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神様なんていない。 生まれてから40年以上、これまでも神を本当に信じていたわけではないが、今日ほどその存在を否定したくなったことはない。 彼、岬一郎は先日妻を亡くした。 ある日突然、あっけないほど簡単に彼女は命を奪われた。 彼女とはお互い連れ子のいる再婚。いろいろあったが、何とか2年経ち、やっとまとまってきた家族だったのに。 その精神的柱であった最愛の妻を、交通事故で亡くしてしまった。 それでも自分は悲しむ暇も惜しんで、精一杯父親として、家族を守っていこうと思ったのだ。泣いている子供たちを見て、自分がしっかりしなければ、と。 それなのに。 ――やはり、本当の父親じゃないと、駄目なのだろうか。 どことなくぎくしゃくしていた彼女の上の息子とも、ようやく上手く接することが出来るようになったと思った。その矢先に。 ――美津子さん、どうして私を置いて急に逝ってしまったんだ。 知らず溜息をつくと、空気は少しの間白く残ってすぐに消えた。 神はこれ以上私に、どうしろと言うのだろうか。 師走の風は冷たい。まるで、今の自分の心のようだ。 街からは、テンポの良いクリスマスソングが流れている。すれ違う人は、みんな楽しそうな顔をしていた。今日はホワイトクリスマスになるかもしれないと、すれ違ったカップルが嬉しそうに言い合っているのが耳に入った。 ――クリスマスなんて、神の誕生日なんてくそくらえだ。 彼は剣呑な気分で、コートの襟元をぎゅっと抑えた。先ほど自販機で買ったカップ酒を、歩きながら一気に飲み干す。これでもう何本目だろう。けれど、ちっとも酔った気がしない。酔えば嫌なこと、悲しい事が忘れられるなんて嘘だ。その証拠に、自分の心には飲めば飲んだ分だけ、悲しみが積もっていく気がする。 ――やっと自分の絵が売れてきて、ようやく美津子さんにも子供たちにも苦労させなくてもよいと思ったのに。 もう涙も尽きてしまった。 これから、どうやったら生きていけるというのだろう。 あてどなくさまよっていると、小さな公園の前に辿りついた。 そのまま、ふらふらと敷地へ入る。もつれた足取りで進んでいくと、砂場の手前で足を取られて見事に転倒してしまった。 自分では酔ってはいないつもりだが、飲んだ量は過去最高かもしれない。 不意に、何もかもが馬鹿馬鹿しくなって、そのまま地面に大の字になっていると、視界にはどんよりと曇った空が見えた。 近くに教会でもあるのだろうか。どこからともなく賛美歌らしい曲が聞こえてきた。 ――聞き覚えのある曲、あぁ、アヴェ・マリアか……。 夢見心地で、死に逝くには絶好のタイミングだと思った。 もう起き上がる気力は尽きてしまった。どっと睡魔も襲ってきた。このままここで眠ってしまったら、朝にはきっと凍死するのだろう。 アヴェ・マリア。 ――このまま天国に、美津子さんのいるところに逝けるだろうか。 静かに目を閉じる。 しかし、その時突然声をかけられて、彼の意識は急浮上した。 「あの…ちょっと、…もしもし?大丈夫?」 継いで肩を揺さぶられ、反射的に目を開けた。 そこには。 「………天使?」 白い服がまず目に入った。 すらりとした姿。白く透き通るような肌に薔薇色の頬。 天使が自分を見下ろしていた。その証拠に、周りには天使の羽が舞っている。宗教画で見る天使。 するとここは天国だろうか。それでは、自分はあの場で死んで、生前良い事もした覚えもないが、うまい具合に天国に入れたのだろう。 ぼんやりとそう考えていると、その天使は呆れたような顔をして言葉を続けた。 「……あのな、オッサン、酔っぱらって寝てる場合じゃないぞ。雪も降ってきたし」 見た目にそぐわない乱暴な口調に驚いて、しっかりと目を開けて辺りを見渡してみると、そこは確かに自分が先ほど辿り付いた公園だった。 「ホラ、起きろよ。