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しかし若島津が恐れていた衝突も、初日のニアミス以外これといって起こらず、練習が始まれば日々は表面上順調に過ぎていた。
タックルが足に入っただの入ってないだの、オフサイドだの違うだの、あれはわざとだのわざとじゃないだの、細々した両校メンバーの揉め事は時々無くもなかったが、そんな事はプレイ中には良くあることだと思うことにした。自分たちのトラブルがいつ起こるか、他校の連中に遠巻きに眺められてるのも精神衛生上あまりよろしくなかったが、いちいち気にしてたら、練習なんてできないっての、全く。
そしてこれも相変わらず、若島津と日向の接点はほとんどなかった。
ポジションが違えば練習はほとんど別々。いつも練習場はピッチの端と端。一緒になるのは始めのランニングと柔軟、それとシュート練習くらいなもので、そこで話す機会などあろうものか。
みんなが揃う食堂でも、座る席は対角線上。つまり一番離れたところ。自然と反町たちと行動することが多いため、それも致し方ない状況だった。日向にしても東邦メンバーと一緒にいることが多いため、そこに一人で入っていく気もさらさらない。だって、んな事したら、自ら揉め事の種を蒔くようなもんじゃないか。
日向の同室者は、若島津には馴染みのないFW選手で、ちょっと部屋に遊びに、なんていうのも論外。
このままじゃ、今までみたいに一回もしゃべることなく終わってしまうんだろうなぁ、なんて若島津が思い始めた頃、ついにそれはやってきた。急転直下の勢いで。
それがきっかけで、のちに彼の運命が思いも寄らぬ方向へ転がっていくとは、その時はまだ何も知らなかったのだ。



午後の練習で味方DFと接触して流血した若島津は、その夜、医務室へ向けて歩いていた。
流血と言ってもたかが頬の上を擦り剥いただけなのだが、風呂上りにばったり出くわした反町に医務室行きを強く命じられたのだ。
曰く、「お前の顔は明和東の大事なウリの一つなんだから、傷なんて残ったら大問題だ」と。
これには若島津も憤慨したが、騒ぎを聞きつけた先輩、さらにはただ面白がっているだけのそこにいた連中にまでぎゃんぎゃん言われ、仕方なくこうして医務室へ向かうことになった。
「すいません、先生」
わずかに消毒液の匂いのするその部屋に入ると、室内の電気が点いているにも関わらず、白髪交じりのいつものドクターはいなかった。
「あれ?」
「先生ならいないぜ」
代わりに聞こえてきたのは、覚えのある低い声。
そこに立っていたのは、何と日向だった。
うわぁ、こんなにも突然二人きりになるなんて、気持ちの整理ってもんがッ。
内心の焦りを押し留め、若島津は平静な表情を取り繕うのに必死だった。
「さっき島野が捻挫して、念のため病院行ってレントゲン取るって一緒に付いてった」
「あ…、そう…」
流れる微妙な沈黙。
こ、困った。何をしゃべれば良いのやら。
密かにうろたえていると、日向が不意に口を開いた。
「初日、悪かったな」
一瞬、何のことか分からなかった。それが顔に出ていたのだろう。日向は更に言い添えた。
「来た早々、うちの先輩がお前らに突っかかっただろ」
「あ、あぁ。…いや、別にあれくらい。それを言ったらうちだって同じだし」
ここで謝られるとは思ってもいなかった。ついでに言うと、日向がこんな穏やな口調でしゃべるとは考えてもみなかった。
