇陵・福地八幡宮旧地と並んでいる。ブログ『不二・草紙 本日のおススメ』によると、『富士谷 長慶院仙洞御所略図』は『長慶天皇紀略』の付録資料として世に出そうとしたけれども、この地図によって貴重な遺跡群の場所が明らかになり、不敬の輩によってそれらが破壊される可能性を案じて断念したものらしいく、そのブログに地図も載っている(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2013/04/post-55ef.html)。また同ブログに、長慶天皇陵のすぐ横に鎮座する「社宮地(シャグウチ)神社」とあるので(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2015/05/post-87e2.htmltZb )、『富士谷 長慶院仙洞御所略図』に記された長慶天皇陵は社宮地神社の近くにあり、それが軽島ノ森の軽島森小峯山にある天照大神ノ碑(石碑)といわれるものなのであろう。「先日、安倍昭恵総理夫人がいらした時も、その御陵のすぐ麓にまで行きましたが、荒れに荒れて道すら明らかでない状況でして、ご参拝にまでは至りませんでした。」(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2015/05/post-5726.html)という状態らしい。『長慶天皇紀略』には写真も載っており、向かって右側から「天照皇太神」と刻まれた標石、裏面に「長慶天皇」その礎石の裏面に「陵墓」と刻まれた地蔵のような石像、屋根の裏に「寛成天皇塚」と刻まれた石の祠、やはり地蔵のような少し小さい裏に「皇后藤原氏」と刻まれた石像とやはり裏面に「陵墓」と刻まれたその礎石が写っている。発見された時は、石像は礎石だけが残っており、石仏像は付近に破片として散乱していたのを、継ぎ合わせたのだという。同書に「長慶天皇、諱寛成」とあるので、寛成天皇とは長慶天皇のことになる。また、護良親王の王子の興良親王の陵墓は熱都山の浅間旧社地にあるという。熱都山の浅間旧社地とは富士山北東本宮小室浅間神社旧社地のことであろう。

 阿祖山太神宮は、『神皇紀』によれば天照大御神が阿祖谷小室の阿田都山に高天原の神祖神宗天つ大御神を祀ったもので、高天原宗廟天社大宮阿祖山太神宮と称し、宮守の宮とも称したという。その後、天照大御神は元宮阿祖山太神宮と改称し、三品の大御宝を神殿に納め、子孫代々天つ日嗣の大御位につくためには太神宮の平殿で三品の大御宝を拝し捧げることを以て、大御位につく儀典と定めた。天照大御神が亡くなると、大御神が政所を設けていた麻呂山に祀った。日子火々出見尊は高皇産霊神・神皇産霊神の鎮まる高座山の神廟、国狭槌尊・国狭毘女命の鎮まる鳴沢菅原の神廟、伊弉諾・伊弉冉の鎮まる笠砂の碕なる高燈の神廟、天照大御神の鎮まる麻呂山の神廟、父母の天孫二柱(瓊瓊杵尊・木花咲耶毘女尊)の鎮まる宇津峰なる金山の神廟、祖父母大山祇・別雷命の鎮まる加茂山なる山守の宮の神廟、作田毘古命の鎮まる古峰の根元野の神廟の七つの神廟を各祭らせ、またそれらの各神霊を阿祖山太神宮にも合祀し、太神宮を高天原天社元宮七廟惣名阿祖山太神宮と称した。
 加茂喜三氏の本を読んだとき、古社の在る丸山が何処にあるのか分からず、そのままにしていたのであるが、富士山北東本宮小室浅間神社の東1qほどのところにある旧社周辺が阿祖山大神宮の在ったところともされているらしい(http://www.fujisan-jinja.com/yamanashi/hokutou_hongu_omuro_sengen_kyusha/index.php)。『MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより』第15号(https://www.fy-museum.jp/div/fujisan-museum/pdf/marubi/MARUBI-15.pdf)によれば、旧社が在る場所は「古屋敷の宮守屋敷」となっており、旧社西北に縄文早期の遺跡を含む古屋敷遺跡がある。旧社は古宮と呼ばれ、古宮と縄文遺跡の中間のB地点でも平安時代や中世の遺跡が発見されており、新屋敷に移転する以前の集落の在った場所であるという。移転した貞享三年(1686)の『屋敷割帳』によると、新屋敷は通りをはさんで東屋敷17、西屋敷18に割り付けられており、古屋敷の屋敷割をほ右90度右回りにさせた形になっていて、そのため東屋敷にシンルイ(同族)のオオヤ(本家)が屋敷取りをしているという特徴があるという。古地図を見ると道路を挟んで大明見宿が在り、その南の東側の端に神社が在るが、その神社が富士山北東本宮小室浅間神社なのであろう。
 明見湖の東北300mほどのところにある太神社の背後に徐福祠・徐福大明神があり、徐福の墓ともいわれていることから、加茂喜三氏のいう古社とは太神社のことで、その山が丸山なのであろう。麻呂山は『神皇紀』に出てくる名前であり、加茂喜三氏が丸山を麿山としたのは、丸山が麿山とも呼ばれていたというより、麻呂山と考えたからであろう。古銀剛氏の記事(月刊『ムー』412号)では、徐福の墓と伝えられる祠が明見湖の近くの「お伊勢山」の上に在るとあり、丸山は「お伊勢山」とも呼ばれているようである(丸山の写真http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-735.html)。丸山(お伊勢山)・太神社は足和田山の東西線上に位置している。

  太神社―小室浅間神社(下浅間)(N0.189km、4.25度)―足和田山三角点(N0.099km、0.50度)の東西線

 ところで、加茂喜三氏は丸山を阿祖山太神宮の古跡とするのであるが、『神皇紀』では阿祖山太神宮を天照の神廟とは別のものとしている。そこに添付されている地図で阿祖海とされている小さな湖が明見湖なのであろう。そうすると、天照を祭った麻呂山と阿祖山太神宮の在る阿田都山は明見湖を挟んだ位置にあり、阿祖山太神宮は明見湖の南側にあったと考えられ、富士山北東本宮小室浅間神社の古宮あたりの山と見るのが妥当ということになる。明見湖と富士山北東本宮小室浅間神社の古宮の間の、杓子山からの細長い尾根を背戸山というらしい(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/?mode=m&no=728)。この背戸山が阿田都山ということになる。
 七神廟に代表される『宮下文書』の空間は、大体の位置は分かるものの、その正確な場所を特定できるものは少ない。七神廟でいえば、 天照大御神の鎮まる麻呂山の神廟の丸山(お伊勢山)と、実際に高座山が存在する高皇産霊神の鎮まる高座山の神廟ぐらいなものであろう。この高座山と太神社の在る丸山(お伊勢山)が西北45度線をつくっている。太神社とは方向線であるが、丸山(お伊勢山)とはある程度の広さを考えれてもいいので、方位線とみなしてもいいであろう。

  高座山―太神社(W0.116km、2.28度)の西北45度線

 阿祖山太神宮の阿祖山であるが、加茂喜三氏の本では天祖山が阿祖山になり、阿祖山は阿田都山と同一の山のように書かれている。しかし、『宮下文書』の古文書の中にはそのように書かれているものがあるのかもしれないが、『神皇紀』には天祖山の名前は出てこないし、阿祖山が阿田都山と同一の山というような記述もみられない。その代わり、「七廟は、阿祖谷の諸山に散在しあるを以て、往古、之を総称して、阿祖山大神宮と称す。」とか、「高天原古跡録」の概略に「阿祖山二十三山」のような記述がみられるので、阿祖山は特定の山を指してはいないとも考えられる。豊島泰國「幻の冨士王朝と古史古伝『宮下文書』の謎」(月刊『ムー』371号)に、「宮下家は応神天皇の子・大山守皇子を祖とする。祖先は富士山麓にあったとされる阿祖山太神宮(富太神宮)の大宮司を代々務めてきた祀職の家柄という。阿祖山は現在の杓子山(1597メートル)で、社は富士山麓の小室にあったという。」とある。宮下家を訪ね『宮下文書』の現物を見るという記事であるから、阿祖山が柄杓山であるというのは、宮下家の人から聞いたことを書いていると思われ、そのような伝承もあったのであろう。
 杓子山と高座山が東北45度線をつくり、杓子山・高座山は富士山と東北45度線をつくっている。杓子山は金時山とも西北60度線をつくっている。また、杓子山と東口本宮冨士浅間神社が南北線をつくる。杓子山・東口本宮冨士浅間神社・富士山が直角二等辺三角形の方位線三角形をつくっているわけである。柄杓山は川口浅間神社とも西北30度線をつくる。

  杓子山三角点―高座山(E0.012km、0.46度)― 富士山白山岳三角点(E0,566km、1.78度)の東北45度線
  杓子山三角点―金時山三角点(E0.020km、0.05度)の西北60度線
  杓子山三角点―東口本宮冨士浅間神社(W0.254km、1.07度)の南北線
  杓子山三角点―河口浅間神社(E0.304km、1.78度)の西北30度線