こんな所で寝てると死ぬぞ」 そう言って自分に差し伸べられた手は温かく、天使はよく見ると高校生くらいの少年だった。少年か少女かとっさに判断に迷うような、綺麗な顔立ちの。男の子にしては長めの髪のせいかもしれない。 そして、白い服はトレーニングウェアで、羽が舞っていると思ったのは雪だった。 天気予報は大当たりで、珍しくもホワイトクリスマス。こうしている間にも、雪ははらはらと舞い降りている。しかし不思議と寒さはあまり感じなかった。 差し出された手を借りて、かろうじてその場に座りはしたものの、立つ気力は未だ湧いてこなかった。 「……いいんだ、おじさんはこのまま死ぬんだ」 「縁起でもないこと言うなよ。クリスマスの日にこんなところで死ぬなんて、神様だって天国に入れてくれないぜ」 言い捨てる彼の言葉に、一郎はふっと自嘲気味に笑った。 「神様はいないよ」 「……オッサン、どんな事情があるのか知んないけど、家あるんだろ?」 ホームレスには見えないもんな、と彼は続けて言った。 「家に帰りなよ。酔っ払って道端で凍死なんて、家族だっていい笑い者だよ」 「家族なんて……」 いないさ、と言おうとして、彼は口を噤んだ。 「こんな日に親父が外でのたれ死んだら、あんたの子供は一生クリスマスを祝えなくなるじゃないか」 「……おじさんの子供は、家を出て行くって言ったんだ」 少年はしゃがみ込んで、一郎に顔を向けた。その拍子に長めの髪が、さらりと肩から零れ落ちた。少し驚いたように目を見開いて、しかし何も言わなかった。 「奥さんは先月、事故にあって死んじゃったんだ。私は家族だと思ってたのに、おじさんが本当の父親じゃないから、これ以上世話にはなれないって」 一度言い出したら、言葉は堰を切ったように彼の口から零れ落ちた。 少年はそのまま、黙って聞いているようだった。 「弟と妹はまだ小さいから私の所に置いていくけれど、自分だけでもやっかいはかけられないって…」 そう、小次郎は彼にそう言ったのだ。 母さんが死んだ今、自分がこの家に世話になって、負担をかけるわけにはいかないと、そう言って。 子供一人で生きていけるわけがない、そう言って笑い飛ばすのは簡単だった。小次郎だって、何も今すぐ出て行くという意味ではないだろうが、それを言った時のあの子の目は、この上なく真剣だった。 それを見たら、悲しさを付き抜けて、急に何もかも空しくなってしまった。 家族だと思っていたのに、家族としてやっと円滑に生活できるようになったと思っていたのに、彼女一人亡くしてしまえばそんなものだったのか、と。 あの子の性格上、そう言い出すことはどこかで予想はできた。彼がそう言い出した気持ちも理解できる。母親が再婚するまでは、子供ながらに彼が家族を守り、必要以上に大人になる事を迫られていた彼。 せめて、新しい父親の負担にならないように、と。 確かに、自分は頼りない父親かもしれない。再婚するまで、一人息子の太郎には、相当に苦労をさせてしまった。至らないことは充分承知している。けれど縁があってこうして家族になって、彼女を亡くした時も彼らがいたから乗り切れたと言うのに。 彼女の分まで、幸せに育って欲しいと願っていたのに。 「……オッサン」 黙って聞いていた少年が、不意に口を開いた。 声の方を見上げると、いきなり頬に衝撃が走った。目の前の天使は、怖い顔をして自分を見ている。 彼に殴られたのだと、一瞬後に理解した。 「オッサン、まだ小さい子供がいるならなおさら、こんな所で死んでる場合じゃねぇだろ」 反射的に打たれた頬を抑え、呆然と少年を見上げた。 「目ェ覚ませよ。奥さん死んじまったんなら、あんたしか親はいないんだろ?そのあんたが死んだら、子供はどうすんだよ?」 彼は怒ったような、それでいて少し呆れたように、ゆっくりとそう言った。 「息子だか娘だか知らないけど、本当の父親じゃないから出て行くなんて、そんなバカなこと言うなって、こうやって殴って怒ってやれよ」 少年はそう言って、口を閉ざした。 