試合中の怒鳴り声、挑むような表情と、獲物を狙うハンターみたいな目。知っているのはそれだけだった。
同じ高さの目線。なのに日向の方が大きく見られがちなのは、体の厚みの違いのせいか。
間近で見た日向は、試合中にはない静かな雰囲気をしていた。
「…全く、どうしてああもすぐケンカ腰になるんだか」
そう言って、日向はどこか疲れたように一つ溜息をついた。それが何となく、意外な気がした。イメージに合わないというか、溜息なんてつくような男ではなさそうに見えるのに。
もしかして、こいつにも自分と同じような苦労があるのだろうか。
そう考えて、若島津は単純ながらほんの少しだけ日向との距離が縮まったような気がした。
ファーストコンタクトとしては上々の出来ではないだろうか。ここが医務室だということも忘れ、若島津はその満足感に浸っていた。
「お前はどうしたんだ? 顔?」
日向の視線がこちらに向き、若島津は今のこの状況にはっと気が付いた。
「あ、あぁ、うん。…いや、大したことないんだけど、行け行けってうるさいから、消毒くらいはしようかと思って…」
「まだ血が出てるぞ」
「えっ」
次の瞬間、若島津はマジで心臓が止まるかと思うほど驚いた。
日向が近寄ってきて、若島津の傷を隠している髪をかきあげたのだ。どうリアクションをすればいいのか分からず、そのまま凍りついて動けなかった。
「結構大きく擦り剥いてるな。ほら、消毒するからここ座れ」
「あ、あぁ」
「しみるか?」
「いや…、大丈夫」
馴れた感じで手際良く絆創膏を貼る日向に、意外な気がしてつい口をついた。
「……何か慣れてるな」
そう言うと、日向はほんの少し笑ったようだった。
「まぁ俺も結構無謀なチャージかけたりするからな、小さい怪我多いんだよ」
それと、と繋げて日向は不意に優しそうな目になった。
「俺、小さい時から兄弟の面倒みてたからな、それでだろ」
ふーん、とか、そうなんだ、とか、そんな返事をしたと思う。それ以降の会話が強烈過ぎて覚えていない。
「お前、せっかく綺麗な顔してるのに、こんな傷作るなよ」
一瞬、耳を疑った。聞こえた言葉を頭が理解するまでにも、更にまた一拍必要だった。
「は?」
「もったいないだろ」
「……はぁ?」
何なんだ、こいつは。これが本当にあの日向か?
大体、顔に傷作るなってお前が言う? こいつと対戦した試合で、俺がどんだけ傷作ったと思ってるんだ。
唖然としていると、日向は更に爆弾を落としてくれた。
「……王子様」
その言葉を耳にした瞬間、若島津は恥ずかしくていたたまれず、穴があったら入りたい気分になった。穴がなくても、掘ってでも入りたかった。
全身を動揺が走る。頭が真っ白になって、前後の記憶が吹き飛んでしまったくらい。不覚にも、もしかすると赤面していたかもしれない。
まさか、こいつまで知っているとは思わなかった。そりゃ日向にとっても自分の出ていた試合の記事だし、見ていてもおかしくないのかもしれないけど。
それなのに日向は、大真面目な顔をして更に言った。
「そんなふうに最近になってみんな騒いでるけど、俺はずっと前から、お前の顔綺麗だって思ってたぞ」
「……」
絶句。
とは、こういう事を言うのだろう。今、身を持って知ったぞ。
こ、ここは怒るべきところなのか、それとも礼を言うべきところか。誰か教えてくれッ!