 『神皇紀』に崇神天皇が「吉備津彦に勅して、高天原に上り、西の高峰に鎮まります神皇産霊神を祭り,之を神座山と称し、東の高峰即ち天の石窟なる天照大御神の奥宮を祭り、之を御祖代山と称し、南の高峰に鎮まります高皇産霊神を祭り、之を高座山と称し、北の高峰に鎮まります道祖作田毘古命を祭り、之を道祖山と称し」とある。また、応神天皇が「天照皇太神の麻呂山の古宮を改造して、之に御祖代山なる皇太神の奥宮を合祀し奉らる。」ともあった。『神皇紀』の地図を見ると、高座山・加茂山・御祖代山が宮守川に沿って並び、天の石窟はその先になっている。御祖代山が宮守川の水源地になっていることから、御祖代山は杓子山ということになる。杓子山の近くに石窟とでも呼ばれそうな場所が在るのかどうか分からないが、その辺りとも思われる場所に明見根元神社奥宮がある。明見根元神社は山梨県神社本庁のホームページでは、神亀年間(724)御大沢の地に遷座し、当部落の守護神として崇敬され、祭神は天御柱命・罔象女命とある。奥宮については、平成10年に地元の有志の方々により祀られたという(http://www42.tok2.com/home/mten/100511.html)。何も無い所にいきなり奥宮が祀られるということも考えずらいから、何らかの伝承が在ったのであろう。神亀年間(724)御大沢の地に遷座しということであるから、あるいは奥宮から便利な現在地に遷座したのかもしれない。なお、明見根元神社の御朱印は杓子山の反対側にある忍野八海浅間神社でもらえるのだという( http://gosyuinsanpo.com/archives/1287)。もっと近くの例えば富士山北東本宮小室浅間神社でもいいと思うのだが、どういう理由からなのであろうか。奥宮は忍野村とも近い。
 杓子山山頂には「御祖代山杓子宮」と書かれた小さな祠がある(写真https://yamap.co.jp/sp/activity/1369312)。問題は、杓子山の東にある御正体山も御祖代山と呼ばれることである。御正体山はもともと御祖代山、三僧体山、三将台山などと呼ばれていたと言い、「太古に天照皇太神の御神霊を鎮め祭り、御祖代山と名付けたことから御祖代山」と、また「妙心上人が諸国行脚の後、鹿留村に来て、ここを修行の地と定めこの山を開山した。文化12(1815)年に入峰(入定)を決意し、山の上人堂に籠り断食、座禅して即身仏(ミイラ)となった。その後、妙善尼、巨戒上人が入山し信仰を広めたことから三僧体山」と言う、などの言い伝えが残っているという(https://onedayhik.com/php/ymrec.php?recid=20021110_01)。『神皇紀』の御祖代山はその地図で宮守川の水源地になっていることから、御正体山ではなく杓子山ということになる。御正体山に天照信仰があったとすれば、杓子山にも天照信仰があったかもしれない。そうすると、『神皇紀』はその反映とも考えられる。杓子山と御正体山にも関連性がでてくるが、杓子山と御正体山は東西線をつくっている。ただ、杓子山から途中の山との高度差などから、御正体山は直接には見えないと思われるので、そこに杓子山から御正体山に昇る彼岸の太陽を拝むといった、直接的な太陽祭祀は無かったであろう。
 杓子山の山名については、山杓子宮が在ったから杓子山と云うのか、杓子山にあるから山杓子宮というのかよく分からない。「シャク」とはガレ場、崩壊斜面などを表す言葉であり、それと結びつける説があり、また富士吉田市明見の「社宮地神社」がミシャグジ神社であり、その神社の鎮座する尾根がつながる杓子山(しゃくしやま)の「杓子」もまた、ミシャグジに「杓子」という漢字が当てられている例も多いので、「ミシャグジ」であるという説もある(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2014/08/post-8626.html)。社宮地神社は富士山北東本宮小室浅間神社旧社の250mほど北北西に鎮座しており、すぐ側が縄文遺跡の古屋敷遺跡があるから、その祭祀は縄文時代にまで遡る可能性もある。社宮地神社は杓子山と方位線をつくらないが、高座山と西北30度線をつくっている。

  杓子山三角点―御正体山三角点(N0.192km、1.85度)の東西線
  高座山―社宮地神社(W0.038km、0.82度)の西北30度線
  
 他の神廟の場所であるが、国狭槌尊・国狭毘女命の鎮まる鳴沢菅原の神廟は、「小室鳴沢の菅原」「小室鳴沢の上なる菅原」「寒川の菅原」「寒川の畔なる菅原」「高座山西大沢の菅原」などとも記され、豊斟淳尊(尾茂太留尊)も「高天原宇宙峰西大沢白蓮滝尻菅原の陵に葬る」とある。その他菅原については、「菅原の大塚なる白蓮瀧にて行をなし」などの記述も『神皇紀』に見られる。鳴沢菅原とは鳴沢の菅原という意味であろうし、また菅原の近くを寒川が流れているということになる。「高座山西大沢」であるが、「高座山の西の大沢」とも「高座山山中の西大沢」とも読めるが、『神皇紀』の地図を見ると、寒川とは今の桂川に想定できるから、その畔にある菅原の神廟は高座山の西にあるということになる。
 瓊瓊杵尊と木花咲夜毘女尊が鎮まる宇津峰なる金山の神廟については、「宇津峰山西尾崎鳴沢山の金山に鎮まります天孫二柱の御陵」「天孫二柱の神の鎮まります御座野原南の鳴沢山に行幸ましまして、金山の神廟に拝礼まします。」という記述や、木花咲夜毘女尊を「御座野原南なる金山の峰の陵に葬る。」という記述がみられ、金山については、国狭槌尊が「阿田都山の西南なる金山の沢々又は河原にて砂金銀を拾い集めしめ給ふ。」というような記述もある。それらを見ると、「宇津峰なる金山」ということからは、宇津峰=金山ということになり、「鳴沢山の金山」ということからは、鳴沢山の中の金山(峰)ということになる。ここで問題になるのは「宇津峰山西尾崎鳴沢山」という表現であろう。「宇津峰山西尾崎」については、「宇津峰山の西の尾崎」とも「宇津峰山の西尾崎」とも読める。「(西)尾崎鳴沢山」については、(西)尾崎の中の鳴沢山ということになるであろう。そうすると、「宇津峰山の西の尾崎」では金山の西の尾崎の中の鳴沢山の中の金山となってしまい、「宇津峰の西尾崎」では金山の中の西尾崎の中の鳴沢山の中の金山となってしまい、どちらにしても矛盾してしまう。このような表現上の矛盾はあるもの、鳴沢山が鳴沢菅原神廟の鳴沢とも関係するとすれば、鳴沢山・金山は高座山の西側ということになる。高座山の西の標高1141mの山の北麓には金山神社があるので、あるいはこの山が宇津峰・鳴沢山・金山峰と結びつくのかもしれない。標高1141mの山は古屋敷の古宮の南から西南にかけて広がっているので、その意味でも阿田都山の西南なる金山という表現に合っている。金山神社は古屋敷の桑原氏が奉斎しているようで、この神社には藤原光親の首塚があり、石祠がそうなのかもしれないが、桑原氏は奥州藤原氏の子孫とされるので、その関係で光親を祀るのではないかという(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-3.html)。
 『神皇紀』の地図を見ると、現在古屋川といわれる阿祖山太神宮の社前を流れる宮守川と、その西を流れる寒川すなわち桂川に挟まれた場所に菅原と金山の神廟がある。より詳細に見ると、宮守川と寒川の間を御座野川が流れており、宮守川と御座野川が合流したその下流も御座野川と記され、そのさらに下流で寒川に合流している。菅原と金山の神廟は御座野川と寒川に挟まれた場所にあり、宮守川と御座野川の合流地点を北にして、南に向かって菅原の神廟、金山の神廟という順になっている。問題は、御座野川が現在の地図でいえばどの川なのかということである。それを確定しようとすれば、まずはっきりさせなければならないのは、宮守川と御座野川の合流地点がどのあたりなのかということになる。
 伊弉諾・伊弉冉の鎮まる笠砂の碕なる高燈の神廟は、「熱都山の笠沙の尾崎峰に鎮まります伊弉諾尊、伊弉冉尊」ともいわれ、「伊弉諾・冉二柱神の毎夜、笠沙の碕の高峰に於いて、篝火焚きて、神祖神宗天つ大御神を祭りましまししに因り、二柱の神廟を高燈の神廟とそ称しける。」とも「小室の日向の阿田都山の西尾崎なる岩長峰に於いて、毎夜怠りなく火を焚きて、神祖神宗を初め、国常立尊・国狭槌尊の各御夫婦の大御神を祀らせ給ふ。世に之を高燈とぞ称しける。」ともあり、また『神皇紀』の地図の位置などからしても、長く伸びた背戸山の尾根の西の端辺りに想定できる。そして、木花咲夜毘女尊が三皇子を生むために造った笠沙碕の無戸室は、「小室なる宮守川と御座野川との合ま真砂の小島に、無戸室を造り」とあり、瓊瓊杵尊が「一日、宮守川の真砂の小島の無戸室に行幸ましまして、亦感慨措く能はず。其屋根の大笠の如くなれるに縁り、其上なる阿田都山の西尾崎を笠沙の碕と名つけ、大御宮なる家佐座の宮を笠沙の宮と改め給ふ。」とあるので、無戸室の在った場所すなわち宮守川と御座野川の合流地点は、伊弉諾・伊弉冉の鎮まる笠砂の碕なる高燈の神廟の近く、背戸山の尾根の西の端近くにあったことになる。『神皇紀』の地図でも、合流地点は宮守川でいえば、阿祖山太神宮辺りからさらに下流と思える。
 現在の地図でも、背戸山の細長い尾根の西の先端あたりで古屋川に合流する川がある。長泥川というのがあるらしいけど、おそらくその川のことなのであろう。『MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより』第15号によると、新屋敷に移転するとすぐ字中沢に堰を設け、長泥の用水を開いたとある。その川は、設けられた堰のあたりから流れだしているのである。もしその川が長泥の用水だとすれば、古くから在る川ではなく、江戸時代に掘られた川ということにもなるが、古くからあった川を利用して、堰からその川に水が引かれたということも考えられる。その川が桂川から分かれているのかどうかも、土地造成などがあったせいか、地図上では明確ではない。長泥川と思われるその川を御座野川とするもう一つの問題は、御座野川の上流には白蓮瀧があるわけであるが、その川に瀧などが想定できないことである。さらに、御座野川は高座山の西の白蓮瀧を源流として描かれているのであるが、その白蓮瀧と寒川はかなり離れていて、鳥居地峠辺りから流れ出しているようにもとれるのである。しかし、御座野川が鳥居地峠辺りから流れ出しているということにも問題がある。地形からいって、その場合は宮守川と御座野川が合流する地点が、阿祖山太神宮の上流としか考えられなくなり、合流地点にある無戸室が背戸山の尾根の西の端辺りであることと矛盾してくる。もっとも、『神皇紀』の地図は現実の距離間隔を正確に反映したものではない。その位置関係のみが重要なのかもしれない。その場合は、御座野川は高座山と寒川の間を流れているということだけである。標高1141mの山の西側に大きな谷があり、川が流れている。その谷は西大沢という地名にも合う。その川は桂川の堰の方へ流れ下っているのであるが、そのまま桂川に流れ込んでいるかどうかは、やはり地図でははっきりしない。あるいは、桂川に近づくものの、そのまま流れ込まずに、桂川と狭い幅で並行して流れ、やがて古屋川と合流していたのを、堰と用水で結んだのかもしれない。標高1141mの山の山中に金山の神廟が想定され、白蓮滝尻とは急な流れが終わる辺りということで、その川が平地を流れるようになったあたりが菅原なのかもしれない。そこは寒川の近くでもあるから、「寒川の畔なる菅原の神廟」という記述にも合致する。
 大山祇・別雷命の鎮まる加茂山なる山守の宮の神廟であるが、『神皇紀』の地図では、高座山と御祖代山の中間に加茂山があることになっている。高座山から杓子山へ向かう尾根のどれかの峰が、加茂山として想定されたのであろう。月夜見命も加茂山に葬られたことになっているが、大山祇命は月夜見命の子供とされている。作田毘古命の鎮まる古峰の根元野の神廟は、「作田毘古命は、高天原大室の御舟湖畔なる御舟山の宮に於いて、神避りましぬ。…宮の裏山なる泉仙山古峰に葬る。」ともあり、『神皇紀』の地図には、明見の北、河口湖の近くに泉仙山が記されいる。この他、天之忍穂耳尊を「高天原の御座山の峰の陵に葬る。」とあり、父日子火火出見尊(日子穂穂出見尊)を「高天原大室の神山の陵に葬る。」ともある。御座山・神山それに神皇産霊神を祭った神座山は、『神皇紀』の地図では寒川の西側、阿祖山太神宮の西南にある。三ヶ所が一つの地図に描かれているものはないのであるが、神山が神座山や御座山の南に記されている。城山や小倉山がおそらくそれらのどれかと想定されていたのであろう。