急に、辺りがしんと静まったように感じた。 どこからか、小さく聞こえてくる賛美歌。 少しの間、それだけが耳に入ってくるすべてだった。 雪はそっと静かに、天上から舞い続けている。 「……殴って悪かったよ」 不意にその沈黙を破って、少年はバツが悪そうに小さく謝った。 「……オッサンにはオッサンの事情ってのがあるもんな。知りもしないのに、勝手な事言って悪かったよ」 「いや…、良いんだ。そうじゃないんだよ」 ――そうじゃない。そうじゃないんだ。 一郎は口の中で何回も繰り返した。 確かに今の一発で、すっきりと目が覚めた気がする。 自分が死んだら、確かに残った子供達は、特にまだ幼い勝と直子はどうなる。これで家族を守るなんて、聞いて呆れる。 ――小次郎だって、よく話合えば私の気持ちもきっと分かってくれるだろう。 あの子はそういう子だ。 ややあって、少年は口を開いた。 「……俺の家もさ、オッサン家ほどじゃないけど結構ゴタゴタしてるぜ。跡継ぎの息子がサッカーなんぞにうつつを抜かして家を飛び出しちまって、今は勘当寸前だし」 彼はそこで言葉を止め、自嘲気味に笑った。 それは目の前の少年自身の事なのだろうか。黙って言葉の続きを待っていると彼は、 「どこの家でもそれなりに大変なんじゃないの?」 ――こんな若造が偉そうな事言えないけどさ。 苦笑して、そう言った。 その瞳から、彼が置かれているいろいろな苦難が垣間見えた。 少年の飾りのない言葉は、誰のものよりも自分の心の中に深く浸透した気がした。 舞い落ちる雪は天使の羽で、彼はやはり天使なのではないかと、場違いにも思った。 「……ありがとう」 そう言って一郎が立ちあがると、彼もつられて視線を上に上げた。 「助けてくれてありがとう。さて、子供たちが待ってるから早く帰らないと」 うん、と彼は笑ってうなづいた。まだしゃがんでこちらを見上げている少年に手を差し伸べて、立ち上がらせる。 彼の手に触れて、自分の体がすっかり冷え切っていたことによくやく気が付いた。 「おかげで目が覚めたよ。寒いのに、こんなバカなおじさんに付き合わせて悪かったね」 「いや、俺はロードワークの最中だったから、寒くはないけど…」 その目は、まだ少し心配そうだった。 「オッサン、ちゃんと帰れるか?」 大丈夫だよ、と笑ってその手を離した。 「君ももう行きなさい。風邪を引くよ。本当にありがとう」 そう言って、頭を下げた。 「んな事いいから、早く帰れよ。せっかくクリスマスなんだから」 彼は微笑んで背を向けて、そのまま走り去って行く。 「ちゃんと帰れよ。気を付けて。じゃあな」 その後姿に手を振りながら、一郎は遠く教会から聞こえる賛美歌に耳を澄ませていた。 彼の姿が消え去ってしまうと、今の出来事が何か現実味のないことのように思えてくる。落ちてきた雪が手に触れて、とても冷たく感じた。 名前くらい聞いておけば良かった。 ――天使。 自分は今まで、神様なんて信じたこともないけれど。 ――それでもいいか。 なんといっても、今日はクリスマスなのだから。ニューヨークの34丁目では奇跡が起きたと言うし。 昔見た古い映画を思い出しながら、先ほどまでの暗い気分が一気に晴れたのを、我ながらどこか可笑しく感じながら家路へと足を進めた。 子供たちは、何があっても自分が守っていかなければ。 ――美津子さん、あの世から見守っていてください。たまには今の天使のように、私を叱ってくれるといいけれど。 空からは、白い雪がひらひらと舞い降り続けている。体はすっかり冷え切ってしまった。きっと自分は風邪を引いてしまうことだろう。 そうしたら、子供たちに世話をしてもらおう。仕方のない親父だと呆れられるくらいに、面倒をかけてやろう。 そうして、時間をかけて家族の絆を作り上げていこう。 焦らないで、ゆっくりと。 |
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