Baby please <3> |
「あ……、やっちまった…」 目覚まし時計で目が覚めて、小次郎は自分の身に起こった事態を悟った。 開口一番そう呟き、頭を抱える。 朝っぱらからまた洗濯物を出してしまった。しかもこれは自分で洗濯せねばならない。 何の話かと言えば、朝の男の生理現象。 いきなり赤裸々な描写で申し訳ないが、いかんともし難いのだ。 若いんだから仕方ないと言えばそれまでだけれど、しかし最近彼の夢によく出てくる人物は、巨乳のおねーちゃんではなく、彼と同性の、しかも現在一緒に暮している人物だったりする。 いつも穏やかな瞳の色をして、きれいに微笑む。 うっかり目が合ったりすると、思わず赤面するほどに。 夢に出てきた人物は、ずっと自分と同じサッカーをやっていた。 初めて彼を見たのは、自分が小学生の頃だ。 高校選手権でプレーする彼を、TVの前でずっと追っていた。 その後、彼がプロに入ってからも長年ずっと憧れ続けて、いつか自分のゴールを彼に守ってもらうことが夢だった。 しかし憧れの人物は途中で、その舞台から身を引いてしまった。 肩の故障が原因で。 そのニュースが入ってきた時の事は、今でも忘れられない。 ショックで目の前が真っ暗になるとはこういう事か、と。 その晩、彼は風呂に入りながら泣いた。誰にも気付かれないよう声を殺して。 それ以後、サッカー雑誌やら何やら片っ端から探して、彼の情報を追っていたが消息はさっぱり掴めず、いい加減諦めかけた頃、目の前に現れたのだ。 最初は夢でも見ているのかと思った。あまりにも彼の事をずっと考えていたので、夢になって現れたのかと。 しかし彼は現実にそこにいた。 ある日突然自分の家の玄関で、親父の後ろに立っていた。 現役選手だった頃よりも、大分痩せてほっそりしていたけれど、確かにあの若島津だった。 父とは、ずいぶんと前からの知り合いのようだった。 そういう事は早く言ってくれ、親父!俺がサッカーしてるくらい知ってんだろ?!もっと前から会わせてくれてたっていいじゃねぇか。 喉元まで出かかった言葉を、かろうじて彼は飲み込んだ。 その時、若島津の視線が自分に向けられたのを感じたので。 深く澄んだ、印象的な瞳。 その時から自分の中で、彼は憧れの対象から少し形を変えたのかもしれない。 軽くドアをノックする音が2回。 「小次郎?起きたか?早くしないと遅れるぞ」 まだぼんやりと夢の余韻に浸っていた彼は、慌てて返事を返した。 「おっ、起きてる!今行く!」 この状態の所に入って来られたら非常にマズイ。 しかも、すいません。俺はアナタをオカズにしていました。 返事が聞こえたのか、若島津は部屋に入ろうとはせずに、そのまま階段を降りて行ったようだった。 はぁ〜と、ここで一つ溜息が出る。 なんたって、健全な男子高校生。好きな相手と一つ屋根の下暮してるっつーのは、思いのほか辛い環境なのだ。 洗濯物は学校から帰ってきたら始末するとして、丸めて押入れに突っ込む。慌てて小次郎は顔を洗って着替えを済ませ、若島津の待つ階下へ降りて行った。 「朝メシとっくに出来てるぞ。早く食えよ」 まだ早朝とも言える時間。彼だってきっと眠いだろうに。それでもそんな顔ひとつ見せず、毎日朝からキレイに笑う。 彼が来る前は、一人で朝食を食べて出て行く事がほとんどだった。 そんな事には慣れていたので、朝練の時間に付き合うことはないと自分からも彼に言ったのだが、毎朝起きるともうすでに食事の用意がされている。 全くウソみたいだ。 あの若島津がうちにいて、こんな風に自分に朝メシを作ってくれるなんて。 若島津がこの家に来て1年半。見なれたエプロン姿。 しかし、未だに小次郎はそんな事を思う。