今思い返しても、その後どうやって医務室を出たのかまるで記憶がない。多分それなりに、一応礼くらい言って出てきたのだと思うのだけど。それすらも自信がなかった。


「あれ? 若島津?」
ロビーを通りかかったところで突然呼び止められ、若島津はわけもなくうろたえた。振り向くと、声の主は岬だった。
消灯前のどこかバタついた雰囲気が漂う中、彼はのんびりとソファーに座って、備え付けてあった地方情報誌のようなものを眺めていたようだった。
「どうしたの、その顔」
「えッ?」
か、顔? 何か付いてますか? いや、さっき日向が貼った絆創膏は付いてると思うけど。
と、考えたところで、先程の出来事がフラッシュバックしてきて、若島津はますます動揺した。思わず視線が泳ぎかける。
「さ、さっき、練習中に…」
「知ってるよ、それは。あの時、僕も一緒にやってたじゃない」
そ、そうだったっけ? そりゃレギュラー組ですもんね。いましたよね、ハハ…。
乾いた笑いに、しかし岬は乗ってくれなかった。
「そうじゃなくて、何か顔色悪くない? 大丈夫?」
「……いや、大丈夫…」
言葉に納得したふうでもなかったが、岬はそれ以上深く突っ込んではこなかった。
そう、と言いながら、岬は少し横にずれて若島津の座る場所を空けた。そして、彼はまた雑誌に視線を落とした。
流れる微妙な沈黙。
「…なぁ、岬」
「うん?」
切り出したものの、それから次が続かない。
何と言って切り出していいものやら。言い淀んでいる若島津に、岬は不審そうな視線を向けた。
「なに? どうしたの?」
「いや……、日向ってさ」
「小次郎? うん?」
周囲に反町たちがいないことを確認した上に、更に若島津は小声になった。
「あいつって、一体どういう奴?」
「えー? ……まぁ、いい奴だよ」
「…あ、そう」
いや、そういう事が聞きたいんじゃないんだけど。
あいつって、ちょっと変じゃない?
とは、単刀直入過ぎてさすがに聞けなかった。悪口と取られるのも何だしさ。
それを見て、岬はくすっと笑った。
多分彼は、それが若島津の聞きたい答えじゃないことを分かっていてそう言ったのだろう。そういえば、こいつはこういう奴だった。
「何かあったの?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど…」
「ケンカでもした?」
「だーから、してないって」
「じゃ、やっぱり他に何かあったんだ?」
気が付いた時にはもう遅かった。上手く運んだ誘導尋問に、岬は楽しそうにまた笑った。
彼は手にした雑誌をパタン、と閉じて若島津に向き直った。
「…そうだなぁ、小次郎とはまぁ4ヶ月くらいしか同じチームにいなかったから、何とも言えないけど」
それにあの時まだ小学生だったし、と続けた。
「小学…、何年生だったかな。結構まだ小さい頃にお父さんが事故で亡くなって、お母さんが働きに出なくちゃいけなくなったんだって。それで小次郎は、弟とか妹の面倒を見ながらサッカーやってたんだよね」
「……へぇ」
これはちょっと意外。東邦なんて私立に通ってるから、何の苦労もなくサッカーだけに打ち込んできたんだと思っていた。
「あの頃、本人が隠してなかったから言ってもいいと思うんだけどさ。お父さんが亡くなった時、借金とかもあったみたいで、小次郎、長男だからお母さんを支えていろいろと苦労してたみたいだよ」
「……」
「同じ学校だった頃ってほんとにまだ子供だったし、小次郎ももっと荒れてたような気がするな。サッカーでも、あんまり仲間を信頼してないって言うか、もっと独断的な感じでさ。でも奨学生で東邦に入ってからは、ちょっと穏やかになったのかな。家の事を気にしないでサッカー出来るようになったのが嬉しかったのかもね」
「そうか……」
いわゆるお坊ちゃま育ちの若島津は、実はこういう話に弱かった。実家は空手道場を営んでいて、サッカーをやる事に両親はあまり賛成しなかったが、次男という特権でさほど障害もなく今までやってきたのだ。
そうか。そうだったんだ。何にも知らなかった。そんな風な努力を日向は今までやってきて、そしてその地位を築き上げたんだ。
意外な事実を知って、ちょっと見方が変わった気がした。変な奴だなんて思って悪かったかも。
「でも昔から、小次郎の好みは分かりやすかったよ。子供の頃からそれは変わってないみたいだね」
「……へー…?」
「小次郎は多分、若島津のことすごく気に入ってると思うんだよね」
若島津はここに来て、話の方向性が変わったことにやっと気が付いた。
「……え?」
「あれ? そういう話じゃないの?」
じゃない…と、思います。いや、大きくひっくるめるとそういう話になるのか?
仮にそうだとしても、一体どこが気に入られてるんでしょうか。もしかして顔?