 現在大明見には富士山北東本宮小室浅間神社がある。当然、阿祖山太神宮と富士山北東本宮小室浅間神社の関係が問題になるであろう。富士山北東本宮小室浅間神社と『宮下文書』やそれを保管していた宮下家の関係でいえば、『神皇紀』の第七十七代宮下元太夫義興のところで、明治十六年「義興は当時富士阿祖谷七廟総(ママ)名元宮小室浅間太神宮の神官宮下荘斉と議り、文明の今日、祖先の遺訓を破り、古箱を開くも明を失することなかるべしとて、深夜、沐浴斎戒」して古箱を開けたという。この場合の富士阿祖谷七廟総名元宮小室浅間太神宮は富士山北東本宮小室浅間神社と考えるのが妥当であろう。『宮下文書』を保管していた宮下家も富士山北東本宮小室浅間神社の旧地の古屋敷に住んでいたというから、富士山北東本宮小室浅間神社と近い関係があったとしても不思議ではない。現在の富士山北東本宮小室浅間神社の宮司は宮下重範氏であるが、『宮下文書』を保管していた宮下家と姻戚関係はないという(https://kamiokoshi.exblog.jp/m2015-10-01/)。ただ、大明見村では同族とその本家の繋がりが強かったようであるから、かつては『宮下文書』を保管していた宮下家と宮司の宮下家も同じ宮下一族で纏まっていたということは考えられる。古銀剛氏(月刊『ムー』412号)によれば、『宮下文書』を秘蔵していたのは小室浅間神社(大明見浅間神社)だったという話も地元にはあるという。明治十九年に現在の富士山北東本宮小室浅間神社に改められたのは、『宮下文書』がて出てきて、どうもすごい神社らしいということになったからであろう。
 富士山北東本宮小室浅間神社と阿祖山太神宮の関係は、富士山北東本宮小室浅間神社の古宮が「古屋敷の宮守屋敷」に在り、阿祖山太神宮の別名が宮守の宮だったことからも、密接なものが在るといえるであろう。ただ、それは富士山北東本宮小室浅間神社が阿祖山太神宮であるとは必ずしもならないかも知れない。『宮下文書』を書いた人物が、富士山北東本宮小室浅間神社を参考に阿祖山太神宮を考えたか、阿祖山太神宮は後の富士山北東本宮小室浅間神社のことであるというふうに想定して書いたかもしれないからである。

『神皇紀』における阿祖山太神宮の経緯をみてみる。
天照大御神、阿祖谷小室の阿田都山に阿祖山太神宮を創立、高天原の神祖神宗天つ大御神を祀り、宮守の宮とも称する。後改造して元宮阿祖山太神宮と改称。
日子火々出見尊、七神廟を各祭り、その神霊を阿祖山太神宮に合祀し、高天原天社元宮七廟惣名阿祖山太神宮と改称。
神武天皇、金山の天孫二柱の御陵の岩戸を啓かせ、二柱の神霊の止まる御霊石を阿祖山太神宮なる宮守の宮に遷し祀らせ、是より惣名においては阿祖山太神宮と称し、単に天孫二柱にては宮守大神と称する。
崇神天皇、高天原阿祖谷中室の麻呂山より天照大御神を大和国笠縫の里に遷し、麻呂山の天照天(ママ)御神を古宮天照皇太神と称す。また、菅原の国狭槌尊の神廟を寒川大神と称す。不二山を福地山と改称する。
垂仁天皇、山村に大(ママ)神宮を分祀し、山宮阿祖山神社と称し、元宮を小室阿祖山太神宮と称す。
応神天皇、大山守皇子を太神宮の宮守司長とし、大山守皇子、大神宮の大柏木の下に応神天皇の遺髪と神功皇后の弓矢を祀り、高御久良神社と称す。
崇峻天皇、厩戸皇子を勅使として、大神宮に大日本元幣司を賜い、寒川大神を遷宮し、高御久良神社と合祀し、寒川大明神と改称。
文武天皇、勅願により寒川大明神を福地八幡大神と改称。
光仁天皇、勅願により太神宮を先現太神と改め、是より先現・浅間の文字を混用。
桓武天皇の延暦の大噴火により、東相模国に難を避けていた神宮の宮守司長宮下源太夫元秀は、七廟中より福地八幡大神すなわち寒川大明神を勧請し福地山東本宮寒川神社を建てる。やはり甲斐国に難を避けていた山村村の分社先現神社の神官兄弟の兄元宮麿は先現神社を勧請し福地山北本宮神部山浅間神社を建て、駿河に難を避けていた弟大宮麻呂は先現神社を勧請し福地山表本宮大宮浅間神社を立てる。この三分社を里宮と称し、大神宮を山宮と称し各里宮の奥の院とする。
村上天皇、七廟中宮守神社を福地八幡太神の東に遷宮せしめる。