けれど、それを当たり前の光景として感じている自分もいる。 ずっとこうして一緒に暮していたい。でもその反面、そのうち俺がブチ切れそうで、あまり顔を合わせたくない。 最近の彼は、そんなアンビバレンスな感情の中で揺れ動いている。 「おはよ〜す、日向、なんだよシケた面して!」 学校に向けて歩いていると、いきなり後ろからおもいっきりどつかれた。 身長185cm、鍛えた体に強面の顔、鋭い眼光。先輩をも時々ビビらせるその彼に、こんな事をするのは一人しかいない。 「ってぇな!反町このヤロー!」 お前後ろから来てんのに、俺の顔なんか見えねぇだろ! 「ありゃ、日向くん、ご機嫌ナナメ?」 殴り返した拳を器用に避けて、反町は笑いながらそう言った。朝からテンション高いやつだ。 この反町は中学の頃からの腐れ縁で、サッカー仲間兼クラスメート。 軽いノリでいつもおちゃらけてるかと思えば、結構口は堅い。 場の雰囲気の読めるヤツで、必要以上に踏み込んで来ようとはせず意外にも付き合いやすい。気が付けば、いつもこいつとはつるんでいるかもしれない。 しかし今日は、朝から俺は自己嫌悪に陥っているのだ。お前のそのテンションに合わせられる余裕はない。 そのまま反町を置いて足を進めた。 「何?マジで機嫌悪ぃの?朝から若島津さんと顔合わせられる環境にいながら、この贅沢モンが」 反町はうちにいる彼の事を知っている。 家に遊びに来て初めて彼に合わせた時、こいつは後で感心したように呟いた。 ――あの若島津、だよな?なんか結構雰囲気違くねぇ?試合で遠目で見てるだけじゃわかんねぇもんだな。なんか…、あんな整った顔してたっけ? それを聞いて思った。 そうか、やっぱり綺麗だと思ったのは自分だけじゃないのか。 初めて間近で見た若島津健は、TVや試合観戦などで見た彼とは若干違っていた。尤も、彼が試合に出なくなってからもう3年が経とうとしていたので、少しくらい変わっていても当たり前だろうが。 挨拶をする彼を横目で盗み見ながら、こんなに綺麗な男だっただろうかと、自分の記憶を探った。 だが記憶の中の若島津選手はいつも、激しさを前面に出してゴールマウスに立っている姿だ。 サッカーを失った彼はこんなにも頼りなさげで、ともするとそばに誰かがついていないといけないような、危うい雰囲気の漂う男なのだろうか。 彼にとってのサッカーが、どれほどの大きさを持っていたのかが垣間見えるようで、それを失った痛みを思って日向は、苦しさを伴ってせつなくなってしまった。 「そうか、わかった、日向。明日からユースの遠征だもんな。若島津さんと離れて暮らさないといけないのが寂しんだろ?」 「……何朝からバカなこと言ってんだよ」 呆れたような口調を装ったが、内心ちょっとドキリとした。 ったく、こいつはどうしてこうも勘が鋭いのだろうか。 「なんだよ、図星だろ?あ〜あ、いいよな〜日向は。俺なんてこれでしばらくうるさいババアや姉ちゃんから離れられると思うとウキウキしてくるぜ。」 反町は勝手に話を進めている。 言っておくが、寂しいわけじゃない。と、思う。 最近の俺はちょっとマズイんだ。少しの間とはいえ離れるのは、自分を見つめ直す良い機会かもしれない。 再来週から始まるワールドユース大会。 彼も反町もその選抜メンバーに選ばれていて、明日から1週間国内で合宿、そしてそのまま遠征に出かける。 行き先はフランス。最終的に勝ちあがって行くと、帰れるのはほぼ一ヶ月先だった。 「こう兄ちゃん、あしたからおでかけ?」 部屋で支度の最終チェックをしていると、直子が入ってきてちょこんと彼の膝の上に座った。 やはり一ヶ月の遠征は、減らしているつもりでも荷物が多くなる。