Baby please  <4>




暑い。
本来夏は暑いものだが、それにしても暑い。
本日の練習も無事終了。昼の休憩を挟んで一日練習漬けで体内の水分はすべて出て行ったと思っていたが、歩いていると額に汗が滲んでくる。小次郎は肩にかけたスポーツバックからタオルを取り出し、無造作にそれを拭った。
そして、街路樹から鳴り響く蝉の声を聞きながら小さくため息をつく。
若島津との二人きりの生活も、やっと5日が過ぎた。
余計な事を考えないよう普段よりも練習量を増やして、家に帰ると風呂に入って食事をして即爆睡という、涙ぐましい努力で乗り切った。墓参りこそ時期を今年はずらしたが、盆には若島津が供えた菓子を横目に仏壇の母に手を合わせ、どうか我が息子が道を踏み外さないよう助けてくれ、と線香を上げた。
こんな息子を母がどう思うかは、考える事を敢えて黙殺したが。

――今日はちっと体力余ってんだよな。
本当はもっと走り回るつもりでいたのだが、試合が近いためにコンディション調整と言う名目で居残り練習禁止令が監督から下り、しぶしぶ帰宅の途についたのだ。
「ただいま」
意を決して扉を開ける。
だが、返事はない。
訝しみながら居間に入っていくと、庭に目的の人物を見付けた。どうやら洗濯物を取り込んでいるらしい。
もうじき夕方と言っても差し支えない時間帯だったが、日差しは一向に弱まる様子もない。きらきらと明るい光の中、若島津はまるで洗剤のCMのように白いシーツを両腕に抱えていた。室内とのコントラストがまぶしくて、眩暈がしそうだ。
手のかかる奴らがやっと出かけて行って、家事もぐっと減るのだろうから少しくらい休んでもバチは当たらないのに。
若島津は実に楽しそうに、洗濯物を次々と竿から取り込んでいく。
そう言えば前に彼が、洗濯が一番楽しいと言っていたのを聞いたことがある。
――洗濯って一番やった甲斐があるって感じがして好きなんだよな。直ちゃんとか勝の服なんてさ、やっぱり汚れるだろ。染みが着いちゃうと、洗濯機じゃ落ちないんだよ。それを手洗いで落とした時のあの感動は癖になるね。
などと言って、思わず見とれてしまいそうな笑顔を披露してくれた。

眩しさに目を細めて庭を見やっていると、不意に若島津がこちらに気付いた。取り込んだ洗濯物を手に、部屋の中に入ってくる。
「小次郎、帰ってたのか。お帰り。お疲れさん」
「…ただいま」
ここで俺が赤くなる必要はないっつの!
外から入ってきたばかりの若島津には、日向の顔色まではよく判別できないのだけが幸いだ。
「腹減っただろ?すぐ夕メシの準備するからな」
すっきりときれいな笑顔を向けられ、小次郎がまたうろたえたところに突然チャイムが鳴り響いた。
慌てて玄関に向かった若島津とのやりとりから察するに、どうやら回覧板を持って隣の奥さんがやってきたらしい。
隣の奥さん。年の頃は50代前後か。どうやら若島津をいたく気に入っているらしく、用事を作ってはこうして玄関先で話し込んで行く。
――進藤さんの奥さんもな、いろいろと気を使ってくれて良くしてくれるんだけど、ちょっと話が長くってな。
前に苦笑しながら、若島津が言っていたのを知っている。
あの奥さんが来たらなかなか帰らないだろう。夕飯の支度はまだ先と言うことか。腹も減ったが、まずはシャワーでも浴びてこよう。


15分後。
小次郎が浴室から出てくると、まだ件の奥様は玄関先にいらした。
いつもすみません、とかなんとか、若島津の声が聞こえる。重ねて、あら、いいのよ〜と言う大きな声。
その後も話は途切れる様子もなく、はぁ、とかそうですね、とか、ちょっと困った感じの若島津の声が聞こえてくる。
いい加減、本当に腹も減った。そろそろそ新藤さんにお引取り願うべく、玄関まで彼を救出しに行った方が良さそうだ。
髪から落ちてくる雫をタオルで荒っぽく拭きながら、玄関先に視線を巡らせる。
はて、かと言って、どうしたものやら。このパターンでのいつもの対抗法、勝と直子の「健ちゃん、お腹減った〜、ご飯作って〜」コールは自分には使えまい。いや、でもやはりそれが一番効果があるだろうか。しかし自分がそれをやった場合、確実に自己嫌悪に陥ることは目に見えている。大体、本人を目の前に、健ちゃんなんて呼べるか。(そういう問題ではない)
逡巡している間にも、玄関からは陽気な女性の笑い声が続いている。
仕方ない、取りあえず行ってみるか。