 これを見ると、天照大御神が阿祖山太神宮(宮守の宮)を創建し、垂仁天皇の時に小室阿祖山太神宮となり、光仁天皇の時に太神宮を先現太神と改め、先現・浅間が混用されるようになったというのであるから、小室阿祖山太神宮は小室先現(浅間)太神宮となったということであろう。ここで、大神宮が取れて単に神社となれば、小室浅間神社となるわけである。『神皇紀』には、「七廟惣名元宮小室浅間神社太神宮は、古より、富士山阿祖谷小室の里に鎮まりまし給ふ。」ともあり、そこには神社と太神宮が二重に書かれており、そこから太神宮が剥落してしまうことも当然あり得ることであろう。大明見に浅間神社は大明見小室浅間神社といわれた富士山北東本宮小室浅間神社しか存在していないのであるから、この小室浅間神社となった阿祖山太神宮(宮守の宮)は富士山北東本宮小室浅間神社のこととなるわけである。かつて二つの小室浅間神社が在ったとすれば話はべつであるが、富士山北東本宮小室浅間神社の旧社地が古屋敷宮守なのであるから、そこはやはり宮守の宮といわれた阿祖山太神宮の鎮座していた場所とみるべきであり、大明見に小室浅間神社は一つし存在しなかったし、富士山北東本宮小室浅間神社は阿祖山太神宮(宮守の宮)であり、それが『宮下文書』の立場といえる。
 一方、富士山北東本宮小室浅間神社であるが、祭神は木花咲耶姫命・誉田別命・国狭槌命・泥土煮命・上筒男命・他十三柱とされ、上筒男命を祭ることから、海人族との関係も考えられている。その由緒では、崇神天皇六年(神社では前92とする)に阿曽谷神社を鎮祭したのが創建で、後、富士山噴火を鎮めるため応神天皇第二皇子が宮守を司り、阿曽谷宮守神社と改称され、古屋敷より引移るのに際し、寒川神社の元宮ともされる福地八幡大神社を合祀したという(http://www.fujisan-jinja.com/yamanashi/hokutou_hongu_omuro_sengen/index.php)。そこには、『宮下文書』と同じように、応神天皇第二皇子や寒川神社の元宮ともされる福地八幡大神社が出てくるが、そもそも阿祖山太神宮の創建は天照大御神の時代に遡るのに、富士山北東本宮小室浅間神社では崇神天皇の時代の創建としているのである。富士山北東本宮小室浅間神社では崇神天皇はどこか肯定的な存在であるといえるが、『神皇紀』では崇神五年、天皇は高天原神都麻呂山より天照大御神を大和国笠縫の里に遷させ、また高天原元宮七廟惣名阿祖山太神宮より三品の大御宝を移し、大御神の神霊として祀らせたというように、どちらかというと天都家基津の衰微に拍車をかけた存在となっている。崇神天皇は吉備彦命に勅して天社・国社・神地・神戸を定めさせといい、この時富士山北東本宮小室浅間神社が創建されたということなのかもしれないが、どちらにしてもそれでは阿祖山太神宮と富士山北東本宮小室浅間神社は違う神社ということになってしまう。阿祖山太神宮に対し富士山北東本宮小室浅間神社は阿曽谷宮守神社で、そこに山と谷の違いがある。富士山北東本宮小室浅間神社が阿祖山太神宮の後身なら、やはり阿祖山にこだわるのではないだろうか。
 御室浅間神社本宮・里宮は「亀甲に六つ唐花」、富士山本宮浅間神社と富士山頂の奥宮の神紋は棕櫚の葉で富士大宮司の紋といわれているが、その他の北口本宮冨士浅間神社・東口本宮冨士浅間神社・小室浅間神社(下浅間)・河口浅間神社・笛吹市の浅間神社は桜を神紋としており、富士山北東本宮小室浅間神社もその神紋は桜であり、また木花咲耶姫命の別名を桜大刀自命としている(由緒板)。この桜についても、富士山北東本宮小室浅間神社と『宮下文書』では違う。『神皇紀』に高皇産尊を「櫻山宇宙峰に祀りませる…其山を高座山と名つけ給う。」とあり、桜は国狭槌命ではなく高皇産尊・高座山と結びついている。また、木花咲夜毘女尊ではなく、父親大山祇命の母親が泥土煮命の一女で月桜田毘女命となっていて桜と結びついている。
 木花開耶姫の名前に花が付き、花=桜ということで浅間神社には桜の神紋が多いのかもしれないが、より直接に、富士山周辺には木花開耶姫と桜を結びつけた伝承でもあるのであろうか。加茂喜三氏の本によれば、『秀真伝』には木花開耶姫と桜及び龍とを結びつける話があるという。子供の父親を疑われた姫が、正しく尊の種であったら生むときに花咲けよと祈って桜木を植え、生まれた三人の児を無戸室に入れて火を放つと、峯の竜が水を吐きかけて三児を無事に導き出し、桜木も産まれた日に花が満開であったというのである。記紀では産屋に籠って火を放ったコノハナサクヤヒメの安否は、『秀真伝』もそうであるが無事であるか、あるいは何も語られていないかのどちらかである。それに対し、『神皇紀』では「其室内に入りまして三皇子を生み置き、四方より土以て堅く塗塞きて、頼む・頼む・頼む。と三度謂い給ひ、大鹿に鞭打ちて、高千火峰中央青木ヶ原に登り、火の噴き焼くる岩穴に、飛入りて神避りましぬ。」と自ら命を絶つという悲劇的な結末になっている。もし富士山周辺に木花開耶姫伝承があり、その結末が『秀真伝』のように無事なものであるなら、『宮下文書』は富士山周辺の浅間信仰とは異質なものとしてあることになる。
 『宮下文書』の阿祖山太神宮と富士山北東本宮小室浅間神社の関係には、異なる面だけではなく、富士山北東本宮小室浅間神社の祭神の中には、『宮下文書』によって理解できるものもある。祭神の泥土煮命であるが、『日本書紀』では、国狭槌尊と泥土煮尊の間に豊斟淳尊が入る。何故一つ飛んで泥土煮命なのであろうか。『日本書紀』では豊斟淳尊は国常立尊・国狭槌尊とともに陽気だけをうけて、ひとりでに生じた男性神とされる。それに対して、泥土煮尊は沙土煮尊と陰陽の気が交わって生まれた男女神で、伊弉諾尊・伊弉冉尊までの四組の神と国常立尊・国狭槌尊・豊斟淳尊で神世七代と呼ばれる。泥土煮尊が陰陽一対の始めの神だから祀られたのだとすると、それに対応するのは一人神の始めである国常立尊なのではないだろうか。その点『神皇紀』では、国常立命の子が豊斟淳命で、国狭槌命の子が泥土煮命となり、親子が祭られたということで話が合うことになる。この場合は、『宮下文書』によって富士山北東本宮小室浅間神社の祭神が説明できるともいえるわけである。

 ただ、国狭槌命について『宮下文書』と現地の間には齟齬もある。古銀剛氏(月刊『ムー』412号)の記事中に、高座山近くの丘に鎮座する高座神社の石碑の写真が載っているが、その石碑によれば祭神は国狭槌命・伊弉諾尊・素戔嗚尊となっている。しかし、『神皇紀』では高座山の神廟に鎮まっているのは国狭槌尊ではなくその父の高皇産霊神であり、国狭槌尊が鎮まるのは鳴沢の菅原の神廟とされているのである。高座神社の場所は、地図で見ると古屋敷の古宮の南の金山神社の近くに高座神社があり、他には無いので、写真にある高座神社はその神社と思われる。グークル地図にある写真では小さな祠があり、石碑は写ってないが、鳥居の奥にそうと思えばそうとも見える写真もある。その場所は、高座山の近くといえば近くともいえるが、その西にある標高1141mの山の山裾に近い山腹の鳥居地峠のトンネルに通じる道路脇に位置している。金山神社とグークル地図の高座神社マークが東北30度線をつくっているので、高座神社の祠とも方位線をつくっている可能性もある。

