Baby please  <4>




その一件以来、家に流れるほのぼのモード。
そのまま、日々はそれなりに過ぎていく。小次郎にとっては『それなりに』では済まされない、苦行の時間だったが。
それでも反町の家に避難しなかっただけ立派だと言うべきか。修行僧並みの自制心を強いられながら、それでも彼と過ごす時間の方を選んだのだった。

そして、いよいよ17日。
ごちそうを作るから早く帰って来いよと、若島津はこれまた綺麗な笑顔付きでそう言って、朝から小次郎を赤面させた。
今更誕生日うんぬんで喜ぶ年でもなかったが、彼が楽しそうにそう言って見送りに出てくれたのに幸せを感じながら、少し浮かれた気分で帰宅した。

門をくぐり、玄関の扉を開けたがまたまた人の気配がない。
買い物か?と思いながらリビングの扉を開け、小次郎はそこでうおぅ、と仰け反って驚いた。
そこには大きな眠り姫がいた。
若島津がソファで眠り込んでいたのだ。
開け放したキッチンに目を移すと、買い物袋やら、何かの下ごしらえやらがたくさんテーブルに置かれていて、彼が言葉通り朝から料理に専念しようとはりきっていたのが伺える。
もしや、また具合が悪くなって倒れたのかと一瞬不安が過ったが、顔色を見る限り、どうやら途中で一休みしている間にうたた寝をしているだけのようだ。
小次郎はほっと息を付いた。
「ん……」
その時、彼が小さく身じろぎをした。
漏れた吐息にどきりとする。
目を覚ますのかと思いきや、彼は姿勢を少し変えてまた眠りについたようだった。
濃く影を落とす長いまつげ。夏でも日に焼けていない白い肌。浅く開いた唇からこぼれる静かな寝息。
その唇からふっとまた吐息がもれ、小次郎の心拍数は更に上昇した。

――ヤバイ。
瞬時に頭の中で警報がうるさく鳴り始める。なのに体の末端は言うことを聞かず、若島津の寝顔を覗き込んだまま動けない。
頭の中が真っ白だ。何も考えられない。
フラフラと引き寄せられるように顔を近づける。
あと20センチ…15センチ…
頭の中の冷静な部分がカウントダウンをしていて、我ながらもうめちゃくちゃだ。自分でも手が付けられない。
触れた唇は思っていたよりも暖かかった。
彼のことだからきっと、もう少し冷たいようなイメージがあったのだ。
そっと顔を離し、彼の閉じたまつげを眺める。静かな吐息は先ほどまで全く変化なく次がれている。

そのまま静かにソファを離れ、小次郎はそっとリビングを出た。
背中でパタンとドアが閉まる。
その音が廊下に響いた瞬間、急に体の力が抜け、小次郎はその場に座りこんでしまった。
――つ・ついにやってしまった。
今更我に返ってももう遅い。
先ほど彼に触れた唇に、無意識に右手を伸ばした。
触れると彼の唇の感触まで蘇ってきそうで、小次郎は慌てて立ち上がって歩き始めた。
今更ながら心臓がばくばくとうるさく音を立てていて、家中に響き渡っているのではないかという錯覚に陥る。
ついにやってしまった。ここまでずっと我慢してきたというのに。
このまま乗り切れると思っていたのに、こんなにも突然切れてしまうとは予想外。
――ヤバイ。少し頭を冷やそう。
彼はそのまま風呂場に向かい、冷たいシャワーを浴びる。
頭から水をかぶると、少し冷静さを取り戻したかのように思えた。
やってしまったものは仕方ない。ここまで我慢をしてきたが、あいつらが帰ってくるまでいよいよ反町の家に避難か。
願わくば。
彼がまた変に勘ぐったりしないよう。
そのためにも上手い言い訳を考えねば。
――今日夕飯も食わずに、反町の家に行くと言ったら怒るだろうか。
怒るより、きっとがっかりするのだろうな。
そう考えると、胸が痛む気がした。
朝からせっかく彼が張り切って、自分のために料理をしてくれたのに。
彼の笑顔を曇らせたくはなかった。
冷たいシャワーを浴びていると、幾分理性のストックが戻ってきたように感じた。
よし、何とかこのまま夕飯が終わるまでは乗り切れるだろう。
根拠のない自信であったが、今の小次郎にはそれにすがるしか道はなかった。

頭を拭きながら洗面所を出ると、若島津が目を覚ました所だった。
先ほど自分がしでかした事の追い目がある分、彼の姿を直視できなかったが、若島津は気付いていないようだった。
「あ、ごめん、帰ってたのか?お帰り」
寝起きの少しかすれた声が微妙に色っぽい。
根拠のない自信がもうすでに揺らぐ。
「ごめんな、今ご飯の準備するから」
「いや、いいよ、ゆっくりで」
何とか自然に振る舞わなければ。
そう自分に言い聞かせる。