自虐的なツッコミに自爆して、若島津は再びぐったりとソファに沈み込んだ。
「若島津、どうしたの? 大丈夫?」
「いや…うん、俺、もう寝る…」
そう言って撤退するよりほかに余力は残っていない気がして、若島津はよろよろとロビーを後にするしかなかった。



日向という奴は、たとえ練習中でも決して手を抜かない男だった。
そう、それは何となく彼のイメージと合っていた。サッカーに対していつでも真摯でひたむきに打ち込む姿は、想像の中の日向と何ら違いはなく思えた。
午後練の最後をしめる半分お遊びのようなシュート練習。そんな時でさえ、日向はまるで決勝のPK戦でもやっているような目を若島津に向ける。ゴール前まで伝わってくる集中力。自然とこっちも本気を出さざるを得なくなるのだ。
背筋がぞくぞくするような緊張感。一気に駆け上がる高揚感。まるで世界に自分と日向だけしかいなくて、この勝負だけがすべてのような錯覚さえしてくる。この刹那的な瞬間。
日向の蹴ったボールは綺麗な軌跡を描いて、ゴール左隅に吸い込まれて行った。
「…ッ、くそッ」
コースは見えたのに間に合わない。これが何より悔しいのだ。
「よーし、今日はこれで上がろう。最後、柔軟、手ェ抜くなよ」
間延びしたようにピッチに響いたコーチの声を合図に、若島津は憮然としたままゴール脇に置いてあるタオルを取り上げた。
あぁ、畜生。決められてしまった。畜生畜生畜生!
悔し紛れに手にしたタオルで乱暴に顔を拭うと、傷に擦れてわずかな痛みを感じた。でも、そんなことはどうでも良かった。
なのに、不意にそれを遮る手があった。驚いて顔を上げるとその手の持ち主は日向だった。
「そんなに擦るとまた血が出るぞ」
もしかしてその時、周囲は凍り付いていたかもしれない。しかし、そんなことにまで気を回す余裕はなかった。
こいつ、いい度胸じゃねぇか。こんな時の自分には反町でさえ近寄って来ないと言うのに。
「…ッ、分かってるよッ」
思わず怒鳴ってから、若島津ははっと我に返った。
あッ、ヤバイ。これでは、ウワサの火元に油を注ぐようなものではないか。
乱闘勃発の危機かと周囲に戦慄が走っている中、当の日向はまるで表情を変えなかった。至って静かなその雰囲気。
若島津が気まずい気分で謝るきっかけを探っていると、彼は何も起こらなかったかのように、ふいとその場を立ち去った。
あー……、マズイ。
今のは大人げなかった。たかがシュート練習で、あそこまで熱くなった俺がマズかった。
しかし言わせてもらえば、あんな目で対峙されて真剣にならないほうがキーパーとしてマズイだろう。
遠巻きに向けられる視線が痛い。
違うんだ、違うんだっての。俺は別にあいつと対立するつもりはこれっぽっちもないんだって。
言ったところで、今のこのやりとりの後では説得力も何もねェんだろうなぁ。
溜息交じりにその場を立ち去ろうすると、前にいた連中が一気に後退って道を開け、若島津はいたたまれない気分でその花道を進むしかなかった。


「よ、若島津。さっき日向とやりあったんだって?」
こういう時いつも、言われたくないんだろうな、なんて事をなんら気に掛けることもなく、ズバっと核心に迫ることのできる松山を若島津はある意味尊敬すらしていた。夕方のあの騒ぎの時、彼は別グループで練習していたため、事の真相を知らなかった。
「……やりあったってほどでもねェよ」
「そうか? でも俺は殴り合い一歩寸前って聞いたぞ。それ見てたコーチが、あまりの恐怖に顔色なくなってたって」
誰だよ、早速話に尾ひれ付けやがった奴は。
「だめじゃーん、ケンカすんなってあれほど言われてきただろ?」