  金山神社―高座神社マーク(W0.007km、0.63度)の東北30度線

 標高1141mの山が鳴沢山あるいは金山峰ではないかとした。そうすると、高座山神社は国狭槌尊の鳴沢の菅原の神廟の近くに鎮座しているともいえるわけである。『宮下文書』の目録に「高座神社社地八丁四方之事」があり、その高座神社が標高1141mの山にある高座神社のことであるとすると、かつては広い境内を持っていて、菅原の神廟に想定された菅原も含んでいた可能性もある。その関係で、高座神社の祭神は国狭槌尊になっているのかもしれない。もちろん話は逆で、国狭槌尊を祭神とする高座神社が在ったので、国狭槌尊の神廟をその辺りに想定したのかもしれない。『神皇紀』の地図の中には高座山に高座明神と記されたものもある。かつては高座山にも神社があったとすれば、八丁四方の社地を持つ高座神社とは高座明神のことかもしれないが、高座山山頂に在る神社の社地をわざわざ八丁四方と記すことにどれほどの意味があるだろうかとも思える。
 国狭槌尊を祭神とする高座神社が在ったので、国狭槌尊の神廟をその辺りに想定したとする場合、高座山でもない山の山腹に何故高座神社が在るのかという疑問が残る。さらに、『神皇紀』の地図を宮守川を軸にして見ると、『神皇紀』でいう高座山は標高1141mの山ではないかという疑いも出てくるのである。『神皇紀』の地図では、御座野川との合流地点からさらに宮守川を上流に行くと、高座山の東から流れ出る白糸川と合流し、さらに遡ると南側に亀池があり、その先で宮守川は西川と加茂川に分かれるが、その辺りに加茂山がある。加茂川は御祖代山を水源としている。実際の地図を見ると、標高1141mの山と鳥居地峠の間から川が流れ出しており、鳥居地峠と高座山の間にも川が流れている。そして一番東側の川は高座山から流れ出している。
 高座山から流れ出している川を白糸川とすると、『神皇紀』の地図の西川や加茂川にあたる川が現在の地図では存在しないし、逆に『神皇紀』の地図は鳥居地峠辺りから流れ出る二本の川を無視しているということになる。西川や加茂川が記されているのは、かつては杓子山から流れ出る川もあったということなのかもしれないし、現実に在るが地図には記されていないということなのかもしれない。しかし、『神皇紀』の地図には亀池という池が記されているのであるが、現在の地図にも小さな池が在る。その池は高座山から流れ出る川の右岸に在るのであるが、白糸川より上流の川を無視すれば、亀池も白糸川の右岸に在るともいえる。一方、高座山から流れ出る川を白糸川との合流地点より上流の宮守川と考えることもできる。その場合は、白糸川と御座野川に挟まれた高座山は標高1141mの山ということになってしまうわけである。そして、標高1141mの山を高座山とすれば白糸川は鳥居地峠辺りから流れ出ている川ということになる。標高1141mの山が高座山とすると、鳴沢山や金山峰はその山中の一峰か南側の山ということになり、『神皇紀』の地図の中には、金山の神廟を高座山の西南に記しているものもある。ただ、この場合は亀池の位置が問題になり、現在の地図の池は高座山から流れ出る川の右岸にあるわけであるが、亀池は宮守川の左岸に描かれているのである。もっとも、現在の地図に在る池が亀池であるということも、確かなことではない。『富士谷 長慶院仙洞御所略図』では、現在の池のあたりに風泉池宮仙洞御所という長慶天皇の御所が記されている。この場合、亀池が風泉池とすれば、『神皇紀』の地図では亀池となっているのであるから、風泉池宮ではなく亀池宮となるであろう。亀池と風泉池とは異なり、現在の池は風泉池で亀池は消えてしまったとも考えられるわけである。
 『神皇紀』の地図には東海道と称する街道が描かれているものもある。ホームページ「富士吉田観光」の富士吉田全体マップ(https://www.fujiyoshida.net/dl.php?WID=104&No=7)をみると、国道138号線の旧鎌倉往還とは別に、古屋敷の古宮の前の道路も旧鎌倉往還となっているので、古くからの街道だったことになる。では、その街道はどの辺りを越えて、忍野村あるいは山中湖の方へ抜けていったのだろうか。『神皇紀』の地図の東海道は、高座山・加茂山より御祖代山(杓子山)寄りの所を通っているのであるが、鳥居地峠は高座山の西で反対側である。東海道が鳥居地峠を通っていると想定されているとすれば、『神皇紀』の高座山は鳥居地峠の西側の山で標高1141mの山ということになるわけである。標高1141mの山が『神皇紀』の高座山であるとすれば、加茂山は現在の高座山かその杓子山寄りの山ということになる。もっとも、高座山と杓子山の間に大権首峠というのがあるので、旧鎌倉往還もそこを通っていたのであろうか。しかし、現在の地図では大明見から大権首峠に登っていく道はあるが、そこから忍野村に下っていく道はない。それに、鳥居地峠を通らずにより難儀と思われる大権首峠を通るのであろうかという疑問もある。やはり、旧鎌倉往還は鳥居地峠を通っていたのではないだろうか。そうすると、『神皇紀』の高座山が現在の高座山であるとすれば、『神皇紀』の地図はかなりいい加減に描かれたものともいえよう。

 現在の大明見でいえば、富士山北東本宮小室浅間神社にしろ高座神社にしろ、祭られているのは国狭槌尊であるといえる。それはかなり前からそうなのであろう。そのことを前提にすれば、『神皇紀』では国常立尊が西に行き、現地で祭られている国狭槌尊が高天原に残ったということも当然なわけである。そして、富士山北東本宮小室浅間神社の祭神が国狭槌尊と泥土煮尊であるということは、富士山北東本宮小室浅間神社と『宮下文書』の間には相互参照があり、それで泥土煮尊が加えられたということなのかもしれない。『宮下文書』と富士山北東本宮小室浅間神社はどこか切り離せないものがあるとすれば、『宮下文書』に富士山北東本宮小室浅間神社を加えた空間の中での方位線というものも考えてみたい。なお、古銀剛氏のもう一つの記事である、月刊『ムー』403号の「富士王朝『不二阿祖山太神宮』の謎」によれば、古屋敷の古宮も鎌倉時代の初め頃に、その南500mほどのところにある山神社あたりから遷座したという地元の伝承があるらしい。この山神社は古宮の南、現在の不二阿祖山太神宮近くの山神社と古銀剛氏の記事から推測できる。
 古屋敷の古宮と杓子山が東西線をつくっており、現在の富士山北東本宮小室浅間神社も杓子山と東西線をつくっている。方位線ではないが、高座山・古屋敷の古宮・下宮の小室浅間神社(下浅間)が一直線に並んでいる。

  杓子山三角点―富士山北東本宮小室浅間神社旧社(S0.030km、0.47度)―富士山北東本宮小室浅間神社(S0.099km、1.32度)の東西線
  高座山(0.02度)―富士山北東本宮小室浅間神社旧社(0.004km)―小室浅間神社(下浅間)(0.15度)の直線

 古屋敷の旧社古宮と河口浅間神社も西北45度線をつくる。河口浅間神社は下宮の小室浅間神社(下浅間)・杓子山と方位線をつくり、杓子山は高座山と方位線をつくり、高座山と下宮の小室浅間神社(下浅間)を結ぶ直線と河口浅間神社からの西北45度線・杓子山の東西線が交わる場所に古宮が在るわけである。河口浅間神社と古宮以前の富士山北東本宮小室浅間神社の鎮座地ともいわれる山神社も西北45度線をつくる。河口浅間神社の西北45度線上を富士山北東本宮小室浅間神社は移動したわけである。山神社は小室浅間神社(下浅間)とも西北30度線をつくる。河口浅間神社・小室浅間神社(下浅間)・山神社、河口浅間神社・古屋敷の古宮・杓子山がそれぞれ方位線三角形をつくっているわけである。また、小御嶽神社と小室浅間神社(下浅間)が東北60度線をつくっていたが、山神社と小御嶽神社が東北45度線をつくり、小御嶽神社・小室浅間神社(下浅間)・山神社も方位線三角形をつくっている。これを見ると、杓子山・高座山・富士山北東本宮小室浅間神社をひとまとまりとすると、それは小室浅間神社(下浅間)・河口浅間神社が密接な方位線関係をつくっているといえる。

  河口浅間神社―富士山北東本宮小室浅間神社旧社(W0.128km、1.02度)―山神社(大明見)(W0.183km、1.34度)の西北45度線
  小室浅間神社(下浅間)―山神社(大明見)(E0.031km、0.55度)の西北30度線
  小御嶽神社―山神社(大明見)(W0.284km、1.23度)の東北45度線

 大明見と小明見はかつては一つの明見村だつたが、文禄(1592〜1596)頃に明見村と小明見に分村し、後に明見村を大明見というようになったが、明治になって再び合併して明見村になったという。現在小明見の向原に冨士浅間神社があるが、これは大明見村の浅間神社、すなわち富士山北東本宮小室浅間神社に対する小明見村の浅間神社ということで、対になっているのかもしれない。小明見の冨士浅間神社と古屋敷の古宮が南北線をつくっている。また、小明見の冨士浅間神社は、丸山(麿山)よりも正確に高座山の西北45度線上に位置している。杓子山と高座山が方位線をつくり、杓子山と大明見の浅間神社、高座山と小明見の浅間神社が方位線をつくり、大明見と小明見の浅間神社も方位線で結ばれているということになるわけである。

  富士山北東本宮小室浅間神社旧社―小明見の冨士浅間神社(E0.039km、1.75度)の南北線
  高座山―小明見の冨士浅間神社(E0.082km、1.46度)の西北45度線