その時、遠くで雷鳴を聞いた気がした。
「あ?雷?」
日向が呟くと、若島津もそれに気付いて窓の外に視線を向ける。
夏の夕方にしては、外は普段より暗い。昼間は快晴だったが、どうやら一雨降るのだろう。
そう思っているうちに、空はみるみるとどんより曇りだし、辺りはすっかり薄暗くなった。
大粒の雨がぽつり、とどこかに当たった音がして、堰をきったように突然大雨が降りだした。夏特有の、まるでスコールのような雨。
若島津は無言でキッチンへ向かって、電気を付けた。
料理の続きに手を付けるのだろう、冷蔵庫の中を覗きこんでいる。
しかし、なにやら様子がおかしい。
日向は思わず彼について一緒にキッチンに入った。
先ほどから、なぜか彼が一言も声を発していないのに違和感を覚える。
――まさか、さっきキスしたのに気付いて……。
恐ろしい考えに思い至って、小次郎は顔から血の気が引いていく気がした。
いやしかし、と、小次郎はそこで思い留まった。
それにしては何やら違う気がする。気を取り直して、若島津の様子をもう一度伺った。

その時、遠くで轟いていたと思っていた雷がいきなり閃光を発し、それに次いで大きな音が辺りに鳴り響く。
「うわぁ!」
そのすぐ後に鳴り響いた雷鳴にかぶって誰かの悲鳴を聞いたと思ったら、いきなり自分の体に暖かいものがぶつかってきた。
まず感じたのは、自分と同じシャンプーの匂い。
次に自分のものではない柔らかい髪が頬に当たって、若島津に抱きつかれたのだということが分かり、小次郎はパニックに陥った。
「わ…若島津さん……?」
自分でも声が上擦っているのが分かる。
「ご、ごめん、小次郎。・・・俺な、実は雷苦手なんだ」
子供の頃、試合中グラウンドに雷落ちて・・・・・・
と、いう彼の声は、自分の心臓の音がうるさくてまるでハッキリしない。水の中で聞いているようだった。
Tシャツの背中をぎゅっと掴まれて、小次郎は自分の中で何かが音を立ててぶち切れたのを感じた。
腕の中の体を抱きしめる。
しかし、言うべき言葉が出てこない。
また一つ外から稲光が差し込んだ。
「若島津さん…っ」
自分は一体何を言うつもりだろう。
「俺…っ、あんたが……」



ピンポーン。

その時。
自分の声を遮るものが、玄関のチャイムだと言うことに、すぐには気付けななかった。
音に気付いて、若島津が顔を上げたのが分かった。
一瞬ひどく間の抜けた沈黙が流れ、そのあと、誰かが玄関から叫ぶ声がキッチンに響いてきた。
「健ちゃ〜ん!」
「小次郎?いないの?」
声の主には、これ以上ないほど心当たりがある。
正気に戻ったのは若島津のほうが早かった。
思わず緩めた腕の間から抜け出して、玄関に向かう後ろ姿が視界に入ってくる。小次郎は事の成り行きにすっかり置いて行かれて、上げた両腕もそのままに、ただキッチンで呆然とたたずんでいるしかなかった。
玄関先で驚いた若島津の声に続き、何人かの賑やかな声が響いてくる。
若島津が小走りに洗面所に向かい、タオルを数枚持ってばたばたと玄関に戻って行くのが見えた。
そして少しの後、キッチンに顔をしたのは今ここにいるはずのない兄弟たちだった。
「ただいま。小次郎?」
まだ話に付いて行けない。
どうして彼らが今ここにいるのか?そして、図ったかのようなこのタイミング。
一度に考える事が多すぎて、うまく頭が回らない。サッカーで培った瞬間判断能力も、この場では全く役に立たないらしい。
「こう兄ちゃん?」
直子に怪訝そうに顔を見上げられる。それでようやくはっと我に返った。
「お…、おまえら、まだ帰る日じゃねぇだろ?」
「そうなんだけどね。父さんの仕事が早く終わったから、一緒に帰ってきたんだ」
その父は日本に着いたその足で、先に画廊の方に挨拶に行くため途中で別れたとのこと。若島津がそう補足した。
「愛すべき弟の18歳の誕生日だしさ、二人で過ごすのも寂しいかなって、帰って来てあげたんだよ」
嬉しいでしょ?
にっこりと笑った兄の笑顔に、殺意を抱いたのはこれで何度目だろうか。
足元がおぼつかないのは、さっきからぐるぐると襲っている眩暈のせいか。
こうしている間に、雷はどこか遠くに去っていったらしい。気がつけば雨もすっかり止んでいる。
「あれ?小次郎?」
後ろから若島津の声は聞こえたが、振り返る元気もなく憔悴したようにキッチンを後にした。
「健ちゃん、お土産!」
「僕もっ!僕からもこれ、健ちゃんにお土産」
「お、ありがとう」
キッチンでは再会を喜んだ4人の賑やかな声が続いている。
「若島津さん、留守中無事だった?妙なもの襲ってこなかった?」
「は?」

畜生。聞こえてんぞ。
畜生。お前らタイミング悪過ぎなんだよ!
―――畜生ッ!せっかくのチャンスを!!


思いっきりブルーな気分で誕生日を迎え、そうして彼は一つ大人になった。





end / 2001.12.4
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