「お前か、反町…」
お前が煽ってどうすんだよ。これで世間に流布されている明和東・東邦不仲説にますます拍車をかけてしまったではないか。明和東と東邦というより、ぶっちゃけて言えば自分と日向の不仲説なのかもしれないが。
「何、それ?」
「こいつね、ここ来る前に校長室に呼ばれてさ、合宿中、くれぐれも東邦とケンカはするなって言われてきたんだよ」
「うそ、マジで?」
「若島津って真面目そうに見えて、意外と問題児?」
誰が問題児だ、誰が。
「違うっての、俺が、じゃなくてうちの連中みんなに対して言われたんだよ」
だから反町、お前も入ってんだぞ、と言う若島津の言葉は、その場の盛り上がりにかき消されてしまった。
気が付けば、夜のロビーには昔馴染みのメンバーが揃っていた。これがタチが悪いのだ。子供の頃から知り合いな分、こいつらには遠慮ってもんがない。
しかし、なんだかんだと言ってはいても、彼らもそれらの話を本気に捉えてはいないのだ。若島津を肴に暇な夜を盛り上げようという意図が見えて、若島津は反論するのも馬鹿らしくなってきた。
「あれ? どこ行くの、若島津」
「……トイレ」
付き合う気にもなれずに、げんなりしながらその場を抜け出す。そのまま目的もなく、玄関のドアを押してふらりと外に出た。
宿舎の玄関は夜九時まで開いている。その後はオートロックで締まってしまうが、そこは並外れた体力のサッカー選手。二階によじ登る等、屋内に入る手段はないこともない。ただし、見つかったらそれこそ学校や所属するユースチームに後々まで悪影響を及ぼすリスクを伴うが。そもそも周囲に何もないこの環境では、そうまでして無断外出しても何の見返りもないのが実情だった。
時計は持っていなかったが、今はまだ八時を過ぎた頃だろう。ふとした思い付きで、散歩でもしてみようかという気分になった。
一歩外に出ると、途端に聞こえる虫の声。それでようやく、そうか、今は秋だったんだ、と実感する。毎日サッカーに明け暮れる毎日で、季節感なんてものは簡単に忘れ去ってしまう。昼間走り回ってるとあんなに暑いのに、夜の風は意外なほど涼しく感じられた。
完備された遊歩道をゆっくりと百メートルほど進んだところで、突然視界に入ってきた人影に若島津は思わずぎょっとした。こんなところで人と会うとは思ってもみなかった。
「…若島津?」
足音に向こうも気付いたようで、声をかけるより先に名前を呼ばれた。
でかいシルエットと低い声。
それが誰なのかわかって、若島津は思わず眉間に皺を寄せた。
コレは一体何なんだ。一時はまるで接点がないと思っていたのに、それを越したらこんな偶然ばかりが続くってのは、運命の悪戯とでもいうものなのか?
声の主は、これまた日向だった。彼も驚いたような表情をしていた。
「脅かすなよ、こんなところに誰が来たのかと思うじゃねェか」
それはこっちの台詞だ。言い返そうと口を開いたが、その時、昼間の一件が若島津の頭を過ぎった。
そうだ、穏便にせねば、穏便に。さっきあんな事があったばかりで、ここでまた言い合いになどなろうものなら、もう決定的なダメージだ。
「お前も散歩か?」
も、ってことは、日向もそうなのか。
そこで、そうなんだよ、奇遇だなー日向、なんて軽く言えれば、この場の雰囲気も変わったのかもしれないが。
若島津が実際に答えたのは、うん、の一言だけだった。
何となく重い沈黙。
虫の音だけは、その場にうるさいほどに響き渡っている。どちらとも立ち去るわけでもなく、ただそれを耳にしていた。
ど、どうしよう。謝るなら、もしかして今がチャンスなのだろうか?