 富士山北東本宮小室浅間神社の由緒には、古屋敷より引移るのに際し、寒川神社の元宮ともされる福地八幡大神社を合祀したとあるが、この福地八幡大神社もよく分からない。『神皇紀』にも福地八幡大神社が出て来た。そして、富士山北東本宮小室浅間神社の現在地への遷座と関係があると思われる記事として、阿祖谷の小室浅間神社は足利氏のために衰微し、二百有年余之を顧みるものな状態であったが、「天文元年、氏子二十五箇村、其壊廃を慨き、元宮七廟中、宮守神社・福地八幡大神を再興し、之に五廟を合祀ましまししに、元亀二年、福地八幡大神、祝融に罹り烏有に帰しぬ。元和元年八月土地の領主秋元摂津守喬知より、土地三千余坪を、其烏有に帰せし福地八幡大神の社地として寄贈せらる。乃ち、氏子村民は、阿祖山軽島より、其残れる宮守神社を遷宮し奉り、之に福地八幡大神其他五廟を合祀して、漸く僅かに、元宮小室浅間太神宮の名を存し得るに至れり。」とある。ちなみに、現在の富士山北東本宮小室浅間神社の境内地は2877坪で、約三千坪であるが、それを見ると、古屋敷からまず福地八幡大神が遷座し、後から富士山北東本宮小室浅間神社が遷座してきて、福地八幡大神を合祀したととれる。また、そこに宮守神社が出てくるが、『神皇紀』における宮守神社や福地八幡大神は整理しないとややこしい。
 『神皇紀』に大山祇命の諱を寒川毘古命としているが、大山祇命の父親の月夜見命が四方の惣大御山を司り、宮守川の川上に山守の宮を造る。その子の大山祇命も四方の洲々島々の大山の守護頭に任じられ、その神廟は加茂山なる山守の宮の神廟といわれる。そして、大山守皇子も山守部の司となり、その名前に大山守がつくことになるわけで、山に関係するという点で寒川毘古命の大山祇命と大山守皇子は重なるわけである。その大山守皇子は、大神宮の大柏木の下に高御久良神社を建て、応神天皇の遺髪と神功皇后の弓矢を祀るわけであり、応神天皇から八幡宮と結びつくことになる。高御久良神社は阿祖山太神宮本殿とは別に摂社の形で在ったことになる。それとは別に、崇神天皇は菅原の国狭槌尊の神廟を寒川大神とする。そして、崇峻天皇が厩戸皇子を勅使として、寒川大神を遷宮し、高御久良神社と合祀して寒川大明神と改称する。この時、当然阿祖山太神宮の本殿で祀られていた国狭槌尊の神霊は外され、摂社の寒川大明神の国狭槌尊の神霊と合体したということであろう。さらに文武天皇が寒川大明神を福地八幡大神と改称するわけであるが、福地八幡大神は阿祖山太神宮の本殿とは別にその境内に在ったことになる。その後、福地八幡大神すなわち寒川大明神が相模に勧請され寒川神社が建てられてことから、福地八幡大神が寒川神社の元宮とされるわけである。
 宮守神社であるが、天照大御神の時阿祖山太神宮は宮守の宮とも呼ばれた(阿祖山太神宮=宮守の宮)。その後、神武天皇が瓊瓊杵尊と木花咲夜毘女尊の神霊の止まる御霊石を阿祖山太神宮なる宮守の宮に遷し、惣名においては阿祖山太神宮と称し、単に天孫二柱にては宮守大神と称することになる(阿祖山太神宮≠宮守大神)。この場合、金山の神廟それ自体が阿祖山太神宮なる宮守の宮に遷されたのか、単に神霊の止まる御霊石だけが遷され、金山の神廟はそのまま残されて祀られたのかであるが、「金山の神廟に拝礼まします。乃ち詔りたまわく、朕が御祖天孫二柱の神は、岩窟に鎮まりしませは、今も尚玉体全からむと、高天原惣司令神熱都丹波彦命に命じ、岩戸を啓かしめ給へは、則ち玉体遺骨咸消え失せ、唯御霊石のみそ残存ましまける。」とあるので、御霊石が移された後の金山の神廟は空っぽとなり、結局もはや神廟ではなく神廟跡となったということであろう。また、御霊石が阿祖山太神宮本殿に遷されたのか、それとも本殿とは別に社殿が造られ、そこに遷されたのかも分からない。もっともその後、村上天皇が七廟中宮守神社を福地八幡太神の東に遷宮したというのであるから、瓊瓊杵尊と木花咲夜毘女尊を祀る宮守神社も阿祖山太神宮の本殿とは別の社殿として在ったことになる。菅原の神廟の国狭槌尊夫婦の神霊、金山の神廟の瓊瓊杵尊・木花咲夜毘女尊の神霊を除いた五つの神廟の神霊を祀る本殿と、国狭槌尊夫婦の神霊及び応神天皇・神功皇后を祀る福地八幡宮と瓊瓊杵尊・木花咲夜毘女尊の神霊を祀る宮守神社の二つの社殿からなるというのが、阿祖山太神宮の最終形態ということになるわけである。
 この阿祖山太神宮の経緯には、幾つかの疑問が湧く。菅原の神廟は寒川の近くに在ったのであるから、崇神天皇がそれを寒川大神とするのは分かる。しかし、崇峻天皇は寒川大神すなわち菅原の神廟を何故遷宮しなければならなかったのであろうか。しかも、阿祖山太神宮の本殿には国狭槌尊夫婦の神霊が祀られていたのであり、それと合体させて本殿で祀る、あるいは独自の社殿を建ててそこに祀るなら分かるが、何故関係ない高御久良神社と合祀したのであろうか。それは、崇峻天皇にそうしなければならない理由があったのではなく、『宮下文書』を書いた人物にそうしなければならない理由があったということなのではないだろうか。考えられることは、『宮下文書』とは関係なく明見の宮下一族には、自分たちの祖先は応神天皇の子の大山守皇子という伝承・意識があったのかもしれないということ。そして、宮下一族には相模の寒川神社と何らかの関係が出来たことがあったのであろうということ。そして、明見の祭祀空間には国狭槌尊が大きな存在としてあったのではないかということである。これら八幡宮・寒川神社・国狭槌尊の三つの要素を結びつけることは、『宮下文書』を書いた人物にとってはそうすることが当然、あるいはそうしなければならないことだったのではないだろうか。大山守皇子については、『神皇紀』にもあるように、源氏の誰かが宮下一族に入り込み、源氏と八幡宮との関係から、八幡宮→応神天皇→大山守皇子という発想も出て来たのかもしれない。
 宮守神社についても、瓊瓊杵尊・木花咲夜毘女尊を祀っているとは浅間神社ということであろう。すなわち、宮守神社こそ浅間神社であり、大明見の小室浅間神社だと言っているようなものであるが、他方では阿祖山太神宮そのものが浅間神社で大明見の小室浅間神社だとしているわけである。また、いくら神武天皇であろうと、普通御陵を開くなどということはしないであろう。また、もし開いても何故そこに在った御霊石を阿祖山太神宮に移そうとしたのであろうか。神武天皇にしろ崇峻天皇にしろ、そこに共通しているのは神廟の空洞化とでもいえる事であり、それの裏返しとしての、それら神霊の阿祖山太神宮への集約である。そうしなければならない理由は、これもまた神武天皇や崇峻天皇にあるのではなく、『宮下文書』を書いた人物にあるということであろう。その理由は、当時の古屋敷の祭祀にあったのではないだろうか。『宮下文書』の世界が、当時の明見の祭祀空間を核に、それを最大限拡大したものであるとすれば、そこに『宮下文書』と現実の間に乖離が生じるし、その乖離に対し辻褄合わせをしようとしても不思議ではないであろう。例えば、阿祖山太神宮の本殿などというものは元々から無かったのかもしれない。それ故、氏子二十五箇村は宮守神社・福地八幡大神を再興して之に五廟を合祀したというようなことを書かなければならなかったとも考えられるのである。阿祖山太神宮の本殿は再建されていないから、本殿が無くても当然の事となるわけである。阿祖山太神宮が本当に在ったのなら、人びとは何よりもその本殿を再建するであろし、それ故当然人々の意識には阿祖山太神宮の本殿などというものはなかったということである。神廟についても、それが当時まで残っているような記述では、では何処にあるのかということになるであろう。特に、古屋敷に小室浅間神社と八幡宮が在ったとすれば、それと結びつく神廟は何処かということが人々の間で注目されるであろう。しかし、実際には神廟など『宮下文書』の中にしかないとすれば、神廟は遠い昔に空っぽになってしまって、祭祀も行われなくなくなって久しいとなれば、今では何処だったかも分からなくなっていても起こりえるこということになり、都合がいいわけである。
 宮守神社に関しては、他の場合ははっきりと天文年間(1532-1555)、元亀二年(1571)、元和元年(1615)というように年号が書かれているのに、宮守神社の遷宮についてはその年号が書かれていないのも解せない。富士山北東本宮小室浅間神社の遷座についても貞享三年(1686)と分かっていのであるから、その年号が書かれていてもいいと思うのである。『宮下文書』の宮守神社と富士山北東本宮小室浅間神社を直接結びつけることにはやはり不都合があったのであろう。その不都合とは、富士山北東本宮小室浅間神社が宮守神社のことで、阿祖山太神宮のことではないということを明確にさせたくなかったということなのかもしれない。逆に福地八幡大神の遷座の年号が書かれているのは、あるいは実際には古屋敷から福地八幡大神の遷座はなかったのに、あたかもそれがあったかのように見せかけるために、年号まで書いたのかもしれない。土地三千余坪を与えられての遷座となれば、社殿もそれなりに立派なものが建てられたであろう。現在の富士山北東本宮小室浅間神社の社殿は桃山時代に建てられたものというから、遷座の際に移築されたのであろう。その際、立派な福地八幡大神の社殿を壊したとも思えない。福地八幡大神の社殿と富士山北東本宮小室浅間神社の社殿が在ったと考えるべきであろう。そうすると合祀するということもないであろうし、移築された富士山北東本宮小室浅間神社の社殿が現在にも残っているなら、福地八幡大神の社殿も残っていてもいいと思うのである。
 福地八幡大神社の合祀について、『MARUBI 富士吉田市歴史民俗博物館だより』第15号によれば、「大明見地区の氏神である浅間神社は、木花開耶姫命を祭神として祀っています。もとは古屋敷にありましたが貞享3年(1686)の大明見村移転にあわせ、古屋敷から現在の場所(新屋敷)に移されました。そして、その移転の際には、先にこの地に祀られていた福地八幡宮を合祀しています。」とあり、そこでは福地八幡宮のことは書かれておらず、現在地には元々福地八幡宮が鎮座していたことだけが書かれている。あるいは、福地八幡宮の遷座などなかったから書かなかったのかもしれない。
 下宮の小室浅間神社(下浅間)の近くにも福地八幡宮(渡辺大明神社)があり、由緒に「往古は軽島大神宮と申し誉田別天皇即位五年七月阿田津山の日向に祭り給ふ崇神天皇即位二年六月厩戸皇子(聖徳太子)は勅命によって再建し給ふ之より寒川大明神と改称文武天皇大宝元年勅命によって当社を福地大明神と改称し給ふ」とあるという(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-4.html)。この由緒では、阿田津山に在った神社が軽島大神宮なのか、福地八幡宮(渡辺大明神社)がそう言われたのかなど、福地八幡宮(渡辺大明神社)と阿田津山に創建された神社との関係がいま一つ明瞭ではない。福地八幡宮(渡辺大明神社)のもう一つの由緒を見ると、「応神天皇の皇子の阿計日登王(あけひとおう)こと、明仁王は誉田別天王の即位5年7月(205)、山守都の司となり、これより大山守皇子と称し、天皇の勅命によって阿祖山大神宮の宮司を命ぜられ、皇弟の隼総別皇子(はやぶさわけのおうじ)、根鳥皇子、大臣・武内宿禰の一男の羽田八代宿禰と共に福地山(ふじさん)北麓に土着するようになりました。応神天皇の崩御の後、祖母の息長足姫命こと神功皇后のの遺品の弓矢等を宝物として、御父の霊を福地軽島大神宮と申し、現在の大明見の阿田都山の日向に祀り給わりました。崇峻天皇2年(589)6月、御年18才の厩戸皇子(聖徳太子)が来麓し、三ヶ月ほど滞在して再建します。その時に高座山西麓の白蓮滝に祀られていた寒川神社を軽島大神宮に合祀し、寒川大明神と改称されました。また、高座山の寒川神社の跡には白蓮寺を建立し、百済人の日羅によって建立された行満寺の奥の院と称されました。文武天皇の大宝元年(701)6月には、勅命により福地八幡大神と改称。光仁天皇の宝亀5年(774)6月には、勅命によって阿祖山大神を先元(浅間・阿様)大神と改称されました。」(http://www.fujisan-jinja.com/yamanashi/fuji_hachiman/index.php)となっており、ここでは明確に福地軽島大神宮が阿田都山にあったことが記されている。福地八幡宮(渡辺大明神社)の由緒からは福地八幡宮が古屋敷に在ったことがいえるが、ただその由緒は『宮下文書』を取り入れて書かれている可能性も強いので、古屋敷に福地八幡宮が在ったことの傍証とするには弱いであろう。さらに、福地八幡宮(渡辺大明神社)の社記には明見の福地八幡をここに移したとあるという(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2015/08/27-e239.html)。引用した由緒は暗にそのように主張しているようにも読めるので、それで福地八幡宮(渡辺大明神社)は明見の福地八幡から遷座してきたと理解したのか、明確にそう書いてある社記が在るのかわからないが、後者だとすると、『神皇紀』が現在の富士山北東本宮小室浅間神社の地に遷座したとしていることと矛盾することになる。福地八幡宮(渡辺大明神社)については、『神皇紀』では「阿祖山軽島」と記されているだけで軽島大神宮の名前が出てこないが、その点だけ『神皇紀』と違って古屋敷の福地八幡宮ばかりでなく福地八幡宮(渡辺大明神社)も軽島大神宮と称したとされており、福地八幡宮(渡辺大明神社)がそこまで軽島に拘る理由がありそうなことも気になる。
 富士山北東本宮小室浅間神社旧社と福地八幡宮(渡辺大明神社)が西北30度線をつくっている。そのことからも、富士山北東本宮小室浅間神社旧社周辺と福地八幡宮(渡辺大明神社)には何らの関係かありそうでもある。福地八幡宮(渡辺大明神社)が西北30度線を意識していると思われるのは、その社殿の軸が西北30度線とほぼ重なり、社殿の前に立つと、神社の背後の方角に富士山北東本宮小室浅間神社旧社が在る構造になっていることからもいえるかもしれない。もちろん、古屋敷に福地八幡宮がなかつたとすると、その方位線には物語性がないことになる。
 古屋敷に八幡宮が無かったとすれば、何故『宮下文書』は福地八幡宮にこだわるのかという問題が生じる。その答えの一つは、富士山北東本宮小室浅間神社が新屋敷に遷座したとき、そこにはすでに福地八幡宮があり、それを合祀したからということであろう。そうすると、『宮下文書』は富士山北東本宮小室浅間神社が新屋敷に移転した江戸時代の貞享三年(1686)以後に書かれたか、少なくとも御久良神社の話は付け加えられということにもなるわけである。