まだカバンに詰めてない洋服やら、日用品やらで部屋中大騒ぎだ。 「そう、兄ちゃんしばらくサッカーで帰れないんだ。直子、みんなの事頼んだぞ」 「うん、だいじょうぶ!勝ちゃんがケンカして泣いたら、直子がまたおこってあげる!」 力強く頷く直子に苦笑する。 「こう兄ちゃんいないと、太郎ちゃんはきっと平気だと思うけど、健ちゃんはさみしいって言ってたよ」 直子の話を適当に流しながら荷物チェックと続けていた小次郎だが、彼女の後半の発言は、彼の気を引くには充分だった。 「なんだって?直子、もう一回言え」 「え?だから、太郎ちゃんは・・・」 「太郎ちゃんはいいから!その後!」 「う〜んと、健ちゃんがさみしいって」 「……それほんとに健ちゃんが言ったのか?いつ?」 子供相手に何マジに問い詰めてるんだか。 「言ったよ。おやつのとき。こう兄ちゃんいないとさみしいなって」 ――きっと太郎はなんてことないと思うけど、勝と直ちゃんは小次郎兄ちゃんがいないと寂しいな。 真相はこう言ったのだが、ここでそれを訂正する人物はいなかった。 「直子ちょっとさみしいけど、でもがまんするよ」 「あ、あぁ、そうだな」 かろうじて返事をしたが、言われた内容は頭を素通りしていた。 そうか、俺がいないと少しは寂しいって思ってるんだ。 う。 よ、よかった……。 ―――コンコン 小次郎がささやかな幸せに浸っていると、ウワサをすれば影。 「小次郎?ちょっといいか?」 若島津の声だった。 ドアを開けて少し驚いた顔をする。 「あれ?直ちゃん。ここにいたんだ?太郎がさっき探してたぞ。何かゲームの約束してたんじゃなかった?」 「あっ、そうだ。太郎ちゃんおこってる?」 直子は急に日向の膝から立ち上がり、若島津の方へ駆け寄った。 「怒ってないと思うよ。でも早く行ったほうがいいかもね」 近づいた直子の頭を撫で、微笑みかけながらそう言った。 パタパタと直子が歩いて行く音が聞こえる。続いて太郎と直子の話し声。 それを聞いてから若島津は部屋に入り、扉をパタンと閉めた。 ぼんやりとそれを眺めていた小次郎だが、その時点である事に気付いて、はっとする。 も、もしやこれは密室に二人っきりというシチュエーション。 いや待て!すぐ下には太郎もいるし、勝や直子だって…… ――違う!何考えてるんだ俺はっ。 そんな心の声が聞こえるはずもなく、彼は小次郎に近づいて来た。 「支度できたか?小次郎」 「あ、あぁ大体は…」 と、返したがこの部屋の惨状を見れば一目瞭然。 若島津は少し笑って溜息をついた。 「ほら、あと何入れるんだ?手伝ってやるから」 そう言いながら手際良く、部屋中に散らばってる荷物をカバンに詰めていく。 なんだか自分がひどく世話をかける子供のようで、気恥ずかしくていたたまれなくなった。早く追いつきたいと思ってるのに、思い知らされたかのような。 「大丈夫、あとは自分でやる!」 バッグを若島津の手から取り上げる。彼は少しびっくりしたように、小次郎の顔を見上げた。 しかし何も言わずに、少し苦笑した。 ――あ。やべぇ、俺また… それを見て、小次郎はまた自分が失敗したのに気付いた。 ――小次郎、若島津さんね、君に嫌われてると思ってたみたいだよ。少し反省しなよ、その態度。 前に太郎に言われた言葉が蘇る。 嫌ってる?!なにバカな。 そう心の中で叫んだが、確かに客観的に見てみれば、自分の態度はそう思われても仕方ないものだったかもしれない。 今回もまた誤解させちまっただろうか・・・・・・ そう思っていてもこの場でどう声をかけていいんだか、上手い言葉がさっぱり見つからない。 バツの悪い沈黙。 上手くやれない自分に腹が立つ。 日向は荒っぽく前髪をかきあげた。 