玄関に向かった小次郎の視界に入ってきたのは、パワフルに話しているおばさまと、それにぎこちない笑顔で対応する若島津。
ふいに、その彼の様子が気にかかった。
何だかいつもより、顔色が良くないような。
「おい、若島津さん…あんた」
「え?」
突然リビングから現れた小次郎に、件の奥様は少し驚いたように視線を巡らせた。つられて若島津も振り返ろうとしたその時、ぐらりと彼の体が傾いだ。
「!おい」
「あらあら!」
目の前の体が倒れこむ瞬間、小次郎は持ち前の反射神経を駆使してとっさに若島津の体を支えた。
「若島津さん?!」
「……ごめん、小次郎。ありがと」
「大丈夫かよ?あんた具合悪いの?」
「大丈夫。ちょっとくらっとしただけ……」
そうは言うが、腕の中の彼の顔色はやはり悪い。うっすら額に冷や汗も浮かんでいる。
「大丈夫?若島津くん。気分悪いの?あらあら、ごめんなさいねぇ、長話しちゃって」
お医者さん呼びましょうか?と言うのを慌てて断り、若島津は小次郎に支えられながらも何とか姿勢を直した。そのまま件の奥さまに向き直り、すいません、と淡い笑顔を作る。
――新藤さんが足繁く通うわけだよ。
その笑顔に、太郎曰く『マダムキラー』な、普段家ではあまり見せない一面を垣間見て、小次郎はどことなく面白くない気分に陥った。
「ほんとに大丈夫?何か困ったことあったら、いつでもおばさんちに来てちょうだいね」
お大事にね、そう言い残し、件の奥様はようやくお帰りになった。
「ごめん、小次郎。夕飯作らなきゃいけないのに」
「んなのいいから寝てろよ、歩けるか?」
大丈夫、と言いながらも足取りはおぼつかない。
若島津を支えたまま彼の部屋まで連れて行き、ドアを開けた。
小次郎はめったに彼の部屋に入る事はない。入る機会も、入るための適当な言い訳も見当たらないのだ。他の連中はよく彼の部屋に行って、楽しそうに話なんぞをしているというのに。
若島津の部屋はいかにも彼らしく、きちんと片付けられていた。
窓が開け放たれていたが、夕方とはいえ室内の温度はかなり高い。クーラーがあまり好きでない彼の事を考えて一瞬躊躇したが、さすがにこの暑さの中では寝ていられないだろう。
クーラーのリモコンを探すと、本棚の上に直子のものと思しき、くたびれた小さなクマのぬいぐるみが目に入り、そこだけが少し場違いなファンシーさを醸し出している。
クーラーのスイッチを入れ、小次郎は彼をベットに促した。
「ありがと。ごめんな、小次郎」
「いいから寝ろよ」
少し眉根を寄せた切なそうな表情で礼を言われて、小次郎の心拍は少し亢進した。
――いかん。こんな時に俺は何を場違いにときめいておるのだ。
「ここにリモコン置いておくから、寒くなったら止めろよ」
少々乱暴な口調と共に枕元にクーラーのリモコンを置くと、若島津は苦笑して頷いたようだった。
そして彼はそのまま目を閉じた。
よりにもよって、こんな時に彼が体調を崩すなんて、もしかするとせっかくのチャンスだったかもしれないのに。
――いや、違うぞ。こんな人のいない時に彼がこんなこんな状態で、自分は毎日練習があって看病もままならないというのに大丈夫なのだろか。
あぁ、でも横になると少しは顔色も良くなったようだ。このまま寝かせて様子を見ていて良さそうだ。
若島津の顔を見下ろして、小次郎はほっと息をつき、そっと部屋を出ていった。