   富士山北東本宮小室浅間神社旧社―福地八幡宮(渡辺大明神社)(E0.015km、0.37度)の西北30度線

 北口本宮冨士浅間神社の随身門手前の傍らにも福地八幡宮があり、福地八幡宮(渡辺大明神社)は下宮の小室浅間神社(下浅間)のすぐ近くなのであるが、離れた北口本宮冨士浅間神社の摂社ともなっていることから(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-date-20111122.html)、北口本宮冨士浅間神社と関係の深い神社といえ、八幡宮に福地が付くのは、北口本宮冨士浅間神社との関係からきているとも考えられる。方位線的には福地八幡宮(渡辺大明神社)と諏訪神社が東北60度線をつくっており、諏訪神社は富士山北東本宮小室浅間神社、すなわちそこに在った福地八幡宮とも東北30度線をつくっている。最初から二つの福地八幡宮は諏訪神社(北口本宮冨士浅間神社)の方位線にあったか、古屋敷に在った福地八幡宮は福地八幡宮(渡辺大明神社)を介して間接的に北口本宮冨士浅間神社(諏訪神社)に方位線で結ばれていたのを、直接的な方位線上の位置に遷座したということになるが、どちらにしても方位線的には北口本宮冨士浅間神社(諏訪神社)と結びつく神社といえる。

  諏訪神社―福地八幡宮(渡辺大明神社)(W0.085km、1.60度)の東北60度線
  富士山北東本宮小室浅間神社―諏訪神社(北口本宮浅間神社)(W0.005km、0.10度)―北口本宮冨士浅間神社(E0.100km、1.99度)の東北30度線