「あのな、小次郎」 若島津が小さな声でそう呟いた。 「あの、これさ・・・・・・」 そう言いながら若島津はポケットから何かを取り出す。 よく見ると、それは小さな赤いお守り。 「あのな、これ俺がばあちゃんからもらって、ずっと持ってたお守なんだ。俺が現役の頃、結構ご利益あったと思うんだよね」 少し俯き加減で話を続ける。 長めの髪が肩から一房、さらっと落ちた。 「お前明日からユースだろ。それで、これお前に渡そうと思って持ってきたんだ。お前がケガとかしないように…」 若島津の声はだんだんと小さくなった。 「お守りなんていまどき、かなりレトロなんだけどな。でももし荷物の邪魔じゃなかったら……」 そう言って若島津は少し顔を上げて、それが乗った右手を差し出した。 初めて見る、少し困ったような、はにかんだような表情。 小次郎はその時、息が苦しくなるくらいの感動と、自分でもどうしていいか困惑するほどのわけのわからない欲求がせめぎあっているのを感じた。 端的に言うなら抱きしめたいとか、そんな衝動。 嬉しいとか、申し訳ないとか、自分が情けないとか、そんな気持ちも頭をぐるぐるまわってもいたが、それらを上回って、ただとにかく彼を抱きしめてしまいたかった。 小次郎はそっと彼に手を伸ばした。 それに気付いて若島津は、お守りを渡そうとする。しかしそれは受け取らず、若島津の肩に手をかけ引き寄せた。 やんわりと抱き込む。 「…小次郎?」 これくらいなら、別に怪しまれないよな? 少しだけ…もう少しだけ。 「ありがとう」 耳元で呟いた。 若島津は頷いたようだった。 「小次郎ー?」 突然、階下から太郎の声が聞こえた。 それで急に我に返ったかのように、小次郎は若島津の体を離した。 慌てて若島津から離れて扉を開け、照れ隠しのように大きな声で返事を返す。 「なんだよ?」 「若島津さん、そこにいない?新しいコーヒーどこにあるのか聞きたいんだけどー」 その声に若島津は、 「戸棚の奥のほうに入ってる」 言いながら、小次郎の手にお守りを残して部屋を出て行った。 静かに扉が閉められる。 ドアが閉められても、小次郎はそのままそこに立っていた。 手には彼を抱きしめたぬくもりと、小さなお守り。 ――あぁ、なんだか。 反町、悪ぃな。やっぱり俺、すげぇ幸せ、…かも。 小次郎は手の中のものを見つめながら、そっと笑った。 翌日、朝まだ早い6時半。 「じゃあ、行ってきます」 「はい、いってらっしゃい。がんばれよ!テレビで応援してるな」 いつも通り玄関先で若島津に見送られる。 小次郎は出際に玄関先で振り返り、ポケットから小さな赤いものを出して、それを彼に見えるように少し揺らした。 若島津はこれまたキレイに微笑んでくれた。 後日、若島津が太郎に何気なく語った一言。 ――小次郎さ、国際試合なんて慣れてて平気かと思ってたけど、あれで結構緊張してたんだな。行く前の日さ、ハグされちゃったよ。……でも以外だよな。あんまり何事にも動じないやつだと思ってたなぁ。 カラカラと笑って若島津は言う。 ――ハグ?あぁ、抱擁ね。―――えっ?! 内心驚いた太郎だが、表向きには一緒に笑った。 しかしながら同時に、心底から義弟に同情する。 ――う〜ん、やっぱり若島津さん全然わかってないんだな〜。ホント前途多難だよ、小次郎。 試合は順調に勝ち進み、素晴らしい事に小次郎は得点王に輝いた。 愛の力かな。(太郎談) 彼は明日、帰って来る。 |
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end / 2001.5.5 |
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