一人での夕食を終え、日がすっかり暮れてしまっても若島津が起きてくる気配はなかった。
一度起こして、何か食べさせるべきだろうか。それとも今日は、朝まで寝かせておいた方がいいか。
せめて彼が夜中に起きた時、何か食えるものがあるよう、粥でも作っておこう。
小次郎はキッチンに向かい、米を研いで鍋に火をかけた。
その時突然、電話のベルが鳴り響いた。
誰だ、こんな夜中に。
真夜中にさしかかるこの時間帯、電話が入るような用件がそう言えば一つ。
受話器を取ると案の定、聞きなれた声が耳に入ってきた。
「あれ、小次郎?僕だけど、若島津さんは?」
電話口で、彼はいかにも意外そうに開口一番そう切りだした。
「今日具合悪いらしくて、もう寝てる」
「えっ?小次郎、何したのっ?!」
「・・っ!何ってなんだよっ?!俺は何もしてねぇ!」
勢いでそう叫んでから、小次郎ははっと我に返った。
いかんいかん、ここでムキになったら、あることないこと変に勘ぐられるだけだ。
一呼吸置いて、夏バテみたいだぜと、付け足す。
「ふ〜ん、大丈夫かな?若島津さん、夏は苦手って言ってたからね」
「まぁ、大丈夫だろ?結構顔色も良くなってきたぜ」
そう言うと、少しほっとしたような声が聞こえてきた。
「ならいいけど…。小次郎、帰るまで若島津さんの事よろしくね」
ハイハイ、オニイサマ。だからこうして粥作ってんじゃねぇかよ。
ぞんざいに返事をすると、でも、と太郎は唐突にやけに真剣な声を出した。
「でも小次郎、兄として一つ言っとくけど。若島津さんが弱ってるのをいいことに、畜生道に走らないようにね」
――は?
「同意の上なら僕は何も言わないけどさ。いい?もしも若島津さんが家にいられなくなるようなことしたら、反対に君を追い出すからね」
――た、太郎、てめぇ、ふざけるな!
動揺ながら喉元まで出かかった言葉は、だが太郎の声にかき消された。
「取りあえず僕たち、無事にこっちに着いたから。まだ空港だけど、これから父さんのところにタクシーで向かうから、若島津さん起きたらそう伝えておいて」
言いたいことだけ言われて反論する間もなく、その電話は切れてしまった。
受話器の向こうではただツーツーと、無機質な機械音が鳴り響いている。
こうして切れた電話を耳に当てている図が我ながらいかにも間抜けに思えて、小次郎は受話器をやや乱暴に電話機に戻した。

「太郎から?」
その時、小次郎は心臓を口から吐き出すかと思うほど驚いた。
振り向くと、まだ少し眠そうな顔をして立っている若島津がいた。
パジャマの襟元から覗く日に焼けない細い首と、鎖骨がキッチンから漏れる光に白く浮かび上がっている。
「小次郎?」
返事をしない小次郎に、訝かしむように彼はもう一度繰り返した。
「・・・あ、あぁ。あいつら無事に向こう着いたってよ。これから父さんの所にタクシーで向かうって」
「そうか、良かった」
若島津がほっとしたように微笑んだ。
それがまた綺麗で。
あぁ、目の毒だ。
「・・・小次郎、何か焦げ臭いんだけど…」
「あっ、やべっ」
慌ててキッチンに戻ると、鍋が沸騰して吹きこぼれている。すぐに火を消したが、どうやら鍋の中身は半分以上食べられる代物ではなくなっていた。
「何作ってたんだ?腹減ったのか?」
若島津が手元を覗きこもうと、小次郎に一歩近づく。
うわぁ、無防備に近寄らないでくれ!
内心の必死に叫びに気付かず、彼は鍋を覗きこんで驚いたように顔を上げた。
「え?もしかして、俺に作ってくれてるのか?」
だから至近距離から顔覗きこむなって。
内心の動揺を悟られないよう、黙って頷くしかない。
すると、彼はまた少し驚いたように目を少し見開いた。
「あんた、朝から何にも食ってないだろ?そろそろいいかげん起きるかと思って」
「・・・・・・ありがとう」
小次郎が早口でそうまくしたてると、彼ははにかんだように微笑んで礼を言った。
「それじゃ、早速いただこうかな。見たら俄然腹が減った気がする」
「じゃあ、作り直す」
「え、いいよ、もったいない。少しくらい焦げてても食えるだろ。それに」
せっかく小次郎がお俺に作ってくれたんだし。
そう言って、本当に嬉しそうにまたにっこりする。
今の自分はきっと赤くなっているだろう。
畜生。また可愛いとか思われてしまうではないか。
若島津は食器棚から茶碗2つ出し、小次郎の分まで粥を盛った。一人分にしては分量が多かったようだ。夕飯もきっちり食べたにもかかわらず、余っても仕方なく、小次郎は何も言わずにテーブルに座って箸を取った。
しかし、キッチンで向かい合わせに座ったこの雰囲気が何とも気恥ずかしい。たまらず小次郎はそばにあるリモコンを取って、キッチンに置いてあるTVを付けた。
画面は夜のニュースを映している。
世の中ほんと物騒だよな、とか、太郎たち、今頃先生の所に着いたかな?とか、若島津の言葉に緊張しながら相槌を打ちつつ黙々と食べる。多少焦げた味がしたような気もしたが、今の小次郎にはそれを味わう余裕はなかった。
食べ終わると、若島津が食器を持って席を立った。そのまま流し台に向かい、水道の蛇口をひねる。
「いいからあんた寝ろよ。俺が片付けしとくから」
「いいよ。もういっぱい寝たし。これくらい動かないと体がなまる」
お前の茶碗もよこせ、そう言って彼は、空になった食器をテーブルから取り上げた。
まぁ顔色も大分良くなったし、取りあえず少しでも食うもの食ったし、これで朝まで休んだらもう大丈夫だろう。
ほっとして、食器を洗う後ろ姿を眺める。
TVはスポーツニュースが始まっており、ちょうどJリーグの試合の結果を伝え始めた。