 大明見における祭祀の最古層は、阿祖山太神宮ではなく、社宮地神社のミシャグチ神祭祀であろう。杓子山にもミシャグチ神祭祀があった。その最古層のミシャグチ神祭祀は、杓子山・高座山・社宮地神社の方位線網と密接に結びついたものであったかもしれない。高座山と社宮地神社の西北30度線を延ばすと、福地八幡宮(渡辺大明神社)近くの聖徳山福源寺がある。福源寺は、徐福が死んだ後鶴に化身し、その鶴が江戸時代に死んだので、その死骸を埋めたという鶴塚で有名な浄土真宗の寺であるが、サグジのほこらがあったことから浄土真宗サグジ道場といったという(http://www.fujisan-net.jp/data/article/458.html)。ミシャグチ神を祀るザグジの祠が在ったわけである。高座山と福源寺は方位線をつくってる。福源寺のザグジの祠がどこら辺に在ったのかわからないが、ザグジの祠とも方位・方向線をつくっていたとみなしてもいいであろう。社宮地神社と福源寺は方向線であるが、ザグジの祠の場所によってはやはり方位・方向線をつくっていた可能性がある。古屋敷周辺には親鸞聖人の伝承があり、古屋敷の社宮地神社近くの名号の森に親鸞聖人が訪れたといい、石柵の中に親鸞聖人顕彰碑と天照大神の石碑があるという(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-3.html)。それは、古屋敷のミシャグチ神を祀る社宮地神社の近くであり、福源寺にザグジの祠があり、古屋敷にも社宮地神社が在ることから、親鸞聖人は名号の森を訪れたのかもしれないし、あるいはそのような伝説が生じたのかもしれない。どちらにしても、福源寺のザグジの祠と社宮地神社の間に強いつながりがあったことを、古屋敷の親鸞伝説は示しているのかもしれない。
 福源寺のザグジの祠と関連するものとして、「渡辺大明神もかつて『シャグチ大明神』と呼ばれていたことがあり、明見の社宮地神社(福地八幡と合祀されている)との関係もあることが分かっています。」(http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2015/08/27-e239.html)とある。これは、福地八幡宮(渡辺大明神社)がザグジの祠ということではないであろう。福源寺と福地八幡宮(渡辺大明神社)の間には川も流れており、福地八幡宮(渡辺大明神社)がザグジの祠とすれば、そのことを以て浄土真宗サグジ道場と称するとは考えにくいのである。ザグジの祠は福地八幡宮(渡辺大明神社)よりの所にあり、ザグジの祠が消失してしまった後、「シャグチ大明神」と呼ばれるようになったのかもしれない。もしそうなら、社宮地神社とザグジの祠が方位線をつくっていた可能性はより高まる。また、社宮地神社に福地八幡が合祀されているとすれば、古屋敷にも福地八幡宮があったということになる。ただ、『神皇紀』のようにそれは広い土地を与えられて遷座していったということでもないわけである。ザグジの祠の近くに福地八幡宮(渡辺大明神社)が在ったので、社宮地神社の近くにも福地八幡宮が建てられたのかもしれない。『神皇紀』に村上天皇の時、宮守神社を福地八幡太神の東に遷宮とあるが、これは 富士山北東本宮小室浅間神社旧社と福地八幡宮の位置関係の反映かもしれない。そうすると、福地八幡宮は富士山北東本宮小室浅間神社旧社の西側の社宮地神社寄りの所に在ったと考えられ、福地八幡宮(渡辺大明神社)と古屋敷の福地八幡宮が西北30度の方位線をつくっていた可能性も十分ある。

  福源寺グークル地図卍記号―社宮地神社(E0.105km、2.54度)―高座山(E0.142km、1.62度)の西北30度線

 社宮地神社は近くに縄文時代の遺跡もあり、その祭祀は縄文時代にまで遡るかもしれないわけであるが、千居ストンサークルと東北45度線をつくっている。千居ストンサークルと富士山が東北30度の方位線をつくり、社宮地神社と高座山が方位線をつくり、富士山と高座山さらに杓子山が方位線をつくっていた。これは縄文時代にまで遡る方位線網だったかもしれない。このような縄文祭祀空間のなかに諏訪から出雲神族が入って来て、御射山社からの西北45度線と千居ストンサークル・牛石ストンサークルの東北45度線の交わるところに諏訪神社を建てたわけである。社宮地神社も千居ストンサークルと牛石ストンサークルが作る方位線地場の中に建てられたと考えるべきなのかもしれない。富士北麓に来た出雲神族は、諏訪の守矢氏との関係からも富士北麓のミシャグチ神信仰を意識したであろう。諏訪神社も最初から現在の場所に鎮座していたわけではなく、例えば御鞍石近くに建てられていたとすれば、社宮地神社と東北30度線の方位・方向線をつくっていたかもしれないし、御鞍石の東北60度線が福地八幡宮(渡辺大明神社)と福源寺の間を通るので、ザグジの祠とも方位・方向線をつくっていた可能性がある。

  千居ストンサークル―社宮地神社(E0.141km、0.26度)の東北45度線
  御鞍石±―社宮地神社(E0.174km、2.64度)の東北30度線
  御鞍石±―福地八幡宮(渡辺大明神社)(E0.029km、0.51度)―福源寺グークル地図卍記号(W0.187km、3.23度)の東北60度線

 出雲神族は欽明朝以前から富士山麓に進出していたのかもしれないが、欽明朝との軋轢の中で、富士山麓に逃げていった出雲神族も多かったのではないだろうか。富士山北麓の秦氏は出雲神族を追うように富士山北麓に入ってきたのであろう。『日本書紀』に欽明天皇が幼少の頃、秦大津父という者を寵愛されれば壮年になってから必ず天下を治められるであろうという夢を見て、山城国紀郡の深草の里にその人を見つけだし、近くにはべらせて手厚く遇したという話が載っている。欽明朝の成立に秦氏が大きな力になったことを窺わせる話である。諏訪大社にユダヤ的なものがあると指摘されることがあるが、あるいは欽明朝の時に物部氏や金刺氏だけでなく秦氏も諏訪大社に介入して、ユダヤ的なものを諏訪大社に持ち込んだのかもしれない。縄文時代の富士山祭祀を含み込んだ出雲神族の富士山祭祀を土台にして、浅間神社の富士山祭祀が展開する。ただこの浅間神社の富士山祭祀は、基本的には出雲神族的なものを弱めようというものだったのかもしれない。出雲神族の神ではないコノハナサクヤヒメを富士山の神とすることにそれが表れているともいえる。貞観年間の笛吹市の浅間神社や河口浅間神社の創建は、そのような脱出雲神族化が不十分だということが問題になったのかもしれない。月刊『ムー』412号の古銀剛氏の記事によれば、河口浅間神社の境内地はかつての秦氏が住んでいた秦屋敷の敷地だったと考えられており、神社から西北に数分ほど歩いたところにヒノキの巨木の跡があり、そこが秦氏屋敷と伝えられているという。また河口浅間神社の参道の真ん中に「波多志之神祠」があるが、秦氏の祖を祀るという。富士山北麓の秦氏の初期の祭祀がどのようなものだったかわからないが、浅間神社を中心とした富士山祭祀の脱出雲神族に秦氏の役割が期待されたか、秦氏自身がそれを積極的に推進しようとしたのかもしれない。
 ブログ「水石の美を求めて」(http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/category28-4.html)によると、河口浅間神社について、『甲斐国志』第七一巻神社部第十七ノ上に「秦大明神相伝秦徐福ヲ祭ルト云フ 因テ徐福ノ社トモ称ス…中略…至今子孫秦氏…中略…今川口、吉田両村神職ノ者トモニ秦氏ヲ称スル者多シ 蓋シ是徐福ガ子孫カ 但今改秦為羽田之二字」とあるという。それを見ると、川口・吉田両村の神職の多くが秦氏だったことになる。ただ、福源寺の鶴塚については、徐福や秦氏とは関係ないのではないかという。『甲斐国志』巻之五十三古蹟部第十六之上では、里人が言うには昔から本郡に白鶴が二羽いたが、元禄十一年戊寅三月一羽の鶴が死んだので、里人は役所に訴え、下吉田の北原に埋め塚を築き鶴塚と号したが、思うにこれが郡名の発祥であるとあり、そこには徐福の名前は出て来ない。鶴塚の碑文では「孝霊帝時、秦徐福結伴、求薬東海神山、逮到于此、以為福壌也、遂留而不去、後有鶴三雙、居恒遊止郡中、時人以為福等之所化、従孝霊而至元禄、凡二千有余載、而一鶴殯、其骨於郡之大原庄福源寺、号為鶴塚焉」とあるが、碑には寛政十年(1798年)と刻まれており、塚が作られて95年後に碑が建てられたのかこの辺の事実関係は不明であるが、徳川綱吉により、生類憐みの令が出された時代、寺の境内で鶴の死骸が発見され、驚いたのは寺の住職と村人で、令により鶴の捕獲が禁制となっており、下手をすれば村人から下手人を出さねばならなくなるということで、この鶴が徐福の化身であるとして、言ってみれば罪から逃れる方便として徐福伝承を利用し、役所に願い出て鶴塚を建立したのではないかというのである。
 この縄文・出雲神族・秦氏が重なった中に源氏的なものが入り込んできて、八幡宮が建てられたということであろう。宮下一族の出自が何なのか、いつ頃明見に来たのか分からないが、『神皇紀』に見られるように、源氏とも深く結びつくことになり、八幡宮の祭神でもある応神天皇と結びつけた大山守皇子を始祖とする伝承が作られたのであろう。
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