「…日向」
「ん?」
意を決して若島津が口を開くと、日向はまたあの静かな目を向けた。
「昼間、悪かったな」
「…あぁ、何のことかと思えば。いや、別に気にしてねェよ」
口調から、彼が本当にそう思っているのが分かって、若島津は少しほっとした。気まずさを誤魔化すように苦笑して見せる。
「…何か、お前とやってると、どうも度を越すって言うか…。今までずっと対戦ばっかりだったからなのかもしれないけど、あんな単なるシュート練習でさえ俺、どうも本気になってたみたいでさ」
悪かった、ともう一度謝ると、日向は少し驚いたように何か言いたげな顔をした。
「なに?」
「…いや、俺もそうだからさ」
「え?」
「俺も、お前が相手だと、ついつい本気でボール蹴っちまうんだよ。あんな練習の最後の、たかがお遊びみたいなもんなのにな。分かってんのに、止められると死ぬほど悔しくなる」
「……」
その時、若島津の胸を占めた気持ち表せば、ただ単純な嬉しさだけだった。
こいつも、そんなふうに思ってたんだ。日向って、もしかしてほんとに結構いい奴なのかも。
本当に、我ながら呆れるほど単純だ。彼との長年のわだかまりが一気になくなったような気がして、若島津は随分と軽い気分になった。
「大体、周りがうるさ過ぎんだよな。ちょっとお前に近寄っただけで、まるで今にも決闘かってな騒ぎだぞ」
本気でうんざりしたような口調。
日向も似たような事に振り回されているのだと知って、不意に可笑しくなった。奇妙な連帯感とでも言おうか。そんなものさえ感じてしまう。
「うちと明和東って、何であんなに対立してるかお前知ってるか?」
「いや…、知らない。今まで試合に当たる事が多かったからじゃないの?」
何だよ、他に何かあるの? そう言うと、日向は顔をしかめて見せた。
知らないほうが幸せかもしんないけどな、と前置きされて若島津は少し身構える。何だよ、もったいつけないで早く言え。
「元はと言えば、うちの監督と、お前んとこの前の監督がな、昔同じチームにいたんだとよ」
うん、それは聞いたことがあるような気がする。
若島津が入学する前に引退してしまった白髪交じりのその人の姿を頭の中で思い描く。しかし続いた言葉に唖然として、その姿は上手く形を成さなかった。
「それでな、その昔、同じ女を取り合って揉めたのが、今も尾を引いてるんだとさ」 
「…な、何だよ、それッ?」
「頭くんだろ? 元々はそんなのが原因なんだぜ。馬鹿らしくてやってらんねェ」
あ、呆れて物も言えない。じゃあ何か? 俺たちはそんなんに巻き込まれて、今この状況にいるのか? 
「うちでも知ってんのは俺だけなんだよ。あの部内の雰囲気じゃ、とてもじゃないけど言えねェっての。お前らに勝つことだけが目的みたいになってるしな。ヘタすりゃモチベーション下がりそうだし」
「そう…だな……」
そりゃ、俺も言えない。もっと悪くすると、あいつらのアイデンティティ崩壊の危機だ。
笑い話にもなりゃしないが、このあまりの馬鹿馬鹿しさにはもう笑うしかないのかもしれない。
急速に縮まったように感じられた日向との距離感。今はそれに満足して、良しとするしかないか。
それで納得できる自分に驚きながら、気が付けば門限ギリギリの時間になっていて、宿舎に向けて全速力で二人で走って帰った。
幸いにも、玄関ロビーには誰もいなかった。
この時間帯はみんな、風呂かテレビかプレステ大会か。ロビーは静まり返っていた。
「じゃあな、おやすみ」
そう言って、日向は軽い足取りで階段を登って行った。さすがはフィールダー。そんなに息も切れてやしない。
「あ、うん。おやすみ」
それを見送りながら、若島津もゆっくりと階段に向かって歩いて行った。



翌日も、もしかしてまたいるんじゃないかという漠然とした予感だけだった。何となく、で外に出たら案の定、日向とまた会った。
そんな風に、約束をしたわけでもないのに、日向と会って取り止めもない話をする。それが、最近の若島津の日課となりつつあった。
日向と話をするのは、意外にも楽しかった。若島津自身、合宿前には考えられなかった展開だ。
そんな風に、事態は時々、思わぬ方面に転がっていく。



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