「・・・・・・一人暮らしってさ」
手を休めずに、不意にポツンと若島津は呟いた。視線をTVから彼へと戻す。
「具合悪い時に一人暮らしって、ほんとに辛いもんなんだよな。誰もメシ作ってくんないし」
そう言って若島津は苦笑した。
「・・・・・・太郎は違うって言うけど、俺、もしかしてまだお前に嫌われてるのか思ってたんだ」
それを聞いて、小次郎は思わず彼の方へ体ごと振り返った。
太郎から以前、彼がそう思っていると聞いたことはあったが、実際に彼の口から聞くと咄嗟に返事が出来ない。
若島津も返事を期待していたわけではないようで、すぐにまた口を開いた。
「それなのにお前、今回俺と2人で留守番だろ?おまけに俺は情けないことにダウンしちまったし、お前に迷惑もかけて・・・」
でも、と、少しの間を置いて、彼は続ける。
「お前がこうして夜中にお粥まで作ってくれて、ほんとに嬉しかった。小次郎がいてくれて良かったよ」
そして、手は止めないまま彼は振り向いた。
「ありがとな」
にっこりと。
花がほころぶようなとかいう表現は、こういうのを言うのだろうか。
夜になって、幾分涼しくなった風がカーテンを揺らした。
しかし、体温は一気に上昇した気がする。
「・・・・・・嫌ってなんかねぇよ」
小次郎は小さく呟いた。
果たして彼の耳に届いたかどうか。
え?と、若島津は手を休めずに振り返った。
「嫌ってなんかねぇよ。・・・・・・俺がもしそういう態度取ってたんなら悪かった。ごめん」
若島津は水道を出しっぱなしでこちらを振り向いて、ポカンとした表情をした。
あぁ、こういう顔をしていると、本当にあのゴールマウスに立っていた若島津選手と同一人物とは思えない。
小次郎は内心苦笑した。
あの頃の彼はいつでもギリギリのところに立っているように思えて、見ているこちらも時々苦しかった。それは多分、彼が怪我や古傷と戦っていて、彼自身に余裕がなかったせいなんだろう。
あの頃の彼も本当に好きだったけれど、今こうして目の前で無防備な顔を見せる彼にも、どうして自分はこうも惹かれるのか。
急に胸が苦しくなる。せつないという気持ちに似ているのかもしれない。今までこんな気持ちになった事がなくて、上手く言い表せないけれど。
「・・・・・・俺は好きだよ、あんたが。もうずっと前から」
小次郎は何も考えられずに、ぽろっと、本当にぽろっと胸を突いて出てきた言葉をそのまま口に乗せた。
言ってしまってから、思いっきり焦る。
しかし一度出してしまった言葉は、もう2度と取り返せない。
隣の部屋で風鈴が、ちりんと小さく音を立てた。
若島津の反応を、息をするのも忘れて待っていた。
ひどく長い時間のように感じられる。

すると彼は、少しはにかんだように笑って
「ありがとう。俺も小次郎には感謝してる」
と、言った。
そしてそのまま流し台に向き直り、何事もなかったかのように鍋を洗う作業に取り掛かった。
――え?
もしかして、今の通じなかった?
小次郎は唖然として思わず椅子にへたり込んだ。
鈍い!鈍すぎる!
肩すかしを食った気分で、どっと椅子にもたれる。

――まぁ、しかし。
と、ここで小次郎は不意に我に返った。
嫌われてると思っていた(らしい)男に、しかもこんな年下のガキに突然好きだと言われても、そんな風な特別な感情がこめられていると取るほうがおかしいか。
・・・・・・そうだよな。
嫌われてるという誤解が解けただけでもよしとしよう。
心なしか幸せそうな若島津を見ながら、小次郎は心底ほっとしたような、それでいて残念なような、複雑な心境で苦笑した。

仕方ない。笑うしかあるまい。




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